熱海さんぽの峠 B

丹那峠・タケの道の峠・ミズアラシの峠・りんどう峠・佐治山峠?・七曲峠?

* 牛乳の越えた峠 *


『庶民列伝』(野本寛一著・白水社・2000年)
「牛飼いと峠」 p198挿入図より


熱函道路のパーキングエリア(トイレあり)に車を停める
函南は酪農が盛んで「丹那牛乳」は一ブランドになっている

函南町と熱海市をつなぐ山越えの交通について、
『庶民列伝』(野本寛一著・白水社・2000年)という書物に「牛飼いと峠」と題されたルポがあり、
そこに幾つかの峠名が登場します。

「県道の峠」、「峠山の峠」、「タケの道の峠」、「ミズアラシの峠」、これらはみな正式な呼び名では
ないのかもしれませんが、伊豆スカイラインに分断された山越えの交通路がどんな状態なのか
興味を覚え訪れてみることにしました。
尚、「県道の峠」は以前訪れた「熱海峠」のことなので割愛します。

さて、「峠山の峠」とは、どこなのか?同書のアバウトな挿入図では判然としません。
これも以前訪れたことのある「軽井沢峠」のことではないかと一瞬思いましたが、
JR丹那トンネルの真上である「丹那峠」のことではないかと考えてみました。
トンネル貫通後の現行版地形図にも破線道がしるされていて、どうやら道はありそうです。
「峠山」とは、たしか熱海側の字名であったと思いますが、正確な位置がどこなのか把握していません。

「ミズアラシの峠」とは、どこなのか?
これは氷ヶ池の縁を通る破線道が地形図にもしるされています。
丹那盆地からこの道を辿り伊豆スカイラインの玄岳I.Cに出る道が「ミズアラシの峠」なのでしょう。
「ミズアラシ」とは「水嵐」とでも書くのでしょうか?

問題は、「タケの道の峠」です。一体どこなのでしょうか?
現行版地形図には電波塔表記のある峰(弦巻山p693)とp681(谷ノ峰、池ノ山)との鞍部に
熱海側のひばりヶ丘から上がってくる破線道が認められます。
この道が稜線に達する鞍部が「タケの道の峠」なのでしょうか?
しかし、古い版の地形図では熱海側の道の記載は無く、
函南側については畑集落から破線道がのばされてはいますが稜線にまでは達していません。
「タケの道」の「タケ」とは、「嶽」のことでしょうか?それとも「竹」のことなのでしょうか?

いろいろと疑問はありますが、現地を訪れてみます。


『地球の風8登山ハイク伊豆天城山』
(ゼンリン・1999年版) 付属地図 より
丹那峠、弦巻山、池ノ山などの名が見られる。
弦巻山と池ノ山の鞍部が「タケの道の峠」だろうか?


明治18年測図昭和8年第2回修正測図昭和29年資料修正
昭和29年発行 地理調査所
丹那峠道が実線で描かれている。
丹那トンネル開通前の版ではも少し幅広の道で描かれている。

熱海市街から坂路を登り鷹ノ巣山トンネルを潜り抜け熱函道路のパーキングエリアに車を停めます。
「熱函道路」の「熱函」は「ねっかん」と読むようで、
赤提灯で一杯やりたいと思っても「あつかん」と読んだら間違いのようです。
パーキングエリアには酪農の町函南を象徴する牛のモニュメント(モウ♪ニュメント)が置かれています。

本日の計画は、丹那峠へと登り、伊豆スカイラインに沿って南下し玄岳を踏み、
ミズアラシの峠から熱函道路に下って戻ってくるという周遊コースです。
注意すべきは伊豆スカイラインの存在です。
どうやらスカイライン上は歩行者通行禁止のようなので、自己責任が求められます。
(路上に歩行禁止の標識はありませんが、多分、料金所等にはあるのでしょう)
スカイラインを歩くのではなく、それに沿った縁を歩きましょう。


丹那峠道の前半は林間のコンクリ舗装道
道しるべも石造物も見当たらない


ヤブ道に地形図のコピーが落ちていた
同好の士の落とし物だろうか

棚之沢橋、第一丹那橋、第二丹那橋を渡り、鷹ノ山トンネル方面へと戻り、峠道の入口を探します。
それらしきものはすぐに見つかるのですが、標識や石造物など古道を偲ぶものはなく、
コンクリ舗装された味気ない道で植林斜面を登り始めます。

最初の分岐で舗装されていない道を進んでみましたが、
すぐに笹の密ヤブに行く手を阻まれ後退を余儀なくされます。
軟弱者はコンクリ舗装の恩恵を受け入れ、クネクネとしたコンクリ道で着実に高度を稼ぎます。
しかし、コンクリ舗装が途絶え、道の真ん中からだろうと草木が生える怪しい雰囲気になってくると、
突然、林道は終焉を迎えてしまいます。

それでも慌てず、林道終点の手前、数十メートル地点に斜上する道跡を認めていたので
そこまで引き返し、それを辿ることにします。
ややヤブ気味の道ですが、道の痕跡には違いありません。
なんと、こんなヤブ道に、地形図を張り合わせコピーしたものが落ちているではありませんか!
全く同じように自分も「熱海」と「網代」の地形図を張り合わせコピーしたものを手にして
山道を拾っているのですから、姿の見えぬ同好の士の存在に妙な喜びを感じます。


植林地の中に凹とした道がのびる
大半は笹ヤブが占拠している


道がクロスするポイント
とにかく登り勾配の道を選択して進む

本来の峠道(地形図破線道)とは若干ズレているような気もしますがこの道を辿るしか手がありません。
違っているとしても、いずれ上部で合流するだろうと根拠のない楽観的な期待を胸に進みます。
凹とした道には、笹ヤブや潅木が蔓延り歩き難いところもありますが、
ダニなどの不快生物がいるわけでもなく、突進を決め込みます。

しばらくすると、道がクロスするポイントを迎え、一瞬戸惑いますが、
一番明瞭で、登り勾配である道を選択して進みます。
これよりしばらく植林地の中の安定した道となりますが、それも小規模の山抜けで遮られます。
ここは左手斜面に高巻き気味に逃げ道を見つけ踏み跡を辿りクリアします。


山抜けを高巻いた後に現われる涸れ沢状の凹路を進む
トゲトゲ植物を含むブッシュが蔓延り歩行困難


凹路から右手の小尾根に逃れると、うすい道跡?がある
錆びた空缶を頼りに激烈な潅木ブッシュを進む

山抜けを高巻き気味にクリアした後は、涸れ沢状の凹路を進みますが、
果たしてこれが道であるのか、単なる小さな涸れ沢であるのか判然としません。
踏み跡やゴミがないので多分道ではないのでしょう。
それに道だとしたら、ここのブッシュはひど過ぎます。
トゲトゲ植物の猛烈な歓待を受け、悲鳴を上げるばかりなのです。
ジーパンや上着のフリースからは、穴が開くのではと心配させられる引っ掻き音が耳に届きます。

このままでは着衣のみならず、気持ちもボロボロになってしまうと凹路からの退避を図ります。
方向的には、この凹路を進んでしまっては滝地山に出てしまうと感じたので、
右手斜面を登りますが、どこに逃げても潅木ブッシュばかりで前進がままなりません。
潅木に体を搦め取られ、永久に脱出できないのではとの恐怖に襲われますが、
それもいいかな・・・なんて、厭世観に心が支配されかけたりもするのです。


飛び出したところは伊豆スカイラインがカーブする
滝地山展望台の分岐で、地形図破線道とドンピシャ!


丹那峠から丹那盆地を望む
雲に隠れているが富士の姿は雄大

顔を鞭打つ潅木の枝で目を覚まし、こんなスカイライン脇のヤブ中で死体が発見されては格好悪いと、
潅木ブッシュとの闘いを再開し、掻き分けして前進を続けると、道跡らしき薄い凹状形を見出します。
道跡といっても依然としてブッシュの猛威は衰えていないのですが、
足もとには錆びた空缶、耳を澄ませばスカイラインを走る車の音が聞こえてくるのです。

「歩くから道になる 歩かなければ草が生える」、相田みつをさんの言葉です。
ああ、その通りだと実感してしまいます。(こんな状況を想定した言葉ではないのでしょうが・・・)
「歩くから峠道になる 歩かなければヤブになる・・・」

飛び出した伊豆スカイラインはあまりに明るく開放的で、青い空が眩しく感じられました。
思わず、自分のような人間はヤブの中に戻るべきではないかと、そこに立つことを躊躇したほどです。
ユニクロ製のジーパンはボロボロで、いたるところにほころびが見られます。
トゲトゲ植物はなぜあんなにもトゲトゲとして他者を近づけることを避けているのでしょうか?
オマエの心だってトゲトゲではないかと言い返されそうなので植物ばかりを責めることはできませんが。


丹那峠から弦巻山を望む
歩行者通行禁止の看板標識はない


丹那峠の熱海側の峠道は歩きやすそう
「奥の沢国有林」の看板が転がっている

地形図の破線道が越える場所にドンピシャで飛び出たものの、
そこには峠の名をしるした標識もなければ、ヤブとの死闘を労ってくれる石仏の姿もありません。
おおよそ峠の情緒というものは感じられないのです。
すぐ北方の電波塔のある峰を滝地山というらしく展望台への道がスカイラインより分岐しています。
ただし、滝地山については、地形図の鷹ノ巣山をその位置としている文献もあり混乱が見られます。
(「滝地山」は「滝知山」とも表記するようです)


『登山ハイキング地図・箱根』 1993年版 日地出版
672m峰を「滝地山」とし、「鷹ノ巣山」はその北方に位置している。
「丹那峠」の標高は621.2mとあるので「滝知山峠」と同一か?

『熱海』(熱海市役所編・昭和28年)では「瀧地山」について、次のような説明があります。
「日金連峯にあり、鷹ノ巣山の東南に連なり、海抜672mで此の山の地下二千六十呎の地下を
丹那トンネルが通っている。」
ちなみに「鷹ノ巣山」は次のように説明されています。
「日金連峯の一つで海抜677m。眺望極めてよく初川の源である。」

また、『丹那地域風土記』(丹那地域風土記編集員会・昭和45年)では、
鷹ノ巣山の標高点を672.2mと紹介しています。
ちなみに同書では「丹那峠」という峠の名は見られず、
「滝地山峠」という峠名が621.2mの峠として紹介されています。
「丹那峠=滝地山峠」のことなのでしょうか?そして、「峠山の峠=丹那峠」でいいのでしょうか?


滝地山展望台の東南尾根には明瞭な道がある
地形図の破線道と道筋は一致している


送電鉄塔初川線18を示す巡視路標杭がある
尾根からは眼下に来宮、熱海の市街が望める

熱海側に下る道は、函南側と比べるとあきれるほど(?)明瞭です。
「奥の沢国有林」の朽ちた看板が転がっていますが、人工林はほどよく手入れされているようです。
少し熱海側の道を歩いてみますが、ブッシュが顔を叩くことも、トゲが体を痛めつけることもありません。

滝地山展望台からのびる東南尾根に乗ると、送電鉄塔「初川線18」を示す巡視路の標杭があり、
さらに道の状態は良くなっていきます。
尾根からは来宮、熱海の街が望まれ、温泉ホテルが山から降りてコイよと誘惑します。

丹那峠から稜線上の南下を開始します。
稜線に引かれた地形図の破線道を信じて、忠実にp645を詰めますが、
再びのトゲトゲ攻撃を受ける羽目になります。
ススキの原に踏み跡がつけられているのですが、膝から下は絡み付くトゲトゲ植物にボロボロです。
小ピークは笹ヤブに覆われ突進する気も起きず、稜線伝いに進むことを早々と諦めて引き返し、
伊豆スカイラインの縁を歩いて南下することにします。


この辺り(弦巻山南鞍部)が「タケの道の峠」だろうか?
東方の現行版地形図の破線道はうすい


西方は丹那盆地と富士山
グライダー用と思われる吹流しが風に揺れる

先ほどまでの青空が一変し、いきなり小雪が舞い始め、寒風が肌を刺します。
伊豆というと温暖な地であるとばかり思われがちですが、富士颪や駿河湾を渡るこの季節の風は
冷たく温泉の温もりが一入恋しく感じられます。
伊豆スカイラインは平日のせいか交通量が少なく、
立派な二車線道路が有効活用されているのか疑わしく思えてきます。
稜線を破壊してまで拵えたせっかくの道路ですから、どうせなら破壊ついでに(?)並行する歩道を
整備してもらいたいものです。
スカイラインの建設時、一部の地盤の弱い箇所には、丹那トンネルのズリが大型ダンプで
運搬されて埋め土に使用されたといいます。
巨大モグラの生態は知りませんが、トンネルの土はこんな所にも運ばれていたのです。

通信アンテナや電波塔の立ち並ぶ峰(弦巻山p693)とp681(谷ノ峰、池ノ山)との鞍部が
「タケの道の峠」でしょうか?
現行版地形図には熱海側から林道を横断して上がってくる破線道が描かれていますが、
昔の地形図にはこのような道は見られません。
現地にて一応、熱海側の道は認められますが踏み跡程度にしか見えません。
一方、函南側に道の存在する様子は窺がえず、笹や潅木の斜面が広がるばかりです。
ハングライダーやパラグライダーの発進地になっているのか、吹流しが風に揺れています。
熱海側、函南側とも眺望に優れていて、特に函南側は富士山を背景に、
丹那の盆地地形が手に取るように確認できます。
丹那トンネル掘削工事に伴い盆地の水が枯渇するという影響も出たようですが、
稜線から見下ろす現在の盆地は肥沃な土地に見えます。

  「・・・野菜や米を背負って峠を越えた。村の女たちは、一週間に一度くらいの割で、
  タケの道の峠を越えて熱海へ出かけた。
  終戦後はこのタケの道が「闇の道」となり、多くの農産物が熱海へ流入したのだった。」
                     (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「牛飼いと峠」p205 より)

この鞍部が果たして「タケの道の峠」なのでしょうか?はっきりしません。
『丹那地域風土記』には熱海へ出る道として次のような記述があります。

  「弦巻山を越えた道は最も古いが、畑から玄岳の中腹を通って和田に抜け熱海へ出る道がある。
  又、畑の長光寺の前を通り嶽山(たけやま)を通って熱海に出る道、これには滝沢・名賀からの
  道が合流している。」

上記の「玄岳の中腹を通って和田に抜け熱海へ出る道」とは「ミズアラシの峠」のことで、
「嶽山(たけやま)を通って熱海に出る道」とは「タケの道の峠」のことでしょうか?

だとすると「タケの道」の「タケ」とは、「嶽山」の「嶽」を意味するものなのでしょうか?
では「嶽山」とは、一体どこのことなのでしょうか?
同本の標高点紹介ページによると「たけ山」は693.3mとありますから「たけ山=弦巻山」なのでしょうか?

『熱海』(熱海市役所編・昭和28年)には「弦巻山」について次のような説明がなされています。

  「海抜693mので、田方郡函南村軽井沢と熱海市の境にある。
  昔、平安鎌倉時に於いては最も重要な通路であった。
  田中伯元の記には弦巻山は治承4年(1180)石橋山敵対の武士が降参の評議をした所とある。
  道が険しく、行人が弓弦を立樹に巻き、之を援けに登ったので此の名が起ったといわれている。」

弦巻山が嶽山であるとの記述はありませんが、
「峠」であり、「重要な通路」であったとはどういうことなのでしょうか?


玄岳が姿を現わした
遠くからも笹の緑の中に刻まれた道が望まれる


氷ノ池に下る道 
この辺が「ミズアラシの峠」だろうか?

「タケの道の峠」がココであるとの確信を得られぬままさらに先へと進むと、
前方には笹の緑に覆われどっしりとした玄岳の山容が姿を現わします。
初めてやって来た場所なのに、なぜか以前に見たことのある風景に思えてなりません。
見覚えのある場所・・・
山歩き、峠歩きをしていると、時としてそんな強烈な感覚に襲われることがあります。
前世に訪れていたのでしょうか、それとも単なる気のせいか・・・。

閉鎖された玄岳ドライブインを過ぎ、玄岳I.Cや料金所が近付くと、
氷ヶ池よりスカイラインに達する道を見ます。
これが「ミズアラシの峠」なのでしょうか?

  「寅平さんは、丹那尋常小学校の高等科一年の年(今の中学一年生)から父親と一緒に
  峠を越えて熱海へ牛乳を運んだ。
  丹那盆地から熱海へ行くには四つの道があり、いずれも峠越えだった。
  南から数えると、ミズアラシの峠、タケの道の峠、峠山の峠、県道の峠と順に並んでいる。
  いずれも険しい峠道であるが、寅平さんたち親子は、いつも約650mのミズアラシの峠を越えて
  熱海に向かった。
  ・・・・前後に一本ずつの牛乳罐を天秤棒で担いで峠を越えた。
  峠まで一時間、熱海までの下りは四十分かかった。朝暗いうちに家を出、熱海に着くと夜が開けた。
  ひどいときには、一日二往復することもあった。
  大正時代は天秤棒で運び、昭和に入ると馬も二頭使って運ぶようになった。
  ・・・・馬は背の左右に二本ずつの牛乳罐をつけて峠道を歩いた。
  ・・・・降っても照っても、峠を越えて熱海へ通った。仕事を代わってもらう人がいないので、
  ほかの土地へ遊びに行くことなど考えられなかった。
  帰りには、毎日必ず、山で牛に与える草を刈って帰った。」
                    (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「牛飼いと峠」p204〜p205 より)

厳しい峠越えを強いられた牛飼いの生活振りがうかがえる一文です。
通勤時に駅の階段の登り降りにふぅふぅと息を乱し、エスカレーターに頼り切ってしまう軟弱者には
想像できない生活が、少し前まで行われていたのです。

『庶民列伝』の著者は昭和52年に消えゆく峠道を訪れ、次のように記しています。

  「昭和39年、まず、この盆地の東側の山並みの尾根を伊豆スカイラインが通った。
  そして、昭和48年には、熱函道路が盆地の東側から南側へかけての山の中腹に通じた。
  熱海と三島を約30分で結ぶ熱函道路は、丹那盆地を確実に開いた。
  寅平さんが30年間牛乳を運び続けたミズアラシの峠道も完全に社会的機能を失って
  廃道と化しつつある
  私が寅平さんが歩いた道をたどって熱海まで歩いてみようと思ったのは、昭和52年のことだった。
  途中で道を失い、、岩をよじ登り、潅木を分け、険しい傾斜に耐えながらやっとのことで草地に出た。
  ・・・・寅平さんが越えたミズアラシの峠らしいところに立つと、駿河湾、大瀬崎、富士、愛鷹、箱根、
  天城、三島と眺望できた。熱海の海は、湾岸のホテルの白亜と対照的で青かった。
  熱海側の道はまだよく残っており、雑木のトンネルができていた
  ばかに長い旅を続けた後のような感慨があった。」
                         (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「牛飼いと峠」p207 より)

ミズアラシの峠道は廃道と化し、消えてしまったのでしょうか?
「熱海側の道はまだよく残っており・・・」という一文が気になりますが、
玄岳I.Cや料金所に近付いて
道を探索する気は起きません。
古い地形図には、料金所東のp609を経て、ひばりヶ丘へと下る道筋が描かれていますが、
現行版地形図には見られず、和田山から玄岳に至る破線道がしるされているだけです。


玄岳I.Cから一般登山道に入る
あの池の縁を通って牛乳を熱海に運んだのだろうか?


玄岳の東の肩に「リンドウ峠」の書き込みがあった
熱海市和田山から登山道が合流する

玄岳I.Cを過ぎると、玄岳に向けた一般登山道があるので、そこを歩くことにします。
笹を開いた登り道から見下ろす氷ヶ池の水面は小さく、そして穏やかです。
昔は、この池に張った氷を切り出して、熱海まで運んだといいます。
冬、池に厚い氷が張るとミズアラシの峠では法螺貝が吹かれ、麓の集落に結氷を知らせたといいます。
法螺貝が鳴った朝は、盆地の畑集落の衆は興奮し、大人も子どもも池へと駆け出し、
切り出された天然の氷を消費地であった熱海へと小型の荷車で運んだといいます。
                     (『庶民列伝』(野本寛一著・白水社)「牛飼いと峠」p197〜198 より)
ミズアラシの峠は、丹那盆地のおいしい牛乳ばかりではなく、天然氷も越えていたのです。

熱海側の和田山から熱海新道を越えて玄岳の東肩に達する道との合流点には、
公的な登山標識が立てられていますが、その柱にはマジックの手書きで「リンドウ峠」の名を見ます。
「リンドウ峠」とは、昔から地元で呼ばれている峠名なのでしょうか?
その標柱の前には「リンドウ畑」と書かれた手製標識もあります。
勝手に創造された峠のように思われますが・・・どうなんでしょうか?

「りんどう峠」というと、島倉千代子さんの歌を思い出します。
  「♪ りんりんりんどうの 花咲く峠  姉サは 馬コで あとふりかえる 〜 ♪」
                            (作詞:西条八十、作曲:古賀政男、昭和30年)
ちなみに、この歌の「りんどう峠」は旧草津峠のことのようです。
また、島倉さんには「十国峠の白い花」という歌もあり、この十国峠は以前訪れた日金山のことで、
ご当地の売店では「十国峠の白い花」という銘菓を売っているとのこと。


無人の玄岳山頂


山頂から十国峠、岩戸山方面を望む

明るい笹原に開かれた一条の道を登りつめると、視界360度の山頂へと飛び出します。
箱根、十国峠、岩戸山、伊豆スカイラインとこのところ足を運んだ地が望まれます。
東には相模灘に浮かぶ初島、西には沼津アルプスや内浦、西浦の海岸線もくっきりと遠望できます。
駿河湾や愛鷹、富士の姿も、天城の連なりも見渡すことができます。

実は、山頂から先、「七曲峠」を探すべく韮山峠方向へと南下を続けたかったのですが、
稜線上には地形図に描かれている破線道などはなく、一面が笹に覆われていて進むことができません。
「七曲峠」という名前は『熱海』という文献資料に「佐治山峠」という名とともに見られるのですが、
正確な位置が判然としません。
稜線沿いに南下すれば辿り着くと考えていましたが、その考えは甘かったようです。


熱函道路と氷ノ池の分岐


氷ノ池の静かな水面に浮き輪が浮かぶ

しかたなく、山頂からは氷ヶ池に向かって下る笹開き道を下降します。
天気は晴れたり曇ったりで安定しませんが、風の冷たさだけは変わりません。
時に小雪が舞うほどですから、温暖な温泉地熱海の背後の山といっても、その池に氷が張ることも
不思議ではありません。

伊豆スカイラインを横断し、氷ヶ池に向かって一気に笹開き道を下ります。
降り着いた所には、「←氷ヶ池・玄岳 熱函道路→」の標識があります。
せっかくだからと、氷ヶ池に立ち寄って見ますが、近付いて見た池の印象は遠くから見たときよりも
いっそう小さく、浅い池に感じられ、池というより水溜りとの印象も否めません。
池畔の広場はアセビを配し、テントサイトとしては良さそうに思えますがスカイラインがこう近くては
キャンプの雰囲気はあったものではないでしょう。
当然この池に、ネッシーのような未確認生物が棲息するという伝説もないことでしょう。


心許ない笹のトンネル道が続く


笹トンネルを抜けると植林地内の道になる

氷ヶ池から熱函道路へと下ります。
牛乳罐を天秤棒で担いで、この道を歩いたのだろうかと感慨深くもなりますが、
次第に道はハコネダケのトンネル状を行く頼りないそして怪しげな状態へと変わっていきます。
ハコネダケのトンネル道に入って最初の分岐で左右どちらを選択するか戸惑いますが、
車を停めたパーキングエリアには右の道が近いだろうと、右のハコネダケのトンネル道を選びます。
肩幅ほどのトンネル道は頗る頼りないのですが、暗いというだけで歩行に支障はありません。
トンネル道を抜けると、植林地内の道となり、最後はコンクリ林道をくねり熱函道路へと飛び出します。
(『新ハイキング568』「玄岳」(小林経雄著)に、氷ヶ池から同じ道を下降している記録がある)


熱函道路沿いには一応、登山道入口を示す標識がある

熱函道路には、「玄岳登山道入口」の標識が一応、立っていますが、
その前にある「南箱根ダイヤランド」の大きな看板に隠れているし、同系色なので極めて目立ちません。
そもそも玄岳登山は、熱海側から登るのが交通の便からいっても適しているのでしょう。

熱函道路を猛スピードで走行するトラックや乗用車に恐怖を感じながら、
小谷之沢橋、畑橋を渡り、パーキングエリアへと帰着します。
熱海と函南を結ぶ便利な熱函道路ができたのですから、峠道が廃れてゆくのは当然のことでしょう。
丹那峠の函南側は猛烈なヤブが蔓延り、ミズアラシの峠はハコネダケが繁茂しています。
かつて熱海と函南を分かつ障壁である稜線を、牛乳を腐らせずに、氷を溶かすことなく、
労を厭わず峠越えに汗した人たちがいたことを熱函道路を爆走するドライバーは知っているのだろうか。

JR東海道線に乗車したとき、丹那トンネルはいつも退屈させられる暗闇でしかなかったけれど、
これからこのトンネルを通過する際は、峠道でのトゲトゲ植物との闘いを思い出すことでしょうし、
峠越えを強いられた往時の生活の断片を思い浮かべることでしょう。


『熱海』(熱海市役所編・昭和28年)の地図より
「佐治山峠」「七曲峠」という「峠」の名前が見られる

玄岳山頂から稜線伝いに南下することができなかったので、
車で熱海市側の別荘地「自然郷」へと移動して、「佐治山峠」、「七曲峠」の探索を試みます。

両峠の名前は『熱海』(熱海市役所編)の「熱海全図」の中に見られます。
その正確な位置はハッキリとしませんが、古い版の地形図の破線道と照らし合わせて
以下の図のように推理してみました。
同文献資料に両峠についての詳しい説明はなく、どのような峠なのか一切不明です。
「七曲峠」については、稜線上に位置しているので「ドッケ系」の峰の可能性もあります。


大正10年測図昭和5年部分修正測図
現行版地形図には無い道が玄岳の南方小峰を越えている


平成14年発行地形図
別荘地「自然郷」から峠を求めて尾根筋を探索する


別荘地「自然郷」の一番山寄りのヘアピンカーブから山に入る
「朴敬元遭難碑」まで道が整備されている


「奥山ハイキングコース」という標識もある
「奥山」とはどの山のことを指すのだろうか?

別荘地「自然郷」の山側に一番近いヘアピンカーブから山道を拾うことができます。
目印は青い屋根のY邸です。(この御宅は山から下るときにも目印となります)
ヘアピンカーブの空地には、韓国初の女性飛行士である朴敬元女史の飛行機事故をしるした
案内板が設置され、山道はその墜落現場へと導く慰霊の道となっています。
思いの外、歩きやすい道が整備されていることに驚き、早速山中へと踏み込みます。


トラロープを無視して尾根筋を忠実に辿ることにするが・・・
道跡らしきものとケモノ道が錯綜し、とどめは激笹ヤブに撤退する


この松の大木辺りが佐治山峠か?
それとも手前の斜面崩落部分が峠だろうか?

この慰霊碑へと導く道は、「奥山ハイキングコース」という散策路にもなっているようで、
随所に標識が設置されています。
しかし、この「奥山」がどこのことなのか、このハイキングコースを辿ればどこに出るのか、
この地域の地理に不案内な者にとっては見当がつきません。

さて、問題の「佐治山峠」ですが、どこなのかよくわかりません。
斜面崩壊をしている小鞍部が峠なのでしょうか?和田山付近は望めます、でも、峠道が見当たりません。
も少し先、「←朴敬元慰霊碑」の標識を無視して、トラロープを潜り抜けた先の松の生えた小鞍部が
峠でしょうか?和田山側に薄い踏み跡があるようにも見えます。でも、判然としません。


「朴敬元遭難碑」まで行ってみる
「奥山ハイキングコース」はさらに続くが日没が近いので撤退

「七曲峠」は、さてどうしたものか?
整備された道には戻らず、松の生えた小鞍部から尾根筋を拾って進んでみます。
ケモノ道が錯綜する潅木ブッシュの茂る尾根筋斜面を直登します。
所々、人工的な道の痕跡も認められますが、安定せず極めて不明瞭です。
近年人の歩いた形跡はなく、ゴミなども落ちていません。あるのはケモノの足跡とネグラばかり。

登るにつれ、稜線は近付いてきますが、次第に密なる笹ヤブが進路を塞ぎ、登行は窮まります。
結局、尾根筋を諦めて、「奥山ハイキングコース」を拾ってみることにします。
しかし、道はトラバース気味に刻まれていて、思いもしない方向へと流されてゆく模様・・・
「七曲峠」とは玄岳からこんなにも離れてしまうものかと懐疑的になる頃、「朴敬元慰霊碑」に辿り着きます。
これより先も、「奥山ハイキングコース」は続いているのですが、残念、日没時間切れとなるのです。

結局、「佐治山峠」、「七曲峠」の正体を掴めずままに立ち去ったのでした。

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(峠行2009.02.02)