妊娠するまで


  1. 赤ちゃんはすぐできるもの?
  2. 病院へ
  3. ストレス
  4. 検査
  5. 決心
  6. 転院
  7. 顕微受精
  8. 判定の日
  9. 出血
  10. 入院
  11. 妊娠して

1.赤ちゃんはすぐ出来るもの?

私が35才、主人が37才の時、結婚した。
結婚するときやはり将来2人してパパとママになることは想像していたし、強い願望だった。
きっといいパパになるゾと思うような主人だったし、私も子供は大好き、うるさいとかめんどうとか一度も思ったことはなかった。
結婚した時仕事は続けたが、子供ができたら当然辞めるつもりでいた。
けれど1年経っても2年経ってもその兆候はなかった。
主人は仕事が忙しく出張が多かった。きっとそのせいだ仕事が落ち着いて家にいるようになれば・・・
けれど時間は経っていく。
自然にまかせるしかないという気もどこかにあったけど不妊雑誌を読むうちにだんだんと不安が増してくる。
妊娠しやすいという食事を摂ったり、ざくろの写真を飾るという風水に凝ったりもした。けれど今、行動し
ないと先延ばしにしたら大切なチャンスを逃してしまうかもしれないと思いはじめた。

このページの先頭へ


2.病院へ

そう決心してからもなかなか病院へ行くきっかけがつかめない。
恥ずかしい、検査はつらそう、何より決定的な原因がみつかったらという不安が大きかった。結婚して2年半、38才になっていた。
意を決して会社帰りにはじめて病院へいった。
数ヶ月に渡っていろんな検査をした。痛さのあまり気絶する人もいるという“通水検査”(卵管に水を通す)の時が一番恐ろしかった。幸運な殊に検査では全く苦痛を感じなかった。いろんな検査の結果決定的な原因は見つからなかった。
その後、一般にタイミング法(排卵誘発剤とHMGの注射により卵を沢山育てながら排卵日を予測していく)と言われる治療を10ヶ月ほど続けた。主人には私の検査が一通り終わった時点で検査を受けてもらおうとそれとなく話していた。せっぱつまって考えていたわけでなく主人の自由意志に任せようとその時は思っていた。

このページの先頭へ

3.ストレス

毎月期待する分、今月もダメだったとがっかりする事が多くなっていく。治療を始めて7ヶ月くらいたった頃、自分でも無意識のうちに「妊娠」の事で頭がいっぱいになってしまった。
先生から「今日が排卵日ですよ」といわれても仕事で深夜に帰ってくる主人に言うのはあまりに酷だし。
けれど病院へ行けば看護婦さんはじめ先生が「今回はうまくいくといいねえ」一生懸命励ましてくれる。
そして毎日の注射が始まる。そんなことが何回も続いて、今月の排卵日は深夜残業はないだろうか、出張はないだろうか、と言う事ばかり考えはじめ自分自身に余裕がなくなってしまった。
自分でも思いがけなかったがある日、主人の前で突然泣き出してしまった。
自分では全くそんなつもりはなかった、冷静にこの無意味に過ぎてしまった時間をこれからどうやっていい方向に向けていくか相談しようと思っていた。そして、今のこの苦しい気持ちをわかってくれさえすればそれでよかった。
主人はそこまで私が考えていたとは気づかなかったようだ。そのことに強くショックを受けていた。
私以上に・・・・傷つけてしまった、主人のせいじゃないのに、仕事が急がしすぎて気ずかなくてあたりまえなのに。
言わなければよかったかもと後悔した。

このページの先頭へ


4.検査

何カ月かすぎ、通っている病院で「そういえば、ダンナさま検査してなかったわよね」といわれたのをきっかけに、主人の検査を受
ける事となった。近所の総合病院で検査を受ける事にし、私もついていった。
出張明けの最悪のコンディションだったとはいえ、検査の結果は想像以上に悪いものだった。
「精子の数が少ないため自然妊娠はムリです。人工授精か、体外受精でないと」と言われてしまった。
それまで本での知識があったので薬では治りませんかと聞いたけど、効果がないですとのこと。
「精子が全くない人もいるんだから、可能性があるだけよかったよ、ねえ」と話したが、主人は相当ショックを受けていたはずだ。
今日は体調が十分じゃないし、別の病院ならいい結果がでるかもしれない。もしだめでも人工受精なら自然に近い方法だし
勇気を振り絞って人工授精してもらえるんならそれでがんばろう、と二人で話した。

このページの先頭へ

5.決心

数日後、検査の結果を持って通っている病院を訪れた。私たちが考えていたより深刻だった。
「精子の数からいって人工受精も体外受精もムリ。顕微受精でないと望みはありません。可能性は20%、でも10年前だったらあきらめないといけないところでしたよ。がんばって、やってみる価値はあると思うよ。この辺りの病院だとそういう治療はやってないからよかったら紹介します。」といって下さった。けれど、顕微受精しか方法が無い事を知りショックで即答は出来なかった。
2〜3ヶ月考えて決心したらお願いします。といい病院を後にした。
やはり頭のどこかで人の手を加え人の命というものを操作するようで、それがひっかかっていた。
顕微受精それもICSI法と言われるものは卵子の核に精子を選んで細い針の様なものを使って直接注入する方法だ。そのため精子の数が極端に少ない人でも妊娠の可能性が望める。究極の体外受精なのだ。それしか方法がないとわかっても、まだ出来るなら自然になんとか授かりたかった。保険が効かないので高額の治療費がかかってしまうし、生活は治療のスケジュールに合わせなければならない。けれど一番私のなかでひっかかっていたのは人工的に無理やり受精させてしまう事への抵抗が大きかったからだ。
しばらく医学の力を借りず、排卵誘発剤もやめ、注射もやめてみた。
妊娠しやすい食事を心がけ、高額な栄養剤を買い込み自分に出来る事はなんでもしようと思った。
そうしながらも毎日考えていた。仕事場の先輩に「方法はどうであれ、チャンスがあるならやってみてもいいんじゃない」とさらっと言われてしまった。主人と同じ考え、私だけが考えすぎてるのか。
人の手が加わるという道徳的な事、恐怖感に加え、そういう治療を受ける事で仕事も沢山休まなければならない、面倒な事にならないだろうか、一歩ふみだすのが恐かったのかもしれない。
徐々にやってみようという気持ちになってきた。お金はとてもかかるけれど、時間はお金では買えないのだ今決心するしかない。
何もせずいるより後悔しないためにもやるだけやってみようと決心がついた。主人は最初からやってもらえるんならがんばってみようと言っていたので私がずっと躊躇していただけだった。
やはり主人はパパになるべき人なんだから・・・
2人で決心を固めた。そして2人だけの心の内にしまっておこう、親には余計な心配をかけるだけだから言わない方がいいと話し合った。

このページの先頭へ

6.転院

紹介してもらった体外受精専門の病院へ初めて行った。雑誌にも載っている有名な先生がいる病院だ。患者は体外受精しか可能性のなく、よその病院でさんざん治療を繰り返してきた人たちばかりらしい。
緊張していた。これ以上また何か見つかったらと恐ろしかった。
ところが、先生も看護婦さんもは丁寧に納得がいくまで説明をして下さり、カウンセリングの先生ともお話をする事が出来、リラックス出来た。こういった治療はストレスが大きい為、カウンセリングも大切な治療の一環となる。その後簡単な検査をしたが、ここではまだいい方と言って下さり安心した。ここならなんとかなるかもしれないと期待が出来た。次の生理から治療をスタートしましょうと言う事になり、もう頑張るしかないと、もう先の事しか頭になくなった。

このページの先頭へ

7.顕微受精

9月7日から治療が始まった。病院へ行き治療のスケジュール表をもらう。翌日からスプレキュアをスタートする。
合わせて注射もスタートした、筋肉注射なのでかなり痛い。
転院した新しいHクリニックは自宅から片道90分、職場から1時間くらいかかる。
注射は毎日なので平日は今まで通っていたMクリニック、そして木曜日と土、日はHクリニックへ行くようにしてもらった。
平日Hクリニックへ通わなければならないときは、半日年休で昼から仕事にでたり、フレックスとったりしていた。
たびたび休みをとらなければならない、忙しい時であろうと仕事の都合には合わせられない、それが心苦しかったけれど、今は治療を優先したいと思い、何とか口実をつくり半日年休をとっていた。
やっと排卵が近づき、夜8時にHCGの注射を打ちに行くところまでたどり着いた。
そして2日後、採卵の日がやってきた。排卵をしてしまわないうちに採卵を済ませなければならないため、手術の時間は厳守だった。予定より随分はやく病院についてしまった。もちろん主人もいっしょだが朝から極度に緊張していた。
どんな手術になるのか、うまく卵は採れるのか、頭の中はパニックだった。
主人とは別々の病室に移された。4階の手術室。
手術着に着替え、順番を待つ。私は2番め、血圧をはかり前もって麻酔の点滴をする。
ついに私の番
まさに手術台だった、ライトなんかまさにそう。
消毒、局部麻酔のあと、先生が入ってきて採卵が始まった。
先生は無言で始める。看護婦さんがずっと手をにぎってくれて「あともう少しです。がんばって」と励ましてくれている。
卵を採る時になにかチクッと痛いような圧迫されるような奇妙な感覚が走る。3つくらいとれたとき、痛みが強くなってきた。
時間にすれば短かったけど・・・全部で7コとれた。
ガーゼを詰め、別のベッドでしばらく休んだ。
とりあえず終わりホッする。手術室には次から次へと患者さんがやってくる。様子から、何回目かのトライらしい。
こんなこと何回もしている人がいるなんて、私には耐えられないかもしれないと思う。そう考えながら、もしダメだったらもう一度挑戦しなくては、でもせめて受精がうまくいって凍結してもらえれば・・・・どうにかまた、採卵で手術台に上るのは避けたかった。
その日は安静にと11時過ぎには.帰された。主人の採精もうまくいったらしい。
帰宅後、すぐに横になり安静にしていた。主人は結婚以来初めて料理を作ってくれた。
2人ともやっと安心した。夜8時に病院より具合はどうですかと確認の電話が入った。
幸いにも、痛みはあるもののそこまでひどい痛みではなかったことを伝えた。人によっては戻したり、激痛がしたりするらしい。
次の日は仕事があるので早く休む事にした。Hクリニックに置いてきた、わたしと主人の分身がうまくくっついてくれることを願って。
翌日は一番仕事が忙しい日で、まだ痛みがありつらい1日だった。
幸い金曜日だったので1日がんばろうとなんとか切り抜けた。
いよいよ翌日は胚移植の日、7つのうち分割がうまくすすんだのが4つあったらしい。
ここまでなんとかうまくきたけれど、手術室に入るのはやはり恐かった。
胚移植は麻酔を使わないのであまり痛まない方法で行ってくれた。
手術台の上がると移植の直前に先生が「いいのが4つ取れました。6分割と4分割が3つ。あなたの場合高齢なので4つ戻した方が確率が高くなるので4つ戻そうと思いますが・・・多胎が心配なら3つでもいいですが・・・」と言われた。
「3つ戻して下さい」とお願いした。前日主人と悩んで多胎のことを心配し2つにしようと言っていたぐらいだった。
そのあと手術台の上で30分休んで別室で1時間程休んだ。もうすべて終わった。後は神様に祈るしかない。
2週間ほど妊娠を助ける注射を続けることになる。
主人は何時間もずっと車の中で待っていてくれた。
実際に治療を受けるのは私だけど、きっと主人も私と同じ気持ちでここまでやってきたのだと思う。
6分割1つと4分割2つの卵ちゃんたち、がんばれと祈った。同時に私のお腹のなかに3つの生命体が宿っているのかと思うととても不思議だった。安静に安静に3つの大事なこわれものを抱えるように過ごしていた。
けれど、仕事場ではそうもいかない、会社は引越しの時期だった。なんとか力仕事をさけようと別の場所で仕事したりしたけど、途中何度もお腹が痛くなって気が気ではなかった。

このページの先頭へ


8.判定の日

そして運命の日10月3日
99%ダメだと思いながら朝から心臓はバクバク。主人もついてきてくれた。
口では「次はすぐ申込するからね、1回でうまくいくことなんてあるわけないね。」なんて言っていた。
前日、出血がありびっくりしてHクリニックに電話を入れた。「様子をみて下さい。どちらにしても次のことがあるので予定とおりいらして下さい」と言われ、本当にあきらめていた。頭のなかでは、先生はなんて言うんだろう、「陰性です」か「残念でしたね」そんな事ばかり頭をかけめぐっていた。1時間ほどの待ち時間がやけに長く感じて帰ったら、ヤケ酒大会して、子宝温泉にもいって、それから改めて身体作りから始めようとダメだった時のことばかり・・・・
ところが、先生の第一声は「一回でうまい事いきましたね」って、思わず「えっ」という言葉しか出てこなくて、ただ身体が震えるような涙が出てきそうな・・・感激しすぎて頭がボーッとしたまま先生のお話を聞いていた。妊娠反応がでている判定の容器ももらった。くっきりと赤い線がでていた。
「よろこんでいるのにこんな事言うのもなんなんですが、流産の確率は1/4あります。受精卵の異常から起こるものですから私たちにはどうする事も出来ません。もしかしたら3つ子かもしれない。けれどお腹に力をいれたりする事によって出血したりする事があるかもしれない、そしたら一つダメになったと思って下さい。今日からプロゲデポー250注射して流産防止します。」
流産の危険はあるもののそれでも嬉しかった。うれしさのあまり、先生にはストレートに言い表すことが出来なかった。
35才以上の顕微受精の妊娠までの成功率は10%ちょっとそれも1度でうまくいくなんてだというのに地に足がついていない、まさにその状態でした。
主人は近くで待ってるはずだけど、わざわざPHSに電話して「終わったよ。今どこにいる?パパ」と言ってみた。
最初は分からなかったみたいだけど「ほんと?」という喜びの声に変った。
その日は2人してすごく幸せだった。
自然妊娠を望んでいたけれども、それ以上に2人で協力して努力して授かることの出来た赤ちゃん。
3つ子かもしれない、でも元気なら3つ子でもいい。
自然妊娠以上に強い絆で夫婦になれた、そして妊娠出来た。とにかく嬉しかった。
お腹に赤ちゃんがいると思うだけで幸せな気分になれた。無理はするまい、赤ちゃんの為にと強く誓った。

このページの先頭へ

9.出血

多少の不安はあるもののうれしいばかりで過ごしていたのもつかの間、流産止めの注射を打って貰った翌日仕事中に急にお腹に激痛が走った。動けなくなりその場にじっとしていた。30分ほどすると何とか動けるようになったものの、異常な強い痛みに恐ろしくなりHクリニックに電話をした。「移植後は多少の痛みはあるものなので、様子をみてください」との事。
さっそく早退し、やっとの思いで家までたどり着いた。横になって休んだが、痛みはまだ続いていた。その時は出血はなかったのでそれだけが救いだ。おなかも下腹部もすべて強い痛みが走り、まるで陣痛のようだと思っていた。
2時間ほど過ぎ痛みが治まりかけた頃、何か妙な感触があり・・・・真っ赤な出血、大量に出血していた。
さーっと青ざめてくる。流産したと、とっさに思った。
今から急げばHクリニックで見て貰える。電話をいれたら、「しばらく様子を見てください。どうしてもというのなら診ますけど、遠くから来られるより今は安静にしていた方がいいと思われるので・・・」との事だった。
とりあえず安静にするしかない。半分ダメかもしれないとあきらめながら翌日も終日寝て過ごした。出血は止まらなかった。
次の日、Hクリニックに行ってみた。主人が会社を休んで連れていってくれた。
超音波ではしっかり胎嚢が2つ見えた。もしかしたら双子かもしれないと言われた。先生からは「現に赤ちゃんが元気なんだから出血には神経質にならないように」と言われた。ホッとはしたもののまだ不安が残った。
妊娠反応が出た日に先生が言われたのはこういう事だったのだと思い返していた。
不安をかかえながらも仕事ももう休むわけにいかない、この出血の時、3日仕事を休んでしまって、仕事もたまってしまっていた。
黙々と消化するしかない、けれど出血と腹痛ははまだ続いていた。
1週間後、朝いつも通りに起きるとなにかイヤな予感がした。どうもおかしい、主人を送りだした後、用心のため、午後から出社することにする。どうしても仕事休めない日だった。予感は的中し、1週間前に起こった痛みと出血がまたやってきた。
午前中は全く動く事が出来ずに、午後から無理矢理仕事にいった。お腹をかばいながら「こんどこそ、ダメかもしれない」と思いながら仕事していた、初期の流産は受精卵の異常から起こるもので自然淘汰的なものはできないというHクリニックの先生の言葉がグルグルと頭のなかをかけめぐりつらい1日だった。
翌日は痛みはなかったが出血は続いていた。
またHクリニックに診察に行った。赤ちゃんは無事だった。心拍が見えるかも・・・と言う状態に成長していた。けれど先週2つ見えた胎嚢が今度は1つしかいなかった・・・・
また、「神経質にならないように、出血したから入院しても流産するときはするんです」と言われた。
赤ちゃんは無事だったものの、不安はおさまらない。もしまた同じようなことがあったら・・・精神状態はずっと不安定だった。
病院の帰りも途中から出社した。思えば出血はずっと続き調子の悪い日が続いていたような気がする。
そして、その翌日の金曜日の夕方仕事に追われながらも、なんとかこなそうとしていた。この調子ではいつ休むようになるかわからない、その前にやるべき事はやっておこうと思っていた。
いきなり、痛みがやってきた。1人残った最後の子がとうとう・・・出血は自分でも驚くほどあり、トイレから出られなかった。
定時までトイレにいて、一目散に前通っていたMクリニックへ・・・Hクリニックではまた同じ事を言われるだけだ。Mクリニックで助けて貰おうと思った。
先生は、今までのHクリニックでの話を聞いてくれ、「流れてるかもしれない、でももしまだ無事だったら入院したほうがいい」と言ってくれた。超音波しながらも、出血は溢れるほど続く。先生のほうがびっくりしていた。
なんと、超音波に映った赤ちゃんは昨日まではっきりしなかった心拍をピクピクさせていた。生きててくれた。
診察時間を過ぎていたにかかわらず、近くの総合病院に手当たり次第電話してすぐに入院できる病院を探してくれた。
その足でタクシーで捜してくれた病院へ向かった。
その総合病院の救急センターへ入る前、主人の会社に電話するともう帰ったあとで捕まらなかった。
実家へ電話して当面の入院にいるものを持ってきて貰おうと電話した。急にどっと感情があふれてきて、泣きそうになってしまった。妊娠していることさえ知らせず、どうなるかわからない状態でなにも言ってなかっただけに、びっくりさせないように落ち着いて話そうとするんだけど感情がさきだって電話しながら泣き出してしまってよけい心配させてしまった。

このページの先頭へ

10.入院

入院してショックだった気持ちはあるけれど、少し安心できたような、これで助かったと思った。
看護婦さんにこれまでの経過を説明し、先生にも不安に思う事聞いてもらった。なんだかそれだけですごい救われた気がしていた。これで大丈夫だ、助けてもらえる。
先生は「はじめてのお子さんならなんとかもたせるよう頑張りましょう」といって下さった。
入院生活が始まった。まだこの時は軽く考えていた。2週間もすれば退院できると思っていた。
何の心配もない、お腹の赤ちゃんの事だけに専念できる。
入院してみると私なんかよりもっと大変な人がたくさんいた。私のようにトイレに行けるだけまだましということがわかった。
半年もベットにくぎづけ24時間点滴で不安と戦って居る人もいた。自分の経験談を話してくれ、アドバイスしてくれ、ありがたかった。彼女たちのように半年動けなくっても元気に生まれてくれるならガンバロウと思った。12週までもたすことができたら持続点滴でなんとか治療してもらえるらしい、12週までが当面の目標となった。
退屈なんかではなかった。いままで動きすぎて居た分とりかえすように1日1日ゆっくりと大切に、今まで考える事もなかった事をじっくり考える時間が有り難かった。よけいな心配はせず、赤ちゃんの安静のためだけに過ごさせてもらった。
当初、2週間の予定だった入院は結局2ヵ月半にも及び年末にやっと退院することが出来た。
思えば、入院してからも初期の時期は腹痛が絶えずあり、大きな出血が何度も起きていた。トイレも洗面も行けず点滴と薬で乗り切った時もあった。赤ちゃんはちゃんと生きているだろうかという心配はたえずあったけれど、心のどこかではきっと大丈夫に違いないとうたがうことはなかった。だから入院中、ブルーになったりどうなってもいいから家に帰りたいなんてことは一度も考えなかった。
きっと悲惨な結果とならなかったからそう思えるのだろう。
クリスマスは病院のケーキを食べたけれども年の暮れに、ちょびっとポッコリ出た5ヵ月のお腹で退院する事ができた。

このページの先頭へ

11.妊娠して

私はまだ幸せなのだと思う。
まわりの人に心配してもらってわずかづつでもいい方向に向かいつつある。
もしも、ガンや子宮の病気だったらと考えると今の状態は幸運としかいいようがない。
39才で子宝に恵まれた。
たった1回の顕微受精で、うまくいってもその4分の1は流産してしまうといわれており、流産の兆候といわれる腹痛と出血は何回もあったのに・・・・
だれかが守ってくれているとしかいいようがなかった。
元気になったらお世話になった人に恩返しをしなければと思った。けれどそれより今は元気な赤ちゃんを産む事。
妊娠してからなぜか涙もろくなった。感動話、赤ちゃんの映像にはすぐ泣けてくる。テレビみてて赤ちゃんのCM見るたびに涙がでる。今までクールだと言われてきたのに・・・きっと今やっと人間としてバランスがとれてきたのだと思う。
ゆっくり時間を過ごし、人間らしく喜んだり泣いたりだらだらしたりそういう時間を過ごしなさいという事なんだ。
入院も私にとって貴重な時間。
自分一人では生きていけない。そういう一人前の人として、母として学ばなくちゃならないことが私にはかけていた。
少しでもこの時間に得る事ができたのかもしれない。
9月からいろいろあったけど、6月からは3人で暮らす為には何てことない事なのかもしれない。
沢山の人に世話になったお陰で今8ヵ月まで大きくなった。
出生前検診の方法がある事は知っていたけれど、受けなかった、自分が高齢であることの不安はあったけれども。
沢山の人のお陰でここまでもった命を障害があるかも知れないということで断ってしまうなんてしない。
私たち二人が望んでやってきてくれた子なのだ、だから「無理はしないでいいよそのままで出てきてくれれば」と思っている。
どんな子でも私たちの子。
日に日に強くなる胎動に頼もしさを感じる。やっとここまできたけれど張り止めの薬は手離せない身なのでまだまだ油断は禁物。
月満ちて出てきてくれるまで気を付けなければ・・・・
不安も心配も十分味わったけど、お腹に赤ちゃんがいるという幸福感はそれ以上に大きかった。
これからが、私たちが父として母として沢山学ばせてもらう時だ。
さわやかな若葉の時期をすぎて、雨がしとしと降り出したらやっと会える。その日を父も母も首を長くしてまってるよ。

このページの先頭へ

ご意見、ご感想等ありましたら、Eメールでお願いします

トップページ