日記「こうして戦争は負けた」

牛丸  仁



 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争がはじまった。そのときぼくは木曽の小さな小学校の二年生だった。六年生の八月十五日、戦争は負けておわった。昭和二十年のことだった。その年の日記
 六月△日
 先生が、「あした兵隊さんたちがおおぜい来る」といった。なんでこんな山の中の学校に来るのかふしぎに思ってきくと、「コマガタケのふもとのオギノノハラに、アメリカとさいごのたたかいをする基地をつくるのかもしれない」といった。ぼくたちも、そこでたたかうのかと、むねがどきどきした。
 六月○日
 五時間めに、校庭のすみをはたけにするためにほっていると、兵隊たちが二れつにならんで校門をはいってきた。かぞえてみると四十三人だった。帽子も服もカーキ色の兵隊のかっこうだったが、てっぽうもけんも持っていなくて、リュックサックにもうふをくくりつけてしょっているだけだった。兵隊たちはこんやはさいほうしつへとまるのだそうだ。
 六月△○日
 朝、学校へ行くと、兵隊たちは校庭で体そうをしていた。ぼくたちのほうがきびきびてきぱきできるように思った。ぼくのおじいさんを少しわかくしたくらいの顔に見えた。これでさいごのたたかいができるのかとしんぱいになってきた。
 七月△日
 オギノノハラへ兵隊たちのてつだいに行った。五キロもある道をくわをかついでいくのはえらかったが、おひるにまっ白いにぎりめしがもらえるというので、そのことばかりか
んがえてあるいた。
 オギノノハラについてみると、そこには板だけでつくった小屋が二つあるだけだった。コンクリートの基地ができているときたいしていたのでがっかりした。
 それにぼくたちの仕事にもがっかりした。兵隊たちが、やぶをきりはらい火をつけてやいたあとにソバのたねをまいて、その上をくわでつっつくようにほるのだった。基地づくりとはぜんぜんかんけいのない仕事だった。
 七月○日
 きのうにつづいてきょうもオギノノハラへ行くよていだったが、天気がわるかったのでちゅうしになった。にぎりめしをもらえないのがざんねんだった。
 ひる休みになねと、たくさん田んぼを作っている家のほかは米がなくてべんとうを持ってこられないので、家に行って食ってくることになっている。組の三ぶんの二くらいが校門を出ていった。ぼくもその中にいた。だが、家に行ったって食うものがないことはわかっているから、みんな学校のまわりのクワばたけの中へはいっていった。そこでクワの実のじゅくしたのをとって食うのだった。みんな口や手をむらさきにそめてほおばっていた。はらがいっぱいになることはないけど、戦争に勝つためだからしかたがないと思う。
 ぼつぼつ学校へかえろうと思ってクワばたけを出ようとした時、とんでもないことを見てしまった。どての上をとおりかかったばあさんが、まわりをきょろきょろ見まわしていたと思ったら、足のそばにのびてきていたカボチャのつるから、赤いカボチャをとってまえかきの下へかくしたのだ。いつか学校のかえりに「はたけのどろぼうは八丈島だぞ」といいふらしているそのばあさんを見たことがある。
 このごろ、あちこちのはたけでジャガイモやキュウリなどがぬすまれる話をしょっちゅうきいていた。そのはんにんが、きょねんの夏、八丈島にアメリカがせめてきそうだというので、この町へにげてきた人たちだといっているのだった。
 カボチャをかくしてへいきな顔をしてあるいていくばあさんを見ながら、ぼくはひやあせが出てきた。
 七月△○日
 夜八時ころ、あまりあついので外へ出てみると、山のむこうの西の空がまっかになっていた。ゆうやけにしてはおそすぎた。「あれは名古屋がばくげきにあっているのだろう。こっちへもくるかもしれないから電気をけせ」と、母さんがいった。ずっととおくの名古屋がやけるのに、あんなに空が赤くなるなんて、すごい火事になっているんだと、おそろしくなった。
 八月六日
 一時間めがはじまった時、先生が、「広島に新がたばくだんがおとされた」とくらい顔をして話した。町は人もたてものもぜんぶきえてしまって、草や木はえいきゅうにはえないくらいすごいばくだんだそうだ。まわりの山の木を見て、あれが一本もなくなるなんてそうぞうもできなかった。
 八月九日
 ひる休みがおわって、五時間めがはじまった時、先生が、また新がたばくだんの話をした。こんどは長崎だそうだ。そんなばくだんが、これからもあちこちにおとされたら日本はどうなるだろうとしんぱいになった。
 先生は、「日本はぜったいに負けないから、しんぱいしないで勉強するのだ」といった。
 八月十五日(おぼん)
 おとなたちは、おひるに重大ほうそうがあるという話でもちきりだった。広島と長崎に
おとされた新がたばくだんは原子爆弾だとわかって、いよいよさいごのたたかいをかくごせよというほうそうだというのが、みんなのよそうだった。
 ぼくは、友だち三人とあそびに出た。おぼんにはじごくのかまのふたがあくから、川あそびはだめだと母さんにいわれたので、学校のうらのお宮の森へ行った。けれども、おぼんには生きものをとってはいけないといわれていたので、ジージーないているせみをとるわけにはいかなかった。しかたがないので、かくれんぼをしてあそんだ。ふとい木やお宮のたてものがかくればになって、けっこうおもしろくてむちゅうになった。
 そのうち、おひるのサイレンがなったのでかえることにした。すると、学校のこうどうからおきょうのようなへんなこえがきこえてきた。まどへちかづいてみると、兵隊たちがきをつけをしてならんでいた。へんなこえは、だんの上の白いきれをかぶせたつくえの上においてあるラジオから出ていた。ざっおんもおおいしことばもむずかしくて、なにをいっているのかさっぱりわからなかった。これが重大ほうそうだなと思った。
 すこしして、ラジオのほうそうがおわったとたん、ウオーンと兵隊たちのうなるようなこえがこうどうじゅうにひびきわたった。兵隊たちは手ばなしでないていた。
 いったいなにがおこったのか、ぼくたちにはぜんぜんわからなかった。
 うちにかえったら、「戦争は負けたよ。父ちゃんがかえってくるぞ」と、母さんはうれしそうにいった。
 八月十九日
 きょうから二学期がはじまった。
 校長先生が、戦争がおわって、これからはみんしゅしゅぎのよのなかになると話してくれたが、わけがわからなかった。
 なんだかいままでときゅうにかわったことばかりでへんなきもちだった。
 先生はやさしくなったし、いままでまい朝やっていた、てんのうへいかがいる皇居にむかってするれいもしなかった。
 十時ころ、兵隊たちがかえっていった。来た時のようにはならんでいなかった。ばらばらになってたのしそうに話しあいながら、学校からのさか道をおりていった。オギノノハラにまいたソバはどうするのかなと思った。
 九月△日
 きょうは、学校でへんなことばかりあった。 ものおきから、木刀やしないを校庭にはこびだしてもやしてしまった。先生のいうとおりに、読本(国語)や歴史のきょうかしょをすみでぬりつぶした。まっくろになったぺいじもあった。これで勉強ができるのかと思った。こんなことをしたのは、もうじきアメリカの兵隊がしらべにくるからだそうだ。
 おとなたちは、アメリカ兵はなにをするかわからないから、女や子どもは山へにげるよういをしておいたほうがいいといっている。
 戦争がおわったら、まえよりいろいろめんどうなことやわけのわからないことばかりおこってたいへんだ。これが、校長先生の話したみんしゅしゅぎというものなのかな。

(おわり)



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