健田須賀神社と結城朝光

                     健田須賀神社
                          宮司 小貫隆嗣

 健田神社は明治5年、浦町(現在地)須賀神社(それまでは、祇園社、又は牛頭天王社、天王宮と称した)と合祀され現社名健田須賀神社となった。健田神社は醍醐天皇勅撰日本で一番古い公式記録集『延喜式』に
掲載されているいわゆる式内社である。須賀神社は社伝によれば結城家初代朝光が尾張国津島神社より仁治3年(1242)に御神霊を結城の地に勧請したと伝えられている。今年で神社創建以来760年になる。 さて、ここで朝光と須賀神社について考えてみる事にする。
 朝光が結城の領主となる以前は簗氏、人手氏が結城を所領していたといわれるが、常陸国霞ヶ浦の南信太庄在地領主志田義広と野木宮西の谷において戦い(1182)、大功をたてその結果、結城を頼朝より拝領したといわれている。この後結城に館を建て、城館を中心に結城の街並も次第に整いつつあった。
 朝光は下総国一の宮香取神社造営にあたり、祭殿一宇を結城地頭として造営役を寄進している。まさに下総一の宮への寄進は結城領を支配する武将としての責務と誇りでもあった。
 朝光は当時常陸国稲田を中心に活動していた親鸞に帰依した。
一方で城下が整いつつあれば、己の氏神とすべく神社を建設せねばならなかった。むろん結城家の安寧と繁栄を祈る事は承知であるが城下領民、士庶一体となって共同祭祀が営める社でなければならなかった。
自分の出自からすれば、父小山家の氏神「祇園社」であろうし、烏帽子親頼朝から考えるのならば当然八幡神であろう。朝光は小山家と同じ祇園社を祀った。兄宗政は八幡神を氏神とした。この事実から考えると頼朝の御落胤説を否定する余地がないわけでもない。
当時は平安時代初期より全国的に御霊信仰が盛んであった。「御霊信仰」とは、社会的に広範な範囲の人々を脅かすような災疫の発生を、霊鬼的存在である怨霊の仕業とみなして恐れ、かつこれを鎮めることによって平穏を回復し、ひいては繁栄を実現する信仰を云う。御霊を鎮めるためには御霊を慰和、遷却する儀礼である御霊会がおもに疫病の最盛期を控えた夏に行われた。これが祇園御霊会で、笛、囃子さまざまな風流ものが登場する。この頃より神輿が造られるようになる。御霊会における鎮めの原則は、この世に浮遊している御霊を外界へと送り出すものであったが、一方で御霊のなかに、「神社の祭神」として恒常的な祭祀の対象となって行く第二の型のものも現れるようになった。その代表の神は祇園社の牛頭天王(スサノオノミコト)天満天神の菅原道真、神田明神の平将門などである。高天の原を追放された神、政治的失脚者が怨霊となり猛威を振るうというのだ。しかし、この神は手厚く祭祀することにより悪疫を払い繁栄をもたらす神となるのである。朝光はためらわずこの牛頭天王を祭祀したに違いない。この牛頭天王は祇園精舎の神でスサノオノミコトと習合し悪疫退散の神であり、丑寅の方角を睨む頑強な神である。当時結城が農業を司る神より都市型の神、牛頭天王をまつったのは城下が商業都市の様相を呈しつつあるのもうかがえる。
 この祭祀形体は、城下の鬼門除けに式内社高椅神社を配し、裏鬼門除けに祇園社(須賀神社)を祀ったものと思われる。爾来、結城家の支配下108郷の総社として、夏の祭礼も今日まで連綿と伝えられている。祭日も旧6月11日より18日迄の一週間であった。この一週間も朝光が神社を建てて、お祝いに一週間祭礼を行ったともいわれている。
 以後歴代の領主の崇敬は篤い。7代直朝の時代、康永2年(1343年)関城攻略を祈願して、結城七社を定めた。牛天王社、住吉大明神、大桑大明神、高椅大明神、八幡宮、大神宮、鷲宮大明神、と定め、牛天王社を筆頭に揚げ、結城領内もっとも主要な神社とした。結城家から発給された文書は当神社に19点所蔵されて居る。たとえば応安6年10月13日の結城基光書下状には「結城郡宮々十二命婦并宮人等」が人足役公事の免除を願い出ていると有るが、当時郡内の神社神官らが、おそらくは結城七社の中心であった一命婦らを頂点として、統括していたと推察される。そして、この命婦は牛頭天王にいた可能性が強い。
 また応永7年9月2日には結城領内の麹の営業を認めた文書がある。
「かうち屋の間の事、いせんの御せいはいのことく、ゆうきうちの分、とりさたあるへき状如件」牛頭天王を媒介にして座の組織を持っていた麹屋十人に特権を与えたものである。神社より特権を与える替りに祭礼等の神役奉仕に当たったものと思われる。また当時中世武士社会におけ
る結城の宿中、街並の賑わいを思わせる文書も残っている。原文略
 さらに天正2年の晴朝書下状に「きおんの御やしろくわん進、宿中その外在郷まても、入念を、これをいたすへく候」
 とあり、当社造営の勧進が領内広い範囲に行われている。結城秀康移封後も、またその子松平直基が山形転封後も代拝を差遺し、崇敬の程篤かった。
 少し結城家歴代まで触れたが紙上都合で全部は紹介できないが常に結城家はもちろんのこと、結城々下領民のこころの拠り所として牛頭天王社が存在し、今日の健田須賀神社となっても当時さながらに伝えられている。
 神社は古来より日本人の住む所、生活の営まれる所には必ず存在した。一定の地域に定住し、共同して開拓し、耕作に従事した農耕社会では、その共同体ごとに共通の守神をまつった。そうした土地々々の地縁によって結ばれた地域共同体の守護神を産土神といい、また血縁によって結ばれた特定の氏族の守護神を氏神という。この産土神をもって氏神としたり、氏神をもって産土神としたりするがいずれにしても産土神なり、氏神なりのいわゆる鎮守の社は全国津々浦々の集落にあり、共同体の生産生活と密接する大切な守神である。
 科学万能の時代から朝光の神社創建のころを思う時、760年の式年祭を無事斎行し、創建時同様神輿は炎暑をおして市中渡御し、荒ぶる神の御霊を慰め、個々の健康と共同体結城市の発展を祈る祭りが継続している事を、朝光はどこまで今日の世を想像したであろうか。
健田須賀神社の御祭神だけはその時代々々の移り変わり、結城に住まいする士庶、市民の暮らしぶりを静かに見つめているのである。