1971年横浜市旭区米軍機墜落事故

1971年8月24日(火)

8月13日午後2時15分ごろ、沖縄県宜野湾市の米海兵隊普天間飛行場に隣接する沖縄国際大構内に、米軍のCH53D大型輸送ヘリコプターが墜落して炎上、乗員の男性海兵隊員3人のうち1人が重傷、2人が軽傷を負うという事故が発生しました。幸いにも、学生や市民にけがはありませんでしたが、爆発で現場の周囲300メートル以上にわたり部品が飛散し、民家や車が損傷する被害が出ました。

大学構内で大きな火柱を上げて燃える機体、プロペラの破片でなぎ倒されたオートバイ、降下するヘリを見て直前に避難した住人の部屋はいくつもの部品が貫通していたそうで、本当に学生や付近住民に死傷者が出なかったのが不思議なくらいです。

そして、こうした在日米軍機の事故のニュースを見るたびに、夫は「あの日」を思い出します。もう30年以上も前の小学生の頃のことなので、日付も状況も曖昧でしたが、あの雷のような音と大きな火柱は忘れることはありませんでした。そこで今回は、米軍が駐留を続ける中で、何度も事故が繰り返されてきたことと、例え基地の隣でなくても事故は起こりうるということを知っていただくために、当時の新聞記事から改めて事件を記録しておくことにしました(記事中付近住民の個人名は記しません)。

「あの日」は夏休みだったと記憶していましたが、やはり1971年8月24日、夫が横浜市立大池小学校5年生の時でした。晴れていたのですが、友達も宿題の追い込みだったのでしょうか、母親も妹を連れて出かけていたので、夫は独りで家にいました。当時の家は、父の勤める会社の工場の一角で、すぐ北側が大池小学校、その北側と東側に戸数3000戸の市営ひかりが丘団地と公団西ひかりが丘団地が広がっています。家の前から北に向かって農道を舗装した狭い道が伸びていて、東側の団地街と西側の雑木林を分けています。農道の両側には、一戸建てが建ち並んでいるほか、雑木林の中の道に沿っても数軒の家が建っています。遊び場だった雑木林の丘のさらに西側は、現在 ズーラシア(よこはま動物園) になっています。

宿題が終わっていたかどうかは定かではありませんが、その時は縁側で本を読んでいました。縁側は家の西側で、雑木林の丘がよく見える場所です。読んでいた本は、こともあろうに「太平洋戦記」。当時は戦争アニメ(宇宙戦争ではなく太平世戦争の実録もの)が放映されていたこともあって、男子小学生の間では戦争に関する知識(といっても戦闘機や戦艦に関するもの)を持っていることが自慢でした。零戦の活躍や戦艦大和の最後について読んでいた時のことです、突然今までに聞いたこともないような大きな音がしました。あたかも、雷をまとめて落としたような、あるいは自分が雲の中に頭を突っ込んで雷を聞いたような音です。雨が降っていなくても、雷が鳴ることは知っていましたが、それにしても異常な音です。

驚いて顔を上げた瞬間目にしたものは、大きな火柱。時々遊んでいるあの雑木林の方向に、赤ともオレンジとも言えない色の文字どおり柱が立ちました。いつもウルトラマンの画面で見ている爆発のように放射状に広がるのではなく、記事中にあるように、軟らかい地盤に突っ込んで深い穴を開けたため、花火の筒のように爆発のエネルギーが真上に向かったようです。

その後の夫の行動といえば、ヤジ馬の先頭をきって墜落現場を目指して一目散に走っていました。母によると、玄関の鍵は閉めてあったが、縁側の戸は開けっ放しだったそうです。火柱の方向はわかるものの、林の中の正確な位置となると難しいものです。また、農道から林に入れる場所は決まっているため、遠回りをしなければならなくなります。しばらくかかってたどり着いた現場には、既に多くの人が集まっていました。大きなすりばち状に開いた穴の土に銀色の破片が刺さって、穴全体から煙が上がっています。

小学生だったので、何か拾って帰ろうと思ったのですが、子どもながらも警察の対応の早さには驚かされました。いつの間に現れたのか、あっという間に穴の周りに残っている立木を利用して青いテープを張り巡らせ、周囲を立入禁止にしてしまいました。結局、翌朝こっそり行って、ジュラルミンの破片を持って帰ってきたのを覚えています。

ところで、夫は本を読んでいたことと、縁側には日除けが張り出していたことで、墜落する米軍機の姿は見ていません。団地に住んでいた人の話では、5階建ての団地に接触するのではないかと思ったそうです。今回の米軍ヘリ沖国大墜落事故でも、在日司令官が被害を最小限度にしたパイロットの操縦技術を褒めたと伝えられていますが、あの時もジェット戦闘機のパイロットは最期の最期まで機体をコントロールして、雑木林に墜落させることを確認してから脱出したという話が事故後にされていました。「太平洋戦記」に心躍らせていた子どもにとっては興奮する話でしたが、整備不良や操縦ミスで本来落ちるはずのない飛行機が落ちるのですから、パイロットを褒めたところで何にもなりませんし、そうして反省もなしに事故が繰り返されるとしたらとんでもないことです。

こうして、米軍機事故による被害について書きますと、航空機事故は民間航空機でも起こりますし、毎日道路を歩いていれば交通事故にも遭うと言われるかもしれません。しかし、米軍による事故の特殊性、あるいはやるせなさは、今回の沖縄でも問題になったように、日本国内で発生した事故で日本人が被害にあっても、はっきりと原因を究明し米軍の責任を追及する手段がないことです。7月19日には、米海軍厚木基地所属の対潜ヘリコプターHH60シーホークが横須賀沖の空母キティホークに向かう途中、上空約300メートルから200発の機関銃弾が入った重さ10数キロの弾薬箱を横浜市泉区内に誤って落とました。こちらも、負傷者などはありませんでしたが、県知事の申し入れにもかかわらず、1ヶ月経っても米軍側から原因や安全対策の回答はありません。また、8月19日には、みなとみらい地区の市の「横浜ヘリポート」に、米軍横田基地所属のヘリコプターが緊急着陸しました。エンジントラブルのためとのことですが、付近はマンションやオフィス、ショッピング街の高層ビルが建ち並ぶ地区です。これも一歩間違えば、米軍機による同時多発テロになっていたかもしれません。

「あの日」爆音を耳にし、戦闘機の姿を目にした幼い子どもは、それから窓際に近寄らなくなったと聞きました。夫は、あれ以来ジェット戦闘機やヘリコプターの音には敏感になっています。今も横浜市内に住んでいると、回数は減りましたが米軍機の爆音を耳にし、あわてて窓の外を見ます。音速で飛んでいるので音がしてからでは姿は見えないのですが、そうせずにはいられません。もしかしたら、また落ちるのではないか、顔を上げたら火の玉がこちらに向かっているのでは、ふとそんな気がするのです。

「あの日」の事故は、幸い死傷者はいませんでした。しかし、それでかえって人々の記憶から消えていったのでしょうか教訓は活かされず、6年後の1997年9月27日、米海軍厚木基地を離陸し相模湾沖の空母ミッドウェーに向かっていた米海兵隊所属RF-4Bファントムジェット偵察機が横浜市緑区(現在の青葉区)の住宅地に墜落、9人が大やけどを負います。3歳と1歳の幼児は翌日死亡、その母親も5年後に亡くなったというものです。一般に、「横浜市米軍機墜落事故」というとこちらのことを言い、後に損害賠償訴訟にもなったことから詳細は支援団体の方などによってインターネット上でも公開されています。

今回の沖縄の事故も、幸い死傷者がなかったのですから、普天間飛行場の移転問題を含め、日米地位協定の見直しへ向けて大きな動きへのきっかけになればよいと思います。そうしなければ、もしかしたら「あの日」死んでいたかもしれないという思いは、いつまでも「また落ちるかもしれない」という思いになって付きまとうのです。

団地へあわや300メートル 米軍ジェット機が墜落  −横浜−
 【横浜】24日午後2時52分ごろ、横浜市旭区上白根町の市営ひかりが丘団地の西約300メートルの雑木林に米海軍第7艦隊所属のジェット戦闘機F8Jクルセーダー=ロバート・G・スウェアリンゲン海軍大尉(26)操縦=が黒鉛をはきながら墜落した。ロバート大尉は落ちる寸前、パラシュートで脱出、近くの空地に降り、米軍側の病院に収容されたが、両ヒザ打撲のけが。付近の住民は爆風で被害を受けたが、けが人はなかった。=関係記事3面
 横浜・保土ヶ谷署と神奈川県警警備・刑事両部は、米軍と連絡して調べているが、同ジェット戦闘機は12日に横須賀港に入港、24日午前8時に出港した攻撃型航空母艦オリスカニー(42,600トン)の艦載機。厚木基地での飛行訓練を終えて、洋上の母艦に戻るため、同基地を飛び立った直後の事故で、エンジン故障を起こしたのが原因と同署では見ている。
 この事故について、横須賀基地内の在日米海軍司令部は「けが人がなかったことが幸いであり、原因は海軍側で調査中である」と語っただけで、原因などについてはいっさいノーコメントでいる。
 この墜落で、民家数件のカワラがめくれるなどの被害を受け、近くの東急ニュータウンへ送る600ボルトの送電線が切れ、民家約260戸が約1時間半停電した。
 現場は、計3000世帯が入居しているひかりが丘団地や公団の西ひかりが丘団地の目の前で、宅地造成が約1年前から盛んになった新興住宅地。雑木林の中には直径17メートルぐらいのすりばち状の穴がぽっかり。そのまわりでは10数本の雑木がなぎ倒され、機体はエンジン部分を残してバラバラになり、半径100メートルにわたって散乱していた。
《1971年8月25日朝日新聞朝刊1面》

300メートル…免れた惨事  −米軍機墜落− 庭まで火吹く破片
危機一髪の3000戸  身にしみた「基地」
 【横浜】墜落地点が少しずれていたら―24日午後、横浜市で起こった米軍ジェット戦闘機墜落事故の現場に集まった人々は、不安な顔で口をそろえていった。約300メートル離れて立つ3000戸以上の団地。死傷者がなかったのは"奇跡"に近かった。広がる都市化の中で大きくのしかかる基地。今度の事故は、静かな住宅地の人たちにあらためて「基地の恐怖」をみせつけた。
 墜落現場から、わずか100メートルにある民家5軒は爆風を直接うけ、****さん(40)方では、スレートがわら約20枚がめくれたり、機体の破片で割れたほか、近所でも物干しがこわれるなどの被害が出た。
 墜落の瞬間を目撃した西ひかりが丘団主婦****さんは「団地5階のベランダで子供をあやしていたら、雷のような音がしたので、びっくりして外を見ると、左の方から銀色の小型飛行機が団地をかすめてものすごい勢いで落ちていった。私の住んでいるむねから500メートルほど先の林の中に墜落すると、ドカーンという大きな音とともに、真黒な煙と赤い火花が散った。団地がグラグラと地震のようにゆれ、こどもがびっくりして泣き出した」と恐怖を語っていた。
 また同区白根町の主婦****さん(29)は「自宅前の空地にジェット機の窓ワクと米兵がパラシュートで降りてきた。付近の上空は毎日のようにジェット機が飛び、いつも不安に思っていた」といい、上白根町、会社員****さんの妻**さん(38)も「雷でも落ちたようなすさまじい音だった。庭に落ちてチョロチョロもえている機体の一部もあった。子どもたちは、直前にオヤツを食べにきたのでよかったが、もし外で遊んでいたらと、ゾッとしました」とおびえ顔で話していた。
 墜落現場から約100メートル離れたところに住む主婦****さん(38)も「一瞬、死んだと思った。すさまじい音がしたかと思うと、破片が座敷にまで飛び散ってきた。爆弾でも積んでいたらと思うと全く生きた心地はしない」と長男の大池小4年**ちゃん(9つ)をしっかり抱きしめながら語り、現場周辺の人々はどの顔も不安でいっぱいだった。
《1971年8月25日朝日新聞朝刊3面》

民家に機片四散  ―横浜で米機墜落―
 【横浜】24日午後、横浜市旭区上白根町の雑木林に米海軍のジェット戦闘機、F8Jクルセーダーが墜落した。パイロットはパラシュートで脱出して軽傷、付近の民家5軒が飛散ったジェット機の部品で破損、送電線が切れて60世帯が約30分間停電した。幸い住民の負傷者はなかったが、付近は市営ひかりが丘団地をはじめ大小11の団地など計6000世帯が住む新興住宅街なのであわや大惨事になるところだった。
 横浜市の調べでは、この事故は米海軍厚木基地と房総半島の突端を結ぶ"米軍機専用飛行コース"下で起きた事故。  同日午後2時50分ごろ、横浜市旭区上白根町964の市営ひかりが丘団地西側約300メートルの山林(同町1063、****さん所有3500平方メートル)に米海軍のジェット戦闘機が墜落した。機体は山林の約200平方メートルにわたってバラバラに飛散り、機種が突っ込んだ部分は直径19メートル、深さ7.1メートルのすりばち状の大穴があき、雑木10数本が根こそぎ倒され、墜落の激しさを物語っていた。
 神奈川県警の調べによると、墜落機は横須賀に寄港中の第7艦隊攻撃型空母「オリスカニィ号」(42,625排水トン、3500人乗組み、艦載機60−70機)の191部隊所属のジェット戦闘機F8Jクルセーダーで、パイロットはロバート・G・スアリンゲン大尉(26)。同空母は23日まで米海軍横須賀基地に停泊、艦載機を同厚木基地に飛立たせたあと出港して艦載機を待ち受けていた。
 スアリンゲン大尉は「厚木を飛立ったあと、エンジンの調子がおかしくなった。このため現場付近の山林に墜落、パラシュートで脱出した」と語った。
《1971年8月25日毎日新聞朝刊1面》

火の玉が落ちた!  横浜の米軍機墜落 白昼、団地の目の前で  航空路の下−恐れが現実に
 【横浜】団地のすぐ近くに米軍機が墜落した―24日午後、横浜市内で起きた事故の現場は、横浜市北部郊外の閑静な住宅、団地街のど真ん中。過密をのがれ、わずかに残った緑を求めてやっと造ったマイホームの庭先ともいえる場所だった墜落機体は山林に直径19メートルもの大穴をあけ、団地のベランダの目の前にパイロットがパラシュートで降り立った。相次ぐニアミスで"危険信号"がつけられた日本の空。思いもしない恐怖に見舞われた住民たちは「こんなところに落ちるなんて」と怒りの言葉を繰返していた。
ポッカリ大穴  10メートル先には民家
 横浜市旭区の白根町、上白根町一帯は、幹線道路からはずれた閑静な丘陵地帯。5年ほど前からベッドタウンとして開発され、約10キロ四方に11の団地ができ、公営の中高層アパートや民間分譲の住宅6000戸が建ち並んでいる。
 機体が突っ込んだのはその北隣りにある住宅公団と横浜市共営のひかりが丘団地(計3200戸)西側の小さな雑木林。細いマツやヒノキを10数本へし折り、ポッカリとすりばち状にあいた大穴のふちにくしゃくしゃになった翼の一部、穴の底には銀灰色のエンジン部分らしいかたまりが赤土の中に深く突きささっていた。
 山林の周囲には2、3年前から民有林の畑地を買って建てた小住宅約30戸が並び、大穴からわずか10メートル離れたところに4軒の家が建っていた。その1軒、上白根964、会社員、****さんの妻、**さん(38)は2階6畳間から事故を目撃した。「3時ちょっと前でした。庭で遊んでいた3人の子供におやつの声をかけ、窓から顔を引っ込めようとしたとき、目の前が真っ赤になって雷をまとめて落としたようなものすごい音がした。火の玉があまり大きかったので、飛行機とは思わなかった。すぐに2階の部屋の中にまで土砂が吹込んできたし、ちょうど家に上がった子供が、この音で泣叫んだので、あわてて階下にかけおりた。子供が泣かなかったら私が気を失っていたかもしれません」と声をふるわせる。
 隣家の会社員、****さんの妻**さん(38)は台所の食卓で長男、**君(9つ)=大池小4年=の夏休みの宿題を見ていたが、ごう音とともに家が上下左右にグラグラとゆれ、家中に土砂が降り注いだ。「てっきり大地震だと思いしばらく腰が抜けた状態でした。私たちと何の関係もないベトナム帰りの戦闘機にこんな目にあわされるなんて……」と語る。
 裏側の2件と合わせて4軒の屋根や、羽目板にはべったりと土のかたまりがはりつき、砕けたジュラルミンの破片などが真新しい家に傷をつけた。  一方、パイロットのスアリンゲン大尉がパラシュートで降り立った地点は、林から約1.5キロ離れた住宅団地街南寄りの上白根第2団地(県住宅供給公社・450戸)の市道寄り空地。
 同団地に住む主婦、****さん(31)は「家の中で子どもと遊んでいたらものすごい音がして子どもがしがみついてきた。空を見上げると、ベランダの向こうにパラシュートが落ちてきた。自衛隊機をはじめ民間旅客機などがやたらに落ちる空。どうなっているんでしょう」とふるえていた。
 こんどの事故は軍務中におきたため、日米地位協定の取決めで、いっさいの調査権が米軍にあるため、日本側はてをこまねいて米軍の調査結果を待つばかり。神奈川県警本部長が米海軍横須賀基地報道部に墜落機の機種、飛行目的や経路などの問合せをしたが、米軍側はノーコメント。
 米側の責任者が現場に到着したのは午後6時過ぎで「一体米軍は日本人をどう思っているのか」と近くの住民は語っていた。
《1971年8月25日毎日新聞朝刊23面》

残がいの片付作業始まる  墜落米軍機
 【横浜】横浜市旭区の米軍ジェット戦闘機墜落事故の現場では、25日朝から米軍厚木基地関係者の手で残がいの片付作業が始まった。
 横浜・保土ヶ谷署員と米軍側が合同で前夜警戒に当たり、同朝9時過ぎ、同基地航空安全部長デビット・L・イーラム少佐ら6人と通訳1人が到着。デビット少佐は墜落であいた大きな穴を見て「土地の所有者の了解が得られれば主要の部分は除いて機体の残がいはこのまま埋めたい」と望んだが、地主の反対で全部撤去することにし、午前中は半径100メートルに飛散った破片を拾い集めていた。
 午後には、米海軍横須賀基地の調査団が現地を訪れ、原因と周辺の民家への損害調査に当たる予定。
《1971年8月25日朝日新聞夕刊9面》

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