お不動さんの参道から永代通り沿い、富岡八幡宮にかけて150店ほどの露店が並んで賑わう。これほどの規模の縁日は都内でも珍しいのではないだろうか。
【 富岡八幡宮 】
創建は1627年(寛永4)、徳川将軍家の崇敬を集めた神社で当時、門前はかなりの賑わいだったそうだ。
松平加賀守、伊達遠江守やわが国で初めて正確な日本地図を作った伊能忠敬、紀州の材木商・紀伊国屋文左衛門などの邸があったのも八幡様の門前だった。
また江戸相撲発祥の地でもある境内には横綱力士碑があり、今でも優勝力士の奉納土俵入りがとり行われる。伊能忠敬が日本全土測量の旅に出立したのも、ここ富岡八幡宮だった。
境内には東京大空襲で壊滅的な被害を被った下町で黒こげになりながら戦後また芽吹いて復活したイチョウ、クスノキをはじめとした戦災樹木が数本ある。痛々しい火傷も樹木の生命力と時間の流れに消えつつある。
風化させてはならない、過去の悲しい記憶もだんだんにうすれてしまうのだろうか。
富岡八幡宮と聞いて有名なのは江戸三大祭りのひとつに数えられている8月半ば3年ごとに行われる神幸祭(じんこうさい)、神輿連合渡御(みこしれんごうとぎょ)。
祭りの日が近づくと街中になんとなく、そわそわした空気が漂う。気の短い深川っ子はその3年が待ちきれないようすだ。高齢者の喋る「江戸弁」(江戸訛りの言葉、「し」と「ひ」の発音の混同が大きな特徴の一つ)になんとも言えない郷愁と懐かしさを憶える。
参加することにも意義あるお祭りは54基の大きな御神輿が繰り出して深川一帯を練り歩く、その壮観さは一見の価値がある。最近は担ぎ手に外国人の姿も見られる。
御神輿を担ぐ人に威勢よく清めの水をかけることから「水掛け祭り」とも呼ばれる。次の神幸祭は平成17年。
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富岡八幡宮 巫女さんの記念撮影風景 |
水掛け祭り |
黒こげになった戦災イチョウ クリックでイチョウの説明が見られます。 |
八幡様の境内を描いた江戸時代の錦絵にソテツ(蘇鉄)が描かれていることが印象深い。
当時の江戸の人々はいわゆる樹という概念から、かけ離れた植物を観て、かなり驚いたことだろう。
ソテツは南方の植物だが、耐寒性もかなり強いようなので現代に比べて気温の低くかった江戸の町にも適応していたものと思われる。
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伊能忠敬像 |
横綱力士碑 |
右端にソテツが描かれている錦絵 クリックでソテツの説明が見られます。 |
境内の左奥には普段はひっそりとしているが大鳥神社があり、年末の酉の市と年初の七福神めぐりの際に賑わいを見せる。また、右手奥には深川にゆかりの芭蕉が祀られている花本社(はなのもとしゃ)など境内には計17もの小さな神社が点在鎮座している。
日本初の鉄橋(1878/明治11年 架橋 )国指定重要文化財・弾正橋が埋め立てられてしまって水の無い川(緑道)に架かっているが、人道橋として活かされ、今も利用されているのがすばらしい。
深川には弾正橋をはじめとする日本初の物がけっこう多い。
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十七社鳥居 |
大鳥神社の酉の市 |
国指定重要文化財・弾正橋 |
富岡八幡宮では遥か江戸や明治大正の庶民文化、歴史を偲ばせる風情を復活して残そうとする努力に好感を感じる。もし戦災や震災に遭うことがなかったら、今日の深川一帯はどんな街であったろうか。
『深川は歴史小説のイメージ作りには格好の場所』とは深川に住む直木賞作家、中村一力さんのことば。
八幡様の境内では骨董市(毎月第一、二日曜日)も開かれている。
その昔、深川の漁師町(今の黒船橋付近)は貝類の宝庫で、浅蜊や青柳など貝類のむき身を使った汁かけ御飯が下町の伝統食「深川丼」で戦前まではごく一般的な食べ物だったという。因みに浅蜊の炊き込みご飯は「深川めし」という。
■ 洲 崎 ■
スサキと濁らずに読む。
この町名は今は存在せず、現在、木場6丁目の洲崎弁天神社に残るのみとなっている。
洲崎という名からも判るように江戸の頃は、ここが海岸で、洲崎弁天神社は海中の小島にまつられていたそうだ。
洲崎という場所は、黙認された花街で大川(=隅田川)から大横川を渡ってくる小舟や駕籠客で吉原に負けず劣らず賑わったという。
洲崎弁天神社

新田橋(にったばし)は『赤い橋』と呼ばれて、下町の人々に親しまれている人道橋で、大正時代、岐阜県から上京して医院を開業した新田清三郎医師が、昭和初め、不慮の事故で亡くなった夫人の慰霊のため、木場5丁目から6丁目を結ぶ橋として人々の協力のもと、架設したとのこと。
映画やテレビの舞台にもなり、地域の人々の人間模様を見守り続けて、今に至っている。
途中、いまの赤い塗装の橋に架け替えられ、茶色い当初の橋は富岡八幡宮の裏手に保存されている。
橋袂の船宿と大横川に架かる新田橋
■ 木 場 ■
日本全国から江戸湾のお台場辺りに運ばれてきた丸太を川並(かわなみ)と呼ばれる職人が筏に組み、下流から上潮に乗り、深川を縦横に流れる堀割を利用して上流の木場に運んでいた。
木場は江戸時代、江戸城をはじめ大江戸八百八町の家屋敷、寺社を建てるための「材木問屋」でひしめいていた。
川並は、丸太の検量、樹種の判別、運搬、保管にあたる重要な職業であり、とびきりの材木の目利きだったそうだ。
木場に限って筏師は「川並」と特別な呼び方をされている。「川並」は「火消し」とともに尊敬と憧れの職業だったという。
江戸時代には材木商・呉服商・両替商の3つが大商人の花形で、「火事と喧嘩は江戸の華」などと言われるほど火事が頻繁だったため、材木商は、その需要で巨万の富を築いたと言われている。
【 木場公園一帯 】
昭和40年代の末から、貯木場の移転に伴い木場の材木商は湾岸の新木場へ引っ越しを迫られ、50年代になって移転が完了。
原木での入荷減少と共に、深川・木場を代表する川並衆はすっかり影が薄くなり、その後、木場名物の掘割は大半が埋め立てられ、川を住処に縦横に活躍した川並という職業も次第に消えてしまった。
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ごく僅かに残る木場の面影 |
屋形船の浮ぶ堀割 |
木場の角乗り光景 |
江戸火消しが、梯子乗りの技を競うように、川並が、筏の技を示すのが角乗り(かくのり)で、かつての木場には川並が約400人ほどいて、角乗りは、仕事に直接結びつくものだった。
現代の角乗りは、木場の郷土芸能として保存会の人々により木場公園に造られた池で行われている。
材木問屋が連立していた広大な跡地は「都立木場公園」となり、公園の北の端には、東京都現代美術館が建てられ、公園は人々の憩いの場になっている。
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緑の都立木場公園 |
江戸の風情を感じる海鼠壁 |
東京都現代美術館 |
Jun.2004〜May.2006
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