幸せのシーチキン

矢杉 麻衣



 大好きなことができないと、誰でもイライラすると思う。今日の私がまさしくそれだ。
 どんよりした空、湿った空気、そして何より冷たいアスファルト――という事はつまり、ひなたぼっこ(イコール昼寝)が、できないんだ。
 ああ、天の神様、お願いだ。一介の猫しじみの、ささやかな幸せを取らないでおくれっ。 私の気持ちとは裏腹に、雲はドンドン黒く厚ぼったくなっていく。私が、人気のない商店街にさしかかったときには、もう雨が降り出さんばかりの空模様。
 ううぅ、この固い地面に一発猫キックくらわせて、穴でもあけられたらどんなにすっきりするだろう。でも、そんなの絶対無理だから、余計頭にくる。
 私のイライラは頂点に達した。
と、その時だ。
「し、しじみさん」
「なんだよっ!」
 私は、ぱっと振り向いて、イライラをそのまま相手にぶつけた。そして、相手の顔を見たとたん、ぶっ。笑いの特大パンチを食らった。
 『ぼぼく』だ。本名はベンツって言うんだけど、私はそんな名前で呼んだ事はない。いつも自分の事を『ぼく』と言おうとして『ぼっ、ぼく』と言ってしまうからだ。この『ぼぼく』は、結構整った顔立ちの白猫だ。こいつの顔の欠点といったら、一つだけ、目のまわりに眼鏡みたいな黒い模様があることだ。これのおかげで相当アホな顔に見える。
 だから、大笑い。何度見ても見慣れない。
「あっあのぅ……これ……」
 ぼぼくが、さっきの私の声に怖じ気づいたのか、おずおずと新聞にくるまれた何かを差し出した。おいおい腰が引けてるぞ。
 私は、その『何か』を受けとった。タダでくれるんなら、とりあえず何でももらっておくのが一番だ。私は、においをかいでみた。んっ!? なんか生臭いぞ。
「なかんだ、こりゃ」
 私は言って、新聞のつつみをにらんだ。
「さっ、さけの、切り身です、けど」
 ああ、そうかそうか。得体が知れないからって拒絶しないで良かったわぁ。でも、
「でも、何で、こんないいもん私にくれるわけ?」
「ぼっ、ぼく、切り身は、食べられないんです……」
 そうだった。こいつ、猫用の缶づめとシーチキンしか食べられないんだった。気の毒なやつ。
「そういうことなら、ありがたぁく頂戴するよ、ぼぼく」
 私は笑顔で手を振った。ぼぼくの変な顔を見て笑ったら、少しきげんが改善した。
「ぼっ、ぼくは、『ぼぼく』じゃ、ありませんよぅ」
 後ろでぼぼくがさけんでる。あいつ、また自分のこと「ぼっ、ぼく」って言った。
「やっぱり『ぼぼく』じゃん」
 私はどなり返してやった。
「ぼっ、ぼくは……」
 あらぁ、この分じゃあいつ、永遠に『ぼぼく』のまんまだ。

「たっだいまー」
 私は、おんぼろの我が家に飛び込んだ。私は猫だから、着地のときはあまりどすん、とはやらないのだけど、それでも少しホコリが立つ。母ちゃんいわく、どんなに掃除しても上から知らない間にどんどんホコリが降ってくるから意味がない、のだそうだけど……。
 まあその真偽はさておき、まずはさけの切り身だ。さて、誰に言おうか。父ちゃんはダメだ。きっと私から取りあげて食べちゃうに決まってる。やっぱり母ちゃんか。うん、そうしよう。たぶん、台所にいるだろうな。
 私が、そう思って、台所に通じるのれんをぺろりと上げると、案の定、母ちゃんのデッカイおしり。
「母ちゃん、ぼぼくからさけの切り身もらったけど、どうする」
「あっ、よかった。今、今夜の夕飯、昨日の残りの金魚の骨にするかどうか、考えてた所なの。しじみも、たまにはやるねぇ。ぼぼくに感謝だなぁ……」
 この母ちゃんの一言、つっこむ所が多すぎる。まず、なんで夕食が昨日の残りなんだよおっ。残りだったら朝のうちに出しちゃえばいいのに。ん、そういえば今朝、金魚の骨出たぞ!?  ということは、だ。さらにその残りってことか!? 次っ。「しじみも、たまには……」って、たまに、じゃなくて、しょっちゅうがんばってますよっ、私は。最後、もう一つ。本名ベンツのあいつが『ぼぼく』でまかり通るこの会話のおそろしさ……。
 と、まあこんな思いが私の胸の中でうず巻いていた。竜巻ができそうだ。
 母ちゃんは、さっそく切り身を大事そうにかかえて、何を作ろうか考えている。そんな様子をぼんやり見ていた私は突然思い出した。「そうだ、宝くじどうなった?」
 宝くじ。そう、我が母ちゃんは、ついに買ったのだ。この前の、春祭りのかせぎを利用して、念願の「ドリームにゃんこ宝くじ」。
「ああ、そんなもんもあったねぇ。どっかに当選番号のってたなぁ。父ちゃん! 寝てばっかりいないのっ。しじみに新聞わたしてやって。どうせ当たってないよ。そんなもの」
 わあぁ、夢壊れた。母ちゃん、宝くじはあなたの夢だったんでしょう? 宝くじを買うんじゃない、夢を買うんだよって言ってたよねぇ、母ちゃん。言った本人がそんなでいいのかぁ?
 五分の四あきらめ、五分の一期待で、私は新聞の当選番号を見る。母ちゃん、あなたが正しいかも、夢は壊れたけど、まぁ、そんなもんかもね……。ほら、やっぱり。一枚百円で十枚買ったうち、六枚見た時点では百円しか当たってない。ほら、ほら。あ、二百円になった。まあ、どっちにしろ損したことには変わりない……。最後の一枚。どうせ……。
 えっ? ええっ!? まさかのまさかの。
「当たった!!」
 思わず大声が出た。
「えっ」
 みんなの顔がこっちへ向く。いつの間にか兄ちゃんまで出現している。
「二百円……」
 なぁんだ、という顔で、全員もとの隊形にもどる。でもこっちには秘密兵器があるんだ。
「と……」
 なんだよ、とまた全員こっちを向く。
「三等、シーチキン一年分です!」
 一瞬の無音状態。そして、近所迷惑なほどの大歓声。よくもこんな大声が出せるもんだと感心するほどだ。もう近所のことなんか構ってられるか。やっと我がみそしる一家にも、シーチキンの女神が舞い降りたのだから!

 数日後、分かった。シーチキンの女神なんて舞い降りてなかったんだ。舞い降りたのは、シーチキンの悪夢だった。
 シーチキン一年分が家に届いたのだ。大喜びで見てみると、さすがに一年分、多いのなんの。あんまり多すぎるから、って母ちゃんがご近所に配っても、父ちゃんが金もうけのチャンスだと喜び勇んでうちの店で売りさばいても、私と兄ちゃんがおやつがわりに食べても、減らないのだ。仕方ないから、毎食毎食シーチキン絡みのメニューになってしまった。シーチキンとたにしのみそ汁。シーチキンのみみずスパゲティなんかだ。あまりにシーチキンだらけ、という理由から、私と兄ちゃんの『おやつにシーチキン』は自然消滅。わずか数日にして、天の恵みが悪夢に変化してしまったのだ。今日も明日もシーチキン……。なかなか減らないシーチキンを前にして、私は頭をかきむしった。と、兄ちゃんが言った。
「おっ、しじみ。ノミでもついたのか?」
「ちがーう!」
 シーチキンの空き缶をガンガン叩きながら私が叫んだ。その時だ。ひらめいた! あまりに良い解決法。よし、思い立ったらすぐ行動だ。
 私は、持てるだけシーチキンを抱えて、走り出した。後ろで、兄ちゃんがハテナマークどっさりの顔をして立っていた。はっはっは、しょせん兄ちゃんの頭では分かるまい。兄ちゃん、私はね、ぼぼくに切り身のお返しという名目で、シーチキンをたっぷりおしつけてくるのだよっ。あいつ、猫用缶づめとシーチキンしか食べられないから泣いて喜ぶぞ。しかも義理堅いやつだから、マグロの大トロとかお返しにくれたりして……。一石二鼠、いや三鼠だ。そう思うと、何だか浮かれた気分になった。

 ふうっ、と天の神様が息をはいた。周りの猫じゃらしがサラサラ揺れる。猫じゃらしの音につられて、私の浮かれ気持ちが、さわやかなものに変わるのが分かった。
 空を見上げると、ついこの前の灰色の空とは全然ちがう、明るい色が広がっている。
 私は単なる猫だけど、今この気持ちなら、真っ青な空の海を泳げるかも知れない。そう思って、また、歩き出した。

(おわり)



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