★ 富士周辺の謎多き峠たち

明神峠古道 / 旧加古坂道 / 海沢峠 / 一間山峠 / 金剛坊峠 / ドウヤ峠 / 出口峠 

富士山の周辺に点在する気になる幾つかの峠を巡りました。

  明神峠古道


小山町教育委員会社会教育課発行
『史跡いろいろみちしるべ北郷地区編』 より
図中の「〇22」は「明神峠古道」を表わす

小山町教育委員会社会教育課発行
『史跡いろいろみちしるべ・その5 北郷地区編』という
史跡を紹介しているガイドマップに「明神峠古道」
の表記が
あるとのご教示を丹沢自然保護協会のOさんから頂戴し、
現地を訪れてみることにしました。

明神峠の旧峠道は、現在の車道である山中湖小山線と
ほぼ同じようなコース取りをしていたのではないかと
思っていましたが、旧道とは異なる“古道”なるものが
どうやら存在していたようです。(?)


左、北山林道 右、大野林道 分岐

中日向集落から明神峠へ向かう車道を少し登り、
左手に分岐する未舗装林道へと入ります。
細い林道ですが車で走れないことはありません。

植林の手入れや送電線巡視路として利用されているようで
路面はほぼフラットで厳しい凸凹はありません。


大野林道を進みます

北山林道方向には「佐久間東幹線6」、
大野林道方向には「佐久間東幹線7、8」の送電線巡視路
指導標が行き先を示しています。

大野林道を選択し、さらに奥へと
清冽なる沢の流れに並行する林道を進みます。
車止めの閉ざされたゲートを脇からすり抜けると
間もなく古道への入口、「山葵ヶ入沢橋」に到着です。


山葵ヶ入沢橋から古道に入った所にある廃屋

橋の袂のコーナーミラーの背後から
古道であるらしい山道がのびています。
静岡県森林管理署の林班界標「526/528」も目印になります。

しばし山道を進むと、突然現われる廃屋。
TVドラマ「北の国から」の黒板五郎の家のような有様です。
山仕事用の仮眠所か飯場の類なのでしょうか?
煙突も立っています。
黒板五郎や純や蛍の姿はありません。

廃屋背後にある熊の潜んでいるような岩穴前を
足早に通過して堰堤を二つほど右手より乗り越えると、
史跡ガイドマップに表記された「明神峠古道」のポイントです。


左俣の様子


中央尾根取り付き


右俣の様子

町の教育委員会公認の史跡ですから案内看板くらいあるやも知れぬと期待していましたが、
「明神峠古道」を示す親切な設置物などは皆無でした。

ここで沢は二分し、左俣、右俣のどちらが古道なのかは判然としません。
史跡ガイドマップには、両沢ともに破線が付けられ稜線へと達しています。
見た感じ右俣の方が明るく歩き易そうでしたが今回は足固めが貧弱な為深入りはできません。
とりあえず中央に張り出した尾根に近付いてみると、
その突端部に黄色のビニールテープがグルグル巻きにされた幹がありました。
印象からして林業作業用のマーキングというより、山歩き人の仕業のように思えます。
しかし、こんな小尾根を拾い歩いている物好きな登山者がいるものでしょうか?


中央尾根に取り付くが笹薮で撤退

数分ばかりこの尾根を登ってみましたが、
行く手に笹薮が出現して敢え無く撤退です。
今回は登山をする格好ではないので無理はできません。

しかし、古道なるものが今でも存在しているのか
なお興味あるところではあります。
謎の古道の解明はできず、謎は謎のままで、
やって来た道を引き返します。

廃屋裏手の岩穴が気になったので、
熊でも飛び出しはしないかと開口部に岩を投げ入れて、
しばらく様子を窺がってから、中を覗いてみました。


廃屋裏手にある坑道跡

すると、そこは外見からは想像できない
見事な手掘りの坑道が二方向にのびていました。
信玄の隠し金山か?
それとも醍醐様の埋蔵財宝発掘の跡か?と興奮しきりです。

とても独りでは中に立ち入る勇気はありませんでしたが
三国山稜の山腹を貫通し、西丹沢に繋がっていたらと、
ありもしない誇大妄想に浸りつつニンマリ顔で山を後にしました。
古道については不明でしたが坑道跡発見という
思わぬ収獲を得ることができました。

  旧加古坂道


小山町教育委員会社会教育課発行
『史跡いろいろみちしるべ須走地区編』 より
図中の「●23」は「籠坂峠(旧加古坂道)」

小山町教育委員会社会教育課発行
『史跡いろいろみちしるべ・その6 須走地区編』という
史跡を紹介しているガイドマップを見ていたら、
「籠坂峠(旧加古坂道)」
の表記がありました。

現在の国道が越える籠坂峠とは別に、旧峠があり、
それが藤原光親墓の上部付近であることは知ってはいましたが、
公的機関の発行したもので、その位置を明確に表記したものを
見たのは初めてでしたので現地に行って確認してみることにしました。


藤原光親卿墓

国道138号線脇の藤原光親墓の説明看板から
一気に急斜面を直登しなければなりません。
ムム、これはきついなと壁のような前方を見上げると
大きな鹿が何頭も横切っていくのです。
この容赦のない急登が果して本当に古道なのでしょうか?

中腹の大岩の上に明治20年に須走村有志によって
建てられたという藤原光親卿塚を示す板碑があり、
このあたりからは傾斜は緩んで一安心です。


鞍部付近はブッシュ帯

藤原光親は承久の乱の謀議に参与し、
ここで斬首に処せられたとされています。
歴史に疎いのでそれが史実なのかは知りませんが、
藤原光親の墓は大明見にあるとも聞きました。

鞍部に近付くにつれブッシュとススキに覆われますが
獣の通行があるらしく踏み跡を拾うことはできます。
ビールの空缶などが大量に放置されているところを見ると
ハンターなどが入っているのかもしれません。


山中湖村側にはラフロードが通じていた
遠くに見える山は杓子山

赤い実をつけた鋭いトゲトゲのブッシュ帯を通過すると、
突然視界が開け旧加古坂道の峠と思しき場所に到着です。

地形図にも表記されている破線道(スコリアの堆積した林道)
が山中湖側から上がってきていました。

遥か前方には杓子山が遠望されます。
このp1194とp1260(矢筈山・矢弾山)の鞍部が
古い時代の籠坂峠のルートなのでしょうか?
(西隣りのp1260とp1282との鞍部がどうなっているのかも
多少気掛かりではあります)

『関址と藩界』(岩田孝三著・校倉書房1962.09出版)には、籠坂峠について次のような記述があります。

「もっと古い頃の籠坂峠(鎌倉街道)は、今の沢道よりももっと西の方で富士の裾野の1240メートルの高みと、
今の籠坂道(1104m)との間の鞍部を通ったもので、これを加古坂越えと呼んだのである。
この道は今の道とくらべて山中湖畔にある山中の部落からもっと直線的に加古坂に登り、
そのまま真っ直ぐに梨木平におりていた。
承久の乱の犠牲者となった藤原光親の墓はもとは駿河から甲斐に向かって、
この加古坂の右手にあったが今は左手の林の中にある。

今の籠坂峠の上から、西方に旧道を求めて雑草に蔽われた中を約80メートルも登ると鞍部すなわち
加古坂峠に達する。この鞍部は早くからの甲斐と駿河との国界である。
もっとも、この加古坂道よりも、さらに古い鎌倉街道があった。
それは山中湖畔の平野部落からヅナ峠と三国峠との間(1320m)を通って駿河の日向村(中日向)に
出たもので、甲斐国誌によれば武田信玄が駿州攻めをやった時は、この道を利用した・・・
・・・この道筋は加古坂越えに較べると甲州から鎌倉への道としては最短の通路に当たるから、
甲州側からすれば西相模・伊豆方面にあって威を振るった後北条氏の勢力に対するためには
相当重要視しなければならなかった道筋であったようだ。
しかし、この道よりも加古坂越えの方はきわだった高低もないので交通の楽な点から鎌倉街道として
ヅナ峠道とともに古くからよく利用されたものである。」

ほぼ『甲斐国誌』に書かれていることと同様ではありますが静岡側から山梨側に向かう場合、
藤原光親の墓を右手に見るということからも今回訪れた場所が古籠坂峠である可能性は高いようです。
『峠路』(直良信夫著・校倉書房)の中でも、「籠坂峠越えの古道(中世以降)は、藤原光親の墓碑の
建っているあたりの鞍部を通っていた、という説もある。」と書かれています。

『関址と藩界』では「加古坂上に残る境界の天神祠」とのキャプション付きで写真が添えられているのですが
それがどこに位置しているのか(位置していたのか)は判然としません。
鞍部のブッシュの中を探してみましたがそれらしき祠が祀られていた形跡はありませんでした。
p1260の矢筈山は「天神峠」とも呼ばれているようですので、その山に祀られているのかもしれません。(?)
また、天神祠は現在の国道の峠脇にある籠坂神社に合祀されたともいわれています。


月面のような p1194
背後に見える山は三国山稜立山 

旧加古坂道の鞍部から東側のp1194に登ってみます。
ピークというより小高い丘といった感じでスコリア堆積物の
台地になっています。

須走方面の展望が開け、とても気持ちの良い場所です。
パラグライダーで飛び立ちたい気分になります。
雄大な広がりを見せる裾野の彼方に愛鷹連峰も
根張りのある構えを呈しています。


p1194から眼下の旧加古坂道鞍部と
富士へ連なる起伏

スコリア堆積林道に縦横無尽に付けられたタイヤ痕は
オフロード車のものでしょうか?
それとも自衛隊の特殊戦闘車両でも走行しているのでしょうか?
「自衛隊演習敷地内につき関係者以外立入り禁止」といった
おどろおどろしい警告看板や鉄条網のような物騒な工作物は
ありませんでしたからここら辺の立入りはOKなのでしょう。

富士山の方向に目を向けるといくつかの起伏の先に
その雄姿を仰ぎ見ることができます。
p1260(矢筈山)を越え、p1394(大根山)やさらに小富士まで
歩いてみたいとの誘惑にかられますが、
今回は登ってきた道を素直に戻ります。
でも、いつの日か籠坂峠から小富士までの県境尾根を
歩いてみたいものです。

* 『関址と藩界』の中の「ヅナ峠と三国峠との間(1320m)を通って駿河の日向村(中日向)に」という記述は
  「明神峠古道」のことなのでしょうか?それとも別に三国山稜越えのルートがあったのでしょうか?

* 「カゴサカ」の名前は、『吾妻鏡』承久三年(1221年)に「加古坂」と見られるのがもっとも古いという。
  名称の由来は、峠を駕籠で越えたから、また、火山灰の崩れやすい土質を籠に石を詰めて防いだ
  からなどの説がある。『妙法寺記』には「鹿児坂」と記されているという。 (『山梨県の地名』平凡社より)

* 「駕籠坂峠を天神峠と言わない以前は雁の腹すり峠と呼んだ」
       (『山中湖村郷土資料』、『山中湖村の史話と伝説・第一集』 より)

* 甲駿国境論争に関する文献に、
  「郡内領と御厨との山境は、小天上、わうだうとうげ(大洞峠・現、山中林道)、かご坂ノ天神とうげ、
  ずなこへとうげ、みくにとうげ…」(『富士吉田市史』通史編第二巻近世 より) という記述があります。
  どうやら、p1394(大根山)とp1429の鞍部に「わうだうとうげ(大洞峠)」という峠があるようです。
  地形図にも自動車通行困難の道としての道表記がされています。

* カゴ坂、ヅナ坂、ナガ坂を考察した文献に『古東海道足柄路・甲斐路抄調査書』(斉藤泰造編・平成11)
  がある。「7章律令期の甲斐路・分岐点と国境の峠」、「8章古代甲斐路・ツナ坂峠の傍証」、
  「9章再び古代甲斐路・ツナ坂峠の傍証-地名・絵図などからカコ坂越を探る-」等が参考になる。

* 籠坂峠から南の谷筋を辿って須走へ下降した時のレポートを見る。

  海沢峠


昭和7年 大日本帝国陸地測量部発行
「富士吉田」 地形図 より


2001年 富士吉田市 富士山課発行
「富士吉田市ガイドマップ」 より

『山梨県の地名』(平凡社)という分厚い辞典をパラパラと見ていたら、
忍野村の項に「海沢峠」という名前が出ていました。
「・・・鳥居地峠、平山峠、海沢峠などを越える道が分岐して富士吉田市に通じる。」

富士温泉から鐘山スポーツセンターに越える車道を「海沢線」というらしいのですが、
これとは別に車道以前の旧道がどうやらあるらしいのです。
(ちなみに鐘山側の桂川を渡る橋を海沢橋という)

確かに古い地形図を見てみると、
平山峠とは別に、その西南部に山越えの破線道が描かれています。
これが旧海沢峠なのでしょうか?
現行の地形図にはこの道は描かれていないので今までその存在には気がつきませんでした。
何気に富士吉田市発行のガイドマップを見てみると、なんと、実線で描かれているではありませんか!
これはひっそりと素敵な峠が残っているのではと、早速、現地を訪れてみることにしました。


下村側入口に祀られた祠


明瞭な道が続く

観光名所忍野八海の無料駐車場に車を置いて海沢峠の探索です。
「富士吉田市ガイドマップ」によると、下村バス停前から道がのびているはず。
ウン、ウン、ある、ある、石祠の祀られた赤い鳥居の脇を通り、民家の裏手から山へ道がのびています。
入口こそ草が被り気味ですが、民家の飼犬に吠えられながらも数メートルも進めば、
はっきりとした峠道が続いているのです。


推定・海沢峠


1030m三角点峰 「忍草」

二、三の分岐がありますが尾根を目指して、いちばんはっきりとした踏み跡を辿るだけです。
推定される海沢峠は薄暗い小さな鞍部でした。 
反対側に下る道は不明瞭、有るような無いようなはっきりしない感じです。
もし有るならば下部で車道の海沢線と接続しているはずです。
残念ながら、いまひとつ雰囲気に欠ける峠でした。

ここまで来たついでに、以前訪れて一目で気に入った平山峠を再訪すべく
東方尾根伝いに三角点峰p1030を登ります。
山頂にある三角点の白い標杭には黒マジックで「シボクサ」と書き込まれていました。
「忍草」と書いて「シボクサ」と読むのです、地形図にもそのようにルビが振ってあります。
古い資料によると、昔は「渋草」とも表記していたとか。

その「シボクサ峰」を乗り越えると、切り通し状の平山峠です。
『富士吉田市史』では「車坂峠」、「平坂」とも表記されています。
「車坂」の名が示すように、往昔は、荷継ぎの駄馬や大八車が頻繁に通行したことでしょう。
また、「平」とまではいきませんが、峠の道に急勾配はなく緩やかな越えるに優しい道になっています。


平山峠の切り通し


峠の馬頭観音と大乗妙典と刻まれた大石

峠は前回訪れたときと同様の静けさに包まれ、
宝暦の年号の入った「奉納大乗妙典」の碑と数基の馬頭観音が切り通しの壁面に
並んで配置されています。
ここより東に位置している鳥居地峠は旧鎌倉往還として賑わいをみせていたとのことですが、
平山峠もその間道としての役割を持ち、同程度の交通量があったものと推測できます。
駿河湾からの海産物移入の道として、また富士講の信仰の道として多々利用されていたことでしょう。

昔は、街道沿いの村々において荷継ぎ業者間のトラブルが頻繁に起っていたようですし、
加えて、隣村との山林入会地をめぐるトラブルも頻発していました。
それらの経緯については『富士吉田市史』に詳しく記述されています。
入会地の領有をめぐる争いの中で、古文献では「おつそば峠」「高さす峠」「鳥打道二階峠」という
峠の名前が登場しています。 これらの峠は“ドッケ系”でしょうか?

「おつそば峠」は鳥居地峠のさらに東に、「鳥打道二階峠」は文化三年大明見村絵図から察するに
鳥居地峠を大明見側に下る途中に位置していたものと思われます。
「高さす峠」は現在の高座山のことでしょうか?
この付近には、まだ未知なる峠があるのかもしれません。


実に味のある平山峠(車坂峠)


現在の車道 海沢線 頂上部

今回訪問した海沢峠は“100%確実にココダ!”というものではないのでご注意を。
案外、現在の車道が越えている部分がそのまま海沢峠であったのかもしれませんから。
(現に、とあるHPではこの車道が越える道を海沢峠としています。)
* 『あしなか第2号』「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫著)の中に、
  「…1100メートル辺りの草地がオホソバで、北面を丸山と云い…」という記述があります。
  「オホソバ」とは「おつそば峠」のことでしょうか? 地形図p1116付近と思われます。

* 『山梨県歴史の道調査報告書-鎌倉街道-』によると海沢橋から車道海沢線の西側に間道があった
  ことが記されています。 これがもしかしたら真の海沢峠道なのかもしれません。(?)
  「富士吉田市ガイドマップ」にも車道から分岐する破線道として描かれているので気になります。


平山峠 (車坂峠・平坂)

平山峠は集落裏手にある標高の低い山越えの道です。
忍野八海側から10分もあれば峠の頂きに辿り着くことができます。
“いざ鎌倉”を目指した武士団の足音や富士講の鈴の音が聞こえてくる錯覚がします。
お隣りの鳥居地峠は車の交通もあり、その下部にはトンネルが建設中ですが、
この平山峠は、いたって平静の中にあります。

  一間山峠


鐘山淵


鐘山橋〜忍野橋 間の東海自然歩道

「一間山峠」、そんな峠は実在しないのかもしれません。
この名は『あしなか第2号』(山村民俗の会編)の「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫著)という
文章の中の一文で見ただけのことです。

「…鳥居地峠から峯山・三番沢を経て高指山1141メートルを越え、末は一間山峠・鐘山口に至り
岳麓に対して終わる。」 (注*高指山は現地形図表記の高座山のことではない)

鐘山橋と忍野橋とを結ぶ東海自然歩道が一間山峠の道かと思い訪ねて見ました。
現在の忍野変電所辺りが一間山峠なのでしょうか? ウーン、全然見当違いだったかもしれません。
もっと桂川下流の鐘ヶ淵発電所や大明見浄水場付近にあるのかもしれません。存在不詳です。

  コンゴーボ?・金剛坊峠?・金剛房峠?

地形図を見ると杓子山の西尾根はp1433、p1198を辿り、p1019で緩やかに北西に進路を変え、
次の三角点p814へ向かう途中で小明見側古原へ下る破線道を分けています。
ここがどうやら「コンゴーボ」と呼ばれている場所のようです。

『あしなか第2号』(山村民俗の会編)の「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫著)では、
「杓子山から西に出ずる尾根はトンガリ岩のある河原シャクシを左にヤケー入古屋野川側にかかる
岩石はビョウブ岩で、次が空山、大平、夫婦岩、次が松クボ山、深平山、山神戸を経て鬼坂に出る。
コンゴーボというのであるが、ここは古への鎌倉街道で芝切峠を経て来た道がここに通っていた・・・」
とあります。

また、この場所は明見温泉のホームページでは「金剛坊峠」と表示されています。
この小明見と大明見の境である杓子山西尾根を越える道を金剛坊峠と呼ぶことは
果して一般的なのでしょうか?
文化三年大明見村絵図では「金剛房道」との記載がありますが、峠名としての記載はありません。
峠名として金剛坊峠の名が広く定着しているかは不明であります。

『甲斐国誌』には次の記述があります。
「明見より駿州駿東郡併びに吉田への古道、小沼より廿町西南に往きて米倉橋と云うあり、(中略)
此より道を左にとり、明見橋を越え、小明見古屋村に出づ、明見湖の垢離場を過ぎ、南二王坂源氏通り
平山にかかり、西小佐野を過ぎ、上吉田古屋へ出づ、是れ古道なり。(中略)
二王坂より鳥ウチ峠を越え、東南に下り、内野村へ出づ、此の間凡そ二里、又東南平野坂を越え
山中湖の東平野に出づ、山路凡そ一里、湖水の岸を南に行き、三町許りにして番所の古址あり、
是れより南ヅナ峠と三国峠の間を越えて、駿東郡日向村へ出づ、凡そ二里、米倉橋よりは合せて五里なり、
古へは籠坂へ出でず、多くは此道を往来せしと云う」

この尾根越えの道は「二王坂(仁王坂)」とも呼ばれていたのでしょうか?
『甲斐国誌』のいう二王坂がコンゴーボのように思えます。
古原への道は「鬼坂」とも呼ばれているようです。


峠状部分は現在、林道立体交差の工事中


小明見側、古原へ向けて林道が新造されている

大明見側から接近してみると、新しい林道が峠まで建設されていました。
この道は鳥居地峠の下部に建設中のトンネル道といずれ接続されるものと思われます。

現行地形図には大明見側からの道の記載はありませんが、
古い地図を見ると鳥居地峠を下ってきた道は大明見の中心集落へ向かう道と
杓子山西尾根を越えて明見湖のある小明見へ向かう道とに分かれ、
尾根越しの道はしっかりと描かれています。
この道は、富士巡礼道の間道として歩かれていたようで、
富士吉田市歴史民俗博物館発行の文献にもその様な記述がありました。 

現在建設中の林道はこの道をなぞったものと思われます。


峠にある南朝忠臣藤原藤房卿墓と刻まれた碑


杓子山西尾根の末端
大明見と小明見を結ぶ背戸山トンネル

峠部分は立体交差になっており、頭上を杓子山西尾根が越える形になっています。
小明見側の古原へ向けても林道が新造されており、ほぼ完成の状態であとは舗装を待つばかりです。

立体交差する上の道に上がってみると、
「南朝忠臣藤原藤房卿墓」と刻まれた石柱が高みに祀られていました。
ここは何か謂れがある場所のようであります。
この頭上を交差する道には「不動の湯」を指し示す看板が設置されていました。

杓子山西尾根の様子を覗いてみると、多少ヤブ気味ですが、凹とした道形や踏み跡が確認され、
どうやら物好きな登山者によって歩かれているようでありました。


杓子山西尾根の末端△p814付近から望む均整のとれた富士

杓子山西尾根の末端部には大明見と小明見を結ぶ背戸山トンネルが穿たれています。
トンネル脇から尾根に登る道があるので探索してみると尾根の南斜面一帯はお墓ばかりです。
墓、墓、墓ですが陰鬱な感じはなく、均整のとれた富士を眺める好展望地でありました。
この地に埋葬された土地の開拓者達もさぞかし満足なことでしょう。

  ドウヤ峠 (芝切峠)

 


冨士山近傍図
昭和5年 陸地測量部

ドウヤ峠の名前は「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫)の
相定ヶ尾根について説明された記述の中にありました。
(相定ヶ尾根の名は今では堂屋尾根とするものが定着しているようです)

 「…次が山ノ神峯・ドウヤ峠又は芝切峠、その先のドウヤ山に
  登る頂きに金比羅神がある。…」

古い地図には鳥居地峠を越え、金剛坊峠を越えてきた道が
古屋(向原)から尾根を越えて小沼へと続いていることが分かります。
(左地図、送電線とクロスしている箇所)
この尾根越えの場所がドウヤ峠なのでしょうか?

富士道は尾根が桂川に落ちる末端部を迂回して通っていたようですが、
『山梨県の地名』(平凡社)には、
「小沼と小明見の境は米倉橋が架かるまでは倉見から山を越えて
小明見に出て大明見を通る道があった。」 との記述があり
尾根越えの峠道の存在をにおわせています。

小明見の小字に「堂谷山」「堂谷指」というものがあり
それぞれ「ドウヤ」と読むとのことですが、正確な位置は知り得ません。
(米倉橋の下流に洞谷橋という橋もあるがこれもドウヤと読むのだろうか?)

ドウヤ峠の正確な位置が判らぬまま、
とりあえず「冨士山近傍図」(昭和5年)に
描かれている向原と小沼とを結ぶ破線道を探してみることにしました。


向原バス停から見上げる
堂屋尾根上の東屋


堂尾山公園入口
山歩き用の杖が完備されている

向原のバス停付近から堂屋尾根を見上げてみると、それらしき場所がすぐに確認できます。
除伐された空間に東屋を望むことができ、そこを目指して集落内の細い道を勘を頼りに進みます。
山道の入口には「向原さくら育てる会」が設置した「堂尾山公園入口」と書かれた看板があり、
傍らには親切にも登山用の杖が置かれていました。
そのうちの一本(ゴルフクラブのヘッドを取り外した物)を拝借し、植林地の中に進み入ります。
入ってすぐ「めぐみの水」という水場があり、奇麗な水を口に含み登りにかかります。

赤松の落ち葉の敷かれた道はフカフカで歩きやすく、整備の行き届いたジグザグ道を
わずか登れば堂尾山公園に到着するのです。
(尾根の名前は「堂屋」で、公園名は「堂尾」となっています?小字は「堂谷」?)


《推定》 ドウヤ峠 (芝切峠)

果してここがドウヤ峠なのでしょうか?北側の小沼、倉見に下る道は見当たりません。
老朽化した東屋と板碑が三基祀られています。
それぞれの板碑には真新しい注連縄が巻かれ、鏡餅が供えられています。
一基は蚕影様を祀ったもののようですが他のものは磨耗が激しく判読ができません。


東屋があり
注連縄とお供え餅の施された板碑がある


富士見台へは
巨大艦船のような三ッ峠を望みながら

わざわざ尾根を越えなくとも、尾根の末端を回りこめばとも思えますが、
この付近の低地は丸尾(マルビ)と呼ばれる富士山の熔岩流の固まった転石が堆積しており
かつては通行するのに困難を極めていたとされています。
御坂峠へ抜ける鎌倉街道や富士道などはそれらマルビを避けるように時代とともに変遷していき
幾筋かのルートが存在していたとされています。


富士見台
石祠が祀られている


峠付近から南方を眺める
杓子山西尾根の向こうに高座山が聳える

「関東の富士見百景・堂尾山富士見台」の標識につられ、堂屋尾根を西へと進みます。
三ッ峠の巨大艦船のような山体を横目に送電鉄塔の脇を通り抜けて
数分で石祠が祀られている富士見台です。 富士見台と名乗るだけあって富士の姿は雄大です。
さらに西へと続く尾根の踏み跡には「←寿駅」の標識が行き先を示しています。

日暮れ間近の尾根から南方を眺めて思うのです。
金剛坊峠を越え、次に鳥居地峠を越え忍野村へ、さらに長池峠や平野峠を越えて山中湖畔に至り、
ヅナ峠、三国峠、明神峠を越え竹之下へ、そして足柄峠を越えれば“いざ鎌倉”は近いと。
また、平山峠(車坂峠)を越えた道は籠坂峠を越え須走、御殿場へと、そして乙女峠越えへと続きます。
幾つかの峠を越えることで道が大成していると実感されるのです。

“すべての道はローマに続く”じゃないけれど、すべての道はどこかに続いているものです。
そして、すべての峠の向こうには新しい世界が開けているのです。

* 『山梨県歴史の道調査報告書第18集-鎌倉街道-』(山梨県教育委員会・昭和63年)に
  以下の記述がありました。

  「…倉見の上唐沢に至る。
  これからは山林を左右に眺めながら馬籠坂をのぼっていくと峠に達する、上洞谷である。
  東電用水路の上方を進んで落合平に出て小明見との境界(通称おっこし)と呼ばれるところに至る。」

  「西桂町の境、富士吉田市小明見堂屋山から金剛坊を通り鳥居地峠までに鎌倉道のなごりがある
  昔、旧小明見村から現在西桂町旧倉見村へ通じた道筋で、通称堂屋山の芝切りといわれている
  小尾根のたるみ
にある。
  小明見金剛房には藤原藤房卿の碑がある。地名を金剛房という。小明見、大明見の境界である。
  藤原藤房卿の出家名が金剛房といわれ、この地方を訪れたことから地名になったと伝える。
  大明見長日向は往古から鳥居地峠へ登る登り口である。
  峠道は消滅、峠は村道が通り、峠への道筋は大きく変えられている。」

  「堂屋山の芝切りの峠---現在道はまったくない。
  峠頂上付近に石碑と向原の住民が戦後勧進した穂見神社がある。」

今回訪れた小尾根のたるみが、ほぼドウヤ峠(芝切峠)で間違いないようです。
そして、金剛房の名の由来も解決しました。
鳥居地峠の旧道が消滅したとの記述は気になるところです。

* 『向原の民俗』(富士吉田市教育委員会・1984)という文献に
  「御犬沢峠(オイノザワトウゲ)」というものが登場しています。
  姥捨ての伝説も残る場所であるとも言いますから「御犬沢」は「老いの沢」の転化かもしれません。
  年老い捨てられた者は尾根の広地に大根を育て生き長らえたといい、大根尾根とも呼ばれるとか。

  「鎌倉街道は数次の変遷を経ており、古くは鹿留から御犬沢峠を越して長寿水を通って
  内野(忍野村)へぬける道。次は堂谷山を越えて万年寺からニッタサマ(新田義重の墓のあるところ)
  を通って、仁王坂、渡端、七曲(鳥居地峠)を経て内野へ向かう道。」 とあります。

  御犬沢峠とはどこなのでしょうか? 向原峠のことか?

 

  出口峠


「山と高原地図 富士・富士五湖」 より
昭文社 1992年版

『山と高原地図 富士・富士五湖』(昭文社)を見ると、
西湖南岸の足和田山の西方に「出口峠」の名があります。
出口峠の名は古いガイドブック等でも見かけることがあります。
しかし、ここだけを目的に訪れる人も無いようで、
峠としてもあまりメジャーな部類とはいえません。
また、その存在すらあやふやになっています。

『河口湖周辺の伝説と民俗』(伊藤堅吉・緑星社)では、
その峠の位置が足和田山の東方、段和山との間であると
図示されており混乱がみられます。

一体、出口峠はどこなのか手掛かりを探しに出掛けました。


成沢山通玄寺
背後に見える目的の稜線は近いが・・・


道無き斜面を這い上がり一般道に接続
「魔王天神社」分岐 《推定》 出口峠 @

「天然記念物・鳴沢の熔岩樹型」のすぐ隣り、魔王天神社の駐車場に車をとめて、
鳴沢集落の奥手から集落背後の紅葉台、三湖台、足和田山と繋がる尾根へと登ります。
鳴沢村発行のハイキングマップにも赤線表記された正規のハイキングコースです。

成沢山通玄寺の脇を通り墓地の中を進みます。
墓地といっても陰鬱ではなく、振り返ると雄大で明朗すぎる富士の姿が飛び込んでくるのです。
春日神社まで行って道は消滅、アレレ?途中で分岐する標識なんてあったかなと思いつつ、
涸れ沢を進んでみますがなんか変!ぐるっと神社の社殿を回り込む獣道があったので
それを利用して戻り気味に進路変更。

ハイキングコースがわからぬまま、闇雲に西側の道無き斜面を這い上がります。
落ち葉の積もった斜面はハイキングと思って履いてきた皮靴では苦戦を強いられるものの
立木に掴まりながらの全身運動の末、なんとか支尾根上に到着。
さらに紅葉台と足和田山をつなぐメインルートの高みを目指してもうひと踏ん張り。
飛び出した所が「魔王天神社」分岐の標識のある地点、p1237から南下する尾根部分です。


《推定》 出口峠 A
西湖側へ立派な道が分岐するが方向指示板なし


《推定》 出口峠 B
津原キャンプ場分岐

「魔王天神社」を指し示す標識はあるものの、肝心のハイキングコースの標識は見当たりません。
既に廃道になったのでしょうか?
ハイカーの多くは紅葉台から足和田山への縦走がほとんどですから、
どこかで落ち葉に埋まっているのかもしれません。

鳴沢奥手から主稜線に上がる、この見つけられなかったハイキングコース道は、
古い時代の絵図には「医師道」と名前が書き添えられています。
歴史のありそうな道を歩くことができなかったのが残念です。

『マウンテンガイドブックシリーズ17・富士とその周辺』(伊藤堅吉他・朋文堂・昭和31年)には、
「(三湖台方向から)何の苦もなく鼻唄まじり、雑木林の道を40分、右手に下りる路があるが、
出口峠といって、鳴沢村への下降点である。」 とあります。
鳴沢村への下降点が出口峠だとすると、このp1237南、鳴沢からの道があるはずの地点が
出口峠ということになるのでしょうか?(《推定》出口峠@)

足和田山へ向けてp1237を巻いている林道を進むと、すぐに《推定》出口峠Aのポイントです。
西湖側へ明瞭な幅広の道が分岐しています。
しかし、傍らにある道標はそちらの方向については何も情報を与えていませんし、
むろん出口峠の名など標記されてはいません。

整備され過ぎた感のある東海自然歩道をさらに足和田山に向けて進むと、
『山と高原地図』に表記された出口峠である《推定》出口峠Bのポイントです。
西湖畔の津原キャンプ場への分岐となっていますが、ここの標識にも出口峠の名はありませんでした。

『鳴沢村誌』を見ても出口峠の名はありません。
峠名の由来や峠の果たした役割など知りたいところですが正確な所在地すらわからず、
まったくもって出口不明の袋小路に入ってしまったようです。


足和田山(五湖台)


「医師道」の痕跡か?

平日午後の誰もいない足和田山から河口湖や富士の眺望を楽しんだ後、いま来た道を戻ります。
もちろん道無き斜面の下降はイヤなので、《仮称》魔王天神尾根(p1237南尾根)を辿ります。
うまくすれば置いた車の目の前に降り着くことになります。

分岐に入ってすぐ、「医師道」らしき凹とした道形があるのですが、
歩かれている様子は無く、落ち葉が堆積しています。
果してこれが鳴沢からのハイキングコースなのでしょうか?

《仮称》魔王天神尾根にヤブは無く、薄いながらも踏み跡があり、一気に下降していきます。
途中、数メートルの笹道の通過がありますが、なんてことはない近所の裏山感覚です。
尾根が二股に分かれる地点には村内放送の(?)スピーカーが数個設置され、
その配線に従い左手方向に進路を取れば、すぐに魔王天神の社殿が現われ尾根は終了です。
参道の階段を下ればスタート地点に無事到着と相成るのでした。


足和田村役場観光振興課 発行
「足和田山ハイキングマップ」 より

「足和田山ハイキングマップ」を見ると、
通玄寺と春日神社の間から主稜線に向けて登山道が表示されています。
地形図にも破線道として表記されているので、たぶん見落したのでしょうね。
まったく気がつきませんでした。

《仮称》魔王天神尾根(p1237南尾根)は
地図に道の記載はありませんが難なく歩くことができます。

ちなみに一部のガイドブックではp1237の三角点を三湖台としています。
どうなっているのでしょうか?
三湖台はもっと西、△p1202のはず、名前が欲しければ四湖台はどう?
四湖見えるかは確認していないけれど・・・

【補足】
昭和初期の地形図では、
春日神社の奥から稜線に上る道が記載されています。