
「BRIDGE・USA」一九九九年三月一日号掲載
唐突な話から始めるのをお許し下さい。十年前、日本の教育に絶望した私どもは、アメリカに新天地を求めました。偏差値教育ではないのびのび 教育、それを信じマンションを売り払っての暴挙に出たのです。背水の陣です。こちらで生活を保障してく れる会社も、頼るべき友人もありません。 子供たちはF1ビザ、私と家内は I ビザ(特派員ビザ)です。身分は東京にある出版社のロス支局長。支 局長といっても給料なしの出来高払いです。 ふと入国審査に不安がよぎりました。ビザはしっかりしているものの私が原稿を送る新雑誌はまだ創刊さ れていなかったからです。 私たち四人は緊張のあまりカチコチになっていました。寝不足もあったでしょう。やることなすことミス ばかりです。書き込みに失敗したり、イエス、ノーを取り違えたり、汗びっしょりになっていました。
審査官の名前がKimとあったのも緊張を強いる原因でした。彼はもちろん韓国系アメリカ人です。在日韓国人にいじめられていた私(この話はいつか書くこともあるでしょう)は緊張が極に達していたのです。 そのときです。
「お子さんを留学に連れてこられたのですか」
入国審査官の口からそう言葉が漏れたのです。それが日本語だと気がつくのに私は数秒かかりました。しかも素晴らしい日本語だったでのです。
「は、はい。そうです」
「そうですか。おたがい子供の教育には苦労しますな。で、どこの高校ですか」
私は娘と息子の学校の名前を一生懸命伝えました。しどろもどろだったと思います。
「緊張なさらずに。で、お仕事は?」
「作家です。これから日本の雑誌社に記事を送ります」
「それは素晴らしい。きっと好い記事を書いて読者を喜ばせて下さい」
「はい……」
後は声にならなかった。キムさんは私の子供に、
「君たち頑張るんだ。留学は楽しいことばかりじゃない。苦しくなったら、今日アメリカに入った感激を思 い出すんだよ」
と声をかけてくれました。
「はい」
と子供たちも答えます。パンパンとスタンプが押されました。
「お元気で」
キムさんはそう言ってくれました。私の喉は熱くやけました。何か言おうとしました。しかし、声が出な いのです。 「ネクスト」 キムさんの次の審査をうながす声に私たちは審査台を離れました。 荷物を受け取り、税関を出るとき後ろを振り返りました。もうキムさんの背中しか見えませんでした。そ のとき涙が吹きこぼれました。 以来、何度もロス空港に降り立っています。が、キムさんに会ったことはありません。今、私の胸の中に あった韓国人への緊張とは何だったのだろう、と考えることがあります。 彼はひょっとして仏様だったのかもしれません。元気でいてくださればと願っています。
** 後記 **
さて、これが第一回目のタイトル「入国審査官」という話でした。在米韓国人で日本語の読める人たちか ら電話、手紙が、寄せられました。みんな好意的な文面で、トーランスの韓国人弁護士さんなどは何度も電話をくれ、 「一緒に飯を食おう」と誘ってくれました。本当にうれしかった。 ところが後の話で、「在日韓国人にいじめられていた私」という部分がこちらに在住する在日の方々の不興を買っていたらしいのです。また、 「日本人は在日韓国人をいじめた」という非難を韓国人から受けて、 「とんでもない、殴られ、蹴られしたのは僕らの方ですよ」 というと誰も信じてくれなかった。学校の帰り道で殴られ、蹴られした僕。あれはもうどうしようもない 憤懣、やるせなさが流れ出た物なんだと理解している。戦前から戦後にかけての凄まじい差別を知っています。今も差別意識を持っている日本人がいる。でもそんな変な奴は知らないけれど、僕ら戦後世代の日本人で在日韓国人を虐めた奴なんていたかしら。電車の中でチマチョゴリを切る奴がいる。あれは変態。見つけたら半殺しにしてよろしい。差別は祖父たちの受けた教育がなせるわざ。消さなければならないし、いずれ消える。なぜなら韓国人と日本人は兄弟だからです。それは確信です。金大中大統領が実証して見せてくれ たじゃないですか。過去を水に流す、どうにも虫の良い日本人的発想。それを韓国の大統領がやってくれま したよ。