【プロローグ】ダイアモンドは道ばたに転がってはいない。地中深く暗黒にひそみ、静かに長い長い時の流れを待っている。だがいったん姿を現わせば陽光を浴びて燦然と光り輝く。ここに掘り出された一つのダイアモンドのような話がある。
戦後の凄まじい高度成長は、灰燼の中からフェニックスのように甦った日本列島に、世界の若人が集う東京オリンピックの開催を可能にし、地上には夢の弾丸列車を走らせた。 五輪会場の上空を舞うジェット機は青空に五つの輪を描き、日本民族は勝っても負けても強いのだと、内に大きな自信と近隣に若干の不安をもたらした。 だがその翌年、一時的ではあるが反動的な不景気が到来して金融が逼迫、多くの中小企業の倒産が相次いでいた。 そんな中、高橋是清の外孫と称する人から、且って参謀本部や大本営の上層部だった何人かの人を紹介されたが、そこは魑魅魍魎が集うあるホテルのロビーであった。 戦時中のいろんな話を伺っていると、戦前チャップリンが来日した際の案内役だったという人が杉原千畝さんを席に連れてきたが、名刺の裏側のローマ字版には Chiune ではなく Senpo と印刷されていた。 「いや、外人には発音しにくいらしくてね、チウンなんていうのがいますから」と彼は笑った。 リトアニアでユダヤ人を助けた際には「センポ」と呼ばせていたとのこと。
(杉原千畝) 当時の恩を忘れないユダヤ人が多いらしく、そのユダヤ資本を巡って魍魎どもが取り巻くのである。だがそこはユダヤ人のこと、感謝はしても金銭の問題となると話はまた別、杉原千畝氏自身は相も変わらず生活に困窮していた。そこには知られざる歴史のかけらが垣間見えた。 旧陸軍の幕僚だった人達の話には、是非とも後世に伝え残さねばならないような数々の秘話があったが、表に出なかった理由の一つに右翼の脅しがあったことは事実である。 しかし二十一世紀に入るころには、その暗い陰も次第に力を失って行った。 緒戦大敗してフィリピンからオーストラリアに逃げ込んだマッカーサーが、こっそりニューギニアの前線を視察したとき、日本兵の突撃の凄まじさに米軍がひるんで退却するのを見て、このままでは駄目だと、迂回と物量の作戦に転じたことがあったが、それは「吶喊錠」のせいだったらしい。 大和魂にも限界があるからね、とその元幕僚は小声で言った。 吶喊錠? … なんでも第七研究所で開発や改良を加えていたらしい。「七研は頭脳集団だ、奇想天外なことをやりおる。最後は放射能兵器と取り組んでいたよ」とのことであった。 昔は偉かったその人は、帰り際に「君、すまんが三万円ほど貸してくれまいか」と言った。 終戦から二十年目、東京オリンピックの翌年のことである。 山崎少尉はぐいと操縦桿を引き青空に向かって突進した。斜め後ろに三島曹長機が続く。 重い爆装のもたらす慣性がもどかしい。でも今はそれすらが快感だった。 昨夜来のあの煩悶はいったいなんだったのだろう … 人間、いざとなれば悟れるものだ。搭乗してから実に気分がいいのである。
方向転換のため半ば旋回すると、先程までいた飛行場に見送りの「帽振れ」が見えた。 いい気分だぞ! 貴様らも同じ筈だ、あとに続け! なんの心配もないのだから … 声の代わりに両翼をバンクさせ、そのまま敵艦隊がたむろする筈の南に急いだ。 あとは突入のみ。全身がわくわくする。 死ぬ前に天国に到達したような気分だ。林立する入道雲が揃って出迎えてくれている。 数時間が一瞬に過ぎ、あっという間に米艦隊の上にいた。 しめた、空母だ! 思ったより小さく見えるが、いまの自分にはかけがいのない宝もの。 これにぶつかれば次の世に生まれ出られる。どんな世界が待っているのだろう?
昨夜までは死ぬと思っていたのに、今そんな感じはまるでない。これから新しく生き直るのである。それがこんなに嬉しいことだったとは … これこそ至福の極致ではないか。 バンザーイ!と叫びながら喜びの絶頂の中で体当たりをしたのだが、アメリカの水兵には地獄だった。一つの至福が数百の地獄を道連れに、沸き上がる黒煙とともに海に没した。
次の日、また次の日と同じことが繰り返えされた。 「うまく行ったようです」 草薙大尉の報告に葛城中佐は頷いた。 「一度立ち会おう」 特攻機が一機また一機と飛び立つのを見送りながら、中佐はこらえてもこらえても喉の奥の塊りが眼の裏側にせり上がり、涙になって噴出しそうになるのを止めるのは至難の業だ。去ってゆく機影が雲の中で霞む前に、目の前が先に霞んだ。 でもこれでいい、これで良いではないか。苦しむよりは … な。 水盃の中の化学物質はまさに慈悲の塊りなのだ。それ以外の何だというのか。 「武士道に悖りませんか? 葉隠精神にもありませんしね。覚悟というものが必要ないとなると、大和魂はどうなります?」 … 横の草薙大尉が掃いて捨てるように呟いた。 「邪道だといいたいんだろうが、君ら実戦部隊の指揮官は単純でいかん。現代戦の勝敗は理化学の範疇の中に収まっとるんだ。陛下もつねづねそのように言っておられるではないか」 陛下という言葉に反射的に直立不動をした大尉は、不平づらをしたまま天を仰いで黙った。 「それにな、彼らには習慣性も後遺症の心配もないのだよ。幸いといえるかどうかはわからんのだが …」 エフェドリン Ephedrine から合成されたメタンフェタミン Methamphetamine は、シナプス小胞 Synapse vescide からドーパミン Dopamine とを排出させて、疲労をなくし活力が増大したように感じさせる、一時的な見せ掛けの効果がある。
(Dopamine) 兵器行政本部第七技術研究所の責任者葛城中佐は、メタンフェタミン Methamphetamine に緑茶の粉末を混ぜることで、その効果が倍増することを突き止め、水盃を交わす特攻隊員に服用させたのだった。
(Methamphetamine) それにしてもなあ … 二十数年前の若い陛下の顔が浮かんだ。 「なんだか時代が速く変わり過ぎるようだね」 … 臣籍降下を願い出たときの何気ないお言葉が、今となっては胸を刺すようだ。散るためにこの世を離陸してゆく目前の若人たちと、どちらも同じ年ごろだった。 陸軍の科学研究所設立にともなって臣籍降下し、研究に専念しようと志す皇族議員の陸軍少尉「山階宮茂麿王」には「葛城伯爵」の姓が用意されていた。 山階宮家は元来科学者が多く、同じく科学者でもある昭和天皇とは、摂政宮時代から意気投合する点が多かった。そして同じリベラル派としての東久邇宮稔彦王とも考えが近いためか、東久邇宮盛厚王には第一皇女の照宮成子内親王を嫁がせている。
(東久邇宮盛厚王と照宮成子内親王) だが、これらのことは大陸進出を狙う一部の急進的な軍部にとっては悩みの種でもあった。 明治天皇は突如東洋の一角に巨大な軍事大国を出現させたご本人である。当然皇族や華族の第一子を軍務につかせないことには国民に示しがつかないと、そのように定められた。 ところが中には頑としてそれに従わないものがいる。山階宮家の初代である。だからあらゆる場面で軍服を着用せず、平服のままだ。その上、知る人ぞ知る、次代の天皇後継者の振るまいまでが少々怪しい。 「朕が居なくなったあとが心配だ」 … が明治天皇の口癖だったと聞く。 そして明治天皇崩御に伴い即位した大正天皇は、帝国議会の詔勅を読み上げるに先立ち、詔書を丸めて壇上から議員たちを覗いて見渡すという事件が起こった。いわゆる遠眼鏡事件であるが、これが大正デモクラシーの風潮と相俟って、軍部をしてその不安を頂点に達せしめた。
(大正天皇) 自然軍部は皇孫殿下としての若き昭和天皇に期待をかけるのだが … その裕仁摂政宮殿下が軍人嫌いな上にイギリス訪問の際、当時の英国王ジョージ5世 George Frederick Ernest Albert Windsor, né Wettin に民主主義を吹き込まれ、西欧かぶれになったらしいと軍部は嘆いた。
(ジョージ5世) ひそかに「帝国も三代目で終わりだなあ」と囁き、特に急進派は顕微鏡ばかり覗く軍事に軟弱な摂政宮より、活発な秩父宮を天皇に担ごうと画策するものまでが現れる。
(在りし日の秩父宮の勇姿) その深い根は、やがて青年将校のクーデターとして顕在化することになり、昭和天皇の即位から約十年経ったある雪深い夜、帝都のど真ん中で突然天皇の側近たちが軒並み血祭りに挙げられた。 鎮圧をためらう将軍たちに、「お前たちがやらぬのなら、朕が近衛師団を率いて討伐する」と叱責する天皇の凄まじいまでの激怒に、決起部隊はその瞬間から「逆賊」になった。死刑を執行された青年将校の写真を新聞で見た国民の多くは“かわいそうに”と呟いていた。
(2.26事件の反乱軍兵士) やがて秩父宮は病気療養のため世間から姿を消した。幽閉だ、とか、元気なんだがなあ、と囁く者がいたが、その種の声は東條英機と配下の憲兵隊によって次第に封殺されて行く。 そして京大の滝川事件に続く美濃部らの天皇機関説が出現するに及び、思想弾圧は激しさを更に増した。しかし昭和天皇は「天皇機関説で良いと思うが …」と側近に漏らされたと聞く。 時代の変遷の奔流は、時に天皇の意志すら押し流すこともあったのだ。
(治安維持法で検挙連行される京大事件の被告達) そんな中で日本は次第に天皇を神に祭り上げようとする国粋主義者が勢力を増し、極端な精神主義に走って行った。 それは米国の禁酒法に関連したギャングの出現や大恐慌がもたらす社会秩序の混乱、更に映画という新興の大衆娯楽の驚異的な情報伝達力のもとに新たな頽廃の風潮をひろげ、日本国内に於いてもエログロナンセンスがはびこるに至って、これらが危機感に拍車をかけたとしてもなんら不思議ではない。 また米国の実態を知らぬものには、アル・カポネやチャップリンがアメリカだと思ってしまう。
(Alphonse Gabriel Capone & Charles Spencer Chaplin) 米国の社会的風潮の一断面を米国そのものと見間違え、やがてナチスやファシズムの勃興とともに新秩序という国際的概念が発生するに及んで、民主主義イコール頽廃、とする考えが世界的に拡大して行った。 この「世界的」を見落としてはならない。ファシズムは米国内にも英国内にも発生していたし、ヘンリー・フォードとアドルフ・ヒトラーは互いに尊敬し、フォードは自分の部屋にヒトラーの写真を飾り、ヒトラーはフォードの写真を机上に置いた。 フォードの考え方に共鳴したヒトラーは、安価で大衆向けのフォルクスワーゲンを構想、その実現にはフランスの力を借りている。そしてレールを敷設する代わりにアウトバーンを建設した。
(Adolf Hitler & Henry Ford) また満州事変に先立ちアメリカの自動車業界は満蒙の地を狙って日本の軍部の危機感を煽り、ヒトラーは中国の蒋介石軍に武器弾薬を売りつけ、その行為は支那事変に続く日独軍事同盟締結後も継続され、片や蒋介石と敵対関係にあった八路軍はソ連の介入を謀った。
(昭和5年当時の時事新報の記事) 今となっては八路軍といってもピンとこない人も多いが、廬溝橋事件を画策して蒋介石軍と日本軍のあいだに戦端を開かせることに成功した共産軍、現在の中国人民共和国軍である。 ところで日独間で防共協定が結ばれたのにも拘わらず、直後に背信行為ともいうべき独ソ不可侵条約が締結され、さらにその二ヶ月後にはドイツがソ連に突如侵攻、というからどの国がどの国の味方なのか敵なのか、万事が混沌として何が何やらサッパリわからない。 国際間に於ける正邪善悪の概念に関する限り単純な答えは出ない。第一次世界大戦から第二次大戦に至るまでの間は太陽系が形成されるときの微惑星の相互関係に酷似している。 小さな固まりが次第に他を惹きつけては統合し、方々で衝突と火花、時には破壊を伴いながら、あちこちにより大きな惑星を形成してゆく。
(微惑星の衝突) 惑星が成長する過程で衛星ともいうべき存在も生じ、そこにある種のシステムが自然に出来上がっては最終的には巨大な破壊と統合に落ちつき、勝者の次元と価値観のもとに、きわめて人為的な「歴史」というものが創り出される。 その過程のなかで「大正から昭和への時代」がはじまったのだが、日本自身も参加することになった第一次大戦の様相は、直前の日露戦争とはまさに似ても似つかないものだった。 軍部の特に青年層の中堅将校にとって自らの将来そのものでもある帝国の未来像は慄然とするほどの不安の固まりでもあったのである。 それは欧米諸国と日本の間に横たわる、科学力や工業力の絶望的なほどの大差であった。 よく日露戦争での勝因の一端が、ロシアより日本の科学力が勝っていたことにある、といわれるが、戦艦三笠は英国製だし、下瀬火薬のピクリン酸はフランス生まれだ。 将来の国際的地位は、工業や経済に裏打ちされた機械化された軍事力によってもたらされると思われる反面、欧米との差が絶望的と思われるほど大きかったのである。 やがてその危機感は、極端な精神主義と異常なほどの意表を衝く謀略戦を産み出してゆく。 昭和天皇自身がまだ若く、軍の首脳は日露戦争の体験の範囲内から抜け出せずにいる状況で、皇族も国民も、心ある人々は旧弊から脱出する方法を模索していた時代があったのだ。 皇族の身でありながら若い身で議会の現状を目の当たりにした山階宮茂麿王や、フランスでパリ陸軍大学校卒業後政治法律学校に学びながらフランス女に耽溺するなどの遊学を重ねた東久邇宮稔彦王は、その広い視野から旧弊脱却を種々実行に移したのだが、その業績の実態や信念は敗戦と共に殆ど世に知られることなく埋没することになってしまった。
(フランス留学当時の東久邇宮稔彦王) 山階宮茂麿王は、その一部がのちに「登戸研究所」という名称で世間に知られるようになった「陸軍科学研究所」の登戸実験所を、東久邇宮稔彦王は現在の「千葉工業大学」の前身である「興亜工業大学」を創設したのである。 やがて微惑星の衝突は最後に「枢軸国家群」と「連合国家群」という巨大惑星とその衛星国に収斂され、ついには二大勢力間に大衝突が起こることになる。 ただ日本の場合、第二次大戦に先立って蒋介石軍との間に大規模な戦闘を繰り広げていたから、社会全体が既に臨戦態勢にあったのと、その実戦体験からアメリカよりある意味で有利な状況にあったといえよう。 反面、アメリカの国民が平和の眠りから醒めるには、どうしても半年から一年を要することになる。もちろんいったん目醒めてしまえば、膨大な工業力を必要とする近代総力戦では米国が次第に有利に転回する。 このことを理解していた人々は、武闘派はより強固な精神主義に、知能派は科学戦と謀略戦に磨きをかけた。 科学技術戦推進派の一人である陸軍航空本部の安田武雄中将は、理化学研究所の仁科芳雄博士から原爆開発研究を薦められていたが、対米戦前年の1940年4月、ひそかにウラン弾、つまり原子爆弾の開発の可能性を部下の鈴木辰三郎大尉に極秘裏に調査するよう指示した。 同年9月、日本軍が仏領印度支那(ベトナム)に進駐してから日米間が急速に険悪となった。 場合によっては最悪の事態も起こり得ると予想され、万一に備えて1941年4月、陸軍がウラン弾開発を正式に承認、安田中将は仁科博士に研究を依嘱、その秘匿名を仁科の「ニ」をとって「二号研究」と称したのである。 安田中将は東大の電気科卒で、満州事変当時は関東軍の特務部通信主任、支那事変勃発の年には大本営野戦航空兵器長官、そしてその翌年には航空技術研究所長になり、第一次世界大戦直後の1922年(大正11年)にはドイツに駐在していた。 従って1938年にオットー・ハーン Otto Hahn が原子核分裂を発見したときには、これを真っ先に注目していたのだ。
(Otto Hahn) 要するに日本は原子核分裂が発見されるや直ちにこれに注目、日米開戦に先立って研究を開始していたのである。そして開戦直後の1942年に陸軍直属の軍事機密研究に指定した。 そして開戦後に、かっての陸軍の科学研究所が兵器行政本部としてそれぞれの専門分野に従い多くの技術研究所が設置されることになり、この原爆兵器は第七技術研究所と第九技術研究所の第一科で行われることになった。 「第九技術研究所」は旧陸軍科学研究所の登戸実験所に設置されたことから、秘匿名を単に登戸研究所とし、看板も「陸軍」という文字を省いて掲げられていた。 登戸研究所の名が世間に知られるようになったのは、戦後平沢事件の発生に伴いマスコミに大きく取り上げられるようになってからである。 1943年になって仁科研究室は技術的には可能であるとし、陸軍航空本部の安田中将と第七技術研究所の葛城中佐及び登戸研究所の第1科でウラン弾の開発研究が本格化した。
(仁科博士と研究室) なにしろウラン235 1kg の核爆発は黄色火薬1.8万トンに匹敵するのである。このウラン235を分離するには6フッ化ウランを用いた熱拡散による方法が適当である、とされた。 分離筒には金メッキか白金メッキのものを用いる必要があったので、急遽白金の供出が実施されたが、もちろん一般国民には何の為だかは知らされなかった。 しかし熱拡散法によるウランの分離がなかなかうまく行かず、これに加えて資材確保が困難を極めるなか、1944年3月に熱拡散法の理論計算担当の武谷研究員が特高に逮捕されるという珍事が起こったのである。 京都帝大の学生だったころに左翼思想の研究をしていた、というのがその理由であった。陸軍と警察の縦割り行政のため、軍の最高機密の研究をしている者が学生時代の思想傾向が原因で拘留されてしまったのだ。 さらに1945年には理化学研究所が爆撃され、その際に分離塔も破壊されてしまった。 ウラン鉱石の確保に尽力した葛城中佐は、たとえ爆発させることは出来なくても、その放射能を利用した兵器なら実現の可能性があるし、毒ガス兵器よりは取り扱いが容易であることから、放射能兵器の開発に転換することを思い付く。 だが頑強に特攻出撃に反対した陸軍航空本部の安田中将は遂に解任され、多摩研究所で電波兵器関係の仕事に携わることになる。 葛城中佐はせめて隊員の苦痛を和らげるための化学成分の摂取をもって水盃とする手段を講じたものの、中佐自身は放射能兵器開発のため被曝、白血病に罹ってしまうのだった。 安田中将は陸軍航空本部から居なくなり、理化学研究所は消滅、そして葛城中佐は病に倒れたころ、完成したアメリカの原爆がひそかに太平洋上を日本に向けて運ばれていた。 日本とは比較にならない大きな規模で研究開発を行い、砂漠で爆発実験を済ませ、最後に日本政府に対して、もしポツダム宣言を受理しないときは巨大な破壊力をもった新型の兵器を用いるであろう、と通告した。ただしそれが原爆であることは伏せていた。 日本政府は、「この通告は無視される」という意味の返答をしたが、「無視」に neglect ではなく ignore を使ってしまったので、「黙殺」に近いきつい表現になった。
(Enola Gay) 日本側の返答をみてトルーマン大統領は原爆投下のゴーサインを出した。 「広島に新型高性能爆弾投下」 … 新聞記者を含めて、一般の国民は原子爆弾というものを知らなかった。熱線爆弾らしいから黒いものを着るな、という回覧板が各家庭に回ってきた。 そして終戦 … それは無条件降伏だった。 男性は全員睾丸を抜き取られるなど、いろんなデマが飛び交う中で、戦時研究関連のあらゆる書類が跡形もなく焼却された。何日も、何日も … あちこちで煙と灰が立ちのぼっていた。 仁科博士は広島へ調査に出掛け、あきらかに原子核分裂であると結論付けたが、内心は複雑だっただろう。それに GHQ が理研のサイクロトロンを破壊し海中に投棄したのだ。原爆とは直接関係ない学術研究用の貴重なものだが文句はいえない。なにしろ無条件の降伏なのだ。
(戦時中の理研のサイクロトロン) そして進駐軍がやって来た。緊張のなかで見守る日本人の目に鬼畜はどこにも居なかった。 やがて敗戦は 「終戦」 に、占領軍は 「進駐軍」 と言い換えられた。
![]() (撮影:米報道写真班 / 提供:米国防総省国立公文書館) あの戦争はなんだったのだ … 目前に見るこの人達と、あれほどまでの凄惨な死闘を繰り返さねばならなかったのは一体なぜだったのか … 東京大空襲は半年前、原爆投下は先月のことである。
![]() (撮影:米報道写真班 / 提供:米国防総省国立公文書館) 良し悪しの感覚が上下左右、正反対にひっくり返った。それは洗脳といわれるもののせいではなく、大衆発の自己防衛の知恵でもあった。 実はかって似たような風景が南京にもあった。 下の写真は当時反体制的で左翼的な傾向があるとされ、そのため2.26事件では決起部隊の襲撃まで受けた朝日新聞社の従軍記者が撮影したものである。 当時の支那兵、つまり蒋介石軍の兵隊は、食いはぐれのならず者や元匪賊などを多く抱えていたので良民を苦しめていた。そこへ日本軍が来たので大歓迎を受けたのである。 その点は八路軍の方がまともだったらしい。この辺の事情は叔父が中国で憲兵をしていたのでよく理解できるところだ。日本兵は軍律を乱すと憲兵に逮捕されて恐ろしい罰を受けるのだが、中でも南京攻略20万の皇軍の指揮官は朝霞宮鳩彦中将だから軍紀は特に厳正だった。 ![]()
(これは南京である。写真の表情に嘘はない) 南京市街に突入した日本軍将兵がまず目にしたものは、道路上に散乱した夥しい武器や鉄兜、それに軍服である。銃や軍装をその場に投げ捨て、民服を纏って便衣隊と化したのだ。 当然民服などは支給されていないから、民家に押し入って徴発し、抵抗するものには乱暴の限りを尽くした。敗北した兵には食料も誇りもない。民衆は便衣隊の捜索に協力したと聞く。 南京に留まっていた民間人の人口は約15万人、逃げ遅れた蒋介石軍が約5万人、という記録がある。民間人が避難先から戻ってきてからの人口は20万人になった。支那兵のうち処刑されたものは実に2万人から3万人に及んだから、他に例を見ない大量処刑だ。 しかし南京陥落を報じた 1937年12月20日号の Newsweek 誌の記者は、虐殺が行われたとは書いていない。軍服を脱ぎ捨てると捕虜としての資格を失い単なる暴徒とみなされるのである。 話は戻って昭和20年9月。ともあれ狂気は去り占領軍は間接統治の道を選んだ。というよりも、そうするより他に方法がなかったのである。マッカーサーとその部下は、軍人であって為政者ではない。 それにマッカーサーは日露戦争当時観戦武官として親子で日本に滞在、平時の日本人を知り尽くしている。日本人の運命は日本人に任せればいいと思った。というより直接統治には全く自信がなかった、というのが真相らしい。 そこで戦後初の総理大臣に東久邇宮稔彦王が選ばれた … のだが、これは占領軍にとっては万事が裏目に出てしまった。こと民主主義だの自由主義に関しては、東久邇宮の方が一枚も二枚もうわてだったのだ。 ![]() (東久邇宮内閣) フランスはパリでの遊び人と、厳格な親子二代の軍人では勝負にならない。まして天性引け目というものを持たない上に天皇の娘婿というから、元々貫禄が違うのである。 やりにくい … あまりにも総司令部のいうことを聞かないことが連発するので、マッカーサーは遂に55日目にして内閣の交代を要求するに至った。 一般にはあまり知られていないことかも知れないのだが、東久邇宮稔彦王ほど数奇な運命に翻弄された皇族は稀だろう。あまりにも困難な情勢に第三次近衛内閣が総辞職、続いて東條内閣が成立する前に、東久邇宮内閣案が浮上したことがある。 天皇はじめ重臣たちは日米交渉の結果の重大性がわかっていたので、皇族内閣ができると国民はどんなことでも納得するだろう、と思われたのだ。 しかし東久邇宮の場合はあまりにも天皇に近すぎるのと、反面軍部の考えとは遠すぎることの二点から、やはりこの際は避けたほうがいい、ということになったらしい。 アメリカの要求する中国や満州からの撤兵という条件を呑む可能性は先ずなかったので、開戦の責任が皇族に及ぶ虞れがあったのである。そこで東條ということになったのだが … もしあの時点で東久邇宮内閣ができていたら日本軍は中国から引き揚げていたかも知れない。だが日米間が修復されても国内でクーデターが起きかねなかった。当時国民全体にそんな雰囲気があったのも事実である。 平和を望む国民をして軍部や為政者が無理矢理戦争に引きずり込んだ、というのは当時を明確に記憶するものとしてウソだと断言できるのだが、この一般大衆が右に左に大きく揺れるのは21世紀の現在にも見られる現象だ。 ともあれマッカーサーは東久邇宮総理を引きずりおろし、さらに多額の財産税を課して最低の生活手段まで奪ったのである。やむなく稔彦王は新宿の闇市に店を出したが、敢えなく失敗してしまう。話によればマッカーサー自身ではなくその周囲だともいう。 しかし 「闇市」 ではあまりにも聞こえが悪いので、新宿でスーパーマーケットを経営した、と記する人もいるが、そのころにスーパーだのコンビニなどがある筈もない。店の名は 「東屋」 と書き 「あずまや」 と読んだ。
(終戦直後の新宿の闇屋) 事情を知らない隣の店の主がいろいろやり方を教えたがうまく行かず喫茶店に転向、それもやがて店じまいになり、次に禅宗系の新興宗教を起こそうとしたものの許可されなかった。 工業大学を創設し、やがては総理まで経験した上での波瀾万丈だが、学ぶべきはその生命力と根性である。その力は持ち前の自由主義に由来するのかも知れない。 武張った全体主義は如何にも強そうな外見をしながら案外もろいが、民主主義は柔軟なようで根が強い。個人の傾向にも当て嵌まるようにも思える。 そんな中、全ての書類を跡形もなく焼却し終えた葛城茂麿中佐、つまり元山階宮茂麿王は、静かに病床に横たわっていた。 日本の工業力と当時の体制ではウランを爆発させることなど到底無理、とわかったその時点から、間髪を容れずその強烈な放射能を利用した兵器の開発に日夜いそしんだものの、強烈な放射能は開発者自身を襲ってしまったのである。 放射線被曝に起因する白血病の発症である。終戦から一年半、四十歳を目前にして多磨霊園に眠ることになる。 ![]() (多磨霊園に眠る葛城茂麿中佐) 日本の突然の無条件降伏は、行き場のない特攻隊の生き残りを多く産んだ。若い彼等に輝かしい前途などあろう筈もなく、一部のものは新宿の闇市で暴力団のボスになるものも現れる。 彼等が特攻薬や吶喊錠を所持していたとしてもなんの不思議もない。それが戦いに敗れた日本の社会に何をもたらしたかを知らずに逝ったことは、開発に携わった葛城中佐にとってまだしも幸いなことだったのかも知れない。 いずれにしても覚醒剤は、自称文化人のあいだにも浸透した。締め切りに間に合わせるために原稿用紙に向かって吶喊したのだ。 それらの人たちのあいだに奇行や自殺者を輩出する傾向があったが、単に戦後のデカダンス Dècadence と片付けられ、巷にアプレゲール après-guerre という言葉が流行った。 戦前の価値観や権威が崩壊し、既存の道徳観を欠いた無軌道な若者が大量に出現して犯罪事件が頻発、徒党を組んで愚連隊を作り治安は極度に悪化した。 第七技術研究所から産まれた精神的苦悩を排除するための慈愛に満ちた特攻薬は、時を経て一時期社会を苦悩に陥れたのは皮肉なことである。またその苦悩から脱出できたのが、隣国の不幸だったというから、歴史というものは洵に皮肉なものといえよう。 終戦時に政府の命令で重要書類の焼却が徹底して行われたが、占領軍がどのような処罰を行うかが皆目不明な上、皆それぞれに自らの一身上を案じて証拠隠滅は時には必要以上の範囲にまで及んだ。そのせいもあってか、あらゆるところから当時の資料が殆ど皆無といってもよいほど完璧に失われる結果になった。 でも当時の生き残りの人たちは、ひそかに各自の記憶を確かめ合いながら細々とその一部を語り伝えていたが、時とともに細さを増してその僅かな伝承が消える寸前に、インターネットの時代がやって来たのだ。 ともあれ帝国陸軍の科学研究部門を推進された葛城茂麿中佐は、身近な家族にも全てを秘したまま若死をし、老練な東久邇宮稔彦王は102歳という長寿を全うされたのである。 そして東久邇宮盛厚王に嫁いだ照宮成子内親王は、あの3月10日の東京大空襲のさなか、防空壕の中で長男の信彦王を出産したというから、戦争というものは天皇、皇族、一般国民ともども分け隔てなく大変だった。 本来、現在の明仁天皇の義兄である盛厚王は、やはり根っからの民主主義者で、おいしいご飯の炊き方を考えた一人の主婦は、百人の偉い学者の百個のノーベル賞にも劣らない、と一般人の発明を奨励され、東久邇宮記念賞を制定されたりしているが、戦時中は情報参謀としてフィリピン戦線に派遣されていた。 ![]() (フィリピン戦線に於ける東久邇宮盛厚王) 戦争直後の世相を目の当たりにしていたころには、いちばん幸せなのは祖国の将来を信じて何も疑わず敵艦に突っ込んで行った若き特攻隊員ではあるまいか、と思った時期もあったものの、21世紀を迎えるころになると全ての価値観が根底から変わってしまい、戦時中に関する多くの記憶が日の出の前の朝霧のように薄らいでしまった。 でも人の心の変遷に関係なく、そこにかっての事実は存在している。時の中にいつまでも。 【エピローグ】球を平面で切った断面からは、大小さまざまな無数の円があらわれる。円錐の場合はその切り口は楕円、正円、放物線、双曲線、といろんなものになる。 いわゆる円錐曲線 Conic section である。 ![]() (円錐曲線) 立体の切り口は無限だが、立体必ずしも球や円錐のように単純なものではなく、ときに複雑怪奇な様相を見せる一つの事実の切り口は、「これが真実だ」とは言えても「これのみが真実だ」とは言いがたい。 なにごとも立場が変わればその見え方もおのずと変わり、受け取り側の意識も、また時間とともに変化して行く。 一本の大根は三次元の世界に存在するわれわれには一見してそれと判る。 しかし物事の断面しか認識し得ない二次元の生物にとって、全体を把握するのは極めて困難を伴う。その二次断面は複雑な上に切り口によって全く異なるさまざまなものが無数に出現し、しかも時間経過に伴って色も形も、あげくはその組成まで変化するのだ。 ![]() そしてどの切り口も真実なのである。だが一つ次元を高めた観点から観察すれば、瞬時にして全体像は正確に把握し得る。 凡そ物事の真実に対する認識力は、受け取る側の次元の高低によって決定的に左右されるものなのだ。 かって中国は東京オリンピックが行われる時期に合わせるようにして原爆実験を行った。 そのとき日本国民は、死の灰入りの雨が降って迷惑だなあとは思ったものの、危機感を抱いてこっちも原爆を作れ!と主張したものは一人も居ない。新幹線の方がよほど役に立つ。 日本政府が 2005年末時点に於けるプルトニウムの現有保有量を発表したが、それは IAEA の基準によると、約 5,500発分の原爆に相当していた。 現在北朝鮮を真上から観察している何基もの日本製スパイ衛星は、即大陸間弾道弾そのものだし、その気になれば世界中に数千発の原爆を投下できる実力があるのだが、そんなことを考える日本人は先ずいないし、国威発揚には全然ならない。 ![]() (H-UA ロケットも爆弾積めば ICBM) キッシンジャーが、もし日本が原爆を所有したとしても驚かない、とテレビで言っていたが、戦争中はその一発の原爆を作ろうとして必死になっていた人々が実際に居たのである。 現在の日本の誇りは巨大戦艦やゼロ戦ではなく、世界一の寿命と世界第二の GDP、そして世界中で目にする回転寿司。人間、うまいもの食って長生きすりゃあ言うことはない。 で、軍備はアメリカにおんぶして専ら平和的な経済面にカネを集中した結果なのか、というと実はさにあらず、軍事費もアメリカとロシアに次いで 3番目 で中国より多く、軍備もしながらなのである。一人当たりでは中国の10倍になってしまうから軍事大国でもあるのだ。 ![]() (戦後60年 … 日本の夜に闇はない) 常に万事が平面的な一面だけで捉えることが非常に難しい情勢の中にあるという点では、今も昔も変わりがなく、まして利害を異にする国際間に共通の歴史認識など、もともと無理なことなのかも知れない。 情勢も価値観も時とともに変遷を繰り返えすさまを、鴨長明は方丈記の中にこう記した。 ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし … だがその移りゆく無常の中で、永劫変わらぬ至誠の魂を持ち続けた人達もいたのである。 その屍の上に現在の繁栄がある。 |