1911年9月19日、スウェーデンのウップランド地方のヴァストラ・リードに生まれ、ストックホルム郊外の労働者たちの住む貧民街で育つ。4人兄弟の末っ子。鍛冶職人の父親はアル中で暴力的、母親はその暴力には無抵抗であったが、信心深い人だったという。生活も貧しく、母親の歌う宗教歌が、幼い頃の彼にとってのほぼ唯一の音楽体験だったようだ。10代前半にクリスマスカードを売って得たお金でヴァイオリンを購入し、父親に殴られ、感化院送りを絡めて脅されたようだが、音楽への思いは強かったようで、独学で演奏を修得し、1926年からストックホルムの王立音楽院を受験し、1930年にようやく入学する。音楽院ではヴァイオリンとヴィオラを学び、1939年から1951年までストックホルム・フィルでヴィオラ奏者として活動しながら、作曲家で先鋭的な作風のブロムダール、保守的な作風のオルソン、指揮者のマンのもとで作曲を学んだ。以前から作曲を手がけていたが、1949年に「弦楽四重奏とヴァイオリンのための協奏曲」(第1番)で作曲家としての本格的なデビューを果たした。ブロムダールには高く評価されたが、評論家筋からは酷評を受けたと言われる。
1951-53年にはフランスに留学して、フランス6人組のオネゲルやミヨー、当時の12音音楽の権威レイボヴィツのもとで作曲を学ぶが、12音音楽に関しては後にそれを否定的に受け止めているようだ。交響曲第2番はレイボヴィツのもとで学びながら書かれた作品だが、敢えてその流儀に背いたスタイルの作品となっている(それが聴き手にとって受け入れやすいものであるかどうかはともかくとして)。スウェーデンに戻った後、演奏活動をやめて作曲に専念するが、その頃から関節炎の兆候が現われはじめる(後に慢性関節リウマチと診断される)。作品の方は弦楽のための協奏曲(第1〜3番)、交響曲(第2〜4番、第1番は破棄された断片が残る)が1950年代の主な作品。この頃は交響曲よりも、むしろ3曲の弦楽のための協奏曲の方が充実しているのではないだろうか。
彼の表現がぐっと深まるのは、40分ほどの単一楽章の交響曲第5番(1960-62)あたりからで、シベリウスの交響曲第4番をさらに寡黙にして漆黒の響きを身に纏ったような、たいへん深刻な空気に支配されたものとなっている。無調的な要素も多いが、決して難解なものではない。彼の関節炎も健康状態も悪化して、ペンも握れない状態となり、この第5番が彼自身の手稿による最後の作品となった。1時間ほどの単一楽章の交響曲第6番(1963-66)は、悪夢の中でもがき続けるような陰鬱な激しさを前面に打ち出している。
交響曲第7番(1966-1967)は、指揮者アンタル・ドラティの目に留まり、彼による初演と録音によって絶賛を受け、一躍国際的にも名を知られる存在となる。振り払おうとしてもしつこく付きまとう苦難を思わす異様な楽想の執拗な反復がショッキングな印象を与える。連綿とした孤独感と、ごく淡い希望の光を湛えた、とても哀しい、そして束の間だけ暖かく優しい一面を覗かせる音楽。凛とした冷たい感触の交響曲第8番(1968-69)もドラティによって初演された。単一楽章の多い彼にしては珍しく2楽章(「楽章」という呼び方は適当でないかもしれないが)に分かれており、第2楽章の後半では、第1楽章の連綿とした特徴的な主題が回帰してくる。第1楽章の孤独感に満ちたフルートソロがとりわけ心に残る。
初演では85分ほどを要した巨大な交響曲第9番(1970)以降は、第7番や第8番で顕著だった悲劇性を帯びた叙情性が後退して、楽曲は複雑化し、何一つ救いのない廃墟的な楽想、破滅的な楽想、戦闘的な楽想など、第3番や第6番で萌芽を見せていたおぞましいまでに苛烈で晦渋な表現が一気に目立つようになる。第9番では、最後の最後にほんの数秒だけ見せる安らぎのみが唯一の救いだろうか。その頃には健康状態が悪化し(リウマチに併発した腎臓病?)、時に死の淵をさまよいながら9カ月にも及ぶ入院生活を送ることにもなったが、その間にも作曲は続き、暴力的な響きの交響曲第10番(1972)、胸を締めつけるような第11番(1973)という短く凝縮した2曲の交響曲、テレビ番組のために書かれた「交響的楽章」(1973)を世に送り出す。健康状態の悪化から十分にオーケストレーションを吟味する余裕がなかったのかもしれない、あるいは住居を取り巻く喧噪のため作品を十分に練り上げることができなかったのかもしれない、以前の作品より荒削りでアンバランスに聞こえる。それでも彼の音楽が強く心を打つのは、胸を締めつけるような悲しい楽想も目を背けたくなるようなおぞましい楽想も等価に取り扱い、小手先で見てくれを整えたり包み隠したりせず、全てを赤裸々に表現しているからだろう。その後、チリの左翼系の詩人の詩を取り上げた長大な交響曲第12番「広場にて死す」(1974)、ラテンアメリカの労働者詩人や古代インディオらのテキストによるカンタータ「人間の声」(1974)と、これまた晦渋な声楽作品が続く。
ストックホルムフィルがアメリカ公演の際、プログラム変更でペッテションの作品を急遽取りやめるという出来事があり、彼は自作品の演奏の永久禁止を申しつけるが、これは後に取り下げられた。60分あまりに及ぶ長大な交響曲第13番(1976)は、第10番の苛烈さと第11番の悲しさが入り乱れたような曲調だが、後半の回想的な哀歌風の楽想が、これまでと多少違った印象を与える。スウェーデン国内で各種の賞も受賞している。
この頃には彼は癌にも蝕まれ始めるが、長年住み続けた狭く騒がしい集合住宅の4階の部屋を去って、作曲家であり劇作家でもあったラングストレームがかつて居住したという静かな住居に妻と共に移り住んだ。以前は作曲に集中できないという理由からオペラの作曲のオファーを断ったこともあったそうだが、新居では作曲にも集中できたようである。その充実ぶりを反映したのか、50分あまりに渡って凄まじい緊迫感が全編を支配する驚異的なヴァイオリン協奏曲第2番(1977-78)、力強さや調和と叙情性を湛えた50分弱の交響曲第14番(1978)という、9番以降の他のどの作品よりも遥かに均整が取れた、聴き手にとってより受け入れやすい表現に昇華した2つの奇跡的な傑作が次々と完成される。この2曲に共通するのは、若い頃の歌曲集「裸足の歌」から主題を取っていることだろうか(交響曲第6番も同様)。
同じ年には、以前の作風に触れ戻してより簡潔化した第15番(1978)も発表されている。サクソフォン協奏曲風の交響曲第16番(1979)には、それまでの彼の作品には感じられなかった「遊び」の気分がほのかに感じられる。17番目の交響曲の作曲を進めていた1980年6月、彼はこの世を去る。
その後、未発表のヴィオラ協奏曲(1979)が、指揮者であり作曲家でもあるペーター・ルジツカによって発見された。自らが長らく演奏し最も馴染みのある楽器による、苛烈さの後退した、静かで内省的な協奏曲。ややぶっきらぼうに始まり、自問自答するように、さまようように展開していき、ふつと途切れるように終わってしまう。
祝福と呪い、幸福と苦難とは一見すると全く別のものだけど、それらは同じ瞬間にさえひとまとめに訪れるものでもあり、それらは一見して調和しているようには見えないが、切り放して存在することもできない。それらは互いに無関係で不連続に見えるのと同時に、どこで切り放すこともできないほど複雑に入り組んでいるのである。彼は、心では幸福な気分を味わう場面はあっても、そんな時でさえも体を動かすごとに全身を襲う激痛から逃れることはできなかったのである。叙情的楽想や苛烈な楽想、様々な要素が時に平行して展開していき、時に同時に鳴り響き、時に切り刻まれて散りばめられたかのようなペッテションの音楽は、時に粗削りな一面を覗かせることもあるけど、そのような人生の真実を飾ることなく表現したものなのではないだろうか。
(各CDの解説書、Paul CauthenのAllan Pettersson PageやClassical Netのペッテションに関するバイオグラフィーを参考にさせていただきました)
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