| 1
家内があのような出ていき方をするとは思わなかった。
夕方、外出から帰ると、置き手紙があった。
「あなたにはほとほと愛想が尽きました。出てゆきます――」
最初、何の感情の変化も起きなかった。だが、やがて食事の世話をする者がいないことに気がつくと、腹が立ってきた。その怒りもすぐに心細さに変わり、部屋のなかにいるのが私ひとりであり、もはや何の支えもないことに気づいた。
〈なんで、もっと優しくしてやれなかったのだろう?〉
〈これから、どうやって生きてゆけばいいのだろう?〉
長年勤めた船長という仕事からはもう引退していた。私は仕事もなく、家内のオルガなしでは何者でもなかった。
私は誠実に私を支えつづけてくれたオルガにいつも辛く当たってしまった。後悔しても、もう遅かった。老人とも言える年齢なのに、私は子供のようにさめざめと泣いた。
2
私のことは単にユーリと呼んでくれればよい。
オルガが出ていってから、私は考えても詮ないことを深く考え、心の暗い部分にいき着いた。人生は無意味で、生きるに足りず、悪意のこもった空耳のようなものに思えはじめ、日々の不安ばかりがその証しだった。
気を晴らそうと、外に出れば世間のざわめきは異様に聞こえた。それは不気味な韻を踏む運命の詩だった。それは神か悪魔の仕業とも知れぬ偶発性を持って私にまとわりついた。
私は部屋から出ることもなくなった。
私は何かひとつでもオルガを幸せにすることができたかということについて考えつづけた。私たちは田舎でダ−チャ(別荘)を作りかけていたが、もうすっかり放ったからしになってしまった。家の骨組みは建っていたが、塀のレンガ積みは途中だった。花の好きなオルガはダ−チャの完成を楽しみにしていたのだが……。
キルキンから電話があったのはそのようなときだった。
「オルガ、私はもうだめかも知れない」
私がひとり言を言うと同時に電話がなった。オルガがアパートを出ていってからもう1週間がたっていた。私は不安を打ち消すために2日前の晩からテレビをつけっ放しにし、電気もつけず、カレイのトマト煮の缶詰を食べながら、まるで緩慢な死をむかえようとするかのように、ウォトカを間断なく飲みつづけていた。缶詰は手当てとして支給され、押し入れに山積みになっていたものだった。
かつてオルガとすごしたころの部屋の色どりはすっかりあせていた。
「コルホーズの事務所にきてほしい。話さなければならないことがある」
キルキンはかつての私の上司だったが、数年間、話をしていなかった。カムチャッカ半島一帯の漁業を管轄するレーニン・コルホ−ズの社長であるこの男は、私よりも20歳も若く、いつもながらの丁寧な口調だった。
私は出かけるのは億劫だったが、ウォトカが失くなりかけていた。
「分かった。1時間くらいでゆく」
私は答えた。キルキンの用向きが何なのか考えもしなかった。
3
私は着換えてアパ−トの部屋から出た。すると、同じ階に住んでいる「時代遅れのド−ミトリ−」に会った。もう90歳近いこの老人は、片足が不自由で、すこしもうろくをしているのだ。かれは私がかつて船長を勤めた水産加工船の船員だったが、15年前に船を下りていた。
「ウォトカばかり飲んでいるひまがあるなら、あんたのおんぼろダ−チャを完成させたほうがいいのじゃないか」
ド−ミトリ−は言った。
私はアパ−トだけでなく、ダ−チャもド−ミトリ−と隣同志だった。
「ああ、いつかやるさ。いつか」
早くその場を去ろうと、私はド−ミトリ−に適当に話を合わせて応えた。ド−ミトリ−と話をしたくなかったのだ。ド−ミトリ−にはオルガがいなくなったことが理解出来なかった。
「オルガは元気かい」
ド−ミトリ−の声が私の足を止めた。前にも聞かされたその質問に、私は前と同じように返事をした。
「オルガは出ていった……」
「おお、そうじゃった、そうじゃった。女なんてものはいくらでもいるんだから、また探せばいいさ。だが、オルガは大事にしなよ」
ド−ミトリ−は明るく言った。
「分かった」
意味なく答えた私の低い声は薄汚れた廊下の壁に吸い込まれていった。
昼過ぎからようやく明るくなりはじめたこの亜極地の街、ペトロパブロフスク・カムチャッツキ−の弱い陽はそれでも、久し振りに部屋から出た私の目にまぶしかった。
私のアパ−トは街の高台にあった。
山から下りて海にむかい、港湾地域にあるレーニン・コルホ−ズまでの約2qの道のりを私は歩いていった。途中、オランダとの合弁企業のス−パ−マ−ケットがいつものように長い列を作っていた。中央広場のレーニン像は共産主義の時代が去っても、この街では依然健在だ。
レーニン・コルホ−ズの建物で私は2階に上がり、キルキンの事務所のドアを叩いた。
なかから声が聞こえ、私は部屋に入った。コルホ−ズの事務員がまだキルキンと話をしていたが、私の姿をみて退室した。
キルキンは忙しそうに話しはじめた。
「モスクワ中央がクリュチェフスカ号で日本まで冷凍ガニを20d運べと言ってきている」
「カニ?」
「そうだ、カニだ。クリュチェフスカ号で漁獲した、アリューシャン列島付近のカニがまだ在庫になっているだろう」
クリュチェフスカ号は廃船待ちで、もう長いこと港に繋留されたままだった。
「モスクワ中央からの指令がなぜ、廃船寸前の老朽船に発せられるのですか」
私は息がキルキンにかからないように聞き返した。
キルキンは黒いジャケットにネクタイも締めず、デスクの端に腰をかけ、私の質問にどう答えるべきかと腕を組み、片手を頬にやった。
「カニの関係だろう」
と、キルキンは言った。
「もう船には乗らない」
と、私は答えた。
キルキンは銀髪をかき上げて意外そうな顔をした。
「君の希望を聞いているわけではない。クリュチェフスカ号の船長は君だ」
「だが、私はもう引退した。これは憐れみか? クリュチェフスカ号は廃船だ。仮にクリュチェフスカ号を廃船にしないのだとしても、船長なら、私でなくとも他にいるだろう」
キルキンは大きく手を広げた。思っていたことを言い当てられて、あわてているようにも見えた。
「ユーリ・イワ−ノヴィッチ・ワフル−シン。なぜそのように考えるのだ。私には分からない!」
キルキンはたぶん、妻に逃げられた私に同情し、元気づけようとして私をこの仕事に選んだのだ。
ソビエトがまだロシアに変わる前、私は命令にだまって従ってきた。だが、このときは思いもよらなかった言葉がつぎからつぎへと口をついて出た。
「あるいはあなたは私が最後に何か失敗をして、年金をふいにするのを願っているのか」
キルキンはその反応にただ驚いた。
過去において、私の船の生活とは妻との生活の犠牲の上に成り立っていたのだ。しかし、私はそのような生活や、そうするように命令してきた人々に対して、現在の自分の生活の責めを負わす立場になった。オルガが陸で待っていてくれたからこそ、私は安心して船に乗れたのだ。オルガのいない今、どうして船になど乗ることができただろう!
〈悪酔いをしているのだ〉
私は頭の隅で思ったが、それでも口をついて出てくる言葉は止まらなかった。
「私についての評価はよく知っている」と、私は言った。
「評価? どういう評価だ!?」
キルキンはいぶかしげに言った。
「私は船長としての能力に欠けていた……」
会話の脈絡とは直接関係なかったのだが、私の脳裏には5年前、クリュチェフスカ号の航海中に行方不明になった若い水夫のことが浮かんだ。その水夫は海に落ちて死んだらしい。だが、真相はだれにも分からない。
「それは当たっていない。君は何の問題も起こさずに長年の仕事を全うした」
と、キルキンは言った。だが、失態を演じないということは同時に、あまり一生懸命にやらないということでもあった。実際のところ、私は生産実績がつねに目標に達しない無能の船長ということで評価が定着していたのだ。それはクリュチェフスカ号の船員たちに過重な労働をさせることを避けてきた結果でもあった。皮肉なことに、そのように扱った船員たちからの評価もけっしてよくはなかった。尊敬される船長とは労働は苛酷でも、実績を上げ、それに比例した役得や恩恵を受けることを許容するような船長なのだ。
「君には忍耐力がある」
と、キルキンは言った。
私はすこし首を傾げた。結局、能力がなければ耐えるしかないではないかと、私は思った。「では、参考のために聞くが、乗組員の給料はどうなります」
コルホ−ズの財政は破綻していたし、極端なインフレのせいで、乗組員のもらえる規定の手当てなど、子供のあめ玉程度の値打ちしかなかった。
「カニを一部、現物で支給する」
キルキンは答えた。闇のル−トで売って、自分の所得にせよということなのだ。
「カニの荷物の本体は輸出公団を通してではなく、ロ・日合弁企業の『カムチャッカ・トレ−ディング』を通して決済する」
私はすこし考えた。何隻もの船がドックにつながれて、ときどき溶接の火花が散るのが窓の外に見えた。
「私は体調がわるい。クリュチェフスカ号にはだれかべつの人間を捜してやってください」
私はキルキンに言って立ち上がり、部屋を出ていこうとした。
「イワ−ノヴィッチ・ワフル−シン――」
キルキンはことさらにおだやかな声で言った。「自分のなかには逃げ込めないぞ」
この私より若いコルホ−ズの社長は、熱血や人あしらいのうまさでその地位にいるわけではなかった。かれは人生に対する非常に冷静で透徹な目で、今までその地位を維持してきたのだ。
私は壁に当たったかのように足を止めた。キルキンはだまっていた。キルキンの言葉をくり返してみて、果たしてその言葉通りなのかどうか自問した。私はたぶん、自分の内にこもって悲しんでいたかったのだ。その方が楽だった。あるいは酒のせいなのかも知れなかった。
「何が言いたいのだ?」
私はキルキンに訊ねた。
「なぜ、オルガを捜しにいかない? オルガを愛しているのだろう? だが、それも今度の航海から帰ってからだ。君も、船にまた乗り組みさえすれば、君がりっぱに任務をこなしてしまうことがよく分かっているのだ。だが、君はそうはできないことをオルガのせいにして、家でひとり悲しんでいたいのだ」
私は現実に正面から立ち向かえない意気地なしになり下がってしまったのだろうか。
「とにかく、考えさせてくれ……」
私はすこしうろたえながら言った。
「考えることは何もないと思うが、君がそうしたいのなら勝手にそうすればいい」
キルキンは足早に私の先に歩いて、事務所のドアをわざわざ自分で開けてくれた。
「それと、一つ言い忘れた。乗用車を数台持ち帰ってほしい」
キルキンは自分の分を含め、ペトロパブロフスク・カムチャッツキ−の要人のための日本の中古車の購入を私に頼んだ。
私はレーニン・コルホ−ズの建物を出ると酒屋にいき、ウォトカを買い込んでアパ−トに向かった。
クリュチェフスカ号に乗り組むつもりはなかった。
アパ−トに帰り、また夕方まで飲んでいると、ドアにノックがあった。
出てみるとキルキンだった。
仕事を終えてきたのだった。帰りに市場で買ったキュウリの酢漬けとウォトカの瓶を持っていた。
結局、その晩はふたりで深夜まで飲んだ。
4
つぎの日、私は陰鬱な曇り空の下、港のドックまで、そこに係留された1951年建造のクリュチェフスカ号を見にいった。塗装が剥げ、赤錆が全体を覆ったその2000dの水産加工船は幽霊船のように静かにたたずんでいた。
船体をドックにつないでいるもやい綱の上部に小さなアジサシが留まって、けたたましく鳴いていた。その渡り鳥が〈キリッキリッ〉と鳴く綱の反対側に、一匹の猫が何かを抱え込んでいる様子だった。私は猫がアジサシのつがいの一方を捕まえて食べている図を想像した。それに対して、つがいのもう一方は非難の叫びを上げているのだ、と。だが、人生が制御できないものに思えてきたときの常で、その光景は私の妄想が作り出しただけのものだった。視線の死角で見えなかった猫の手元が見えると、猫は自分の毛繕いをしていただけなのだった。
アジサシはどこかへ飛んでいってしまった。
私が近づくと、猫は一瞬、飛びかからんくらいの勢いを見せて、私の横を走りすぎていった。
私はクリュチェフスカ号に背を向けて街に向かった。歩いているうちに気持ちが軽くなった。
前の晩にキルキンが言った言葉が脳裏に浮かんだ。
「こんなものだよ、イワ−ノヴィッチ・ワフル−シン。モスクワ中央は、巨大な官僚組織の集合体であるハバロフスクの極東船舶公団を介して、『最低の船を使え』と、言ってきたのだ。経費を節減するのに便利だからだ。何かのときには爆破して沈めてしまえば安上がりだ」
このとき、私のなかで何かが動いた。それはかすかではあったが、今まで壊れていた歯車が突然、鈍い音を立てて噛み合ったというような変化だった。
私は街でたくさんの人に会った。それは私が船を下りて会わなくなった人々だった。
元甲板員のオレグ・ゴリョチョフはすでにパン屋の手伝いをはじめていた。
二等航海士だったアカキィ−・タルコフスキ−はハバロフスクに移り住むことが決まっていた。
みんな、それぞれに都合があるというものだ。
あまり会いたくない人々にも会った。二枚目だが、ほおに大きな傷のあるバディムと、背が低く、太って禿げたニックが揃いの黒い縦縞の背広を着て、前から並んで歩いてきた。かれらはソ連邦の崩壊とともにシカゴから帰国したいわゆる白系の「ロマノフ・マフィア」だ。その格好は禁酒法時代のアメリカのギャング映画の類型だった。かれらはカニの輸出の商売のなかの大きな割合を牛耳っていた。私たちはすれ違い様にあいさつを交わすでもなく、その代わりにおたがいに軽蔑の眼差しを投げかけた。
映画館の近くの、昼間からやっている酒場で、私は元二等機関士のズブコフに会った。ズブコフは「賭博師」というあだ名で呼ばれていた。
「おれはやたらとペトロパブロフスク・カムチャッツキ−を離れられない事情があるんだ。それに、クリュチェフスカ号については悪い噂が立っている」
ズブコフはビ−ルの瓶をすこし持ち上げながら言った。「まあ、大分うさん臭いものだからおれはあんまり信用してはいないが……。たとえば、行方不明になったクリュチェフスカ号の船員は何かの秘密を知ってしまったために海に落とされて殺された、とか」
「何を根拠にそういう噂が流れるのだ」
私はその話にいささか憤慨しながら言った。
「さて、おれはそんなことは知らない。だって、おれが噂を流しているわけじゃない。クリュチェフスカ号は裏経済の大きな取り引きを行なうことになっている、という噂もある」
「妄想だ」私はズブコフの目のなかをまともに見て言った。「ところで、そのクリュチェフスカ号にまた乗ってもらえないか」
「給料を日本円かドルで支給してくれるか?」
ズブコフはすこし考えてから左手の甲に彫った入れ墨をいじりながら言った。「日本でいろいろと買いたいものがあるからね」
店内は職にあぶれた若い男女で満員だった。
すっかり、この国は変わってしまった。日常生活はある暗黒の一点に消え入りそうなだらだら道になってしまった。インフレは貧乏と生活苦をもたらした。天井の梁に縄をかけ、この苦痛に永遠の別れを告げることを拒否する理由は、希望と同じくらいに周りに存在していなかった。私にとってもすべてがあまりに変わってしまった。
「何とかしよう」と、私は答えた。
5
二度と被ることはないだろうと思った船長の帽子を私は再び被ることになった。
かつてのクリュチェフスカ号の乗組員たちにレーニン・コルホーズが連絡を取ると、志願者は定員以上に集まった。
5月の曇った朝、クリュチェウスカ号はドックをゆっくりと離れ、東京へと出発した。
午前中にペトロパブロフスク・カムチャッツキーの湾内を抜け、太平洋に出ると天候は一変した。灰色の雲が低くなり、夕暮れのような雨が降っていた。海は大きくうねり、波しぶきが船体を洗った。
夕方になり、私はブリッヂを出て、食事をするためにハッチから下に下りた。目の前の廊下を一匹のネズミが横切っていった。まねかざる乗客のネズミたちが何匹か巣を作ったようだ。もちろん、そのために船には猫や犬も乗せた。
士官用の食堂の隅のテレビが衛星放送を映し出していた。ニュ−スを放送していた。仏頂面のエリツィン大統領が不鮮明な画像のなかで演説をしてから、画面は急にサッカ−の試合に変わった。それは英国とイタリアの試合で、おおぜいのフ−リガンが喧嘩をはじめた。
ニンニクの焼けた匂いと、パンの匂いがした。食堂の縦長のテ−ブルにかけられたビニ−ル製の花柄のテ−ブル・クロスの上の2ヵ所に、ボルシチの入った大きなふた付きの鍋が置かれていた。私以外に、食事をしようとしているのものはいないようだった。ほかの上級船員たちは悪天候のせいで、まだそれぞれの持ち場にいた。
私は自分のスープの皿にボルシチを注いだ。さて、飲もうとしても、あまりに船が揺れるので、皿に顔を近づけ、スプ−ンを小きざみに使わなければならなかった。
一段落して、私は紅茶用のガラスのコップに自分で持ち込んだウォトカを注いで飲んだ。
ボルシチを飲み終わるのを見はからって、ウェイトレスがきて、肉料理の皿をテ−ブルに置いた。彼女は何かを小声で、私にははっきりと聞こえないようにいった。
「アル中」と私には聞こえたような気がした。
船医者のボリスが食堂に入ってきた。かれはだまってテ−ブルにつき、ボルシチを自分の皿によそった。
私はウォトカの酔いと、船のゆれの区別がつかなくなっていた。
オルガのことを考えた。
――東洋とスラブの混血のオルガはペトロパブロフスク・カムチャッツキーのレ−ニンスカヤ通りの国営デパ−トで店員として働いていた。食器や装飾品の売場だった。
私とオルガの間に子供はいなかった。
もう30年近くも前、私はオルガとはじめてエアロフロ−トに乗ってモスクワに旅した。目をつぶり、眠ろうとしていた私にオルガが声を掛けた。
「ほら、見てユーリ」
オルガは寝ずに窓の外をながめていた。窓からはモスクワの街の灯が見えた。
低く、だが経常的に聞こえていた船のエンジンのうなりと震動が突然止まった。
私は現実に引き戻された。
機関の停止は毎度のことだった。私は食堂にだれかがくるのを待つことにした。
10分ほどすると、ズブコフが入ってきた。テレビはハリウッド映画に変わっていた。そこに描かれるロシア人はみな大酒飲みで、コサック・ダンスを踊った。
「エンジンのうちの一基が焼き切れてしまった」
ズブコフは席にも座らず、私の前に立って言った。
「修理にはどのくらいかかる?」
私は尋いた。
「その前に直るかどうかも分からない」
ズブコフは答えた。
「補助用のエンジンは?」
「補助用はないですよ」
床の鉄板から冷気が伝わりはじめた。船の暖房はエンジンの余熱を利用していたので、船が停止するとすぐに寒くなる。
「よろしく頼む」
私は言って、ズブコフを座らせ、自分は食堂を去った。
6
2日後、私たちはズブコフの修理のおかげで、オホーツク海――命知らずのコサックの兵士も二の足を踏む海――を南下していた。
その日はその季節、毎日濃霧のかかるその海域では何10年も経験したことのないような快晴だった。雲一つなく、風はかすかに優しく吹き、水平線のかなたに霧がわずかに見えた。
だが、クリル諸島周辺で、またエンジンが止まり、ズブコフは修理のために機関室に入った。
私は無線技師のアンドレイ・ポポフに会いに無線室にいった。
アンドレイは無線機の置いてあるデスクの前に座り、短波放送を聴いていた。
「何か?」
と、アンドレイは振り返って立ち上がり、ラジオのスイッチを切りながら尋いた。
「キルキンに電文を入れてほしい」
私は書いたばかりのメモをアンドレイに渡した。
〈レーニン・コルホーズ社長、M・キルキン殿。主力機関が再び焼き付き故障。1993年5月7日午後7:00現在、北緯150度・東経47度ウルップ島北方海域付近に停泊中〉
「いいか」
と、私はアンドレイに念を押して部屋を出た。
その海域周辺の天候の変化は激しい。突然、風が強く吹きはじめたかと思うと、快晴だった空から雨が降り出し、青空が一瞬再び見えた直後に、2〜3メートルしか視界のない濃霧となり、おびただしい量の露が船内に降りる。
私はブリッヂに戻った。
ウルップ島の島影とその左におぼろげに別の小島の姿が見えた。
1時間後、アンドレイがキルキンからの返事を持ってブリッヂに入ってきた。私は早速、電文に目を通した。
〈Y・ワフルーシン船長殿。修繕の状況は逐一、連絡のこと。船舶公団により、クリュチェフスカ号入港地、千葉港東埠頭から北海道釧路港に変更された〉
――命令とはいつでも、それに従うものであり、それについて考えるものではない。
7
ようやく夜が暗くなりはじめた深夜の12時すぎ、<ボン>という鈍い爆発音がして船が上下に揺れた。警報がけたたましく鳴り出した。
ブリッヂへ走り、通話管に耳を当てると、だれかが叫んでいる。
「火災発生! 火災発生! 機関室にて爆発が起きた模様!」
一等航海士のセルゲイ・アントノフの声だった。
若いころなら手すりをすべり下りたのだが、階段を急いで下り、船底近くの機関室へとつづく廊下に出た。何人かが手に消火器を持って走っているのにすれ違う。廊下には灰色がかった薄い煙が立ち込めていた。セルゲイは消火器を両手で抱え、天井近くを煙が洩れ出ている扉のなかに消火液を放出させていた。
「セルゲイ!」
と、私は叫んだ。
セルゲイは「船長!」と、顔だけをこちらに向けて答えた。
別の声が「扉を閉めろ!」と、叫んでいる。
煙の密度が濃くなり、腰から下くらいまで下がってきた。
セルゲイがよろけて、後ろの壁に背中でぶつかった。白い火炎が勢いよく扉の一つから廊下に吹き出した。
「別の消火器を持ってこい。早く!」
「扉を閉めろ!」と、私は叫んだ。
「なかにまだズブコフがいます、船長!」
私は心の暗い部分にいき着いた。病気や、事故や、死は異常なことではない。たった1時間の遅れ、たった1分の違い、たった3メートルの距離の差が人の運命の生と死を分ける。私はそういう場面に何度も会っていた。
「扉を閉めろ」
と、私はセルゲイに言った。
「でも、ズブコフが……」
「これは命令だ、セルゲイ! 船上の謀反は首吊りか銃殺刑だぞ! 燃料に引火する前に扉を閉めろ!」
「アイ、アイ、サー」
口ひげを生やし、子だくさんの一等航海士は言った。
セルゲイの合図で甲板員が機関室の扉をいっせいに閉めはじめた。全部、閉まったのを確認したところで、セルゲイは消火設備の起動装置を覆っているガラスをこぶしで叩き割り、レバーに手をかけ、私を見た。私は消火剤を出すように命令した。
セルゲイはレバーを引くとき、目をつぶった。
8
火事は10分間ほどで鎮火した。電気の消えた現場に、非常ライトに照らされ、ズブコフの死体が残された。火を消そうとして、逃げ遅れたらしい。
夜が明けてから、私は報告書に火災の原因をこう記した。
〈故障した機関を溶接中、火花が近くにあった油系統のパイプを過熱、発火した〉
レーニン・コルホーズに無電を入れても返事がなかった。
機関室が焼け、冷凍庫の冷却機も停止した。
そのことに気づき、昼すぎ、私はセルゲイといっしょに船腹の冷凍庫に向かった。床の重い鉄のハッチをセルゲイが開けた。その穴の下にある冷凍庫に下りるために、セルゲイは鉄ばしごに慎重に足をかけた。私もセルゲイの後から、はるか下にある冷凍庫へと下りていった。
ふたりは木製のすのこが敷かれた床に下り立った。
息が白かったが、冷気は充分ではなかった。それは冷気を鼻で吸い込んでみて判った。鼻毛が凍るような冷たさではなかった。
私とセルゲイはいっしょに冷凍庫の壁にかけられた温度計をながめた。
マイナス摂氏5度。
明らかに温度が上がりはじめていた。
私は山積みされた冷凍ガニの入ったダンボ−ル箱を見た。温度が上がれば、ダンボール箱は冷たい水の入ったコップのように表面に汗をかき、夏の雪解け水のように、解けて流れていくだろう。
「早く出よう」と、私はセルゲイに言った。
現物支給すると約束した以上、カニのなかには死んだズブコフの分もあった。残された家族のためにも、私はそれを約束どおり、現金に換えてやりたかった。
9
立ち往生したまま寒さと疎外感のなか、無為に時間だけがすぎた3日目の深夜、私はベッドのなかで寝つけずにいた。
風雨が強くなり、船は揺れはじめていた。船長室の裏の上部甲板から、女の低く話す声が聞こえてきた。食堂のウェイトレスのようだった。その声を聞いているうちに、私は奇妙なことに気付いた。甲板で話をするには時間が遅過ぎたし、その会話には相手がいないようだった。
すると、突如としてウェイトレスは絶叫をはじめた。
ウェイトレスが何をやっているかは分からないが、何かに対して激しく怒っていた。そうかと思えば、今度は急に悲しそうになり、しゃくり上げるように泣き出した。だが、すぐにまた激しく怒り出す。
乗員たちが上部甲板に出て来る気配が伝わってきた。私は自分が夢を見ているのではないかと疑って、ベッドから上半身を起こした。
ウェイトレスに話しかける男の声がした。セルゲイのようだった。
その声は悲しみと怒りの入り交じったウェイトレスの叫び声にかき消された。
再び、セルゲイがさらに優しく穏やかに声をかけるが、これがかえって逆効果だったのか、ウェイトレスはますます金切り声を上げはじめた。これを機に周りの者たちも口々に何か叫びはじめ、自殺志望者と、それを説得し、押し止どめようとする群衆のようだった。
私はベッドを下りた。そして船室のドアを開けた。
ドアのすき間から顔を出して、雨が降り、潮の匂いのする外を見ると、全身ずぶ濡れのウェイトレスが1mくらいの間隔で他の10名くらいの者たちと対峠している。ウェイトレスを説得するように話をしていたのはやはりセルゲイだった。
「このろくでなしの飲んだくれの変態野郎!!」と、ウエイトレスは叫んで突如振り返り、こちらに向かって突進してきた。
彼女は就寝用のガウンに身を包み、眼を赤く血走らせ、髪を逆立てていた。
その鬼気迫る形相に私は血の気が引いて、思わずドアを閉めてしまった。ウエイトレスは、
「やったのはおまえだろう!」
「馬鹿野郎! 死んじまえッ!」
「だからダメだって言ったでしょう!」
などと、大声で訳の分からないことを叫びながら、ドアに体当たりしてきたのだ。私はドアを開けられないように押さえた。ウエイトレスはドアを激しく叩き、その度にドアがすこしずつ開いた。そのため、ドアのかんぬきがかけられない。
外ではウエイトレスの周りを乗員たちがとり囲み、口々に何か叫び、ただならぬ雰囲気になってきた。
だが、急に静かになった。波の音以外にはセルゲイの低く呟くような声だけしか聞こえなくなった。
その声はずいぶん長いこと話しつづけた。小さな声で、何を言っているのかは分からない。
廊下に集まっていた乗員たちが解散する気配がした。
私はドアを薄目に開けて上部甲板を見た。
乗員たちは皆、ハッチから、鉄ばしごから、下に下りた。ほとんど皆、パジャマ姿だった。
ウエイトレスも自分の前方の虚空を見すえてハッチを下りていった。
私はまだ酔っていたのかも知れない。
私は夢を見ていたのかも知れない。
乗員たちは私の前で芝居をしていたように見えた。
セルゲイが報告にやってきて、ウェイトレスがアフガニスタンの戦線で亭主を亡くして以来、情緒が不安定なのだが、もう大丈夫だと言った。私はドストエフスキ−の『カラマ−ゾフの兄弟』に記述された、ロシアの婦人に特有の病気について思った。
10
ようやく1週間たって、立ち往生したクリュチェフスカ号の救援にやってきたのはロシアの国境警備隊ではなく、商船でも、原子力潜水艦でもなかった。
500メートルほど離れた距離の霧にかすむ海上に船が浮かんでいた。
日本の駆逐艦だった。
水しぶきを上げ、オレンジ色のゴムボートに乗って、大きくうねる海を転覆しそうになりながら、白い制服を着た3人の日本人の士官がクリュチェフスカ号に乗り移ってきた。
私は士官たちとキャビンで話をした。1人はロシア語の通訳だった。
「ロシア政府より要請があり、貴艦を釧路港まで曳航することになった」
後からキルキンがつぎのような指令を送ってきた。
〈日本の海上保安庁の護衛艦「ゆうなぎ」にクリュチェフスカ号を曳航させよ〉
ズブコフの遺体の処理については何も言ってこなかった。
つぎの日、「ゆうなぎ」に曳航されながらクリュチェフスカ号の船上でセルゲイがAK47の空砲を1発、空に向かって撃った。それを合図に甲板員がロープを斧で切った。船べりから張り出された木のボードをシーツにくるまれたズブコフの遺体が海面に向かってすべり落ちていった。
ゴマフアザラシやクジラが姿を現わす海。
私は遺体の落ちた地点を目で追った。それはみるみる後方へと遠ざかっていき、やがてさざ波に紛れて位置がどこか判らなくなった。
11
クリル諸島に沿って私たちはゆっくりと進み、曳航されてから3日目に釧路港の見える沖合いに着き、そこでまた停泊した。
私はキルキンにカニの品質劣化が心配であると打電して置いた。また、その対応についても。
それに対する返事は以下の通りだった。
〈Y・ワフルーシン船長殿。クリュチェフスカ号は日本政府に引き渡すこと。乗組員は全員、空路帰国〉
カニの処置についての返事は何もなかった。
いつもながらの、返事がないという返事。返事はチャイ(お茶)を一杯飲んでからという、誇り高きロシア海軍の伝統。何もしないうちに解決してしまう問題の多さよ!
私はこのような無視に出会う度にこの世界の不条理について思いを巡らせてしまった。それは果たしてよいことなのか、悪いことなのか?私には分からなかった。
明くる日の早朝、港からは艀がやってきて、白い制服を着た日本人の士官や、背広を着たビジネスマン、紺色の作業服に長靴をはいた男たちが総勢にして10人ほどの集団で乗り組んできた。クリュチェフスカ号の乗組員の全員、船べりに並んでその様子をうかがった。
クリュチェフスカ号の事故の詳細や、故障の具合や、ねぎらいの言葉に紛れてはいたが、乗り組んできた日本人たちの一番の関心事は積み荷のカニ――アリューシャン列島付近で底引きしたズワイや、タラバや、花咲をクリュチェフスカ号の船上で海水でボイルして冷凍した無選別の半製品――のことであるらしかった。
商社の社員だと名乗る若い男が強く要求して、私とセルゲイは日本人のビジネスマンや作業員たちといっしょにカニの検品をすることになった。
作業員たちははるか下の冷凍庫へ鉄ばしごで軽々と下りていった。背広組はあまりの高さに二の足を踏み、ゆっくりと、また何人かは作業員に補助してもらいながら下りていった。
非常用のライトが冷凍庫内を照らした。作業員たちがだまってカニの入ったダンボール箱に手をかけた。背広組は周りで立ち会った。作業員たちはよく話し、背広組はときどき二言三言声をかけるだけだった。鉄のバールでホッチキスをはずし、ダンボールの蓋を開け、中のナイロン袋を広げ、カニを手に取りながら底の方まで検品する。かれらの日本語の会話の内容は私にはさっぱり分からなかったが、作業員たちが判断し、背広組はその判断に承認を与えているだけのようだった。北洋の低温はカニに半解凍のシャーベット状態を保持させてはいたが、釧路沖の気温はそれをそう長くは許さないはずだった。
作業員たちはさらにカニのダンボールの山をとり崩し、奥のダンボールを引っ張り出して蓋を開けた。背広組も時折近づいてカニに触る。
意見交換が俄然増えた。
納得がゆくまで、抜き取る場所を変えながら結局、10ケースのカニを検品した。箱を閉めて片付け、検品を終えるまで約1時間を要した。確たる結論を得たのか、日本人たちは、最初とはうって変わって活発に話し合いながら、ときには笑い声を上げ、鉄ばしごを上っていった。
12
「ワフルーシン船長、ホテルが用意してありますので上陸してお泊りください」
農業と水産を管轄する役所の高橋という役人が私に言った。私はセルゲイの顔を見た――りっぱな口ヒゲを生やし、自分では何の表情も宿していないと信じ切っている表情。
「他の者は上陸してはいけないのか?」と、私は高橋に尋いた。
「いや、別に構わないのです」
セルゲイから小さな無線機を受け取り、私はひとりでこのロシア語を話す日本人と上陸することにした。
はじめて上陸した日本は人も、建物も、道路も、ロシアより1割から2割小さい国だった。
高橋はすぐにはホテルにゆかず、私と並ぶように、ときには半歩先をいくように、少々くたびれた背広のポケットに両手を突っ込んで、にぎやかな街を歩いた。かれは私を活魚の遊泳する水槽のある店の前に連れていった。私たちはその店に入った。なかは満員だった。
煙
人いきれ。
上着を脱いだビジネスマン。
家族連れ。
アベック。
大きな丸い炭火のコンロと網の乗ったテ−ブルをはさんで私たちは座った。高橋はウェイトレスに向かって何か大声で注文した。
この国ではすべてが映画の早送りの映像のように進んでいた。
日本産のビ−ルと、ウォトカのように透明な焼酎が数本運ばれてきた。高橋の勧めに従ってすぐにビールで乾杯すると、かれは忙しそうに、ウェイトレスの運んできた肉を網の上で焼きはじめた。ただでさえにぎやかな店内が一段と騒々しくなった。だれかがグラスを倒して酒をこぼしたらしい。ウェイトレスが飛んできて、こぼした酒の後かたずけをしていた。
「カニは築地中央市場の大手荷受会社で競りにかける予定だった」
と、高橋は鼻から息を吐いた。
「これは政治的な問題だ。日・ロの首脳会談でカニを日本で売ることが決まった。その際、日本がロシアに、商売が軌道に乗るまでの間、補助金を出し、この計画をロシアの産業全般の振興のための試みにしようとした。だが、われわれはお偉方よりも現実的にものごとを見ている。ロシアの商品には商品的な欠陥がある。正直言って、われわれは市場経済的配慮を欠いた商品の流入によって、いかに日本の既存の市場の秩序が乱されるかということについて憂慮している。また、日本の政治団体のなかにはこのようなシステム自体が共産主義だと主張して反対しているものがある」
「共産主義?」
「そう。共産主義だと言うのです」
私には高橋の話の理屈が分からなかった。
「1989年以降、さまざまの日・ロ合弁事業が興こされが、定着したのはハバロフスクのラ−メン・レストランくらいです。そこでロシアの政治家たちはもっと画期的なシステムの模索を試みはじめました。今は失脚したロシアの大物政治家がひとりの日本人に会いました。その日本人は日本の水産業界では『神様』と呼ばれている老人でした。なぜ『神様』なのかというと、この老人は日本の漁船のゆく、世界のさまざまの漁場でのサカナや漁模様についての予想をし、それが百発百中で的中するからです。その力が何に由来するのかは分からないが、老人のもとを訪れる人々は、水産業界のみならず、あらゆる業界から、引きも切らない。老人は『ロシアのカニを日本に持ってきて卸売市場で売れば、日本・ロシアのみならず、世界の景気にも波及する』と、言った」
私はふるさとのイルク−ツクや、子供のころに家族とともにモスクワからシベリアに移動した暗い鉄道列車内の様子を想い出した。そのような生活のすべては、いったいどのような因果にしばられ、どのような偶然に左右されたことだろう。今でも国の政策は「神様」などという占い師のような老人によって決められているのだろうか?「共産主義のよき時代に、政治家たちは夢のような話を詩的なレトリックで飾って民衆に語り、実際、計画的に数々の夢を実現させてきた」と、私は言った。「だが、そういう時代はもう終わってしまったよ。いくら政治家が整合性の高い計画を立てようが、未来は予見不可能で、予想しない事故、人の死、天災などが起きるものだから、それがたいして当てにならないことをみんな知っている」
「もう、よしましょう」
と、高橋は言った。
それから、私たちはずいぶん飲んだが、私が比較的正気な頭で覚えているのは高橋のつぎのような話である。
「第二次世界大戦後、日本人はずいぶんと変わりました。戦前、日本人は小学校で『修身』というものを教えられました。『修身』では礼儀作法を教えます。たとえば、『三尺下がって師の影を踏まず』と言います。自分の先生はそれくらい尊敬せよということです。親に孝たれ、国に忠たれ、といったことも基本的です。また、我慢することとか他人に迷惑にならぬように気遣うことなどが大切とされました。ところが、日本が戦争に敗れると、これらの道徳教育が、国民を軍国主義的に洗脳する大きな力となったという考え方で、占領軍によって廃止させられたのです」
店を出て、再び、派手な看板の立ち並ぶ地帯まで高橋といっしょに歩いた。そこで私ははじめて自分の泊まるホテルに足を踏み入れた。
高橋から鍵を受け取り、私はひとりですぐにエレベーターに乗り、16階建てのホテルの最上階までいった。
部屋に入り、私は電気スタンドをつけた。ベッドの上に一枚の絵がかかっていた。その絵を私は充血した目でながめた。若い娘がきれいな服を着たまま、暗い森の泉に浮かんでいる情景を描いた不気味な油絵だった。娘の顔は若いころのオルガにそっくりだった。
私は自分が何か訳の分からない狂気にとらわれて、まともではなくなっているのかと思い、隣の鏡で自分の顔を見た。疲れてはいるが、狂っているようには見えなかった。絵を再び見た。そこにはたしかに目をつぶって、すこし薄笑いを浮かべたオルガがいた。
どのような運命が私とその絵を結びつけたのだろう?
私は海側に開かれた窓のカ−テンを開けた。眼下にはまだ寝静まらない混沌とした街があり、暗がりとネオンの間からときどき、断片的な話し声が迷い込んできた。左をみると、大きな橋と、それにつながる、小高い山のある暗い島が見えた。暗闇に蠢く、何かとてつもなく大きな力がその辺に浮遊しているような気がした。
私は部屋の冷蔵庫のドアを開け、そのなかから備え付けのウィスキ−の小瓶をとり出して急いでラッパ飲みした。
アルコ−ルがすこしずつ緊張を解き、私は絵を見ないようにしてベッドに横になった。
真夜中に目が覚めた。聖書の横にある時計はまだ1時を指していた。部屋の何かの気配が気になり、私は仰向けのままで、向かいにあるテーブルを見やった。そこには何か発光体を芯に持った青い球体のようなものがあった。周りだけ、薄くもやがかかったように一層輝いている。それは突然、細胞分裂で2個に分かれるような動きをして、次の瞬間、全体が大きく成長して、より強く青く光る人間の姿となり、私のベッドの枕元へと飛んできた。
それはズブコフだった。
私は冷静だった。私には分かっていた――私は気が狂ったのか、夢を見ているのか、幽霊を見ているかのいずれかだった。
私はその得体の知れないものをズブコフだと思って話しかけた。
「君には悪いことをしたな、ズブコフ」
<いや。いいんだ、いいんだ>
ズブコフの霊は手を横に振った。口は聞かなかったにもかかわらず、私にはかれが何を考えているのかが分かった。<これも運命だよ、ワフルーシン船長。最初から予期できることは運命じゃない。それより、謝るのはまだ早い>
「『早い』って? 何が君にそう言わせるのだ?」
<よもや、おれとの約束をお忘れになってはいないだろうね。おれは今度の航海の支払いを現金でもらうことになっている>
「ああ、もちろん忘れてはいないよ。だが、火事とともに冷凍機も壊れて、カニはもう売り物にならないのかも知れないのだよ」
<いや、案ずることはない、船長。実はおれは港で夜の内にクリュチェフスカ号に忍び込んで、ポリ袋に詰めた「エツール(実際にはこの世に存在しない幻覚剤で、私の想像上の産物)」を20`、あのカニの山の芯の方に隠し入れたのだよ。たとえ、カニはすべて腐れ果てたとしても、あの荷物の価値がまったく失われてしまうということはない。是非あれを現金に換えて、ロシアで待つ妻や子供たちに父であるおれの最後の航海のしがない遺産として現金を渡してやってくれ。それと、おれを水葬にしてくれたことには本当に感謝している>
「死体を水葬してしまったことは済まない。搬送の手段がなかったのだ」
<あの寒々としたロシアの大地に埋葬され、やがてウジ虫どもに食い尽くされ、食物連鎖してブタの餌になるよりも、海の底に沈み込んで死体をタラバガニに食われ、南へ南へとアジアを下り、人々の胃袋を旅して廻ることを好むよ>
そう言い終わると、ズブコフの幽霊は一瞬にして暗い部屋の空気のなかに消えた。
13
つぎの日の朝、私は6時ころに起きた。私は自分がどこにいるのかを忘れかけていて、何か素晴らしい場所にいるような気がした。だが、それは一瞬の甘い夢の断片によってもたらされた錯覚だとすぐに気づいた。その夢では私は故郷の家にいて、もう亡くなった両親がいた。オルガも笑いながら私にかけ寄ってきた。
現実には、私はこの東洋の小さな港町の小さなホテルの気味の悪い一室で、相変わらず途方に暮れているだけなのだった。
枕元の絵を見た。やはり絵のなかの娘はどうしてもオルガとしか思えなかった。私の最後の航海は始めから終わりまで不吉な予感や、悪霊や、気狂いにあふれていたが、先程の一瞬の甘い夢が強い光を直視した後の余韻のように残ったのが唯一、救いに思えた。
もう何も考えないことにして、私はベッドから起き出し、ゆっくりとひげをそり、下着を着替え、それからセルゲイに無線で連絡を取った。何をしているのか尋ねると、みなでクリュチェフスカ号のデッキをブラシでみがいていたのだと言う。
「昨夜、ズブコフの幽霊を見た」
「あっははは。ははは」
「笑いすぎだぞ、セルゲイ」
「相当、あの日本人と飲んだみたいですな、船長。ズブコフは何か言っていましたか?」
「カニのことを言っていたよ」
「カニ?」
「そうだ。ところでセルゲイ、冷凍庫のカニの状態はどうだ?」
「タイム・リミットです。解けたカニをつまみにウォトカを飲んでいます」
「そうか」
部屋の電話が鳴った。私はセルゲイとの交信を終わり、受話器を取った。
「はい」
「ワフルーシン船長ですか」
「そうだが」
「高橋です。朝食はもうお済みですか」
「いや、まだだ」
「では是非、1階のレストランにいらしてください。打ち合わせしなければならないこともあるので」
「何を打ち合わせるのだ」
「クリュチェフスカ号の積み荷のカニの処理についてです」
私は無意識に、昨夜幽霊が立った辺に目を走らせた。
「たしかに、早急にそれについて打ち合わせなければならないだろう」
部屋を出ると、廊下のじゅうたんの上に十字架のついた鎖が落ちていた。私はそれをそのままにした。
ホテルの1階に下りていった。
レストランに入ってゆくと、高橋の他に、後2人の日本人と、薄いグレーの仕立てのよい背広姿のロシア人が待っていた。2人の日本人のひとりは高橋と同じように背広を着て、もうひとりはジャンパーを着ていた。ロシア人は札幌のロシア領事館の領事だった。
自己紹介、事故のねぎらい、死者へのお悔やみの言葉の後、私は他の者たちと同じように、西洋料理や、日本料理の混在したバイキング方式の料理から、コーヒー、スクランブル・エッグ、ジャムやパンなどによる朝食を摂った。私は席に戻りながら普段ロシアで食べているのと同じようなものしか取らない自分にあきれた。
「今回のシナリオは完全な失敗だったが、失敗から学ぶことも多い」ロシア領事が言った。「私はこの件に関して、大統領から全権を委任されている」
高橋は食事の最中、大型の携帯電話のプッシュ・ボタンを盛んに押していた。相手先につながったかと思うと、かれは二言三言ロシア語を話し、「スパシーバ」と言った後、私に電話機を渡した。「キルキン社長です」
まったく、ロシアとこの国は、無声映画とシネマスコープくらいの違いがある。
「ワフルーシン船長。君には悪いことをした。今回の計画は完全な失敗だ」
受信状態はよくなかったが、キルキンがそう言うのが聞こえた。
<船員たちの給与はどうなります。カニはもう解けてしまって売り物になるかどうか分かりません>
私はそう言いかけたのだが、音声が着信するまでの時間的誤差のせいで、キルキンは私の言葉に重ねて、また話しはじめてしまった。
「カニは裏経済同士の取り引きに任せる。君はそこにいる高橋君から手数料を受け取ってくれ。それで船員たちの給与は支払えるだろう。それと、中古車を持ち帰るのは中止だ」
そのとき、私たちの後ろのテーブルでひとりで食事をしていた日本人が私たちに話しかけた。
「おう! おめぇらうるせぇんだよ! ロシア語でペラペラよ。オーチンハラショ、オーチンハラショってよ」
見れば、南洋で着るような大柄の花模様のシャツを着た中年男だった。
私はかれを無視して話しつづけた。
「それは結構なことだ」と、私はキルキンに言った。だが、それ切り言葉がなくなった。ズブコフの幽霊のことを話そうかと考えたが、話題としてふさわしくないように思え、話さないことにした。
領事が口をはさんだ。
「今回は失敗に終わったが、あきらめさえしなければ、つぎの機会がある。同じシナリオで、登場人物は変わってしまうが……」
14
私たちの後ろの席でひとりで食事をしていたのは北野という、外国の映画祭で賞も取ったことのある映画監督だった。
「北野さんは私の知り合いなのです」
高橋は私に言った。わざわざ連れてきて控えてもらっていたのだと言う。
「いや、いや、『神様』の紹介できたんだよ。おれもいろいろお世話になっているからネ」と、北野は私に言った。「ワフルーシン船長が今回の航海で何をやったとか、何を見たとか、原稿にして見せてほしいんだよ。後はおれが適当に――適当にって言っちゃいけないけどナ――、適当に直してシナリオにして映画を作っちゃうから。原稿はすぐにじゃなくてもいいんだよ。うん、気が向いたら書いてくれればいいから」
「なぜ、このことを映画にしようと思うのだ」
「面白いと思うからだヨ」
「なぜ面白いと思うのだ」
「なぜって、批評の3原則っていうのがあるだろう、『それを描く必要が本当にあったのだろうか』って。これは描く必要のあることなんだよ。だから、面白い。それからね、おれの大学の後輩に水産業界に勤めているのがいてね、そいつが業界のためにこういうことを描いてくれっ言うんだよ。笑っちゃうよ。そいつ、ちょっといかれているんだ」
15
私は打ち合わせの後、至急クリュチェフスカに戻らなければならなくなったのだが、領事が私といっしょにホテルの部屋にきた。
領事は部屋に入るなり、「ラファイル学派だ」と、壁にかかったオルガに似た娘の絵を見て言った。私は絵と、領事の顔を交互にまじまじと見てしまった。
「オフィーリアが水死する寸前を描いた絵だ」
「シェークスピアですか?」
「そう。『ハムレット』」
領事は答えた。その後、領事はほとんど自分からは何も話さなかった。
私は領事に「クリュチェフスカ号と、カニはどうなるのですか?」と、訊いた。
領事はその質問には答えず、「この英国で書かれた絵が、遠い異国にやってくるまでにどのくらいかかったか想像できるか」と、言った。
領事が言おうとしていることが私には理解し難かった。
クリュチェフスカ号は海難事故だったのだから、カニに保険金がおりるはずだと、私は思った。
「まとめなければならない荷物があるなら手伝おう」
領事は言った。
「いや。何もないのです」
私はすぐに沖合いに停泊中のクリュチェフスカ号に戻った。その後、半日程で、前とは違う日本の駆逐艦が私達を乗せるためにクリュチェフスカ号に直接横付けした。
ほぼ同時に、駆逐艦が横付けしたのと反対側の船べりに、平たいプラットホームを持った艀が横付けされ、積み荷のカニを移し換えることになった。ズブコフの幽霊の言っていたエツールなどは発見されず、カニの荷渡しは順調に進んだ。ただ、冷凍の紅サケが1ケース、間違って混入していた。私は高橋からカニと、クリュチェフスカ号の運搬手数料を受け取った。
私は最後まで船と運命を共にすることなしにクリュチェフスカ号を下りることになった。セルゲイが私に一本の紙筒を渡した。
「何だ、これは」と、私は訊いた。
セルゲイは無言で、ポスターであるその紙筒を広げてみせた。顔に過激な化粧をした、アメリカか、イギリスかどこかのロックンロール・バンドの写真が現われた。
「前に行方不明になった船員の船室にずっと貼ってあったものをはがしてきたのです」セルゲイは言った。すぐにかれはそれを裏返した。
「流行歌と、落書です」
そこには黒いボールペンで、小さい、汚れと見間違えてしまいそうな文章が書かれていた。
最後の航海帰ればアフガンゆきできれば海の上で死にたい
ひとりで、ひとりきりで
新しい歌のアイデアを探していた
新しい音楽さ、新しいスタイルさ
波が来る
「これをどうするんだ」と、私はセルゲイに訊いた。
セルゲイはそれを海に捨てる振りをしてやめて、「家族に返します。どうなるわけでもないですがね」と、言った。
駆逐艦に乗り移る小型の救助艦のなかでウェイトレスがまた騒いだ。 「カニのなかに死体が入っている!ズブコフが殺した!
ズブコフが殺した!」
私たちはウェイトレスを取りおさえて、口にサルぐつわを噛ませた。
駆逐艦に乗り移って、私たちはオホーツク海を北上し、ロパトカ岬の南方の公海上でロシアの水産加工船に合流し、乗り換えて、2日間の航海で相変わらずの曇り空のペトロパブロフスク・カムチャッツキーに戻った。
チェーホフにちなんで、『三人姉妹』と呼ばれている湾の入り口の3本の煙突が後方に流れてゆくのを見ながら、<私たちはいったい何をしにいったのだろう>と、思った。
20日間に満たない航海で、私たちは3つのものを失くした。カニと、クリュチェフスカ号と、ズブコフである。代わりに何を受け取っただろう?
――手数料の現金。
――個別的な極東の歴史(北野は私にその歴史を語れと言う)。
単なる気持ちの上の遊びではあったが、私はこれでは割が合わぬと思った。失くしたものが3つあるのなら、受け取るものも3つあってもよいだろう。
まだ、受け取るべきものが1つ足りない。
だが、私にはそのもう1つがどうしても思い浮かばなかった。
「三人姉妹」が見えなくなり、流れてゆくのは実は自分だとようやく意識させられる程に湾内に深く入ると、レーニン・コルホーズの白い建物が見えてきて、その前にあるドックが近づいた。
――私には最後の1つの答えが見えてきた。
人数は多くはないが、曖昧な境界線を持った乗組員の家族たちのいくつかの小集団が、迎えのためにドックに立ち、徒歩で、自動車で、到着しつつあった。
見憶えのある黒いジャケットを着た銀髪のキルキンの隣に女が立っていた。その女は控え目にときどき手を振った。
「オルガ!」
私は叫び、手を振った。私はもはや船長ではなかったし、私には帆を風にはらませる船もなかった。
乗組員の家族がみな手を振っている。
もう、ウォトカを飲むのはやめよう! 私はもう陸に上がろう! 私はもっと大切なものを取り戻した!
16
私はオルガとともにペトロパブロフスク・カムチャッツキ−の郊外のバス停の人の列に並んだ。狭い舗装道路から車輪をはみ出させるようにして、大型トラックがゆきかう交差点だった。何もない荒涼とした大地に一団のアパ−ト群と工事現場が見えるだけだった。そこは私がウォトカの酔いや、悪夢や、幻想のなかで見た荒野と似ていた。
カニに混入した冷凍紅サケのケースを日本で開けてみると、なかからナイフが刺さったままの死体と、麻薬の白い結晶の入ったポリ袋が見つかった。死体はクリュチェフスカ号から行方不明になった水夫のものだった。死体は日本政府の手によってロシアのハバロフスクに搬送され、調査の結果、ナイフからズブコフの指紋が発見された。当局はズブコフが麻薬の密売に関与しており、それに関連した事件だったと結論づけた。ウェイトレスにも麻薬中毒の形跡が見られたが、精神病に罹患しているということで不問に付された。
ズブコフは麻薬の密輸に水産物を利用し、クリュチェフスカ号もその舞台になりかけていたらしい。
私はオルガとダ−チャにいく途中だった。
あまり役には立たないだろうが、「時代遅れのド−ミトリ−」がダーチャの建設を手伝ってくれる。
カムチャッカの短い夏がもうすぐ終わろうとしていた。
バスがちょうどきて、人々の列がすこし揺れた。
バスに乗ろうとステップに足をかけながら私はダーチャの周りのライラックやエ−デルワイズのことを思った。
了 |