芹沢鴨

    芹沢鴨光幹(せりざわ かも みつもと)

新撰組へ

芹澤鴨は新撰組初期編成時の局長として有名である。
神道無念流の戸ケ崎熊太郎に入門し、免許皆伝で師範役であった。

芹沢鴨は、文政9年(1826年)常陸大掾一族芹澤氏の後裔で水戸藩郷士上席の士分格の芹澤貞幹(さだもと)の三男として生まれた。幼名は源太。
十代で神官下村祐斎の娘と結婚し、下村継次(としつぐ)と改名した。
下村継次(芹澤鴨)は15歳の時潮来学校(延方郷校)で水戸学と尊王攘夷思想を学んだといわれる。潮来学校は主に医学を教える学問所で、武田耕雲斎などの学者や武道の師範役も廻ってきており、後にこの郷校(文武館)出身の若者達が集まり尊皇攘夷派組織「天狗組」が結成された。下村継次も天狗組に参加している。
水戸天狗党では水戸尊攘派「玉造勢」の頭となり300名の部下を率いていたという。 しかし安政6年(1859年)、勅書返納事件の際に、長岡で阻止運動を起こした長岡事件に関わって新見錦とともに捕らえられた。死罪を覚悟して絶食し、小指を切って鮮血で辞世を記したといわれている。
下村継次は、清河八郎が「一に攘夷、二に大赦、三に天下の人材登用」をうたった「急務三策」を松平春嶽に献じていたことと、天狗党武田耕雲斎の助命嘆願が聞き入れられて釈放された後まもなく天狗党除名となり、芹澤鴨と改名した。
妻との死別を機に勤皇活動の為に下村家を離縁したともいう。

しかし、まもなく天狗党除名となり、文久3年(1863年)2月、天狗党時代からの仲間である新見錦、平間重助らと共に浪士組に参加する。
芹澤鴨は新撰組となってからは局長として活躍した。

しかし、芹澤には問題が絶えず、酒に酔って島原角屋で狼藉におよび、主人に七日間の営業停止を命じたり、大阪力士との乱闘を起こしたり、大和屋に借財を断られて激怒し大和屋を打ち壊したりであったため、文久3年(1863年)9月16日、京都の八木邸で泥酔し寝入ったところを近藤派によって平山五郎とともに暗殺された。享年38歳。

なお、平間重助は逃れ、そのまま行方不明となる。故郷の芹澤で明治7年(1874年)に亡くなっている。


浪士隊江戸出立の三日目、本庄泊りの際、先番宿割りの任についていた近藤勇が芹澤らの宿割りを落としてしまい、激怒した芹澤は道路いっぱいに焚火をする事件を起こした。このため芹澤は小頭を罷免されるが、その後取締並出役手附となっている。

文久3年(1863年)禁門の政変の際、浪士組の存在を知らなかった会津藩三番組が、浪士組に対し一斉に槍の鞘をはずして詰め寄ってきた。近藤勇や新見錦がたじろぐ中、芹澤だけは平然として悪口雑言を吐いたという。

芹澤は屯所としていた八木邸の子供が亡くなった時、その葬儀で受付を手伝っている。その時、子供達といたずら書きをして遊んでいたという話もある。

芹澤が片時も酒を手放さなかったのは、ひどい梅毒に悩んでいたためだとも言われる。


芹澤家
芹澤家は室町時代の武将、常陸大掾(だいじょう)一族芹澤氏の後裔である。芹澤村一帯は室町時代に第26代当主芹澤俊幹が築城した朝日城(芹澤城)の城跡であり、芹澤家は代々城跡別邸に住んでいた。
江戸時代初期、当主の芹澤通幹は大阪夏の陣の折に徳川家康の麾下となり、医術によって家康の勝利に寄与したという。その後芹澤家は長男の通幹が継ぎ、次男は水戸藩に引き立てられて藩士となったという。

兄弟は長兄の興幹、次兄の成幹、姉の多気がいる。興幹は子がないまま亡くなったため、窪合氏の養子となっていた成幹が家督を継いでいる。

芹澤家は家伝の傷薬が有名であった。次兄成幹は医学に長じ、元治元年7月、京都蛤御門の変のときには幕府の命令で戦傷者の治療に当った。
しかし成幹は武田耕雲斎に師事して天狗党を支援し長州征伐の従軍令に従わず、水戸牢に投獄されて、慶応2年(1866年)7月12日、病で獄死した。享年53歳。


下村家 下村家は、九州のキリシタン大名として有名な大友家の家系であった。大友家没落後は小倉小笠原藩に仕官し、天草の乱の戦功により水戸に移った。その後地元の十石堀建設に功労があって、代々藩目付役をしてたといわれる。
下村義次のとき磯原の弟橘媛(おとたちばな)神社(通称「天妃(てんぴ)山」)の神官を引継いだ。
二代目は弟橘媛(おとたちばな)神社及び松井の烝殿(じょうどの)神社行を引き継いだが行方不明であり、尊皇攘夷の活動に関わっていたらしく、これが下村継次(芹澤鴨)であるらしい。二代目の実子常親が三代目となっている。