忘れられない爆音

高田 充也



 ぼくは、夏休みの自由研究に、「おじいさんから聞いた戦争の話」をまとめることにした。戦争の話は、いままでにいくども聞いたが、こんどの夏休みには、メモをとりながら聞くことにし、おじいちゃんともやくそくをしておいた。
ところが、夏休みにはいる二日まえに、おじいちゃんは、庭の木から落ちてけがをして、入院してしまった。
「おじいちゃん、だいじょうぶかなあ」
ぼくはしんぱいで、自由研究なんかどうでもいいと思った。
「だいじょうぶだ。左足の骨にヒビがはいっているようだが、二、三週間の入院ですむそうだ」
お父さんは、病院にむかう車の運転をしながらそういった。お母さんもいっしょだ。
 病院に着くと、おじいちゃんは、ギブスでかためられた左足を、ベットの上でなげだしてすわり、ぼくを見ると、むこうから先に話しかけてきた。
「おう、正男もきてくれたか。おまえには、戦争の話をしてやることになっていたが、ちょうどいい。病院は静かだし、いまのうちなら、まだひとり部屋だで、さっそく始めるか。夏休みはいつからだ?」
「あさってからだけど。それより、足いたくない?」
ぼくがきくと、おじいちゃんは平気な顔で、「ああ、こんなけがくらいなんともない。おじいちゃんはなあ、若いときに、いちど死んだからだだ。木から落ちたときは、こんどこそだめかと思ったが、運よく助かっちまったよ」
といって笑った。でも、「いちど死んだからだだ」なんていうから、ぼくたちは笑えなかった。

いよいよ夏休みになった。ぼくはメモ帳を用意して、こんどは自転車で病院にむかった。 おじいちゃんは、ゆっくりと話し出した。
「もう、かれこれ六十年も昔の話になるなあ。わしらは、中学五年(いまの高校二年)の時、『お国のためにアメリカと戦え』という政府の命令で、名古屋の飛行機をつくる工場へ動員された」
「どういんって、何のこと?」
ぼくは初めて聞くことばだ。
「おう、そうだ。正男にわからんのはあたりまえだ。動員というのは、『学徒動員』などといって、学校での勉強はやめて工場などで働かされたことだ。
 あれはたしか昭和十九年八月二日のことだった。うでにつけた腕章は、『松本中学校勤労報国隊』だった。わしらもお国のために働けると思って家を出たが、まず暑さにおどろいた。食事をしていても、汗がたらたらと流れ、中には倒れる友だちもいた。
 その食事だって、ほんの僅かで、暑さとひもじさとで、まいにちふらふらしていた。初めての食事のとき、どんぶりに盛られたご飯が赤かったので、これは歓迎の赤飯かなと思ったが、何とコーリャン飯で、やっとのどへのみこんだ。コーリャンはモロコシの一種で、ねばりけのない、そりゃあまずい食料なんだ」
「どうしてそんなご飯しかたべられなかったの?」
「そりゃあ、米はどんどん戦地へ送られていったからだよ。わしらは、腹がへると、水をガブガブ飲んだが、水では腹がみたされなかった。おふくろの作ってくれた塩むすびが食べたいなあと、夢にまで見たものだった。
月二回の休日には、こうたいでリュックをしょって、遠くは瀬戸の方まで、野菜の買い出しにでかけた。米なんかぜったいに買えない時だったので、大根やジャガイモ、秋になるとサツマイモが多かった。それを、工場からもらってきた一斗カンで煮て、みんなで分けて食べたが、B29の空襲がはげしくなると、それもできなくなった。B29って知っているかい?」
「アメリカの爆撃機のことでしょう。ぼく、図鑑でしらべたから」
「おう、そうか。よくしらべたな、さすがは五年生だ」
おじいちゃんにほめられて、ぼくはちょっとてれてしまった。
「そのB29爆撃機が初めて名古屋の上空へすがたを見せたのは、その年の十一月なかごろだった。」
おじいちゃんの目の色が変わってきた。それは、怒りとくやしさにもえたような目だった。そこからのおじいちゃんの話を、ぼくのメモによってまとめたのはこうだった。

「B29だ!」
という友だちの声で、寮の庭へとびだして空を見ると、一機が四本の飛行機雲の尾をひいて、ゆうゆうと飛んでいた。寮の近くに高射砲の基地があっても、弾は発射されず、迎えうつ戦闘機も飛ばなかった。
「チキショウ! チキショウ!」
と、みんなはB29にむかって、歯ぎしりをしながら声をはりあげた。
「名古屋には多くの軍需工場(兵器をつくる工場)が集まっているので、ていさつにきたんだ」
と、だれかがいった。
おらたちの毎日の作業は、四十三型戦闘機の、排気管の溶接だった。
「おらたちが、一生懸命つくった戦闘機はいったいどうしたんだ!」
「早く飛び立って、B29なんかやっつけてくれよ!」
そんなさけび声もあがった。
それから、B29は、毎日のように、一機または編隊を組んでやってきては、名古屋を空爆した。空襲警報の放送があると、おらたちは夜中でも外へ出て、防空壕(爆撃から身をまもるため、地下につくったあなぐら)の中へ飛びこんだ。
ドスン、ドスンという音がだんだん近づいてくると、おらたちはふるえながら、
「神さま、どうか助けておくれ」
といって両手を合わせた。そして、ようやく、爆弾の音と、あの腹の底にまでひびいてくるB29の爆音が遠のくと、ようやく生きていたことをたしかめ合うのだった。
十二月二十二日、B29がいくつもの編隊を組んで、工場を中心に名古屋市内をおそった。必死で逃げまどう人々の群れに黄燐焼夷弾(爆弾の一種。衣服などにとびつき、火をつける)で大きなあながあいて焼ける家。いのちからがら走りぬける人々。遺体収容所へは次々と遺体が運びこまれていく。
寮の近くに爆弾が落ちるようになると、先生たちは、おらたちに遺書を書かせた。
「いいな、ぼくたちはお国のために死んでいきます…というような内容で、両親あてに書くのだ」
といって、原稿用紙がくばられた。
遺書を書くと、みんなは、どうにでもなれと覚悟ができて、B29が近づいても、防空壕へひなんしない友だちも出てきた。
しかし、爆風で寮のかべがくずれおち、窓ガラスがふっとび、ふとんや荷物が土でうまったのは、忘れもしない昭和二十年三月二十二日の夜中のことだった。
防空壕の中で夜を明かしたおらたちは、五、六人軽い傷を負った友だちもいたが、全員ぶじだという先生の声に、みんなは「万歳!」と、よろこびの声をあげた。
「これでは寮には住めないし、卒業式もせまっているから、いったん学校へひきかえすことにする」
先生の声には力がなかったが、おらたちは「やっと家に帰れる」というよろこびもあって、大曽根駅からグループに分かれて汽車につめられ、松本にむかった。

「あの時、もしわしらの防空壕の上に爆弾が落ちていたら、全員死んでいただろう。それを思うと、いまでもぞっとするよ」
おじいちゃんは、そこまで話すと、大きなためいきをついて、きつい表情をほぐした。
「広島や長崎に原爆を落としたのもB29だったんだね」
こんどは、ぼくの方がきつい顔になっていることが、じぶんでも分かった。
「そうだ。わしもなあ、もう六十年もたつと、あのときの恐ろしさもだんだん忘れかけてきたが、あのB29の、腹の底にしずんでくるような不気味な爆音だけは、いつまでたっても消えないんだなあ」
おじいちゃんは、病院の窓から遠くの空を見ながら、ひとりごとのようにそういった。

(おわり)



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