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世の中では、夫婦で同じ音楽を一緒に楽しんでいるカップルもたくさんいるでしょう。私たち夫婦の
間では、時々お互いの音楽観の違いについて話し合いますが、互いの間の溝は埋まることはないよう
です。 妻には、「夫の聞く曲(松任谷由実、中島みゆき、さだまさし、etc.)はみんな同じに聞こえるし、 演歌も歌謡曲もフォークソングも違いはない」とのこと。また、「金をとって歌を聴かせるんなら、 最低限の歌唱力は備えて欲しい」と言うのですが、ユーミンに歌唱力を要求するのは筋違いという ものです。 妻は、テレビのクラシックコンサートなどを録画してよく見ていますが、夫が一緒に見ることはあり ません。演奏家や作曲家の生立ちなどには興味があるのですが、どうもクラシック音楽そのものは、 眠くなるばかりで....。中学生の時に、友人に連れられて県民コンサートに行きましたが、ほとんど 眠っていました。終演後友人は、「聞きながら眠れるというのは、心に安らぎを与える良い音楽である 証拠なんだ」と言っていました。まあ、夫婦で楽しめるのはオペラぐらいですかね。
解れば楽しい?夫婦といっても他人が一緒に暮らしているのですから、趣味が違っていても当然なのですが、なぜ こうした違いが生じるのでしょうか。確かに、妻は大学で音楽教育を専攻しピアノやエレクトーンの演奏が趣味なので、クラシック音楽を 構造的に理解し楽しむことができるのだとは思います。この観点から、小中学生を対象にした音楽番組でもジャズをとりあげたものがありました。その仕組みを、生演奏を交えてわかりやすく解説すること で、ジャズを楽しむ子供たちを増やそうというねらいです。 英会話でも、文法が解るようになると英語という言語の構造的なおもしろさが見えてくる...、という のはわかりますが、英語を見るのもいやだという人に、いきなり文法教えるわけにはいきませんよね。 物事なんでも、とっかかりというものがあると思うのですが。
音か言葉かどうも夫婦で話していると、妻が音に反応するのに対して、夫は言葉に反応するようです。「反応する」というのは、感情を呼び起こされるという意味です。そこで妻は、音程が不安定だったり、わざと音程をずらした歌唱法(いわゆる「こぶし」)には、嫌悪感を覚えるのです。「音楽」は音を楽しむのだから言葉を楽しむのであれば詩集でも読んでいたら、という議論もおありでしょう。しかし、言葉にフシをつけることで歌が生まれたなら、初めに言葉ありきですよね。お経を唱えるうちにフシがついてきて、やがて皆で一緒に歌うようになる。違うフシで歌う人も加わって合唱が生まれ、宗教音楽へと発展するわけです。 人を感銘させるのは、本来歌われている教義の内容なのですが、曲に工夫を凝らしているうちに、人間の声が楽器のような役割を果たすようになってきます。作曲法も整備されて、芸術としての音楽が完成します。
中島みゆきの芸術性この芸術性についても、夫婦の感性は異なります。妻が好むクラシック音楽の芸術性には、異論はないでしょう。妻は、「歌手である以上その芸術は『技術』を伴うべきである」と言います。また、「その『技術』は聴衆にその存在を意識させないほど高度であるべきだ」とも。市場で売れるからといって安易にCDを発売し続けると、それらを評価する聴衆の芸術的レベルが向上しないということです。しかし、中島みゆきに正確な音程や発声法を求めることは、意味があるでしょうか?フォークソング(あえてこう呼びますが)の役割は、広く大衆の間で歌われることで、そのメッセージを伝播することにあります。その意味では、初期の宗教音楽とも言えます。それを考えると、中島みゆきの音楽を「みゆき教」、ファンを「信者」、さだまさしのコンサートを「説法(確かに歌より喋りの方が多い)」と呼んでいたのは、言いえて妙だったかも知れません。
Catch Our Message音に反応するということは、そうである人にとっては極めて自然な生理的反応なのでしょう。その人にとっては何の説明もいらない、いい料理に舌鼓を打つのと同じように、メロディーやリズムに身体が反応していきます。またある人にとっては、音楽が特定の記憶を呼び起こすかもしれません。歌詞を楽しむという行為は、その内容とともに作者の心理状態も含めて、こめられた意図を自分なりに解釈し想像するという作業です。その想像は、必ずしも作者の意図したものでなくてもかまいません。聴衆は、歌詞によって喚起されたイメージに感動するのです。 さて、このページでは夫がその作品のほとんど(初期のものはLP)を所有しているアーティストを、作品を交えて紹介していくことにします。お楽しみに。 |