悠(yuu)の『源氏物語』千年紀
紫式部によって書かれた『源氏物語』は平安時代の1008年(寛弘五年)には宮中ですでに読まれ、評判になっていたことが「紫式部日記」に書かれています。それから千年の歳月が流れても、世界の古典として海外でも読まれている、わが国が世界に誇る不朽の名作です。
「源氏物語」の現代語訳は与謝野晶子や谷崎潤一郎をはじめ、瀬戸内寂聴、円地文子など数多くあります。
先に西暦2000年という記念すべき年に巡りあわせ、21世紀の始まりにも立ち会いました。そして、平成20年の今年、世界の古典「源氏物語」誕生千年紀に立ち会うという奇遇に恵まれ、何もせずにはいられませんでした。
「源氏物語」誕生1000年紀を祝して、「桐壺」の巻だけですが、悠(yuu)も現代語訳を試みてみようと思い立った次第です。( )書きの部分は理解の手助けとして書き添えたものです。かえって読みづらいかもしれませんが、老婆心ながら、、、。
(注):入内(じゅだい):(皇后・中宮・女御などに決まった女性が、正式の儀式によって)内裏(宮中)に入ること。
(注)天皇のお妃:皇后(一人)・中宮(二、三人)・女御(五人前後)・更衣(七人前後)といった方々がいた〔時代によって変動はあったが〕。
源氏物語 「桐壺」・現代語訳 H20・6・17
どの天皇のご治世(のとき)でございましたか、(お妃として)女御、更衣(といった方々)が(帝のお傍に)大勢お仕え申し上げなさっていた中に、それほど高貴な家柄(の出身)ではない方で、〈他のお妃よりも〉際立って〈帝の〉寵愛を受けていらっしゃる方があった。
(入内の)最初から自分こそは〈帝のご寵愛を受けるべきお妃だと〉自負なさっていた女御方は、(この方を)気に食わない方とさげすみ、(また)ねたみなさる。〈その方と身分が〉同程度やその方より身分の低い更衣たちは、言うまでもなく心中おだやかではない。
〈この方は〉朝晩のお側仕えにつけても、〈他の〉妃たちの〈嫉妬の〉心をかきたててばかりで、恨みを受けることが積もり積もったのであろうか、ひどく病気がちになっていき、なんとなく心細そうに実家に下がっていることが多いのを〈帝は〉いっそう飽きることなく愛しいものとお思いになって、(宮中のお側仕えの)人の非難にも気兼ねなさらず、(一人の女性を寵愛のあまり、政治をおろそかにしたという)世間の話のタネにもなってしまいそうな(この方に対する帝の)ご寵愛ぶりである。
上達部や殿上人(といった人)なども、感心しない(ことと)目をそむけそむけして、度が過ぎてとても正視できないほどの〈この方への〉帝のご寵愛(ぶり)である。
中国でも、こういうこと(帝が一人の女性を溺愛したこと)が原因で、国が乱れ、具合が悪かったと、(宮中に止まらず)次第に〈広く〉世間でも情けない(こととして)人々の悩みのタネとなって、(唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けたことによって国が乱れ、国が滅んだという)楊貴妃の先例も引き合いに出してしまいそうになっていくので、(この方は)どっちつかずのことが多いが、(帝の)もったいないほどのご愛情の比類ないのを頼りにして(他のお妃たちと)宮仕えなさ(ってい)る。
(この方の)父大納言は(すでに)亡くなって(いて)、母北の方は古い家柄の出の人で、一応教養のある方なので、両親がそろっていて、さしあたって世間の評判がはなばなしいお方々(お妃たち)にも遜色ない(ように)、(母の北の方が)あらゆる公的な行事をも執り行いなさっていたが、取り立ててしっかりとした後ろ盾がないので、いざという大事な事(儀式)があるときには、やはり頼るところがなくて心細そうである。
(この方〔更衣〕と帝とは)前世でもご宿縁が深かったのであろうか、(帝の寵愛を一身に受けているうえに)世に比類なき美しい玉のような男のお子までがお生まれになった。(帝は)早く(この皇子を見いたいものだ)と待ち遠しくお思いになられて、急遽(宮中に)参上させて(皇子を)ご覧になるに、(この世に)滅多にない(ほどの)若宮のお顔立ちである。
第一皇子は、右大臣の娘の女御がお産みになった方であって、後見がしっかりしていて、(どこから見ても)疑いようのない皇太子(になられる方)として、世間で大切にお扱いし申しあげるが、この皇子(光源氏)の美しく映えるようなご容貌には肩を並べなさるはずもなかったので、(帝は第一皇子には)一通りの大切な方としてのご愛情であって、この若宮(光源氏)(の方)を秘蔵っ子にお思いになり大切にお扱いなさることはこの上もない。
(この更衣は、入内の)はじめからありきたりの(帝の)お側で身辺の用を勤めなさるはずの(低い)身分ではなかった。世間の評判が大層重々しく、高貴な人らしく見えたが、(帝が)分別なく身近かにいさせなさりすぎた結果、(宮中での)しかるべき管弦の演奏の時々や、どんなことでも趣きある催事の折々には、(この方を)真っ先に(お側に)参上させなさる。(また)ある時にはお寝過ごしなされて、(帝は)引き続きお側にお仕えさせなさるなど、強引におそばを離さずお引止めなされたので、(この方は)自然と身分の低い方(女房)のようにも見えたが、この皇子(光源氏)がお生まれなさって以後、(帝はこの方に)格別気を配りお心づもりなさっていたので、「東宮坊(皇太子)にもひょっとすると、この皇子(光源氏)が立ちなさるはず(の方)であるようだ」と、第一皇子の(母である弘徽殿の)女御はお疑いなさった。
(この女御は他のお妃の)誰よりも先に入内申し上げなさって、(帝の)並々ならぬご愛情は一通り(のもの)ではなく、皇子たちまでがいらっしゃるので、(帝は)このお方(女御)のご忠告だけはやはりけむたく、苦痛(だが、無視できないもの)にお思い申し上げなさっていた。
(一方、この更衣は帝の)恐れ多いご庇護を信頼し申し上げてはいるものの、(この方を)さげすみ、落ち度〈あら〉を探し求めなさる方(お妃たち)は多く(いて、この方)ご自身は病弱でなんとなく頼りない状態で、なまじっか(帝のご寵愛など受けるようなことを)しなければよかったと気苦労をしなさる。(この方の)お部屋は(帝のご在所から最も遠い)桐壺(淑景舎)である。
(帝が)多くのお妃たちの御殿をお素通りなさって(更衣の局に)ひっきりなしのお通りに、お妃たちがお気をもみなさるのも、なるほどごもっとも(なことだ)と思われた。
(更衣が帝のもとに)参上なさる際にも、あまり度重なる時には、(他のお妃たちは途中の)内橋や渡り廊下のあちこちの通路で、けしからぬ行為をしては、お送り迎えをする人(女房)の着物の裾(が汚れるなどの)我慢ならない(くらいひどく)不都合なこともあった。またある時には、(帝のもとに参上するには)どうしても通らなければならない馬道(長廊下)の前後の戸の鍵をかけ、こちら側と向こう側とで示し合わせて(更衣を中に閉じ込めて)、辱め困らせなさることも多かった。
何事にもつけ、数知れないほどの苦痛なことばかりが増えていくので、たいそうひどく思い悩んでいるのを(帝は)いっそうお気の毒にお思いなされて、後涼殿に以前から伺候していらっしゃった更衣の部屋を他に移させなさって、(この更衣に)上局としてお与えになられる。その方の恨みは言うまでもなくどうしようもない(ほどに深い)。
この若宮が三歳におなりになる年のお袴着の儀式のことは第一皇子がお召しになられたのに見劣りしないほどで、内蔵寮や納殿の御物をあるったけ使って盛大にさせなさった。その儀式についても世間の非難ばかりが多かったが、この若宮が成長してゆかれるお顔立ちやご性質は世間に(比類)なくめったにないほど好ましくお見えなさるので、(他のお妃たちは)とても嫉妬し通しきれない。物事の道理がお解りになる方は、「この若宮のよう(にすばらしく美しい)方もこの世に生まれ出になられるものだなあ」と驚きあきれるほど、眼を見張っていらっしゃる。
(若宮三歳の)その年の夏、御息所(母の更衣)はちょっとした病気を患って、(養生のために実家へ)退出しようとしなさるが、(帝は)休暇を決してお許しなさらない。この数年、(更衣は)いつも病気がちになさっていたので、(帝は病気がちの更衣を)見慣れなさっていて、「やはり(このまま)しばらく様子をみよ」とおっしゃるばかりだったが、(更衣の病気が)日ごとに重くなりなさって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、(更衣の母、北の方は)涙ながらに〔帝に〕申し上げて(宮中を)退出させ申しあげなさる。
このような(病気退出という)ときであっても、とんでもない恥を受けるかもしれないと(更衣は)配慮して、若宮は(宮中に)とどめ置き申しあげてこっそり(実家へ)退出なさる。
(更衣を宮中にとどめ置くにも)しきたりがあるので、(帝は)そういつまでもはお引止めなさることはできず、お見送りさえままならぬ心もとなさを言いようもなく(無念に)お思いになられる。たいそうつやつやとして美しくかわいい様子の人(更衣)が、ひどくやつれて実にしみじみと心に思い沈めながらも、言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にもわからない(ほど)に息も絶え絶えでいらっしゃるのを(帝は)ご覧になるにつけ、あとさきもお考えなされず、すべてのことを涙ながらにお約束なさるが。(更衣は)お返事を申し上げなさることもおできになれず、まなざしなんかもひどくだるそうで、(いつもよりは)いっそう弱弱しくて、意識もないようなようすで体を横たえているので、(帝は)どうしたよいものかと困惑なさる。(退出用の)輦車の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りになって(里下がりを)どうしてもお許しなさることができない。
(帝)「死出の旅路にも遅れたり先立ったりするまい(共に行こう)とお約束なさったのに、いくらなんでも私(帝)を後に残しては(里へ)行ききれないだろう。」とおっしゃりなさるのを、女(更衣)もとても悲しいと(お顔を)拝し上げて、
(人の命は)限りある寿命だと思って、(今)お別れする(死出の)道が(ひとりでは)哀しいので、(わたくしが)行きたい(生きていたい)道は命(生きている世界)への道でございましたよ。ほんとうにこのようになると存じておりましたならば」
と、(更衣は)息も絶え絶えに申し上げたそうなことがありそうな様子であるが、たいそう苦しそうでだるそうなので、このまま(の状態で、更衣が)どのようになろうとも(その生死を)最後まで見届けようとお思いになっていると、「更衣の里で」今日はじめる予定の(病気平癒の)いくつかの祈祷がしかるべき(霊験あらたかな)僧侶たちで、お引き受け申しております僧侶たちが今夜から(はじめます)と、(更衣を)おせき立て申し上げるので、(帝は)やむを得ないとお思いになりながら、(更衣を里へ)退出させなさる(のであった)。
(帝は更衣のことが気がかりで)お胸が急にいっぱいになって全くうとうとすることもできず、(夏の短か夜が)明けるのを待ちきれないでいらっしゃる。(更衣の里への帝のお見舞いの)勅使が行き来するほどの時間も経っていないのに、それでもやはり、(更衣の病状の)気がかりな気持ちを際限なくおっしゃっていたところに、「夜中を少し過ぎたころに(更衣は)お亡くなりなされた」と(更衣の里の人々が)泣き騒ぐので、(帝の)勅使も(今となっては)どうしようもなく(宮中へ)帰参なさった。(更衣の訃報を)お聞きになる(帝の)お心乱れはあらゆるご判断もおできになられず、閉じこもっていらっしゃる。
若宮は親の喪中であっても、(帝は)とてもご覧になっていたいが、こうした(親の喪中)ときに、(宮中に)伺候していなさるのは、先例のないことなので、(亡き更衣の実家へ)退出してしまおうとする。(若宮は)何事が起こったのかもお解りにならず、(若宮に)お仕えする(人々(女房たち)が激しく泣いて取り乱し、主上様〔父帝)もお涙が絶えずおこぼれなさるのを、ふしぎだと拝し申し上げなさってのを、普通の場合でさえこのような死別が悲しくないはずはないことなのを、(若宮の幼さゆえに)いっそう悲しくなんとも言いようがない(悲しさです。)
(別れを惜しむにも、葬送には)しきたりがあるので、通例の葬送で火葬してお墓に埋葬し申し上げるが、(亡き更衣の)母北の方は(自分も娘と)同じ煙になって死んでしまいたいと泣きこがれなさって、御葬送の女房の車にあと追いお乗りになって(墓所のある)愛宕という所で、たいそう厳かに葬送の儀式を執り行っている所に、ご到着なさったお気持ちはどれほど(悲しくつらかった)ことであろう。
(母君)「お亡き骸を(目の前に)見ていながら、それでもやはり(生きて)いらっしゃるものと思うことが、たいして甲斐のないことなので、灰となりなさるのを拝見して、今となってはもう亡くなった人だときっぱりその気持ちになってしまおうと、気丈におっしゃったけれども、車から今にも落ちてしまいそうになるほど(泣き)倒れなさるので、「思っていた通りだ」と、女房たちもお取り扱いに手を焼き申し上げる。
宮中(帝)から(母北の方のもとに)お勅使が参る。(亡き更衣に)従三位のお位をお追贈なさる旨、勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、実に悲しいことだった。女御なりとも呼ばせないままに(亡くなっ)なってしまったので、(帝は)心残りで残念にお思いなさるので、せめてもう一階級上の位階だけでも(贈ってやりたい)と、ご追贈なさったのであった。この(追贈)についても、(亡き更衣を)非難なさる人々(お妃たち)は多い。世の人の情理をわきまえなさるかた(妃)は、(亡き更衣の生前の)姿態や容貌などが美しかったことや、気立てがおだやかで感じがよく、憎みにくい方であったことなど、今になって(なつかしく)お思い出しになる。(帝の)お見苦しいまでのご寵愛ゆえに、(他のお妃たちが)冷淡にねたみ憎みなさったことが、(亡き更衣の)人柄がやさしく情愛細やかであったご性質を主上様(帝)付の女房なども、互いになつかしく思いしのびあっていた。「亡くなってはじめて(人は)という(歌は)この(更衣)ような人の場合のことを言うのであろうかと思われた。
(更衣がなくなってから)むなしく数日が過ぎて、(帝は)七日ごとの法要なども心をこめてご弔問なさる。時が経つにつれて(帝は)どうしようもなく悲しくお思いなさるので、お妃たちの夜のおとぎ(寝室を共にすること)もまったくお命じにならず、いちずに涙にくれて日々をお過ごしなさるので、拝し申し上げる人々(お側付の女房)までが、露っぽくなる秋(のよう)である。「(更衣が亡くなったあとまで、他のお妃たちの心がすっきり晴れそうになかった(ほどの帝のご寵愛ぶりだことよと、弘徽殿の女御(第一皇子の母)などは依然として、容赦なくおっしゃった。(帝は)第一皇子を拝し申される際にも、(亡き更衣の里の)若宮の恋しさだけをお思い出しになっては、親しく仕える女房やお乳母などをお遣わしになっては(若宮の)ご様子をお尋ねなさる。
野分めいて、急に肌寒くなった夕暮れのころ、(帝は)いつもよりもお思い出しにまることが多くて、靫負の命婦という(女房)を(更衣の里に)お遣わしになる。夕月が風情ある時刻に(宮中を)出立させなさって、(帝は)そのまま物思いにふけっていらしゃる。このように(月の美しい)夜は管弦のお遊びなどをお催しさせなさっていたが、(今は亡き更衣は)格別すぐれた琴の音を弾きならし、さりげなく申し上げることばも他のお妃たちよりもちがって(すぐれて)いた雰囲気やご容貌が、幻影となって、さっとわが身に添うように(帝は)お思いになるにつけても、闇の中の現し身にはやはり及ばなかった。
靫負の命婦は、あちら(亡き更衣の里)に参着して(車を)門に引き入れるやすぐ(邸内の)様子はしみじみとしていて心うたれる。(更衣の母北の方は)未亡人暮らしだが、(亡き更衣)一人をお守り立てなさるために、あれこれ手入れして見苦しくないようにして暮らしていらっしゃったが、(娘を失った悲しみで)途方にくれて泣き伏しなたっていた間に、(庭の)雑草も高く伸び、野分にいっそう荒れた感じがして、月の光だけが八重葎にも邪魔されず差し込んでいた。(寝殿の)南側で(命婦は車を)降ろして(北の方に対面するが)(亡き更衣の)母君も(涙にむせんで)すぐにはものもおっしゃることができない。
(母君)「今まで後に残って(生きながらえて)おりますことがたいそう情けないことですのに、このような(恐れ多い帝の)ご弔問の勅使(の方)が、雑草の生い茂った(家の)露をかき分けてお訪ねくださるにつけても、とても気がひけることでございます。」と言って、ほんとにこらえきれないくらいにお泣きなさる。
(命婦)『お訪ねしてみますと、ひとしおおいたわしく胸も張り裂けるようでございました』と、典侍(女官)が(帝に)奏上なさったが、(私のような)物の情趣を存じませんような者でも、なるほどとても耐えがとうございましたよ。」と言って、少し心をしずめて(から、帝の)お言葉を(故更衣の母君に)お伝え申し上げる。
(命婦)「『(更衣の死を)しばらくの間は夢ではないかとばかり思い迷わないではいられなかったが、しだいに心が静まるにつれても、覚めるはずもなく、(悲しく)耐えがたいのはどうしたらよいものかと、相談できる相手さえもないので、内々(宮中に)参内なさいませんか。若宮がとても気がかりなことに、涙がちのところでお過ごしなさるのも、おいたわしくお思いますので、早くご参内なさいませ。』などと(帝は悲しくて)はきはきと最後までおっしゃることができず、ひどくむせび泣きなさりながら、それでも人々も、お気弱なと拝見し申し上げるだろうと、(人目を)ご遠慮なさらないでもないご様子がおいたわしさに、(帝のお言葉を)さまいまで承らぬような感じで(宮中を)退出して参りました。」と(命婦は帝からの)お手紙をさしがげる。
(母君は)『(涙で)目も見えませんが、ただいまの恐れ多い(帝の)お言葉を光として(拝見いたしましょう)』と言ってご覧になる。
(そのお手紙には)時が経てば、少しは気が紛れることもあろうかと(思って)心待ちに過ごす月日が経つにつれて、とても我慢しがたいことは、困ったことでございます。幼い人(若宮)はどうしているかとはるかに思いながら、いっしょにいて養育しない気がかりを今はやはり(わたしを)亡き人(更衣)の形見と思って(宮中に)参内なさいなどと、(帝は)情細やかにお書きなさっていた。
(歌)宮中の庭の露を野分が吹いて露玉をつくる風の音を聞くにつけても(わたしは)小萩(若宮)のことを思いやっている(ことですよ)
と(書いて)あるが、(母君は)最後までご覧になれない。
(母君)「長生きがとてもつらく思い知らされますうえに、(高砂の千年の)松が(どう思うか)思うようなことまでが、恥ずかしく存じられますので、宮中にお出入り申すようなことは言うまでもなく、とても恐れ慎むことが多うございます。恐れ多い(帝の)お誘いを再三いただきながら、わたくし自身はとても(参内を)決心できそうにございません。若宮はどのように理解なさっているのか、参内なさることばかりをお急ぎのご様子なので、(それも)ごもっともで悲しい思いで拝見しております」などと、心のうちに存じております由を(私に代わって帝に)奏上なさってください。(夫にも娘にも先立たれた私自身は)縁起の悪い身でございますので、(若宮がわたしと)こうしてお暮らしなのもはばかられ、もったいないことで(ございます)」と、おっしゃる。若宮は(もう)お休みになってしまった。
(命婦は)「(若宮を)拝見いたしまして、つぶさにご様子をも(帝に)奏上いたしたいのですが、(帝がわたしの帰りを)お待ちになっていらっしゃるでしょうから、夜も更けてしまいましょう」と言って(帰りを)急ぐ。
(母君)「(子を思うゆえに)思い乱れてどうしていいか分らぬ親心の耐えがたいその一部だけでも晴らすほどに(帝に)申し上げたく存じますので、個人的にでもゆっくりとお出でくださいませ。数年来ありがたく、晴れがましい折々にお立ち寄りくださっていたのに、このような弔問(のお使い)としてお会い申し上げるのは、全く無情な命でございますことよ。
(亡き更衣は)生まれた時から、心に期待するところがあった子で、(父の)故大納言が臨終の際となるまで『ひたすら(わが娘の)宮仕えの希望を必ず成就させ申しあげよ。私が亡くなったからといって、情けなく落胆するな』と、繰り返し戒め遺言されましたので、しっかりとした後ろ盾に思う人がない宮仕えは、かえってしない方がましだと存じあげながらも、ひたすら(故大納言の)遺言に背くまいと(いう気持ち)だけで、(娘を宮仕えに)出しましたのに、身に余るほどの(帝の)お情けが何かにつけ、もったいないことに、人並みに扱われない恥を隠しながら、宮仕えをなさっていたようですが、(他のお妃たちの)嫉妬がさらに深くなり、心を痛めることがだんだん多くなっていきましたところに、横死のようなありさまで、とうとうこのようなこと(死)になってしまいましたねで、かえって(帝の娘への)もったいない(はずの)ご寵愛が恨めしく存じあげられるのです。このような(帝への非難めいた愚痴を言ってしまった)のも(娘を失って)分別をなくした親の心の乱れでございます』と、しまいまで言い尽くすことができないで、涙にむせんでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。
(命婦)「主上様(帝)もご同様で(ございます)。ご自身のお心ながら強引に周りの人々が目を見張るほどご寵愛なさったのも、長く続くはずもない仲だったのだなあと、今となってはかえってつらいあの方(亡き更衣)とのご宿縁であった。決してわずかでも人の心を傷つけたことはあるまいと思うが、ただこの人(亡き更衣)との(宿縁が)原因で、多くの」そのような(恨まれる)ことがあってはならい人(他のお妃たち)の恨みをかった挙句に、このように(更衣に)先立たれて、気持ちを静めようもないのに、(前にも増して人目にも)体裁悪くなってしまったのも、(二人の)前世(の宿縁)が(どうであったのかを)知りたく思われる」と、繰り返しおっしゃっては、(更衣の死後)涙がちでばかりでいらっしゃいますと、(命婦は)語っても語り尽きない。涙ながらに(命婦は)「夜がたいそう更けてしまいましたので、今夜のうちに(帝に)ご報告(を)奏上いたしましょう」と、急いで(宮中に)帰参する。
月は入り方の月で、空が清く澄み渡っている上に、草むらの虫の声々が(人の涙を)誘うかのように聞こえるにつけ、まことに(立ち)去りがたい草深い(尼君の)家である。
(命婦の歌) スズムシが声の限り鳴きつくして、(私・命婦もスズムシに誘われて秋の)夜長を泣き通しもこぼれ落ちる涙ですよ
(と、詠んで命婦は車に)とても乗ることもできない。
(母君の歌) ただでさえ、虫の鳴く声がはげしい(ように、私も泣いているこの)草深いわが住まいにいっそう(涙の)露を置き添えなさる宮中からのお使いの方(命婦)ですよ。
(と、つい)恨み言も申し上げてしまいそう(でございます。)と、(母君は取り次ぎの女房に)言わせなさる。
風情あるお贈り物などあるはずのときでもないので、ただ(亡き更衣の)お形見にと思って、このような入用(の折)もあろうかと残して置きなさっていたご衣装一揃いに、御髪上げのときのお道具のような物を(母君は)お添えになる。
(若宮に仕える)若い女房たちは(主人である更衣を失って)悲しいことは(今さら)言うまでもないが、(更衣の生前は)宮中での生活に朝な夕なに慣れ親しんで(いたので、更衣の里での生活は)とてもさびしくて、(帝の)ご様子などを思い出し申しあげるので、(若宮が宮中に)早く参内なさることを(母君に)お勧め申しあげるが、このように(逆縁の)不吉な身(祖母)が(若宮に)付き添い申し上げ(て、参内する)のも、もことに世間の聞こえがよくないだろうし、また、しばらくも(若宮を)拝し申し上げないでいるのはとても気がかりに存じ上げなさって、(母君は)こだわりなく(若宮を)参内させ申し上げなさることがおできにならないのであった。
(命婦は自分の帰参をお待ちになって、帝は)まだお休みなさっていなかったのだなと、おいたわしく拝する。中庭の植え込みがとても美しい盛りであるのを、(帝が)ご覧になられるふりをして、人目に立たないように、奥ゆかしい女房ばかり四、五人伺候させなさって、(よもやまの)お話をさせなさるのだった。最近、毎日ご覧になる「長恨歌」のお絵、(それは)宇多天皇がお描きになって(実は絵師にお描かせになって、それに)伊勢や)(紀)貫之に(和歌を)詠ませなさった(ものだが)、わが国の和歌ももろこし(中国)の漢詩も、ただもうその話の筋(長恨歌と同じ内容の事柄)を口癖(日常の話題)になさっている。(帝は命婦に亡き更衣の里の)ご様子を実に詳しくお尋ねになる。(命婦は)しみじみと趣のあったご様子をひそやかに奏上する。(母君からの)お返事をご覧になると、「とてももったいないお言葉をいただき、その置き場もわかりません。このようなお言葉(を拝見いたします)につけても、(亡き娘、更衣を思って、心の中は)真っ暗で、思い乱れた心境で(ございます)
(歌)荒々しい風を防いでいた木(更衣)が枯れ(死に)てしまってから、(木陰の)小萩(若宮)のことが(気がかりで)落ち着いた心でいられないことですよ
などというように、(母君が)取り乱した様子なのを、心が乱れていた時だからと、(帝は)お見のがしなさることでしょう。(帝は)決してこう(取り乱し)たすがたを見せまいとお静めなさるが、全くご辛抱がおできになられず、(更衣を)はじめてお召しなられた年月のことまでかき集めて、何から何までお思い続けになられて、(更衣の生前は)わずかの間も見られないではいられなかったのに、こうして(更衣がいなくても)月日は過ぎたことよと、意外なことと(帝は)お思いになる。
(亡き更衣の父の)「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの宿願をしっかり貫いてくれたお礼には、(宮仕えした)その甲斐があったと(更衣が)喜んでくれるようなことをしてやりたいと」いうように、常々考えていた。(今さら)言っても仕方のないことよと、(帝は)なにげなくおっしゃって実に感慨深く(母君を)お思いやりになる。
こうして(更衣が亡くなって)もいつの間にか、若宮なんかがご成長なされば、しかるべき(うれしい)機会もきっとあろう。長生きを(させてください)と、一心に祈るのがよかろう」などとおっしゃりなさる。
(命婦は母君からの)例の贈り物を(帝に)お目にかける。「(長恨歌にもあるように、)亡き更衣の居場所を探し当てたという証拠のかんざしであったならば(いいんだが)と、(帝が)お思いになるのも全く無駄なことである。
(歌)(亡き更衣の魂を)探しに行ってくれる幻術士がいてくれたらいいのに、人づてにでも(更衣の)魂のありかをどこだと知ることができるように。
絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師といえども筆力に限界があったので、全く生気が乏しい。「太液芙蓉未央の柳」(の一句に)も、なるほど似通った容貌を、唐風の装束をした姿は、端麗であっただろうが、(更衣の)慕わしく愛らしかったのを、(帝は)お思い出しになるにつけても、(更衣の姿や声は)花の色にも、鳥の声にもたとえようがない(ほどしばらしかった)。
朝夕の口癖に(長恨歌にあるように、二人は)「比翼の鳥、連理の枝になろう」とお約束なっていたのに、思うようにならなかった人(更衣)の運命が限りなく残念に思われた。
風の音や虫の音を(聞くに)つけても、(帝は)何とはなく一途に悲しくお思いになるが、(第一皇子の母である)弘徽殿(の女御)におかれては、長いこと上の御局(帝の寝所)にも参上なさらず、月が風情があって美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをしていられるようである。(帝はそれを)実におもしろくなく不快にお聞きなさる。
最近の(帝の)ご様子を拝見している殿上人や女房などは、(その管弦を)苦々しいことと聞いていた。(弘徽殿の女御は)とても気が強く角々しい性格がおありになるお方で、(更衣の死など)なんでもないと無視してお振る舞いなさるのであろう。月も沈んでしまった。
(帝の歌)(雲の上であるここ)宮中でも(悲しみの)涙で曇って見える秋の月が、どうして草深い(更衣の里)家で澄んで見えようか、(いや、澄んで見えるはずがない)
(帝は草深い(更衣の里)家をお思いやりになりながら、灯火を(油が尽きるまで)かき立てて起きていらっしゃる。右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。(帝は)お考えになって、夜の御殿(寝所)にお入りになってもうとうとなさることもむつかしい。
朝になってお起きなさろうとしても、(更衣の生前は)「(夜が)明けるのも気づかず(共寝していたものを)」とお思い出しになるにつけても、(更衣亡きあとの今も)やはり、早朝のご政務は怠っておしまいになっているようである。
お食事なども、お召し上がりなさらず、朝飼の間で形ばかり(お箸を)おつけになって、(昼の御座で召し上がる正式の)大床子のお食事などは、全く(めしあがりる)気が進まないと、お思いになっているので、お給仕に仕える者は皆、おいたわしい(帝の)ご様子を拝して嘆く。すべて(帝の)お側近く仕える者はみな、男も女も「ほんとに困ったことですね」と、互いに言い合っては嘆息する。「(更衣と帝は)こうなるはずの前世からのご約束がおありになったのだろう。(帝は更衣の生前には)大勢の人の非難や恨みさえも気兼ねなさらず、この(更衣の)方のことにかかわりにあることは、道理(物事の正しい分別)をもお失くしになり、(更衣が亡くなった)今はまた、このようにご政務をお執りになることも、お見捨てになったようになってゆくのは、まことに困ったことだと(異国の)朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと話し嘆息した。
月日が経って、若宮が(宮中に)参内なさった。(若宮は)ますますこの世の人とは思われず清らかで美しくご成長なさっていたので、(帝は悪いことが起きなければいいがと)大変不吉にお思いなされた。
翌年春に、東宮(皇太子)がお決まりになさる時にも、(帝は第一皇子を)越えさせたいとお思いになるが、(この若宮には)ご後見するにふさわしい人もなく、また世間(貴族社会)の人が承知するはずもないことであったので、かえって(第一皇子をさしおいて、若宮を皇太子に立てることは)危険だと気兼ねなさって、お顔色にもお出しなさらずに終わったので、あれほど(若宮をおかわいがり)お思いになっていたが、(帝にも)限界があったのだなあと、世間の人も(おうわさ)申し上げ、(第一皇子の母、弘徽殿の)女御もお心を落ち着けなさった。
(若宮の)あの御祖母、北の方は(娘、更衣の死を悲しみ)気が晴れる方法もなく、塞ぎこみなさってせめて(亡き娘の)いらっしゃるところにでも尋ねて生きたいと願っていらっしゃった(その思いの)しるしでもあろうか、とうとうお亡くなりになってしまったので、(帝は)またこれ(北の方の死)を悲しくお思いになることはこの上もない。
御子(若宮)が六歳におなりになる年なので、(母更衣のときとはまだ幼かったが)このたび(の祖母の死)はお解りになって、恋い慕ってお泣きになる。長年(若宮に)親しくお馴染み申し上げたのに、あとにお残しする悲しみを(祖母北の方は)繰り返しおっしゃっていた。
(若宮は祖母の里にも行かず)宮中にばかり伺候していらっしゃる。七歳におなりになったので、読書はじめなど(帝が)おさせなさって、(若宮は)たとえようがないほど聡明で賢くいらっしゃるので、(帝は)そら恐ろしいまでにご覧になる。
(帝)「(更衣亡き)今はもうどなたも(若宮を)お憎みになれまい。せめて母君(更衣)がいない(ことに免じて)でもおかわいがりください」と、おっしゃって、(帝が)弘徽殿の女御など(もと)にお出でになるお供として、そのまま(若宮を)御簾の内側にお入れ申し上げなさる。(たとえ、ものの情趣を解さない)恐ろしい武士や仇敵であっても、(若宮を)見ては、つい微笑まずにはおれない美しい様子でいらっしゃるので、(弘徽殿の女御もむげに)遠ざけることがおできにならない。
(第一皇子の外に)皇女たちお二方がこの(弘徽殿の女御)にはいらっしゃったが、(その美しさで若宮と)肩を並べなさる方さえいなかった。ほかのお妃たちも、お隠れなさらずに(若宮は幼い)今からお美しくこちらが恥ずかしくなるくらいご立派でいらっしゃるので、たいそう魅力的である(が、一方、)気詰まりな遊び相手と、どなたもどなたもお思い申し上げていらっしゃった。
((若宮への)本格的な(漢学の)ご学問は言うまでもないこととして、琴や笛の音色につけても宮中に(評判を)立てさせ、すべて一つひとつ数え上げていったら、仰々しく(ウソでないかと)いやになってしまいそうな(ほどに、優れた才能の若宮の)ご様子であった。
その当時、高麗人で、来朝していた中に、すぐれた人相見がいたのを(帝が)お聞きになって、宮中にお招きになることは、(譲位の際の)宇多天皇のお試しがあったので、あまり人目がつかないように(お招きになって)この若宮を(外国使臣来朝の時の宿舎である)鴻館にお遣わしになった。
(若宮の)後見役のようにお世話申し上げる右大弁の子どものように(周囲に)思わせてお連れ申したところ、人相見は目を見張って、何度も首を傾け、ふしぎがる。
(相人)「(この方は将来)国の親(天皇)となって、帝王の最高の位につくはずの相がおありになる方で、そういう方として占うと、(国が)乱れ、(民が)苦しむことがあるかもしれない。調停の重鎮となって、国政を補佐する方として占うと、またその相ではないようです」と、(占って)言う。
右大弁も、大変学才のある学識者で、(祖人と)語り合った内容は、とても興味深いものであった。漢詩などもお互いに作って、今日明日にも帰国しようとするときに、このように世に稀な方(若宮)に対面した喜びや(お別れしては)かえって悲しいにちがいないという気持ちを、(相人が漢詩に)趣深く作ったのにたいして、若宮も心を打つ詩句をお作りなさったので、(相人は)この上なくお褒め申上げ、すばらしいいくつもの贈り物を(若宮に)差し上げる。朝廷からも(相人に)たくさんの贈り物を下賜なさる。
(そんなことがあって、)自然と(若宮の占いの)ことが(世間に)広まって、(帝は)お漏らしなさらなくても、東宮(第一皇子)の祖父の左大臣などは、どういうことなのかと、お疑いになるのであった。
帝は、恐れ多いことに、(前もってご自身のお考えで)日本流の人相占いをお命じになって(すでに)お考えになっていたことなので、今までこの(若)宮を親王のもなさらなかったのを、「相人はほんとうにすぐれていたなあ」と、(帝は)お思いになって、「(位のない)無品の親王で、外戚の後見のない(不安定な状態の)生涯は送らすまい。わがご治世もいつまでとも分らぬことだから、臣下として朝廷の補佐役をするのが、将来も頼もしそうに思われることだと、お決めになって、(帝は)ますます諸道の学問を(若宮に)習わせなさる。
(若宮は)抜きん出て聡明で(親王でない)臣下に(する)にはもことの惜しいけれども、(もし)親王になりなさったなら、(あまり抜きん出て聡明であるため、帝はひょっとすると、皇太子に立てるつもりではないかと)世間の疑いを持たれそうでいらっしゃるので、(帝が)宿曜道のすぐれた人に占わせなった際にも(高麗の相人と)同様のことを申すので、(若宮を臣下に降して)「源氏」姓にしてさしあげるように、お決めになった。
年月が経つにつれて(も)、(帝は)御息所(亡き更衣)をお思い忘れになる時はない。「気が紛れるか」と、しかるべき姫君たちをお呼びなさるが、(亡き更衣に)比肩できる程度の人もめったにいないものだなといとわしとばかりに、万事にお思いになっていたところ、先代の天皇の第四皇女で、ご容貌のすぐれておいでであると評判が高くいらっしゃる(方で)、母の后がまたとなく大切にお世話申し上げていられる(方を)、帝のお側にお仕えする典侍(女房)は先帝のご治世(に任命された)女房で、あちら(母后)の御殿にも親しく参上し、なじんでいたので、(四の宮が)ご幼少でいらっしゃった時から拝見し、今でもちらと拝見して、
(典侍)「お亡くなりになった御息所(更衣)のご容貌に似ていらっしゃる方を(私は)三代(の帝)にわたって宮仕えをしてきましたが、お見かけできませんでしたが、母后の宮の姫君(さま)は、とてもよく(亡き更衣に)似てご成長なさいましたよ。世にもまれなご器量よしのお方で(ございます)」と、(帝に)奏上したところ、(帝は)「ほんとうにか」と心がひかれて、礼を尽くしてお申し込みなさったのであった。
(母后)「まあ、恐ろしいことよ。東宮(第一皇子)の(母、弘徽殿の)女御がひどく意地悪くて、桐壺の更衣が露骨にないがしろに扱われなさった例も、縁起でもない」とご用心なさって(娘、四の宮の入内を)あっさりとはご決心なさらないうちに、(その母后も)お亡くなりになった。
(四お宮に)お仕えする女房たちやご後見人たち、兄上の兵部卿の親王などは、(四の宮が)「このように心細くていらっしゃるよりは、宮中でお暮らしなさってお心が紛れるだろう」などと、お考えになって(宮中に)参内させ申し上げなさった。
(入内なさった四の宮は)「藤壺」とお呼び申し上げる。(うわさには聞いていたが)ご容貌やお姿がふしぎなくらい、(亡き更衣に)似ておいでになる。こちら(藤壺)は(桐壺の更衣に比べて)お家柄が一段と抜きん出て(そう思うせいか)世間の評判がすばらしく、人(女御・更衣といったお妃たち)もさげすみ申すこともおできになれないので、(藤壺の宮は)何に一つ不足は無い(感じである)。
かれ(亡き更衣の場合)は(帝からのご寵愛を)周囲の人(他のお妃たち)が承知申さなかったのに、(帝の)ご寵愛があいにく(深かった)であったのですよ。
(帝は更衣を亡くしたお悲しみが)お思い紛れることはないが、(藤壺に)お気持ちが移って、この上なくお気持ちが慰められるようであるのも、人情のさがというものであったよ。
源氏の君(若宮)は、(帝の)お傍を離れなさらないので、(たまにお通いのお方は言うまでもなく、だれよりも)頻繁に(帝が)お渡りなさるお方(藤壺)は恥ずかしがってばかりいらっしゃる。どもお妃方も自分が(ほかのお妃たちに比べて)劣っているとお思いになっている方があろうか(いやあるはずがない)。
(帝が通っておられるお方は)それぞれにたいへんすばらしいけれども、(みんな)少しお年を召していらっしゃるのでに(比べて、藤壺の宮は)とても若くかわいらしくて、しきりに(お姿を)お隠しなさるが、(帝は)自然と漏れ見申しあげる。
(源氏の君には、亡き)母御息所も(その)面影さえご記憶していらっしゃらないのに、「(藤壺の宮は亡き母に)とてもよく似ていらっしゃる」と、典侍(女房)が(帝に)申し上げていたのを、幼心にとても慕わしくお思い申し上げなさって、(藤壺の宮のお側に)いつも参上したく、「馴れ親しむ(お姿を)拝見したいものだ」と、お思いになる。
主上(帝)もこの上なくおいとしい方々(亡き更衣も藤壺の宮も)なので、「よそよそしくなさいますな」ふしぎに(亡き更衣に)なぞらえ申してしまいそうな気持ちがします。(若宮を)無礼だとお思いにならず、かわいがってください。顔つきや目元などは、(若宮と更衣とは)とてもよく似ていたので、若宮の生母のようにお見えになるのも、不似合いなことではない(と思います)」などと、(藤壺の宮に)お頼み申し上げなさっているので、(若宮は)幼心にも何でもない(春の)桜や(秋の)紅葉につけても、お慕いしている心のほどをお見せ申し上げる。(源氏の君が藤壺の宮に)格別更衣をお寄せ申し上げなさっているので、弘徽殿の女御はまたこの宮(藤壺)とも、お仲がしっくりしないため、これに加えて(更衣の生前からの)憎しみもよみがえってきて、(源氏を)目障りな者とお思いになった。(帝が)この世に並ぶ者がないお方と拝し申し上げなさり、(世間でも)評判高くていらっしゃる藤壺の宮のご容貌に対しても、やはり、(若宮の)照り映えるようなお美しさには比類がなく、かわいらしくいらっしゃるのを、世間の人は「光君」とお呼び申し上げる。
藤壺は(源氏と同列に)お並びになって、(帝の)ご寵愛もそれぞれ厚かったので、(藤壺を)「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。
この若宮(源氏)の御童子姿が(帝はあまりにもかわいいので)変えるのがつらいとお思いになるが、十二歳で御元服(成人の儀式)なさる。(帝ご自身)親しくお世話を焼かれて、(一世の源氏の)元服の儀式として定まっているしきたりに(さらにできるだけのことを)お加えさせなさる。
先年の東宮(第一皇子)のご元服の儀式で、(宮中の)南殿(紫宸殿)で執り行われた儀式が、りっぱでうつくしかったという(世間の)評判に劣るようにはなさらない。
(廷臣・女房などが賜る)諸役所での宴会のごちそうは、内蔵寮や穀倉院など(公式)規定通り調達いたしたが、行き届かないことがあってはいけないと、特別に(帝の)勅命があって、華美の限りを尽くして差し上げた。
(帝が)お住まいになる清涼殿の東側の廂の間に東向きに(天皇がお座りになる)椅子を立てて、冠者(元服なさる源氏の君)のお席や加冠役の左大臣のお席とかが、御前に設けられた。
(元服の儀式は)申の刻(午前四時ごろ)であって、(その時刻に)源氏が参上なさる。(髪を)角髪にお結いなさっている(源氏の童顔の)顔つきや色つやは(髪型の)形をお変えになることがもったいないご様子である。
大蔵卿が理髪役を奉仕する。とてもきよらかで美しいお髪を削ぐとき、(源氏が)痛々しそうなのを、帝は「御息所(亡き母更衣)が見たならば(何と言うであろう)」と、お思い出しになるに(つけても)、涙がこぼれててきそうなのを、強く思い直して我慢なさる。
(源氏は)加冠の儀をなさって、ご休憩所にお下がりになって、ご装束をお召し替えになって、東庭におりて(謝意を表するお礼の)拝舞申し上げなさる様子に、(午前に居合わせた)一同は皆涙を落としなさる。
帝は帝で、言うまでもなくこらえきれなされず、(苦悩や悲しみが)お思いまぎれることもあった昔のこと(亡き更衣のこと)を、改めて悲しくお思いになる。
ほんとうにこんなに幼い年頃では、髪上げをしたら、見劣りするのではないかと、(帝は)疑わしくお思いになっていたが、(元服後の源氏は)驚きあきれるほど愛らしさが加わりなさった。
(加冠役の)左大臣の(夫人である)皇女がお産みなさった方で、ひたすら大切にお育てなさている姫君を、東宮(第一皇子)からもご所望があったのを、(左大臣は)お悩みなさることがあったのは、この(源氏の)君に差し上げようとのお考えであったのだ。帝にも、ご意向をお伺い申し上げなさったところ、(帝は)「それでは、(源氏の)元服の折に(妻として)世話する者がいないようなので、添い寝にでも(いかがであろう)」お促しなさったので、(左大臣は)そのようにお考えになっていた。
(元服の儀のあと、源氏が)ご休憩所に退出なさって、参会者たちが御酒などを召し上がるとき、親王方の末席に源氏はお着きなさった。(隣り合わせの席は)左大臣は(娘をさしあげたいという)思いをほのめかし申し上げなさることはあるが、(源氏は)何かと恥ずかしい年頃なので、何ともお応え申し上げなさらない。
御前(帝)から内侍司の長官がお言葉を承り、(それを蔵人に)伝えて、左大臣が(帝の)御前に参られるようにとのお呼びがあるので、(左大臣は)参上なさる。ご褒美の品物を帝つきの命婦が取り次いで下賜なさる。(その品物は)白い大袿に、御装束一領、決まりの通りである。
(帝からの)お盃を頂いた折に、
(帝の歌)幼い冠者(源氏)がはじめて結う元結(の折)に(そなたの姫との)末長い仲を約束する気持ちを結び込めた(もの)か
(と、帝は)お心遣いを示されて、(左大臣を)はっとさせなさる。
(それに対する左大臣の歌)(深い心を込めて)結びました思いも(源氏の)深い元結に、その濃い紫の色(源氏のお心)が変わらなければ(と存じます)と奏上して、長橋(廊下)から降りて拝舞なさる。
(帝は左大臣に)左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を(止まり木に)とまらせてお与えになる。(東庭に降りる)階段のもとに、親王方が立ち並んで祝儀などをそれぞれの身分に応じておあたえになる。その(元服の儀式の)日の(源氏から帝への)折櫃物や籠物(といたごちそう)などは、右大弁が(帝のご命令を)承って(自分の家で)調え申したものであった。
(下々の役人たちに与える)弁当や祝儀の(反物を入れる)櫃などが、(東側の庭に)置き場所もないほどで、東宮(第一皇子)の御元服の時よりも数がまさっていた。(公的な決まりもないので、)かえってこの上なく盛大に(執り行われたの)だった。
(帝は)その夜、左大臣のお邸に源氏の君をご退出させなさる。(左大臣家の婿取りの)作法は、(世間に例がないほど)りっぱにしておもてなし申し上げなさった。(源氏が)とても幼いご様子でいらっしゃったのを、(左大臣家方では並々でなくいとしいとお思い申し上げなさった。
左大臣の姫君は(源氏より)少し年上でいらっしゃるのによって、(婿君の源氏が)たいそう若くいらっしゃるので、不似合いで気がひけるとお思いになった。
この左大臣は(帝の)ご信任がとても格別であるところに、(姫君の)母宮は帝とご同腹の皇后を御母としていらっしゃったから、(左大臣家は)どちらからいっても、とても華麗であるうえに、この源氏の君までが(婿君として)加わりなさったので、東宮(第一皇子)の御祖父で、最後(皇太子即位の暁)には天下を支配なさるはずの右大臣のご威勢は、問題にもならないで、(左大臣家に)圧倒されてしまわれなさった。
(左大臣家には)お子たちがたくさんご夫人方においでになる。姫君と同腹のお方は蔵人の少将で、とても若く美しい方なので、右大臣が(左大臣家との)お仲はあまりよくはないが、(右大臣は)放って置くこともおできになれず、大切にお育てなさっていう四の宮に(蔵人の少将を)婿として迎えなさった。(左大臣家の婿扱いに)劣らず大切にお世話なさっているのは、(両家とも)理想的な婿舅のお間柄で(ある。)
源氏の君は帝が常に身近にお置きなさるので、気楽に私邸でお過ごしにもなれない。(源氏は)心の中では一途に藤壺のご様子を並ぶ者がない(お方)とお慕い申し上げて、「藤壺のような人をこそ(妻にしたい)が、似た女性はいなくいらっしゃるものだな。左大臣の姫君はとても趣のある感じで、大切に育てられている方には思われるが、気に沿わないふうに」お感じになられて、(藤壺のことが)幼心ひとつにいつも念頭にあって、とても苦しいほどに(悩んで)いらっしゃった。
(源氏が)元服なさってからは、(帝は)以前のように(藤壺の)御簾の内側にも(源氏を)お入れなさらない。管弦のお遊びの折々、琴や笛の音に(源氏は)合わせて笛を吹いてお聞かせし、かすかに漏れる(藤壺の)お声を慰めとして、宮中生活ばかりを好ましく思っていらっしゃる。
(宮中に)五六日志向なさって、左大臣邸に二三日などと、とぎれとぎえにおいでになるが、(左大臣方では)、(源氏はまだ)幼いお年頃だから、仕方のないこととお考えになって、(婿君として)あれこれお世話申し上げていらっしゃる。
(源氏と姫君)お二方の女房たちは、並みでない(美しい女房たちを)選りすぐってお仕えさせなさる。(源氏の)お気に入りそうなお遊び(管弦)を催しなどをして、苦労を顧みずお勤めになる。
宮中ではもとも淑景舎を(源氏の)お部屋に当てて、母御息所(亡き更衣)に(お仕えしていた)お方の女房たちが、退出して散り散りにならぬように(ひきつづき)お仕えさせなさる。
(故更衣の)お邸は、修理職や内匠寮に(帝からの)宣旨が下って、またとなく(りっぱに)ご改造させなさる。もとからの木立や築山の様子は趣のある所であったが、池の風情を広く作り直して、大騒ぎしてりっぱに造営する。「このようなところで、理想とするような女性を(妻として)迎えて暮らしたい」とばかり(源氏は)悲しく思い続けていらっしゃる。
「光る君」という名は、(かつて)高麗の相人が(若宮のご容貌を)お褒め申しておつけ申したものだ」と言い伝えた(とお聞きしています)。
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
どの天皇のご治世(のとき)でございましたか,(お妃として)女御、更衣(といった方々)が(帝のお傍に)大勢お仕え申し上げなさっていた中に、それほど高貴な家柄(の出身)ではない方で、〈他のお妃よりも〉際立って〈帝の〉寵愛を受けていらっしゃる方があった。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
(入内の)最初から自分こそは〈帝のご寵愛を受けるべきお妃だと〉自負なさっていた女御方は、(この方を)気に食わない方とさげすみ、(また)ねたみなさる。〈その方と〉同程度やその方より身分の低い更衣たちは、言うまでもなく心中おだやかではない。
〈この方は〉朝晩のお側仕えにつけても、〈他の〉妃たちの〈嫉妬の〉心をかきたててばかりで、恨みを受けることが積もり積もったのであろうか、ひどく病気がちになっていき、なんとなく心細そうに実家に下がっていることが多いのを〈帝は〉いっそう飽きることなく愛しいものとお思いになって、(宮中のお側仕えの)人の非難にも気兼ねなされず、(一人の女性を寵愛のあまり、政治をおろそかにしたという)世間の話のタネにもなってしまいそうな(この方に対する帝の)ご寵愛である。
上達部、上人なども、あいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。
上達部や殿上人(といった人)なども、感心しない(ことと)目をそむけそむけして、度が過ぎてとても正視できないほどの〈この方への〉帝のご寵愛(ぶり)である。
中国でも、こういうこと(帝が一人の女性を溺愛したこと)が原因で、国が乱れ、具合が悪かったと、(宮中に止まらず)次第に〈広く〉世間でも情けない(こととして)人々の悩みのタネとなって、(唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けたことによって国が乱れ、国が滅んだという)楊貴妃の先例も引き合いに出してしまいそうになっていくので、(この方は)どっちつかずのことが多いが、(帝の)もったいないほどのご寵愛の比類ないのを頼りにして(他のお妃たちと)宮仕えなさ(ってい)る。
父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
(この方の)父大納言は(すでに)亡くなって(いて)、母北の方は古い家柄の出の人で、一応教養のある方なので、両親がそろっていて、さしあたって世間の評判がはなばなしいお方々(お妃たち)にも遜色ない(ように)、(母の北の方が)あらゆる公的な行事をも執り行いなさっていたが、取り立ててしっかりとした後ろ盾がないので、いざという大事な事(儀式)があるときには、やはり頼るところがなくて心細そうである。
先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。
(この方〔更衣〕と帝とは)前世でもご宿縁が深かったのであろうか、(帝の寵愛を一身に受けているうえに)世に比類なき美しい玉のような男のお子までがお生まれになった。(帝は)早く(この皇子を見いたいものだ)と待ち遠しくお思いになられて、急遽(宮中に)参上させて(皇子を)ご覧になるに、(この世に)滅多にない(ほどの)若宮のお顔立ちである。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
第一皇子は、右大臣の娘の女御がお産みになった方であって、後見がしっかりしていて、(どこから見ても)疑いようのない皇太子(になられる方)として、世間で大切にお扱いし申しあげるが、この皇子(光源氏)の美しく映えるようなご容貌には肩を並べなさるはずもなかったので、(帝は第一皇子には)一通りの大切な方としてのご愛情であって、この若宮(光源氏)(の方)を秘蔵っ子にお思いになり大切にお扱いなさることはこの上もない。
初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。
(この更衣は、入内の)はじめからありきたりの(帝の)お側で身辺の用を勤めなさるはずの(低い)身分ではなかった。世間の評判が大層重々しく、高貴な人らしく見えたが、(帝が)分別なく身近かにいさせなさりすぎた結果、(宮中での)しかるべき管弦の演奏の時々や、どんなことでも趣きある催事の折々には、(この方を)真っ先に(お側に)参上させなさる。(また)ある時にはお寝過ごしなされて、(帝は)引き続きお側にお仕えさせなさるなど、強引におそばを離さずお引止めなされたので、(この方は)自然と身分の低い方(女房)のようにも見えたが、この皇子(光源氏)がお生まれなさって以後、(帝はこの方に)格別気を配りお心づもりなさっていたので、「東宮坊(皇太子)にもひょっとすると、この皇子(光源氏)が立ちなさるはず(の方)であるようだ」と、第一皇子の(母である弘徽殿の)女御はお疑いなさった。
(この女御は他のお妃の)誰よりも先に入内申し上げなさって、(帝の)並々ならぬご愛情は一通り(のもの)ではなく、皇子たちまでがいらっしゃるので、(帝は)このお方(女御)のご忠告だけはやはりけむたく、苦痛(だが、無視できないもの)にお思い申し上げなさっていた。
かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。
(一方、この更衣は帝の)恐れ多いご庇護を信頼し申し上げてはいるものの、(この方を)さげすみ、落ち度〈あら〉を探し求めなさる方(お妃たち)は多く(いて、この方)ご自身は病弱でなんとなく頼りない状態で、なまじっか(帝のご寵愛など受けるようなことを)しなければよかったと気苦労をしなさる。(この方の)お部屋は(帝のご在所から最も遠い)桐壺(淑景舎)である。
(帝が)多くのお妃たちの御殿をお素通りなさって(更衣の局に)ひっきりなしのお通りに、お妃たちがお気をもみなさるのも、なるほどごもっとも(なことだ)と思われた。
(更衣が帝のもとに)参上なさる際にも、あまり度重なる時には、(他のお妃たちは途中の)内橋や渡り廊下のあちこちの通路で、けしからぬ行為をしては、お送り迎えをする人(女房)の着物の裾(が汚れるなどの)我慢ならない(くらいひどく)不都合なこともあった。またある時には、(帝のもとに参上するには)どうしても通らなければならない馬道(長廊下)の前後の戸の鍵をかけ、こちら側と向こう側とで示し合わせて(更衣を中に閉じ込めて)、辱め困らせなさることも多かった。
何事にもつけ、数知れないほどの苦痛なことばかりが増えていくので、たいそうひどく思い悩んでいるのを(帝は)いっそうお気の毒にお思いなされて、後涼殿に以前から伺候していらっしゃった更衣の部屋を他に移させなさって、(この更衣に)上局としてお与えになられる。その方の恨みは言うまでもなくどうしようもない(ほどに深い)。
この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。
この若宮が三歳におなりになる年のお袴着の儀式のことは第一皇子がお召しになられたのに見劣りしないほどで、内蔵寮や納殿の御物をあるったけ使って盛大にさせなさった。その儀式についても世間の非難ばかりが多かったが、この若宮が成長してゆかれるお顔立ちやご性質は世間に(比類)なくめったにないほど好ましくお見えなさるので、(他のお妃たちは)とても嫉妬し通しきれない。物事の道理がお解りになる方は、「この若宮のよう(にすばらしく美しい)方もこの世に生まれ出になられるものだなあ」と驚きあきれるほど、眼を見張っていらっしゃる。
その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。年ごろ、常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。
(若宮三歳の)その年の夏、御息所(母の更衣)はちょっとした病気を患って、(養生のために実家へ)退出しようとしなさるが、(帝は)休暇を決してお許しなさらない。この二、三年、(更衣は)いつも病気がちになさっていたので、(帝は病気がちの更衣を)見慣れなさっていて、「やはり(このまま)しばらく様子をみよ」とおっしゃるばかりだったが、(更衣の病気が)日ごとに重くなりなさって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、(更衣の母、北の方は)涙ながらに〔帝に〕申し上げて(宮中から里へ)退出させ申しあげなさる。
このような(病気退出という)ときであっても、とんでもない恥を受けるかもしれないと(更衣は)配慮して、若宮は(宮中に)とどめ置き申しあげてこっそり(実家へ)退出なさる。
限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
(更衣を宮中にとどめ置くにも)しきたりがあるので、(帝は)そういつまでもはお引止めなさることはできず、お見送りさえままならぬ心もとなさを言いようもなく(無念に)お思いになられる。たいそうつやつやとして美しくかわいい様子の人(更衣)が、ひどくやつれて実にしみじみと心に思い沈めながらも、言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にもわからない(ほど)に息も絶え絶えでいらっしゃるのを(帝は)ご覧になるにつけ、あとさきもお考えなされず、すべてのことを涙ながらにお約束なさるが。(更衣は)お返事を申し上げなさることもおできになれず、まなざしなんかもひどくだるそうで、(いつもよりは)いっそう弱々しくて、意識もないようなようすで体を横たえているので、(帝は)どうしたよいものかと困惑なさる。(退出用の)輦車の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りになって(里下がりを)どうしてもお許しなさることができない。
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて
「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
いとかく思ひたまへましかば」
と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。
(帝)「死出の旅路にも遅れたり先立ったりするまい(共に行こう)とお約束なさったのに、いくらなんでも私(帝)を後に残しては(里へ)行ききれないだろう。」とおっしゃりなさるのを、女(更衣)もとても悲しいと(お顔を)拝し上げて、
(人の命は)限りある寿命だと思って、(今)お別れする(死出の)道が(ひとりでは)哀しいので、(わたくしが)行きたい(生きていたい)道は命(生きている世界)への道でございましたよ。ほんとうにこのようになると存じておりましたならば」
と、(更衣は)息も絶え絶えに申し上げたそうなことがありそうな様子であるが、たいそう苦しそうでだるそうなので、このまま(の状態で、更衣が)どのようになろうとも(その生死を)最後まで見届けようとお思いになっていると、「更衣の里で)今日はじめる予定の(病気平癒の)いくつかの祈祷がしかるべき(霊験あらたかな)僧侶たちで、お引き受け申しております僧侶たちが今夜から(はじめます)と、(更衣を)おせき立て申し上げるので、(帝は)やむを得ないとお思いになりながら、(更衣を里へ)退出させなさる(のであった)。
御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。
(帝は更衣のことが気がかりで)お胸が急にいっぱいになって全くうとうとすることもできず、(夏の短か夜が)明けるのを待ちきれないでいらっしゃる。(更衣の里への帝のお見舞いの)勅使が行き来するほどの時間も経っていないのに、それでもやはり、(更衣の病状の)気がかりな気持ちを際限なくおっしゃっていたところに、「夜中を少し過ぎたころに(更衣は)お亡くなりなされた」と(更衣の里の人々が)泣き騒ぐので、(帝の)勅使も(今となっては)どうしようもなく(宮中へ)帰参なさった。(更衣の訃報を)お聞きになる(帝の)お心乱れはあらゆるご判断もおできになられず、閉じこもっていらっしゃる。
若宮は親の喪中であっても、(帝は)とてもご覧になっていたいが、こうした(親の喪中)ときに、(宮中に)伺候していなさるのは、先例のないことなので、(亡き更衣の実家へ)退出してしまおうとする。(若宮は)何事が起こったのかもお解りにならず、(若宮に)お仕えする(人々(女房たち)が激しく泣いて取り乱し、主上様(父帝)もお涙が絶えずおこぼれなさるのを、ふしぎだと拝し申し上げなさったのを、普通の場合でさえこのような死別が悲しくないはずはないことなのに、(若宮の幼さゆえに)いっそう悲しくなんとも言いようがない(悲しさです。)
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。
(別れを惜しむにも、葬送には)しきたりがあるので、通例の葬送で火葬してお墓に埋葬し申し上げるが、(亡き更衣の)母北の方は(自分も娘と)同じ煙になって死んでしまいたいと泣きこがれなさって、御葬送の女房の車にあと追いお乗りになって(墓所のある)愛宕という所で、たいそう厳かに葬送の儀式を執り行っている所に、ご到着なさったお気持ちはどれほど(悲しくつらかった)ことであろう。
(母君)「お亡き骸を(目の前に)見ていながら、それでもやはり(生きて)いらっしゃるものと思うことが、たいして甲斐のないことなので、灰となりなさるのを拝見して、今となってはもう亡くなった人だときっぱりその気持ちになってしまおうと、気丈におっしゃったけれども、車から今にも落ちてしまいそうになるほど(泣き)倒れなさるので、「思っていた通りだ」と、女房たちもお取り扱いに手を焼き申し上げる。
内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。
宮中(帝)から(母北の方のもとに)お勅使が参る。(亡き更衣に)従三位のお位をお追贈なさる旨、勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、実に悲しいことだった。女御なりとも呼ばせないままに(亡くなっ)なってしまったので、(帝は)心残りで残念にお思いなさるので、せめてもう一階級上の位階だけでも(贈ってやりたい)と、ご追贈なさったのであった。この(追贈)についても、(亡き更衣を)非難なさる人々(お妃たち)は多い。世の人の情理をわきまえなさる方(妃)は、(亡き更衣の生前の)姿態や容貌などが美しかったことや、気立てがおだやかで感じがよく、憎みにくい方であったことなど、今になって(なつかしく)お思い出しになる。(帝の)お見苦しいまでのご寵愛ゆえに、(他のお妃たちが)冷淡にねたみ憎みなさったことが、(亡き更衣の)人柄がやさしく情愛細やかであったご性質を主上様(帝)付の女房なども、互いになつかしく思いしのびあっていた。「亡くなってはじめて(人は)という(歌は)この(更衣)ような人の場合のことを言うのであろうかと思われた。
はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。
(更衣が亡くなってから)むなしく数日が過ぎて、(帝は)七日ごとの法要なども心を込めて(亡き更衣の里を)ご弔問なさる。時がたつにつれて、(帝は)どうしようもなく悲しくお思いなさるので、お妃たちの夜のお伽(寝室を共にすること)もお命じにならず、いちずに涙にくれて日々をお過ごしなさるので、拝し申し上げるお側つきの女房までが、露っぽくなる秋(のよう)で、ある。「更衣の亡くなった後まで、他のお妃たちの心がすっきり晴れそうになかった(ほどの帝の)ご寵愛ぶりだことよ」と、弘徽殿の女御(第一皇子の母)などは依然として、容赦なくおっしゃった。(帝は)第一皇子を拝し申される際にも、(亡き更衣の里の)若宮の恋しさだけをお思い出しになっては、親しく仕える女房やお乳母などをお遣わしになっては(若宮の)ご様子をお尋ねなさる。
野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。
野分めいて、急に肌寒くなった夕暮れのころ、(帝は)いつもよりもお思い出しになることが多くて、靫負の命婦という(女房)を(更衣の里に)お遣わしになる。夕月が風情ある時刻に(宮中を)出立させなさって、(帝は)そのまま物思いにふけっていらっしゃる。このように(月の美しい)夜は管弦のお遊びなどをお催しさせなさっていたが、(今は亡き更衣が)格別すぐれた琴の音を弾きならし、さりげなく申し上げることばも他のお妃たちよりもちがって(すぐれて)いた雰囲気やご容貌が、幻影となって、さっとわが身に添うように(帝は)お思いになるにつけても、闇の中の現し身にはやはり及ばなかった。
命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる。南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。
靫負の命婦は、あちら(亡き更衣の里)に参着して(車を)門に引き入れるやすぐ(邸内の)様子はしみじみとしていて心うたれる。(更衣の母北の方は)未亡人暮らしだが、(亡き更衣)一人をお守り立てなさるために、あれこれ手入れして見苦しくないようにして暮らしていらっしゃったが、(娘を失った悲しみで)途方にくれて泣き伏しなたっていた間に、(庭の)雑草も高く伸び、野分にいっそう荒れた感じがして、月の光だけが八重葎にも邪魔されず差し込んでいた。(寝殿の)南側で(命婦は車を)降ろして(北の方に対面するが)(亡き更衣の)母君も(涙にむせんで)すぐにはものもおっしゃることができない。
「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」
「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍の奏したまひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」
(母君)「今まで後に残って(生きながらえて)おりますことがたいそう情けないことですのに、このような(恐れ多い帝の)ご弔問の勅使(の方)が、雑草の生い茂った(家の)露をかき分けてお訪ねくださるにつけても、とても気がひけることでございます。」と言って、ほんとにこらえきれないくらいにお泣きなさる。
(命婦)『お訪ねしてみますと、ひとしおおいたわしく胸も張り裂けるようでございました』と、典侍(女官)が(帝に)奏上なさったが、(私のような)物の情趣を存じませんような者でも、なるほどとても耐えがとうございましたよ。」と言って、少し心をしずめて(から、帝の)お言葉を(故更衣の母君に)お伝え申し上げる。
(命婦)「『(更衣の死を)しばらくの間は夢ではないかとばかり思い迷わないではいられなかったが、しだいに心が静まるにつけても、覚めるはずもなく、(悲しく)耐えがたいのはどうしたらよいものかと、相談できる相手さえもないので、内々(宮中に)参内なさいませんか。若宮がとても気がかりなことに、涙がちのところでお過ごしなさるのも、おいたわしくお思いますので、早くご参内なさいませ。』などと(帝は悲しくて)はきはきと最後までおっしゃることができず、ひどくむせび泣きなさりながら、それでも人々も、お気弱なと拝見し申し上げるだろうと、(人目を)ご遠慮なさらないでもないご様子がおいたわしさに、(帝のお言葉を)最後まで承らぬような感じで(宮中を)退出して参りました。」と(命婦は帝からの)お手紙をさしがげる。
「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に
とあれど、え見たまひ果てず。
(母君は)『(涙で)目も見えませんが、ただいまの恐れ多い(帝の)お言葉を光として(拝見いたしましょう)』と言ってご覧になる。
(そのお手紙には)時が経てば、少しは気が紛れることもあろうかと(思って)心待ちに過ごす月日が経つにつれて、とても我慢しがたいことは、困ったことでございます。幼い人(若宮)はどうしているかとはるかに思いながら、いっしょにいて養育しない気がかりを今はやはり(わたしを)亡き人(更衣)の形見と思って(宮中に)参内なさいなどと、(帝は)情細やかにお書きなさっていた。
(歌)宮中の庭の露を野分が吹いて露玉をつくる風の音を聞くにつけても(わたしは)小萩(若宮)のことを思いやっている(ことですよ)
と(書いて)あるが、(母君は)最後までご覧になれない。
「命長さの、いとつらう思ひたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思ひたまへはべれば、百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思ひたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」
(母君)「長生きがとてもつらく思い知らされますうえに、(高砂の千歳の)松が(どう思うか)思うようなことまでが、恥ずかしく存じられますので、宮中にお出入り申すようなことは言うまでもなく、とても恐れ慎むべきことが多うございます。恐れ多い(帝の)お誘いを再三いただきながら、私(亡き更衣の母)自身はとても(参内を)決心できそうにございません。若君はどのように理解なさっているのか、参内なさることばかりをお急ぎのご様子なので、(それも)ごもっともで悲しい思いで拝見しております。」などと、心のうちに存じております由を、(私に代わって、帝に)奏上なさってください。(夫、大納言にも、娘、更衣にも先立たれた私自身は)縁起の悪い身でございますので、(若宮が)こうしてお暮らしなさるのも、はばかられもったいないことで(ございます)。」とおっしゃる。若宮は(もう)お休みになってしまった。
「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。
(命婦)「若宮を)拝見いたしまして、つぶさにご様子をも(帝に)奏上いたしたいのですが、(帝はわたしの帰りを)お待ちになっていらっしゃるでしょうから、夜も更けてしまいましょう。」と言って、(帰りを)急ぐ。
(母君)「(子を思うゆえに)思い乱れてどうしていいか分らない親心の耐え難いその一部だけでも、晴らすほどに(帝に)申し上げたく存じますので、個人的にでもゆっくりとお出でくださいませ。数年来ありがたく、晴れがましい折々には、お立ち寄りくださっていたのに、このような弔問(の使者)としてお会い申し上げるのは、全く無情な命でございますことよ。
生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。
(亡き更衣は)生まれた時から、心に期待するところがあった子で、(父の)故大納言が臨終の際となるまで『ひたすら(わが娘の)宮仕えの希望を必ず成就させ申しあげよ。私が亡くなったからといって、情けなく落胆するな」と、繰り返し戒め遺言されましたので、しっかりとした後ろ盾に思う人がない宮仕えは、かえってしない方がましだと存じあげながらも、ひたすら(故大納言の)遺言に背くまいと(いう気持ち)だけで、(娘を宮仕えに)出しましたのに、身に余るほどの(帝の)お情けが何かにつけ、もったいないことに、人並みに扱われない恥を隠しながら、宮仕えをなさっていたようですが、(他のお妃たちの)嫉妬がさらに深くなり、心を痛めることがだんだん多くなっていきましたところに、横死にのようなありさまで、とうとうこのようなこと(死)になってしまいましたので、かえって(帝の娘への)もったいない(はずの)ご寵愛が恨めしく存じあげられるのです。このような(帝への非難めいた愚痴を言ってしまった)のも(娘を失って)分別をなくした親の心の乱れでございます」と、しまいまで言い尽くすことができないで、涙にむせんでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。
「主上もしかなむ。『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。
(命婦)「主上様(帝)もご同様で(ございます)。ご自身のお心ながら強引に周りの人々が目を見張るほどご寵愛なさったのも、長く続くはずもない仲だったのだなあと、今となってはかえってつらいあの方(亡き更衣)とのご宿縁であった。決してわずかでも人の心を傷つけたことはあるまいと思うが、ただこの人(亡き更衣)との(宿縁が)原因で、多くの)そのような(恨まれる)ことがあってはならい人(他のお妃たち)の恨みをかった挙句に、このように(更衣に)先立たれて、気持ちを静めようもないのに、(前にも増して人目にも)体裁悪くなってしまったのも、(二人の)前世(の宿縁)が(どうであったのかを)知りたく思われる」と、繰り返しおっしゃっては、(更衣の死後)涙がちでばかりでいらっしゃいますと、(命婦は)語っても語り尽きない。涙ながらに(命婦は)「夜がたいそう更けてしまいましたので、今夜のうちに(帝に)ご報告(を)奏上いたしましょう」と、急いで(宮中に)帰参する。
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
「鈴虫の声の限りを尽くしても
えも乗りやらず。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に
と言はせたまふ。
をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御髪上げの調度めく物添へたまふ。
若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。
月は入り方の月で、空が清く澄み渡っている上に、草むらの虫の声々が(人の涙を)誘うかのように聞こえるにつけ、まことに(立ち)去りがたい草深い(尼君の)家である。
(命婦の歌) スズムシが声の限り鳴きつくして、(私・命婦もスズムシに誘われて秋の)夜長を泣き通しもこぼれ落ちる涙ですよ
(と、詠んで命婦は車に)とても乗ることもできない。
(母君の歌) ただでさえ、虫の鳴く声がはげしい(ように、私も泣いているこの)草深いわが住まいにいっそう(涙の)露を置き添えなさる宮中からのお使いの方(命婦)ですよ。
(と、つい)恨み言も申し上げてしまいそう(でございます。)と、(母君は取り次ぎの女房に)言わせなさる。
風情あるお贈り物などあるはずのときでもないので、ただ(亡き更衣の)お形見にと思って、このような入用(の折)もあろうかと残して置きなさっていたご衣装一揃いに、御髪上げのときのお道具のような物を(母君は)お添えになる。
(若宮に仕える)若い女房たちは(主人である更衣を失って)悲しいことは(今さら)言うまでもないが、(更衣の生前は)宮中での生活に朝な夕なに慣れ親しんで(いたので、更衣の里での生活は)とてもさびしくて、(帝の)ご様子などを思い出し申しあげるので、(若宮が宮中に)早く参内なさることを(母君に)お勧め申しあげるが、このように(逆縁の)不吉な身(祖母)が(若宮に)付き添い申し上げ(て、参内する)のも、まことに世間の聞こえがよくないだろうし、また、しばらくも(若宮を)拝し申し上げないでいるのは、とても気がかりに存じ上げなさって、(母君は)こだわりなく(若宮を)参内させ申し上げなさることがおできにならないのであった。
命婦は、「まだ大殿籠もらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。このころ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせたまふ。
いとこまやかにありさま問はせたまふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、「いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。
荒き風ふせぎし蔭の枯れしより小萩がうへぞ静心なき」
などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに思し続けられて、「時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。
(命婦は自分の帰参をお待ちになって、帝は)まだお休みなさっていなかったのだなと、おいたわしく拝する。中庭の植え込みがとても美しい盛りであるのを、(帝が)ご覧になられるふりをして、人目に立たないように、奥ゆかしい女房ばかり四、五人伺候させなさって、(よもやまの)お話をさせなさるのだった。
最近、毎日ご覧になる「長恨歌」のお絵、(それは)宇多天皇がお描きになって(実は絵師にお描かせになって、それに)伊勢や(紀)貫之に(和歌を)詠ませなさった(ものだが)、わが国の和歌ももろこし(中国)の漢詩も、ただもうその話の筋(長恨歌と同じ内容の事柄)を口癖(日常の話題)になさっている。
(帝は命婦に亡き更衣の里の)ご様子を実に詳しくお尋ねになる。(命婦は)しみじみと趣のあったご様子をひそやかに奏上する。(母君からの)お返事をご覧になると、「とてももったいないお言葉をいただき、その置き場もわかりません。このようなお言葉(を拝見いたします)につけても、(亡き娘、更衣を思って、心の中は)真っ暗で、思い乱れた心境で(ございます)
(歌)荒々しい風を防いでいた木(更衣)が枯れ(死に)てしまってから、(木陰の)小萩(若宮)のことが(気がかりで)落ち着いた心でいられないことですよ
などというように、(母君が)取り乱した様子なのを、心が乱れていた時だからと、(帝は)お見のがしなさることでしょう。(帝は)決してこう(取り乱し)たすがたを見せまいとお静めなさるが、全くご辛抱がおできになられず、(更衣を)はじめてお召しなられた年月のことまでかき集めて、何から何までお思い続けになられて、(更衣の生前は)わずかの間も見られないではいられなかったのに、こうして(更衣がいなくても)月日は過ぎたことよと、意外なことと(帝は)お思いになる。
「故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。言ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに思しやる。「かくても、おのづから若宮など生ひ出でたまはば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」などのたまはす。かの贈り物御覧ぜさす。「亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば」と思ほすもいとかひなし。
「尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
(亡き更衣の父の)「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの宿願をしっかり貫いてくれたお礼には、(宮仕えした)その甲斐があったと(更衣が)喜んでくれるようなことをしてやりたいと)いうように、常々考えていた。(今さら)言っても仕方のないことよと、(帝は)なにげなくおっしゃって実に感慨深く(母君を)お思いやりになる。
こうして(更衣が亡くなって)もいつの間にか、若宮なんかがご成長なされば、しかるべき(うれしい)機会もきっとあろう。長生きを(させてください)と、一心に祈るのがよかろう」などとおっしゃりなさる。
(命婦は母君からの)例の贈り物を(帝に)お目にかける。「(長恨歌にもあるように、)亡き更衣の居場所を探し当てたという証拠のかんざしであったならば(いいんだが)と、(帝が)お思いになるのも全く無駄なことである。
(歌)(亡き更衣の魂を)探しに行ってくれる幻術士がいてくれたらいいのに、人づてにでも(更衣の)魂のありかをどこだと知ることができるように。
絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。大液芙蓉未央柳も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。朝夕の言種に、「翼をならべ、枝を交はさむ」と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。
絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師といえども筆力に限界があったので、全く生気が乏しい。「太液芙蓉未央の柳」(の一句に)も、なるほど似通った容貌を、唐風の装束をした姿は、端麗であっただろうが、(更衣の)慕わしく愛らしかったのを、(帝は)お思い出しになるにつけても、(更衣の姿や声は)花の色にも、鳥の声にもたとえようがない(ほどすばらしかった)。
朝夕の口癖に(長恨歌にあるように、二人は)「比翼の鳥、連理の枝になろう」とお約束なっていたのに、思うようにならなかった人(更衣)の運命が限りなく残念に思われた。
風の音、虫の音につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿には、久しく上の御局にも参う上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものしと聞こし召す。このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし。月も入りぬ。
「雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生の宿」
風の音や虫の音を(聞くに)つけても、(帝は)何とはなく一途に悲しくお思いになるが、(第一皇子の母である)弘徽殿(の女御)におかれては、長いこと上の御局(帝の寝所)にも参上なさらず、月が風情があって美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをしていられるようである。(帝はそれを)実におもしろくなく不快にお聞きなさる。
最近の(帝の)ご様子を拝見している殿上人や女房などは、(その管弦を)苦々しいことと聞いていた。(弘徽殿の女御は)とても気が強く角ばった性格がおありになるお方で、(更衣の死など)なんでもないと無視してお振る舞いなさるのであろう。月も沈んでしまった。
(帝の歌)(雲の上であるここ)宮中でも(悲しみの)涙で曇って見える秋の月が、どうして草深い(更衣の里)家で澄んで見えようか、(いや、澄んで見えるはずがない)
思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。人目を思して、夜の御殿に入らせたまひても、まどろませたまふことかたし。朝に起きさせたまふとても、「明くるも知らで」と思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり。
(帝は草深い(更衣の里)家をお思いやりになりながら、灯火を(油が尽きるまで)かき立てて起きていらっしゃる。右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。(帝は)お考えになって、夜の御殿(寝所)にお入りになってもうとうとなさることもむつかしい。
朝になってお起きなさろうとしても、(更衣の生前は)「(夜が)明けるのも気づかず(共寝していたものを)」とお思い出しになるにつけても、(更衣亡きあとの今も)やはり、早朝のご政務は怠っておしまいになっているようである。
ものなども聞こし召さず、朝餉のけしきばかり触れさせたまひて、大床子の御膳などは、いと遥かに思し召したれば、陪膳にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。「さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り、恨みをも憚らせたまはず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせたまひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、人の朝廷の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。
お食事なども、お召し上がりなさらず、朝飼の間で形ばかり(お箸を)おつけになって、(昼の御座で召し上がる正式の)大床子のお食事などは、全く(めしあがる)気が進まないと、お思いになっているので、お給仕に仕える者は皆、おいたわしい(帝の)ご様子を拝して嘆く。
すべて(帝の)お側近く仕える者はみな、男も女も「ほんとに困ったことですね」と、互いに言い合っては嘆息する。「(更衣と帝は)こうなるはずの前世からのご約束がおありになったのだろう。(帝は更衣の生前には)大勢の人の非難や恨みさえも気兼ねなさらず、この(更衣の)方のことにかかわりにあることは、道理(物事の正しい分別)をもお失くしになり、(更衣が亡くなった)今はまた、このようにご政務をお執りになることも、お見捨てになったようになってゆくのは、まことに困ったことだと(異国の)朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと話し嘆息した。
月日経て、若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば、いとゆゆしう思したり。
明くる年の春、坊定まりたまふにも、いと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、色にも出ださせたまはずなりぬるを、「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、世人も聞こえ、女御も御心落ちゐたまひぬ。
月日が経って、若宮が(宮中に)参内なさった。(若宮は)ますますこの世の人とは思われず清らかで美しくご成長なさっていたので、(帝は悪いことが起きなければいいがと)大変不吉にお思いなされた。
翌年春に、東宮(皇太子)がお決まりにな去る時にも、(帝は第一皇子を)越えさせたいとお思いになるが、(この若宮には)ご後見するにふさわしい人もなく、また世間(貴族社会)の人が承知するはずもないことであったので、かえって(第一皇子をさしおいて、若宮を皇太子に立てることは)危険だと気兼ねなさって、お顔色にもお出しなさらずに終わったので、あれほど(若宮をおかわいがり)お思いになっていたが、(帝にも)限界があったのだなあと、世間の人も(おうわさ)申し上げ、(第一皇子の母、弘徽殿の)女御もお心を落ち着けなさった。
かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや、つひに亡せたまひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。御子六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣きたふ。年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返すのたまひける。
(若宮の)あの御祖母、北の方は(娘、更衣の死を悲しみ)気が晴れる方法もなく、塞ぎこみなさってせめて(亡き娘の)いらっしゃるところにでも尋ねて生きたいと願っていらっしゃった(その思いの)しるしでもあろうか、とうとうお亡くなりになってしまったので、(帝は)またこれ(北の方の死)を悲しくお思いになることはこの上もない。
御子(若宮)が六歳におなりになる年なので、(母更衣のときとはまだ幼かったが)このたび(の祖母の死)はお解りになって、恋い慕ってお泣きになる。長年(若宮に)親しくお馴染み申し上げたのに、あとにお残しする悲しみを(祖母北の方は)繰り返しおっしゃっていた。
今は内裏にのみさぶらひたまふ。七つになりたまへば、読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。
(若宮は祖母の里にも行かず)宮中にばかり伺候していらっしゃる。七歳におなりになったので、読書はじめなど(帝が)おさせなさって、(若宮は)たとえようがないほど聡明で賢くいらっしゃるので、(帝は)そら恐ろしいまでにご覧になる。
「今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ。母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ。いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、えさし放ちたまはず。女皇女たち二ところ、この御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける。御方々も隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしううちとけぬ遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえたまへり。
わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居を響かし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。
(帝)「更衣亡き)今はもうどなたも(若宮を)お憎みになれまい。せめて母君(更衣)がいない(ことに免じて)でもおかわいがりください」と、おっしゃって、(帝が)弘徽殿の女御など(のもと)にお出でになるお供として、そのまま(若宮を)御簾の内側にお入れ申し上げなさる。(たとえ、ものの情趣を解さない)恐ろしい武士や仇敵であっても、(若宮を)見ては、つい微笑まずにはおれない美しい様子でいらっしゃるので、(弘徽殿の女御もむげに)遠ざけることがおできにならない。
(第一皇子の外に)皇女たちお二方がこの(弘徽殿の女御)にはいらっしゃったが、(その美しさで若宮と)肩を並べなさる方さえいなかった。ほかのお妃たちも、お隠れなさらずに(若宮は幼い)今からお美しくこちらが恥ずかしくなるくらいご立派でいらっしゃるので、たいそう魅力的である(が、一方、)気詰まりな遊び相手と、どなたもどなたもお思い申し上げていらっしゃった。
((若宮への)本格的な(漢学の)ご学問は言うまでもないこととして、琴や笛の音色につけても宮中に(評判を)立てさせ、すべて一つひとつ数え上げていったら、仰々しく(ウソでないかと)いやになってしまいそうな(ほどに、優れた才能の若宮の)ご様子であった。
そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館に遣はしたり。御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。
その当時、高麗人で、来朝していた中に、すぐれた人相見がいたのを(帝が)お聞きになって、宮中にお招きになることは、(譲位の際の)宇多天皇のお試しがあったので、あまり人目がつかないように(お招きになって)この若宮を(外国使臣来朝の時の宿舎である)鴻臚館にお遣わしになった。
(若宮の)後見役のようにお世話申し上げる右大弁の子どものように(周囲に)思わせてお連れ申したところ、人相見は目を見張って、何度も首を傾け、ふしぎがる。
(相人)「(この方は将来)国の親(天皇)となって、帝王の最高の位につくはずの相がおありになる方で、そういう方として占うと、(国が)乱れ、(民が)苦しむことがあるかもしれない。朝廷の重鎮となって、国政を補佐する方として占うと、またその相ではないようです」と、(占って)言う。
弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。
右大弁も、大変学才のある学識者で、(相人と)語り合った内容は、とても興味深いものであった。漢詩などもお互いに作って、今日明日にも帰国しようとするときに、このように世に稀な方(若宮)に対面した喜びや(お別れしては)かえって悲しいにちがいないという気持ちを、(相人が漢詩に)趣深く作ったのに対して、若宮も心を打つ詩句をお作りなさったので、(相人は)この上なくお褒め申上げ、すばらしいいくつもの贈り物を(若宮に)差し上げる。朝廷からも(相人に)たくさんの贈り物を下賜なさる。
(そんなことがあって、)自然と(若宮の占いの)ことが(世間に)広まって、(帝は)お漏らしなさらなくても、東宮(第一皇子)の祖父の左大臣などは、どういうことなのかと、お疑いになるのであった。
帝、かしこき御心に、倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。
帝は、恐れ多いことに、(前もってご自身のお考えで)日本流の人相占いをお命じになって(すでに)お考えになっていたことなので、今までこの(若)宮を親王にもなさらなかったのを、「相人はほんとうにすぐれていたなあ」と、(帝は)お思いになって、「(位のない)無品の親王で、外戚の後見のない(不安定な状態の)生涯は送らすまい。わがご治世もいつまでとも分らぬことだから、臣下として朝廷の補佐役をするのが、将来も頼もしそうに思われることだと、お決めになって、(帝は)ますます諸道の学問を(若宮に)習わせなさる。
際ことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば、世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しきおきてたり。
(若宮は)抜きん出て聡明で(親王でない)臣下に(する)にはまことに惜しいけれども、(もし)親王になりなさったなら、(あまり抜きん出て聡明であるため、帝はひょっとすると、皇太子に立てるつもりではないかと)世間の疑いを持たれそうでいらっしゃるので、(帝が)宿曜道のすぐれた人に占わせなった際にも(高麗の相人と)同様のことを申すので、(若宮を臣下に降して)「源氏」姓にしてさしあげるように、お決めになった。
年月に添へて、御息所の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝の四の宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后世になくかしづききこえたまふを、主上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、「亡せたまひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。
年月が経つにつれて(も)、(帝は)御息所(亡き更衣)をお思い忘れになる時はない。「気が紛れるか」と、しかるべき姫君たちをお呼びなさるが、(亡き更衣に)比肩できる程度の人もめったにいないものだなといとわしとばかりに、万事にお思いになっていたところ、先代の天皇の第四皇女で、ご容貌のすぐれておいでであると評判が高くいらっしゃる(方で)、母の后がまたとなく大切にお世話申し上げていられる(方を)、帝のお側にお仕えする典侍(女房)は先帝のご治世(に任命された)女房で、あちら(母后)の御殿にも親しく参上し、なじんでいたので、(四の宮が)ご幼少でいらしゃった時から拝見し、今でもちらと拝見して、
(典侍)「お亡くなりになった御息所(更衣)のご容貌に似ていらっしゃる方を(私は)三代(の帝)にわたって宮仕えをしてきましたが、お見かけできませんでしたが、母后の宮の姫君(さま)は、とてもよく(亡き更衣に)似てご成長なさいましたよ。世にもまれなご器量よしのお方で(ございます)」と、(帝に)奏上したところ、(帝は)「ほんとうにか」と心がひかれて、礼を尽くしてお申し込みなさったのであった。
母后、「あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿の親王など、「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつりたまへり。
(母后)「まあ、恐ろしいことよ。東宮(第一皇子)の(母、弘徽殿の)女御がひどく意地悪くて、桐壺の更衣が露骨にないがしろに扱われなさった例も、縁起でもない」とご用心なさって(娘、四の宮の入内を)あっさりとはご決心なさらないうちに、(その母后も)お亡くなりになった。
(四の宮に)お仕えする女房たちやご後見人たち、兄上の兵部卿の親王などは、(四の宮が)「このように心細くていらっしゃるよりは、宮中でお暮らしなさってお心が紛れるだろう」などと、お考えになって(宮中に)参内させ申し上げなさった。
藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。
(入内なさった四の宮は)「藤壺」とお呼び申し上げる。(うわさには聞いていたが)ご容貌やお姿がふしぎなくらい、(亡き更衣に)似ておいでになる。こちら(藤壺)は(桐壺の更衣に比べて)お家柄が一段と抜きん出て(そう思うせいか)世間の評判がすばらしく、人(女御・更衣といったお妃たち)もさげすみ申すこともおできになれないので、(藤壺の宮は)何に一つ不足は無い(感じである)。
あの人(亡き更衣の場合)は(帝からのご寵愛を)周囲の人(他のお妃たち)が承知申さなかったのに、(帝の)ご寵愛があいにく(深かった)であったのですよ。
(帝は更衣を亡くしたお悲しみが)お思い紛れることはないが、(藤壺に)お気持ちが移って、この上なくお気持ちが慰められるようであるのも、人情のさがというものであったよ。
源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。
源氏の君(若宮)は、(帝の)お傍を離れなさらないので、(たまにお通いのお方は言うまでもなく、だれよりも)頻繁に(帝が)お渡りなさるお方(藤壺)は恥ずかしがってばかりいらっしゃる。どのお妃方も自分が(ほかのお妃たちに比べて)劣っていると、、お思いになっている方があろうか(いやあるはずがない)。
(帝が通っておられるお方は)それぞれにたいへんすばらしいけれども、(みんな)少しお年を召していらっしゃるのに(比べて、藤壺の宮は)とても若くかわいらしくて、しきりに(お姿を)お隠しなさるが、(帝は)自然と漏れ見申しあげる。
母御息所も、影だにおぼえたまはぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえたまふ。
(源氏の君には、亡き)母御息所も(その)面影さえご記憶していらっしゃらないのに、「(藤壺の宮は亡き母に)とてもよく似ていらっしゃる」と、典侍(女房)が(帝に)申し上げていたのを、幼心にとても慕わしくお思い申し上げなさって、(藤壺の宮のお側に)いつも参上したく、「馴れ親しむ(お姿を)拝見したいものだ」と、お思いになる。
主上も限りなき御思ひどちにて、「な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。
世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。
主上(帝)もこの上なくおいとしい方々(亡き更衣も藤壺の宮も)なので、「よそよそしくなさいますな」ふしぎに(亡き更衣に)なぞらえ申してしまいそうな気持ちがします。(若宮を)無礼だとお思いにならず、かわいがってください。顔つきや目元などは、(若宮と更衣とは)とてもよく似ていたので、若宮の生母のようにお見えになるのも、不似合いなことではない(と思います)」などと、(藤壺の宮に)お頼み申し上げなさっているので、(若宮は)幼心にも何でもない(春の)桜や(秋の)紅葉につけても、お慕いしている心のほどをお見せ申し上げる。
(源氏の君が藤壺の宮に)格別更衣をお寄せ申し上げなさっているので、弘徽殿の女御はまたこの宮(藤壺)とも、お仲がしっくりしないため、これに加えて(更衣の生前からの)憎しみもよみがえってきて、(源氏を)目障りな者とお思いになった。
(帝が)この世に並ぶ者がないお方と拝し申し上げなさり、(世間でも)評判高くていらっしゃる藤壺の宮のご容貌に対しても、やはり、(若宮の)照り映えるお美しさには比類がなく、かわいらしくいらっしゃるのを、世間の人は「光君」とお呼び申し上げる。
藤壺は(源氏と同列に)お並びになって、(帝の)ご寵愛もそれぞれ厚かったので、(藤壺を)「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。
この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまふ。居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添えさせたまふ。
この若宮(源氏)の御童子姿が(帝はあまりにもかわいいので)変えるのがつらいとお思いになるが、十二歳で御元服(成人の儀式)なさる。(帝ご自身)親しくお世話を焼かれて、(一世の源氏の)元服の儀式として定まっているしきたりに(さらにできるだけのことを)お加えさせなさる。
一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせたまはず。所々の饗など、内蔵寮、穀倉院など、公事に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。
先年の東宮(第一皇子)のご元服の儀式で、(宮中の)南殿(紫宸殿)で執り行われた儀式が、りっぱでうつくしかったという(世間の)評判に劣るようにはなさらない。
(廷臣・女房などが賜る)諸役所での宴会のごちそうは、内蔵寮や穀倉院など(公式)規定通り調達いたしたが、行き届かないことがあったらいけないと、特別に(帝の)勅命があって、華美の限りを尽くして差し上げた。
おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣の御座、御前にあり。申の時にて源氏参りたまふ。角髪結ひたまへるつらつき、顔のにほひ、さま変へたまはむこと惜しげなり。大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「御息所の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせたまふ。
(帝が)お住まいになる清涼殿の東側の廂の間に東向きに(天皇がお座りになる)椅子を立てて、冠者(元服なさる源氏の君)のお席や加冠役の左大臣のお席とかが、御前に設けられた。
(元服の儀式は)申の刻(午前四時ごろ)であって、(その時刻に)源氏が参上なさる。(髪を)角髪にお結いなさっている(源氏の童顔の)顔つきや色つやは(髪型の)形をお変えになることがもったいないご様子である。
大蔵卿が理髪役を奉仕する。とてもきよらかで美しいお髪を削ぐとき、(源氏が)痛々しそうなのを、帝は「御息所(亡き母更衣)が見たならば(何と言うであろう)」と、お思い出しになるに(つけても)、涙がこぼれててきそうなのを、強く思い直して我慢なさる。
かうぶりしたまひて、御休所にまかでたまひて、御衣奉り替へて、下りて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙落としたまふ。帝はた、ましてえ忍びあへたまはず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひたまへり。
(源氏は)加冠の儀をなさって、ご休憩所にお下がりになって、ご装束をお召し替えになって、東庭におりて(謝意を表するお礼の)拝舞申し上げなさる様子に、(御前に居合わせた)一同は皆涙を落としなさる。
帝は帝で、言うまでもなくこらえきれなされず、(苦悩や悲しみが)お思いまぎれることもあった昔のこと(亡き更衣のこと)を、改めて悲しくお思いになる。
ほんとうにこんなに幼い年頃では、髪上げをしたら、見劣りするのではないかと、(帝は)疑わしくお思いになっていたが、(元服後の源氏は)驚くあきれるほど愛らしさが加わりなさった。
引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女、春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。内裏にも、御けしき賜はらせたまへりければ、「さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも」ともよほさせたまひければ、さ思したり。
(加冠役の)左大臣の(夫人である)皇女がお産みなさった方で、ひたすら大切にお育てなさっている姫君を、東宮(第一皇子)からもご所望があったので、(左大臣は)お悩みなさることがあったのは、この(源氏の)君に差し上げようとのお考えであったのだ。帝にも、ご意向をお伺い申し上げなさったところ、(帝は)「それでは、(源氏の)元服の折に(妻として)世話する者がいないようなので、添い寝にでも(いかがであろう)」とお促しなさったので、(左大臣は)そのようにお考えになっていた。
さぶらひにまかでたまひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。大臣気色ばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。
(元服の儀のあと、源氏が)ご休憩所に退出なさって、参会者たちが御酒などを召し上がるとき、親王方の末席に源氏はお着きなさった。(隣り合わせの席の)左大臣は(娘をさしあげたいという)思いをほのめかし申し上げなさることはあるが、(源氏は)何かと恥ずかしい年頃なので、何ともお応え申し上げなさらない。
御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたまふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。
御前(帝)から内侍司の長官がお言葉を承り、(それを蔵人に)伝えて、左大臣が(帝の)御前に参られるようにとのお呼びがあるので、(左大臣は)参上なさる。ご褒美の品物を帝つきの命婦が取り次いで下賜なさる。(その品物は)白い大袿に、御装束一領、決まりの通りである。
御盃のついでに、
「いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや」
御心ばへありて、おどろかさせたまふ。
「結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色し褪せずは」
と奏して、長橋より下りて舞踏したまふ。
(帝からの)お盃を頂いた折に、
(帝の歌)幼い冠者(源氏)がはじめて結う元結(の折)に(そなたの姫との)末長い仲を約束する気持ちを結び込めた(もの)か
(と、帝は)お心遣いを示されて、(左大臣を)はっとさせなさる。
(それに対する左大臣の歌)(深い心を込めて)結びました思いも(源氏の)深い元結に、その濃い紫の色が変わら(お心が変わら)なければ(と存じます)と奏上して、長橋(廊下)から降りて拝舞なさる。
左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて、禄ども品々に賜はりたまふ。その日の御前の折櫃物、籠物など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。
(帝は左大臣に)左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を(止まり木に)とまらせてお与えになる。(東庭に降りる)階段のもとに、親王方が立ち並んで祝儀などをそれぞれの身分に応じてお与えになる。その(元服の儀式の)日の(源氏から帝への)折櫃物や籠物(といたごちそう)などは、右大弁が(帝のご命令を)承って(自分の家で)調え申したものであった。
(下々の役人たちに与える)弁当や祝儀の(反物を入れる)櫃などが、(東側の庭に)置き場所もないほどで、東宮(第一皇子)の御元服の時よりも数がまさっていた。(公的な決まりもないので、)かえってこの上なく盛大に(執り行われたの)だった。
その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ。作法世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。女君はすこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。
(帝は)その夜、左大臣のお邸に源氏の君をご退出させなさる。(左大臣家の婿取りの)作法は、(世間に例がないほど)りっぱにしておもてなし申し上げなさった。(源氏が)とても幼いご様子でいらっしゃたのを、(左大臣家方では並々でなくいとしいとお思い申し上げなさった。
左大臣の姫君は(源氏より)少し年上でいらっしゃるのによって、(婿君の源氏が)たいそう若くいらっしゃるので、不似合いで気がひけるとお思いになった。
この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ、いづ方につけてもいとはなやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父にて、つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらず圧されたまへり。
この左大臣は(帝の)ご信任がとても格別であるところに、(姫君の)母宮は帝とご同腹の皇后を御母としていらっしゃったから、(左大臣家は)どちらからいっても、とても華麗であるうえに、この源氏の君までが(婿君として)加わりなさったので、東宮(第一皇子)の御祖父で、最後(皇太子即位の暁)には天下を支配なさるはずの右大臣のご威勢は、問題にもならないで、(左大臣家に)圧倒されてしまわれなさった。
御子どもあまた腹々にものしたまふ。宮の御腹は、蔵人少将にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐしたまはで、かしづきたまふ四の君にあはせたまへり。劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。
(左大臣家には)お子たちがたくさんご夫人方においでになる。姫君と同腹のお方は蔵人の少将で、とても若く美しい方なので、右大臣が(左大臣家との)お仲はあまりよくはないが、(右大臣は)放って置くこともおできになれず、大切にお育てなさっている四の宮に(蔵人の少将を)婿として迎えなさった。(左大臣家の婿扱いに)劣らず大切にお世話なさっているのは、(両家とも)理想的な婿舅のお間柄で(ある。)
源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひきこえて、「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」おぼえたまひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。
源氏の君は帝が常に身近にお置きなさるので、気楽に私邸でお過ごしにもなれない。(源氏は)心の中では一途に藤壺のご様子を並ぶ者がない(お方)とお慕い申し上げて、「藤壺のような人をこそ(妻にしたい)が、似た女性はなくいらっしゃるものだな。左大臣の姫君はとても趣のある感じで、大切に育てられている方には思われるが、気に沿わないふうに」お感じになられて、(藤壺のことが)幼心ひとつにいつも念頭にあって、とても苦しいほどに(悩んで)いらっしゃった。
大人になりたまひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れたまはず。御遊びの折々、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづききこえたまふ。
(源氏が)元服なさってからは、(帝は)以前のように(藤壺の)御簾の内側にも(源氏を)お入れなさらない。管弦のお遊びの折々、琴や笛の音に(源氏は)合わせて笛を吹いてお聞かせし、かすかに漏れる(藤壺の)お声を慰めとして、宮中生活ばかりを好ましく思っていらっしゃる。
(宮中に)五六日伺候なさって、左大臣邸に二三日などと、とぎれとぎれにおいでになるが、(左大臣方では)、(源氏はまだ)幼いお年頃だから、仕方のないこととお考えになって、(婿君として)あれこれお世話申し上げていらっしゃる。
御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたつく。内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせたまふ。里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」とのみ嘆かしう思しわたる。
「光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。
(帝は源氏と姫君)お二方の女房たちは、並みでない(美しい女房たちを)選りすぐってお仕えさせなさる。(源氏の)お気に入りそうなお遊び(管弦)を催しなどして、苦労を顧みずお勤めになる。
宮中ではもともと(亡き母のお局であった)淑景舎を(源氏の)お部屋に当てて、母御息所(亡き更衣)に(お仕えしていた)お方の女房たちが、退出して散り散りにならぬように(ひきつづき)お仕えさせなさる。
(故更衣の)お邸は、修理職や内匠寮に(帝からの)宣旨が下って、またとなく(りっぱに)ご改造させなさる。
もとからの木立や築山の様子は趣のある所であったが、池の風情を広く作り直して、大騒ぎしてりっぱに造営する。「このようなところで、理想とするような女性を(妻として)迎えて暮らしたい」とばかり(源氏は)悲しく思い続けていらっしゃる。
「光る君」という名は、(かつて)高麗の相人が(若宮のご容貌を)お褒め申しておつけ申したものだ」と言い伝えた(とお聞きしています)。