あるけどない道、ないけどある道

道志口峠(本坂峠・大杉峠・大ドウミ)・アミバ峠(網張・アミハリ・切通し)

入山谷・・・杉ノ沢・・・道志口峠・・・ブドウ岩ノ頭・・・アミバ峠・・・アミハリ沢・・・大旅沢

道志山塊の奥懐に位置する道志口峠とアミバ峠に行って来ました。
両峠は以前に赤鞍ヶ岳から菜畑山の尾根道を歩いた際に訪れたことがありますが、
今回は尾根上の単なる峠通過ではなく、峠道を辿ってみようとの計画です。

道志口峠は地形図に明瞭にその道筋が描かれていますが、
各種文献やネット上の検索によると崩壊が進み通行が困難だとされています。
一方、アミバ峠については地形図に道の記載はなく、
ここを歩いたというレポートもネット上では見受けることはありません。
ただただ古い文献から道の様子を知るだけという情報の乏しさです。

まずは、文献資料等で事前学習をした後に、まだ見ぬ峠道へ足を踏み入れてみます。

◆◆◆ 道志口峠に関する資料 ◆◆◆


『山と高原77号』「道志の山と谷」(羽賀正太郎)挿入図より転用

上の「入山谷略図」には、「大杉峠(大ドウミ・道志口峠)」、「網張(切通シ)」が確認できます。
大杉峠に至る杉ノ沢分岐には「大杉跡」の文字も見られます。
ここにあった大杉が大杉峠の名の由来になったようです。
また、今回のレポとは関係ありませんが「鳥屋ノ峠」も略図には記されています。
この峠は昭文社の『山と高原地図』でも猿焼山の南鞍部に「トヤノ峠」として名前が見られます。
道志口峠へは、この桑畑の斜面にある大山祗社の前の所で左右に分岐する左の道を進むのである。
右の道は沢の縁を行き、道志口沢を横切ってイリヤマ沢に入るのである。
山ノ神の前で左に外れて行くと、林道は道志口沢の右岸を行く様になる。

この道志口沢に沿う道は昔時---道坂トンネルが出来る以前---は道志村と郡内を結ぶ、
重要な交通路であったが、道坂トンネル完成と共に廃道に近いものになってしまった。

濶葉樹の繁茂した沢沿いの道は、実に静寂そのものであって、
自らの足音を耳をすませて聴き入る程の、落ち着いた気持に入る程四辺は静かなものである。
沢沿いの道はグングン登りとなり、間もなくガレを見る。ガレの上部を廻って進む。
直ぐに二番目のガレが見える。二番目のガレを横切ると、この辺りで山道は平らかになり始むる。
・・・・間もなく道志口峠である。

道志口峠は熊笹の密生した所で、右にはブドウ沢ノ頭へ、左は高丸の第二主稜の鞍部に当って、
寂として声なき桃源境である。
戸渡沢越しに見ゆる加入道山、大室山の丹沢の山嶺を眺めらるる。

・・・・道志側の谷は今越えて来た、朝日川源流の谷よりも明るく、熊笹の中につけられた道を、
ジグザグに降れば間もなく、朝日越沢に降りる事が出来る。
朝日越沢に降ったなら、沢の左岸を行く様になり暫くで、右から沢が出合って戸渡沢の左岸を降る。
一路降りを早めれば間もなく、戸渡沢を右岸に渡り、直ぐに道志川沿い戸渡の部落の民家の傍らへ降り、
民家の前を左に曲がって桑畑の間を下りれば、其処は道志川沿いの山中湖へ通ずる道に出る事が出来る。

『日本山岳案内1 丹沢山塊・道志山塊』 鉄道省山岳部編 昭和15年

「道坂トンネルが出来る以前は道志村と郡内を結ぶ重要な交通路であったが、
道坂トンネル完成と共に廃道に近いものになってしまった。」との一文は興味深い。
やはりトンネルの出現は峠を衰退させる大きな要因となっている。

峠への道程でガレ場通過の記述があるが、現在の大規模崩壊と同一の場所かは不明。
峠に至るまでの記述が少ないのが残念。

道志口から十分程すると道が二股になり、下(右)の道をとって沢沿いに進むと、
又道が二分するので、今度も右の道をとって進んで行く。
二、三分して土橋を渡り道志口沢の左岸に移る。・・・・・

・・・・再び右岸に移る頃は水量も少なくなって、道も大分悪くなり、急峻な登りとなった。
炭焼場を二ヶ所通過すると石ころのゴロゴロとした薙のような悪場になる。
道は何時しか無くなって、雑木の藪がひどく歩行が苦難になったが、
尾根はもう目前に迫っているので夢中で藪を押し分ける。

三十分余りしてようやく道志峠の頂に立った私は、その見る影もなく荒れ果てた光景に驚いた。
其処には道らしいものは全然なく、身の丈を没するススキと雑木の藪で身動きも出来ない。
道志村の人は此の峠を単に「鈴ガ」と云い「鈴ガ野ノ峠」とも云う。
又麓の登り口を道志口という関係から、「道志口峠」と云う人もある。
とにかく現在は廃道で、此の峠の名は土着の者でもはっきりとしていない。
此の峠の利用されたのは、もう十数年も前の事だそうだ。

腰を掛ける余地もない峠を早々に辞し、南へススキの恐ろしく茂る急斜面を、櫓沢の水声を求めて
下って行けば、三十分で炭焼場を見つけ、其の傍らに櫓沢の水源がチョロチョロと流れていた。
此処からは幽かな小径が流れの右岸についていて、やがてそれが左岸に移る頃になると
道はいよいよ立派になる。

『丹沢山塊』 ハイキングペンクラブ編 登山とスキー社 昭和16年

「石ころのゴロゴロとした薙のような悪場」、「道は何時しか無くなって雑木の藪がひどく歩行が苦難」、
との記述が見られ峠道は絶望的な有様である。
「夢中で藪を押し分ける」との記述からして通行が途絶えて久しいことが窺がえる。
ちなみに『甲斐国誌』にも「本沢ヨリ道志ニ越ユル間道アリ甚ダ峻路ナリ道志口ト云フ」と記され
昔から峻険なる悪路であったことが窺がわれる。

「道志村の人は此の峠を単に「鈴ガ」と云い「鈴ガ野ノ峠」とも云う」との記述は
他の文献には見られないものであるが、
大平と朝日小沢を結ぶ「鈴ガ音峠(鈴懸峠)」との勘違いではなかろうかとも心配になる。
「とにかく現在は廃道」という言葉が絶望感に追い討ちをかける。

曾雌から道志村戸渡へ越ゆる道志口峠(1,150米)は、
曾雌部落の南十町位の地点にある道志口と云う箇所から登り始める関係上この峠名がある。
また単に道志へ越えると云う意味で「道志峠」とも云う。

曾雌の落合橋の袂で、橋を渡らずに右折(南)して入山谷の流れに出ると、
すぐに地図の小径通り丸木橋を渡って右岸へ移る。
桑畑の脇を十分程行くと、大山祗命と書いた小さな木の鳥居と木祠がある。
此処が道志口であり、四辺には杉の大木が繁っている。

此処から入山谷の本流と別れて、
入山谷の支流道志口沢の右岸に沿って東南に進んで行くと、十分程で径が二分する。
下(右)の径をとって沢沿いに行くと、また径が二分する。
今度も右の径をとって進み、二、三分で土橋を渡り、道志口沢の左岸に移る。
再び右岸に移る頃は水量も少なくなって、径も大分悪くなり、急峻な登りとなる。
炭焼場を二ヶ所ほど通過すると、
石コロのゴロゴロした薙のような悪場になり、径は何時しか無くなってしまう。
それからは雑木の藪を押し分け押し分け三十分程も登り続けると、
雑木と枯草の繁る荒れ果てた展望の悪い峠上に達する。

頂き附近で径が無くなり、比較的標高も高いだけに、道志の峠の中では一番骨の折れる峠である。
然し、この峠を越えて前方に大室・加入道の雄大な姿を初め、丹沢山塊を一望におさめ、
眼下に道志川の流れを見た時の感激は経験したものでなければ味わえない喜悦である。
峠から南東へ三十分程も下ると櫓沢の水源となり、流れに沿って下って行けば径は次第によくなって、
やがて道志川のほとりの戸渡に出る。

『山と高原60号』 「道志の峠路を行く(五) 道志口峠と道坂峠」 田中新平

「道志峠」との別名もあるとしている。
「石コロのゴロゴロした薙のような悪場になり、径は何時しか無くなってしまう。
雑木の藪を押し分け押し分け三十分程も登り続けると、荒れ果てた展望の悪い峠上に達する。」
とある通り、往時より荒廃した道だったことが窺がえる。

「道志の峠の中では一番骨の折れる峠」という言葉が印象深い。
山伏峠、ブドウ沢峠、道坂峠、巌道峠、城ヶ尾峠、白石峠など、他の道志の峠と比べて
格段と道の状態は良くなかったのだろう。

ヤツグラ沢から道志口峠を越えて盛里村に抜ける間道は、古くより知られているものだが、
現在は荒れるにまかせたままの状況らしい。・・・・

かつて盛里村から道志越えの交通路として古い歴史をもち、甲斐国誌にもその記載をみる杉ノ沢沿いの
道志口峠路の分岐は、壊れた堰堤の直下にあるが、指導標もなく、初めて入る人には分かり難くなって、
道がよいまま、道志口峠に入る人も、入山本谷の奥にと進んでしまうであろう。・・・・

古くは道志越えの間路として文化、経済に重要な役割を果たした道志口峠(大杉峠)の古道なのである。
だが利用する人もない現在は指導標の必要もなく、放置され、路の刈り払いなど絶えてせず、
荒れるにまかせてあるらしい。

『山と高原77号』 「道志の山と谷」 羽賀正太郎 昭和23年

「文化、経済に重要な役割を果たした」峠道の荒廃ぶりが窺がえる。
昭和初期の段階で、「利用する人もなく、荒れるにまかせてある」とされている。
地元民による道普請もなく荒れ放題だったのだろう。
入山谷に入って直ぐ左に分れる道志口沢(杉の沢)について道志口峠に登り、
それよりヤグラ沢を下って戸渡部落に出る行程であるが、之は戦前は明瞭な道が通じていたが、
戦後は荒れるに任せ、通る人は全くなくなって踏跡すら消えてしまっているところがあり、
全く利用できなくなっている。(羽賀正太郎)

『丹沢の山と渓』 川崎吉蔵 山と渓谷社 昭和27年

「全く利用できなくなっている」という絶望的な記述に肩を落とす。
戦時中山仕事に入る男衆が兵隊として招集され減ったためだろうか?
通る人のなくなった道は荒れる一方であったようだ。
本坂峠は秋山側では大杉峠又は道志口峠と呼称している峠路で、
秋山筋と道志を繋ぐ昔は一要路であったが、峠附近から山八合辺りまではかなり荒れ果て、
喬木を掃い分けて歩かねばならない。

・・・・曾雌の集落から秋山川の清流を渡って、直ぐ入山谷の右岸を登る。
間もなく川を渡って山路は、山の神の石段前で二岐するが、ここで入山谷本谷と別れて杉ノ沢に進路を選ぶ、
ここは道志口と呼称する地で昔道志村の関門であったことを物語る古蹟地として、
この山祠も古い歴史を漂わせている。

右の小路を踏んで大ダツマ沢の落合を過ぎ、緑葉の被る木の下径は、やがて大杉本谷が東曲する対岸に
オッパライ沢が対岸に落ち込んでいるのを眺めるようになる。
少し登ると治郎作沢の岐れる所に小さな道祖神があるが、昔この傍らに空洞を形成した大杉があって、
郡内矢立の杉と併び称せられたこの根方は、山中賭博の好根拠地にされていたという。

路はビャクヌケ上を横断するようになり、一度本谷に下って沢筋を絡み登りつつ稜線に出る。
峠からは菜畑山の東尾根が長く前方を遮り、僅かに加入道、大室の膨大な山体の一部を
眺めることが出来る程度で、道志谷は深い山襞の彼方に隠されている。
山巓から本坂峠路は一時ひどい喬木の藪地をイバラと蔓草を避け乍ら下る。
櫓沢の源頭地としてのホンクボが枝沢を併せる頃に、山路は明かとなって櫓沢添いに道志川まで
伸び下がって居る。

『道志七里』 伊東堅吉 道志村村史編纂室 昭和28年

道志側では「本坂峠」と呼び、秋山側(ママ)では「大杉峠又は道志口峠」と呼称していたとある。
杉ノ沢と治郎作沢の分岐に昔、空洞を形成した大杉があって、
「山中賭博の好根拠地」とされていたという記述はとても興味を覚える。

峠道は「ビャクヌケ上を横断するようになり、一度本谷に下って沢筋を絡み登りつつ稜線に出る」とある。
ビャクヌケ上を横断するということは、一旦は尾根上を歩くということだろうか?
そしてその後に本谷へ下降し沢筋を詰め上げるということだろうか?
だとすると地形図に描かれた破線道とは異なるように思える。

入山本谷と別れて杉ノ沢に道路を選び、新緑が顔に映える木の下路は東曲して小さな道祖神祠があります
昔は山中賭博が栄えた所だといいます。
路はビャクヌケと方言する崩壊地を横断、一度沢床に降って沢筋を絡み登ると本坂峠に立つことができます。
この峠は道志口峠とも大杉峠とも呼ばれ、加入道・大室の二峰が道志渓谷を隔てて
力強い稜線を見せています。

『東京附近山の旅』 朋文堂編集部 昭和31年

内容は『道志七里』からの転用と思われ、
「崩壊地を横断、一度沢床に降って沢筋を絡み登る」という過程も同じものである。
山中賭博が栄えた所に道祖神の祠があるとしているが、山之神ではなく道祖神なのだろうか?
本坂峠は道志口峠ともいわれ、古くから道志川と朝日川方面とを結ぶ峠路として里人の往来の
多い峠であったが、道坂峠を越えてバスが日に数本通うようになった現在はあまり歩く人もなくなったと
みえて草の茂みも深くなり、しだいに人々から忘れられようとしている。
峠から草に埋もれて消えがちな小道をしばらく下ると、やがて櫓沢の水源となる。
流れに沿って下って行けば木馬道を歩くようになって、戸渡部落の水車のきしむかたわらで
道志川に沿う往還に出る。

『山と高原』 「秋の道志の旅」 甲斐路郎 昭和32年

昭和30年代、すでに「人々から忘れられようとしている」とあるのは悲しい。
それでも山岳雑誌に載っているくらいだから、歩かれたことのあるオールドハイカーは多いはず。
本坂峠は古くは道志口峠とも呼ばれて、道志川と朝日川の谷を結ぶ道が越す峠である。
昔は道志川筋に住む人が都留方面へ行く最短路として利用した峠路なのだが、
そうした旅人のいなくなった現在では、峠から北に朝日川へ下る道は消え、南の道志川の戸渡への道だけが
菜畑山や赤鞍岳の登山道として細々と命脈を保っているに過ぎない。

今回、私は廃道だと聞くものの、北側の曽雌へ下ってみたいと思っていた。
峠路が通じていたくらいの地形なら、道が消えてしまったあとでも、なんとかたどれるだろう。
道形も少しは残っているのではないか。・・・・・・

・・・・・峠から少しの間は右に巻く道形があるものの、その先は山ぬけで大きく崩れて渡れそうもない。
結局は、いつもの下れ下れの戦法をとるしかなく、小尾根から谷へと木枝に掴まってずりさがった。
沢底におりつくまでには、岩の狭戸に手足を突っぱって越すところもあった。
だが、文字通り一段落した沢底からはとりたてていう悪場もなかったし、
右の杉林に小祠を見たあとは断続的にだが小道が拾えた。
地形図通りに神社のある大旅沢出合からは車道に変わって、あとは短かった。

『一日の山・中央線私の山旅』 横山厚夫著 実業之日本社 昭和61年発行 「赤鞍岳」より

「峠路が通じていたくらいの地形なら、道が消えてしまったあとでも、なんとかたどれるだろう」という
考えには共感できる。それ故今回峠道を辿ってみることにした。

「なんとかなるだろう」は「なる」こともしばしばあるし、「どうにもならない」こともしばしばある。
今回の峠行ではなんとかなって、この文献に記述された「小尾根から谷へと木枝に掴まってずりさがった。
沢底におりつくまでには、岩の狭戸に手足を突っぱって越すところもあった」というコースを
逆に登る結果となった。

2万5千図によると破線が一気に道志口沢へくだっているが、実際は右手山腹を巻くように踏跡が続く。
間もなく小さなガレを越え、二つ目のガレ手前からまっすぐに道志口沢へくだるような跡がある。
直進すべきと判断し、木につかまりながらガレを越すと踏跡がない。

さては先程の下への道が本道だったか、と思ったが、木の間を通して上を見ると尾根が見える。
尾根へ向けて右斜めに登ると尾根上にほそぼそとした道がある。
しかし張り出す木の枝からは解放されず、このヤブ道をジグザグにくだり続けると、
大木の杉が4本立つ小さな祠の山の神に出る。

ここは沢の合流点で、左の道志口沢から一本の細道がここへ至っているが、
これが先程のガレ場からの道かもしれない。
山の神から再び道が消え、沢の中を10分もくだると右岸に道が現れてくる。
しかしすぐ沢の中へまぎれ込み、沢の中のくだりとなる。今度は左岸上部に道が見えてくる。
この道を取り間もなく右岸へ渡ると、ようやくしっかりした道となり快適な歩きとなる。
右から2本仕事道を合わせると小さな小屋の前に出る。
左右の分かれ道を右へ行くと赤鳥居の神社に出、左下の林道へとくだる。(昭和60年2月歩行)

『新ハイキング364号』 「朝日山から本坂峠」 内山裕 新ハイキング社 昭和61年

「2万5千図によると破線が一気に道志口沢へくだっている」とある通り、
これは古い版の地形図を見ても同一の沢筋直滑降ルートが径路として描かれている。
本当に昔は、このような径路だったのだろうか?峠行を終えた今としては疑問が残る。

現在、最も歩かれているのが、峠から右手山腹を進み、ガレ場から尾根上に出て、
ジグザグを経由して大杉の祠前に出る道のようである。

・・・・古老が木出しに入った盛里への道である。
登山用地図はこの道を登り切った峠に道志口峠とか本坂峠の名を記している。
戸渡の登り口に馬頭観音がある。・・・・川筋に沿った林道を行くと、すぐ道は二股になる。
振り返ると、古老が左だと、大きく手を振っている。谷間は櫓沢と呼ばれる。・・・・
25分ほど左岸を歩くと林道は終わる。右岸に渡るとよく踏まれた山道があった。・・・・
10分ほどで、3本の沢が合流する河原に出た。
大きな木の根元に朽ちた木片があり、「三つ沢」とある。
古老から教えられた場所で、彼は真ん中の本沢を行けばいいと言った。・・・・
左岸の雑木林に残る細道を行くと、やがて道は右手の尾根に登って行く。
谷を登らずに道志口峠に出る現在の道のようだ。
地形図の破線道はずっと谷を詰めている。
やせ細った流れを右に左に渡って、踏み跡を拾って登り続けると、扇の要のような広い河原に出た。
ここで谷は二分する。地形図を確かめて東に曲がる谷を選んだ。
落ち葉の中にあった微かな踏み跡も無くなったが、沢筋を外さなければ何とかなると、
右岸のミズナラの林を伝って行く。所々に炭焼きの窯跡があった。・・・・

道志口峠は、稜線を歩いていれば通り過ぎてしまいそうな小さな鞍部であった。
・・・・道志口峠の地名は、曽雌の村人が呼んだ名前のようだ。
曽雌側の登り口に道志口の地名がある。
もう一つの本沢峠は、逆に櫓沢の本沢をここに上がる戸渡側の呼称に違いない。
・・・・大正13年、道坂峠にトンネルが開通する。
このころから、道志口を越える人はめっきり減ってしまった。

・・・・地形図の破線路は峠からまた谷へくだっている。
破線路にこだわって登ったが、曽雌側の谷は激しい崩壊が広がっていてどうにもならない。
あきらめて、東の尾根に微かな踏み跡があったので、それをくだることにした。
雑木が幾重にも道を遮る。それをボキボキ踏んで歩いた。
20分ほどで尾根を一直線に下降するようになる。
落ち葉に薄く乗った雪が解け、何度も尻餅をついた。
くだり切った所に小さな台地があった。
20メートル四方ほどの平地に分厚く落ち葉が降り積もり、
3本の杉の大木の根元に小さな山の神の祠があった。

『新ハイキング509号』 「道志口 -廃れた山みちを行く- 」 杉崎満寿雄 新ハイキング社 1998年3月 

道志側の櫓沢に沿った峠道の現況について詳しい。
現在歩かれている峠から戸渡への道は古くからの峠道とは異なっているとしている。
これは曾雌側ばかりではなく道志側においても荒廃が見られ、道筋が変遷したことを意味しているのか。

「道志口峠」の名は曾雌側の呼称とあり、「本沢(ママ)峠」は道志側の呼称とある。
やはり、「曽雌側の谷は激しい崩壊が広がっていてどうにもならない」と判断され、
尾根に微かな踏み跡を拾っている。

道坂トンネルが大正13年に開通するまでは重要な交通路であった。
現在、峠を越える者はなく、道志口への道は廃道になっている。
戸渡への道は地図の破線とは異なり、標高800mまで小尾根を下っている。

『甲斐の山山』 小林経雄 新ハイキング社 平成4年

道志口(曾雌側)の道は廃道になっており、戸渡への道も地図の破線とは異なるとしている。
道坂トンネル完成前の道の様子、山抜け(崩壊)が起きる前の道の様子はどんなだったのだろうか?

◆◆◆ アミバ峠に関する資料 ◆◆◆

菜畑山の北面の熊笹を滑り降ると、ややしばらくでアミバリ峠に出る。
アミバリ峠は高度1,090メートルもあり、往古の峠跡であって、一面叢林と笹によって覆われて、
右には戸渡沢の支沢朝日越沢が入り、左には入山谷最奥の沢アミバ沢が入っている。
入山谷側は源頭とてゆるい傾斜をもっている。

『日本山岳案内 丹沢山塊・道志山塊』 鉄道省山岳部編 昭和15年

「一面叢林と笹によって覆われ」という描写が恐ろしいが、
「入山谷側は源頭とてゆるい傾斜」という一文に救いが見出される。
菜畑山から潅木の尾根を北へかすかな径路を追って下るとヤセ尾根となって笹が深くなってくる。
ともすると左手の笹帯の中に尾根を外して引き込まれがちであるが尾根をしばらく下るとアミハリと
いわれる鞍部につく。左手は入山谷の源流帯でかすかな踏跡が分かれて行く。
これから入山谷の源流へ下って、入山谷沿いにつづく木馬道を下って、一の沢を左から入れ、
大久保製材小屋跡から広くなった自動車道を歩いて曽雌へ出ればバスが禾生、谷村横町各駅へ通っている。

『山と高原』1957.10「秋の道志の旅」 甲斐路郎

アミハリから入山谷の源流帯に向けて「かすかな踏跡」が分かれていたことが窺がえる。
当時からして「かすかな」踏み跡だったとはなんとも心許ない。
入山谷の源流へ下り、入山谷沿いに続く木馬道を辿って山麓に出ることが可能だったことがわかる。
・・・アミハリまで道志側は70度位はあろうと思われる急な傾斜で、登りにも下りにも手強い。
盛里側は丹沢、道志特有の丈余に伸びた笹と潅木の繁みが尾根筋まで被っているが、
之を辿る方が道志側を行くより楽である。

・・・アミハリの底につく。
この附近は盛里分の人が、入山谷を詰めて達し、小鳥をとるカスミ網をその昔張ったので地名が生まれたが、
ここ二十年ばかりは絶えてそのことはなく、樹木は生茂って、今はアミの張り様もない。
別称を切通しとも云うが、道志側は山肌が急なため、ここに登ることはなく、
従って地名は何れも盛里村で付けたものなのである。
しかし菜畑山(裏)は道志分の呼称で、盛里村では別に名付けていない。

アミハリの鞍部はちょっと藪も薄く、そばにある大木の肌を削って、落書きが彫られてある。
道志側は落ち込む様な急傾斜で悪場をなしている。
盛里側は深いヤブであるが、入山本谷のアミハリ沢源流まで、たいして苦労なく下れそうである。

・・・アミハリ沢へ山肌を下る。この辺り伐木の手も延びず、
原生林が繁り菜畑山の北側だけに薄暗い感がする。
沢底めざして、どしどし下ると十分もかからないで、かすかな水音を聞くようになって、
ポッカリとアミハリ沢につく。
右方高めに眺められた高丸南面にあるブドウ岩は沢底からは見られなくなった。

この沢について驚かされた事は、沢一面が花崗岩の一枚ばりの滑なのである。
河床は2メートル位はあろうか、それが100メートル以上も細長い一枚の滑をなしており、
そこには枯葉、枯枝の一枝も止めず、薄黒く、艶のない肌であるが極めて奇麗な姿で、
その上を僅かばかりの水流がなめているこんな景観は今までに見たことはなかった。
いかにも秘渓といった感が深い。

・・・すべりそうな一枚岩の、そんな河床は少し下ると、直ぐ何処の源流もそうである様な平凡な様相となり、
右からヒロヨシ沢が合し、間もなく左手からスズガ沢が注入してくる。
足を濡らす事もなく、破片岩の上を渡って下ると、左手、沢沿いに踏跡が出、
ちょっと小広い草原帯となったところに出る。
城郎木の原と俚称される所で、朽ちかけた炭焼釜があり、この辺りまで、
盛里村からは山仕事に入る者が多く、之からはしっかりした径となる。

『山と高原77号』 「道志の山と谷」 羽賀正太郎

アミバ峠について詳細に書かれた貴重な文章である。
盛里側は傾斜も緩く「入山本谷のアミハリ沢源流まで、たいして苦労なく下れそうで」あり、
そしてアミハリ沢の底には「枯葉、枯枝の一枝も止めず、薄黒く、艶のない肌であるが極めて奇麗な
100メートル以上も細長い一枚の滑」の秘渓があるという。
これを読んでしまったがために今回訪れることになった。
こんな50年近く前の文献の記述を信じて行くのもどうかと思うが・・・・

アミハリとは、「盛里分の人が小鳥をとるカスミ網をその昔張ったので地名が生まれた」との記述は、
道志側は谷筋が急峻過ぎて利用がなかったとの記述とあわせて興味深いものである。

沢底に降りた後、果たして道なり、踏み跡なりがあるか心配であったが、
「炭焼釜があり、盛里村からは山仕事に入る者が多く」とあることから何とかなると思われた。

以上、文献資料等を読み込んで、容量の少ない頭に叩き込み峠行へと赴きました。
尚、今回の峠行においては、以下に紹介するふたつのホームページが大変参考になりました。

● HP『良太郎の『自転車で街道をゆく』
  「道志口峠(本坂峠)」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/dousiguti-touge.htm)

● HP『近くの山』(http://www.geocities.jp/l4qhv/index.html)
  「道志口略図」(http://www.geocities.jp/l4qhv/page090.html)
  「道志口峠から戸渡」(http://www.geocities.jp/l4qhv/page071.html)

◆◆◆ さぁ、現地へ ◆◆◆

道志口峠、アミバ峠ともに都留市朝日川水系の道志口沢、大旅沢の源流域に位置する峠で、
道志山塊の奥懐にあることもあり都留市側からの公共交通機関によるアクセスはかなり厄介です。
タクシー会社が裏で糸を引いているのかバスの本数は一日数便という極貧路線です。
また朝日曾雌から先、山懐に入る林道は、林道建設の大型工事車両の通行が頻繁にあり、
路面状態も悪く、一般車の通行向きとは言えず、駐車スペースも限られています。

マイカーアクセスの場合は県道に車を乗り捨て、林道をテクテク歩くのが無難でしょう。
今回は東曾雌バス停近くの県道路肩に車を停めて、いざ歩行の開始です。
加えて、この山域は熊目撃の情報も多くありますので、冬眠期の接近が最適かと思われます。
無茶苦茶な林道開発により熊の怒りも心頭に発していることでしょうから、
努々注意を怠ってはなりません。


道志口神社
大山津見大神を祀る


林道道志口線 終点部
四駆ならここまでこれるようだ
駐車スペースニ、三台

「やすら園」なる、犬に吠えられあまり安らぎを感じられないキャンプ場前を素通りし、
大旅沢と道志口沢との分岐に建つ道志口神社の赤い鳥居を目印に左に折れて、
道志口沢右岸につけられた林道道志口線に入ります。
爪先上がりの林道を花粉症対策マスクによる呼吸困難を伴いつつ歩き続けます。
林道は地形図の境目辺りまで延ばされ、丁度、コダツマ沢径路分岐がその終点となっています。

林道終点部には四駆トラックと軽トラが停車しており、山仕事の人が入山していることに
未知なる道へ進む不安な気持に多少なりとも安堵の色が浮かぶのです。
蒸れる顔面に、もう我慢ならぬと花粉対策のマスクを取り外し、深呼吸、山の春を吸い込みます。


歩き始めの峠道


想像以上に良い道が続く

林道終点部からの山道は、思いの外明瞭で、しっかりと踏み固められています。
その姿はかつては通行が頻繁にあったという峠道の片鱗を窺がわせるものです。

徒渉ポイントで多少まごつきはするものの、事前のネット情報収集で得た、HP『近くの山』さんの
「道志口略図」(http://www.geocities.jp/l4qhv/page090.html)が極めて正確であり、
これをプリントアウトし地形図と共に持ち歩けばなんら道迷いの心配はありません。


沢を徒渉したり


伐採跡地の小潅木帯を進んだりもする

最初の徒渉で左岸に渡り、そして直ぐに右岸に渡り戻り、伐採跡地と思われる小潅木帯を
掻き分けて進みます。踏み跡はうっすらとあり、不安を抱くことなく前進することができます。
再びの徒渉で、左岸の植林台地や潅木の中州を進みますが、
スズランテープのマーキング等もあり、静かなる沢の遡行を十分に満喫できるのです。


目印のスズランテープも適度にある


これが「大杉跡」かと勘違いもする

ブドウ岩ノ頭の北北西付近から流下する小さな沢の合流点で古びた大杉の切り株を見て、
もう杉ノ沢の分岐かと早とちりもしましたが、石祠が無いので直ぐにそれとは違うと気づきます。
しかし、この古株の背後には立派な道跡があり、小沢に沿ってどこかに通じているようでもありました。


勘違いの大杉跡の背後には明瞭な道がある


無数の炭焼き釜跡を目にする
この辺は明るく幕営地にも適している

古株分岐を過ぎると、沢は広がり、空も広がります。
前方に太った幹の雑木の数本が見えてくると、かつて炭焼きが盛んであったことの証しである
炭焼き釜跡の石積み群が多数現れます。

周囲は明るい雰囲気で、こんな場所で焚き火を囲み一泊したらさぞ心地好いだろうと思えます。
炊事に必要な清い水の流れ、焚き木にも不自由しません。
きっと空には満面の星が瞬き、カモシカも遊びに来る一夜となるでしょう。


点々と巨木などがあり良い雰囲気


炭焼釜跡群からは右岸沿いに明瞭な道跡

炭焼き釜跡群からは右岸沿いに一条の明瞭な踏み跡が付けられています。
木々が葉を落としているこの時季、周囲の地形から現在位置を読み取ることも容易であり、
杉ノ沢分岐が近づいてきていることが体感されます。

葉の生い茂る季節ならば、きっとまた違った表情を見せるかも知れませんが、
それでも陰鬱な感じはみせず、のびやかな明るい沢筋の峠道であると思われます。


四本の大杉下に祀られた石祠


石祠は峠への分岐路でもある
山中賭博が開帳された場所だともいうが・・・

遠くからでも目立つ四本ほどの杉の大木に護られるようにして、
杉ノ沢分岐の目印でもある石祠は祀られています。
祀られている神様は山之神でしょうか?
朱色の石祠は初めて見るもので、左右の側面には龍のような浮彫りが施されています。
これが龍だとすれば、祀られている神は水神様なのでしょうか?
沢の源頭部にあることからして雨乞いの神か、あるいは水害を鎮める神なのかもしれません。


祠から右の沢(杉ノ沢)に入る踏み跡は無し


祠は赤く、側面に龍?の浮彫りがある


祠左手には踏み跡と目印テープがある

さて、ここからが峠道探索の核心でもあります。
祠の右手には地形図に記載された本来あるべき峠道である杉ノ沢に入る踏み跡は確認できません。
祠の左手には明瞭な踏み跡とスズランテープによるマーキングが確認できます。
さてどうしようと、祠の前に腰を下ろし、コロッケパンの昼食をパクつきながら黙考します。

とりあえず右手の杉ノ沢沿いを探索し、行き詰まったら戻って来て左手の道に変更しよう。
そうと決まれば、お賽銭のまったくあげられていない祠に昭和58年製の五円玉を捧げて無事を祈り
峠道探索は再開されるのです。


杉ノ沢にも最初だけ目印はあるが踏み跡はなし


どう見ても峠道ではなく沢のガレの堆積

石祠分岐から上の山腹は、数日前に下界を襲った春の嵐の影響で新雪を纏っています。
下界では暴風雨でしたが、山では季節外れの雪をもたらしたようで、
アイゼンを持っていないことに一抹の不安がよぎります。

鑑識の白い粉が指紋を浮かび上がらせるように、
薄っすら積もった白い雪が消えた道跡を浮かび上がらせることも期待しましたが、
道跡、踏み跡は無いに等しく、最初にあった目印のスズランテープは期待だけさせておいて、
その後は続きません。

デブリの如き足場の不安定な沢を登りますが、
傾斜といい、周囲の雰囲気といい、頻繁な通行があった峠道であるとは到底思えません。


右岸に人工的な石積みが現われると
大規模崩壊地の下部を横断することになる


沢筋は凍結した滝に行く手を阻まれる
もはや沢筋に峠道が存在していたとは思えない

右岸に人工的に積まれた石積みが現われると、
進行左手の山腹に大規模な山抜け(ビャクヌケ・崩壊地)が出現し、
その下部を今にも飛んできそうな落石に注意しながら恐る恐る横断します。

しかし、その通過直後、沢筋は凍結した滝に行く手を阻まれ、
沢筋の遡行は行き詰まってしまいます。
果たして地形図に描かれている通り、峠道は沢筋を一気に峠から下降していたのでしょうか?
この滝の出現を見るに、地形図に描かれた径路に疑念が生じもするのです。
この滝のある沢筋を荷を背負った村人や牛馬が上下していたとは到底考えられません。

巻き道が左岸なり、右岸なりにないかと観察しましたが見出すことはできませんでした。
峠道はもっと山腹の上部を通過していたと考えるのが妥当なのではないかと思います。
凍り付いた滝に取り付く勇気も技術もないので、左手より高巻きにかかりますが、
中途半端な位置で高巻くと、滑落した際に、ストッパーとなる木々の繁茂が薄いため
かなり上部まで斜面を攀じ登ります。
しかし、攀じ登っている最中に気が変り、このまま斜面を登りつめて、
峠から伸びているであろう水平道に達した方がより安全ではなかろうかとひらめきます。

「感覚は欺かない、判断が欺くのだ」という天の声が聞こえ、
感覚に従い斜面を遮二無二攀じ登りにかかります。


滝を左から高巻するつもりだったが斜面を登り続ける
樹間を透かし峠位置は間近に確認できる


斜面を登りつめ、峠からの水平道に出たところ
潅木ブッシュが顔を叩く

ちょうど横断した大規模崩壊地の縁に沿うように、小尾根というには頼りない、潅木のついた
尾根状の張り出しがあり、それをよじ登ることは技術的にもモチベーション的にも可能です。
すぐにポキリと折れる冬枯れの幹に細心の注意を払い、両手両足を駆使した全身運動で
高見を一気に目指します。

かなり傾斜のきつい斜面ですが、どうにか雑木の立ち木を手掛かりに登ることはできます。
中腹から上部にかけてこの張り出しは落葉松の植栽地と境を成すようになり、
いざとなればそちら側に逃げ込めば何とかなるだろうとの安心感も芽生えます。

落葉松林を透かして、峠の位置やブドウ岩ノ頭の位置も確認できますが、
「目標に近付くほど困難は増大する」の言葉通り、雪の付いた急傾斜の登攀は苦難を増します。
落葉松林に逃げ込もうものなら潅木ブッシュの手荒い歓待が待ち構えていて、
前進速度は格段に低下してしまいます。

しかし、終わらない闘いは無いのであって、急傾斜登攀との格闘も終焉を迎えます。
飛び出した所は、峠からの水平道が、ちょうど大規模崩壊地に阻まれて下降路を見失う
行き詰まり地点であって、目標としていたポイントにドンピシャで達することができたのです。


道志口峠に無事辿り着く

ここまで来ればもう安心、水平道に蔓延る顔を鞭打つ潅木ブッシュも、茨のトゲトゲもなんのその、
体が平坦な場所にあるというだけでなんと心強いものでしょう。
峠はもう指呼の間、新雪の感触を味わう余裕も出てきて無事に峠へ辿り着くのです。

しかし、今になって冷静に考えると、道無き斜面の攀じ登り作戦はかなり危険であったと思います。
同じ経路を下降するとすればザイルの用意が欲しいと思うことでしょう。


雪の道志口峠

結局、地形図に記載された杉ノ沢に沿った峠道は確認できませんでした。
結果的には文献資料で紹介した『一日の山・中央線私の山旅』の峠から杉ノ沢に下った紀行文に
みられる「下れ下れの戦法をとるしかなく、小尾根から谷へと木枝に掴まってずりさがった。
沢底におりつくまでには、岩の狭戸に手足を突っぱって越すところもあった」
の逆コースを辿ったことになったようです。

峠は足首を隠すほどの雪に埋まっています。
降り積もった春の雪に足跡はなく、今降雪後に訪れた最初の峠の来訪者であるようです。
縦走路にも足跡は無く、自分の足跡だけが峠から北側に伸びる水平道に刻まれています。
この足跡を見た人は不思議に思うかもしれません、峠道は通行できるのかと。
そしてそれを辿ると崩壊地で斜面下方に足跡が消えているのですから。


朽ちる寸前の峠の標識


手製カマボコ板標識を取り付ける

峠に辛うじて立っている標柱は朽ち果てる寸前で、
「本坂峠」と書かれた標識の文字も判読が難しくなっています。
峠道は道志村側の戸渡へ向かう道だけが登山道として生かされているようで、
都留市側の道志口を指し示す腕木は付けられていません。

道坂トンネルが出来る以前は、道志と都留とを結ぶ重要な交通路であったと
文献資料には見られますが、現在の寂しげな峠からはそのような過去を想像することはできません。

標識が朽ち果ててはイカンと、「道志口峠」と書いた手製のカマボコ板標識を取り付けた後、
雪に足をとられながらブドウ岩ノ頭へと向かいます。


手製標識を取り付ける


菜畑山へ向けたアミハリへの急下降

殺風景なブドウ岩ノ頭にも手製標識を取り付けて、塩センベイをひとつまみしつつ小休止です。
激しい登攀で体が塩分を欲しているようで、塩の味がなんともタマリマセン。

さて、これから本日二つ目の課題である、アミバ峠(アミハリ)へと向かうのですが、
事前情報の乏しさがなんといっても心配です。
アミバ峠を下降したという最近の記録は見当たらず、果たして道なり、踏み跡なりが存在しているか
行ってみなければ何も判りません。
頼りとなる情報も昭和初期の文献資料によるものだけでなんとも心許ない限りです。

ブドウ岩ノ頭を鋭角に折れ、菜畑山との鞍部に向けて一気に下降がはじまります。
アイゼンの欲しくなる雪の付いたスリッピーな急斜面は、立ち木から立ち木へと渡る
かなりスリリングな急降下です。
もしも、アミバ峠で下降路(脱出路)が見出せなかった場合、
この急下降を再び登り返さないといけないと思うと、ちょっと複雑な心境にもなります。


菜畑山直前の最低鞍部 ここにアミバ峠の手製標識を取り付けた

目的のアミバ峠(アミハリ)の正確な場所はどこかと少々悩みました。
p1108手前の小鞍部かそれともそれを越えた先の鞍部かと。

『山と高原地図』の「アミハリ」と書かれた場所を見る限りでは
p1108の手前とも思えなくないのですが、この手前鞍部はカスミ網を張るには狭すぎるし、
地形図には崖も描かれており、下降するには困難と思われます。

そこで、菜畑山へ向けて登りにかかる直前の最低鞍部を
アミバ峠(アミハリ)と考えるのが適切なように思えます。
山を越える渡り鳥だって、エネルギー温存の為に疲労の少ない最低鞍部を越えるだろうから
網張場はやはり最低鞍部が好適地と推測されます。

菜畑山直前の最低鞍部に、アミバ峠の手製標識を取り付けました。
帰宅後に見た『富士の見える山』(小林経雄著・新ハイキング社)には、
「(ブドウ岩ノ頭から)緩いピークを越えて下ってゆくと顕著な大岩があり、
その右側をからむと網張という鞍部につく」との記述が見られることから、
緩いピークである
p1108を越えた先の最低鞍部が、やはりアミバ峠(アミハリ)であるとの
裏付けが得られたといえます。
(『山梨県の山』(山村正光・山と渓谷社・1996年)には
「(菜畑山)北に細尾根を急降下して、小さなコブを三つ越えると網場峠である」と書かれている)


アミハリ沢へ向けての道無き斜面下降


この大岩背後の小尾根を下降してきた

アミバ峠(アミハリ)からアミハリ沢へ向けての下降はやはり踏み跡も目印もありません。
事前の知識が無ければ、ここを下ろうとは誰も考えないことでしょう。
しかし、斜面の傾斜は緩やかで、笹のヤブもさほど深くはありません。
さて、どうしたものかと、最初の一歩を踏み出すのに躊躇します。
この先に大きな滝があったらどうしよう、ダニや熊の巣窟だったらどうしよう、
本当に麓に出ることができるだろうか・・・・

「考えすぎると人間は臆病になる」
「勇気は敢行することで増し、恐怖は逡巡することで増す」
誰が言ったか、そんな言葉を思い出し、これは行けるんだと一歩を踏み出します。

下降を始めればなんということもなく、程よい傾斜角がアミハリ沢の底へと導きます。
笹ヤブと潅木ブッシュはうるさいものの、暗澹たる様子は感じられません。
張り出し小尾根に上手い具合に乗って下降を続け、しばらくすると、沢音も次第に近付き
流麗なアミハリ沢へと飛び出します。


降り着いたアミハリ沢の優しい流れ


この辺りが古文献にある「一枚岩の奇麗なナメ」らしい

「アミハリ沢源流まで、たいして苦労なく下れそうである」との古い文献資料の記述の通り、
「沢底めざして、どしどし下ると十分もかからないで、かすかな水音を聞くようになって、
ポッカリとアミハリ沢につく」ことが出来ました。

このルートは、鎌と鋸を持って丸一日道普請に費やせば立派な道ができるだろうと思います。
ちょっと手を入れ、登山道として整備をすれば、
菜畑山とブドウ岩ノ頭の鞍部に降り立ちはしたものの、
どちらを登るにしても壁のような急登を見て戦意喪失を催した者のエスケープルートとして
重宝されることでしょう。

古い文献資料には「沢一面が花崗岩の一枚ばりの滑」とあり、
「そこには枯葉、枯枝の一枝も止めず、薄黒く、艶のない肌であるが極めて奇麗な姿で、
その上を僅かばかりの水流がなめているこんな景観は今までに見たことはなかった。
いかにも秘渓といった感が深い」との賛辞が与えられています。
ちょっと大仰な表現とも思えますが、それらしきナメの沢床は確認することができました。
当時と様子は変っていることでしょうが、「秘渓」などという絶賛が適当かは
人の感じ方の違いでしょう。

アミバ峠(アミハリ)から、黄色のマーキングテープを点々と付けたので、
興味ある方は「秘渓」を訪ねてみるのも一興かと思います。


植林帯に入れば沢に沿った明確な仕事道が現れる


最後には大規模堰堤を越えて林道に飛び出す

沢に沿って下降を続けると次第に土手には踏み跡のようなものが確認できるようになります。
古い炭焼き釜の石積み跡などを見ると、もう安心で、麓へ脱出することは間違いなく
出来るとの確信を得るのです。
植林帯に入ると、さらに明瞭な仕事道も現れ、
地形図に描かれていない道の出現に安堵を覚えるのです。

道志口峠の杉ノ沢に沿った道は地形図に克明に描かれてありますが、実際にはない道です。
一方、アミバ峠の峠道など地形図には微塵も描かれていませんが、実際にはある道です。
「地図にはあるけどない道、地図にはないけどある道」、峠道もいろいろです。

沢に沿った小道を快調に歩く旅人は、
最後に大規模堰堤を越えて、地図にない林道へと無造作に放り出されます。
なんじゃこの林道はと、「地図にはないはずの道」に驚かされます。

帰宅後、最新の地図情報を国土地理院「ウォッ地図」で確認したところ、
大旅沢中下流域で新造林道の延長が確認されます。
「基幹広域林道菅野盛里線」、これがこの恐るべき林道の名前のようです。
林道は市ノ沢、大旅沢に深く喰い込み、ブドウ岩ノ頭の西方p1073を巻き込むようにして、
さらに延伸工事が進められています。

この林道は、なんと遥か二十曲峠から鹿留線、細野鹿留線、道坂峠とも繋がる予定のようで、
さらには今回歩いた道志口沢を横切り、岩戸ノ峰の北方p1041ヒカゲ舟を絡めて、
新雛鶴トンネルの西方辺りから伸びる林道に接続されるようです。
詳細な路線予定図は、HP『山梨の林道事典』(http://y-rinj.net/index.htm)さんの
「山梨県南東部大マップ」(http://y-rinj.net/m002-nantou_daimap-gairyaku.htm)に紹介されています。

あの道志口沢の明るくのびやかな幕営適地に、
林道開発が迫る前にもう一度訪れてみたいと強く思うところです。
道志口沢にまで林道破壊が及ぶとき、杉ノ沢分岐に祀られていた石祠に浮彫りされた龍が
飛び出して暴れまくるのではとの畏れを抱くのは稚拙な妄想に過ぎないのでしょうか?

林業振興や治山、災害防止の為に林道は必要だと思いますが、(現に登山者も多く利用している)
果たしてこれほどのロングルートとして接続することに必要性があるのか疑問に思います。
この大規模林道工事は間違いなく道志山塊を死に至らしめるおぞましい破壊行為です。
これでは山は崩れ、沢は埋まり、山そのものが死んでしまいます。
林業もなにもあったものではありません。
一説には総工費70億円とも聞きますが、完成後の維持経費など考えると、
金喰い林道になるに違いありません。
設計図に林道計画線を引いた人は、山を庭のように管理できるとでも思っているのでしょうか。


「大旅沢橋」の袂に飛び出す


ひたすらの林道歩きで曾雌へ戻ります

飛び出した林道にかかる橋の名は「大旅沢橋」。
山旅人は大旅沢の名にロマンを感じもしますが、同時に林道の出現に幻滅をも感じます。
林道菅野盛里線を横切り、大旅沢に沿った直線的なコンクリ舗装の道をしばらく下ります。
前方にはパラジマノ頭、エビラ沢ノ頭など秘峰とばかり思っていた山々が望まれます。
しかし、林道開発が進む道志山塊に、もはや秘峰などは存在しないのかも知れません。
大旅沢中下流域は連続する堰堤群に無惨に破壊され、すでに遡行価値を失っています。

市ノ沢の流れを合わせ、林道歩きが蜿蜒と続きます。
どこまでの開発が許せて、どこからが許せぬものなのか。
人間の英知が試されているようにも思えます。
峠道も大規模林道も人間が自然の中につくったものに違いはありません。
しかし、自然への負荷は雲泥の差があります。
果たして山の崩壊を招くような林道と林道とを繋ぐ長距離かつ広域な大規模林道が
必要なのでしょうか?それも大金を投じてまでして。

アミハリ沢に沿ったアミハリ峠への小道も、建設中の大規模広域基幹林道も、
地図に記載はないけれど実際には存在する道です。
しかし、それぞれの道と出合ったときの感情、感慨は大きく異なるものでした。
今後もアミハリ沢に沿った小道は地図に載ることは無いでしょう。
広域基幹林道の方は漸次、建設工事の進捗に合わせ記載されてゆくことでしょう。
それはあたかも山体を深く切り裂く傷痕のように。

当初、この山域への公共交通機関によるアクセスが難しいのは、
タクシー会社の陰謀かもと思いましたが、実のところは、口うるさい登山者なり、自然愛好家なりを、
林道開発の現場に近づけさせない為の林務行政サイドと土建屋連合との
巧みな策略ではないかとさえ思えてきました。
多くの人の目に触れることのない隠れた場所で道志山塊を殺す準備が進められています。

「道を知っていることと、実際に歩くことは違う」

地図を見て思い浮かべていることと、現地を訪れて初めて知ることとのギャップに
驚き、怒り、唖然ともする一日でした。

(峠行2008.03.22)

【補足】

『アルパインガイド37丹沢・道志山塊・三ッ峠』(羽賀正太郎・山と渓谷社・昭和55年版)に
「アミハリ」に関する以下の記述と入山谷の詳細図が掲載されています。

「菜畑山から標高差にして300mほど下ると、小広くなった鞍部につく。
アミハリまたは切通しともいわれる地点で、潅木とスズタケが繁茂して展望はきかない。
かつてはこの地点にカスミ網を張って、小鳥を捕らえたというが、現在では潅木が茂って網は張れそうもない。
入山谷へはこの鞍部から西に下るが、下り始めは右の斜面に松が植林されている小尾根を下る。
急傾斜の密叢帯を足まかせに下っていくと、アミハリ沢の源頭につく。
花崗岩のスラブ状になった小沢で、薄黒い岩盤の上をわずかばかりの水が流れ、ナメになっている。
沢について、歩きやすいところをゆるく下っていくと、左岸から大きく赤土が崩れて、沢筋を埋めている場所に出る。
ここを過ぎてまもなく、道が現われる。これは古い木馬道の跡であるが、沢の中を下るのと違って歩きやすい。
沢沿いの道は左右に渡り返しながらゆるやかに下り続ける。下るにつれて道はよくなってくる。
しばらく下っていくと中ノ沢堰堤を左側からすぎ、すぐ先で、左から流入する一ノ沢右岸沿いの幅広い車道に出る。」