イサバ・ニガイの越えた峠 @
女坂峠(阿難坂・精進峠)
中道往還の峠である女坂峠(阿難坂・精進峠)を訪れる人は多い。
しかし、そのほとんどが精進側から登るか、王岳と三方分山の縦走過程で訪れる人である。
峠の北面、古関側の峠道の様子についてホームページ等に紹介されることは少ない。
寺川からザドウ沢に沿った峠道を歩いてみることにした。【*1】
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| 旧版地形図を見ると、道は忠実に沢筋に沿って詰め上げており、 最後に幾度かのジグザグを経て峠に達しているように見えます。 旧版2万図の道は、山の中の道にしては、道幅も広くやけに立派に見えますが、 過度な期待をしない方が無難でしょう。 現行版地形図では、沢筋にあるべき旧峠道の記載は一切見られず、 また、現行版地形図では、国道のすぐ東側斜面に破線道が描かれ、それが烏帽子山直下まで |
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| 上図は、『山梨県歴史の道調査報告書・中道往還』(山梨県教育委員会)の挿入図ですが、 これによると、地形図の「女坂」と表記された破線道から離れた西側の尾根筋に、 自信満々の実線表記で中道往還だとする経路が描かれています。 (●81は「女石」、●82は「阿難坂の里程標」、●83は「女坂頂上の句碑」を示す) これが正規の峠道なのかと鵜呑みにしてしまい、峠道探索の前半はヒドイ目に遭いました。 |
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| 【阿難坂】 女坂トモ云フ 古関村ヨリ精進村ニ達スル嶺ナリ 上リ一里半下リ一里 険甚ダシ (『甲斐国志』 巻之二十六 山川部第七) |
| 【中道 阿難坂】 方言 ヲンナヲヲナント云因テ 諸録女坂作・・・・ (『甲斐国志』 巻之四十二 古跡部第五) |
| 【阿難坂】 古関ヨリ精進ヘ越ス阪路ナリ 行程二里半、 (『甲斐国志』 巻之四十二 古跡部第五) |
| 『甲斐国志』によると、阿難坂は古関側からの登りが一里半、精進への下りが 一里の計二里半の行程であるとし、道は峻嶮であるとあります。 また、方言で女のことを「ヲナン」と発音することから、阿難坂に女坂の字を あてることもあるとしています。周辺に仏教にまつわる地名が見られるのは、 釈迦ヶ岳によるものだとしています。 |
| 【阿難坂】 精進峠にかかる中道往還(古くは右左口路、春田路)の北西斜面の急坂、 (『山梨百科事典』 山梨日日新聞社 1989年) |
| 【阿難坂】 地元では女坂ともいう。御坂山地のほぼ中央を甲府と静岡県吉原を結ぶ (『角川日本地名大辞典』 角川書店) |
| 各種地名辞典によると、阿難坂には母子の悲劇にまつわる伝説が残され、 それを供養するため安置した石地蔵を女石と呼ぶとあります。 また、阿難(女)坂は、峠路の全般を指すものではなく、 峠の「北西斜面の急坂」のみを指すものであることを匂わせています。 実際現行版の地形図を見ると、「女坂」の文字は峠の北面の特定区間の 位置に意図的に付されているようにも見えます。 しかし、それはどちらかと言うと峠の「北西面」ではなく、「北東面」に思われて なりません。昔は別に北西面にも道が付けられていたのでしょうか? |
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| 中道往還・女坂峠の精進側の道は、三方分山へ登った折に歩いたことがあるので、 今回は峠北面の古関側の道を歩きます。 自宅から一般道を3時間運転し続けて、寺川と芦川の合流点である本郷にお昼時に到着です。 永泰寺の満開の桜が遠路はるばるやって来た旅人の逸る気持を落ち着かせてくれます。 堂内には県文化財に指定された京都清涼寺式釈迦像に分類される「木造釈迦如来立像」が 自然災害や堰堤築造により、峠道が破壊されていないか心配ですが、 |
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| 歴史街道である中道往還の入口を示す親切な看板などはなく、どこから取り付くのか悩みます。 まずザドウ沢の左岸に道はないだろうかとガードレールの車止めの脇から入りますが、 すぐに堰堤に阻まれ、引き返すことになります。 それではと、冬期閉鎖中の寺川グリーンロッジ内を通らせてもらって、右岸に道はないかと 探り始めますが、やはり確たる道の痕跡は認められません。 横沢を小さな橋で渡って尾根に付けられた階段を上ってみると、そこには古い石仏が一体 佇んでいるのを見るのですが、峠道はどこを探しても見当たらないのです。 この階段を登りつめてもすぐに行き止まりとなるので、グリーンロッジ敷地の柵を乗り越えて、 |
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| いくつかの堰堤を越えて沢床に降り立ち、左岸上方を見上げると、 脆い斜面の上に、道の基礎を成していると思われる堅固な石積みが目にとまるのです。 あんな高い場所に道があったのかと、流れに沿って実施していた峠道探索を放棄して、 極めて危険な崖を、四つん這いになって攀じ登るのです。 立ち木や木の根に掴まり、ヒヤヒヤしながら登り切った先に、やはり道はありましたが、 確かに、このような立派な道なら戦国武将の進軍にも、海産物の運搬にも、 |
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| しかし、上流へ向けて歩ける道はこれしか見当たらず、 とりあえずこの林道のような、左岸上部の安定した道を辿り続けることにします。 この安定した幅広の道も小さな水道施設(?)が現われると、沢を橋で対岸へと渡り、 頭の上をゆく現在の国道358号線へ向けて転進しようとします。 これはイカンと、橋を渡ることなく、沢に沿ってそのまま直進することにします。 |
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| 崩壊斜面を高巻きしても道はなく、 「チクショウ!やっぱり忠実に沢筋を進むべきだったのか?」と嘆きの一言も吐き出されます。 しかし、流れに沿って進んでいたところで、まだ上流には堰堤があるし、 『山梨県歴史の道調査報告書』の挿入図によれば、そろそろ斜面に取り付き、 高度を稼ぐ頃にも思われます。 高巻きのために登った斜面を下降するのも危険なので、さらに上部を目指して、 急な斜面を登り始めますが、仕事道や峠道とぶつかる気配など全く感じられないのです。 しまった・・・完全にミスったなぁ、と思い始める頃、すでに国道358号線を見下ろす位置にまで達し、 |
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| 峠道を拾うことが目的なのだから、三方分山の北東尾根に挑むという馬鹿なことはせず、 登って来た急斜面を慎重に下り、ザドウ沢左岸上部の立派な道へと舞い戻って、 スタート地点の寺川橋へと帰還することにします。 この立派な道が折八古関林道本線に接続する手前の樹間からは、 折八古関林道と接続する部分に、中道往還入口を示す気の利いた看板などはやはりありません。 これまでの結果、ザドウ沢下流域では峠道の痕跡は見られず、 |
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| 前半は無駄足を踏んでしまったので、後半はわずかでも構わないから峠道を踏みたいと思います。 精進湖トンネルの古関側入口に車を移動して再び峠道を拾います。 なんと道はすぐに認められ、スズランテープがその道筋に点々と付けられています。 地形図に描かれている国道に並行するようにして烏帽子山直下付近まで続いている |
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| トンネル脇からの踏み跡は、後からつけられたものなのか、それとも本来の峠道であるのか、 旧有料道路である現在の国道358号線が開通する以前の様子を全く知りませんから、 明言することはできません。しかし、直に「女石」と呼ばれる石造物が現われ、 この道が正真正銘、女坂峠の峠道であることを教えてくれます。 『山梨県歴史の道調査報告書』によると、「女石」とは、 『山梨県歴史の道調査報告書』の挿入写真と照らし合わせて、 |
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| 歩き始めの道は、沢沿いでやや荒れてはいるものの、歩行に支障はなく、 自然林の中、落ち葉の積もった道で快調に辿り始めることができます。 しかし、序盤から中盤にかけては道の崩壊が見られ、かなり危うい歩行を強いられることになります。 スズランテープが随所に付けられているので進むべき道を見失うことはありませんが、 |
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| 崩壊地帯をクリアすれば、中盤からは小刻みにジグザグを繰り返す安定した道となります。 葉を落とした明るい自然林の中を上り詰め、前方には顕著な岩頭が姿を現します。 『山梨県歴史の道調査報告書』によると、 |
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【中道往還】 甲府から小河原をへて、右左口峠の迦葉坂を越え、上九一色村の古関から阿難坂(女坂)を越し、 (『河内地方における歴史・民俗と自然環境の関連調査』 山梨県 昭和55年) |
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| 東西往還ニ比シテ四、五里短ク、而モ富士山麓ヲ縦断シテ女坂、右左口坂ノ二嶺ヲ越ヘレバ 直ニ甲府デアル。割合ニ河川モ少ナク水害ノ患モナク、常ニ富士ノ景色ヲ仰ギツツ、 早キ魚荷ハ其日ノ内ニ、甲府市場ニ届クノデ一番ノ捷路デアル。(略) 中央線・身延線ガ未開通時代ニ甲州人ノ食フ生魚ノ輸入ハ此ノ道ニ便ル外ナシトスレバ、 鮮魚ヲ運ブ馬ヲ「イサバ」ト言フ。三十余貫ノ魚ヲ馬背ニ負ハセ 馬子ハ中道往還ニ約八十人、馬百疋余アリテ一人エテ二匹三匹ノ馬ヲ引ク馬子モアリ、 (『魚道の見聞記』 「駿州中道往還の由来」 土橋驚堂著) |
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| 鮮魚を運んだ「イサバ」の衆は、暗い峠路を松明を灯して越えたというから俄かには信じ難いです。 きっと往時は、崩壊箇所もなく、よく普請された道であったのでしょう。 海のない山梨県の名産に「煮貝(煮鮑)」があります。 「江戸時代の末期、駿河国沼津港の魚問屋・小松屋が伊豆七島産の「鮑(あわび)」を 「伊豆半島の魚介類は、甲州の人々にとって貴重な海の幸であった。 (『相鉄瓦版第115号』「煮鮑が通った道、中道往還」) 程よい距離の中道往還と、阿難坂と迦葉坂の上り下りの攪拌、 駿河の海産物と塩の越えた中道往還の峠ですが、後年、富士川の水運が整備されると、 |
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| 上部のカラマツ林帯に入ると、道の状態はさらに安定していきます。 カラマツ林の間から、こちらの様子を窺がうカモシカ君と目が合いました。 好奇心旺盛なカモシカは、奇声を発したり、変なポーズを取っても逃げることなく、 ジッとこちらを見ています。単独行動のカモシカは他者に対して強い興味関心を抱くようです。 どうやらカモシカ君が道普請をしてくれているらしく、道に被った笹などを刈り食べているようです。 カモシカ君頼りではなく、なんとか歴史ある峠道の保存ができないものでしょうか? カラマツの隙間からは眼下に現在の幹線道である国道358号線のクネクネが見えています。 昔の、山岳ガイド本には、この坂の苦しさについて記しているものもあります。 「阿難坂は「女坂」とも言われ、右左口峠に勝るとも劣らない急坂で、行けども行けども |
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| 西日の射しこむカラマツ林を進むと、明るい峠に放り出されます。 「阿難坂(女坂峠)標高1210m」の標識があり、 「五湖山3000m」、「三方分山1500m」、「精進湖3000m」と書かれた登山標識が立っています。 「上九一色村古関」を示す標識も取り付けられていますが、 峠から精進湖トンネル脇の登り口まで一切の標識はありません。 夏日のような陽気で、スギ・ヒノキの花粉が一斉に放出されたのか鼻水が止まりません。 俳人・飯田蛇笏には、嶽麓と古関とをつなぐ嶮路・阿難坂を題材とした句があります。【*3】 秋の蝉阿難(おんな)ゆくゆく雲がくる ― 句集『白嶽』 ― 句を解釈する力はないので、「阿難坂囀りの吹きゆられけり」の句を参考書に頼ると、 「阿難坂の峠に立つと、すぐ眼の前の手の届きそうなところに、ぬっと富士山の全容がある。 という、どことなくのんびりした情景を想起させる解釈になるようです。 |
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| 峠には頭を欠いた三体の石仏とともに、句碑が置かれています。 古関地区の先人、棋楽(土橋勘左衛門)氏が昭和初期に建立したとされるもので、 「生魚の二十里走るほととぎす」と「湖のこし霧かかる山杜鳥」の二句が刻まれています。 「生魚の二十里走る・・・」は、この道が魚の越えた道であったことを今に伝えています。 以前訪れたとき、三体の石仏には、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃん、と名づけましたが、 |
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| 明るい精進側の峠道に足を踏み出したくもなりますが、 車を乗り捨てたトンネル脇に戻るために、いましがた登ったばかりの道を下ります。 ちなみに、精進湖トンネルの内部は、以前自動車専用有料道路であったこともあり、 歩行にはまったく適していません。 精進と古関の間を足で移動したい者は峠を越えろということなのでしょうか? それにしては古関側の峠道はやや荒れ気味です。 そもそも、両地域間を足で歩くことを想定して、行政は道づくりなどしてはいないのかもしれません。 海産物はトラックが運び、観光客はマイカーを走らせる。 峠を挟んだ隣りの村に行くにも快適なトンネルを利用して簡単に移動できる時代です。 峠の頂きで鳥の囀りに耳を傾ける者など、もはやいないのかもしれません・・・・ 足が道を踏み締める感覚を忘れてしまうのと同じように、 道も人の足裏の感触を忘れはしまいかと、なんとなくさびしい感じがするのです。 帰り際、二頭目のカモシカが現われ、たまさかの峠道の訪問者を静かに見送ってくれました。 帰宅後、喉の痛みと発熱を催し、すっかり季節外れの風邪を引いたようです。 |
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(峠行2009.04.09) |
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| 【*1】 HP『Pass-Hunting!「峠」の世界』に自転車で峠から古関側の精進湖トンネル入口脇へ下った記録がある。 (http://www.asahi-net.or.jp/~VD8A-MKM/guide/another/fujitan/onnasaka.htm) 「廃道寸前のひどい道」との記述がある。 『日本山岳案内3』(鉄道省山岳部編・昭和15年)には、「寺川」は「テラン川」、「ザドウ沢」は「カラサワ川」とある。 【*2】 『山と高原地図』(昭文社)によると、ザドウ沢左岸上部の道は車両通行可能であるかのごとく描かれ、 【*3】 飯田蛇笏には「富士と峠」という文章があり、その中で阿難坂の様子や心象が語られています。 「阿難峠というのはこの地方の人たちには普通オンナザカと云われている。 弥生照る 陽は鶸色に 大嶺越え 蛇笏 山吹が色褪せてちりかかっているのを見かける麓路から、登るに従って路が急になり、 さて、阿難峠の頂上でふり仰いだ大富岳であるが、それが又素晴らしい大景である。 ◇ 蛇笏には他にも郷土を詠んだ歌が多くあります。 【参考文献】 『甲斐国志』 雄山閣 昭和57年 ● イサバ・ニガイの越えた峠A(右左口峠<迦葉坂>・七覚峠・関原峠)のレポートを見る。 |
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