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芹澤鴨は新撰組初期編成時の局長として有名である。
神道無念流の戸ケ崎熊太郎に入門し、免許皆伝で師範役であった。
芹沢鴨は、文政9年(1826年)常陸大掾一族芹澤氏の後裔で水戸藩郷士上席の士分格の芹澤貞幹(さだもと)の三男として生まれた。幼名は源太。
しかし、まもなく天狗党除名となり、文久3年(1863年)2月、天狗党時代からの仲間である新見錦、平間重助らと共に浪士組に参加する。
しかし、芹澤には問題が絶えず、酒に酔って島原角屋で狼藉におよび、主人に七日間の営業停止を命じたり、大阪力士との乱闘を起こしたり、大和屋に借財を断られて激怒し大和屋を打ち壊したりであったため、文久3年(1863年)9月16日、京都の八木邸で泥酔し寝入ったところを近藤派によって平山五郎とともに暗殺された。享年38歳。 なお、平間重助は逃れ、そのまま行方不明となる。故郷の芹澤で明治7年(1874年)に亡くなっている。
浪士隊江戸出立の三日目、本庄泊りの際、先番宿割りの任についていた近藤勇が芹澤らの宿割りを落としてしまい、激怒した芹澤は道路いっぱいに焚火をする事件を起こした。このため芹澤は小頭を罷免されるが、その後取締並出役手附となっている。 文久3年(1863年)禁門の政変の際、浪士組の存在を知らなかった会津藩三番組が、浪士組に対し一斉に槍の鞘をはずして詰め寄ってきた。近藤勇や新見錦がたじろぐ中、芹澤だけは平然として悪口雑言を吐いたという。 芹澤は屯所としていた八木邸の子供が亡くなった時、その葬儀で受付を手伝っている。その時、子供達といたずら書きをして遊んでいたという話もある。 芹澤が片時も酒を手放さなかったのは、ひどい梅毒に悩んでいたためだとも言われる。
芹澤家
兄弟は長兄の興幹、次兄の成幹、姉の多気がいる。興幹は子がないまま亡くなったため、窪合氏の養子となっていた成幹が家督を継いでいる。
芹澤家は家伝の傷薬が有名であった。次兄成幹は医学に長じ、元治元年7月、京都蛤御門の変のときには幕府の命令で戦傷者の治療に当った。
下村家
下村家は、九州のキリシタン大名として有名な大友家の家系であった。大友家没落後は小倉小笠原藩に仕官し、天草の乱の戦功により水戸に移った。その後地元の十石堀建設に功労があって、代々藩目付役をしてたといわれる。
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