熱海さんぽの峠A

桜峠・あせび峠・かえで峠・馬の背峠・リンボウ峠・軽井沢峠・池ノ山峠

* 園内の峠 *

前回、十国峠(日金山)を歩いた帰りに、その前を通り過ぎてしまった「姫の沢公園」内に
幾つかの峠が隠れていることを知り、訪れてみることにしました。
同公園のホームページに載せられている公園案内図には、
「桜峠」、「あせび峠」、「かえで峠」、「馬の背峠」という4つの峠名と、
「リンボウ峠」という峠らしからぬ怪しい名前を見ることができます。


桜峠


あせび峠


かえで峠


馬の背峠

公園前の無料駐車場に車を乗り捨てて、園内4ヵ所の峠を実際に巡ってみましたが、
現地には峠名をしるした標識もなければ、峠の雰囲気もイマイチで・・・・残念。
園内にはフィールドアスレチックが設置されていて、運動不足解消に訪れるにはいいのかも。
入園無料で一日楽しめるのだから、花の咲く季節に再び訪れてみるのも悪くはない。


リンボウ峠


なんでこれが峠なんですかねぇ?

「リンボウ峠」の「リンボウ」とは、リンボウダンスのことのようで、
鉄棒のようなバーを体を反って通過するアトラクションのようなんですが・・・・
なぜこれが「峠」なのかが謎であります。

さて、体のアイドリングはこの程度にして、本題である軽井沢峠の探索に出掛けます。

* 根府川路の峠 *


鷹ノ巣山トンネルの脇を登ると立派な道がのびている


しばらく進むと旧峠道は笹に埋め尽くされてしまう

姫の沢公園から熱函道路を歩いて、軽井沢峠へのびる地形図破線道の熱海側起点である
つつじヶ丘上部の鷹ノ巣山トンネル口を目指します。

熱函道路は以前は自動車専用道路だったらしく、歩行には全く適さない道路で、
傍らを自動車が猛スピードでビュンビュンと通り過ぎて行くので注意しなければなりません。
短い相ノ原トンネルを潜り抜けると、長い鷹ノ巣山トンネルが姿を現わします。
その鷹ノ巣山トンネル口の山側斜面に、薄い踏み跡があり、それを登りトンネル上に出ると、
思いの外立派な軽井沢峠道が残されているのを見るのです。

つつじヶ丘団地からの山道は着実に峠方向へとのばされているようでまずは安堵します。
しかし、最初の曖昧な分岐を左に取り、しばらく進んでいくと道は次第に怪しくなってくるのてす。
そして前途は完全に密度の濃い笹ヤブに埋め尽くされてしまうのです。
最前の曖昧な分岐まで戻るべきかとも思いましたが、左手の沢筋に送電線巡視路を見出し、
これを辿ってみることにします。


送電巡視路から送電鉄塔初川12に登る


鉄塔から先の尾根筋に切り開き道が続く

送電線巡視路は小さな沢を渡り、プラスチック製の急登階段のジグザグで斜面に取り付き、
p660から派生する小尾根に建つ送電鉄塔へ向けて続いています。
巡視路に被る笹はきれいに刈り払われていて、難なく歩行することができますが、
手入れを怠ると、きっとすぐに笹の海に飲み込まれてしまうことでしょう。

本来の峠道は、伊豆スカイラインの開通により峠道が分断されてしまったことによって、
通行する人がいなくなり、笹の海に飲み込まれてしまったと推測します。
しかし、最前の曖昧な分岐で右手に進路を取っていれば、峠道上に建つ送電鉄塔に向けて
別の巡視路が続いていたのかもしれないとの考えも残ります。

p660から派生する小尾根に建つ送電鉄塔は「初川線12」で、
峠道上に建つ送電鉄塔は「初川線11」のようです。
到着した「初川線12」から先、稜線に向けて道が続いていなければどうしようかと心配しましたが、
笹の刈り払い道は稜線の伊豆スカイラインへ向けて小尾根上に忠実にのばされています。


急登に喘ぐも振り返れば熱海市街を見下ろす好展望


伊豆スカイラインに到達 富士と愛鷹山が顔を出す

急登に喘ぎ、刈り払われた笹に足をとられながらも、
確実に高度を稼ぐしっかりとした道筋に安心し、背後を振り返ると、眼下には熱海市街と
相模灘の青い海原が望まれ爽やかな快感を覚えるのです。

上方から耳元に自動車の走行音やバイクのエンジン音が届き、伊豆スカイラインの接近を知らせます。
トンネル状の笹道を抜けると、突然パッと視界が開け、田方郡の盆地がそこに広がり、
雪を纏った富士や愛鷹山、沼津アルプスが目に飛び込んでくるのです。
伊豆スカイラインは歩行者通行禁止とのこと、「通行」とはきっと「横断」も含まれるのでしょう。
横断歩道やスカイラインを跨ぐ橋や、潜り抜けるトンネルが無いのだから、
賀茂郡と田方郡を結ぶ峠通行は伊豆スカイラインの完成によって
大きな痛手を受けたに違いありません。

これから向かう軽井沢峠ばかりではなく、丹那峠(滝地山峠)、七曲峠、上多賀峠、名振峠、
中野峠、板橋峠、阿原田峠など、人の足を頼りに歩いて越えるための峠道は、
伊豆スカイラインの存在によって分断されてしまい、殺されてしまったと言っても過言ではありません。
向こう側の地へ越えるという機能を奪われた峠道は、放棄され笹ヤブに埋まるばかりです。


p660から玄岳方向を望む
スカイラインは歩行禁止なので稜線道を辿る


東電地中ケーブルの石標沿いに進む
本来の峠道が通う谷筋を挟んで遠くに十国峠が望まれる

p660には地形図に見られる電波塔は無く、稜線上には明瞭な切り開け道が続いています。
かつては熱海峠から玄岳にかけての山稜は漫ろ歩きを楽しむ人気コースとして、
ガイドブックで紹介されることが多かったようですが、不粋なスカイラインの出現は
ハイカーの足を遠ざけてしまったようです。

古いガイドブックや資料などを見ていると、p672三角点「鷹ノ巣山」に「滝地山」の名を与え、
その北方の峰を「鷹ノ巣山」としているものもあり、少々混乱が見られます。
次回は是非、丹那峠の探索がてら、鷹ノ巣山、滝地山、弦巻山、谷ノ峰(池ノ山)、玄岳と
山稜漫歩を満喫し、地名の混乱を解明したいものです。(嶽山という山もあるらしい?)

p660から迂闊に幅広の刈り開け道を進んでしまうと「グライダークラブ滑空場」に行き当たり
道が消滅してしまいますので、p660からは肩幅ほどの広さしかない
「東電地中ケーブル」の石標に沿った道を進みます。
前方には、本来歩くはずだった軽井沢峠道が眠る笹の緑一色の谷筋が望めます。
そして上方遥か遠くには十国峠のレストハウスの白い建物が光っています。


送電鉄塔初川線11への道 旧峠道と同一なのか?


「旧熱海街道根府川通り」の標識があった!

地形図の軽井沢峠の破線道が、その途上に建つ送電鉄塔で二分されて稜線に到達するうちの
南側の一本は、地形図の情報通りにスカイラインに達していて、巡視路の入口となっています。
ここも軽井沢峠の一角ということになるのでしょうか?
地形図には函南側へと下る破線道も描かれていますが、
伊豆スカイラインを挟んだ向こう側に、そのような道の痕跡は認められません。
ただ笹ヤブが密生しているばかりです。

小山を挟んだ北側のもう一本の破線道に向かって、スカイラインを少し歩かせてもらうと、
「旧熱海街道根府川通り」の標識があり心が躍ります。
スカイラインを快走するドライバーがこの標識に目をくれるとは思われませんが、
矢印に従ってスカイラインを横断してみると、そこには旧峠道のニオイがプンプン漂っていたのです。


軽井沢峠

数メートルばかりヤブを掻き分けて土手を下ると、たっぷりとした峠の凹みと、
大きな木の根元に祀られた二体の石仏が峠の訪問者を優しく迎えてくれたのです。
すぐそこを有料自動車専用道路の伊豆スカイラインが走り抜けているにもかかわらず、
素敵な峠の雰囲気を保ちながら軽井沢峠は残されていたのです。

享保三年相州吉浜村の銘の入った一体の石仏と、
首から上を後世に拵えてもらった年代不明の一体の石仏が仲良く鎮座し、
その傍らには木製の「旧熱海街道根府川通り」と書かれた標識が設置されています。
この軽井沢峠は熱海街道根府川通りが越える峠だったのです。


『熱海市史上巻』(熱海市史編纂委員会・昭和45年)挿入図より

「熱海街道根府川通り」とは「根府川路」のことで、『熱海市史』には次のように記されています。

  「三嶋より田方郡大場、平井、軽井沢を経て、熱海峠を越え熱海に入る。
  次いで伊豆山、稲村より門川(藤木川)を渡って、相模国土肥門川に入り、
  土肥各村を海岸沿いに北上し、根府川関所を経由して、小田原城下で東海道に合する。
  熱海街道ともいわれ、熱海を中心に言えば、西側は三島道、東は小田原道になる。
  小田原道は現在の国道よりもっと山寄りを通っていた。 【*1】
  この道は古代・中世には三島の伊豆国府と、走湯山を中心とした熱海地方とを結び、
  あるいは鎌倉、走湯山、三島神社を結ぶ二所詣での道であった。
  近世においては、小田原城下を通って江戸に赴く道であり、熱海から西行すれば、
  三島代官所へ、のちには韮山代官所へ行く道であった。
  東海道の間道として、諸大名、旗本ら武士たちが熱海温泉へ湯治に来る道として、
  多くの人馬が往来したであろう。
  またこの道は、軽井沢以西の田方郡諸村の米が熱海経由で江戸に至る
  廻米の輸送路でもあった。」
                             (『熱海市史上巻』熱海市史編纂委員会 より)

  【*1】 小田原道の山寄りの道である、伊豆山神社から鳴沢、稲村へと至る道程に「礼拝堂峠」という峠がある。
       「礼拝堂峠」については、『伊豆東浦路の下田街道』(加藤清志著・サガミヤ選書)に詳しい。


道標を兼ねた享保3年の石仏


函南側へ少し下ると2体の石仏と丁目石がある

「根府川路」は古来から日金山信仰の道として開け、東海道整備以前は箱根越えの
重要路の一つとして栄えていたようです。
それを示すかのように函南町軽井沢へとのびる道の様子は幹線道を思わせる立派なものです。
よく見ると丸石の敷き詰められた一応の石畳となっています。
峠に祀られた享保三年の石仏は道標を兼ねているようで、
「左ひが祢 右あたみ道」(左日金山 右熱海道)の文字が刻まれているのを確認できます。
丁度この峠が日金山と熱海とのジャンクションになっていたようです。

往時の「根府川路」の様子を知るには
『根府川通見取絵図第二巻』(東京美術刊行・児玉幸多監修・平成8年)が詳しいです。

  「旧根府川通は姫ノ沢の道標から山道が続く、途中では山腹の縁を利用した道になっており、
  現在の熱海街道と離れていて、地元の人もその道筋を知る人が少なくなった。
  その旧道と伊豆スカイラインが交差した地点のすぐ西が峠である。
  しかし、伊豆スカイラインを通すにあたり、旧道を遮断してしまったために
  現在ではこの旧道を通ることはできない。
  現在、地元の人々はこの旧道の峠を軽井沢峠、新しい熱海街道の峠を熱海峠というように
  使い分けている。
  熱海からこの峠までの行程については地元では三島道と称することが多く、
  これより西方の根府川通りについては熱海道と称することが多い。」
                             (『根府川通見取絵図第二巻・解説篇』 より)


東海道400年記念ウォークの標識が転がっていた


しばらく進むとヤブ気味に・・・

軽井沢へと向かう道の様子、雰囲気があまりに良いので少し下ってみることにします。
峠からすぐの所に「地蔵堂跡」といわれる小広い場所があり、そこには二体の石仏が祀られていて、
そばには「二十七丁」と刻まれた丁目石が置かれています。
この場所には井戸の跡もあるといいます。

丁目石は日金山への参詣路を示すものなのでしょう。
『根府川通見取絵図第二巻・解説篇』によると、

  「この日金山へ通ずる道は現在では利用者が全くないが、
  この道を辿れば日金山から相模国湯河原に通ずることができた。
  そのため相模国湯河原地方の海産物を伊豆田方郡の山間村落へ運ぶ道であり、
  また山間村落の特産物を小田原方面に輸送する道として多く利用された」と書かれています。

信仰の道としてばかりではなく、物資輸送の道として、
ときには心を満たす信仰の道よりも腹を満たす道としての役割も担っていたのでしょう。
日金道については『函南町誌中巻』(函南町誌編纂委員会・昭和59年)にも次のように記されています。

  「間宮、大土肥、平井、鬢ノ沢、軽井沢を経て日金山東光寺に登る道であって、
  ほぼ熱海街道に沿っているが、軽井沢からは龍泉寺の手前から山道となり、
  弦巻山の北側を駒形上、駒嶽を通り、伊豆スカイラインに突き当たった辺から熱海峠に
  一旦下って日金山に登っている。
  今でも駒嶽の裾や熱海峠から上に当っての旧道には何丁目かを示す石の碑が
  各所に残されている。
  頼朝が伊豆に配流された頃は、この道が伊豆山権現への参詣の為利用されたことであろうし、
  徳川時代になって日金信仰の盛んになるにつれ、善男善女の往来もかなりあったことであろう。」

軽井沢側に数百メートルばかり歩みを進めてみると、
道端に東海道400年記念祭のイベント看板が打ち捨てられ転がっているのを見ます。
この看板は以前に駿河小山のヅナ坂峠を訪れた時にも見たことがあります。
一時は歴史ある道を顧みる気運があっても、またすぐに人の記憶からは忘れられてしまうようです。
軽井沢側の道は石畳が敷かれ、石積みの上に成り立っている土木建築上しっかりとした道ですが、
次第にヤブ気味となってくるので峠へと踵を返します。


軽井沢峠から熱海側へと下降する


幅広の刈り払い道を進む 峠方向を振り返る

峠から再び伊豆スカイラインを横断し、駐車場の端から地形図熱海側の北側の破線道が
送電鉄塔初川線10号の巡視路として口を開けているのを見出します。

急な斜面をプラスチック階段で下ると、初川線11号に至る巡視路との分岐を迎えます。
この分岐で折れると、先ほどの南側の破線道を合わせて、11号鉄塔へと向かうようです。
本来の峠道を辿るためにはここで折れて、11号鉄塔へと向かうべきでしょうが、
11号鉄塔から先、道があるとの保証はありません。
鷹ノ巣山トンネル口に向けて笹ヤブとの格闘が予想されるので軟弱な探索者は逃避をします。
たとえ峠道本道を歩けたとしても、再度、交通量の激しい熱函道路を歩く気は起きないのです。

ここは分岐を直進し、幅広の明るい刈り払い道を気持ち良く進みます。
そう、この道は前回撤退した熱海梅ラインからの道に合流するとの強い確信があったのです。


峠道本道があるであろう谷筋は笹が深い
送電鉄塔初川線11までは刈り払い道が確認できる


前回、引き返してしまった刈草堆積斜面を下る

幅広の刈り払い道から初川線11号の鉄塔を望むと、確かにそこまでは道が確認できますが、
それより先は笹の海に覆われています。
峠道の本道はやっぱり深い笹の海の底に沈んでいるのでしょうか?

前回、熱海梅ラインのヘアピンカーブ部分から進入した際に引き返してしまった
刈り払われた草の堆積する斜面を迎えます。
フッカフカで歩き難いですが、無事に草斜面をクリアして見覚えのある道へと出ます。
ここまでくればもう安心と、駆け下るようにして熱海梅ラインへと飛び出します。
ここから車を乗り捨てた姫の沢公園まではひと下りです。


熱海梅ラインのヘアピンカーブ部分に出る
ここから軽井沢峠へ向かう道が派出している


歩行コース軌跡
本来の谷筋の破線道が拾えなかったのが残念
熱函道路は交通量が多いので歩行は要注意です


『登山・ハイキング地図・箱根』 1993年版 日地出版

● 「熱海さんぽの峠@」(七尾峠・泉越峠・十国峠・熱海峠)のレポートを見る
● 「熱海さんぽの峠B」(丹那峠・タケの道の峠・ミズアラシの峠・りんどう峠・佐治山峠?・七曲峠?)の
レポートを見る

* 盆地を結ぶ峠 *

姫の沢公園の駐車場へと戻りますが、日没までにはまだ時間があります。
せっかく熱海に来たのだから温泉で一風呂と、正常な一般旅行者は思うところですが、
愚かな峠マニアは、さらに峠を欲張ります。
次に目指す峠は、池ノ山峠。
地形図「網代」図幅の左上、函南町南箱根ダイヤランドと韮山町の大沢池とを結ぶ峠で、
玄岳の西方鞍部p563が池ノ山峠になります。

熱函道路を飛ばし、鷹ノ巣山トンネルを潜り抜けて移動します。
南箱根ダイヤランドという巨大高級住宅地兼別荘地で道に迷いながらも、
車で行ける所まで接近します。

住宅の切れ目で車を乗り捨て、未舗装道をしばし歩けばp563の西方の小山となります。
小山を階段で上がれば配水施設があり、強引に東方へと下っても峠道には出ますが、
ここは小山手前の右手の沢筋を下降した方がわかりやすいでしょう。
沢筋の立木は伐採されたばかりのようで、土地の所有権を高言するかのような赤い旗が
点々と立てられています。


『ニューマウンテンガイドブックシリーズ7 伊豆・箱根』
 中村謙著 朋文堂 昭和39年 挿入図 より


池ノ山峠
丹那側は植林地で古道が残るが別荘地に飲み込まれる

下り着いた鞍部が池ノ山峠なのでしょう。
峠名をしるした標識や石造物などは残念ながら見当たりません。
「1.私有地に付立入禁止 2.大沢池での釣り、遊泳禁止 3.火気厳禁(タバコの投げ捨て禁止)」
と書かれた看板が無愛想に立てられているのみです。
土地を買い占めて、ゴルフ場や別荘地にするつもりでしょうか?
大沢池方向も近年伐木されたようで、赤旗が随所に立てられ、ゴルフ場のカップに挿された
旗のように風にはためいています。

この峠を訪れてみたいと思ったのは、『庶民列伝』(野本寛一著・白水社・2000年)に収められた
「盆地に生きて」というルポルタージュを読んでからです。
丹那から池ノ山峠を越えて浮橋へと嫁いだ女性の一生、盆地での厳しい生活や暮らしぶりが
描かれたルポルタージュです。

伊豆東海岸の「東浦路」、伊豆中央部の狩野川沿いの「下田街道」など知名度の高い道とは別に、
田代 丹那 浮橋 田野原と四つの盆地は「丹那道」と呼ばれる山道で結ばれていました。
その小盆地、丹那と浮橋を結んでいたのが池ノ山峠です。

峠を越えて嫁ぐ日の様子を同書では次のように記しています。

  「昭和五年十月五日、午後三時に家を出て、峠に着いたのは四時ごろだった。
  みつさんは自分の村を眺めた。小学校も、お寺も、屋敷も見える。
  彼方には箱根の山が見え、色づき始めた稲が盆地の底をいっそう美しくしていた。
  これから始まる新しい生活に対する不安と、これまで育った盆地の生活の思い出が入りまじって
  一瞬胸がつまった。
  みつさんの前を馬方にひかれた馬が歩む。馬の背では荷縄で左右に振り分けられた二つの
  葛篭が同じリズムでゆれる。馬はゆっくり鈴を鳴らしながら歩く。・・・・

  峠を過ぎたところは大沢原という草地で、その真中に大沢池という美しい池がある。
  この池にちなんでこの峠は「池の山の峠」と呼ばれた。
  一行はその池のほとりでひと休みし、下り道にかかった。
  やがて前方に天城連山が見え始め、その手前に民家の屋根が点々と見えた。
  それがみつさんの新しい生活の場、浮橋のムラだった。」
                   (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「盆地に生きて」p307〜p308)

これを読むと、峠を越える花嫁一行の姿が目に浮かびます。
また、峠でむかえる心の動揺や転調までも感じ取ることができます。


池ノ山峠
浮橋側は伐木され、私有地を表明する旗が目立つ


なんとなく神秘性を帯びた大沢池を見下ろす
遠くには天城の山並みが望まれる

丹那から浮橋へと池ノ山峠を越えて嫁いで来たみつさんという女性の
「峠の思い出」として次のようなことも語られています。

  「盆地である浮橋から他村へ通ずるには、当然峠を越さなければならなかった。
  みつさんは買物をするために、米を二斗背負っては萱野の坂を越えて大仁の町へ下った。・・・・
  また、七平さんとみつさんは、あるとき連れ立って家の赤牛に米を一俵つけ、山伏峠を越えて、
  東海岸の多賀へ米売りに出かけた。・・・・
  終戦後、脱穀の発動機に使う石油を求めに伊東まで出かけた。二人は米を二斗ずつ背負って
  伊東まで歩いた。帰りには石油を一斗ずつ背負って亀石峠を越えた。・・・・
  みつさんにとって最もなじみ深い峠は、嫁ぐ日に越えてきた池の山の峠だった。
  あるとき、丹那の実家へ子どもを連れて里帰りをし、実家から西瓜をもらって帰ったことがあった。
  悲しいことに、峠へ着いたところでその西瓜を落として割ってしまったことがあった。
  また、あるときは、出征する兄との別れのために、夜、この峠を一人で越えた。
  やさしかった兄の運命を思い、暗い山道を提灯たよりに夢中で歩いた。
  実家へ着いたときには二本目のローソクが燃え尽きていた。」
                    (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「盆地に生きて」p315〜p316)

峠を越えなければ生活が成り行かなかった盆地での暮らし、
そこで暮らす人々にとって峠越えは、苦痛であったに違いありません。
現金収入を得るために越えた峠、里帰りに越えた峠、出征する兄を見送るために越えた峠、
峠に感傷的な思いばかりを懐いている現代に暮らす、それも余所者の旅人は
オセンチになってしまいますが、生活と結びついていた峠の現実を知らなくてはならないでしょう。

峠から浮橋側へと下ってみると、今でも神秘的な雰囲気で水を湛えている大沢池の
静かな水面を望むことができます。
時代が一瞬止まっているかの感覚を覚えましたが、道端には私有地を表明する赤い旗が点々と
続いています。この静かな環境もいずれ破壊されてしまうのかもしれません。
峠から丹那側の道は植林地になっていて、古道の雰囲気も若干あるのですが、
しばらく進むと高級住宅地兼別荘地へと飲み込まれてしまいます。

歩く人が無く笹ヤブに埋まってしまった峠道なら、また刈り払えば峠道を復元することは可能ですが、
地形を変えるほどの大規模造成による住宅地や別荘地に飲み込まれては峠道の回復は望めず、
かつての峠道の有様を取り戻すことは二度とできないのです。
現地で昔から暮らしている人々は、どんな思いで峠道の変貌を見ているのでしょうか?
峠からは大沢池の向こうに天城連山の山並みを望むことができます。
池の水面に激しい波が起こらないことを祈るばかりです。

(峠行2009.01.26)