99'オイリュトミー

☆オイリュトミーとは☆
☆私のとってのオイリュトミー☆
≪フィオーナアンサンブルのワークショップに参加して(99'4月)≫
☆バレリーナの友人と話をして☆
≪フィオーナアンサンブルの講演を観て≫
☆私のとってのオイリュトミー
私が初めてオイリュトミーと出会ったのは、2年前、
名古屋でのフィオーナアンサンブル・ワークショップに
参加した時だった。何が何だか解らないまま、ワークショップが
進む中、静かな、しかし、大きな感動が私の中に起こってきた。
「人に何かを手渡すこと。受け取ること」「人とつながるということ」
と言うのは、こういう事なのか!こんなにも丁寧にたいせつに事に
向うと言うことを日々の日常の中で忘れてしまっていた私に、
新たな感覚を呼び起こさせた瞬間だった。
それ以来、月に1度、横山守文先生のオイリュトミーワーク
ショップに参加するようになった。
オイリュトミーは、私たちのからだの動き全てに意味があり、それを
一つ一つ丁寧に意識化していく、という精神的作業が大きいものであった。
自分の中での私≪イッヒ≫というものの位置づけが、明らかに変わっていった。
自己をこんなにも深く感じ、指先で大地をつかむように立ち、そして、
まっすぐに宇宙とつながって行くという事。まわりを感じ、意識することで
直線を感じ、後ろを感じることで、前進する。自己の能動的な意志の動きに
よって、曲線を形作るという事。右に動いた時に左を、左に動いた時に右を
感じ、意識すること。・・―・・―・・―の オイリュトミーのリズムが
人の意識を起こす、目覚めさせるリズムである事。・・・等など。
オイリュトミーに行く度に、一つずつそんな宝物を貰って帰って
こられる事が嬉しくて、月に一度、守文先生に会いに行った。
そして、2年たった今、徐々にそれが、日々の日常の中に意識化され、
自分の体の中に少しずつではあるが、浸透してきたように実感している。
そして、2年ぶりのフィオーナアンサンブルのワークショップだった。
以前にもまして、美しく魅力的なリタのワークショップは、私に限りない喜び
と生命の活力を与えてくれた。50名ほどの大所帯のオイリュトミーは、
いつもの10名ほどのそれとはまた一味違い、まるで全体が一つの生命で
るかのような鼓動、息遣いのようなものや、生命の循環を深く感じた。
そして、それぞれのフォルムが全体を形作り、そこには、
協調性や責任感に似たような感覚も覚えた。明らかに2年前には
見えていなかったものを、感じている自分が嬉しかった。
これからも、守文先生の月1オイリュトミーに通うわけで、
これから私が何を学び、何を吸収し、何を自分育ての肥やしとして
成長していくのか…?。また1年後にあるかもしれない、フィオーナの
ワークショップにどういう自分で参加しているのか…?。
とても自分自身が楽しみである。
☆バレリーナの友人と話をして…☆
名古屋のオイリュトミー公演に、高校時代の友人が私の軽い誘いに
二つ返事で来てくれた。画廊の仕事をしている彼女は、元バレリーナだった。
公演後のロビーで、間一髪の所で彼女に会え、10分ほど話をすることができた。
A子:「まるで手話をしているみたいな動きねぇ」
私:「う〜ん、手話ね。一つ一つに意味があるから、そうかもしれないね。」
A子:「足元の動きはあまり感じなかったけど、上半身の動き、表現はすごいね。」
「これはいったい何?民族的なもの?」
私:「ううん、民族的なものじゃなくって、ドイツのシュタイナーって人が作った、
教育の中の芸術的表現で…云々…」
A子:「ふ〜ん、でも何か民族的なものを感じたな〜」
また、お食事でもしようと約束をし、彼女と別れた。
ワークショップ・公演と忙しかった日々がやっと終わり、落ち着気を取り戻すと共に、
この彼女との会話が、私の中に蘇ってきて、グルグルまわっていた。
う〜ん、手話。なるほど〜。オイリュトミーは、目に見えない、
音楽や言葉を目に見える形にしたものかぁ〜。
民族的ねぇ。そう言えば、日本の能とオイリュトミーは、宇宙を意識する
というところでは、同じじゃないの!そう思ったら、ヴィリギリウスの
「おもしろ日本語オイリュトミー」は、まるで、狂言だわ!!
わぁお〜「オイリュトミー」と「能」と「狂言」が頭の中でつながったのだ。
それにしても、さすが日々芸術を見極める仕事をしている彼女の鋭い目で
見た感想を聞けたことによって、私なりのオイリュトミーへの理解を
より深めることができたことを感謝して、近々、お食事に誘おうと思う。
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