★ 市道の峠A+幻の峠

浅川峠(市坂峠)・大久保のコル(浅川乗越)・逢坂峠(宮谷乗越?)

 

以前、市(イチ)に通った峠道として醍醐集落から武蔵五日市へ越える醍醐峠を歩きました。
今回は葛野川流域の浅川集落から上野原の市(イチ)に通った浅川峠を訪れます。

『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社)には以下の文章があります。
「扇山北麓浅川村の文化吸収路は、葛野川沿岸に出るより、東の尾根を踰して鶴川沿岸の
諸村殊に上野原町附近に対しての交渉が深く、ために毎月開かれる上野原の市(イチ)に通う道として、
大群山から扇山への山稜のタル----乗越を市坂峠(一に浅川峠)と呼んでいるのである。」

また、古い山雑誌に掲載されていた「権現山とその附近」(岩科小一郎著)でも、
「権現山より南に続く山梁は一旦低下して扇山を起すが、この間の鞍部を浅川峠と称する、
西方浅川では市坂峠と称えて居るが、これは浅川での交通が本村七保よりは仲間入諸村へ対して便がよく、
古くから上野原の市日には此の峠を越えたもので、故に市の日に越える坂の意で市坂峠の名が
生まれたのである。アサミ峠という人もあるがこれは余り用いられていない、アセミの間違いかも知れない。」
との記述があります。

浅川峠は市に通う道として浅川側の人たちには「市坂峠」とも呼ばれていたことがわかります。
「アサミ峠(アセミ?)」との呼称があったともありますが、
「アサミ」だとすれば浅川を見下ろすとの意味で「浅見」でしょうか?
それとも朝の暗いうちから山道を歩いて峠で朝日を拝むことから「朝見」でしょうか?
「アセミ」だとすれば汗して苦しい坂路を登ることから「汗見」でしょうか?
峠の名前についていろいろと思いを巡らすことは楽しいことであります。


落合から浅川に向かう
権現山と扇山を結ぶ稜線はまだ遠い


バスの終点から林道へ
どんづまり感が漂う

本来なら浅川までバスで行き、峠を越えて上野原市街まで歩き通したかったのですが、
事前に調べたバスの便数は貧弱の極みであり、
一日二便のみの運行というお粗末なローカルぶりを呈していました。
仕方なく浅川入口の落合に車を置いて、
「落合-浅川-浅川峠-扇山-大久保山-樺ノ頭-コタラ山西尾根-落合」の周回コースを計画しました。

しかし、現地にてバスの時刻表を見てみると、平成18年4月に改正されたらしく、
ほぼ一時間に一本の割でバスは運行されているではありませんか!
(平日のみですが、浅川まで午前2便、午後6便!)
どうやらスクールバスの廃止に伴い、路線バスが増発される結果となったようです。
これは権現山、扇山周辺の山々を歩く方には朗報であります。

ただし、次のバスには間があるので結局は歩くことになりました。
固いアスファルトの路面は足裏が痛くなりますし、
春の青空の強い紫外線の照り返し攻撃が容赦なく襲ってきます。

権現山と扇山を結ぶ稜線のタワミに向けて、浅川の流れに沿った緩やかな登り勾配の道が続きます。
この浅川峠へと続く道は古くからの道筋だったようで、
『甲斐國志』の浅川村の項に、
「南ハ扇山ナリ、此ノ山中ヲ越エテ野田尻宿ヘ出ヅル間道アリ・・・」との記述が見られます。


しばらくは林道歩き


明るい山道の峠路になる

甲州街道野田尻宿に繋がる間道として、古くは多くの往来があったことでしょう。
道沿いには機織りを営んでいたと思しき旧家の佇まいも見られます。
一見すると平和的な山峡の集落ですが、昭和57年、権現山を襲った集中豪雨が浅川集落の中心部を直撃し、
濁流が家々を押し潰したという悲しい災害の歴史を持った地でもあります。

浅川公民館前で背後からバスがやって来ましたが、ここまで来てバスに乗車する気はありません。
青空に泳ぐ大きく立派な鯉幟が飾られた旧家の前を通り過ぎ、
折り返してきた先程のバスとすれ違うとバスの終点も間近です。
気がつくと、いつの間にやら高度を大分稼いでいたようです。
振り返る浅川の谷の向こうに宮地山やセイメイバン、遠くにはハマイバ丸、大谷ヶ丸辺りの山並みが望めます。

バスの終点には、「浅川峠→」と書かれたお馴染み大月市設置の無愛想な道標が建っています。
道標の指示通り林道を進みます。
木製の仏像が納められた小さな社を通過してしばらくは林道歩きです。
権現山から麻生山に続く新緑の尾根が青空に映えています。


大月市設置の指導標あり


浅川峠 (市坂峠)

林道が終わりを迎えると待望の山道となります。
道はしっかりと踏まれていて迷うことはなく、前半部は植林帯、後半部は自然林の中を進みます。
林道の終点から峠までさほど距離はありません。
急登もないのでやさしい峠といえるでしょう。

しかし、本当に浅川の人たちはこの峠を越えて上野原まで通っていたのでしょうか?
交易なら猿橋や大月でも用を足すことが出来たように思えます。
この浅川峠を棚頭に下り、野田尻に出ても、上野原の中心地まではまだ大分距離があります。
それに加え仲間川沿いの道は極めて単調な道程なのです。
少しでも文化の先進地である東京側に近い場所に交流を求めたがためでしょうか?
それとも商品取引上の慣習や取引価格、物価が大月、猿橋と上野原では異なっていたのでしょうか?

浅川峠は明るい十字路で、権現山、扇山、浅川、上野原のそれぞれを指し示す道標が建っています。
ここは不思議な峠で、権現山と扇山を結ぶ尾根が浅川と仲間川の分水嶺になっているにもかかわらず、
地形上の境界を無視して、大月市側の領分が東側へと大きく張り出しています。
なぜこのような行政上の市境が決定されたのか興味あるところです。  ⇒【付記】参照

事前情報では峠の棚頭側は道が荒れているとのことでしたが、
峠から見る限り踏み跡もしっかりと付けられています。
山菜採りでしょうか、籠を背負った地元の方が、ちょうど棚頭側へと下っていきました。
峠は風の通り道で、権現山、扇山に行く手を阻まれた風の大軍が集結して、
尾根の弱点であるタワミを吹きぬけていきます。


曽倉山


曽倉山を越えた先の鞍部
地形図にある浅川からの道が合流する

峠から棚頭側に下ってみたい気持を抑えて、扇山に進路をとります。
扇山、百蔵山、権現山を北都留三山と呼ぶそうですが、このいずれの山にも登ったことはありません。
中央線沿線の定番中の定番なのですが、
三山の明る過ぎる雰囲気が、自分のように暗い人間の足を遠ざけてしまっているのです。
暗い人間は明るい所に出ると、その暗さが一層引き立ってしまいますから訪れるのを躊躇ってしまうのです。

北都留三山は下界から眺めると、
その山容は大きく、「どうだスゴイだろ!」というエラそうな態度も気に入りません。
山頂に立てば優れた眺望を得られるに違いありませんが、
どうも山全体が大味のような気がして訪れる機会は無かったのです。

浅川峠を南下して、940m圏のコンモリとした場所は曽倉山。
立木にビニールテープが巻かれマジックで山名が記されていました。
曽倉山を下った扇山との鞍部に登山標識があり、地形図に記載のある曽倉山西尾根経由の
浅川からの道が合流しています。

この西面の谷を「地獄谷」と呼ぶようで、口碑によると山賊が住み、年中、生首が絶えなかったからとも、
他説には往時70歳以上の男女をこの谷に捨てたからとも伝えられています。
実際には、中央線開通以前は鬱蒼たる老大木が繁り、その様なおどろおどろしい名前が付いたようです。
ただ、山賊の住処と云われる岩窟が岩間に散在しているとも云われています。<*1>


扇山山頂
さすがの眺望を誇る


大久保のコル
浅川乗越ともいうらしい

鞍部から扇山の北面を息を切らせて登りつめると、パッと開けた山頂にひょいと飛び出します。
大月市選定の秀麗冨嶽十二景第六番だけあって見事な眺望です。
ただこの日は気温が高すぎて富士の姿は霞んで望めません。
先客の中年男性3人組が憚らず、揃って立小便をしている姿はイタダケマセンでしたが、
彼らが立ち去った後は静かな山頂を独占することができました。

次なる目的地「大久保のコル」に向けては、防火線のような幅広の道を西進します。
古い山のガイド本である『日本山岳案内』(鉄道省)では、同地点に「浅川乗越」の名前が見受けられます。
ここも峠の一種なのかもしれません。
鳥沢から上がってくる道は明瞭で、浅川への道は倒木などがありますが踏み跡は確認できます。
この道は扇山の北西面を巻いて、先の曽倉山との鞍部につながり浅川へと通じているのかもしれません。


p1109 大久保山


樺ノ頭付近の宮谷分岐
地形図に二本ある宮谷下降路の東側

大久保のコルからちょいと登るとp1109の大久保山です。
ここからp818の樺ノ頭(カンバノ頭)に向けては立木に掴まりながらの急下降となります。

樺ノ頭(カンバノ頭)は『日本山岳案内』では「長尾山」としています。
また、同書ではp849のコタラ山を「平沢ノ頭」とし、
コタラ山は「平沢ノ頭」と「長尾山」の間の811m圏の突起ではないかとしています。 
(現地の里人もそう称しているとありますが自信がないとも書いてあり、
また、平沢ノ頭は一部ではコタラ山とも呼ばれているとあります。) <*2>

ややこしくなってきましたが、“幻の逢坂峠”はこの辺りにあるようです。
尾根南の宮谷集落と北側の浅川集落とを結んでいたのが逢坂峠です。
地形図を見ると宮谷からは二本の道が尾根に達しています。 <*3>
その西側の一本について『日本山岳案内』では、「富濱村宮谷集落より、瀧澤川に沿うて登って来る道で・・・
コタラ山を越える道と共に宮谷より浅川に越える村人達の重要な道であったらしい」 と記述されています。

そして、コタラ山付近の様子については、
(注:ここでいうコタラ山はp849のことではなく、地形図の境目の無名突起峰)
「コタラ山は南北にやや細長い山頂を持っていて、一本の枝振りの良い松の大木がある。
展望はあまり良くない。・・・突起の頂点のところで北へ降りて行く道を見る。
・・・浅川の支流たる長尾沢に向かって降下する、幅の広い尾根を降りて、浅川集落に至る道であって、
南方は宮谷集落から登って来るものである。」とあり、
地形図上の宮谷から上がってくる二本の道の内、東側の一本との接続をほのめかしています。


幻の逢坂峠か!
松の古木の根元に馬頭観音を祀る


浅川への下降路は明瞭
凹状のジグザグ道で峠路の趣きあり

どうやら“幻の逢坂峠”とは、
地形図「大月」図幅と「上野原」図幅の丁度合わせ目に位置している乗越道のようです。

地形図には北の浅川側に下る道は記されていませんが、
この無名の突起(『日本山岳案内』説のコタラ山)には、
大きな一本の松の古木があり、北側に下降するしっかりとした道が付けられているのです。 
さらに松の古木の根元には一体の馬頭観音も祀られ、峠と呼べる雰囲気に包まれています。

『山梨の峠』の「逢坂峠」の項では、この浅川側への下降路は発見できなかったようです。
「扇山の登り口鞍部でようやく浅川集落への下り道が見つかった。」とありますから、
大久保のコルを浅川側への下降口と誤認されたようです。

『甲斐の山旅・甲州百山』では、
「ちょうど地図の合わせ目で読むのにひと苦労。小さな丸いピークを地図は二つに切っていて、
そこへ北側からかすかな踏み跡が降りてきているが、それが逢坂峠のような気もする。」との記述が見られ、
うすうす峠の存在に勘付かれていたようです。(その後この著者は宮谷側に下降してしまいます)

この馬頭観音像から北に向けて尾根伝いに下降する“逢坂峠らしき道”を発見してしまったからには、
ここを見過ごして通り過ぎるわけにはまいりません。
道の様子はどうなっているのか、果たしてどこに繋がるのか、下って確認しなければなりません。
ここでコタラ山西尾根行きは中止してこの謎の道を下降します。

道はやや潅木に隠され気味ですが凹状で確かな道形が続いています。
適度なジグザグが切られ、馬の通行も出来る程の良い状態の道です。
目印は不要と思いましたが、所々、黄色のビニールテープを立木に巻きつけて下降を続けます。


車道がカーブする所
地獄谷の入口に飛び出すことができた

上部の自然林帯から下部の植林帯に入ると、犬の吠え声と共に一軒の民家の屋根が見えてきます。
「地獄谷」の入口にある民家前の林道に無事に降り立ち、大坂橋、宮川橋を渡ると、
バス道のコーナー部分に接続となりました。
この道が“幻の逢坂峠”だったのでしょうか?確証はありませんが逢坂峠のような気がします。

バス道を進むと浅川公民館前のバス停で
落合方向から終点の浅川へ向けてバスが登ってくるところでした。
今回は市道の峠である浅川峠(市坂峠)を、
こちら(浅川)からあちら(上野原)へと越えることはできませんでした。
また、当初計画していたコタラ山西尾根(コタラ尾根、長尾根ともいう)を歩き通すこともできませんでした。
しかし、“幻の逢坂峠”らしきものを確認し、探索できたことは大きな収獲でありました。 <*4>

落合に停めた車に戻った時、傍らを先のバスが折り返しを終えて通り過ぎて行きました。
交通の便が改善されたので折を見て再度幻の峠を確認してみようと思います。

<*1> 「権現山とその附近」 岩科小一郎著 より

<*2> 『山岳第十五年第一号』の「多摩川相模川の分水山脈」(武田久吉著)では以下の参考になる文章がある。
    「扇山と百蔵山とを連絡する約800mの長い尾根は、甲斐國志によると長尾山なる称がある様だが、蓋し適切な名称と思われる。
    この脈の西端で脈が急に南に転ずる所に高距847mの隆起がある。これにはコタラ山の名を配すべきもので、此から西に流れる
    短い沢は即ちコタラ沢である。」

<*3> 「逢坂峠」の存在について初めて知ったのは『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄他著・実業之日本社)という書物の中に
    “幻の峠”として登場したのを拝見してからです。
    「浅川小唄は、♪逢坂峠の紅葉のように 濃いか薄いか私の心 どんと血潮をたぎらせる♪ と唄っているが、
    その峠はどの辺のことを指しているのだろう。浅川では昔から宮谷との交渉がかなりあって、葛野川へ下って回るよりは、
    郡役所のある猿橋へ出るにも、この峠を利用したらしい。」とあり、
    「宮谷へ下りる路記号のうち、東側の方が峰坂峠らしい・・・」とあります。

<*4> コタラ山西尾根の末端、尾根が葛野川に落ちる所であるコタラ沢入口に「指さし地蔵尊」という珍しい石造物がある。
    「右、やまみち 左、あさ川みち」と刻まれ、地蔵尊の指さす方向に進めば浅川から甲州街道野田尻宿に通じる道となる。
    今回これを確認したかったが目にすることができなかったので、コタラ山西尾根、宮谷から尾根に出る二本の道と共に
    今後の課題とする。

     後日、逢坂峠を再訪し、指さし地蔵と対面したレポを見る。
      
★葛野川左岸古道〜コタラ山西尾根〜百蔵山西尾根/逢坂峠再訪」 

    → 3度目の逢坂峠
      「
★宮谷〜逢坂峠〜浅川〜浅川峠〜棚頭

【参考文献】

『山と渓谷13号』 「権現山とその附近」 岩科小一郎著
『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄他著・実業之日本社)
『山梨の峠』 小林栄一著
『奥多摩』 宮内敏雄著 百水社
『日本山岳案内・3・中央線に沿ふ山』 鉄道省山岳部篇

【タイム】休憩込み

落合11:50-バス道終点12:30-浅川峠13:10-扇山14:00-宮谷分岐14:50-バス道復帰15:50-落合16:20

【付記】

後日、『葛野川物語』(鈴木美良著)という本を読んでいたら、浅川村と棚頭村との村境決定過程について書かれていました。
それによると、よくある「行き逢い裁面」の言い伝えがこの地でも残されていることがわかりました。
「双方の村はずれから一番鶏のときの声を合図に市坂峠に向かって歩きはじめ、両方の出会った場所を村境とする」というもので、
「両村とも健脚の若者を決め、一番鶏のときの声とともにスタートし出会った場所を確定、三回の平均地点を定め村境にした」とのことです。