DAINASHI BOOK REV.s & ESSAY
         


       般若心経 漢文読み下しの試み


  

         誰もやってないので、私がやってみました



古来、日本人が漢籍(かんせき)(中国の書物)を読むときは、語順を日本語に近づけるための「返り点」を付け、テニヲハなどの助詞や送りがなを加えて、漢文を日本語として読めるように工夫してきた。
もとの漢文を白文(はくぶん)と称し、日本語として読めるようにしたものを「読み(くだ)し文」と称した。

「お経」も漢籍であり漢文で書かれているのだから、まずは読み下し文の形で広まり、その後それを現代文に訳すのが()(とう)な順序だと思うのだが、なぜか読み下し文の形のものがない。昔から漢字を音読みでダラダラと読む形があり、次の形は色々な人による現代訳や解説しかない。中間的な形としての読み下し文がない。

この辺りのことは前項「なぜお経を音読するのかに書いたが、誰もやらないようなので、本稿で般若心経を読み下し文とした例を示すこととした。

まず、般若心経の全文を示す。何も手を加えない状態だと、このように文節ごとの区切りもなく、句読点もない。



仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌心意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵以般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経




通常、般若心経の解説書などでは、上記の状態のものを少しずつ区切って、漢字の音読のしかたが説明されたあと、いきなり解説が展開されてゆく。その解説は著者の解釈が付加されたものとなっていて、しかもその解釈は著者の立場や考え方によって原文とかけ離れた内容がつけ加わったりしているものが殆どである。
小説家の手によるものなどもあるが、読みやすくなることはいいとしても、解釈が本文から逸脱する範囲も大きくなりがちで、殆ど「脚色」という類のものとなってしまう。

そうした解説者たちの「お説を拝聴」するのは、般若心経の本質に迫ることにはならない。単に、解説者たちの「解釈」を押しつけられるだけのことである。何も身につかない。自分自身で、何が書いてあるのかを確かめることによって初めて、本質に迫ることができるはずである。

何が書いてあるかというのを確かめながら読むのであれば、「漢字だけの原文」と「解釈」の間に、もうひと段階、英文和訳における「直訳」に相当する段階が必要である。これが「読み下し」である。

さて、漢字が羅列された文(白文)を日本語として読み下すための作業は、次のように行った。

●意味のとりやすいように、文節分けと分かち書きをする
●「返り点」をつける。
   漢文は英語の語順と似た処があるので、迷ったら、
   英語ならどんな語順で書かれるか、と考えて付けた。
●必要最低限の送り仮名を加える
   読み下し文は片仮名なので、送り仮名も片仮名とした
●必要最低限の接続詞を加える
●必要最低限の句読点を加える
●原文の漢字とその読み方は、なるべく活かす
●流れが変ると思われる箇所は、改行を入れる

ここまでの作業はタテ書きなので、このページ内に取り込むと見づらいこともあり、ここに添付のPDFデータを参照。

もちろん、文節分けや返り点の打ち方や、送りがなの付け方など、ここまでの段階で既に私の「解釈」がある程度は付け加わってしまうことになるが、最低限に抑えられているはずである。

以下、読み下し文による般若心経である。



仏説(ブッセツ)般若波羅蜜多心経(ハンニャハラミッタシンギョウ)

観自在菩薩(カンジザイボサツ) 深般若波羅蜜多(ジンハンニャハラミッタ)(ギョウ)ゼシ(トキ)五蘊(ゴウン)(ミナ)(クウ)照見(ショウケン)シ、一切(イッサイ)苦厄(クヤク)()ス。

舎利子(シャリシ)
(シキ)(クウ)(コト)ナラズ、(クウ)(シキ)(コト)ナラズ。(シキ)(スナワ)()(クウ)(クウ)(スナワ)()(シキ)
(ジュ)(ソウ)(ギョウ)(シキ) 亦復(モマタ) ()クノ(ゴト)シ。

舎利子(シャリシ)
()諸法(ショホウ)空相(クウソウ)ニシテ、(ショウ)ゼズ(メッ)セズ、()ナラズ(ジョウ)ナラズ、(ゾウ)ゼス(ゲン)ゼズ。
()(ユエ)(クウ)(ナカ) (シキ) ()ク、(ジュ)(ソウ)(ギョウ)(シキ) ()シ。
(ゲン)
()()(ゼツ)(シン)() ()ク、(シキ)(ショウ)(コウ)()(ソク)(ホウ) ()シ。
眼界(ゲンカイ)()ク、乃至(ナイシ) 意識界(イシキカイ)()シ。無明(ムミョウ)()ク、(マタ) 無明(ムミョウ)()クルコト()シ。
乃至(ナイシ) 老死(ロウシ)()ク、(マタ)老死ノ()クルコト()シ。
()(シュウ)(メツ)(ドウ) ()ク、()()(マタ)(トク)()シ。所得(ショトク)()キヲ()ッテ(ユエ)

菩提薩埵(ボダイサッタ)般若波羅蜜多(ハンニャハラミッタ)()(ユエ)(シン) 罣礙(ケイゲ)()ク、罣礙(ケイゲ)()(ユエ)恐怖(クフ)()ルコト()シ。
一切(イッサイ)顚倒夢想(テンドウムソウ)遠離(オンリ)シ、涅槃(ネハン)究竟(クギョウ)ス。
三世諸仏(サンゼショブツ)、般若波羅蜜多ニ依ル故、阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)()

(ユエ)般若波羅蜜多(ハンニャハラミッタ)()ルハ、()(ダイ)ナル神呪(シンシュ)、是()(ダイ)ナル明呪(ミョウシュ)()無上(ムジョウ)(シュ)()等等(トウドウ)()(シュ)
一切(イッサイ)()(ジョ)(アタ)フ。真実(シンジツ)ニシテ()ナラズ。

(ユエ)般若波羅蜜多(ハンニャハラミッタ)ノ呪(シュ)()ク。(スナワ)()(シュ)(モウ)セ。

羯諦羯諦(ギャアテイギャアテイ)波羅羯諦(ハラギャアテイ) 波羅僧羯諦(ハラソウギャアテイ)菩提薩婆訶(ボジソワカ)

般若心経(ハンニャシンギョウ)




【若干の補足】
五蘊皆空(ごうんかいくう)」の五蘊(ごうん)とは、色、受、想、行、識を示す。
五蘊がみな「(くう)」であると悟った観自在菩薩、または観自在菩薩から教えを聞いた高弟が、その弟子に語りかける形をとっていると考えられる。
舎利子(しゃりし)は、仏弟子。舎利とは骨のこと。従って「舎利子」は、「わが骨よ」みたいな意味になるが、ここでは、「弟子たちよ」と呼びかけて、話を始めると解してよいだろう。
次の段で、五蘊の中でまず「色」について、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち空であり、空は即ち色である、と説いている。そして「受想行識もまたこのとおりである」となっているので、五蘊の全てが空である、と悟ったことをひとつひとつ説明していることになる。「またかくのごとし」は、全て同じこと、という意味。

次の「舎利子」以降は、全てが「空」であることを、別の観点から説いていることになる。

後半、「(しゅ)」が出てくるが、これは文字通り「呪文」と解していいと思う。この呪文の尊とさを繰り返し述べたあと、最後の「羯諦羯諦」が、まさに呪文として示される、という構成なのだろう。

あと、それぞれの用語や文章全体の意味するところについては、何種類も解説書があり、またウェブでも色々な解釈が掲載されているので参考になさってください。


般若心経は短い教典であって覚えやすいことと、多くの宗派で用いられるため、自宅で仏壇に向かって唱えたり、写経の素材として使われることも多いが、意味が分からないまま、または意味を捉えようとしないまま唱えたり写したりするよりも、「こんなことが書いてあるのだ」ということをある程度理解した上で行うのとでは、気持ちの入り方も違ってくるはずだ。
そして、読み下し文にしてみても、結構リズムがあり、パワーを感じる教典だ、というのが「翻訳」後の、私の感想である。

縦書きの読み下しのPDFも添付しておく。
尚、本来は旧仮名遣いで書くべきだが、私は新仮名遣いしか使えない世代なので、一部を除き新仮名遣いで記している。