ヒストリー
両国フォークロアセンター:伝説のデルタブルースマンの「サンハウス」や「ライトニン・ サム・
ホプキンス」の映像が、あるいはビート詩人の「アレン・ギンズバーグ」「ローレンス・ファリンゲティー」、
そして知られてないが「ボブ・ディラン」のDON'T LOOK BACKのー部が70年代の初頭日本で初めて
映像(16ミリ)で動いたのは、ここであった。 「ランブリン・ジャック・エリオット」が1972年に、隅田川
左岸にある、ここに寄り、「トム・パクストン」が、初来日した20年前(1986年)、バール・アイビスの唄を
歌って、ギターを弾く、「デイブ・バン・ロンク」 (2002年2月10日没)が1989年、夫人とー諸に来て寿司
を食べ雑談するパーティーがあったり、といった風に、伝説の数々がある、フォークロアセンター。今年
で37年が経つ。その精神が日本中へ、そして アジアへ。
*日本の音楽史でもユニークな活動を続けてきた、老舗の両国フォクロアセンター
1963年、ピート・シーガーが世界旅行中に日本に立ち寄った。国崎清秀(当時、高1)は、
ピート・シーガーと、その家族に会う。東京・有楽町のビデオ・ホールを貸り、国崎清秀の主催
(FBCMUSIC)で、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)の映像が日本で初めて、−般に向けて上映
された(1967年)。ビデオ・ホールは戦後、ジャズやウェスタンの催物のメッカのーつであったところ。
これは、日本の「もうーつの<フォーク・ミュージック・シーン>」と言えるかもしれない。そして
1970年に両国フォークロアセンターがOPENする。
(from BLUES MARKET NO.20 2000 March/April )
*---等身大の見方をすれば、そこには<70年代の青春像>が発見できるのではないか
ということなのである。その仲間たちとの出会いのまず皮切りは、すでに何度か触れてい
るように「両国フォークロアセンター」での運命的な出会いだった。
( from 高円寺/修子伝説 第三書館 1998 pp175 )
「・・・ コミュニケーション・スポットとしてのロック・ハウスとライブ・ハウスだった。
その先駆的存在は紛れもなく、70年にオープンした「両国フォークロアセンター」と70年10月
に吉祥寺にオープンしたフォーク系居酒屋の「ぐわらん堂」だろう。」
(from 「AERA in FOLK」 アエラ臨時増刊 NO.16 4/5号 2006年
定価 780円
朝日新聞社 あれは、ロックな春だった! P.106 ライブ現場の視点
から、日本のロックはかく動いた 増渕英紀 )
*<両国フォークロアセンター>
・・・波止場などの古い空き倉庫をギャラリーや小劇場に活用する動きは世界的に学園
紛争が吹き荒れた1970年以後、ニューヨークのソーホー地区から広まったといわれる。
日本も隅田川河口にいち早く登場。当初はヒッピーらのたまり場という感じもあったが、
若者のエネルギーがもともと劇場的効果を持つ空間を活性化し、ハイファションタウンに
なったところも珍しくない。
(朝日新聞夕刊 1987年2月16日(月) (文化) 水、そして都市 3−再生へ動く江戸
文化のコア − 活性化なるか問われる民度 /ドラマ生む非日常空間 より 陣内秀信
(法政大学助教授)
注) ヒッピーのたまり場 → 両国フォークロアセンター?
*「第一回 フォークロアセンターうたの会」 1971年12月 於;キッドアイラックホール
出演 あがた森男、本郷村青年団(ジャグバンド) ほか (from Tokyo Folklore Center
Occasional 発行 1972年12月 )
*
両国フォークロアセンター − ここでは時間が止まっています。まるで、つげ義春の作品
世界に迷い込んだような錯覚に捉われます。・・・癒し系スポットの過激派。いっぺん足を
運んでみませんか。
( from
池戸タクのホームページリンク 2003)
*
両国フォークロアセンター: JR総武線両国駅南口下車、徒歩10分
両国に位置する歴史的ライブスペース。蕎麦屋の2Fにあり、決して広くは無いが
個人画廊の雰囲気が漂う。不定期にイベント有り。とにかくー度足を運ばれたし。
日本のブルース、フォーク等の黎明期の話、資料多し。 ( from
Radio Blue ブルースを弾き語るROIKIサイト 2004)
* ダンさんのお話 その3ー話し手/永島慎二 聞き手/グラス・ポッパーズ 場所/
フォークロアセンター ・・・その日、永島さんと両国えきでおり、フォークロアセンター
にゆく途中、つい先日かっての漫画少年が15万で売れたというのを聞き、そろい
で僕はCOMをもう売ろうと思うんだけどと云うと、漫少のこともあるし、売るのをやめたら
と云われたので僕はCOMをまだ売らないことにしたのです。
(from
Grass Hopping Vol. 4
1974年11月21日 発行 定価 50円 編集人
宇佐美和夫 発行人 中川まさ子 発行 バッタ村)
*「両国フォークロアセンター」ですね?・・・・・あそこの店主は、アメリカン・フォークに
造詣が深く、物凄くよくアメリカのフォークのことを知っております。・・・
( from なぎら健壱のサイト 2005年3月3日)
* 「クィック ジャパン NO.55」 のコラム欄「QJC」で編集長が「ナンダロウ〜」
を紹介してくれた(192ページ)。彼と最初に会ったのは「両国フォークロアセンター」
だったらしい。・・・ (from ナンダロウアヤシゲな日々 2004年7月22日)
*
「たまの正体」 両国フォークロアセンター 1982年7月 両国フォークロアセンター
(Map 8)で まだ10代の知久さんと石川さんが出会う、その後、ここで出会ったのが
柳原さん。3人が1回のつもりでやった即席バンド「かきあげ丼」が結成のきっかけ。
バンド名を「たま」とする。
(from
週間Tokyo Walker Zipang 1990年 4/25〜5/8 GW 合併号
たま大特集 250円 角川書店)
* 例会はその後、両国のフォークロアセンターに場を移して80年代まで続けられ、
また有志による演奏会も継続して行われリスナーとプレイヤーの交流も進んだが、
90年代に入ってアイリッシュ・ミュージックがポピュラーになる頃にはトラッド愛好会
は遠い記憶と化していた。・・・(from
レコードコレクター誌 2004年9月号 pp38
ブラック・ホークと松平さんと トラッド愛好会のこと 白石 和良)
*午後の名古屋は快晴です。 とにかく暑い。−−−。山尾三省や部族のこと
からリンクして日本のライブハウスについて考えた。確か1974年の暮れだったと思う。
両国のフォークロアセンターという店で東北北海道のライブハウスリストってのをオーナー
の国崎さんに見せてもらった。当時は東京でも西荻ロフトを皮切りにライブハウスが次々に
出来はじめた頃だった。京都でも拾得やたくたくが出来た頃だ。・・・・・。
(from 清水昶の新俳句航海日誌 18016 2003年9月7日)
*
・・・・・1960年代後半の東京フォークシーンですが、特にぼくが住んでいた築地周辺
では、ウディ・ガスリー、ジャック・エリオットを聴く音楽フアンが多く、先に触れました東京
フォークロアセンターの国崎さんを媒体として、日本語で唄うフォーキーが生まれました。
つまり高田渡さんや、シバ、 あがた森魚さん、なぎら健壱さんなどがこうした流れから
誕生したのです。・・・・・
(from な〜んちゃって通信 投稿 鈴木カツ 3/19/05)
* このコーナーは音楽の音声ファイルを少しずつ紹介していくつもりです。この音源
データーアップの主旨はぼくはユネスコの視聴覚ライブラリーみたいなものだと思っています。
MUSICの第ー弾は秋田市で現在文筆業の仕事をしている「としぼん」さんのフォークソング
です。東京は両国の「フォークロアセンター」でのライブです。この時のライブはとしぼん
さんが作った8mm映画「遊覧映画」を上映しながら演奏するというスタイルでした。
今から30年ほど前のことです。
(from FUQUSUKE SITE 2002−2004 MUSIC)
* 当時、ライブのできる先駆的な場所といえば、両国に「フォークロアセンター」っていうのが
ありました。ぼくの先輩の国崎清秀さんがやっていてアメリカのルーツっぽいものが中心。
そこにライブのできるようなスペース、といっても蕎麦屋の2階のそんなに大きくない部屋が
ありました。弾き語りが一人で歌う分にすごくいい場所でしたけれどせいぜい15人か20人
くらい入ったら一杯で、普段は普通の部屋として使ってた。国崎さんは珍しいフィルムをずい
ぶん持っていらした。ボブ・ディランとかウディ・ガスリーとかね。それで上映会をやってらした。
ほかにも吉祥寺に「ぐぁらん堂」という店があって、「フォークロアセンター」より広い飲み屋で
そこにもステージがありました。でもやっぱり弾き語りがメインでした。渋谷の「青い森」はもう
少し後にできますから、この2軒ぐらいでほかにはありませんでしたね。ましてやバンドが入れる
っていうのは、完全にエレクトニックでなんとかできたのは、おそらく「BYG」が最初だった・・・・・
(from 風都市伝説ー1970年代の街とロックの記憶から 北中正和
音楽出版社 2004年4月発売 第一章 1971年、渋谷百軒店の奥から
P,53 石塚幸一 <練習場になったこともBYGが果した役割の一つ> )
*33年前の1971年夏。軽井沢をハードドライブする人たちがいた。岩本、小森谷、国崎
の3氏は絶好のスポットを発見。ここに日本で初めてのブルーグラスフェスが開かれること
になる。それは、関東ブルーグラス隆盛のルーツになるもので、日本のブルーグラス史の
重要な瞬間だった。・・・「両国フォークロアセンター」を開き、活躍していた国崎清秀氏との
交流を通じながら色々な人達と知り合い交流の輪が徐々に広がっていきました。その頃
来日したマイク・シーガーの公演も交流を促進しました。・・・まずは場所探しに小森谷、
国崎氏と私の3人「夏涼しい軽井沢でも行って見よう」と言う事になりました。・・・こうして
1971年7月24日〜25日、軽井沢「レイク・ニュータウン」の芝生広場で日本で初めての
ブルーグラスフェス「第1回軽井沢ブルーグラス・フェスティバル」が開催されました。
(from M.S 誌 2004年7月号 表紙:ライ・クーダー 文 岩本健)
*
フォークロアセンターという場所、はじめて知りました。HP覗くと、なにやらまた味のある
スペースのような。
個人的に日本のフォークは,今まであまり触れてきた事が無かっただけに、かえって興味を
そそわれます。たいした用事がなければ、参加してみようと思います。野阪昭如の曲歌おう
かな。いやー、情報ありがとうございます。飛び入りは、こういう出会いがあるから楽しいです。
(from 防波堤 鳩山浩二ホームページ No 126 2005/5/13 )
* 昨日は両国フォークロアセンターでのイベントに参加をしてきました。私がフォークロアに
最初に足を運んだのは中学生の時でした。ここ数年は殆ど催物が無く、少し寂しい思いをして
いました。両国フォークロアセンターは今年35歳。お蕎麦屋さんの二階にあって、その部屋
から歌います。一見さんはちょっと驚くかもしれません。
看板に「FOLKLORE CENTER」と謳っていますが、私にはカテゴリー出来ない美味しい
音楽がライブでもスピーカーからでも聴けます。4〜5人が精一杯なスペースだけれど、
この日は−戸康太郎さん、鳩山浩二さん、やまだたかひろさん、私に四人が歌いました。
古い友人のyueさんも来てくれました。総数で9人。大盛り上がりです。ここはいつも、緊張
とも情とも云えない、何だか神妙なものを感じます。泥臭くて、変温動物の体温のように流動的。
フォークロアの様なお店は少ないと思います。
( from 夏目 涼 時折の記録 Notes 2005年5月29日 )
*知らない人ばっかりだったんだけど、フォークロアセンターはとても懐かしい感じの空間だった
ので、気持ち良く歌えました。夏目さんに感謝です。フォークロアセンターのマスター、聴いて
くだすった皆さんも。また行きたいなあ。
最後に渡さんのお兄さんがいらしていたのに気ずかず、兄ですと名乗られた時は皆驚きました。
渡さんのお兄さんは物静かな方だったけど、雰囲気や言葉に強い芯みたいな物を感じました。。
(from やまだたかひろ BBS&日記 2005年5月29日 )
*先週は3回もリーディングしました。
いろんな場所にいけるし、いろんな人にも会う。いろんな喫茶店にいく。
おもしろくて仕方ない。もっといい詩を書かねば!
初めて両国フォークロアセンターへ。ディープです。でも落ち着いて,朗読とウクレレの弾き語りできました。
この日は午前は両国で働いて、午後は東京江戸博物館、夜はフォークロアセンター。
縁を感じた!
(from 丸山綾一くんのサイト 2005年5月)
*−えーと僕が上京したのは今から25年も前だからいろいろ状況も違っているかもしれないが
、まずは「誰でも数曲ずつ新人が歌える」というライブハウスが何件かあって、それに出た。
僕の場合よく行ったのは北千住の甚六屋(現在廃業)両国のフォークロアセンター(営業中)
あとは荻窪のグッドマン(営業中)。ここらあたりでたまのメンバーを含む今も時々一緒に
活動している変な歌うたいに出会って今日に至っている。−−−
( from たま 石川浩司 ウヒュヒュヒュお悩み相談室 7 2005年7月1日 )
*
2005年10月15日、東京フォークロアセンターに行ってきました。隅田川に程近いお蕎麦屋
さんの2階。階段を恐る恐る上がっていくとオーナーの国崎さんが声をかけてくれる。
店内は天井一面にポスター
が貼ってあり、壁にはバンジョーやギター、過去の出演者の名前、
写真、ブルースやフォークシンガーの
ポートレイト、貴重な書籍などが陳列してある。
1983年生まれですと言ったらとても驚かれた。CDやレコードをかけたり、生演奏(もちろん
ディランの曲)を聴いたりする。国崎さんに貴重なお話を聞かせていただく。ディランを中心に、
60年代、70年代のフォークの話、アメリカでのフィールドレコーディングの話、デイヴ・ヴァン・
ロンクやハリー・スミス、アラン・ロマックス、イジー・ヤングの話などなど。
アメリカなんかだとそれこそ国会図書館がフォークやブルースといった文化をきちんと継承
している。ー米国国会図書館フォークライフセンター。
いや、冗談抜きでものすごい貴重な資料が揃ってるんですって。 あの場所を保存しない
なんて文化の損失ですよ。
( from
慶応義塾大学4年生のブログ、「ME AND MR、 BOB DYLAN」 - オーケストラ
でトロンボーンを吹いたりアメリカの詩や小説を読んだり、ギターを弾きながら歌ったりしている
学生の日記ですー
2005年10月15日 )
*ひまわり通信より
カルメンマキ VS 柳原陽一郎
2006年6月3日(土) 於;アサヒ・アート・スクエア(墨田区吾妻橋)
・・・
1度も来た事がなかったので、浅草がこんなに遠いと思っておらず(上野のずっと先だったの
ですね…)、1時間半で余裕と思っていたら、銀座あたりで既に開場時間を大幅に過ぎていました。・・・
この浅草の近くの、両国フォークロアセンターが、柳原陽一郎さんの歌い始めの場所、という
話をしていました。ファンにはよく知られている内容ですが。昨年の年末ライブでも、「たま」の結成
のいきさつをアドリブで歌っていましたが、最近になってようやく、そういう昔の話をさらっと話すよう
になってきました。
・・・浅草にせっかく来たのに、時間が無く、どこにも行けませんでした。帰りに吾妻橋から夜景を
撮りました。屋形船も見えました。アートスクエアのオブジェも。
( from 八月の雨猫
ブログ 2006年6月6日 )
*押尾コータローのサイト?
Etta Baker
死す。93歳。「エタ・ベイカー」という名前がピンと来る人は少ないかもしれない。でも、
僕くらいの年齢なら片岡義男「気まぐれ飛行船」(FM)のテーマ音楽のギター曲の作者、
プレイヤーだったんだといえば、「へぇ〜」くらいの反応が返ってくるのではないかしら(注1)。
本格的にプロとしての活動を開始したのは60歳をすぎてから(注2)という、押尾コータローも
びっくりなおばあさんギタリスト。合掌。
One-Dime
Blues/Etta Baker (Rounder)
1992/02/14
オリジナルでは上のがやっとのソロ1stアルバムになる。まだ僕は聴いたことがない。たぶんアル
バム表題曲のOne-Dime
Blues が「気まぐれ飛行船」のテーマ曲じゃないかしら。僕の記憶だと
One-Dime
Dreamってタイトルだったような気がするんだけど。うーん。
まぁどちらにしても録音は異なるから、まったく同じ演奏は期待できない。何て云ったって、40年近い
隔たりがオリジナル録音からあるんだもん。
Railroad
Bill/ Etta Baker/ (Music Maker) 2005/04/12
注1)
だったと思うんだけど、書いてからだんだん自信がなくなってきた。間違ってたらごめんちょ。
学生時代、両国のフォークロア・センターでレアな録音ということで聴かせていただいたのだけれど。
79年か、80年。そのときに聴かせていただいた録音は、たぶんCDになってないんじゃないかなぁ。
どういう録音だったか、てれっと忘れちゃってる。はれほれひれ。たぶん50年代の録音でオムニバス
のLPだったとは思うんだけどぉ。
注2)
彼女の活動歴の詳細は知らない。プロになる前からいろんな影響を周囲に及ぼしていたらしい。
たぶん、徐々に詳しい人たちがブログなんかで取り上げるのではないかしら。
( from 極私的脳戸/日々の与太 2006年9月27日 )
*「朗読しました〜」
昨日、両国にあります「フォークロアセンター」でアーティストさん達に混じって朗読して来ました〜。
図書館やボランティアの他にそういうスペースでの朗読は初めてだった。
由緒ある所で朗読をさせていただき嬉しかったです〜。
詩と文章、二種類読ませていただきました!
(from −とのはあまいね サイトより 殿 あまねさん(女性 )
2007年2月25日 )
*週の一枚「日本に来た外国詩」ー高田渡
【Fuku】 2006−1−02
大晦日12月31日付けの朝日新聞の天声人語で、昨年4月に急逝した高田渡さんへの追悼文とも思える一文が掲載されました。昨日1月1日が彼の57回目の誕生日で、それにちなんでというわけでもないのですが、"国が認めない人間国宝"と称された彼の作品から近年の名作をご紹介します。
私は高校生の頃、いわば彼の"追っかけ"みたいなことをしていたことがあり、吉祥寺の「"武蔵野火薬庫"
ぐぁらん堂」、両国の「フォークロアセンター」、高円寺の「次郎吉」、青山のVAN99ホール、中野文化センター、池袋のシアターグリーン、そして大阪天王寺の「春一番'74,'75」などなど、いろんなところで渡さんの歌と喋りに常に触れてました。ぐぁらん堂では、「高校生がこんなとこ来ちゃいけないよ」と言われながらも何度か奢ってもらったりしたこともありました。
渡さんは当時の他のシンガーソングライターとはちょっと違って、職業作詞家ではない他の方の詩に自分で曲をつけて歌うというのが特徴で、そのおかげで、昭和初期の演歌師"添田亜禅坊"や沖縄が生んだ"山之口獏"、そして、"ラングストン・ヒューズ"、"ジャック・プレベール"、"バーナード・フォレスト"などこれまで触れたことのなかった内外の詩人達の世界を判りやすく我々に伝えてくれました。でも、かといって他人の詩ばかりで自分の思いを表現することが疎かになるということは絶対にないのがまさに"タカダワタル的"と言われる由縁で、彼が取り上げる詩は全て自分が思いがそこに存在することが可能なものだけであり、他人の詩を紹介することによって自分の思いを表現するという非常に難しい手法により、なんでも"高田渡"の歌にしてしまうところがなんとも魅力でした。
その集大成と呼べるのが、晩年とも言える2001年に出したこの一枚「日本に来た外国詩…。」です。渡さんはこのライナーノーツで外国から来た詩について
「こんなステキな贈り物を本棚の隅に置いちゃいけない。詩は本来唄われていた、そうでなくちゃいけないと思う」
と書いており、渡さんの歌(唄、詩、唱)対するいつも変わらぬ厳然たる姿勢を如実に表現している名作です。
初期の「汽車が田舎を通るその時」や絶頂期に出した「石」も好きなんですが、渡さんのアルバムではナニが一番好きって順位付けが出来ないので、彼の偉業とも言えるこの一枚が今一番聴きたい彼の唄ということでここに紹介しました。
併せて昨年リリースされた映画、「タカダワタル的」のDVDも見てもらえると彼が"国が認めない人間国宝"と言われる理由が少し判ってもらえる気がします。
昨年夏に用事があって吉祥寺を訪れた時に、本当に久々に彼が毎日通っていた「いせや」の総本店と公園店に行って彼を偲んできましたが、店内にいると、あの焼き鳥を焼く煙の向こうから、おなじみの右手をちょこっとあげる仕草で、「よっ、元気?」と彼が店に入ってくるような気がしてなりませんでした。「参ったよ、あっちで門前払いされてさ。」とか言ってまたお茶割りを注文してたりして。
#あの「いせや」総本店も今年の5月には取り壊してビルになるそうです。また一つ、"国宝"に続いて"名物"が消えていきます。既に昭和は"遠い世界に"なりましたね。
日本に来た外国詩…。 高田 渡
release date 21th,Apr,2001 AGCA-1002 CONSIPIO RECORDS
AGENT CON-SIPIO
CO.,LTD.
【トッチー】
“高田
渡”
日本のフォークソングを語る上で、欠かせない存在ですね。正直言って、私は彼の曲を聴いたことがありませんが、何となく「自衛隊へ入ろう」と言うタイトルだけは記憶になります。メロディーはわからないんですけど。あの顔、そしてFukuさん記述の映画「タカダワタル的」は、チョコチョコっとTVか何かで拝見してます。あれってドキュメンタリー的な映画でしたよね?「居酒屋で呑みながらのシーン」みたいな...。
やはり、伝説となるべき存在なのかもしれません。 (from FUKU サイト(Goo) 2006年1月2日 )
*
(オナーより):今日、上記の「日本に来た外国詩ー高田渡」の文章をサイトで拝見する。 FUKUというネームの
人物は関西の住人のよう。1970年代の懐かしい、小屋が書かれていますネ。米国には渡のような
人に国が与える「National
Heritage Fellowship」が存在する。
(記 2007年9月6日)
*南陀楼綾繁
氏 と 堀内恭 氏 −両国フォークロアセンターで初対面ー
入谷コピー文庫 しみじみ通信 堀内恭
(8)異界の人 南陀楼綾繁
・・・南陀楼さんが誌面にそのことを書いてくれました。その後「両国フォークロアセンター」
でのイベントがあるのでよかったらと手紙が来て、出掛けていきました。そのイベントは狭い
部屋ながら、賑わっていて、そこで南陀楼綾繁さんら何人かディープな映画やレコードなど
の話をするというもの。ディープな人たちの中に南陀楼さんがいたのです。「あっ、この人
なのか・・・」と妙に納得のいく出会いの印象でした。
(from 「書評」のメルマガ 2007,9,22 発行 VOL
325 「続・遅れてすまぬ号)
本の虫の出版業界人が<徹底した本>や<繰り返し読んだ本>さらに新聞記者、出版
編集者、プロの書評家による気悦の書評など、書評メールマガの決定番。 mailmagazine
of book reviews
「入谷コピー文庫 しみじみ通信」 <堀内 恭>− 限定15部でオモシロ小冊子をつくる
極小版元の活動報告です。
(記 2007年9月28日)
*コーヒーの香りは、芸術・文化の香りー
中でも特別刺激的で面白く、楽しみにしていたのが「なまえのない新聞」というミニコミで、日本
のヒッピームーヴメントに関する情報はすべて網羅していただけでなく、世界中のあちこちの
ネイティブピープルの状況やエコロジー運動のことなども伝えていました。
ちなみに「名前のない新聞」は、1972年から数年間刊行され、休刊の後1988年に復刊し
現在も発刊されています。
そしてその後、私はフォークロアセンター<参照>と関わることになったわけですが、そこでも
出入りしていたのは、やはり美大や音大や文学部の学生など、芸術・文化のにおいのする人
たちでした。工科系出身の私にとって、彼(彼女)らは、いつも新鮮な刺激をくれる人たちでした。
そんな中に、有名なクリエーターを次々と輩出したことで知られる「セツ・モードセミナー」に通ったり、
卒業した人たちが何人かいて、よく顔を見せてくれました。
その中の一人は一時期、私と一緒にフォークロアセンターのスタッフをやりましたし、別な一人とは
、今でもおつきあいがあります。
(from 飯豊の空の下からー高野通信と食工房のパンだより ブログ
2008・4・23 )
(
記:
2008年5月16日)
*
東京のライブ・スポット (from 1975)
・・・春の日には、東京唯一残る早稲田から都電の終点、三ノ輪橋から歩いて
一分の距離にあるモンドへ行った。・・・・下町の唯一の拠点、フォークロアセンター
がアコースティクのみの演奏しか出来ず、どうしても音楽が片寄るがちなのに
欲求不満となった彼らがツテを見つけてやっと開いたライブ・スポットである。
(from 「new music magazine」誌 1975年5月号 p56〜p59
東京のライブ・スポットー東京で動き始めたナマ演奏の場 平田国二郎 )
(記:2008年9月6日)
*10畳の部屋のコンサート(from
l976)
両国のフォークロアセンターの前をギターを抱えて歩いているのは、あれは
友川でねェか・・・。
といった具合で、友川かずきが、彼と全然関係ない1月15日の成人の日に
東京は隅田川の近く両国でコンサートを行った、会場となったフォークロアセンター
は、数年前からやっているお店でフィルム・コンサートとかライブとかを時々
プログラムに入れている。6畳間と4畳半ぐらいの2部屋が全スペースでそこに
約25人が座って友川のコンサートとなった。7時頃から10時近くまで春歌をまじえた
友川の熱演なのである。しぼり出すような声と特微的な高音、汗を流しながら
歌っていた。青森県出身の鈴木クンが、興奮のあまり階段をすべり落ちるという
ハプニングがあったり、友川の私設応援団15名のドジな声援が飛びかうなど、
大変なコンサートとなった。
(from
週刊 FM 1976年(昭、51年)2月9日号 P.97 Mini 情報 )
(記:2009年1月12日)
*上柳昌彦アナウサーよりお葉書 (2008年10月8日付)
両国フォークロアセンター 国崎清秀様
拝啓/ 先日は番組に御出演いただきありがとうございます。私の世代
にとっては歴史の証言者から直接、話を伺っているような夢の
ような時間でありました。11月からの再開の成功を心からお祈り
しています。
追伸:ボブ・ディランのレコード良い音で放送にのっていました。
遅ればせながら お礼まで
(千代田区有楽町 ニッポン放送 上柳 昌彦)
(記:2009年2月22日)
*たすくの空中散歩より (2008年12月27日付)
12/23 両国フォークロアセンターに行ってきた-
両国フォークロアセンターは、吉祥寺「ぐわらん堂」と並び、ライブハウスの
先駆的存在といわれ、オープンは渋谷アピアと同じく1970年。
特に、日本のフォークミュージックの歴史にとっては、最重要地点
でもあるこの場所の、ライブスペースとしての歴史を、2008年12月23日
、岡大介さんが締めくくりました。
残念ながら自分は用事があったので、ライブ本編には間に合わず、
2次会から参加させていただきました。
この場所に名前を連ねたミュージシャンは、それこそ数知れず。
だけども、僕個人にとってはそれ以上に重要な場所。
僕が音楽を始めるきっかけとなったバンド「たま」のメンバーが出会った場所なのです。
当時「フォークロア・フート」という、誰でも出られるイベント、
(今で言うオープンマイクイベント)が月に2回行われていて、
そこでの常連だったとのことです。
特別に、ライブ終了後の「その場所」を、オーナーの国崎さんに
見せていただきました。
この場所にも、あの匂い。
何年も寝かせたお酒のような、まろやかな音楽の匂い。
壁面や、天井には当時の出演者リストや、ライブポスターや、文献などなど。
役目を終えたことで、より醸し出されるその空気。
「センター」と、名前はついていても、実際には、もと蕎麦屋の2Fの8畳ほどの小部屋。
この小部屋で、若かりしころの高田渡さんや、友部正人さんや、
あがたさんや、福島さんが…、そして、知久さんや、石川さんや、柳原さんが。
2次会の席(1F)で、僕も一曲歌わせていただきました。
人の命は尽きるとも、音楽の「いのち」は絶え間なく続いていくものと信じます。
ちなみに、人が集まってしまうと困る、ということで、写真の公開はNG。
今後は静かに、資料館として活用していくとのことです。
両国フォークロアセンター、お疲れ様でした。
ちなみに、岡さんは「またここで歌わせてもらうよ」って言ってました(笑)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一般住宅がそうであるように、時間とお金をかけて、自然素材を使い、
丁寧に造ったハコというのはなかなかお目にかからなくなってきました。
どんなに機材がよくても、結局空間にとって大切なのは、
「ハコ」そのもののつくり、であることを強く感じます。
もしかしたら、「歌」についても同じことが言えるのかもしれませんが。
古いものには、新しい知恵が詰まっているということですね。
(相沢たすくくんのブログ/たすくの空中散歩ー2008年12月27日付より)
●コメント/オナーより 2008年の催物は終わりましたが、今年(2009年)も
特別な催物はここで行います。説明が不足していたかナー(国崎)
(記 2009年2月24日)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「確か彼のアルバムを(テープだったかな?)持っていたはずだが、
行方不明だ。このような動画や立川談志師匠がまだ前座の「かえる」
時代の寄席や落語家修行を描いた映画を見たのも、フォークロアセンター
だった。」 ひげおやじ / 2009.7.11
(from Uncle Gryphon サイト 7/11/2009 コメント)
(記 2009年7月14日)
*それぞれの時代の青春が行き交った場所 - 両国フォークロアセンター