武田観柳斎

    武田観柳斎徳裕(たけだ かんりゅうさい とくひろ)

新撰組へ

武田観柳斎は新撰組五番組長として有名である。

武田観柳斎は出雲母里の出身で医学生だったとされる。福田広といった。
江戸に出て福島伝之介塾などに学び、甲州流軍学などを習得した。

文久3年秋頃新撰組に入隊。副長助勤を務める。
元治元年6月5日の払暁、四条西木屋町の桝屋喜右衛門宅を襲って古高俊太郎 を捕らえ、その日の池田屋事件でも近藤らと斬り込んでいる。

永倉新八らが会津藩に提出した近藤勇の増長に反発する建白書の件では、 命を賭して両者の和解をはかろうとしたという。

文学師範を兼任し、壬生寺などで隊士らに甲州流軍学の調練を行った。しかし、 慶応2年幕府の軍学がフランス式を取り入れ出すと新撰組もこれを導入したため 居場所を失う。薩摩藩に接触をはかり伊東甲子太郎らにも接触をはかるが拒絶され、やがて新撰組を除隊となる。

その後討幕運動を行っていたが、油小路竹田街道で同志となっていた僧侶善応 とともに新撰組に斬殺された。慶応2年9月28日竹田街道銭取橋付近にて斎藤一、篠原泰之進に殺害されたとされていたが、現在は慶応3年6月22日とされている。この時には斎藤一、篠原泰之進は伊東甲子太郎とともに御陵衛士として新撰組を脱退しているので、両名による斬殺ではない。