ながらくお待たせしました。

| 東 照 だ よ り 平成18年3月 提婆達多尊 人はとかく自分の境遇がうまくいかないと、お前のせいだ、社会が悪いと怒りをぶつけたりします。ことに昨今の若い世代は権利意識と批判教育のためか、益々そういった傾向にあるように思えます。 先日、ある高校の卒業式で話をする機会がありましたので、東照寺にお祭りしてあります提婆達多尊について話をしました。 ご存知の方もあるかと思いますが、この提婆達多は釈尊のいとこに当るのですが、当時としては新興宗教であった仏教を徹底的に排斥し釈尊の命まで付け狙った人物であります。ある時、石を転がし釈尊に怪我をさせたことがあり、仏身を傷つけた罪で今でも地獄に落ちていると言われています。 では、一体どうしてそんな人物をお祭りしているのかというと、実は、釈尊がお説きになった「提婆達多品(ぼん)」というお経の中に「提婆達多が善知識が為なり・・・」という一節があります。今、自分がこうしてあるのは提婆のお陰だと書いてあるのです。 つまり、提婆がいた為に一瞬も油断することなく、常に気を引き締め、よって修行を円成することが出来たというのです。 話を現代に戻してみても、物事がうまくいかないときに、「あいつが居るからだ、あいつさえ居なければ」と思うのはとんでもない考え違いで、そういう人物があってこそ自分の本当の成長に役立っているのです。 似たような逸話に、戦国時代に豪傑として知られたある武将の話があります。その武将は実に腹の坐った大男でしたが、毎日夕刻になるとお宮にお参りに行ったそうです。周りの人が、やはり見かけは豪傑でも心の奥底では気弱なところもあって何かしら神様にすがることがあるのだと思い、一体何をお願いしているのか、ある晩ソッと後ろからついて行ったそうです。そして、その頼んでいる内容を聞いてビックリした。「我に百難を与えたまえ」と拝んでいたのです。 人は通常、神社仏閣にお参りするとき、「災難が来ませんように」と願い、常にビクビクしながら生活しているわけですが、このように「百難を与えたまえ」という人にとっては、1つや2つ、いや20や30災難が来てもそれは全く災難とは言えないし、はたしてこのような人に災難というものがあるのだろうかという思いがします。 お彼岸とは、迷い苦しみの世界から絶対安心の岸に到着することですが、実は災難から逃れようとジタバタするのでなく、多少ともこの決心さえあれば既に岸に到達していると言えるのはないでしょうか。 |
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東 照 だ よ り 平成18年7月 お盆の行事は、もともとお釈迦さんの弟子であった目蓮尊者の母親が地獄で苦しんでいるのを救ったことから来ていますが、苦しみといえば、尊者の母に限らず、人間は生まれた以上、必ず年をとり、病気になり、そして死んでいくわけで、これ自体がすでに人生にとって大きな苦しみといえます。 |
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東 照 だ よ り 平成18年9月 坐禅というと、足がしびれるとか警策(きょうさく)で肩を叩かれるといったイメージばかりが先行し、私にはちょっと無理そうだと敬遠する人もありますが、坐禅は決して足を痛めたり苦しみに耐えるといった修行ではありません。坐禅は「安楽の法門」と言われるように、特に難しい芸を身につける必要もなく、要は坐るだけの実に簡単な修行なのです。 では、なぜ坐るのがそれほど有効な修行になるのかというと、我々は通常、仕事をしたり動き回っているときは、勝ったの負けたの、損した得したと、そんなことばかりで頭が一杯の生活を送っています。しかし、坐ってみると、なぜそうなのかは分かりませんが、精神が落ち着くに従って今まで打算や損得で動いていた頭が、次第に何が本当なのかという風に変ってきます。誰しも自分が本当に得心したところに従って生きることほど爽快なことはありません。 昔、インドに演若達多(えんにゃだった)という絶世の美女がいたそうで、自らもそれを自慢に思い毎日鏡に向かっておりました。ところがある日、鏡が曇っていたのか自分の顔が映りませんでした。演若達多はこれはきっと誰かが自分の美貌に嫉妬して盗んだに違いないと思い込み、「私の顔はどこだ。私の頭を返せ。」と町中を走り回ったそうです。周りの人たちが「ちゃんと頭は付いているじゃないか」と諭しても、大混乱で走り回っていて全く聞く耳を持ちません。いつまでも放って置くわけにもいかないので仕方なく数人で取り押さえて柱にくくり付けました。最初は柱にくくり付けられながらも「頭がない」と叫び続けていましたが、そのうち2時間3時間と経つとさすがに気持ちも少し落ち着いてきました。そこで、頃合いを見て、ある人(相当見識のある人なのでしょう)が、「どうじゃ」と聞くと、「私の頭が無いのです」と答えたので、すかさず「ここに有るじゃないか」と演若達多のほっぺたを思いっきり引っ叩きました。思わずほっぺたを押さえた演若達多が「有った」と涙ながらに得心したという話があります。 ただの滑稽話のように聞こえますが、この逸話は多くのことを暗示しています。まず、演若達多が他人から美人だと言われ、何の疑問もなく鏡を見ているのが世間一般の人の姿です。そして頭が無いと騒ぎ始めたのが、人生・自己に対して大疑問を持った時です。しかし、走り回っている時はなかなか本当のことも受け入れることが出来ないものです。そこで柱にくくりつけ座らせる。これが坐禅です。頃合いを見てほっぺたを叩くというのは、気持ちが純真で素直になったときの指導者の一句や一喝、また警策のことです。「有った」というのが悟りです。 顔が「有った」と分かったからといって、以前と比べて何ら変ったところはありません。しかしこれは自分が一度白紙になって真剣に求めた上で本当に得心した顔であって、以前の顔とは全く違うものなのです。 坐禅はこのように自分が人生に対して大きな疑問に向かい合ったとき、自らが本当に得心できる確かな答えを見出す実に簡単なとっておきの修行なのです。一日に5分でも10分でも実践され、少しでも快活な人生が送れますことを願っております。 |
| 東 照 だ よ り 平成19年3月 無我と三時の業 無我というと、よく坐禅会で「なかなか何にも考えずにおれません。」という人がありますが、無我とは何にも考えないことではなくて、読んで字の如く、我が無い、つまり自分が無いということです。そういうと、「いや、自分はちゃんとここにあります。」と反論されるかと思いますが、はたして赤ん坊の時の自分は一体どこへ行ってしまったのか、先ほど別の部屋に居た自分は、そして焼けば灰になるこの自分とは一体どれが本当の自分なのかと考えをめぐらしたとき、どこにもこれこそ正真正銘の自分ですと言い切れるカタマリが無いことに気が付くはずです。つまり、あるのは因縁によってあらゆる形に変わっている事実があるだけで、自分があると感じているのは実は錯覚にすぎないのです。 しかしほとんどの人はこの錯覚の「我」を認めて、「おれの土地・金・名誉」などといった生活に終始しています。そしてこれが実は真理に反する行為のためにすべてが悪因縁となっていることを知りません。たとえボランティアといえども少しでもこの「我」を認めればたちまち悪となります。 無我のとき、すべては一切のための活動となり、その中で状況に応じてベストを尽くしていくことが良い因縁作りであり、これを仏道といいます。 良い因縁は良い結果を生み、悪因は悪果を生むことは紛れもない事実です。それゆえに、この人生でやるべきことは、無我になってひたすら良い因縁を作り、悪い因縁は断っていくことに尽きるのです。 ただここで、良いことをしてもその結果がすぐに現れない場合があります。真面目に生活しているのにあらゆる災難や不幸が訪れたりすると、この世に因果の道理も神も仏もあるものかと思いがちですが、それは原因が結果となって現れるのに三つの種類があることを知らないからです。 そのひとつは、結果がこの世ですぐに現れる場合で、例えば悪いことをやって警察に捕まり、刑務所に入るといったケースです。もうひとつは、この世では現れなくて次の世に現れる場合で、警察にも捕まらず一生いい暮らしをしてシメシメと思っていてもそうはいきません。必ず次の世で報いを受けることになります。さらにもうひとつは、次の世でも現れず、その次の世でも現れず、さらに後の世でその結果が現れる場合です。これを「三時の業」といい、要するに原因があれば結果があるという因果の道理からは絶対に逃れることはできないということです。 したがって、不幸に対してそれを社会のせいにしたり自暴自棄になったり、今だけ良ければよい生活をすることは新たな悪因となるので、幸・不幸に一喜一憂せず常に真っ正直に生きることが肝要です。 少なくともこの無我と三時の業をよく納得すれば、自分の我欲に執着した生活や、明らかに悪いことなど絶対にできるはずがないのです。 |
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東 照 だ よ り 平成19年9月 戒名とは「仏の戒」を受けた人に授けられるものですが、その主旨はたとえその戒を百パーセント実行出来なくても、すでに仏の位に入っているのでこれまでの俗の名前ではまずかろうというので、仏教的な意味のある漢字を選んでお付けするものです。 では、どうして「受戒」の儀式を行っただけで仏の位に入るのかというと、それは例えば何も知らない赤ん坊であっても、家督相続の儀式を行えば、その時点で富豪の家の堂々たる相続人となるようなもので、家の財産状態や、何人の使用人がいるかなど全く把握しなくてもたちまちその家の主人となり得るからです。富豪の主人としての素養や財産の把握はその後に追々時間をかけて行えばよいのです。 したがって、この仏法の家督相続ともいえる「受戒」の儀式は一刻も早く、まず受けることが極めて大切なことになってきます。 ところが一般には葬儀のときにこれを行っています。葬儀の中心はまさにこの受戒の儀式なのですが、これは当人が既に亡くなっているので仕方なく僧侶が一方的に遺体を前にして戒を授けているのです。これも本質的には受戒の効用が欠けることはありませんが、やはり生前に少しでもその意味を理解し受戒をした方がより深い仏縁となることは言うまでもありません。 ところで、「仏戒」というと、その言葉のイメージからなにやら厳しい規律やいましめのように感じられるかもしれませんが、そうではありません。仏戒とはまさに仏の悟り、仏法そのものなのです。 戒の根本にあるのが三帰戒で、「仏・法・僧」の三宝に従いなさいということです。「仏・法・僧」というと、一般にはお釈迦さんとその教え、そして坊さんと理解されているようですが、仏(ほとけ)とは「ほどける」から来ているように、人間の余計な理屈がほどければ、この宇宙はそのまま無我無心の丸出しだということです。ちょうど宇宙を一枚の写真に収めたようなもので、どこにも境界などなく、名前や宗教・哲学などの余計な理屈は微塵も付いていません。全く手のつけようのない純真無垢が本来の姿で、これを仮に名づけて仏というのです。 法とは因果の法則のことで、もともと純真無垢のこの仏(宇宙)は無我ゆえに、さまざまな因縁(因果)に応じてありとあらゆる形になって現れるということです。つまり犬は犬に生まれる因縁によって犬となり、人間は人間に生まれる因縁によって人間となるのです。また、最初から善人とか悪人とかがあるのではありません。人は因縁によって(環境や教育ひとつで)善くもなれば悪くもなるのです。 そして僧とは坊さんだけに限らず、この仏が法によって千変万化していることを知って、この道理に従った正しい生活をする現実の姿のことをいうのです。 しかし人々は「すべては因縁のみで、一切は無我である」ことを知らず、因果必然の道理を軽んじ、実我を作りあげ、俺の金、俺の土地、俺の権利と、真理に背いた悪業三昧の生活を(悪とも知らずに)行っています。 このような中にあって、より良い因縁となる無我の善行を積んで止まない生き方を目指すのが仏戒です。 ですから「受戒」とは誰もがこの道理を無条件に受け取ることのできる実に尊い儀式なのです。 |