■ その1〜「こちら側のどこからでも開けられますシステム」の足踏みを憂います。 ■ その2〜季節よ!オマエがオレ達を巡っている、ということにして欲しい。 ■その13〜「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」とは? ■その14〜男の甲斐性、とは? |
少し前の話しになりますが、コンビニのレジ行列にボーっと並んでいましたところ、僕の前の人の清算が終わり店員さんが前の男に言いました。
いったい何をどれくらい買えばコンビニで23万円使えるのか!でしょう。 、、、、、無い、お買い物商品が無い、、、、、、。
冷静になり良く見ればただの平凡な男です。この男にそんな実力が有るわけがありません。ふっ、驚かせやがって、、、。と、一息つき、自分の買い物の清算を済ませていました。が、、、、、ん?ちょっと待てよ、、、よく考えてみれば、、、、
|
「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」 これは、ミスター・ジャイアンツこと長嶋茂雄さんの残した名言のひとつです。先日本屋で立ち読みした週刊誌に載ってました。このフレーズの意図するところと、名言たる所以とは、以下僕の解釈ですが、、、
勝負という観点からすると、家に帰って風呂に入るまでわからないものなのだ。 つまり勝ち負けというものは己の心の在り方に拠る物であり、持ち方に拠るものである。 負けるが勝ち、という言葉もあるように、単純に勝ち負けだけでは計ることのできないものが人生には度々あり、 あるからこそまた明日を生きる活力が生まれてくるのだ。 ある時には負けは勝ちであり、涙は宝石になり、 またある時、勝ちは負けであり、表彰状はただの紙屑になる。 そして、人生の真実は風呂の中にこそあるのだ。 ママ、バスクリンが入ってないよ。
|
サッと茹であげた枝豆に、ぱらっと塩をふって、程よく冷えたビールを飲む。 初夏の予感にじわじわと盛り上がりつつある今、この組み合わせがやはり最強だという思いが、今年も街全体の声となりつつある。「早く、早く、ウギュゥ〜。」というお客の祈りにも似た叫びと、「まだまだまだまだ。グヒヒヒ。」という店主の悦びに似た笑い声が、どこかSM的様相を呈しながらも、とにかく新橋駅前では夏への期待感へと全員が走り出している(多分)。 程よい塩味の枝豆と冷えたビール。 ある者はいう、「やっぱりこれが最高のビールの飲み方だな!」。またある者はいう、「やっぱりこれが最高の枝豆の喰い方だよね〜。」感受性の大小強弱は人それぞれなので、同じ場面を過ごしても違った感想や想いがあってよい。ビールをうまいと感じても、枝豆をうまいと感じてもどちらでもいい。がしかし、世の中は広かった。上には上が、、いや、上というか横というか、、とにかくいろんな人がいた。曰く、こうだ。 「いや〜、これが最高の塩の食べ方だよね!!」 こんな大人に私はなりたい。
|
落語に「三題噺」みたいなのがある。お客さんから「お題」をいくつかもらい、その中から三つの「お題」を選びそれをうまく使って即興で噺を組み立てていくヤツですが、ああいうのは結構面白い。
音楽にもそういう感覚はあって、例えば、バンドなんかは成り立ちからしてすでに「シバリ」でいっぱいだ。トリオなら、「その三人でなんとかする」「その三人でだからそこできることをやる」という素晴らしい「シバリ」がある。ほかのミュージシャンやプレイヤーを呼べば簡単に済んでしまうようなことも三人でなんとかする。そういうのが「三題噺」と同じで面白いのだなあと思う。 僕らのようなソロ・シンガーの場合は、ライブにしてもレコーディングにしても、始める前にまずどんなシバリでやろうかと考える。盛大にミュージシャンを呼んでやるのか、一人でやるのか、数人でやるのか、無限に時間をかけるのか、決めた時間内でやるのか。精神的なシバリから、「この機材だけしか使わない」「予算はこれだけしか使わない」というような物理的なシバリまでいろいろ有って、その中からいくつかの「お題」を自分に与える。 とにかく、「自由になるためにシバられたい」という一見矛盾しているけれど、そうありたいという思いがある。自作自演の歌手ということになると、音楽だけじゃなくて、音楽を産み出す生活のすべてに「シバリ」が必要になるときがある。それは、「シバリ」でもあるけど同時に「よりどころ」でもあり、苦しい時に唯一、自分がすがれるもののように感じる。必死でシバられようとする毎日は、ナルシズムでいっぱいで、見方によってはひどく滑稽だ。でもそういうことなので仕方が無い。 サッカーには「手を使ってはいけない」とういうシバリがある。例えば、試合中にいきなり選手がボールを抱えてゴールに向かって自転車に乗って走り出したら、いい加減にしろよということになる。<足だけしか使ってはいけない>という「シバリ」。そんなのはただのスポーツの中のひとつのルールに過ぎないのに、そのルールに人生を捧げてしまう人が居る。でもだからこそ華麗な足技が産み出され、超人が現れ、感動を与えてくれる。 工夫して行く、ということについて言えば、誰もが平等なんだと思う。知性があってユーモアがあって、必死であがこうとしている音楽、それが僕のいちばん好きな音楽だ。
|
前回、前々回と立ち食いソバの周辺の細道をみなさんと共に歩いてみたわけですが、そのおかげで、僕自身、やっと立ち食いソバのその魅力のほんのひとかけらでも語れるような気がしてきました。
大事なところを繰り返します。<そこでは、誰も皆、伝統や、歴史、その哲学にとらわれることなく、またその力を借りる必要も無く、ただ自分自身として生きるのです>。無心になる、簡単なことではありません。人の目を気にせず自分に正直に向き合うこと、難しいことです。でも出来るのです。立ち食いソバの前でなら。人が立ち食いソバを喰う時、人は立ち食いソバを喰っているわけではありません。そこに何かを捨て去り、そして見つけて行くのです。
|
ソバについて書くのも、、、(小声で)だんだん飽きてきましたが、、、、、、でも最後までがんばります。
|
さて、立ち食いソバにこんなにも僕らがハートを掴まれてしまうのは何故なんでしょうか?ラーメンでもなくうどんでも無く何故、立ち食いソバなのでしょう?そもそも、何故、蕎麦屋ではなく立ち食いソバ屋、なのでしょうか?
|
食べ物にも旬と言うモノがありますが、それは「立ち食いソバ」とて例外ではありません。年中食として定着している感のある立ち食いソバですが、真夏の昼下がりに汁まで飲み干そうものならば、汗方面の被害からワイシャツ関係に大惨事を招くことも少なくありません。日本を代表する「立ち食いソバ・ファン」の一人である僕の立場でも、真夏の午後1時に立ち食いソバがふさわしいかと問われたなら返答に詰まらないとは言い切れません。
|
その日、我々一行、馬場俊英(35)と首藤高広(38)は夕暮れの大阪・梅田に居た。
|
■2002.10 |
|
先ほどコンビニで267円の買い物をしまして、僕はレジで312円を支払い、55円のお釣りを貰いました。その帰り道で思いました。「何もあそこまでやらなくっても良かったんじゃないか」と。「頑張りすぎたかな。」と恥ずかしい気分でもありました。シンプルに300円払うとか、まあ財布に7円があったら、307円払って、40円のお釣りを貰う程度が妥当な態度だったかもしれません。
|
春が来た、とか、冬が来た、とかいう物言いをするが、本当はどうか。
|
多くの人は、インスタント・ラーメンなどのスープの素の小袋を一度ならず開けたことがあるだろう。
|
■ |