「こうたくん、だよね。こうたくん」
山岸先生に、そっとせなかをたたかれて、こうたは目を開き、ぞっとした。
プリントに投げ出された灰色の毛むくじゃらのうで、その上にのっている、黒い鼻づら、ぴんとのびたヒゲ。びくっとしたしゅん間、こうたにはわかった。それが自分のだと。
起き上がって教室を見回すと、三十人の生徒が一人もいない。山岸先生だけが、すぐにげだせるかまえで、こうたに話しかけている。 こうたは、いねむりする前のことを思い出してみた。
今日も山岸先生が計算プリントを配った。うんざりして、こうたは手をあげ、質問した
「先生、どうして毎日、プリントをやらなくちゃいけないんですか?」
「毎日やれば力がつく。力がつけば、むずかしい問題でも、できるようになるんだよ」
「だけど先生、どうしてできるようにならなきゃいけないんですか?」
「人間としてしっかり生きて行くためだよ」
こうたは席についた。けれども本当のところ、まるで、なっとくいかなかった。いいようのない、はらだたしさがおさまらなかった。――24÷3=8 42÷7=6…こんなつまらないことをいつまでやらされるんだろう。
こうたはまどの外を見やった。学校を囲むフェンスのむこうを、くさりにつながれた犬が散歩している。
――動物はいいなあ。プリントなんかしなくていいもんな。そりゃあ、犬はいやだよ。つながれてさ。でも、たとえばオオカミだったらどう? 強くてかしこくて、仲間もいてさ、自由に山を走り回ってるんだ。ぼくは人間でなくて、オオカミでいいや。
こうたはそんなことを想いながら、プリントの上で、ねむりこんでいたのだ。
しーんとした教室の中。
――コトン
えんぴつがゆかに落ちる音で、みんなはいっせいにこうたの方を見た。そのとたん、
「きゃあ、オオカミッ!」
体長百三十センチのオオカミを見て、教室がパニックになった。
「しーっ、しーっ」
山岸先生は生徒を教室の外へつれ出し、自分だけもどって来て、こうたをおこしたのだ。
「こうたくん、なんだよね」
こうたはまだ、何が起こったのかよくのみこめずに「はい」と返事をした。けれど、
――ウオン。
その声は犬のような声だった。
「ぼくのいうことは、通じているね」
――ウオン。
こうたはまっ黒なひとみで山岸先生を見つめた。ふと、先生の机の上のパソコンが目に入った。こうたは、そこへ一飛びで行くと、前足でキーを打った。
《ぼくは あさくら こうたです かみつかないから こわがらないで》
山岸先生は少しはなれたところから、これを読んで、やさしくこうたにいった。
「そうか、わかった。でも、今日のところは家の人にむかえに来てもらおうね」
こうたは思った。
――ぜんぜんわかってない!
おかあさんがむかえに来て、こうたを見るなりなきくずれた。おかあさんにつれられて帰る道、教室をふりかえると、クラスの子たちがまどからこうたを見ていた。モモコちゃんもいた。みんなは「きゃあ、こっち見た!」と、いっせいにかくれた。
それからいく日も、こうたは家にとじこもっていた。おかあさんが外へ出したがらないし、自分でも出てはいけないと思った。
気がつけば冬休みに入っていた。大みそか、大雪になった。雪は朝方までふりつづけた。
元日の朝、こうたは二階のまどから外をながめた。どこもかしこも、まっ白だ。町中が新しくなったみたいだ。
こうたは鼻先でまどを開けて、雪のすみきったにおいを、むねいっぱいにすいこんだ。向こうの広場で友だちが雪合戦やかまくらづくりにはげむ声が聞こえてくる。反対がわからは、モモコちゃんの足音も聞こえてきた。
足音は、広場の方へ向かっている。モモコちゃんはきっと赤いブーツをはいて、赤い手袋をはめて、広場で雪ウサギをいくつもこしらえるんだろうな、と、こうたは考えていた。 と、その時、どこかの家から、みしり、みしり、ときしむような音が聞こえた。どこの家だろう、なんの音だろう。
こうたは少しの間耳を立てていたが、次のしゅんかんには、もう、外へ飛びおりていた。 モモコちゃんが歩いて来る。こうたはもうぜんとかけて行って、モモコちゃんをつきとばした。どさりっ。きりずまのやねからこうたの上に、雪がなだれ落ちてきた。
モモコちゃんが、広場の友だちをみんなよんできた。みんなはこうたを救い出そうと、いっしょうけんめいに雪をほった。こうたもオオカミのたくましい前足で、雪をかき、何とか外へ出ることができた。
《オオカミになった少年、友だちを救う》
こうたはヒーローになった。お正月の間、テレビやざっしの取材がいっぱいやって来た。 こうたはヒーローになれて得意でたまらなかった。でも、おかあさんは、オオカミのこうたが有名になるのを、喜ばなかった。
そこへ、こんな人が現れた。
「私はこれまでにも三人、子どもが動物に変わったのを見たことがあります」
家にたずねて来た黒い背広の老人は、おかあさんに向かって話していた。
――他にも自分みたいな子どもがいたのか、つまんないなあ。
「その子らはサルと、ネコと、ハトに変身し、家から一歩も外へは出られないでいました」――なーんだ、サルとネコとハトかあ。
こうたは鼻先をフフンと鳴らした。
「で、私はその子たちに催眠術をかけて、元のすがたにもどしてあげたのです」
「では、こうたを元にもどしに来てくださったんですね!」
おかあさんは、喜びの声をあげた。
これを聞くなり、こうたはソファの背もたれに飛びのって身がまえた。キバをむき出し、老人を見すえた。老人はそれでも、内ポケットから、ひもにつりさげた五円玉を取り出して、こうたの目の前でゆらして見せた。
――グググウウ、グワオッ!
こうたは、オオカミのすがたになって初めてほえた。老人とおかあさんはこしをぬかした。こうたは部屋のパソコンに打ちこんだ。
《ぼくのことは ぼくがきめる》
それを見て、おかあさんと老人は、長いため息をついた。しばらくして、老人はいった。「この催眠術は本人が人間にもどりたい、と強くねがわないかぎり、きかないのですよ」 おかあさんも、あきらめたように、
「そうですね。この子が人間にもどりたいといったらその時、おねがいにあがります」
老人も、それではいつでも、お待ちしています。といい残して、帰って行った。
三学期になって、こうたは学校へ行けることになった。
こうたは算数や国語の授業は教室でおとなしく聞いた。聞いていればけっこう勉強もおもしろい。こうたはえんぴつで書いたり、歌を歌ったりできない。そういう時には、人間にもどろうかな、と、まよったりもする。
それに、こうたが初め考えたような、オオカミの仲間はいなかった。
けれども、休み時間になると、友だちがフリスビーを持って校庭で飛ばす。こうたは雪の上を飛ぶようにかけて行き、それを追いこし、ジャンプして、ふりむきざまに口にくわえると、さらにひねりを加えながら着地する。とたんに校舎のまどというまどから、はく手かっさいがわきあがる。こうたは銀色の毛並をなめて整えながら、アンコールにこたえる。
やっぱりオオカミを選んで正解だったと思う。みんなはこれを「変身」とよぶけれど、こうたには「進化」だと思えた。
事件はバレンタインデーに起こった。
朝から男の子たちには、なんとなく落ち着きがなかった。こうたもそわそわしていた。 こうたの目は、すぐ前の席のモモコちゃんばかりにむいていた。モモコちゃんのとなりには、勇一君がすわっていて、今日はやけにモモコちゃんにちょっかいを出している。
「おい、モモコ、かみにゴミがついてるぞ」 勇一君はモモコちゃんのかみをしばっている、赤いゴムひもをひっぱって、
「うっわあ! ゴミが手にくっついた」
と、それをほおり投げた。
「やだあ!」
モモコちゃんは、ばさばさにほどけてしまつたかみを、手でおさえながら、泣きだした。 これを見ていたこうたは、いきなり、勇一君のかたにとびかかった。勇一君はいすごと後ろにころがった。こうたはその上にのしかかって顔をあげ、ほこらしげに胸をはった。 勇一君が、わあーっと泣きだした。
「やめて、こうたくん!」
なんと、モモコちゃんがこうたをおしのけ、勇一君の手をひっぱっておこしたのだ。
「こうたくんやりすぎよっ。オオカミなんだもん、強いにきまってるじゃない。ずるい!」 そして、モモコちゃんはつくえの中から、チョコレートのはこを出すと、
「これ、こうたくんにあげようと思ってたけど、勇一くんにあげちゃうからね!」
と、勇一君のむねにおしつけてしまつた。
こうたは学校を飛び出し、むちゃくちゃに走った。走りながら、決心した。
――人間にもどるぞ。人間にもどって、オオカミに負けないくらい強くなるんだ。せいせいどうどうと、モモコちゃんを守って、もう一回、モモコちゃんに見なおしてもらうんだ!
(おわり)
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