イサバ・ニガイの越えた峠 @

女坂峠(阿難坂・精進峠)

中道往還の峠である女坂峠(阿難坂・精進峠)を訪れる人は多い。
しかし、そのほとんどが精進側から登るか、王岳と三方分山の縦走過程で訪れる人である。
峠の北面、古関側の峠道の様子についてホームページ等に紹介されることは少ない。
寺川からザドウ沢に沿った峠道を歩いてみることにした。
【*1】


明治21年測量昭和4年修正測図
2万5千分の1 「市川大門」 参謀本部


明治21年測量同24年製版
2万分の1 「西湖」 大日本陸地測量部

旧版地形図を見ると、道は忠実に沢筋に沿って詰め上げており、
最後に幾度かのジグザグを経て峠に達しているように見えます。
旧版2万図の道は、山の中の道にしては、道幅も広くやけに立派に見えますが、
過度な期待をしない方が無難でしょう。

現行版地形図では、沢筋にあるべき旧峠道の記載は一切見られず、
いくつもの堰堤が築かれていることがわかります。
幾たびか見舞われた自然災害等により周囲の地形は大きく変わってしまったのでしょうか?

また、現行版地形図では、国道のすぐ東側斜面に破線道が描かれ、それが烏帽子山直下まで
のばされています。これは旧有料道路(現国道358号線)開削以前の道筋なのでしょうか?
旧峠道にしてはザドウ沢の沢筋からは大きく逸脱しているように思えます。
しかし、現行版地形図ではこの破線道に旧峠道であることを匂わせる「女坂」の文字を付与しています。


『山梨県歴史の道調査報告書・中道往還』 挿入図より

上図は、『山梨県歴史の道調査報告書・中道往還』(山梨県教育委員会)の挿入図ですが、
これによると、地形図の「女坂」と表記された破線道から離れた西側の尾根筋に、
自信満々の実線表記で中道往還だとする経路が描かれています。
81は「女石」、82は「阿難坂の里程標」、83は「女坂頂上の句碑」を示す)

これが正規の峠道なのかと鵜呑みにしてしまい、峠道探索の前半はヒドイ目に遭いました。
この経路と、史跡位置は明らかにズレていて、本来は精進湖トンネル東側に表記されるべきものです。
そもそも製作された方も、これは概略図であり、精緻なルート図として参照されることを意図して
作図されたものではないのでしょう。
それなのに、これを信じたばかりに峠道探索の前半は無駄な労力を支払わされてしまったのです。

【阿難坂】

女坂トモ云フ 古関村ヨリ精進村ニ達スル嶺ナリ 上リ一里半下リ一里 険甚ダシ

(『甲斐国志』 巻之二十六 山川部第七)

【中道 阿難坂】

方言 ヲンナヲヲナント云因テ 諸録女坂作・・・・
阪路上下二里半ニシテ精進村 又二里行キテ本栖村ハ駿甲ノ堺ナリ
駿州大宮ヨリ東海道吉原駅ニ達スル 此レヲ中道ト云フハ
本州ヨリ駿州ニ通路三所アリ 一ハ河内路、一ハ若彦路、
二道ノ中間ニアルヲ以テ 名ヲ得タリ

(『甲斐国志』 巻之四十二 古跡部第五)

【阿難坂】

古関ヨリ精進ヘ越ス阪路ナリ 行程二里半、
桟アリ又橋ヲ架スル事十六処、中腹ニ渓水ヲ発ス 数十歩ナラズシテ
一流ノ河トナル 北ニ下リ芦川ニ会ス 蓋シ石花ノ湖ノ漏水ナリ
嶺上ニ砦ヲ築キシ跡アリ
又釈迦ガ岳ト云フハ 僧「然ガ釈迦ノ像ヲ安置セシ処
旧址山上ニアリ 白キ野面石ノ柱礎処々ニ見ユ 山中ニハ曽テ無キ石ナリ
阿難・迦葉ノ二嶺左右ニ夾待セリ 此ノ辺リノ地名多ク仏ヲ以テ名ヅクルハ
蓋シ此ノ岳ニ起レリ 
阪ヲ越ユレバ 山腹ニ樋ヲ掛ケ泉水ヲ取ル 曲折相承ケ
数十町ニシテ精進村ニ到ル

(『甲斐国志』 巻之四十二 古跡部第五)

 『甲斐国志』によると、阿難坂は古関側からの登りが一里半、精進への下りが
 一里の計二里半の行程であるとし、道は峻嶮であるとあります。
 また、方言で女のことを「ヲナン」と発音することから、阿難坂に女坂の字を
 あてることもあるとしています。周辺に仏教にまつわる地名が見られるのは、
 釈迦ヶ岳によるものだとしています。
【阿難坂】

精進峠にかかる中道往還(古くは右左口路、春田路)の北西斜面の急坂
上九一色村大字古関の本郷と精進集落とを結ぶ。
昔、身重な上臈が坂の途中で産気づき出産した母子ともに息絶えてしまった。
村人は供養のために子抱き地蔵を祭って女石と呼んだ。
地元では女坂と呼ぶ。
釈迦ヶ岳の僧「然の故事により、右左口峠にかかる坂を迦葉坂、
精進峠にかかる坂を阿難坂と名付けた。
阿難と女の音が似ているためどちらも用いる。
1968年自衛隊による車道、1973年有料道路の完成で、芦川に注ぐ寺川沿いの
阿難坂の中道往還は廃道同然である

(『山梨百科事典』 山梨日日新聞社 1989年)

【阿難坂】

地元では女坂ともいう。御坂山地のほぼ中央を甲府と静岡県吉原を結ぶ
中道往還(右左口路、古くは春田路)の精進峠(1,210m)北西面の急坂
西八代郡上九一色村の大字古関の本郷と精進の間にある。
標高1,000〜1,210mで、屈曲した道が続く。
はじめ軍用道路として、天正10年徳川家康入国の時この坂を通って
九一色郷から右左口に入った。
のち物資輸送路として生魚や塩の海産物輸送に欠かせぬ道となった。
昭和43年自衛隊による自衛隊路が当坂道沿いに設けられ、
さらに同45〜48年甲府精進湖有料道路がつくられた。
別称は『国志』によれば、昔身重の上臈が坂の途中で産気づいて小児を
出産したが母子ともに息絶えてしまったため、哀れに思った村人が供養の
子抱き石地蔵をたて女坂と呼んだ。坂名もこの女石にちなむという。
また、当坂は峠の西釈迦ヶ岳の僧「然の故事により、
右左口峠にかかる坂を迦葉坂、精進峠にかかるを阿難坂と名づけ、
阿難と女の音が似るためともいう。峠道は寺川に沿って精進峠に至る。
精進、古関、右左口は宿場集落として対向的関係にある。

(『角川日本地名大辞典』 角川書店)

 各種地名辞典によると、阿難坂には母子の悲劇にまつわる伝説が残され、
 それを供養するため安置した石地蔵を女石と呼ぶとあります。
 また、阿難(女)坂は、峠路の全般を指すものではなく、
 峠の「北西斜面の急坂」のみを指すものであることを匂わせています。
 実際現行版の地形図を見ると、「女坂」の文字は峠の北面の特定区間の
 位置に意図的に付されているようにも見えます。
 しかし、それはどちらかと言うと峠の「北西面」ではなく、「北東面」に思われて
 なりません。昔は別に北西面にも道が付けられていたのでしょうか?


永泰寺 釈迦堂


横沢に架かる寺川橋

中道往還・女坂峠の精進側の道は、三方分山へ登った折に歩いたことがあるので、
今回は峠北面の古関側の道を歩きます。
自宅から一般道を3時間運転し続けて、寺川と芦川の合流点である本郷にお昼時に到着です。
永泰寺の満開の桜が遠路はるばるやって来た旅人の逸る気持を落ち着かせてくれます。

堂内には県文化財に指定された京都清涼寺式釈迦像に分類される「木造釈迦如来立像」が
安置されていて、釈迦堂との呼び名もここからきています。
この本尊の釈迦如来像は、往昔、釈迦ヶ岳山頂(1,271m)に安置されていたものが、
大暴風雨の時、亀の上に乗って現在地に飛来したと伝えられています。
実際に亀の上に乗ってきたかはともかくとして、大水が発生した場合には、
大規模な土石流に見舞われたことが、地形上から見て、過去に何度かあったに違いありません。
地形図を見ても、寺川本流及び上流の各支沢には砂防堰堤が多く築かれています。

自然災害や堰堤築造により、峠道が破壊されていないか心配ですが、
かつては駿州と甲州とをつなぐ主要幹線道であったことに一縷の望みをかけることにします。
『山梨県歴史の道調査報告書』に、「・・・・本郷橋の手前に旧関所があったが、昭和41年の
台風26号によって大きく削りとられてしまい、今は全く失われた。
・・・・旧中道は本郷より本郷橋を渡って、寺川右岸に出て女(阿難)坂にかかるが、
台風のために失われた部分もあり、歩行は困難である。」 とあるので、
林道折八古関線を利用して、大ゾウ沢と横沢の出合いである寺川橋まで車で入ります。


寺川グリーンロッジ内の石仏


いくつもの堰堤を高巻いて沢を詰める

歴史街道である中道往還の入口を示す親切な看板などはなく、どこから取り付くのか悩みます。
まずザドウ沢の左岸に道はないだろうかとガードレールの車止めの脇から入りますが、
すぐに堰堤に阻まれ、引き返すことになります。
それではと、冬期閉鎖中の寺川グリーンロッジ内を通らせてもらって、右岸に道はないかと
探り始めますが、やはり確たる道の痕跡は認められません。
横沢を小さな橋で渡って尾根に付けられた階段を上ってみると、そこには古い石仏が一体
佇んでいるのを見るのですが、峠道はどこを探しても見当たらないのです。

この階段を登りつめてもすぐに行き止まりとなるので、グリーンロッジ敷地の柵を乗り越えて、
強引に右岸からいくつも築造されている堰堤を高巻きして沢に沿って進むことにします。
しかし、足場は悪く、人の歩いた形跡は皆無なので慎重さを要します。


沢の左岸上方に石積みを発見


水流から離れ、かなり危険な崖を攀じ登ると
左岸の高い位置に明瞭な道(林道)を発見する

いくつかの堰堤を越えて沢床に降り立ち、左岸上方を見上げると、
脆い斜面の上に、道の基礎を成していると思われる堅固な石積みが目にとまるのです。
あんな高い場所に道があったのかと、流れに沿って実施していた峠道探索を放棄して、
極めて危険な崖を、四つん這いになって攀じ登るのです。

立ち木や木の根に掴まり、ヒヤヒヤしながら登り切った先に、やはり道はありましたが、
あまりに立派な、林道とも言える道の状態に驚きを隠せません。
これがかつての中道往還の道なのでしょうか?
それとも自衛隊の建設によるという車道の残滓なのでしょうか?
水流から離れたこんな斜面上部に道はあるものかと、少々懐疑的にもなります。

確かに、このような立派な道なら戦国武将の進軍にも、海産物の運搬にも、
支障はないと思いますが、これが果たして昔からの峠道なのかという疑念は生じます。
よく考えれば、砂防堰堤築造工事には大型重機も必要でしょうから、それが通るための道も
必要だったと思われます。ザドウ沢は奥地にまで堰堤が築かれていますから、
それら工事のために、後年になって開削された林道であるということも考えられます。


林道終点部の水道施設?


沢を橋で渡る道もあるが・・・

しかし、上流へ向けて歩ける道はこれしか見当たらず、
とりあえずこの林道のような、左岸上部の安定した道を辿り続けることにします。
この安定した幅広の道も小さな水道施設(?)が現われると、沢を橋で対岸へと渡り、
頭の上をゆく現在の国道358号線へ向けて転進しようとします。

これはイカンと、橋を渡ることなく、沢に沿ってそのまま直進することにします。
沢沿いには導水管が数本走り、上流へ向けて緩やかな勾配を維持してのばされています。
この導水管に沿ってしばらくの間は進むことができますが、
突如、崩壊斜面を迎え、それ以上の前進ができなくなってしまうのです。


導水管に沿った踏み跡を拾ってみる


崩れた斜面で退却

崩壊斜面を高巻きしても道はなく、
「チクショウ!やっぱり忠実に沢筋を進むべきだったのか?」と嘆きの一言も吐き出されます。
しかし、流れに沿って進んでいたところで、まだ上流には堰堤があるし、
『山梨県歴史の道調査報告書』の挿入図によれば、そろそろ斜面に取り付き、
高度を稼ぐ頃にも思われます。
高巻きのために登った斜面を下降するのも危険なので、さらに上部を目指して、
急な斜面を登り始めますが、仕事道や峠道とぶつかる気配など全く感じられないのです。

しまった・・・完全にミスったなぁ、と思い始める頃、すでに国道358号線を見下ろす位置にまで達し、
登って来た斜面を下降することも、その傾斜が急過ぎて、容易ではなくなります。
いっそこのまま斜面を登り続けて三方分山の北東尾根を拾ってみようかとも考えましたが、
全くの未知の世界に足を踏み入れる勇気はありません。
『山梨県歴史の道調査報告書』には、ザドウ沢左岸の中腹に中道往還が描かれていますが、
これはまったくのウソで、完全に騙されてしまったようです。


左岸上部林道を退却する
落石ゴロゴロの崩落部分もあるが歩行に支障は無い


折八古関林道屈曲部に飛び出す

峠道を拾うことが目的なのだから、三方分山の北東尾根に挑むという馬鹿なことはせず、
登って来た急斜面を慎重に下り、ザドウ沢左岸上部の立派な道へと舞い戻って、
スタート地点の寺川橋へと帰還することにします。

この立派な道が折八古関林道本線に接続する手前の樹間からは、
寺川グリーンロッジが崖下に見えています。
左岸上部の道は立派だといっても落石の堆積なども見られ、現況では車両の通行は無理です。
この道が旧峠道の一部なのか、それとも単なる堰堤工事車両の進入路だったのか、
それとも旧有料道路(現国道358号線)開通以前の車道だったのか、いまもって不明です。
(最新の2009年版『山と高原地図』を本屋で立ち読みしたら、この左岸上部の立派な道は
あたかも車両通行が可能であるかのごとく表記されており、さらにザドウ沢を中流域で横断し、
国道358号線と接続されていました【*2】

折八古関林道と接続する部分に、中道往還入口を示す気の利いた看板などはやはりありません。
ちょうど合流した地点は、釈迦ヶ岳とトリノ山の鞍部であるヌケド峠(タルミ)の入口で、
大ゾウ沢右岸に沿って林道がのばされています。
地形図の表記は「大ゾウ沢」とありますが、そこに架かる橋の名は「大鳥沢橋」で、
『日本山岳案内3』では「ニシサワ川」とあります。

これまでの結果、ザドウ沢下流域では峠道の痕跡は見られず、
ザドウ沢左岸上部に林道のような立派な道が存在していることだけがわかりました。
その道が橋で右岸へ渡り沢から離脱した後に、沢の上流へと続く明瞭な道は確認できず、
ザドウ沢西側の山腹への取り付きも、徒労に終わったのです。
寺川グリーンロッジ前に止めた車に戻ったのが14時ですから、まだ探索を打ち切るのは早過ぎます。
精進湖トンネルの古関側入口に車を移動して探索を続けてみることにします。


精進湖トンネルの脇から登る


亡くなった母子を悼むという女石

前半は無駄足を踏んでしまったので、後半はわずかでも構わないから峠道を踏みたいと思います。
精進湖トンネルの古関側入口に車を移動して再び峠道を拾います。

なんと道はすぐに認められ、スズランテープがその道筋に点々と付けられています。
本郷や寺川沿いまで下らずに、最初からここをスタート地点にすれば良かったと後悔します。
峠道らしき踏み跡はトンネル上を通過して、ザドウ沢の源頭部の堰堤をかすめて進み、
地形図の「女坂」と書かれた破線道に接続しています。

地形図に描かれている国道に並行するようにして烏帽子山直下付近まで続いている
破線道の所在は不明ですが、トンネルの脇からのびるハッキリとした踏み跡を進むと、
「女坂」と書かれた破線道には無事に接続するのです。


歩き始めは良い道だけど・・・


大きな古木もあったりして・・・

トンネル脇からの踏み跡は、後からつけられたものなのか、それとも本来の峠道であるのか、
旧有料道路である現在の国道358号線が開通する以前の様子を全く知りませんから、
明言することはできません。しかし、直に「女石」と呼ばれる石造物が現われ、
この道が正真正銘、女坂峠の峠道であることを教えてくれます。

『山梨県歴史の道調査報告書』によると、「女石」とは、
「昔妊娠した婦人が峠越えの途中出産したが、母子共に死亡したところと言い伝えられており
村人が供養のために建てた石仏が残る」としています。
『山梨百科事典』にも、
「昔、身重な上臈が坂の途中で産気づき出産した母子ともに息絶えてしまった。
村人は供養のために子抱き地蔵を祭って女石と呼んだ」とあります。

『山梨県歴史の道調査報告書』の挿入写真と照らし合わせて、
どうやらこの頭を欠いた石像が、女石と呼ばれる子抱き地蔵に間違いないようです。


道が削げ落ちている部分もあるので要注意


落ち葉に埋もれる千手観音(?)

歩き始めの道は、沢沿いでやや荒れてはいるものの、歩行に支障はなく、
自然林の中、落ち葉の積もった道で快調に辿り始めることができます。
しかし、序盤から中盤にかけては道の崩壊が見られ、かなり危うい歩行を強いられることになります。

スズランテープが随所に付けられているので進むべき道を見失うことはありませんが、
荒れた道の状態からして、あと何年持つか心配されます。
大きな台風にでも直撃されれば、道の崩壊に一層拍車がかかってしまうことでしょう。
登山者が歩く機会も少ないですから、自治体による整備もなされていないようです。
同じ女坂峠に登る道にしては、南面の精進側の道の状態とは雲泥の差があります。
歴史遺産である中道往還が、崩壊するままに放置されるのは残念なことです。


中盤からは再び安定した道へ


峠道のオベリスク

崩壊地帯をクリアすれば、中盤からは小刻みにジグザグを繰り返す安定した道となります。
葉を落とした明るい自然林の中を上り詰め、前方には顕著な岩頭が姿を現します。

『山梨県歴史の道調査報告書』によると、
「女石」の次には「阿難坂の里程標」があるはずなのですが、
落ち葉に埋まってしまったのか、とうとう発見することはできませんでした。
ホントにこんな淋しく、難儀な道を通り、魚や塩の海産物が駿河から甲府へ送られていたのかと、
疑いたくもなりますが、この頼りない道が駿河と甲斐とを結ぶ主要道であり、最短路だったのです。

【中道往還】

甲府から小河原をへて、右左口峠の迦葉坂を越え、上九一色村の古関から阿難坂(女坂)を越し、
精進―本栖―大宮(富士宮)を経由して、東海道の吉原宿にいたる路線である。
江戸時代、甲府と駿河を結ぶ経済ルートとしては、最短距離であった。
主として駿河でとれた魚を運ぶ路線で、吉原には問屋が九軒あったという。
生魚は吉原宿を馬子が馬の背に魚をつけて、午後3時頃出発、途中の道中はほとんど夜の道で、
迦葉坂を越して甲府魚町へ朝8時頃には着いたという。
小荷駄馬は一人一頭が当たり前だが、中には二頭、あるいは三頭追いをする馬子もあったという。
女坂は大部分夜道で、本栖で桧の松明を買って、それを振り振り峠道を上下したという。
下芦川の右左口峠の手前の付近は、今も石畳が残り、荷置場の石や、駒ン場などといわれる
地名もある。下芦川から、小荷駄は市川大門にくだる馬もあった。
これは峡南の玄関口市川で需要があったからで、中道往還の性格が単路線でなかった様子を
示している。鮮魚を運ぶ馬方をイサバ(磯場の意か)と呼んでおり、
吉原から昼夜兼行で運ぶ荷を「日付荷」と呼んでいた。

(『河内地方における歴史・民俗と自然環境の関連調査』 山梨県 昭和55年)

東西往還ニ比シテ四、五里短ク、而モ富士山麓ヲ縦断シテ女坂、右左口坂ノ二嶺ヲ越ヘレバ
直ニ甲府デアル。割合ニ河川モ少ナク水害ノ患モナク、常ニ富士ノ景色ヲ仰ギツツ、
早キ魚荷ハ其日ノ内ニ、甲府市場ニ届クノデ一番ノ捷路デアル。(略)

中央線・身延線ガ未開通時代ニ甲州人ノ食フ生魚ノ輸入ハ此ノ道ニ便ル外ナシトスレバ、
旧幕時代ヨリ明治ニカケテ如何ニ重要ナリシゾ。

鮮魚ヲ運ブ馬ヲ「イサバ」ト言フ。三十余貫ノ魚ヲ馬背ニ負ハセ
午後四時頃吉原ヲ立チ、人穴、根原付近デ暗クナリ、右左口峠付近デ天明ヲ迎ヘテ
朝七時頃甲府ノ問屋ヘ着荷ス、是ヲ日付荷ト言フテ急送スルノデアル。
即チ今朝駿河湾デ捕レタ魚ヲ翌朝七時迄ニ甲府問屋ニ着ケルノデアル

馬子ハ中道往還ニ約八十人、馬百疋余アリテ一人エテ二匹三匹ノ馬ヲ引ク馬子モアリ、
其外大量ノ荷物ノ時ハ馬匹ノミデハ間ニ合ハズ人ヲ頼ミ負子ニテ次ノ問屋ニ運ブ事モ度々アリ、
此ノ時ハ男女一斉ニ、マグロ一本約十貫目位宛負テ女坂ヤ右左口坂ヲ負越シタルモノデアル
皆ワラジバキニテ顔ヲ赤ク汗ヲ流シツツ運ンダノデアル

(『魚道の見聞記』 「駿州中道往還の由来」 土橋驚堂著)


如意輪観音も峠の行人を見守ります


ジグザグをきってカラマツ林へ

鮮魚を運んだ「イサバ」の衆は、暗い峠路を松明を灯して越えたというから俄かには信じ難いです。
きっと往時は、崩壊箇所もなく、よく普請された道であったのでしょう。

海のない山梨県の名産に「煮貝(煮鮑)」があります。

 「江戸時代の末期、駿河国沼津港の魚問屋・小松屋が伊豆七島産の「鮑(あわび)」を
 上質の醤油で加工、樽詰めにして山国の甲斐国へと送った。
 山や坂の長い道のりを馬や人の背に揺られ、甲府に着く頃には熟成して食べ頃になった
 これを甲府勤番の侍たちが「江戸にない味」と賞味したのが「煮貝」の初めといわれている。
 長い道中の防腐剤としてまぶした塩や漬けた醤油によって偶然に熟成して
 「煮貝」が生まれたようだ。」
                              (『今昔、甲斐路を行く』 斎藤芳弘著)        

 「伊豆半島の魚介類は、甲州の人々にとって貴重な海の幸であった。
 当時は冷凍の技術も無いので、鮮魚などは手に入らなかっただろうと思ったら大きな間違い。
 20里、80kmとはいえ、早馬を使えば、前日の夜に吉原を発った荷物は、翌朝には
 甲府に届いていたのである。・・・しかし、そのような早馬の物は高価だったのだろう、
 多くは塩漬けや乾物が多かった。それにしても、一昼夜あれば品物は届いた。
 ここからは想像だが、ある日、駿河の漁師が甲府に荷物を運ぶときに、
 醤油樽に生きのいい鮑を放り込んだに違いない。これが馬の背に揺られて駿河から
 本栖湖、釈迦坂を越え、右左口を通って運ばれた。馬の体温は高い。
 甲府に着くころは、醤油が程よく染みて、非常にうまい煮鮑になっていたのだろう。
 このような偶然も手伝って、煮鮑は甲府の名産となった。
 中道往還がもっと長くても短くても、うまい煮鮑はできなかったに違いない。」

                            (『相鉄瓦版第115号』「煮鮑が通った道、中道往還」)

程よい距離の中道往還と、阿難坂と迦葉坂の上り下りの攪拌、
そして馬や人の体温が美味しい「煮貝」を作り出したのでしょう。
「美味しい」といっても、残念ながらこれを今まで食べたことはありません。
ネットで調べてみたら、なんと高価な代物なのでしょうか!
どうやら一生、口にできそうもありません。(>_<)

駿河の海産物と塩の越えた中道往還の峠ですが、後年、富士川の水運が整備されると、
腐らない塩は日数がかかっても大量輸送が利く舟運が利用されるようになり、
中道往還の「塩の道」としての役目は軽くなりました。
塩の輸送には岩淵から鰍沢まで4日もかかる富士川水運の戻り舟でもよかったのですが、
鮮度が命の魚介類は、富士山麓の高冷地で距離も短い中道往還が依然として利用されました。
しかし、その後の中央線開通(明治36年)・身延線の開通(昭和3年)で、「魚の道」としての利用は激減し、
道路網の発達と相俟って峠を通行する人の姿も次第に消えていったのです。
ここに生活経済道路としての中道往還は役目を終えたことになるのです。


第一カモシカと遭遇


峠道上部から古関側を望む

上部のカラマツ林帯に入ると、道の状態はさらに安定していきます。
カラマツ林の間から、こちらの様子を窺がうカモシカ君と目が合いました。
好奇心旺盛なカモシカは、奇声を発したり、変なポーズを取っても逃げることなく、
ジッとこちらを見ています。単独行動のカモシカは他者に対して強い興味関心を抱くようです。
どうやらカモシカ君が道普請をしてくれているらしく、道に被った笹などを刈り食べているようです。

カモシカ君頼りではなく、なんとか歴史ある峠道の保存ができないものでしょうか?
「歴史遺産・中道往還」を前面に打ち出して、観光客を呼び込むことはできないものでしょうか?
吉原甲府間の20里・80kmを魚を背負って走り抜ける「イサバマラソンレース」なんてダメかなぁ・・・
歴史街道を舞台にした「イサバトライアスロン」なんて集客効果ありそうなんだけどなぁ。
人を歩かせることが、しぜんと道の維持につながると思うのですが安易でしょうか。

カラマツの隙間からは眼下に現在の幹線道である国道358号線のクネクネが見えています。
そして、芦川の谷が遠くに望まれています。
とてもここから重荷を背負い、芦川の谷へと下り、そこから引き続いて芦川北稜を横断する
迦葉坂の峠を越えようなどという発想も気力も起きません。
しかし、昔の人は富士宮からのダラダラした富士山麓の坂を登り、険しい夜道の峠を二つ越え、
「今朝駿河湾デ捕レタ魚ヲ翌朝七時迄ニ甲府問屋ニ着ケ」ていたのですから、
強靭としか言いようがありません。
今で言うなら「宅急便が峠を越えていた」ということになるのでしょう。

昔の、山岳ガイド本には、この坂の苦しさについて記しているものもあります。

  「阿難坂は「女坂」とも言われ、右左口峠に勝るとも劣らない急坂で、行けども行けども
  行手に迫った谷間は愈々深くなるばかりである。
  頂上がもう近いと思われる頃から雑木の梢が陽をさえぎって、涼しいというものの、
  登行の苦は右左口の比ではなく、全身の毛穴からすべて汗が流れ出るかと
  思われるばかりである。
  樹間を透かして下方を見ると渓間の登山道が現れて、登行の跡が歴然として
  よくもまあ斯く登り来しもの哉と、誰人も感嘆久しうするにちがいない。」
                            (『甲斐の山々』 島田武著 朋文堂 昭和17年)


上部は明るいカラマツ林


女坂峠(阿難坂・精進峠)

西日の射しこむカラマツ林を進むと、明るい峠に放り出されます。
「阿難坂(女坂峠)標高1210m」の標識があり、
「五湖山3000m」、「三方分山1500m」、「精進湖3000m」と書かれた登山標識が立っています。
「上九一色村古関」を示す標識も取り付けられていますが、
峠から精進湖トンネル脇の登り口まで一切の標識はありません。

夏日のような陽気で、スギ・ヒノキの花粉が一斉に放出されたのか鼻水が止まりません。
乾燥した空気は、唇をボロボロにし、喉の奥に痛みを生じさせます。
峠行前半の徒労が祟ったのか、疲労感に襲われます。
「女坂」というと、一般には足に優しい緩やかな坂をイメージしますが、
現実の女性が様々であるように、「女坂」にもいろんな形態があるようです。
ここ阿難の「女」は、結構キツイ「女」のように思われます。

俳人・飯田蛇笏には、嶽麓と古関とをつなぐ嶮路・阿難坂を題材とした句があります。【*3】

  秋の蝉阿難(おんな)ゆくゆく雲がくる      ― 句集『白嶽』 ―
  阿難越え春行く富士を仰ぎけり               〃
  阿難坂囀りの吹きゆられけり                〃
  彼岸婆々阿難(おんな)の嶮を越えゆけり    ― 句集『山響集』 ―

句を解釈する力はないので、「阿難坂囀りの吹きゆられけり」の句を参考書に頼ると、

  「阿難坂の峠に立つと、すぐ眼の前の手の届きそうなところに、ぬっと富士山の全容がある。
  胸のすくような大景である。蛇笏はひと息いれながら、
  その峠の豊富な春風に吹きゆられ≠トいる囀りに耳を澄ましている。
  その囀りは深山にすむ雲雀であったろうか」
                             (『蛇笏百景』 小林富司夫著 木耳社 昭和56年)

という、どことなくのんびりした情景を想起させる解釈になるようです。
峠の坂道は苦しいけれど、蛇笏の句はどこか長閑で、鷹揚で、その辛さを感じさせる要素はありません。


峠の石尊仏


峠の石祠

峠には頭を欠いた三体の石仏とともに、句碑が置かれています。
古関地区の先人、棋楽(土橋勘左衛門)氏が昭和初期に建立したとされるもので、
「生魚の二十里走るほととぎす」と「湖のこし霧かかる山杜鳥」の二句が刻まれています。
「生魚の二十里走る・・・」は、この道が魚の越えた道であったことを今に伝えています。 

以前訪れたとき、三体の石仏には、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃん、と名づけましたが、
この度は、ノッチ、アーチャン、カシユカ、と名づけることにして、
ひとりのさびしさを紛らわすことにします。
西日の射す午後の峠に人の姿はなく、雲雀の囀りも、ホトトギスの囀りもありません。
峠の北側斜面に別ルートはないかと覗いてみますが、大規模な崩壊斜面があるばかりです。
この付近はもともと地質的に脆弱なのでしょうか?沢沿いの堰堤の多さにも頷けます。


精進側の道は極めて良好


第二カモシカと遭遇して峠を下る

明るい精進側の峠道に足を踏み出したくもなりますが、
車を乗り捨てたトンネル脇に戻るために、いましがた登ったばかりの道を下ります。
ちなみに、精進湖トンネルの内部は、以前自動車専用有料道路であったこともあり、
歩行にはまったく適していません。
精進と古関の間を足で移動したい者は峠を越えろということなのでしょうか?
それにしては古関側の峠道はやや荒れ気味です。
そもそも、両地域間を足で歩くことを想定して、行政は道づくりなどしてはいないのかもしれません。
海産物はトラックが運び、観光客はマイカーを走らせる。
峠を挟んだ隣りの村に行くにも快適なトンネルを利用して簡単に移動できる時代です。
峠の頂きで鳥の囀りに耳を傾ける者など、もはやいないのかもしれません・・・・
足が道を踏み締める感覚を忘れてしまうのと同じように、
道も人の足裏の感触を忘れはしまいかと、なんとなくさびしい感じがするのです。
帰り際、二頭目のカモシカが現われ、たまさかの峠道の訪問者を静かに見送ってくれました。

帰宅後、喉の痛みと発熱を催し、すっかり季節外れの風邪を引いたようです。
花粉症も併発したのか鼻水が止まりません。
峠行の前半に、乾燥していたにもかかわらず喉の渇きに耐え、
峠道を探し求めて、道無き斜面をがむしゃらに登ったのがいけなかったのでしょう。
ひょっとすると、女坂で息絶えたという母子の祟りではないかとも思うのですが、
そのような女性と関係を持った覚えは前世の記憶を手繰り寄せてもないので思い過ごしなのでしょう。

(峠行2009.04.09)

【*1】 HP『Pass-Hunting!「峠」の世界』に自転車で峠から古関側の精進湖トンネル入口脇へ下った記録がある。
     (http://www.asahi-net.or.jp/~VD8A-MKM/guide/another/fujitan/onnasaka.htm)
     「廃道寸前のひどい道」との記述がある。

     『日本山岳案内3』(鉄道省山岳部編・昭和15年)には、「寺川」は「テラン川」、「ザドウ沢」は「カラサワ川」とある。
     「ザドウ沢」は「座頭沢」のことだろうか?盲目の旅人が峠越えの際に、沢に転落し命を落としたという話は、
     各地の峠にみられる。
     『甲州の伝説』(土橋里木著・角川書店)には、「座頭沢」であるとし、
     「昔、一人の盲人が通りかかり誤って踏み外し、この谷川に落ちて死んだ」とある。

【*2】 『山と高原地図』(昭文社)によると、ザドウ沢左岸上部の道は車両通行可能であるかのごとく描かれ、
     国道358号線(精進ブルーライン)に接続されている。

     

【*3】 飯田蛇笏には「富士と峠」という文章があり、その中で阿難坂の様子や心象が語られています。

 「阿難峠というのはこの地方の人たちには普通オンナザカと云われている。
 この峻険さに於いて大石峠をしのぎ、みちのりに於いても劣るものではないようである。
 山麓から中腹へかけてうねりつづいた峠路に特記すべきほどのものもない。
 併しその特記に値打しないとする尋常普通の山のたたずまい乃至峠路のおもむきに、
 却って味えば味い得るものが存すると云えば然うも云い得るであろう。
 次の拙作のごときは即ちその消息をつたえるものかとも思うのである。

   弥生照る 陽は鶸色に 大嶺越え     蛇笏
   春嶺遠き 奥のけむりを 侘びにけり     同
 又、
   阿難坂 囀りの 吹きゆられけり       蛇笏
   囀りす 木原の靄に 杣火絶ゆ        同
                                      ― 句集『白嶽』 ―

 山吹が色褪せてちりかかっているのを見かける麓路から、登るに従って路が急になり、
 はるかに炭窯の煙がみとめられるあたりに辿りつくと、巨巌が坂路にせまり重畳としているところ、
 涓滴の音が幽かに聴覚をとらえる。
 斯様の個所に水音でもあるまいと、ひとたびは誰人も疑うであろう。
 もちろん筆者も亦それを疑った一人であった。
 近寄ってみると、清冽たぐい稀なる岩清水がちろちろと碧巌をつたわって落ちている。
 隻手をさしのべて掬すれば、流汗一時にひき去り冷たさ五臓六腑に透るのである。
 其処で一と息ついて登るとやがて絶頂である。

 さて、阿難峠の頂上でふり仰いだ大富岳であるが、それが又素晴らしい大景である。
 眼下に湖面の一部分を光らせている精進湖、その庭池のような小さな湖の畔から打ち続いた大樹海。
 人間が為す業とも思われない真唯中に寝泊りして炭焼きをする
 人々の炭窯のけむりである。富士のありかは何方ぞと頭をめぐらしてふり仰げば、
 蜿蜒限りない裾野の輪廓からたどって天空を蔽う富岳全貌の巨大さである。
 竜雲がその八合目あたりにあらわれ、飄々として天風に乗じ、午後二時過ぎの赫っとした
 日輪にもろ爪をかけて掴もうとする気配が感じられる。」  (『飯田蛇笏集成6・随想』「富士周辺」 角川書店 1995年)

 ◇ 蛇笏には他にも郷土を詠んだ歌が多くあります。
   「春月にふところひろき名所山」、「やまなみに宿雪かびろく白根嶽」、など
   芦川峠を詠んだものに、「峠路の句碑をうづむる霜柱」がある。
   

【参考文献】

『甲斐国志』 雄山閣 昭和57年
『新編・飯田蛇笏全句集』 角川書店 昭和60年
『蛇笏百景』 小林富司夫著 木耳社 昭和56年
『山梨県歴史の道調査報告書第三集 中道往還』 山梨県教育委員会 昭和59年
『中道往還のむかしといま』 山梨県企業局 昭和49年
『今昔、甲斐路を行く』 斎藤芳弘著 叢文社
『Web 相鉄瓦版第115号』 「煮鮑が通った道・中道往還」
「消えゆく中道往還」 橘田彰二著 
「魚道の見聞記」 土橋驚堂著
「富士と峠」 飯田蛇笏著
『山梨県の地名』 平凡社 1996年

● イサバ・ニガイの越えた峠A(右左口峠<迦葉坂>・七覚峠・関原峠)のレポートを見る。