創造性の理論


宗宮和子・宗宮保
     
第一部 精神編


1. 創造性の発現者は人間である
2. 創造性の発現はどうして少数の人間にのみに限られるのであろうか
3. 創造性を発言するための純粋自己の顕現の方式
4. 創造性の発現の過程
 1) 発現の根底にある自己愛
 2) 精神の高揚と課題への没入
 3) 発現
 4) 発現の減退を速める条件
5. 創造性の発現と「私」の存在

  
付記  引用詩 ・ 文

                       1970/4/29 
    

        (掲載は 4 創造性の発現の過程 以下のみ) 

4.創造性の発現の過程

1)発現の根底にある自己愛
 人間の心の一番奥底にある、そうして行為の根源になる心は自己愛です。 この世に唯一度だけ現われ、束の間に消えていく自己への限りない愛着です。 いとおしさです。 自分が可愛くて可愛くてならないと思う心です。
 その心は人間に内在する最も自然な善の心です。 少なくとも自己が現に生きてある人間から完全に弧立して存在し、対立する相手も比較する相手もない場合にはそうなのです。 唯一人山中に蟄居して、私は二ーチェである、私はゲーテである、私はショゥペンハウエルである、私はルソーである、私は天才である。 そのように思い、空想の中で友達のように親しく、苦しい思いに涙を流し合い、手を取り合って語っても少しも害はないのです。 けれども、人間はどのような場合でも独りで生きることはできないのです。 二一チェのような偉大な孤高の人でさえも、永劫回帰の思想を語る相手を求めて静寂なスイス・オーバ ェンガーディンの山上から下りてこなければならなかったのです。 人間はこよなく自己を愛するが故に、同じ魂と魂の呼応を求めて他の人間をこよなく愛するのです。 黙殺され、誤解され、どのように惨い扱いを受けてもその集団から完全に離れてしまうことができないのです。 それ故にこそ、挨拶しても誰一人 眼をその挨拶に返さなくなった集団の中で、人間はハラハラと涙を流しながら思うのです。 負けるものか! 今にみておれ! 創造活動の最も強力な原動力はその心の叫びなのです。

2)精神の高揚と課題への没入
 そのような激情が生まれた時、それを自己の内にとどめるのです。 緊張がどれほど大きくても、それを自己の外に向かって爆発させてはならないのです。 毅然とした精神の繁張の凄味をどこまでもどこまでも持ち続けるのです。 そうしてそのような精神状態を自己の内にしっかりと定立し鼓舞する最善の方法は、同様の心のおののきを激しく、鋭く、そうして美しく顕現した先人の魂に触れることなのです。

 以下の事例は、私共が精神の高揚の定立のために幾度か激情を持って愛読したものの一部です。

事例1  正当な地位を与えられず苦悩の底に身を沈めている時に


  われは怨まじ  ハイネ
われは怨まじ、たとえ此の心の破るるとも、
われは怒らじ、永久に去りたる恋びとよ!
君が姿のけざやかさ、金剛石に輝けど
その光、君が心の闇を照らさず。

そのことを悟りて久し。 夜の夢に君を見しとき
われは見たり、君が心の暗闇を。
われは見たり、その心臓を噛める蛇のすがたを。
かくて悟りぬ、まこと君は不幸に生きたまえるを。

   君は不幸に生きたまう

君は不幸に生きたまう。 われは怨まじ。
恋びとよ、われら共に不幸に生くるさだめならん。
死の来たりて、病める心を噛み破るときまでは

恋びとよ、おのがじし不幸に生くるさだめならん。
その口の辺にあざけりの笑ひ浮びて                            その眼なざしに驕慢の光は照りて、
君が胸、誇りのゆえに昂まれども、
されど、君もまた不幸なり、われとおなじく。

悲しみのそこはかと、その口の辺にうちふるえ
眼のひかり、ひそかなる涙に曇り、
誇らしき君がみ胸は、奥ふかく傷を抱けり-- 
恋びとよ、おのがじし、不幸を耐えん!


事例2  所属する集団から一致して不当に排斥された時に


   私は世を愛しなかった   バイロン
        1
私は世を愛しなかった、
世もまた私を
彼らの臭い呼吸のまえに諂ったこともなく
彼らの偶像の前に、恭しく膝を屈したこともない
心にない笑を頬に浮かべもしなかった
うつろな木魂を崇めて、高らかに叫んだこともなく
人群れの中にありながら、その仲間とは扱われなかった
彼らと交りながら、 ただ独り立っていた
屍衣のように、 人と異なる思想を身にまとった
今もなお、というぺくは、あまりに心屈して汚れたのだが。

         2 
私は世を愛しなかつた、世もまた私を
所詮、敵ならばいさぎよく袂を別とう
だが私は信じたい、彼らには裏切られたが 
真実ある言葉、欺きえぬ希望があり
めぐみ深く、過失の穿を造らぬ美徳があると、 
また、人の悲しみを心から悲しむものもおり
一人か二人かは、見かけと変わらぬものもあり
善とは名ばかりでなく、幸福とは夢でない、と。


事例3 研究の場を得る望みが完全に絶たれ それでもなお前進を切望する時に


     生ひたちの記    阿部次郎

(丘の上から)
 東京をあとにして、故郷に近い仙台の人となってから、考えてみればもう八年である。田舎住居の寂しさにももう大分馴れて、三十前後にひどく問題にした「東京を去る」生活も大して苦にはならなくなつた。 むしろ今の私には、首都にいなければ人間になれないかのように、生きた人間になるためには居所が一一概していえば所謂「環境」が一一活殺の機を握る唯一の契機ででもあるかのように、人間というものを見くびつた考へ方をしていたのが滑稽である。 本当の人間になる可能性は、どんな山の中にも残されている。 人の世に於いて極めて悲惨にして同情すべき「貧しさ」の中はもとより、それよりももつと危険で、腐敗菌の巣窟となり易き「富貴」の中にあってさえも、人間の意志は自己の道を開拓して「真人間」となるべき可能性を奪われているのではない。 自分の置かれた場所に於いて最善を畫すこと一一この心がけが我々の短い一生に、為すに足ることと為すに価することとをありあまるほど提供してくれる。 この心がけを持たぬ者は、彼を如何なる環境の中に置いても一一たとひ今の若い者の大多数が夢想する共産社会の中に置いてさえも一一到底本当の生活を持ち得ないであろう。


 このようにして、同じ悩みを抱いた先人の悲痛な心に触れる時、どのように深く愛しても、.誤解され、理解されず、なお愛してくれぬ集団へのいいようのない憤怒の感情が、高まりゆく精神の中で力だけを残して次第に消えて行くのです。 そうして自己を自己とも意識せず、他者を他者とも区別せぬ、純粋な人間本来の自然な愛の状態が身の内に生まれてくる時、その力を課題の解決に向けるのです。 そのようにすれば、集団という枠組みの中にあって起った、研究の進行とは何の関係もない対立関係や、他人との比較によって生じた種々の雑念が昇華され、世界が自己のみになり、課題への没入が快い思いとなって完全になるのです。 そうして研究そのものだけへの全身全霊の行為が粛粛と行われ始めるのです。

創造性を発現するための心の用意はこれですべて終わったのです。

3)発現
 創造性の発現! それは人間にとって他に比べようもない劇的な生のドラマです。 発現される創造性が高度なものであり、特に思想性を含む場合その衝撃は極めて大きいのです。 雷電が頭上に落雷し、大量の電流が身体の全細胞を最大の速さで通り抜けていくのです。 歓喜の汗が皮膚の外へ染み出し、その浸透圧の強さは痛みをさえ伴うのです。 そうして如何なる人間も、かって見たこともないきらびやかな世界が眼前に開け、その世界を誰れよりも早く、初めて垣間見たという歓びが鋭い戦慄となって身を襲うのです。 震えが足の爪先までも伝わるのです。 眼からはとめようもなく涙が流れ、人類をその楽園に一刻も早く導びきたいという思いが無限の力を創造者に与えるのです。

 発現時に創造者はもののけに憑かれたように自己の思いを語り、文につづります。 その行為は激烈であり、情熱的であり、哄笑し、涙を流しながら超人的なエネルギーで遂行されていきます。昼と夜の区別はなくなり、殆ど不眠不休の状態で活動が続けられます。 休まねばと床に入り眼をつむってみても、思考はそのまま続き、頭脳はますます冴えて着想が欠々と浮び、その度に得られた着想の重大性に驚きそれを書き留めねばならなくなるのです。 眠っても思考は夢の中までも迫ってきます。 内容は断片的であっても極めて示唆的であり、至福の感情を伴い、その感覚の絶頂では予言めいたものまでも含まれてくるようになるのです。 そうしてその感勤は目覚めても消えず、語り合うことで一層高まり、その興奮状態は創造活動を不可能の境を越えてさらに進めることになるのです。 次の事例は、そのような夢の一つを、そのままにつづったものです。

事例4  創造活動中のある夜の夢より
 かって私は日本と日本の名誉に生きました。 その昔、ドイツにそびえる銀嶺の山々を眺め歩き、またそのノナカンの山の麓に美しい乙女の日の躍動の姿を夢見、憶い出は返らぬ遠い昔に流れ行きて私の胸をしめつけます。 年取った私は今あの美しかった山々に、そうしてまたノナカンの山の麓に馳せて行〈ことはもう再びできそうもございません。 またさらにその昔、共に感動に酔いしれた友々はもうこの世の人ではなくなりました。私はその素晴らしかった迫憶に胸がずんずんとしめつけられてゆきます。

 睡眠時間は一日に三時間ほどになっても、思考が発現内容に及んでいる限り眠気は全く起こらず、その極限の状態は数日から二週間ほどに渡って続けることができます。 もちろんその期間中でも、発想に関係のない事務的な仕事、日常の会話、授業のための用意、そのような義務的な行為を始めるとたちまち睡魔が襲ってきます。 どうしてもその行為を行なわなければならない時には、頭が圧しられるように重くなり、気が苛立ち、生理的な嫌悪を感じ、時には吐き気をさえ催すのです。 そのため、小学校五年程度の極めて簡単な算数の応用間題も解くことができなくなるのです。 けれども思考が発現内容に戻ると眠気や嫌悪は一瞬にして去り、頭脳は明噺に冴え渡るのです。 それは快さの方式が思考の唯一の原理となり、創造物以外への強度の拒否反応が起こっているからです。 そうして心は、自己をありのままに顕わした純粋な美しいもののみに向けられ、例えばデパートや地下街の人ごみの中を歩いても、見えるのはきらきらとした光を放つ子供の美しい眼のみであり、他人を意識する大人のぎこちない表情や動作は全く眼に映らず、それはあたかも明るく輝いた濃密な空気の流れのようなものとなって感じられるようになるのです。  身体は活発な新陳代謝のために燃えるように熱く、大寒のみぞれ混りの雨の中を、傘もささず、オーパーも着ずに歩いても寒さは少しも感じないのです。 一日中絶叫するような大きな声で話し続けても、多量の分泌液に保護されて声は決してかれることはないのです。 そうして食欲は極度に滅退し飲み物と果物ぐらいが喉をやっと通り、眼は奥に重く沈み込むようになるのです。 着想はこのような絶頂の精神的、身体的条件の中で次々に生まれてくるのですが、その様相は発現直前の感情的性質によって二つに分けることができます。 一つは純粋に学問的内容に関するものであり、その場合には発現直前に好悪の感情は伴いません。 もう一つは発現に先だって感情的な前触れがあるものです。 感情的には中性の科学的法則や事象の物質的本性に関するものではなく、善と悪とを含む人間の心に関する内容を発現する時です。 その場合には、発現者は発現直前に生みの苦しみと歓びを体験します。 陣痛と全く同じ激しい肉体的苦痛が部位だけを異にし胸のあたりで起こるのです。 そうして、その直前の肉体的苦痛に感ずる苦しさと至福の思は、その直後に発現される内容の性質と殆ど完全に一致するのです。 血も凍るような戦慄が起った後では必ず人間の心の中にメフィスト的な性質を発見し、至福の思いに恍惚となった後では天使的な性質についての着想が生まれるのです。
 このような発現の様相は、創造性を考える時の極めて大切なことなのです。 といいますのは、創造性が顕われる前に、その同じ内容を体感によって感ずる前段階のあることを示しているからです。 私達は創造性の発現を、その内容が図式や言語によって他者的に表現される時に知識的に知るのですが、そのようなまわりくどい間接的な表現を必要としない純粋自己のレベルでは、それが早くから分かっているのです。 そうして、このことが大切なのは、純粋自己の顕現の方式である快さの方式によって創造活動を行なっている場合には、その体感を感情的情緒的実感としていちはやく知り、その発現の公算を大きくすることができるからなのです。 陣痛という予告があることで出産の用意を充分にしておくことができるように、発現の体感を少しでも早く知ることによって、発現を阻害する種々の条件を除去し、それを他者的な知のレベルに浮上させる可能性を大きくすることができるからなのです。
 大きな創造性が発現される時、それを自分が生んだというよりは、神が自己の身体を借りて発現しているように思われるのは、その体感が新奇な自己の顕現に由来し、その自己を自己自身と感ずる他者的な感覚がまだ十分に定着していないからです。 赤ん坊が自分の手の存在に初めて気づく時、自分の手というよりも他物に対するもののように珍らしそうに見るのは同様の感じを持つからでしょう。
 このような精神の極限状態は長い場合二週間ほど続きます。 その発現期間中の活動の量や激しさ、期間の長さは、日頃の肉体的な健康、病弱とは殆ど無関係です。 それらを決めるのは、発現されるものの大きさと精神の強さなのです。 創造性の発現は快さの方式によっており、精神が極度に高まっている状態では、肉体的な限界を越えてもその方式が取り続けられるからです。 それ故に発現が収まった時には体力のないものは崩折れ、寝こんでしまうのです。 身体の強靱さが真価を発揮するのはその時です。 輿奮が去ってもなお体力に余有があり、発現期間の後に続く発現したものをより客観的に表示し、整理し、秩序づけ、理論あるいは思想の形に体系化する構成の段階に直ちに移行することができるからです。 そうすることによって、宝珠の思考を一つも失うことな〈、そのすべてを書きとどめることができるからです。 
 そうして発現された創造性の真価は、発現直後の異常なまでの輿奮の下で最も正しく評価されるのです。 興奮が消えた後の正常な精神下の評価は決してそれに優先させてはならないのです。 創造牲は純粋自己の新たな顕現であり、その新奇さに対する自己自身の驚きや、自信や、精神的興奮は証明の必要のない最も確かな真実であるからです。 発現直後に恐しいほどの自信を持っことがあれば、その創造は極めて大きいものと考えてよいのです。 万人の客観的な評価よりも、自己唯一人の主観的な評価の方が絶対に正しいのです。 創造性とはそのようなものなのです。

4) 発現の滅退を速める条件
 発現の期間は、自己が天才であるのかと、無邪気に思わしめるほどの高度の思考の発現と、それに伴う極度の精神的輿奮によって特徴づけられます。 そうして宗教、芸術、学問に携わる人間にとって、その期間の一日の延長は平常の精神下で行なう数年の熱心な研鑽にも勝る重大事なのです。 それ故にそのような幸運に巡り合った時には、精神の高まりを阻害する種々の条件を強い意志で除去しなければなりません。 精神の高まりを失えば、創造性の発現はその瞬間に止まってしまうからです。 次にその主なものを幾つか挙げてみましょう。

 発現内容の話し過ぎ: 創造性が発現されると、嬉しさのあまりそれを一刻も早く誰れかに話したいと心が逸ります。 その思は魂と魂の呼応を求める人間の切なる願いなのです。 けれどもそのような時、その衝動のままに行動してはなりません。 それは発現者にとって極めて危険なことなのです。 その時、自己と同じ精神状態の人がいて発現内容を話し合うことは、こよなく楽しく嬉しいことです。 一日中でも続く自己の雄弁に驚き、満足し、生きていることの幸せを深々と感ずることでしょう。 しかしそのような幸運は稀有のことであり、普通は、どのように懸命に話しても相手の心の響きが感じられず、自己の興奮の異様さだけが見え、話しが途中て切れてしまうことが多いのです。 そのような時には発現物は色褪せたものになり、何ともいいようのない空しさに襲われ、素晴しかった感覚も気力もなくなってしまうのです。 数十年の研究生活の中で一度でも発現できれば大変な、それほどに貴重な発現物を、“何でもなかったのか”と見失ってしまう その誤ちを発現者は絶対にしてはならないのです。 そうしてそのようなことが起こるのは、発現者が自己の得たものを他者に向かって話すその姿勢にあるのではなく、話した内容に対する他者の質問や反論に答えたその姿勢によるのです。 スピーカーのように自己から他者ヘー方的に話す時には精神の高まりは消え難いのですが、他者の疑問に答える対話の形をとるとその高まりは消えて行くのです。 それは対話を続けるため、発現者のほうが自己の精神を他者のところまで近づけねばならないからです。
 それ故に発現物を話したい欲求が起った時の発現者が取るべき最も賢明な道は、その欲求を身の内に封じ込め、その力を文を書く行為に向けることなのです。 そうすればその欲求が強いだけに表現力が恐ろしい程に増し、発現物は原始的な形ではあっても図式や言語によって他者的に定着され、精神の高まりが消えた後になっても、それを基にしてより体系的なものに発展させることが可能になるからです。 そうしてもしその強い欲求に抗し切れず話す時には、耳を封じ一方的にのみ話し、自分の話がすめば直ちに引きあげ、話し過ぎることは絶対に避けねばなりません。 その身勝手さは精神の高まりが自然に消滅した後で許しを乞えばよいのです。

 精神の高まりが異常なものではないかという心配: 発現期間中は、すでにいいましたように、精神は極点の高さにあり、全神経はその状態て発現物に向けられています。 行為は完全に快さの方式によって遂行され、正常の身体的限度をはるかに越えて行なわれます。 睡眠時間や食欲の極度の滅退、激烈すぎる活動、夢の中までも迫ってくる休みのない思考、雄弁、明晰すぎる頭脳、そのいずれを取っても日常の自己とは随分と違うものです。 その上、発現物への思考の集中が激しく他の存在を忘れ、軽く声を掛けられたり、突然物音がしたりすると飛び上がるように驚きます。 感情も極度に高ぷった伏態にあり一寸した好意にも直ぐ涙ぐみます。 そのような事々が重なり、多くの人と会い話しても発現物に興奮しているのは自分一人であり、どのように熱心に話しても誰れも同様の興奮を示さないと、発現物への自信は揺らがないのですが、このまま行けぱ気がふれるのではないかという不安を覚えるようになります。 そうしてその不安は、思考を深みへ深みへと進め精神の集中度が高まり、緊張が極点に達する時恐怖に変わって行くのです。 発現を終わらせないためには、その恐怖に耐えて思考を続けていかねぱならないのですが それは至難のことなのです。 研究者はそのためにこそ、日頃から自己の研究の正しさを厳しく見詰め、正しいと信ずる時にはそれをどこまても主張し続ける精神の強さを持つよう心掛けておかねばならないのです。
 身体の衰弱についての心配: 発現時には食欲は極度に滅退し、しかも身体的活動は眠ることも休むことも忘れた激烈なものです。 そのため無理にでも食物を摂らねば体力がもたないのではないかという心配が生まれてきます。 けれどもそのような時、その心配のままに外的な食物を多量に摂る必要は少しもないのです。 発現時の最適のエネルギー源は自己自身の身体にあるグリコーゲンや皮下脂肪を消費することなのです。 それは、外的な食物の摂取による消化吸収の労が不必要であり、発現物への集中が保持されやすいからです。 そのために体力が極度に減退し、衰弱してしまうことはまずないものなのです。
 
 新聞やテレビ: 発現直後は新聞やテレビを日頃どのように好きな人でもその存在を完全に忘れてしまいます。 それ故に直後だけについていえば、精神の高まりはそれによって低下する心配はまずないといえましょう。 けれども発現期間が一週間以上にも及んでくると、精神の崩れを誘発する最も危険なものになってきます。 そうしてその危険は、自己を刺激しない程度に徐々に現われてくるだけに余計に怖いのです。 例えば新聞についていいますと、最初はそれを読むというよりも新聞受けに溜ったものを唯持ってくるだけなのですが、次の日には大きな見出しを見、さらに次の日にはもう少し細かいところまでも読み、数日後には熱心に隈から隈まで読む元の状態に戻ってしまうのです。 そうして精神の高まりはそれと同時に消えているのです。 
 発現時の精神の高まりは新奇な自己の顕現に対する自己自身の純粋な反応であり、その反応の様式は極めて特異なものなのです。 新聞やテレビなどによる普通の一般的な精神的典奮には他者の要素が含まれており、そのような興奮を混じえると精神の高みが消えるのは、他者の要素が入り込み自己への完全な没入が阻害されるからです。 それ故に、発現期間中は新聞やテレビはないものと思い絶対に手を触れてはならないのです。

人の世の悲しみと はた歓びの
その感覚の あまりにも鋭くて
わが 双眼に溢れいずる涙ぞ!
いつまでもいつまでも わがものなれ!
と 祈りたき心地のする。

5) 創造性の発現と「私」の存在
  この字宙における最も神秘なるもの、それは、自己を自己と意識する「私」の存在です。 宇宙は何故にかくの如くにあるのか。 その問いが人間にとって永遠の謎であるように、f私」の存在もまた最大の謎を秘めています。 そうして創造性は、その「私」への限りない愛借をもとに、他者を遠く離れて自己へと向かい、その「私」なる純粋自己に行き着くその瞬間に突如として顕われ出るのです。
 発現時に、人間は歓喜のあまり激しく泣きます。 誰れにいわれたわけでもないのに発現したものへの絶対の自信が生まれ、身も凍る静黙の中にあっても少しも揺るがず、至福と恍惚にさえも包まれて人類への切々とした愛を覚えるのです。 そのような感動 そうしてあまつさえそのょうな愛が何故に起こるのでしょう。 創造性の発現は、純粋自己がより鮮明にそうして異なった型で顕現することであり、発現時の精神的興奮は、その新奇な自己の出現に対する自己自身の驚きなのです。 それ故にそのような限りない自己への接近が、自己を甘美な陶酔へと誘い、深い感動を身の内に呼び起こすのです。 そうしてその接近の極みにおいて人類へのこよなき愛を覚えるのは、数十万年の永い進化の道を人間として共に歩んできた同胞への懐かしみが、「私」の中に自己そのものとして定着しているからです。
 このように真正な自己への道は他者に通ずる道であり、「私」の存在は一個の自己の内に閉じ込められているのではなく、それは同胞であるすべての人に開かれ、人類を生んだ宇宙の意志に直結しているのです。 そうして創造性が人間によって発現され、「私」がその人間として存在してあるのは、「私」なるものが宇宙における精神の突端に位置するものであり、人間が今の世においてその突端にあるからなのです。 それ故にまた「私」はその突端が人間を越えてさらに先へと進む時には、人間を離れ、そのより偉大にしてより崇高なるものへと移り行くものなのです。

 (付記) 上記の「創造性の理論」は私共の以下の5回の至高体験に基づいて構成したものです。

第1回 (1963年4月)  人生間題の苦悩に基づく至高体験
第2回 (1965年12月)  色覚モデルについての着想に基づく至高体験
第3回 (1966年10月)  k感度についての着想に至る至高体験
第4回 (1968年7月)   創造性についての第1回目の着想に基づく至高体験
第5回 (1969年8月)   創造性についての第2回目の着想に基づく至高体験 

引用詩・文
(1) ハイネ詩集 ハイネ作・片山敏彦訳 新潮社 1962
    われは怨まじ (49〜50頁) 君は不幸に生さたまふ(50〜51頁)
(2) バイロン詩集 バイロン作・阿部知二訳  弥生書房 1963 
    私は世を愛しなかった(142頁)
(3)  生いたちの記 阿部次郎 角川書店 1959
    丘の上から(246頁)    

                            1970/4/29 記   

        

        上記の「創造性の理論」によって得た研究成果

1) 原理・理論  同期振動仮説 (The synchronous oscillation hypothesis): 知覚的群化、図地分化、また coherent な精神的現象が「脳の同期的振動活動」に依存するとする「同期振動仮説」(The synchronous oscillation hypothesis) を R. Eckhorn's group (1988) や W. Singer' s group (1989) より 十数年早く提唱した。

......... Homepage; http://homepage3.nifty.com@tksohmiya/参照........

2) 同期振動仮説に至る新実験法の考案  
a) 微動法 1  図形自身を微動し錯視量の変化を観測する。  
b) 微動法 2  図形の前面に併置した平行線群を微動し、線群の歪みを観測する。   
c) 微動法 3  図形の前に併置した小円を微動させ、その時の図形による小円の歪みを観測する。 
d)On.Off優位性に関する実験法
e) 同調法   図地反転図形やネッカーの立方体を左右に併置し 同期の程度を測定して左右の視野及び左脳と右脳の対称性・非対称性を調べる。  
f) 融合法  左右両眼図形を分離提示して両者の融合力を測定し パターン特性・同期の程度などを調べる。  
g) 消失法  視野闘争事態において 一眼図形を連続提示し 他眼図形を点滅提示してパターンの強さや視覚的意識・無意識の時間的推移などを観測・測定する。
h) 以下   未発表のため省略  

 


2002/9に開催されました、日本心理学会に出席して、上記のように私どもが、寒風吹きすさぶ人生のただなかで、必死に育んでまいりました唯一つの財産であります「同期振動仮説」を、抹殺しようとされる方々への憤りの思い押さえがたく「創造性の理論」の掲載を決意いたしました。



宗宮和子・宗宮 保 2002/10/2