伝言 名作百選


1999年から始まりました「伝言」のバックナンバーからのセレクションです。

(一部、加筆、訂正等ある場合があります)



■ その1〜「こちら側のどこからでも開けられますシステム」の足踏みを憂います。

■ その2〜季節よ!オマエがオレ達を巡っている、ということにして欲しい。

■ その3〜買い物の数学的アプローチ「レジ算数」のこれから

■ その4〜カメは万年か。

■ その5〜キャンペーン・トワイライトゾーン。

■ その6〜大阪トワイライトゾーン。

■その7〜「立ち食いソバ白書〜第一章」

■その8〜「立ち食いソバ白書〜第二章」

■その9〜「立ち食いソバ白書〜第三章」

■その10〜「立ち食いソバ白書〜第四章」

■その11〜三題噺とは?

■その12〜最高の塩の食べ方、とは?

■その13〜「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」とは?(2004.7/22)

■その14〜男の甲斐性、とは?(2004.7/22)


その14〜男の甲斐性とは?


し前の話しになりますが、コンビニのレジ行列にボーっと並んでいましたところ、僕の前の人の清算が終わり店員さんが前の男に言いました。



「23万円です。」




ウソ!23万!(正確には端数がありました)。僕は思わず顔を上げました。コンビニで23万円使うヤツ!一体どんな大物なんだ!目の前にはスーツ姿の男が立っていました。一見普通です。とてもコンビニで23万円も使うような掟破りな雰囲気ではありません。がしかし、問題は男のパーソナリティではありません。そうです。問題は、



いったい何をどれくらい買えばコンビニで23万円使えるのか!でしょう。




僕の実力ではいくらがんばっても5000円がせいぜいです。吉野家で2000円使うことだって出来ません。でもそれだって調子のいいときに出せる数字です。基本的には1000円でおつりが来るくらいが、僕のコンビニ・アベレージです。だって棚のオニギリを全部買い占めたって、5000円くらいでしょう。冷蔵庫のジュース類を根こそぎ買ったって一万円もいかないでしょう。なのに、この男は23万円!悔しいです。僕は男の大胆さに対する敗北感に打ちのめされながら、レジ前のスペースに目をやりました。ところが、、、



、、、、、無い、お買い物商品が無い、、、、、、。



しかし、商品が無い代わりに、店員さんの手には数枚の「払い込み用紙」が握られていました。




なんだ光熱費かよ!



冷静になり良く見ればただの平凡な男です。この男にそんな実力が有るわけがありません。ふっ、驚かせやがって、、、。と、一息つき、自分の買い物の清算を済ませていました。が、、、、、ん?ちょっと待てよ、、、よく考えてみれば、、、、




「いったい何をどれくらい使えば光熱費で23万円も使えるんだぁああーーーーっつ!





と思い、全力で振り返り、コンビニの出口まで行き、男の姿を追ったのですが、男はもうすでに午後の街に消えた後でした。僕はコンビニ前に立ちすくみ、もはや姿の見えぬ男に胸の内でただ、こう、つぶやくのみなのだった。






「電気を大切にな!」



■2002.8.7


その13〜「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」とは?


「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」


これは、ミスター・ジャイアンツこと長嶋茂雄さんの残した名言のひとつです。先日本屋で立ち読みした週刊誌に載ってました。このフレーズの意図するところと、名言たる所以とは、以下僕の解釈ですが、、、



試合の勝ち負けはゲーム終了時に結果として出るものだが、

勝負という観点からすると、家に帰って風呂に入るまでわからないものなのだ。

つまり勝ち負けというものは己の心の在り方に拠る物であり、持ち方に拠るものである。

負けるが勝ち、という言葉もあるように、単純に勝ち負けだけでは計ることのできないものが人生には度々あり、

あるからこそまた明日を生きる活力が生まれてくるのだ。

ある時には負けは勝ちであり、涙は宝石になり、

またある時、勝ちは負けであり、表彰状はただの紙屑になる。

そして、人生の真実は風呂の中にこそあるのだ。

ママ、バスクリンが入ってないよ。


というヒジョーに達観したお言葉です。さすが、ミスターです。「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」ぎゃはははは!なんだそりゃ!紙に書いて貼っておきましょう。それから、もうひとつ、僕が最高に気に入ったもののひとつに、「さあ、おはよう!」というのがありました。ガンバレ!ミスター!!早く帰って来てください。



2001.10.7記(2004.7.22加筆)


その12〜最高の塩の食べ方とは?


ッと茹であげた枝豆に、ぱらっと塩をふって、程よく冷えたビールを飲む。

初夏の予感にじわじわと盛り上がりつつある今、この組み合わせがやはり最強だという思いが、今年も街全体の声となりつつある。「早く、早く、ウギュゥ〜。」というお客の祈りにも似た叫びと、「まだまだまだまだ。グヒヒヒ。」という店主の悦びに似た笑い声が、どこかSM的様相を呈しながらも、とにかく新橋駅前では夏への期待感へと全員が走り出している(多分)。



程よい塩味の枝豆と冷えたビール。


ある者はいう、「やっぱりこれが最高のビールの飲み方だな!」。またある者はいう、「やっぱりこれが最高の枝豆の喰い方だよね〜。」感受性の大小強弱は人それぞれなので、同じ場面を過ごしても違った感想や想いがあってよい。ビールをうまいと感じても、枝豆をうまいと感じてもどちらでもいい。がしかし、世の中は広かった。上には上が、、いや、上というか横というか、、とにかくいろんな人がいた。曰く、こうだ。



「いや〜、これが最高の塩の食べ方だよね!!」




こんな大人に私はなりたい。



2003.5.3


その11〜三題噺とは?


語に「三題噺」みたいなのがある。お客さんから「お題」をいくつかもらい、その中から三つの「お題」を選びそれをうまく使って即興で噺を組み立てていくヤツですが、ああいうのは結構面白い。



<与えられた「シバリ」の中でその人が想像力や創造力、構成力を駆使して、どれだけ自由になれるのか>、というような部分に、その人が培って来た物や背負って来た物が見えて面白いし、<美しくまとめて行こうとする時に必要な知識と力量と、そしてそれを壊して破たんしてブチ切れようとする感性との間の振幅>に垣間見る人間性は興味深い。そして、そこで繰り広げられる、何かしらの「シバリ」があったからこそ生まれた「創意工夫」や「あがき」のようなものが僕らの心に感動を呼ぶのかなと思う。


音楽にもそういう感覚はあって、例えば、バンドなんかは成り立ちからしてすでに「シバリ」でいっぱいだ。トリオなら、「その三人でなんとかする」「その三人でだからそこできることをやる」という素晴らしい「シバリ」がある。ほかのミュージシャンやプレイヤーを呼べば簡単に済んでしまうようなことも三人でなんとかする。そういうのが「三題噺」と同じで面白いのだなあと思う。


僕らのようなソロ・シンガーの場合は、ライブにしてもレコーディングにしても、始める前にまずどんなシバリでやろうかと考える。盛大にミュージシャンを呼んでやるのか、一人でやるのか、数人でやるのか、無限に時間をかけるのか、決めた時間内でやるのか。精神的なシバリから、「この機材だけしか使わない」「予算はこれだけしか使わない」というような物理的なシバリまでいろいろ有って、その中からいくつかの「お題」を自分に与える。


とにかく、「自由になるためにシバられたい」という一見矛盾しているけれど、そうありたいという思いがある。自作自演の歌手ということになると、音楽だけじゃなくて、音楽を産み出す生活のすべてに「シバリ」が必要になるときがある。それは、「シバリ」でもあるけど同時に「よりどころ」でもあり、苦しい時に唯一、自分がすがれるもののように感じる。必死でシバられようとする毎日は、ナルシズムでいっぱいで、見方によってはひどく滑稽だ。でもそういうことなので仕方が無い。


サッカーには「手を使ってはいけない」とういうシバリがある。例えば、試合中にいきなり選手がボールを抱えてゴールに向かって自転車に乗って走り出したら、いい加減にしろよということになる。<足だけしか使ってはいけない>という「シバリ」。そんなのはただのスポーツの中のひとつのルールに過ぎないのに、そのルールに人生を捧げてしまう人が居る。でもだからこそ華麗な足技が産み出され、超人が現れ、感動を与えてくれる。


工夫して行く、ということについて言えば、誰もが平等なんだと思う。知性があってユーモアがあって、必死であがこうとしている音楽、それが僕のいちばん好きな音楽だ。



2003.8.06


その10〜馬場俊英による「立ち食いソバ白書〜第四章」完結編


回、前々回と立ち食いソバの周辺の細道をみなさんと共に歩いてみたわけですが、そのおかげで、僕自身、やっと立ち食いソバのその魅力のほんのひとかけらでも語れるような気がしてきました。



深からず、浅からず。重からず、軽からず。多からず、少なからず。高からず、安からず。甘からず、辛からず、そして、、、



美味からず!(重要)。



人は立ち食いソバの前で無力です。立ち食いソバを語るとき、立ち食いソバの乗った天秤の、そのもう片側のお皿に、どれだけの言葉を積み上げれば良いのだろう?その果てしない世界の淵に立った時、人は無口になり思考することを止め、その恵みをただ受け入れるだけなのです。ツユ、ソバ、ソバ、ツユ、ソバ、ソバ、ツユ、水、ソバ、ソバ、かき揚げ、ツユ、ツユ、水、ツユ、水。ドンブリの中は一つの宇宙です。玄人も無く、素人も無く、敷居は低く、その扉はいつだって開かれているのです。そこでは、誰も皆、伝統や、歴史、その哲学にとらわれることなく、またその力を借りる必要も無く、みな等しくただの人なのです。


大事なところを繰り返します。<そこでは、誰も皆、伝統や、歴史、その哲学にとらわれることなく、またその力を借りる必要も無く、ただ自分自身として生きるのです>。無心になる、簡単なことではありません。人の目を気にせず自分に正直に向き合うこと、難しいことです。でも出来るのです。立ち食いソバの前でなら。人が立ち食いソバを喰う時、人は立ち食いソバを喰っているわけではありません。そこに何かを捨て去り、そして見つけて行くのです。



立ち食いソバについてあまりにも多くを語り過ぎたかも知れません。でもしかし、私が語らなければ、誰が立ち食いソバに正しく相応しい位置付けを与えることができるでしょう。後悔はありません。長らくおつき合いいただきありがとうございました。最後に一遍の詩を詠み、終わりにしたいと思います。では、どこかの立ち食いソバ屋で!


想像してごらん、天国なんてないと
簡単なことだろ?



僕らの足の下に地獄なんてなくて
天国も無く 見上げれば そこにはただ空があるだけ



そしてテーブルには ただ 立ち食いソバがあるだけ
すべての人々が今日を生きて生活していると
想像してごらん



想像してごらん、国境なんてないと
想像するのは難しくない
殺す目的も死ぬ目的もないし 宗教もない
ただ木漏れ日の中に 立ち食いソバがあるだけ



想像してごらん 
みんながわらって立ち食いソバを食べながら生活していること



きみは僕のことを、夢みている、というかもしれない
でもその夢を見ているのは僕ひとりだけじゃないんだ
いつか仲間に加わってほしいと思う
そしたら、世界はひとつになる



想像してごらん、所有もないと
きみにできるかな
貧欲も飢餓も生じる必要はない
人類の兄弟愛
想像してごらん
みんなが立ち食いソバを共有していると



きみは僕のことを、夢みているというかもしれない
でもその夢を見ているのは僕ひとりだけじゃないんだ
いつか仲間に加わってほしいな思う
そしたら、世界はひとつになる





■2002.10 この項、脱稿。


その9〜馬場俊英による「立ち食いソバ白書〜第三章」


バについて書くのも、、、(小声で)だんだん飽きてきましたが、、、、、、でも最後までがんばります。




さて、前回はラーメンとそれを取り巻く文化が我々の生活に与える影響を考え、ラーメン横丁の裏通りをみなさんと歩いてみた訳ですが、今回は蕎麦について考えようと思います。



蕎麦は素晴らしい食べ物です。僕自身も大変にファンです。蕎麦は古くから時代と共に愛され、とくに東日本では年中食として、めでたい時も、悲しい時も、いつだって僕らのそばにいてくれました。時には「JAPANESE SOBA」として海を渡り、僕らは誇らしい気持ちで港に立ち、切れた紙テープを握りいつまでだって小さくなる姿を見送ったものです。しかし、いつしか蕎麦は老舗を生み、通を産み落とし、「道」となり、僕らに作法を求めるようになりました、、、、、、悲しいことです。


蕎麦全体をツユに浸してはいけない。いや、ツユとは何事だ、蕎麦は塩で食わなくてはいけない。蕎麦は二回以上噛んではいけない。いや、歯は使ってはならない。蕎麦はノドで食うのだ。酒とつまみの間合いの取り方を間違ってはいけない、蕎麦屋で酒を飲むなら平日の昼下がりでなくてはいけない、、、、、などなど、熱狂的な信徒達により蕎麦道は深化を極めていき、そのウンチクのせいか一般のファン達にとって蕎麦屋の敷居はいつの間に大変に高いものになっていったのでした。



また、その蕎麦作法や嗜好は、蕎麦ファンに「蕎麦素人」「蕎麦玄人」を作っていきました。「蕎麦玄人」達は自らのライフ・スタイルの構築に蕎麦を利用し始めました。そのスノッブな世界に「蕎麦素人」である一般ファン達は戸惑い、その薀蓄(うんちく)に耳を塞ぎ、その粋さを疑い始めました。皆、「平日の昼下がりに蕎麦屋で海苔とかイタワサで熱燗をひっかけて、ころあいを見計らってせいろを一枚、、」なんていう独り善がりの満足気なスタイルを鬱陶しく感じ始めたのでした。「蕎麦の食べ方、酒とつまみの間合いの取り方」?それがどーした!蕎麦くらい自由に食わせろこのボケが!というのが「蕎麦素人」の偽らざる声なのでした、、、。


また「蕎麦玄人」も、蕎麦道の粋さを軽やかに楽しむことの出来ないような、「洒落」や「冗談」を確信犯的に楽しむことの出来ない「蕎麦素人」のセンスの無さとゆとりの無さを嘆き、時には門前払いをするようになりました。こうしてここにもまた争いがひとつ産まれたのです、、、、、、悲しいことです。


蕎麦に罪は有りません。罪深いのは蕎麦文化です。ナンマイダー(蕎麦にだけに、、、、何枚だー)。


蕎麦玄人にJAZZ。そして落語。そしてプロレス。今、僕は、蕎麦にさえ美学を求めなくては生きてゆけない、、そんな全ての男達が潜在的に持つ哀しさを想い、我を嘆きます。そしてまた、やがて蕎麦も禁断のメニューとなりました。蕎麦を前にした時僕らは寂しげなタイガー・ジェット・シンなのです、、、、、、、、悲しいことです。


つづく。


次回、感動の最終回!立ち食いソバ屋の扉はいつだって君に開かれている!!




■2002.10 執筆



その8〜馬場俊英による「立ち食いソバ白書〜第二章」


て、立ち食いソバにこんなにも僕らがハートを掴まれてしまうのは何故なんでしょうか?ラーメンでもなくうどんでも無く何故、立ち食いソバなのでしょう?そもそも、何故、蕎麦屋ではなく立ち食いソバ屋、なのでしょうか?


ラーメンについて考えます。



ラーメンは素晴らしい食べ物です。僕自身も大変にファンです。しかし、ラーメン・ファンである自分を僕は好きではありません。ラーメンは時代と共に愛され、僕らの友人として、悲しい時も、嬉しい時も、部活動でつかれた帰り道にも、いつだって僕らのそばで風に吹かれたハートを暖かく包んでくれたのでした。が、いつしかラーメンは文化となり、僕らに意見を求めるようになりました。


オレはうまいか。あそこのヤツよりオレの麺はどうだ。オレのツユに敵うヤツが隣町にいるか。、、、、悲しいことです。


ラーメンと向かい合う時、いつしか僕らは試されるようになりました。ラーメンと向かい合う時僕らは真っ白なキャンバスに絵を描かなくてはならなくなりました。ラーメンと向かい合う時僕らは真っ白な原稿用紙を埋めて行かなくてはならなくなりました。自分は「しょう油派」か「みそ派」か。それとも「とんこつ派」か。麺は固めか、柔らかめか。太麺か細麺か。ちぢれたりするのはどうか。今、自分が食べているこのラーメンはうまいか、不味いか。ならばオマエが美味いと思うラーメン屋は何処か。何故、そのラーメン屋が美味いと思うか。「とんこつ派」は大雑把な鈍感野郎か。みそ派が憎いか。正しいラーメン屋店員の態度はどうあるべきか。ラーメン的見地から考えるクールな嗜好とはどうあるべきか、、、、、、、、、、、、悲しいことです。



もはやラーメンを食っている場合ではありません。暖かく僕らを優しく包んでくれたはずのラーメンが、いつしか僕らの世界に対立を呼び、区別を産み、ラーメン的イデオロギーの違いから今日も誰かが武器を取り、今もどこかで哀しい出来事が起こっているのです。ラーメンに罪は有りません。罪深いのはラーメン文化です。アーメン(ラーメンだけに)。


ラーメンの嗜好はディベートのトピックにされ街角で悲劇を生んでいます。ラーメンについてなんだかんだ言わずにはいれない、そんな潜在的に罪深い僕らにとってラーメンは、禁断のメニューとなりました。そして、ラーメンを前にした時、僕らは得意げなアダムとイブなのです。、、、、悲しいことです(流行らせたいフレーズ)。


まだつづく。


次回予告:君の周りにも何故か一人はいる、「蕎麦と落語とジャズが好きな人」的嗜好の生立ちと、その時代背景とは?戦後の高度成長期に路地裏でひっそりと熱く60’sアングラ文化熱に茹で上げられたソバ、その奇蹟。更新を待て!!


■2002.9 執筆



その7〜馬場俊英による「立ち食いソバ白書〜第一章」


べ物にも旬と言うモノがありますが、それは「立ち食いソバ」とて例外ではありません。年中食として定着している感のある立ち食いソバですが、真夏の昼下がりに汁まで飲み干そうものならば、汗方面の被害からワイシャツ関係に大惨事を招くことも少なくありません。日本を代表する「立ち食いソバ・ファン」の一人である僕の立場でも、真夏の午後1時に立ち食いソバがふさわしいかと問われたなら返答に詰まらないとは言い切れません。



そして、秋です。布団の温もりに優しく包まれる夜に、湯船の暖かさが心を丸くしてゆく晩に、そんなささやかなるふとした瞬間に「温度あるもの」のいとおしさを改めて実感するこの季節、あなたの街の名も無い一角で、夜更けの駅のホームで、立ち食いソバが静かにその存在感を増してゆきます。



木枯らしの吹く夕暮れ、家路を急ぐアナタは激しい労働で心も身体もすっかりとぐったりと疲れています。ふと通り掛かった立ち食いソバの店からダシと醤油の匂いがゆっくりとがしかし鋭く鼻を突きます。見るでもなく店内に目をやれば、一人のおっさんが左手に持つドンブリからはアツアツの湯気。おっさんは、一口、二口とソバをすすり、右手をそえて汁をすすります。ソバ、ソバ、ツユ、ソバ、ソバ、ツユ、水、ソバ、ソバ、かき揚げ、ツユ、ツユ、水、ツユ、水、そして、くはぁー(ため息)、さらに、チッツチッツ(つまようじ)。その見事に洗練された流れるようなフォーム。勝者だけに許される小さな小さな微笑を口元にたたえながらうっすらと汗まで浮かべたおっさんを、ただただ呆然と眺めるだけであったアナタの指先はポケットの中でかじかんでいくばかりです。このまま誰が待つわけでもない部屋に帰る時間が15分ほど遅れたとして、それがなんなのでしょうか。このまま立ち食いソバを通り過ぎるその理由が何故アナタに見つけられるでしょうか。ソバ、ソバ、ツユ、ソバ、ソバ、ツユ。もう何を迷うことがあるでしょか!!ドンドン!!(机を叩く音)




意味も無く緊迫気味に、つづく。



■2002.9


その6〜大阪トワイライトゾーン。


の日、我々一行、馬場俊英(35)と首藤高広(38)は夕暮れの大阪・梅田に居た。




小腹が空いていた。がしかし、夕飯にはまだ早い。ひと仕事を終えてから心置きなく夕飯へ突入、というのが我々の希望する展開だ。「タコヤキ、、、、、、あたりで、、、どうでしょう、、。」どちらからとも無く呟くとホテルを飛び出し街へ出た。まもなくしてそれ相応のタコヤキ屋を発見し、すみやかに適当量を購入し摂取した。ベンチに座りタコヤキを頬張りながら、周辺を見渡し、大阪文化の研究に念を入れる我々であった。その時であった!発見したのは僕でした。



「首藤さん、アレはどうですかねえ、、。」



アレ




「アレでしょ?、、、、だよねえ、、、。」首藤さんは答えた。「ええ。」僕は張り紙に目をやったまま答えた。





「ベジタブルに!、、、、、、、、、、、。」僕は声にして読んでみた。「ベジタブルに!。」首藤さんも読んだ。




まもなく時間となり、僕らはパーティでのステージを努めるためにホテルへと戻った。ホテルへの帰り道で僕らは感じていた。きっと張り紙が言わんとしていたのは、





「ヘルシーに!」だったのでは無いか、と。



大阪、今年もありがとう!!




■2002.12




その5〜キャンペーン・トワイライトゾーン



の日、我々、馬場俊英キャンペーン・チーム一行の三名がトワイライトゾーンに迷い込んだのは、まだ日の高い午後2時を少し過ぎた頃でした。そこは何の変哲もないただの喫茶店のはずでした。我々が足を踏み入れるまでは!!




入り口のドアーを押し店内に入ろうとした僕を、後ろから呼びとめたのは最年長の山田さんでした。




「馬場くん、馬場くん、見て見て。カツカーレイ。」

「何を言っているんだろう?」とその指差す先に視線をやると、、、、。












でた!カツカーレイ!




きゃははは!なんじゃそりゃ!だははは。しかし、待て!問題はその下だ!




カーレイ



しかも赤マジック。カツカーレイはまだなんとなくわかるような気がする。文字数の多さのせいか、慣れてくると声に出して読んでみても、それほど違和感を感じなくなる。しかし、カーレイのほうは、、、、これはちょっと、、、、、。





ひとしきり笑い終え、気を取り直し、その後の番組に向け、集中力を徐々に高めて行く僕に、また声を掛けたのは、またもや満面の笑みをたたえた山田さんだった。




「また素敵なのがありました。」




「何ィ?」。僕はイスが倒れんばかりの勢いで席を立つと、現場に急行しました。








はんばぐ。






ぎゃはははは!!!なんだこの店は!「はんばぐ」。急に平仮名。それにちょっとカワイイし。僕らはもう最高の気分で食事を終えました。そして、店を出ようとしたところ、またしても僕の視界にとんでもないものが飛び込んできました。

















スパゲテー。

イタリヤーン。

ぎゃははははははは!!!!!!!


もう笑わせないでクーレイ。

しかも、、、、


ミイト!!




その後の番組ではヘロヘロでした。


現場はKBS京都の隣です。お好きな方はお早めに。

■2002.10




その4〜カメは万年か。



の間、新宿御苑に散歩に行きました。そこの池のほとりでたまたま居合わせた老夫婦と孫の会話を盗み聞きしました。


おじいさん 「鶴は千年、亀は万年なんだよ〜。」
「まんねんってな〜に?」
おじいさん 「亀は一万年生きるっていうことだよ。」
「え、でもこの間、亀、死んでたよ。」
おじいさん 「じゃあ、もう一万年生きたんだね。」
「でも、あの池が一万年前からあるわけないよね。」
おじいさん 「、、、、、、、。」
おばあさん 「(苦笑い)」




やりにくい時代になりました。


■2002.6




その3〜買い物の数学的アプローチ「レジ算数」のこれから


ほどコンビニで267円の買い物をしまして、僕はレジで312円を支払い、55円のお釣りを貰いました。その帰り道で思いました。「何もあそこまでやらなくっても良かったんじゃないか」と。「頑張りすぎたかな。」と恥ずかしい気分でもありました。シンプルに300円払うとか、まあ財布に7円があったら、307円払って、40円のお釣りを貰う程度が妥当な態度だったかもしれません。



代金の端数をあらかじめ支払って、お釣りの中の小銭を少なくすると言う行動は、買い物の数学的アプローチ「レジ算数」として、日本では古くから主婦の皆さんを中心に追求され、今では世界一高度な水準まで達しております。数学の苦手な欧米人などからは「Mrs Computer 」と言われるほどです(ウソ)。それはともかく、267円の清算に312円を支払うという行動は欧米では理解されないでしょう。




しかし「レジ算数」が当たり前になるに従い生じる問題も多いようです。昨今、レジの現場では、お客がお店側から端数の小銭を要求されることも少なくありません。例えば905円の買い物をし1000円を支払うと「5円ございますか?」と来る。5円があればそれはそれでいいが、無い場合「すみません、1000円しかないんです。ごめんなさい。次から気をつけます。」と、気の弱い人の場合謝ってしまうほどです。可哀想に。



それから僕の目撃したケースにこんなのがありました。細かい数字は忘れましたが、こんな感じです。お客が907円の買い物をし、1000円札を支払いました。レジのおばさんが当然のように「お客さん、7円ある?」ときました。7円を持っていなかったお客は「すいません無いんです」と答えると、「じゃあ10円は?」と続けました。お客が「いや、10円も無いんです」と答えると、おばさんはさらに「じゃあ2円は?」と来ました。実話です。とうとうキレたお客が、「アンタ、細かい小銭あるかあるかって言い過ぎだよ!!」と強めの口調で返してました。わははは。




レジ算数が生んだ喜劇、いや悲劇です。僕は爆笑しました。なんてくだらない争いごとでしょう。何事もほどほどがいいようです。さて、問題を提起するだけなら誰でもできるので、社会派シンガーソングライター馬場俊英としてはこの問題について、いつものように建設的な提案をしたいと思います。





その一、「ツリは要らないよ精神の導入」。


とにかく一切のお釣を拒否し、小銭は受け取らない。考え方としては「四捨五入」ならぬ、「十捨」(笑)。お財布スッキリ!ああ、気持ちいい!!レジの流れも早くなります。さようなら、レジ算数!!




その二、「2円玉、3円玉、4円玉、6円玉、7円玉、8円玉、9円玉の発行

ついでに、20円玉、30円玉、、、、200円玉、300円玉、、、、と作り、釣り銭がどんな金額であろうといつも硬貨三枚以内。支払いもスムース。さようなら、レジ算数!!さらに言うと、11円玉、12円玉、、、、101円玉、102円玉、、、、、999円玉まで発行すれば、おつりはいつでも硬貨一枚!!っていうかそれ以前に支払いはいつでもジャスト。チャオ、レジ算数!!




どうです!!いいアイデアでしょう!まあ、でも「その二」の方はまた違った問題がでそうですが。まあ、そんな訳で、今日もスーパーマーケットでは主婦のみなさんがレジ算数を披露しています。僕はミセスの味方です。(意味無し)




■2001.6





その2〜季節よ!オマエがオレ達を巡っている、ということにして欲しい。


が来た、とか、冬が来た、とかいう物言いをするが、本当はどうか。




その昔、地球は1枚の板みたいなものだと考えられていて、太陽がその回りをグルグルと廻っていると皆思っていたが、実は地球は丸い球で、しかも太陽の回りをこちら側がグルグル廻っているんだと言い出したヤツが居て、即座に全員タマゲてひっくり返った、という事があったが、まもなくしてそれが定説となった。


地球が太陽の回りを勝手に廻っているんだ、ということから考えると「冬がやって来た」というよりもむしろ感覚としては「(オレ達が)冬にやって来た。」と言えなくも無い。むしろ正しい。「(オレ達が)冬にした。」とも言える。がしかし、日本人の情緒としては、なるべく季節は巡るものであって欲しいので、実はオレ達の方が季節を巡っているんだという事になると色々と都合が悪いし、どうも居心地が悪い。



春に来た。冬に来た。夏にした。秋にした。





リズムも悪い。何故かよくわからないが責任も感じる。夏にしたのは他人のせいだといいたくなる。気の弱い人だと、秋にしてスミマセン、という申しわけ無い気持にもなるかも知れない。冬に来た、ことについて出来ればもう少し他人事でいたい。



さてでは何故、季節は巡るものであって欲しいかと言うと、あくまでも、「人間というちっぽけな存在は自然なる物の大きな力の前で無力であり、それゆえに我々は、どうしようもない運命の悪戯を問答無用で受け入れながら、それでも冬の寒さや夏の暑さに耐え生きてゆく健気な生き物だ。」というのが基本的で絶対的な構図であって、こちら側が好き勝手に回転しながらグルグル廻って寒さや暑さに飛び込んでいる、ということになると感動のシステムの構図が根底から覆されてしまう。それに季節の移り変わりに関してもっと気軽なスタンスで居たいし、プレッシャーや責任を感じたくない。


ということでオレ達が季節を巡っているんでは無くて、あくまでも季節がオレ達を巡っているのであって、オレ達は善良な一市民だということにして欲しい。これが人類の願いであり、現在の季節の移り変わりの表現に対する我々の暗黙の了解なのであった。



いつの間にか春が来ていた。



冬が足早にやって来た。




ああ、安心するし、気がラクだ。リズムもいい。季節よ!オマエがオレ達を巡っている、ということにして欲しい。


2002.11 





その1〜「こちら側のどこからでも開けられますシステム」の足踏みを憂います。


くの人は、インスタント・ラーメンなどのスープの素の小袋を一度ならず開けたことがあるだろう。

その昔は、小袋の片側に小さな切れ込みがひとつあり、皆それを手がかりにして、小袋を開いていた。中には切れ込みに頼らずにいきなりハサミなどを持ち出して切り開いていた、という人もいるだろうが、ここではそういう人は置いて行く。何故なら、そういう人は切れ込みに対してあまりにも不誠実だからだ!


話しを戻すと、その昔、人は皆、たった一つの小さな切れ込みを手がかりにしてスープの小袋を開いた。言ってみれば、その切り込みこそが、ラーメン製作という大きな山を登りゆく道程に置いて与えられた、最大の難関にして最後の試練と言える「小袋開封」という作業を前にした我々の頭上に光る希望の星であり、道しるべであった。簡単に言うと、小袋は開けにくかった。なので、切り込みの存在は大きく、皆、切り込みを心底頼りにしていた。だから皆から、「切り込み様」と呼ばれていた(ウソ)。


だがそんな頼りになる友人「切り込み」の力を借りながらも、時々、我々はミスを犯した。開封の失敗だ。切り込みから進めた裂け目は無残にもナナメに伸び、そのまま本体に達することなく、むしろそれを避けるように上方へと抜けていった、という現象が多々起きた。そんな時、我々は動揺した。慌てて奥歯なんかで開けようと試みるものの、水で濡れた手は滑るし、鍋ではどんどん麺が茹でられて行くしで、事態は緊迫した。台所という名の戦場でラーメン作りというチョモランマを目指し、力及ばず、夢破れ、たくさんのミセスが星になった


だが、時代は進み、台所にもやがて春が来た。「こちら側のどこからでも開けられますシステム」の登場だ。なんと、新しく採用された素材では、小袋の方側のどこからでも開けると言う。考え方としては片側全てが切り込み状態になっている、と受けとめて良い。一度失敗しても二度、三度とチャンスがある。それまでの先人達の苦労を一気に吹き飛ばす画期的な発明だった。


あの難関だったラーメンの小袋開け。小さな切り込みを頼りに慎重に慎重にと開けて行った小袋。それが、こちら側の、どこからでも、開けられる、という。大きなニュースは台所を駆け巡った。もはや小袋開けなど赤子の手をひねるが同然、いや、赤子までもが赤子の手をひねりかねない状況になった。台所のチョモランマは砂場のお山と化した。皆が存分にインスタントラーメン作りを楽しんだ。笑顔がそこにあった。



その後、薬の袋や、入浴剤、調味料、など、様々な小袋に「こちら側のどこからでも開けられますシステム」が採用された。がしかし、納豆界ではどうか。悲しいかな、納豆界にはまだチョモランマが存在していた。カラシの小袋だ。基本的にカラシの小袋は小さい。まさに「小袋」だ。ラーメンのスープが小袋なら、納豆のカラシは「極小袋」だ。当然開けにくい。しかも素材がビニールである。しかも、平行四辺形みたいのもある。なんだあれ。気に入らない。しかし、カラシの無い納豆など納豆で無い。何故、ここに、「こちら側のどこからでも開けられますシステム」を導入しないのか!ドンドン(机を叩く音)。


「こちら側のどこからでも開けられますシステム」業界の担当者に僕は言いたい、足踏みしている場合か、と。大至急、企画書を作成して、役員会を召集するよう、現代風俗研究派シンガーソングライターとして進言しておきたい。納豆界は依然として冬のままだ。こうしている間にも、カラシの小袋開封に失敗した大学生がアパートのコタツで星になっている。急いで欲しい。


最後に、「こちら側のどこからでも開けられますシステム」を凌ぐシステム、「どちら側のどこからでも開けられますシステム」を提案して終わりたい。


2002.12 


その