旅行記、エッセイのページにようこそ。このページは旅行中の思いで、心に残ったエッセイ等を発表します。
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ハワイ・カウアイ島訪問 2008年10月

カウワイクラブ訪問は親切が心にしみる旅だった。滞在期間中のスケジュールがびっしりと詰まり、デイホストを含めて気持ちのよい対応だった。フリーの時間が欲しくて依頼し、朝の時間帯に自由時間を作り、毎朝、美しいポイプビーチでスケッチしながら贅沢な時間を過ごした。
カウワイを離れる前日に島の西部観光にでかけた。キャニオンの上から流れ落ち数本の滝と、渓流によって削られたワイメア・キャニオンの雄大さを見ていると火山活動で作られたこの島だけでなく、地球の雄大さを改めて思い知らされた。ルート550号線の最終地点にあるカララウ展望台から、削り取られ、鋭く尖った山並みと対象的に青く澄んだ太平洋が印象的だった。自然が作る雄大さに感動した。
しかし、この絶景以上に印象に残った島がある。この青く澄んだ太平洋の向こうにニイハウ島が見える。カウワイ島の南西に位置する面積約200平方キロの観光から忘れ去られた小さな島である。展望台の説明看板には「ネイティブの200人がハワイ語を使い、牛や羊の放牧、蜂蜜の採集などをしながら生活している」と書いてある。ハワイ諸島で唯一ネイティブの人々が生活しているコロニーである。ラファエロさんの話ではニイハウ島の住人はこちらに来られるが、カウワイに住んでいる人は島を訪れることができないそうです。FFでデンバーを訪問した時のアメリカインディアンのコロニーを思い出した。なぜ、他国から来た人々はネイティブの人々と共存しながら歴史を作れなかったのでしょうか。今回訪問した数箇所の博物館はジェムス・クック以降の歴史しかないハワイに見えた。
断っておくが、カウワイFFメンバーを含めて現地の人の親切、朝の道行く人々の挨拶の気持ち良さは、失われている日本人以上だった。また、出発日の早朝から私の無理な願いを聞き入れ、魚釣りのガイドをしてくれたラファエロ、私たちを受け入れてくれたアーノルドのピアノの弾き語りのセッションは忘れない出来事となりました。
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ベルギー・ドイツスケッチ旅行 2007年11月
今回も私が所属している美術会行事に参加した。スケッチ専用のツアーで、観光旅行と違って1箇所に半日〜2日滞在しながらスケッチ三昧の旅行です。特にブルージュとローテンブルクは2泊したので1日中自由にスケッチができた。
ブルージュは街全体が世界遺産に指定された運河の街で、紅葉が終わりの季節だったが、街並みと運河にかかる橋のコントラストが印象的でした。スケッチの途中でムール貝の名物調理と地元のワインを飲みながらスケッチ談議に花が咲きます。
一時期忘れ去られた中世の街、ローテンブルクのスケッチは小雪が舞う寒い朝から始まった。街の建造物はオレンジの屋根とパステルカラーの壁面に統一されている。各城門の高い塔と城壁に囲まれた街は、絵描きにとってどこもスケッチポイントです。かじかんだ指をコーヒーショップで暖めながらのスケッチでした。スケッチをしていると世界の旅行客が覗きこみ、たわいもない会話をするのもこの旅行の楽しみです。
今回のスケッチ旅行では世界的に有名な世界遺産の街だけでなく、ガイドブックにも紹介されていない小さなセル村にも行きました。この村は山間の20軒ほどの小さな集落で教会は2つあります。村に1つしかないレストランが営業していないと昼食がとれないかもしれないと、途中のマーケットで軽食を準備しての訪問となりました。私たちは半日滞在してスケッチを楽しんだが、この間誰も訪問者を見なかった。こんな静かで閑散としたところでスケッチできたのも楽しい思い出となりました。スケッチ旅行の最終日は全員で、各自それぞれスケッチ作品を説明して、合評するのが恒例になり有意義な旅行を締めくくりました。3月に今回のスケッチを作品に仕上げて、金沢の展覧会会場で再開することを決めで家路につきました。
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イギリス受け入れ 2007年4月
人口50万人イギリス、レスター市から5千人の我が町へ、世界中を歩き回りたいジヨン、タメラン夫妻は花冷えの三月後半、期待と夢を胸に膨らませ夕暮れの関西空港のタラップを降り立った。ドバイを経由しての所要時間は二十四時間、旅慣れしてる2人ですが年齢的にはきつい工程でしょうね、モダンな建物が並ぶ神戸の夜景を車窓に一路播磨の奥へと、街灯がポツンポツンと風景が移り変わる佐用町へ、誰がマッチングされたのか、他のメンバーはリッチな観光地に滞在しているからよけい気の毒に思う。[日本の文化を体験して友達を作る事]それが目的なのだから、、、。不安と期待が交差しながら九回目となるホムステーの始まり始まりでーす。
狸、猪、鹿、含めれば我が家も大家族、暗闇の縁側で「ナイスミーチュー」猫も「ニャオン」と歓迎セレモニーを盛り上げてくれた。事前研修はしなかったのか靴のまま縁側に「ドン」と上がる、慌てて「ノー」、我が家のリトルサイズからして外国の人は荷物までがスモールサイズである。大きく深呼吸をして荷物を移動するのですが、私は白熊さんが現れたように圧倒された。ジョンさんは六十七歳、イギリスでベストドレッサーに選ばれた人とあり期待どうりの印象だ、まるでハリウツドの映画スターみたい。タメロンさんは六十五歳、二人共とてもユーモアーに富んだ人柄である、これで私もずいぶんと肩の荷が降りた。
ジョンさんはお酒が好きだ。アルコールがはいると表情まで変わって相手を陽気にさせてくれる。おかげでこの期間は大きな笑い声が耐えまなく響いた。さてわが町を紹介したいのだが三百六十度見回せど山ばかりです。相変わらず進化しない現実「田舎をどうアピールするか」ずいぶん悩んだ。前回も手助けして下さった友人に通訳兼企画をお願いした。心よく引き受けてくださるかけがえのない人でもある。前回盛り上がった施設は合併に伴い閉館、学校関係は春休みとあり仕方なくぶっつけ本番でいくことにした。アイデアーマンの友人の計らいでおばあちゃんが道端でコンロを出して「かき餅」を焼いて下さった。前代未聞の演出に二人は上機嫌、日中人気のない民家も郷愁そそる匂いと外国の人がいるという妙な光景に「キャー」と人が集まってきた。感激のあまり「こんな所によう来てくれた」と泣きながら袋一杯の餅を手土産にわたしてくれる。小学生も抱きついて可愛い畦道での国際交流の流れとなった。予想外の花冷えとなった朝のことです。ゲートボールをしているという情報をもらいさっそく直行、甘酒を準備してくださったのは友人のお姑さん、体中が温もり競技も力が入る、スポーツマンのジョンさんも雰囲気に乗り乗りでナイスショット、じいちゃん、ばあちゃん腰を伸ばしてメガホンで気合を入れて「頑張って生きてるで」
ジョンさんはしっかりとビデオを回してました。花冷えで出遅れた桜も見ごろとなり、下見をしてた友人の情報で千種川の土手沿いが満開の桜のアーチとなっていた。菜の花とのコントラストが見事に調和し最高のもてなしとなったと私も自負した。高校生のユーモアたっぷりの娘さんも同行してくださり漫才ツアーとなった。また福祉の町をアピールするには欠かせないデイサービスセンターへお邪魔することにした。職員の方も心よく受け入れてくださった。突然の訪問に利用者の方々も興奮気味のようにも感じた。なぜか皇室の人と間違えてか手を合わせて涙ぐむ人もおられた。タメロンさんの母も九十四歳だとか、このひとときは誰もがしんみりとなった。主任さんの和やかな進行もあり手の体操をしながら別れを偲んだ。旅の疲れは健康体操教室で身体をほぐすことにした。同行者全員通っているので先生の理解もありしばらく教室の一員となった。ふんだり、もんだり、コチコチの背中をほぐし「軽くなった」とタメロンさんも気持ちよさそうだ。田舎流の若返り術、後半の旅を続ける健康法を実践できたことに満足した。意外と柔らかいタメロンさん、なんだかホットした空間、健康で旅を続けられることに感謝、感謝、先生にお礼を述べながら教室を後にする。例年なら菜種梅雨となるこの時期、今年は夜雨が降り夜が明ければ晴れるとい季節の巡るあわせには私も手を合わせた。運は今日もやってきた。お寺の境内でティーセレモニー、桜祭りが開催されるとの事、友人の気配りでテイ券まで準備してくださっていた。日頃は静かなお寺もたくさんの人が集まりテイセレモニーも着物姿で最高調に盛り上がっていた。終始ビデオを撮り続けたジョンさん、後に一番印象深かったと話してくれた。きっとこの地だったからインパクトも強かったかもしれません。古木のしだれ桜が小さな山里に映え住職さんを交えての記念撮影、最高のロケーションである。日頃お世話になっている方からカタクリの花が開花したという連絡を受けた。さっそくパンを焼きカタクリ鑑賞をしながらのアウトドアーへと移動、簡単手作りランチもワイワイいいながらたいらげる。外食は極力避けてインスタントをつかって時間を有効に過ごす、
相手に気をつかわせないのもホームステイの原則です。端午の節句の時期とあり友人がお雛さんを片つけるとの事、その前に見せてあげようと招かれた。天井までの大きなひな壇にはタメロンさんも興味深々、お姑さんの着物を借りてタメロンさんはお雛さんへと変身、水墨の先生の応援でデモンストレイションをしてくださった。本物の体験だからお土産もドンドン増えた。几帳面なタメロンさんは喜んでバックに詰めてた。高校生の書道、手に汗をかきながら挑戦をした日本の文化の一端、いつも新鮮な驚きがあった。余暇を利用して「興味があったら一緒に過ごしませんか」と近所の人に声をかけた。予想以上の宣伝効果があった。地元の高校生、小学生、会社員まで、なんだかこの集落にも新しい風が吹いてきそうな新鮮な気持ちになった。
「宅配便が来るのか」と心配をして尋ねたウエルカムパーテーでのひとこま、今では笑い話となったエピソード、年齢と共に疲れがでてきましたが、アルバムを整理する時の楽しさはまた次へのステップに繋がるのかね。
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巨大な都市・上海 2006年4月
半年振りの夫婦揃っての充電、定年の時頂いた旅行券がくさらないうちにとまた脱出、思いついたら即実行の亭主、よく考えると私達の人生もそんなにありあまるほどの時間は無いような気がするね、だから今やりたいことをしようと、山積みのパンフレットの中から抜き出す。さてさて今中国に関するニュースが流れない日はないほど、日本にとってもこの巨大な隣国の存在は大きなものになっていますね。変化のただ中にある中国の今を体感してみたい、とかっこよく書きましたが、本当はグルメ上海の旅にしたいです。なんたって田舎暮らしの食生活ですから、そして桜咲く岡山空港から、一日一便田んぼの畦道からおじいちゃんに手を振られ憧れの中国へ、軽食を食べ終わったらもう上海浦東空港、それ位近い距離にある。噂には聞いていたが田んぼの中にポツンポツン家が見える。この野菜が日本に安く輸入されているのか、フン、フン 滑走路から移動すると早々と目に入るのが草引きをしているおばさん、日本では考えられない素朴な光景だ。空港ロビーは長蛇の列はウエルカムプラカードを持つ人で溢れている。旅なれしてる主人は数分でキャッチ、一人旅などとうていできぬ年齢になった。色白の韓国人添乗員白点さんの暖かい手を握って少し安心「ニイハオ」とウインク、流暢な日本語とてきぱきとした行動私達も信頼感を持つことができた。それにしても私は何を勉強しているのか。
さてアクセスは先ず最先端のリニアーモーターカーで、時速四百五十キロと表示にかなり揺れを感じた。いかに日本の技術が優れているのか改めて見直す機会でもあった。彼女は「日本は高いのでドイツの技術を借りたのです」と笑っていった。ここ上海は二十階以上の高層ビルが3千戸以上はある。今も建設ラッシュ、地震のないこの街の名物でもあります。黄砂とビルで土と緑と美味しい空気が恋しくなる旅の初日、宿も深夜騒音とベットで眠れぬまま朝日を拝む。新鮮は早朝の空気を吸って蘇州の観光へと出発する。安いツアーはまさに体力勝負、長時間移動にまた車の乗り心地といい黄砂で景色半分、目もショボショボである。だが風光明媚な太湖のほとり、ひっそりとたたずむ古都蘇州は見事に中国庭園が点在している。またそこかしこに運河が流れ「東洋のベニス」と称されるにふさわしい。水の都にカメラを向ける。上海の騒音から逃れて週末はたくさんの人でにぎあう。水と緑がおりなす美観、ときたま鳥の鳴き声が聞こえてくる。昔のことだが詩吟で「江南の春」を吟じたことが思い出されてくる。まさにこの景なのか、すっかり忘れてた漢詩に興奮した旅でした。
五十代も後半を過ぎるといくら心くすぐる魅惑チャイニーズ料理も限界を感じた。つくずくと老化を実感、好奇心で箸をのばせばのばすほど胃は暴れまわる。ホレみなさいと反省の床につく。しかし地方特有の素材で使う料理は私好み、例えば黒酢の濃厚な味が染み込んだ魚料理は取りあいになった。後で杭州の代表的な料理と紹介される。たっぷりと詰まったスープが絶品誰もがよく知っている小龍包は店によって工夫させている。しかし肉汁は胃と相談しながらいただきまーす。若ければ上海料理の神髄を探るグルメの旅ができたであろうにね、友人がアドバイスするライフワークも訂正する結果となり。主人は食の文化はどこにいても対応できる羨ましい存在でもある。なによりもレトロムード漂う茶館でのテイタイムは心やすらぐひとときであった。日本と同じように今上海では古きよき時代を懐かしむ老上海ムードが大流行だそうです。 かって頂いた高級ウーロンチャ のちがいをまた懐かしむ時間となった。後半の地は上海の歴史を辿って歩く工程で始まる。二十世紀初頭に建てられたモダンでレトロな建物がズラリと顔をそろえる。見事な景観を形成している外難、しかし同時にそこにはアヘン戦争後 の如く押し寄せた列強各国の餌食となった悲しい歴史も見え隠れする。歴史の重みもをしっかりと感じ取りながら歩く。。
白点さんの強い進めで上海雑技団を見ることにした。少々高いが何事も「エイヤイ」と「なんでもありーの中国社会」、それにしても鍛えぬかれたスーパーテクニック、息も詰まるほどの妙技の連続、映像とはたしかにちがう、限りなく深い雑技の奥義に拍手をおくる、拍手を送る。これこそ中国なのかもしれない。
旅の終りは上海のライトアップを楽しみながらナイトクルーズ、共に行動した仲間とも今宵限りやっと親しくなった頃にはお別れ、仕事、趣味等気さくにお酒のつまみとなったテーブルは盛り上がる。船上からの外難はあでやかにライトアップされデザインを競ったアーチストの存在にエールを送る。事故もなく私達を誘導してくれた四人の若い日本語添乗員との出会い、それぞれの生き方を限られた時間で語ったことは私達の心の中の土産にもなった。ハードな仕事にも「私は健康だからこの仕事ができるのです」とはっきり答えてくれた。別れ際夢だけどいつか日本に行って旅行会社をつくるのだと最高の笑顔で見送ってくれました。五十七歳の誕生日を迎えたばかりの贈り物としては少し贅沢ですが主人の気配りにあらためてお礼をいいたい。再見
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ガイドブックにない街・昌原 2005年11月
韓国・昌原と聞いて直ぐに何処にあるか答えられる人は何人いるでしょうか?関空から飛行機で約1時間、釜山の金山国際空港から車で40分の街です。人口50万人の昌原は関空から最も近い大都会です。しかし観光ガイドブックで昌原を見つけることは出来ませんでした。なぜガイドブックに掲載されてないのか?この疑問も現地に着いて直ぐに理解できました。
この街は軍事基地として開発が始まったのが1970年代です。しかしその後情勢が変わって工業都市として開発が進められた街でした。道路が碁盤の目のように整理されています。しかも中央の道路は片側5車線、幅はアメリカのフリーウエーに匹敵します。この道路の広さの理由も判りました。計画した当時、飛行機の滑走路として開発されていたそうです。しかし世界情勢が変化して軍事基地の必要がなくなり、工業都市として開発が引き継がれました。街の中心の道路の北側は住宅街、南側は工場地帯と完全にセパレートされた近代的な街です。今では自動車、半導体等最先端の巨大な工業都市になりました。私達が訪問した時も香港の貿易展示会が開催されていました。
農村だった所を開発して新しく作られた街なので、観光名所はほとんどありません。街の中心部に多くのホテルが集中していますが、ホテルに旅行案内がありません。この街には多くのビジネスマンが訪れるが観光客はいないとのことでした。
昌原の北側の住宅地域には今も多くの高層マンションが建設中でした。今後ますます発展するでしょう。
感動をもらった台北 2005年11月
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「山里のかあちゃんは年がいもなく中国語習い始めたんべー」隣のとうちゃんは「たまにゃあ充電するかー」とウインク、と思いつくやとうちゃんを誘って畦道からヒューンと台湾へ飛んだのであります。FF誕生以来二十年のお付き合い、私達の心は高鳴り「なんとか好朋友を成功させなくては」短いフライトも電子辞書とにらめっこです。
いよいよ中正国際空港へ、ロビーで真先に目に入ったのは笑顔の素敵なEDの謝さん、達者な会長である謝じいちゃんも笑顔、笑顔、で握手です。さて汗をながして覚えた中国語であります。トライ!トライ!やっぱり笑いの渦となりました。その時重い肩がストーンとほぐれたのです。皆友達だーい。彼等の達者な日本語に私なりに挑戦という言葉を終始捨てることはありませんでした。
それから心よく私達を受け入れてくださった牧歌的でフレンドリーな郡山クラブの皆様、どの工程も和やかな足どりとなりましたよ。謝謝。
さてホストの張さんの素顔を紹介しましょう。「まだ時間はたっぷりあるぞ!!」ポジッチブなライフワークに75歳の年齢は感じられませんでした。若い頃の経験を生かして目指すはドイツ語、四ヶ国語をマスターする日はそう遠くはないでしょう。
さて台北の印象はと聞かれたら、バイクの音で夜明けが活気つく街、セピア色の中に輝く夜市、屋台から匂う香辛料、寺院を覆う信仰の煙、しっかりとしたセキュリテイ、アジアの心髄をどこまで探れたでしょうか、「夜来香」を口ずさみながら別れを惜しんださよならパーテー、歴史に無知だった2、28事件の彼のガイドが今も私の心に鮮明に残っています。一生懸命に生きている街台湾、この国も好きになりました。 佐恵子
ベトナムの変貌 2005年1月
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ベトナムにスケッチ旅行に行くと話したら「ベトナムは安全なのか」と聞く人がいた。またインフルエンザ(H2型)が流行しているのに大丈夫かと聞き返す人もいた。この様に私たち日本人はほとんど素顔のベトナムの現状を知らない。ホウチミン市に着いて感じた市民は日本と同じでひたむきに生活している人々でした。むしろ日本より活気にあふれた街に感じられた。市内の道路は単車であふれています。市内といっても信号機のない交差点がほとんどで車と自転車と単車が入り混じって走っている様子はまさにレースを行っているように見えました。朝はこの単車の音で目を覚ます毎日でした。朝は通勤で単車が多いのかと思っていたが10時を過ぎて昼になっても単車の洪水は収まらなかった。交通網がほとんど整備されておらず、道路に頼るしか交通手段はありません。市内には高速道路がなく広くても片側二車線の道路です。しかも交差点に信号機が無いところが多いし、あったとしても信号無視の車が多く走っています。この国の交差点交通ルールは”走らない、止まらない”とガイドが説明してくれました。従って交差点で待っていたら何時までたっても交差点に入られない。車が来ていても命は相手まかせ、ゆっくり交差点に入る。すると気が付いた車、単車、自転車等各自が接触しないように横をスイスイと通りぬけて行きます。しかもこの国の単車は5人乗りまでOKで、実際に5名乗り単車も見ることができました。さらに市内ではヘルメットも規制されていないので、ほとんどヘルメットなしで運転しています。私も道路を横断しましたが最初は度胸がいりました。そのうち横断している人を観察しながら要領を覚えました。ガイドが教えてくれた”走らない、止まらない”の意味が体で理解できました。交通事故に合わずに帰れて本当によかった。
この人達は何をしているのか帰るまで理解することができませんでした。現地のガイドに聞くと「走っている単車は仕事をしているんだ」と答える。なるほど一部の単車、自転車は長い建築資材を積んで走っている物、前が見えないぐらい荷物を運んでいる物を見ることができる。また単車のタクシーもあるとの事で人も乗せて商売している人もいるらしい。街中を歩いていると言葉はわからないがこの単車タクシーの客引きに声と掛けられることがしょっちゅうあった。
また路上では物売りが多くて朝の食事から日常品まで何でも買うことができます。籠一杯の果物を天秤棒で担いで売り歩いている人、洋服を歩道に並べて商売している人、ジュースなどの飲み物をフェンスに立てかけて商売をしている人、まちまちのスタイルで商売をしている。何をしているのかわからないが仕事をしているらしい。
ベトナム戦争後30年が過ぎ、街の中はほとんど戦争に付いて感じられることはなかった。街中は若い人で戦争を知らない人々であふれていました。近い将来この国も経済発展が進みこんな単車があふれる風景も見られなくなるだろうと思いながら、活気あふれるホーチミン市を後にしました。
タイ・バンコク H16年12月
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タイ、バンコクの定番きらびやかに金で装飾された寺院も印象的だったが今回は街中の風景を紹介します。バンコクの12月は乾季で最も過ごしやすいシーズンです。朝ホテルのチャオプラヤー川沿いのオープンカフェで朝食を取ると半袖では寒さを感じるほどでした。しかし日中は35℃近くまで気温が上昇します。それでもほとんど汗は掻かなくて日本の夏に比べて快適に過ごすことができました。逆に雨が降らないのでスモッグは最悪、バイクに乗っている人、交差点で交通整理をしている警察官もマスクが必需品です。この時期は気管、肌の弱い人は健康を損なう人があると聞きました。ホテルの部屋からみる街並みも朝と昼では違って見えます。昼間見えていた数キロ先のビルが朝起きると見えなくて不思議でした。これもバンコクのスモッグの仕業と聞きました。このスモッグの原因の1つに交通事情があるようです。夕方ともなると道路に車があふれて大渋滞が発生する。この車の渋滞を縫うようにツクツクとバイクがバンパーすれすれに割り込んでくる。まず日本にドライバーは運転できないでしょう。
バンコクのもう1つの印象は路上の台所です。道路の両側にある歩道はバンコク市民の台所と言った感じです。食べるものは全て路上で料理されています。大きな鯉、鯰まで黒い煙を出しながら網の上で焼かれています。スープもお客さんの要望にあわせてビニール袋に入れて、器用に輪ゴムで止めて販売されています。タイの台所は路上だけではありません。チャオプラヤー川の下流に出来た三角州を中心に発達したバンコクは運河の街でもあります。道路と同じように運河が作られて船があればどこにでも行けます。この運河を利用した小さなカヌーの上も台所です。小船の上にコンロを持ち込んで串焼きの料理です。運河を通行する人々、観光客、両岸の高床民家の住民もすべてお客さんです。この路上(水上)台所も熱帯の生活の知恵だそうです。材料を買って料理するより、食べる量だけ買った方が経済的だそうです。もし材料を買って調理しても、あまった材料はすぐに腐ってしまい無駄になるそうです。しかし最近では冷蔵庫が普及しはじめて少しずつ台所を持つ家庭が増えだしたと聞きました。
美しいタイの寺院と路上台所が隣合わせで、その間をバイクがすり抜けているコントラストが素敵なバンコクでした。路上に漂う香辛料と油の臭いに市民のバイタリティーを感じた旅でした。
川村記念美術館 H15年4月
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先週の土曜日川村記念美術館に出かけました。土砂降りの雨の中、それでも何人かの入館者があった。千葉県に1年半も生活していたが、千葉県佐倉市にあるこの美術館の存在すら知らなくて予備知識もありませんでした。入館して有名な画家の作品が展示してあるのに驚きました。レンブラント、モネ、ピカソ、ルノワール、シャガール、ピカソ、それに私の好きなローランサン、カンデンスキーの作品まで揃っていました。特にシャガールの大作「ダビデ王の夢」は迫力があり、独特の青、赤の原色を大胆に使い、多くの人物、動物のデホルメされた作品に見とれました。
また当日は特別展示の「ヘンリー・ムーア展」のオープニングの日でラッキーでした。イギリス出身のヘンリー・ムーアの大きな野外彫刻はあまりにも有名ですが小さなミニチュア(大きな作品を作るための準備模型)を数多く作って研究していたことは知りませんでした。彼のテーマは「母と子」「自然と人間の調和」で彼が作品を作るのに自然から集めたコレクション(貝殻、石、木の枝、骨)も展示してあった。テーマを決めたら現場で現物(テーマ)をよく観察することからスタートする。そこから自分のテーマにあったエキスを取り出すのは作者の研ぎ澄ませた感性だと思った。大きな野外彫刻を作るための習作用、イメージを膨らますための小さな絵、スケッチも多く展示してあった。ここでも普通の藁半紙に描いた作品のユニークな材料に感心した。紙の上に油絵の具、パステル、水彩絵の具、鉛筆、コンテ等何でも使って不思議な効果を出していた。一般常識では考えられない道具を使って最も自分の表現したい作品に仕上げているように見えた。
この美術館は展示されている作品が素敵なことと同時に場所も広大な庭園の中にあり周りのロケーションも落ち着いたところです。当日は桜、モクレンの花が咲いているのが美術館の窓からも見えました。また庭園内の湖には白鳥、鴨が泳いでいました。大日本化学総合研究所と併せて9万坪の大きな敷地の中にあります。
久しぶりにすがすがしい気持ちになった1日でした。
町屋が連なる静かな因幡街道。人口一万人の山峡の町・智頭町。地域の方々のほんの遊び心で作った雪燈篭が今、静かなブームを呼んでいる。雪の明かりが旅人の心を癒し、幻想の世界へと誘ってくれる雪祭り。私の心をとれえて離さない。
地域の草の根活動で、この町も活気がよみがえったという。古くから、杉の町として栄え、各家の軒先には杉玉が揺れている。
人々のざわめきの中で、かがり火がゆっくりと街道を包む。中国山地の冬の風は冷たく、ほおを打つ。だんご汁二百円の露店で、地域の人たちに溶け込む。素朴な味に郷愁を覚えた。人情も厚く、なじみやすいのは、山陰生まれのせいでしょうか。
智頭の美しい空、草木、流水のイメージを表現したいと、染色活動に励んでおられる藍染めの作家に出会う。風土が育てた透明感のある藍を手にした時、また、新しい文化に触れた思いだ。
「街道の杉玉ゆれて春立つや」
ゲルヘンキルヘンと言うドイツの町を聞いた事がありますか?この町はかってドイツの重工業を支えた炭坑の町です。しかし日本と同じで20年前から始まった炭坑閉山が進み、ついに昨年全炭坑が閉山してしました。この町を注意して見ると炭坑のシンボルである停止した「櫓とボタヤマ」が当時の面影を残している。
今では炭坑を見る事が出来ないが、ゲルヘンキルヘンから車で20分ぐらいのボーホムの「炭坑博物館」で当時の様子を知ることが出来ると言うので早速出かけた。地上の建物と櫓の大きさにびっくりしたが中に入るとエレベーターで地下の坑道に入る仕掛けだった。中は2.5kmにおよぶ坑道が張り廻らされて鉱山で使用されていた機械が何時でも作業出来る状態で設置してある。中でも掘削機械は小型のハンド式のものから大型のトンネル用の削岩機まで設置してあり、一部の装置を実際に稼動してしながら説明するのでドイツ語を知らない私にもある程度理解できた。
坑道の説明が終わると後は博物館の展示室に入った。ここでは石炭が出来るまでの説明とか世界のの炭坑の歴史等が展示してある。この中でも興味を持った1冊の本が展示してあった。「地底の客人」高口岳彦著、1958年にここに来て石炭掘りをした経験を本にまとめたものでした。ショウケースに入っていたのでページをめくる事は出来なかったが鉱山での厳しい労働を書いた本のようでした。私の友人に聞いたがポーランド、トルコ等近隣諸国から多くの労働者が来ていた事はしっていたが日本人労働者が来ていた事は記憶にないそうでした。日本語は勿論、英語のパンフレットもなく、しかも1週間滞在していても一人の日本人にも会わなかったここで、40年以上前にこの鉱山で働いていた日本人がいたとを考えさせられる旅でした。
誰でも自分が好きな色がある。真白なキャンバスに向って一筆目を入れる時は緊張する。何も描いていない白のキャンバスは無限の可能性を秘めている。私のようなアマチア画家でもどんな絵に仕上がるだろうかと想像しながら、素人なりにワクワクするものです。このキャンバスに塗る絵の具の色も時々で変わったようにおもう。若かった頃は特にオレンジ色が好きでよく使用した。オレンジでも赤に近いパーミリオンヒィーからイエローライトまで幅広い色が対象です。その中でも発色が良いカドミュームオレンジは大好きだった。一時期グリーン系が好きだったが、現在では青系統の色が好きになっています。今では絵の具箱の中は従来のオレンジ系の絵の具に取って変わっている。青の絵の具も明るいホリゾンブルーからセルリアンブルー、さらに黒に近いプルッシャンブルー、私の大すきなコバルトターコイズ等非常に幅が広い。青色系統の中でも印象的な色が深い青のインディゴです。この色に出会ったのは北陸金沢に出向中でした。兵庫県の瀬戸内側で育った私に取っては北陸の冬は印象的でした。11月雷と共にやってくる冬の季節、全ての風景をモノクロトーンに変える1月の雪の季節。このモノクロの世界の中で最も印象的な色がインディゴだった。雪の季節、鶴来の堂々とした山並み、民家の周りを取り囲む大きな森のような木も全てインディゴと白の世界になる。この出会い以来私の絵の具箱の重要な仲間にインディゴが加わりました。絵の具箱の仲間に入った理由にもう一つあるます。私が仲間にしていただいた水彩画教室の先生もよく使われていました。この色は不思議な魔術を持っている。青色系との組合せがぴったり来るのは勿論、わたしが最初に好きになったオレンジ系との混合色ともよく調和します。今では私の絵でなくてはならない色の一つでベースの使用から仕上げの色まで幅広く活躍しています。今だはなくてはならない大好きな色になりました。
真っ青な夏空になると三年前デンバーを訪れた時のことを思い出す。忘れもしない7月27日フレンドシップ大阪クラブのメンバーでデンバーへと向う。ホームステーしながらの旅は二度目だが不安はいつになくある。義母一人置いて10日間も留守をすることも、女は決断までが時間がかかる。さあ過疎の村から小さい体に大きなリュックを背に出発。そんな不安をよそに予想外のことにぶつかって周りの人をヒヤヒヤさせてしまう事になる。古い新幹線の時刻表を見ていたのだ。つくづく年を感じた。
気候条件の良い旅というのは少々のアクシデントも吹っ飛(本当はすごい迷惑をかけた。)遥か向こうに見えるロッキー山脈も快く歓迎してくれた。
[ありがたきロッキー山脈に雲の峰]と一句、州をあげて自然環境を守り保護しているデンバーの景観、今我々も環境問題は身近な事として取り組んでいるが、住んでいる一人一人の理解と協力があってこそ保てるものだと思う。デンバーの人々の厚き熱意なのかも。様々な人種,様々な価値観、それらを受け入れていく人々の心の広さにも共感しました。私達がこれからお世話になるダメラウ夫婦を紹介します。仕事はすでにリタイアされていて、週二日間のボランテアをしながら、趣味で旅を楽しんでいる珍しい一家です。訪れた国は100ケ国近い。ゲストルームには地図を中心に旅先での思い出の品が丁寧に飾ってあり、おそらくこの空間がダメラウ夫婦にとって心の安らぐ場所であると察する。説明される顔は誇りに満ちあふれていた。現役時代奥さんはバイオリニストとして、御主人は州の都市計画作りに従事され活躍されていた。私達は訪れた記念に、主人は趣味の油絵、私は粘土で作った雛人形をプレゼントした。手作にこだわったのは温かみが伝わるからとの思いつきで、早速飾りつけ上機嫌な二人。異文化が仲間入りしたことに私達も同様喜んだ。この会の主旨はお互いの生活文化の交流の場であること、高額な手土産は避けて特別なもてなしは避ける。ホームステーの進んでいるアメリカは理解されているが、我が国はまだまだ浸透してない。
初日から時差ボケに悩まされかんじんの時寝こんでしまい、ホストの方に心配を掛けてしまう夜になるとギラギラと目が輝き、おまけに日本食でないと受け付けなくなり、スーパーをウロウロするほどの空腹感、主人は何事も冷静に対応している。それどころか性格が変わったようにギョークを飛ばし弱きは見せない。なんとか時差ボケが解消される。最小限にまとめたバックから浴衣をだして着てみる。若くないモデルは映らないとわかっていてもここはアメリカ、厚化粧でより日本的に演出する。テイセレモニーならやれるぞ。さっそく奥の方から茶道具を持参、以前来日された時に買った有田焼きであると聞かされる。テイパックになっていたから納得、納得。これから有田焼きも食卓に並ぶと思うと成功。そして奥さん曰く、「山本山のお茶を飲んでいる」と一言、食文化も変わったものだ。次に計画したのは折り紙、新聞紙を使ってかぶとを作ろうと発案、銀紙を貼ると強くみえるのに自信を持ち、パーテー用にたくさん作って盛り上げようと気持ちも弾んだ。こういう作業は女である私が出番である事に充実感を感じる。
メンバーの一人で書道家の人がいた。その方はいたる所でデモンストレイションをされたとの事、しっかりと日米親善大使としての役割を果たしておられる。これが本当の草の根大使なのかもしれない。
ボランテアの進んでいるアメリカに立って、どうしても見てみたいのは福祉の施設であった。ホストの方もよく利用されているとの事。巨大で近代都市の国らしく、一歩入ればゴルフ場、広々としたプール、自然の空間もたっぷりと、比較にならないほどのスペースだ。一カ所の見学なので全ての施設が整っているとは定かでないが、惜しみなく病院の事務にボランテアとして働く奥さんの姿が目に浮かんだ。
さてダマラウ夫婦も旅を通して多くの交友関係に恵まれていた。最初に出会ったのは68才のリリーさん、真っ黒に日焼けした顔にアイシャドウをたっぷりと、陽気なおばさんとして目に入った。午前中はゴルフに誘う。ハーフであるがとことん球を狙う、足の筋肉もモリモリ、ホームも気にせず体が動く限り振る。豪快な笑い、少々オーバに表現してはウインクし私の事を気ずかってくれる。横にいても疲れないのはアメリカ人気質かな、すべてがナイスショットだから。午後コロラドで一番古いホテルを案内して下さる。100キロ近い距離をルンルンと飛す。道路事情も良く、あの広大な土地で生活するのには車も必要不可欠なもので、80代の人でも平気で運転している。私達とは二周りも年輩のリリーさんの運転には、正直いって気をつかった。ハードなスケジュールを、こなしてくれたお礼にブレスレットをプレゼントした。自分の体は自分で守る、独り暮らしのリリーさんの心情に触れたようなおもいでした。後に名古屋で再会したが変わらぬ陽気さにホットした。
名前を忘れたがリリーさんとは対象的なkさんのことに触れてみよう。高齢にも関わらずホストを務められていた。夕食を兼ねての交流をしようと計画の中、ダマラウ夫婦共に訪ねました。入るとメンバーの方が少し困った様子、聞くところによるとkさんはご主人を亡くされ、その寂しさから精神状態がうつになったらしい。高級住宅の一角にあり見るもの全てが目を見張るものばかりのkさんの部屋、こんなに満たされていても心が満たされないのかと自答自問する。メンバーの方は喜んでもらおうと日本から花嫁衣裳まで。私達にはとてもおもいつかない事、肩に掛けてカメラを向けると笑顔ももどってきた。それから日本の相撲をビデオで披露されるメンバーの気配りに感心した。大勢の人に囲まれると元気がでてきたkさん、一斉に和やかな夕食会になった。こんな状態であっても、手作りの料理で歓迎してくださるkさんの心温かさを改めて見つめ直した。80才の手で御孫さんに服を縫いながらの楽しみもあるとの事、しかしこれからも地域の温かい手を必要とするであろう。寂しい旅の別れであった。
異国で触れた高齢化社会のほんの一端、様々な人間模様が繰り広げられていく様子をいつまでも私の心のアルバムとして残したい。アメリカ社会の模範として第二の人生を歩んでおられるダマラウ夫妻、まるで人生が旅のように今も、旅先から必ず便りをくださる。三カ月後には我が家に、そして。アフリカ、オーストラリア等
2年前ホームステイをさせていただいたボブさんからの1999年の忙しい計画が届きました。彼らがすでに100カ国以上も出かけた事が理解できます。クリスマスに届いたE―メールをそのまま掲載します。
Dear Fumio and Saeko:
Surprise! We now have a home computer (Gateway G-6-400, +
HewlettPackard 722C DeskJet printer and HP 5100C scanner) and
have E mail via AmericaOnline (AOL)/ Betty spends a lot of time
communicating via E mail with our daughters in San Antonio, Texas
and Montreal, Canada. She is now preparing address labels for the
Christmas cards and letters we'll be sending out in afew days.
A delegation from the Aichi (Nagoya) Japan Friendship Force Club will becoming to Denver for a 1 week
stay in early February. We are disappointed to find from a
preliminary list, that our Obu(Nagoya) exchange hosts, My
furiends, (you talked with them on the telephone) will not be
coming. Betty and I will be home hosts, but do not yet have the
names of thepersons who will be staying with us. They can't be as
nice as you were--you were our all-time favorites.It is beginning
to look a lot like Christmas. There is snow on the ground. I used
our snow Blower to clear our sidewalks this morning. We have had
an unusually warm, mild autumn season. I was still cutting grass
with our lawn mower in late November. That usually ends in
mid-October.The year 1999 looks like a busy one for us. Our
tentative schedule includes:Montreal, Canada, l week in late
January to visit our daughter and 2 grandchildren. Home hosts, 1
week in early February with Aichi Japan Friendship Force guests.
Egypt, 2 weeks in early March, including 1 week with home-host in
Cairo and 1 week on Nile River to Luxor, Aswan and Abu Simbel, +
2 day stopover on our way home in Vienna, Austria Lancaster
County, Pennsylvania, l week home-stay in mid-+ visit to Betty's
brother in State College (Penn State University) Pennsylvania.
We'll probably drive out there Western Australia--2 weeks with l
week home stay in November.We hope that you and your family
members are healthy and happy.
Your Denver friends, Betty and Bob Damerau
Friendship
Force Clubは目次のフレンドシップを参考にして下さい。
万珠沙華の満開となる秋空の下、35年振りの同窓会に出席しました。青春の淡き夢を抱きつつ列車に乗り込んだ後姿も、今は一社会のリーダーとして、それぞれの地域に根づき活躍されている方々、限られた時間の中ゆっくりと語り合う事はできませんでしたね。顧みますとあの頃のハングリーな社会が、今の私達を育ててくれたような一面にも出会う事ができました。仕事の都合で出席できず、電話で近況を報告する方の故郷への思いに胸を打たれました。
この一時は、元気で会えた感動と、故郷という力強いエネルギーをいただいたような気が致します。時の流れとはいへ伯太の自然も少しずつ失われつつありますが、ひたすらに泳いだ伯太川の澄みきった流れ、野苺を採りに山々を駆け回った少女時代、過疎の村にも子供達の歓声が響いていました。今、私の脳裏を走馬灯のように駆け巡っていくのを覚えます。亡父の墓参りを兼ね、懐かしの畦道を歩きながら思い出でを辿ってみました。
故郷は遠くにありて思うものでなく、帰つてみるものだという事を実感しました。幹事として受け入れを計画して下さった地元の皆さん、心の広さを感じます。有難うございました。これからの私の人生も変わりなく、故郷を原点に頑張ることができたらと願つていす。歴史的にも文化的にも高い広瀬の街並を名残惜しく後にしました。
再会の日は万珠沙華満開なり
鰯雲同窓会の帰り道
故郷のなまり懐かし秋の宿
秋の夜同級生連なりて
大山に揺らぐすすき野なごり尽きぬ
Saeko
Tobioka
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