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今日のひとこと
Today's Topics
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【2005.6.30】 ショックだったショックレー
1948年6月30日、ベル研究所がトランジスタを公開。
もしウィリアム・ショックレー (William Bradford Shockley) たちが、トランジスタという
ものを発明していなかったら、世の中は今とは全く別のものになっていただろう。
なにせコンピュータは無数のトランジスタの集合体なのだ。
人々はもっとゆったりと暮らし、エレクトロニクス技術者は仄かな真空管の光芒を眺めて
楽しんでいたかも知れない。
(William Bradford Shockley)
善し悪しは別にして、現在の人間は 1 と 0 のビットのはざまで生きている。
半導体がないと、メシも食えないし乗り物にも乗れないのだ。
世紀の大発明をさっそく有り難く頂いて売れる商品にしたのがソニーの井深大。
トランジスタをラジオやテレビにしてしまったのは日本人だが、それにとどまらず、高度
成長の一時期にはトランジスタ娘なんてのが現れて、アルサロなどで活躍したから恐れ入る。
最近では眼鏡を掛けた IC レディが、モバイル片手に外資系金融会社の廊下を鼻の先で風
を切って闊歩している。
ともかくショックレーやジョン・バーディーン(John Bardeen)、ウォルター・ブラッテン
(Walter Brattain ) らの接合型トランジスターから「現代」というものが生まれた。
(John Bardeen, & Walter Brattain)
1956年、彼等3名に「半導体の研究およびトランジスタ効果の発見」に対しノーベル物理学
賞が贈られた。
1953年にショックレーはベル研究所を辞めてマサチューセッツ工科大学に戻り、1955年に
は故郷であるサンフランシスコの東の果樹園に戻り「ショックレー研究所」を設立する。
研究所といっても、ごく普通の家を改造しただけのガレージカンパニーだったらしい。
しかしショックレーのもとには世界中から優秀な人材が集まってきた。
のちに IC を発明したロバート・ノイス、ノイスとともにインテルを創業したゴードン・
ムーア、AMD を創ったジェリー・サンダースなどである。
しかし彼等は、運営上の意見の対立からショックレーのもとを去り、フェアチャイルド・
セミコンダクター社を設立したが、さらにスピンアウトを繰り返し、そこから多くの半導体
事業が産まれ、サンタクララ渓谷はその後シリコンバレーと呼ばれるようになった。
だが突然の全員の造反に遭ったショックレー自身は、しばらく顔面蒼白状態で打ち萎れて
いたという。そして8人の裏切り者! … と、家人にはそのショックを隠さなかったらしい。
世紀の大発明とノーベル賞受賞の直後のことである。いいことばかりはないもんだ。
【2005.6.26】 産業革命うらおもて
1827年6月26日、紡績機の発明家サミュエル・クロンプトン (Samuel Crompton) 没。
産業革命 (Industrial Revolution) はランカシャー(Lancashire) の紡績機械に端を発した。
(Samuel Crompton)
折から帝国主義国家間の覇権争いたけなわのころである。
アジア産の香辛料をめぐりオランダ東インド会社 VOC (Vereenigde Oostindische Compagnie)
との競合に敗れたイギリス東インド会社 (British East India Company) はインドに狙いを定め
1612年スラトに商館を設置、1639年マドラス、1668年ボンベイとカルカッタに商館を設置。
(Vereenigde Oostindische Compagnie)
このインド貿易は成功を収め、やがて要塞と化したこれらの商館は、次第に周辺のインド
諸侯をその影響下におさめてゆく。
従来イギリスに於ける伝統的な国内産業は毛織物だったが、17世紀後半から東インド会社
がインド産の綿織物を輸入するようになると、吸湿性・耐久性に優れ、しかも美しいインド
のキャラコはイギリス上流階級の間でブームになった。
毛織物業者はこれに猛反発、18世紀の初頭にはインド産綿織物の輸入を禁止させることに
成功する。
(British Empire of the Eastern hemisphere at 18th Century)
しかし綿織物に対する需要は依然として衰えず、インド産綿織物に匹敵するような優れた
綿織物を作り出すことが急務となった。
そこで多くの発明家たちにより、次々と新しい紡績機械が産み出され、改良されてゆく。
だが、いくら機械が優秀でも、インドの職人たちが作るような美しい布は作れない。
ついに現地のイギリス人の一部は、インド職人たちの両腕を切り落とし、目をくり抜く。
どの辺までが真実か、真偽のほどは定かではないにしても、もしそれに近いものがあった
とすれば、まさに残酷この上もない。
その残酷な仕打ちの中で、やがてインドの綿工業の中心都市ダッカの人口は、15万人から
僅か2万人に減少。かくてイギリスの綿工業における絶対的優位が確立するに至った。
だが一見華やかな産業革命の裏側で、悲劇はインド職人たちのみならず、紡績機の発明家
たちにも襲いかかっていた。
1733年、イギリスの発明家 ジョン・ケイ (John Kay) が飛杼 (Flying Shuttle) を発明し、
そのため、布を織る時間が短く、作業は格段に楽で速くなった。
(John Kay)
しかし織物職人たちは、こんな便利なものができては自分たちの仕事がなくなる、と懼れ、
ケイの家を襲って、発明したばかりの機械を破壊してしまう。
友人の助けでどうにか無事脱出したケイだが、ランカシャーからフランスへ逃れたものの、
そこで貧乏のまま亡くなった。
この Flying Shuttle の存在を知った工場主たちは、自分の織物機械にみな Flying Shuttle を
取り付け、多くの労働者を更に多く働かせて大いに稼いだ。
ところがあまりにも高速で布が織れるようになったため、こんどは糸が足りなくなった。
そこで、どうしても速く糸を紡ぐ機械、即ち高速紡績機が必要になってくる。
この深刻な綿糸不足を解決したのがジェイムス・ハーグリーブス (James Hargreaves) だ。
彼は、それまで水平に取り付けていた錘を垂直に並べ同時に何本も糸が紡げるようにして
ひとりで8本の糸を紡ぐ多軸紡績機を発明し、これに妻(妹という説もある)の名 ジェニー
(Jenny) を冠し「ジェニー紡績機」と称した。
(Spinning Jenny)
いわゆる Spinning Jenny の誕生だが、先ず自分の家で使い、数台を他人に売った。
しかし、またもや職を奪われると懼れた紡績工たちの手によって、ジェニー紡績機は破壊
され、ハーグリーブスは命からがらノッティンガム (Nottingham) に逃れる。
幸いノッティンガムでは小さな工場を建てて平和に暮らすことができた。
ジェニー紡績機は人力で運転できる上、軽便で安価だったため急速に普及し、その改良型
に至っては、なんと!ひとりで80本の糸を紡ぐことが可能になったのである。
かくて彼の紡績機は急速に普及し、糸不足という状況は解消されたもののハーグリーブズ
は特許をとっていなかったため貧困のうちに死亡した。
産業革命のさなか、自らの工夫や発明で社会に貢献しながらも、不遇のうちに世を去った
人々が多いなかで、幸運に恵まれた例が リチャード・アークライト (Sir Richard Arkwright)
だろう。
(Sir Richard Arkwright)
ランカシャーのプレストンで生れ28歳まで床屋で働いていたアークライトはカツラの商売
を始め、カツラを改良する仕事で資金を得る。
1768年にジェニー紡績機を改良して綿糸の強度や長さなどの品質を向上し、翌年には馬を
使った紡績機を作るが、これはすぐ水力利用に変更、大量生産が可能になった上に紡糸作業
に熟練した労働者が要らなくなった。
ご多分に漏れず失業を恐れる労働者及び競争相手の同業者などからの烈しい妨害を受け、
ついにハーグリーブスが無事に暮らしているノッティンガムへ逃がれる。
その後つぎつぎに工場を作り、品質の優れた綿糸を大量に生産して富豪のひとりになり、
1786年にはナイトの称号を受けるが、他人のアイデアの利用ばかりで、アークライト独自の
発明は何もないのではないか?という点で疑問視する人も多い。
なかにはアークライトのことを、18世紀における最大の発明泥棒、という人までいるが、
まあ得てして成功者は人から妬まれるものだという反面もないでもない。
ボルトン近くのファーウッドに生まれたサミュエル・クロンプトンは、ジェニー紡績機を
使用していた紡糸工だった。
彼はジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の欠点を除き、いいとこ取りをして組み
合わせたミュール紡績機を作ったが、これは非常に優れていて、これによって細くて強い糸
が紡げるようになり、製品の質が安定、このためインド産に匹敵する綿織物が生産ができる
ようになった。
ミュール (MULE) というのはラバのことで、雌の馬と雄の驢馬を交配したもの。
ジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の合いの子という意味で名付けた。
既製のものの組み合わせに過ぎないということと、余りにも貧しく特許申請の費用もない
ということから、不遇な生涯を閉じることになる。
牧師で医師のカートライト (Edmund Cartwright) もまた発明に没頭し、踏車を利用した力
織機を発明し、蒸気機関と連動させることで生産性を高め、産業革命の進展に寄与したが、
彼もまた職人たちによる焼き討ちで巨大工場計画が頓挫してしまうという体験を持つ。
(Edmund Cartwright)
簡単に産業革命と一口にいっても、その陰には多くの悲喜こもごもが潜在している。
光あるところには必ず陰もある、という、よい例なのかも知れない。
【2005.6.22】 ベンジャミン、かく語りき
1752年6月22日、ベンジャミン・フランクリン (Benjamin Franklin) が雷は電気と証明。
ベンジャミン・フランクリンが雷雲に向かって凧をあげ、糸をライデン瓶に結び雷が電気
であることを証明したという話は有名だ。
その後、真似をした人が相次いで感電死したということだが、フランクリン自身も考えて
みれば、かなり危ないところだったのかも知れない。
でもそれは彼の業績のホンのわずかな例に過ぎない。他の多くの天才たちと同じく、彼も
また幼少のころからその片鱗を見せている。
10歳で学校教育を終え、12歳で『ニュー・イングランド・クーラント』紙を印刷出版して
いた兄のジェームズのもとで弟子として働く。
その後、次第に記者や編集者として頭角を現した。
同紙の自由主義的な論調が原因で兄が投獄された際には、代わりに発行人となった。
1723年、17歳のとき兄のもとを離れ、フィラデルフィアで印刷業を始める。
1729年、23歳で『ペンシルバニア・ガゼット』紙を買収。
生涯を通しての職業は、政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者、印刷業者、郵便
局長、発明家 … 等々多岐にわたる。とにかく、いろんなことをしているのだ。
(Benjamin Franklin)
1757年、51歳のとき、独立前の植民地の待遇改善を要求するためイギリスに派遣。
このとき科学的業績を称えられオックスフォード大学にて名誉学位を授与。
1777年、71歳でトーマス・ジェファーソンらと共にアメリカ独立宣言の起草委員となり、
最初に署名した5人の政治家のうちの1人となった。
またアメリカ初の公立図書館やペンシルバニア大学を創設、遠近両用眼鏡や避雷針などを
発明し、電気にプラスとマイナスがあることを確認した。
面白いのはサマータイムの発案者で、Time is money. も彼が作った格言だ。
格言にはその他、実に多くのものが遺されている。曰く、
財布が軽いと、心は重い。
Light purse, heavy heart.
多弁の者、為すこと少なし。
Great Talkers, little Doers.
生きるために食べろ、食べるために生きるな。
Eat to live, and not live to eat.
偉い人の愛顧は相続できない。
The favor of the Great is no inheritance.
若い医者と老いた床屋には気をつけろ。
Beware of the young Doctor and the old Barber.
貧乏人は少しだけ、乞食は何も持たず、金持ちは持ちすぎる。
ちょうどよいということはない。
The poor have little, beggars none, the rich too much, enough not one.
長生きしたければ、食事を減らせ。
To lengthen thy Life, lessen thy Meals.
不信と用心は安全の親。
Distrust and caution are the parents of security.
相談はワインを飲みながら、解決はその後で水を飲みながら。
Take counsel in wine, but resolve afterwards in water.
人間とメロンは中味を知ることが難しい。
Men and Melons are hard to know.
二度煮た肉と、和解したかつての敵には用心しろ。
Beware of meat twice boiled, and an old foe reconciled.
自分の国のよき天才は、鉱脈のなかの金に等しい。
A fine genius in his own country, is like a gold in the mine.
どんな敵でも軽んじるな。
There is no little enemy.
安じて生きたければ、好きなことではなく必要なことをしろ。
Would you live with ease? Do what you ought, not what you please.
何でもけなす人と何でもほめる人は、どちらも能なしだ。
Blame-all and Praise-all are two blockheads.
怒りで始まったことは恥辱で終わる。
Whate'ers begun in anger ends in shame.
美と愚かさしは古い友。
Beauty and Folly are old companions.
愉しみを与えるものは、喜びを受け取る。
Who pleasure gives, Shall joy receive.
説得をするときは、理由よりも利益を話せ。
Would you persuade, speak of Interest, not of Reason.
服従できない者に、命令はできない。
He that cannot obey, cannot command.
よくない注釈者は書物のもっともよいところを損なう。
神は肉をもたらし(といわれる)悪魔は料理人をもたらす。
Bad Commentators spoil the best of books,
So God sends meat (they say) the devil Cooks.
友人はゆっくり選べ。変えるときは更にゆっくりと。
Be slow in chusing a Friend, slower in changing.
巧緻な男は馬を盗み、賢い男は盗人をほうっておく。
The cunning man steals a horse, the wise man lets him alone.
謙遜は偉大な人の名誉を倍増する。
Humility makes great men twice honourable.
三人いて秘密が守られるとすれば、そのうちの二人は死んでいる。
Three may keep a Secret, if two of them are dead.
多くの傷を受けるほうが、ひとつの傷を与えるよりもよい。
It is better to take many Injuries than to give one.
神は癒し、医者は報酬を受けとる。
God heals, and the doctor takes the fee.
1790年、84歳という当時としてはかなりの長命と莫大な資産を残し絢爛の生涯を閉じる。
葬儀は国葬、100ドル札の肖像となった。
1633年6月22日、ガリレオが宗教裁判で有罪
1867年6月22日、薩土盟約締結。薩摩藩代表は西郷隆盛、大久保利通など
土佐藩代表は後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎など
1897年6月22日、京都帝国大学設立
1907年6月22日、東北帝国大学設立
【2005.6.19】 乗合馬車を作ったパスカル
1623年6月19日、この日、希代の天才ブレーズ・パスカル (Blaise Pascal) が誕生した。
パスカルといえば「考える葦」や「パスカルの原理」「真空実験」などが思い浮かぶ。
ときには「確立論」だったりするし、最近では「ヘクトパスカル」もお馴染みだ。
「円錐曲線論」は美しく、「パンセ」はあまりにも有名である。
だが、あまり色々あり過ぎると、何をした人なのかよくわからなくなってしまう。
とりとめが付かなくなって、全体像が掴めないのだ。それほどまでに深く大きい。
とにかく哲学、数学、物理学など広汎な分野に業績を残した人である。
(Blaise Pascal)
その天才ぶりは幼少のころからを発揮され、19歳でメカニカル・コンピュータを作った。
思い立ったのは17歳。徴税官の父の仕事を楽にしようと機械式の計算機の製作に取り組み、
なんと、二年後にはこれを完成させたのである。
1662年2月、39歳になるころには、世界で始めて乗合馬車をパリで創業、定時低価格の運行
で好評を得る。世の中に「公共交通機関」という概念が出現したのだ。
しかし、惜しくも半年後の8月19日に亡くなり、ここに人類は天才の一人を失なった。
もう少しで40歳になるという、その手前のとある夏の日に旅立った。
ところでパスカルは、ポール・ロワイヤル学派に属するジャンセニスムの代表的著作家の
一人でもあった、となると現代人のわれわれには少々理解が困難になる。
オランダの神学者でスペイン領フランドル、イーペルの司教ジャンセニウスが17世紀前半
にカトリック教会に提唱した革新的教説及びその支持者によって推進された厳格主義の思想
と、それに基づく教会改革の運動でアウグスティヌスの恩寵と予定の説を奉じ、イエズス会
との対立を招いたがパリ郊外ポール・ロワイヤル修道院に導入され、パスカルなどが支持し
たが、1713年教皇によって禁止された …
という、ややこしい話はさて置き、瞑想録 パンセ Pensées の一部を拝見しよう。
人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし人間は考える葦である。
L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant.
クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し低かったら、世界の顔は変わったであろう。
Le nez de Cléopâtre : s'il eût ètè plus court, toute la face de la terre aurait ete change.
真の道徳は道徳から楽しみをもたらす。
La vraie morale se moque de la morale.
すべての人間は、本性によって、互いを憎み合う。
Tous les hommes se haïssent naturellement l'un l'autre.
哲学を嘲笑するものこそ、真に哲学者である。
Se moquer de la philosophie, c'est vraiment philosopher.
645年6月19日、わが国最初の元号「大化」制定
1587年6月19日、秀吉、キリシタン禁令
1858年6月19日、日米修好通商条約調印
1910年6月19日、ツェッペリン初飛行
1915年6月19日、理化学研究所創設
1933年6月19日、丹那トンネル完成
1948年6月19日、太宰治 自殺遺体発見
1963年6月19日、ヤー、チャイカ(私はかもめ)Я чайка で有名な初の女性宇宙飛行士
ワレンチナ・テレシコワ (Валентйна Владймировна Терешкóва) 帰還
【2005.6.16】 沈黙の春
1962年6月16日、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」がニューヨーカーに掲載、大反響!
レイチェル・ルイーズ・カーソン (Rachel Louise Carson) の「沈黙の春 (Silent Spring)」
が、この日から「ニューヨーカー」に連載され、エコロジー時代幕開けの遠因となった。
やがてこの連載は、1962年9月27日に単行本として出版されたが、なんと発売当日だけで
4万部も売れたのである。
1907年5月27日、ペンシルヴァニア州スプリングデールに生まれたレイチェル・カーソン
は、チャタムカレッジで生物学を学び、1928年21歳でジョンズ・ホプキンス大学に入学。
生物学の研究と同時に文学も好んだ。
There was once a town in the heart of America where all life
seemed to live in harmony with its surroundings.
The town lay in the midst of a checkerboard of prosperous farms,
with the fields of grain and hillsides of orchards where, in spring,
white clouds of bloom drifted above the green fields.
かつてアメリカの中に全ての生きものが環境と調和して住んでいるような町があった。
町は碁盤目に広がる豊かな田畑の中央にあり、周囲には穀物畑、山腹には果樹園が
あって、春には白い雲のように花々が、緑の野で浮かぶように咲き乱れていた。
『沈黙の春』の序章「明日のための寓話」の冒頭である。
美しい冒頭の文章で始まるこの本がもし現れなかったら、地球上の人類は今ごろ何分の一
かに減っていたかも知れない。そして辛うじて生き残ったものの大部分は病人だっただろう。
大袈裟な話ではない。ある意味では原爆より恐いのだ。
原爆は元来抑止力としての存在だから、滅多やたらに使われる性質のものではない。
だが大気や土壌に絶え間なく降り注ぎ、結果として食物連鎖の形で体内に蓄積される有害
物質は、目に見えず音もなく、それでいて着実に人類を蝕んで行く。
自らは癌におかされながら、残されたあと僅かな時間との闘いの中で、孤立無援のうちに
書きあげられ衝撃的に出版された一冊の本 … もしこの警告的啓蒙書がなかったら、数十年
経た世界の現状は、今とはかなり違った状況になっていたことだろう。
(Rachel Louise Carson)
本書は叙情的な文学書ではなく、生物学者、科学者としての広い知識と洞察力をもって、
全人類に警鐘を鳴らした学術的根拠に基づく糾弾の書であり、自然を破壊しながら人体をも
蝕む化学薬品の乱用を追及かつ指摘したものなのだった。
ある兆候が1958年の1月ころから始まっていた。
友人から「蚊の撲滅計画のため沼地に飛行機が散布した DDT で鳥が多数死んだ」という
手紙を受け取ったのである。
この手紙が、殺虫剤による化学的環境汚染に関する著作のきっかけとなった。
蚊やハエのうちはともかく、鳥の大量死滅となると次は家畜だ。さらには人間 …
人間にだけは完全に無害、などということは生物学的にある筈がない。人畜無害は業者の
宣伝文句に過ぎないのである。
当時のアメリカでは DDT などの有機塩素系農薬が大量に使用され、総合的、科学的に薬
害を調査し、明らかにすることは実に大変なことだ。
… 美しい四季折々の自然に満ちあふれていた町が、とつぜん空から降ってきた雪のよう
な白い粉によって死の世界に変わってしまう。
農場ではめんどりが卵を産んだが、雛はかえらない。
農夫は豚が育たないという。小さく産まれ、二,三週間で死んでしまうのだ。
りんごの花は咲きそろってもハチの羽音はしなかった。花粉が運ばれないので、りんご
は実らない。子供の突然死が増え、人々はなんだかいつも体の具合が悪いと訴える。
かくて春は沈黙した …
その原因は大量に作られ、そして使われる有害化学物質だった。
人類の危機と将来は、ゆっくりと、しかし確実に進む毒の汚染にゆだねられていた。
有毒物質は土壌中に長く残り、やがて人体に蓄積される。しかも退治される筈の害虫は、
薬剤抵抗性のため効果はなくなり、使用量は益々増える、という悪循環。
だが、企業は将来の人類の運命より、目前の存続のほうが重要だった。
ニューヨーカーに連載中からアメリカ全土で出版妨害があった。
そして「沈黙の春」が出版されるや否や、農薬や食品工業の会社は、農薬をやめたら害虫
が大発生するとか、DDT や BHC が人体に害のないことは証明ずみ、とカーソンを批判した。
だが「沈黙の春」出版の影響は大きく、ケネディ大統領は科学諮問委員会を作り、調査の
結果、危険な農薬が禁止されることになった。
日本では DDT や BHC は1972年までに全面使用禁止になった。
1964年にレイチェル・カーソンが享年57歳で癌で亡くなった8年後のことである。
だが病気に潜伏期があるように、地球の被害は表面に現れなくても密かに拡大している。
その影響が人体に顕れてくるのは、まだまだ数十年も先のことかも知れないのだ。
ちなみにエコロジーという言葉は、ドイツのヘッケルが、ギリシア語で「家」という意味
の oikos と「学問」という意味の logos を組み合わせて Oecologie としたものである。
【2005.6.14】 明治生まれのテレビジョン
1946年6月14日、テレビの開発者、ジョン・ロージー・ベアード (John Logie Baird) 没。
ジョン・ロージー・ベアードはスコットランドの Helensburgh で生まれ、グラスゴー大学
で学び、テレビジョンを初めて商用ベースに乗せた。
(John Logie Baird)
パウル・ゴットリープ・ニプコー (Paul Gottlieb Nipkow) が回転式走査盤 (Scanning Disc)
を用いて、機械式のテレビ実験を行ったのは 1884年、明治17年のことである。
(Paul Gottlieb Nipkow)
もちろん将来の可能性をさぐるための実験だから、画像はぼんやりして実用には程遠い。
それにしても、テレビは明治から始まっていたのだ。
1897年(明治30年)にはドイツ人フェルディナント・ブラウンがブラウン管を発明する。
しかし未だテレビジョンに利用できるまでには至らない。輝度が暗く暗室を必要とした。
1907年(明治40年)に、ニプコー円板を使った機械方式のテレビジョンは、ロシア人の
ボリス・ルボビッチ・ロージング (Борйс Львович Розинг / Boris L'vovich Rosing) により
殆ど完成の域に近くなり、その実用化がジョン・ベアードによって試みられていた。
1923年(大正12年)には早々と、露系米人ツヴォルキン (Vladimir Kosma Zworykin) が
「アイコノスコープ」を開発し、全電子式テレビジョンの特許を申請する。
(Vladimir Kosma Zworykin)
ツヴォルキンはロージングの弟子だが、ロシア革命でアメリカに亡命したのだ。
やがて商用ベースとして世間に公開したのは、スコットランド生まれのジョン・ベアード
だった。1925年(大正14年)のことである。この公開では、従来のような静止した絵や文字
ではなく、動く画像の送受だった。静止画は既に1924年にテスト済み。
(TELEVISOR)
日本でも1926年(大正15年)に高柳健次郎が、ニプコー円板とブラウン管を用いて「イ」
という文字を映し出すのに成功したが、如何せん静止画だったのと「イ」という文字が欧米
には印象が薄いこともあって、ジョン・ベアードの商用テレバイザーの陰に隠れてしまった。
(高柳健次郎)
そもそもテレビジョンの開発は特定の個人に収斂せず、同時多発的に行われていた。
厳密に誰それの発明、という性質のものではない。
1928年(昭和3年)にはジョン・ベアードはカラーテレビを公開、テレビ電波の国際送信
を始め、ロンドンではドキュメンタリー番組が放映されるに至った。
また赤外線による暗視テレビジョンのテストもおこなった。
(国際送信テレビジョン)
ニューヨーク州オールバニーでは、テレビニュースが放送され、スケネクタディの GE が
定時テレビ放送を開始した。
1928年7月号の「テレビジョン」誌に、商品としてのテレビ受像機の広告がデイブン社に
よって掲載され、また同時に「組み立てキット」も販売された。
【2005.6.12】 コッホ上陸
1908年6月12日、ロベルト・コッホ (Heinrich Hermann Robert Koch) が来日した。
弟子の北里柴三郎が横浜まで出迎える。
ドイツのクラウシュタール (Clausthal) で生まれたコッホは、数多くの病原菌を発見し、
また彼の弟子達も同じく多くの感染症病原体を発見、ルイ・パストゥール (Louis Pasteur)
とならんで『近代細菌学の開祖』と称されるに至った。
(Heinrich Hermann Robert Koch)
ゲッティンゲン (Göttingen) 大学を卒業後、細菌培養法の基礎を確立、寒天培地やペトリ
皿、つまりシャーレを使用する方法を開発、その手法は今日に至るまで使われ続けている。
1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。これによって
細菌が動物の病原体であることを証明、その証明指針としての「コッホの原則」を提唱する。
1882年3月24日、結核菌を発見。論文『結核の病因論』を著わす。
1883年、コレラ菌を発見。
1905年、これらの業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞。
ベルリン大学で教鞭をとるが、彼が育てた下記の弟子たちがさらに多くの病原菌を発見し、
その人類に対する貢献は計り知れないものがある。
ゲオルグ・ガフキー (Georg Theodor August Gaffky) : 腸チフス菌を発見
(Georg Theodor August Gaffky)
フリードリッヒ・レフラー(Friedrich Loeffler): ジフテリア菌の分離に成功
(Friedrich Loeffler)
エミール・ベーリング(Emil Adolf von Behring):血清療法の研究でノーベル生理学医学賞受賞
(Emil Adolf von Behring)
ポール・エールリヒ (Paul Ehrlich):化学療法の研究で1908年ノーベル生理学医学賞受賞
(Paul Ehrlich)
北里柴三郎 : 破傷風菌の純粋培養に成功、ペスト菌を発見
(北里柴三郎)
645年6月12日、蘇我入鹿暗殺、大化の改新へ
1771年6月12日、キャプテン・クック、英国に無事帰着
1893年6月12日、清水次郎長没
1924年6月12日、ジョージ・ブッシュ誕生
1929年6月12日、「アンネの日記」の著者、アンネ・フランク誕生
1946年6月12日、進駐軍の「占領目的阻害行為処罰令」が公布
1969年6月12日、日本初の原子力船「むつ」進水
1980年6月12日、大平正芳首相が心筋梗塞で急死、享年70歳
1990年6月12日、ソ連邦崩壊、ロシア共和国が主権宣言
【2005.6.10】 電気のニュートン、アンペール
1850年6月10日、アンドレ・マリー・アンペール (Andrè Marie Ampère) 没。
人類文明に大きな貢献をした天才的偉人には、常になんらかの不幸や不運が付きまとう。
そんな人の一人にアンペールがいた。
文明国の現代人でアンペア (Ampere) という言葉を知らない人は先ずいないだろう。
アンペアがないと電流が測れないし、アンペア・アワー抜きで今月の電気代は払えない。
(Andrè Marie Ampère)
電気がないと、どんなことになるか … 停電の不便さがそれを示すが、人間社会の繁栄の
様子は NASA の「宇宙から見た夜の地球」で一目瞭然だ。
宇宙から見た夜の地球:(左)アメリカ、(中央)ヨーロッパ、(右)日本列島
左端のアメリカ、中央のヨーロッパ、右端の日本列島だけが目立って明るい。
韓国の灯火はソウルと釜山。ソウルの北、北朝鮮は真っ暗闇。一目瞭然に言葉はいらない。
中国内で、日本や欧米並みに輝く一点は、実は返還後の香港。中国が建造した街ではない。
(世界各国の GDP 2003年度)
中国はイタリアに次ぐほど総生産が伸びて来たが、その割に所得が低いのは人口のせいだ。
人口がイタリアの20倍だから、イタリアと同程度の生活水準になるには今の20倍以上必要。
たとえ GDP が将来日本と肩を並べた瞬間でさえ、日本の十分の一の水準しかないのである。
日本とヨーロッパ諸国は、人口比を考えると大体同程度の生活水準だ。
アメリカが突出しているのは軍事費のせい。個人生活は日欧米とも同一水準と考えられる。
この表は、宇宙から見た夜景と全く矛盾していない。
ということは、電気エネルギーはまさしく人類の文明生活のレベルそのものを表している。
だからアンペールが居なかったら、人類文明の進歩はずっと遅れたに違いない。
電灯や発電機を発明したのはエジソンで、電気通信はグラハム・ベルやモールスなのだが、
もし電流とか磁気とかに関する諸々の発見や「アンペールの法則」などがなかったら、そう
いう発明をすること自体が不可能だったのである。
そのアンペールは、リヨン(Lyon) の近郊、ボレミュー(Poleymieux) で生まれた。
家は富裕な商人だったが、いかんせん片田舎。近くに学校がなく父から教育を受ける。
幼いころから数学と語学に才能をあらわし、12歳までには当時知られていた殆どの数学を
学び終えていた。またルソーの「植物誌」を読んでから、化学を志すようにもなる。
父親はまずラテン語を教えていたが、彼に数学の素養があると分かってから中止した。
しかしアンペールは、レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler) や ベルヌーイ(Bernoulli)
の研究を学ぶため、自分でラテン語を習得する。
(Leonhard Euler)
ところが彼が14歳のときフランス革命が起こり、父は保守派の一人として無惨にも断頭台
で処刑されてしまった。
なにせ、まだいたいけない少年のことである。父親が目前のギロチンで首を刎ねられたと
いう衝撃はあまりにも大きく、心痛のあまり、まるで生きた屍同然のような生活を送ること
になる。また当然、生活上の保護者を失うことにもなった。
しかしその後、ひとりで苦学しながら、26歳でリヨンのリセ (Lycée) の数学教師になり、
1808年に33歳で新設の大学制度の教育総監、翌1809年には34歳でエコール・ポリテクニーク
(École Polytechnique) の数学教授、49歳にはコレジュ・ド・フランス(Collège de France)
の教授などを歴任する。
彼はデンマークのハンス・クリスチャン・エルステッド(Hans Christian Ørsted) の実験に
刺激され「アンペールの法則」などを発見した。
電気と磁気の統一理論を作ろうとしたものだが、法則を微分方程式の形に昇華させた点が
たいへん重要である。
エルステッドの発見をもとに電流と磁界の向きとの関係を明らかにした「右ネジの法則」
や「電流の変化が磁気を生む」ことを発見をし、電流の相互作用を体系づけた。
また物体の原子論的構造を論じ、粒子、分子、原子を区別して、さらに晩年には科学的な
思索に没頭、科学分類論を展開する。
これら一連の業績によって「電気のニュートン」とも言われた。
アンペールの法則は、ジェームズ・クラーク・マックスウェル (James Clerk Maxwell) に
より拡張及び数学的な整備を加えられ、マックスウェルの方程式の4つのうちの1つになって
「アンペール・マックスウェルの式」になっている。
(James Clerk Maxwell)
また接触変換論でのアンペールの変換や、偏微分方程式論での「モンジュ・アンペールの
方程式」(Monge-Ampère equations) に名前を遺している。
(Gaspard Monge)
アンペールは部屋中を歩きまわるくせがあったという。
座っていては良い考えが浮かばないということだが、生理学的にも当を得たことらしい。
彼は大学の監督官でもあったので、よく旅行をし、読書の趣味も広く、歴史や紀行、詩、
哲学、自然科学一般を好んだが、1836年6月10日、マルセーユに視察旅行中、肺炎で死亡。
享年62歳。没後45年を経た1881年、彼の名を記念して電流の単位がアンペアとなった。
【2005.6.7】 どこから来たの?
1850年6月7日、画家アンリ・ポール・ゴーギャン (Eugène Henri Paul Gauguin) 誕生。
パリのノートルダム・ド・ロレット街に生まれたゴーギャンは、印象主義の感覚主義的な
現実描写に対し、1888年に総合主義 (Synthetism) の様式を確立する。
鮮やかな色彩を、単純化な輪郭の中に平塗りする技法で想像力の生み出す概念や、抽象的
な感覚を描き出す様式は、ポン・タヴェン (Pont-Aven) 派の相互影響の中から生まれたもの
であった。
(Eugène Henri Paul Gauguin)
「タヒチの女」で有名なゴーギャンだが、生存中は一枚も絵が売れなかったという。
一時はゴッホ (Vincent van Gogh) の求めに応じ アルル(Arles)で一緒に絵を描いていたが、
ゴッホの耳の削ぎ落とし事件で決別、再びパリへ戻る。
だがパリのデカダンな生活に嫌気がさし、原始生活にあこがれて1891年にタヒチ島に渡り、
ここで「タヒチの女」など、明るく強い陽光の下に輝く女たちの生活を描く。
しかしこの原始的な生活は、ゴーギャンの期待とは裏腹に、物質的にも精神的にも悲惨な
ものであったが、そのなかで総合主義は豊かな円熟をとげた。
(Femmes de Tahiti Sur la Plage)
(Tahitian Women on the Beach)
ゴーギャンは現地の13歳の少女を愛人にして制作を続けたものの、金銭問題で行き詰まり、
1893年に帰国。
しかし事情が好転する筈もなく、解決を見いだせないままに1895年再びタヒチへ。
そして今度は14歳の少女を新しい愛人にして暮らし始めることになる。
絶望や自殺未遂など、はちゃめちゃな人生の中で、やがて不朽の名作を完成させた。
(D'où venons nous? Que faisons-nous? Où allons-nous?)
それは D'où venons nous? Que faisons-nous? Où allons-nous? という長い題名の絵。
Where do we come from? What are we? Where are we going? … つまり、我々はどこから来た
の? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか? という意味。それにしてもチト長すぎる。
どこから来たの?って、そんなこと知るもんか、といえばそれまでだが、答はちゃんと絵
の中に用意されているのだ。
D'où venons nous? … (どこから来たの?)の答は、右下の赤ちゃん。
Que faisons-nous? … (我々は何者?)の答は、中央の果実(知恵の実)を採取する男。
Où allons-nous? … (どこへ行くの?)の答は、左端の老人。
ところで左後方の両手を半分上げた青い女神は、タヒチの女神ヒナで、復活・再生の力を
持つそうだ。
さらに女神の右横に、横顔を見せている女性が描かれている。これはゴーギャンの愛娘の
アリーヌではないかといわれている。
画家のピサロや作家ストリンドなどからタヒチの作品を批判され、落ち込んだ上に船乗り
と大げんかをして足を骨折。貧困と病魔の中で本国の家族からも見放されてしまう。
ただ一人娘のアリーヌだけが励ましの言葉を送って来ていた。ゴーギャンにとってはただ
それだけが心の支えだった。しかしそのアリーヌが事故で亡くなったという知らせを受ける。
ゴーギャンがアリーヌの復活を願って、復活と再生の女神ヒナの横に娘によく似た女性を
描いたとしても当然だろう。
1901年には、タヒチに西洋文化が流入する現状から逃れようと、病をおして新天地を求め、
タヒチの北東マルケサス諸島のヒヴァオア島に移る。
やがて1903年5月8日、ゴーギャンは誰にも看取られず孤独の中に54歳の生涯を終えた。
そこでも多くの創作をしたものの、そこにはゴーギャンの絵は残っていない。
タヒチの雑貨屋に借金のかたに絵を持っていったが、店の主人は絵を焚きつけにして燃や
してしまった、という話だ。
一人の天才画家の悲しい幕切れである。
【2005.6.6】 ブラウン管を産んだ人が生まれた日
1850年6月6日、ブラウン管の産みの親ブラウン (Karl Ferdinand Braun) が生まれた。
(Karl Ferdinand Braun)
カール・フェルディナント・ブラウンはドイツの物理学者で、熱力学や弾性体の振動に関
する研究、また電位計やオシログラフ、ブラウン管の発明など、電磁気学の分野にも多くの
業績を残した。
(Braunscheröhre)
また無線電信の研究にも専念、高周波電流による水中モールス信号送信テストや、指向性
電波の発受信の実験を行った。
1909年、ノーベル物理学賞を受賞。(ブラウン管に対してではなく、無線通信に関して)
とにかく彼の電子工学というか、人類に対する功績は極めて大きい。
ブラウンのお陰でテレビやレーダー、またコンピュータが便利に実用化されたのである。
(日本陸軍の電探用陰極線管)
1281年6月6日、蒙古14万の軍勢で来襲するも台風で全滅(弘安の役)。
1599年6月6日、画家ヴェラスケス誕生。
1799年6月6日、詩人のプーシキン誕生。
1863年6月6日、高杉晋作が奇兵隊を結成。
1868年6月6日、南極探検家のロバート・スコット誕生。
1875年6月6日、トーマス・マン誕生。
1876年6月6日、ドイツの内科医アーウィン・ベルツ横浜着。
日本の近代医学の基礎を築く。
1944年6月6日、連合国軍がノルマンジーに上陸を開始。
1961年6月6日、スイスの心理学者・精神医学者カール・ユング没。
【2005.6.5】 ニュートリノって?
1998年6月5日、東大宇宙線研究所が「ニュートリノ(neutrino) には質量がある」と発表。
質量があるとかないとかいう前に、ニュートリノって一体なんだ、というのが本音だ。
とにかく得体の知れない感じがするが、あるというんだから、あるのだろう。
なに、知ってる? 南米原産のネズミの大きいやつだろうって?
(これはニュートリア)
それは君、「ニュートリア」だ。とにかく「ニュートリノ」は影も形もないのである。
スピンの理論で知られているオーストリア生まれのスイスの物理学者 ヴォルフガンク・
エルンスト・パウリ (Wolfgang Ernst Pauli) がその存在を予言した。1933年のことである。
影もカタチもないものの存在がよく分かるもんだなあ、と思うが、それが理論物理の世界
というものなのだ。
(Wolfgang Ernst Pauli)
パウリは1945年に、ノーベル物理学賞を受賞している。
しかしニュートリノの予言とは関係がない。ノーベル物理学賞の受賞は「排他律の発見」
に対してである。
ニュートリノ関連でのノーベル物理学賞受賞者は東京大学名誉教授の「小柴昌俊」氏だ。
(ノーベル賞を受賞する小柴昌俊)
ところでパウリの排他原理とは「一つの原子軌道に属する二個の電子は、電子の量子状態
を決める四つの量子数の全部を共通には持ち得ない」という仮定で「パウリの禁制」とも呼
ばれている。
一つの状態には上向きと下向きをペアにすることで最大二つの電子まで入ることができ、
周期表の上のほうにある原子の電子配置は水素原子の波動関数とパウリの排他原理を使って
おおよその説明がつくのだが、夜なかなか寝付けないときに考えると、すぐ眠気を催すか、
或いは、ますます目が冴えて寝られないかの、いずれかの状態を取り得る。
もしニュートリノに関してことのほか興味をお持ちの節は、是非とも ここを参照 され
たし。
リンゴをたくさん投げると、そのうちの何個かが空中でみかんになったりイチゴになった
りする?!まるで手品のような不思議な現象が素粒子の世界では現実に起きています。
1998年に東京大学宇宙線研究所のスーパーカミオカンデ検出器を用いた宇宙線の観測から
ニュートリノが別の種類のニュートリノに変わってしまうニュートリノ振動と呼ばれる現象
が初めて発見されました。
… なんてことが紹介されていて、これはなかなか面白い。
また、お子達向けには 宇宙科学研究本部の一般公開 が、来月23日(土)にある。
ゲームばかりしていると確実にアホになるが、ご幼少のころからこういうところへ行くと、
ノーベル賞を貰えるような科学者になることも、ごく稀れにはあり得る(かも)。
さらに今年の秋には 日本宇宙生物科学会の公開シンポジウム もある。
こちらは 10月1日(土)の午後。井の頭線の駒場東大前で下車すればいい。
【2005.6.3】血液の循環を発見した人
1657年6月3日、「血液循環」を発見したウイリアム・ハーヴェイ (William Harvey) 没。
血液が循環していることを発見した人がいるのだから、それまでの人々は血液は循環して
いなかった、と思っていたことになる。
(William Harvey )
彼が血液循環説を発表したのは1628年のこと。しかし激しい反論を呼んだという。
当時はみんなアリストテレス (Aristoteles - Αριστοτεληξ) の説を信じていたらしい。
(Aristoteles - Αριστοτεληξ)
またガレノス (Alter Galenus) が唱えた医学では、肝臓で発生した血液は各部まで移動する
が、そこで消費されるため循環することはない、とされていた。
しかしハーヴェイは、心臓から送り出される大量の血液が肝臓内で常に作られ得るもので
はないと考えた。血液は常に循環しており、一方向に流れているに違いない。
大動脈を結紮すれば、血液は心臓に停滞する筈だ、ということを彼は実験で立証した。
それは、純粋に自然科学的な方法が、医学においても成功を収めることを意味していた。
医学にも黎明期があった。そしてわれわれ人類全体がその恩恵に浴している。
循環しない血液なんて、身体全部が血栓ということなのだから。
それにしても最近、若干血の巡りが悪くなってきたように思う今日この頃ではある。
【2005.6.1】もう一つの維新『遠西奇器述』
1871年6月1日、幕末の科学者「川本幸民」没。
日本に来航したペリー (Matthew Calbraith Perry ) 記述の「遠征記」(岩波文庫)によれば
日本の役人に地球儀を見せると、すかさずワシントンやニュ−ヨーク、イギリス、フランス、
デンマーク等の諸国を正確に言い当てたので驚いた、と記されている。
また米国で極秘に製作していた筈の兵器を、これはペーザ砲ですね、と言ったのでペリー
はびっくり仰天したらしい。
(Matthew Calbraith Perry )
人間というものは元来天の邪鬼なもので、戦時中に短波で外国の放送を聞くのを禁じられ
ると、禁を犯してでも絶対に聞きたくなった覚えがある。そのためには智恵を絞って見付か
らないようにあらゆる工夫をするものだ。
少年時代の小生も、そうそうたる確信犯で、憲兵の目をいかに誤魔化したかが自慢だった。
戦後活躍した技術者にはそういう人が多く、それが復興の推進のエネルギーにもなった。
鎖国の中で川本幸民たちは西洋の書物を大いに読みあさり、またその多くを翻訳をした。
厳重な鎖国政策は、海外への関心と好奇心をいやが上にも刺激し、逆に目を外に向けさせ
たのである。維新や文明開化の成功は、こういう精神的風土と基盤の上に成り立った。
(川本幸民)
それがペリーを驚かすような知識になったと同時に、開明が実に短期間で爆発的に進んだ
遠因にもなったのであろう。
今後の日本のことを考えると、学校に行っても勉強をしてはいけない、結婚しても絶対に
子供を産んではいけない、とすれば、みな勉強に励んだり子供が増えたりするかも知れない。
ただ既にそういう気骨まで失っていたならば、もはや滅亡するしかないのだが …
ともあれ幕末当時の日本は、既に世界的に見ても教育水準がトップレベルにあり、文部省
の記録による就学率は、江戸で約86%、地方でも56%に達していた。
要するに当時の先進国イギリスを、はるかに凌駕していたのである。
今後も寺子屋や私塾を殖やせばいいと思うが、既に皆さん塾に通っている現状だ。
いずれにしても、官製はダメ、といういい証拠かも知れぬ。
例の国家プロジェクトのIT講習もまさに税金の無駄使いで見事惨憺たる結果に終わった。
【川本幸民の主な業績】
1851年、「気海観瀾広義」を著す。
これは岳父林宗が著した物理学書である「気海観瀾」を増補したものだ。
物理・化学の学術書で、エネルギーや力学の解釈、物理の説明と化学的知識、熱学、電気
などの解説や磁石と光学の説明などがある。
1853年、自宅に炉を作り、日本で初めてのビール醸造し試飲会を開いた。
1854年、「遠西竒器述」(上下)を著わす。その中に「写真映鏡」で銀板写真機の作り方
を記述、実際に作って本人や家族を写した写真も実在しているとのこと。
これまでの「舎密学」という言葉に代えて「化学」と称した。
1860年、ドイツの化学書を訳した「化学新書」を書き上げる。これには原子説やビールの
醸造法まである。ドイツの農芸学者ストックハルドの化学書の蘭訳を元に作られた。
ここの無機化学編では、リチウム、チタン、テルルなどを含む元素が67種類明らかにされ
ている上に、同素体、異性体などの概念が確立している。
他にも「化学初教」「化学読本」「理学原始」など多数の著書がある。
また書物ばかりでなく、写真機、マッチ、氷砂糖、白砂糖、冶金、耐火煉瓦、ガラス、
ガス燈、綿火薬、硫酸、硝酸・樟脳などの現物を作った。
軍事的には、1856年に「兵家須読舎密真源」9冊を著して、火薬、アームストロング砲、
60ポンド後装砲、西洋造船法、弾道計算、電信機、電気地雷の作り方の翻訳を記述した。
以上は薩摩藩が倒幕に際し、幕軍を圧倒した原因になったといわれる。
『英才は彊力勉励の別名なり』というのが幸民の口癖だったが、惜しむらくは酒癖が悪く、
そのため刃傷事件まで起こし、175糎の長身で人相もあまり良いほうではなく、人から恐れ
られていた、という。
これほどの人物が、その功績のわりに世に知られていないのは、あまり人から愛される
タイプとは言えなかったのが原因では、という説もある。
いささか考えさせられることだ。