逢坂峠

「逢坂峠」に興味関心を持ったのは、
幻の峠路として『甲斐の山旅・甲州百山』という本の中で紹介されていたのを見てからです。

「コタラ山の手前で、浅川児童館の指導標が浅川への路を示していた。
この路に入れば浅川集落の中心部、公民館の前に出られるらしい。
浅川小唄は、
  逢坂峠の紅葉のように
  濃いか薄いか私の心
  どんと血潮をたぎらせる
と唄っているが、その峠はどの辺のことを指しているのだろう。
浅川では昔から宮谷との交渉がかなりあって、葛野川へ下って回るよりは、
郡役所のある猿橋へ出るにも、この峠を利用したらしい。
扇山の西北面の水を集める浅川支流を、宮谷沢と呼ぶのもその証拠だという。
宮谷沢には離れ家が一軒あって、その場所は地図の分かれ目を少し上野原分に入った地点だが、
その家の内儀さんは、「嫁入りの提灯が登っていくのが見えたもんだよ」と話してくれたことがある。
それからすると、宮谷へ下りる路記号二本のうち、東側の方が逢坂峠らしいのだが、
近頃は利用者がないので通れないだろうとのことだった。
一本目の路の入口を確認し、二本目を下ることに決めたが、
ちょうど地図の合わせ目で読むのに一苦労。
小さな丸いピークを地図は二つに切っていて、そこへ北側からかすかな踏み跡が下りて来ているが、
それが逢坂峠のような気もする。」
(『甲斐の山旅・甲州百山』 「百蔵山」小俣光雄 実業之日本社 1989年)


『分県登山ガイド・山梨県の山』
山村正光著・山と渓谷社・1993年


昭和4年測図 陸測図

前述の『甲斐の山旅・甲州百山』では、
「宮谷へ下りる路記号二本のうち、東側の方が逢坂峠らしい」としていますが、
『分県登山ガイド・山梨県の山』では宮谷とをつなぐ道の西側の頂点を逢坂峠としています。

古い地形図を見ると、宮谷から東側の道を登り稜線に出て、
810m峰から北へ尾根を伝って浅川へ下る道が描かれています。
これが逢坂峠の道筋ではないかと推定するところです。
この浅川へ下る道筋は以前歩き、道形が明瞭に残されているのを確認しています。

古い紀行文などを見ると、峠の名前について逢坂峠以外の名前も散見されます。

「宮谷の部落へ入り、一番奥の寺院の所から右へ小沢へ入る。
15分位沢に沿うて行き、大木の所から電光を描いて811mの小頭の西の鞍部へ着いた。
途中で杣に聞いたのでは、この峠路を登尾峠と云って居た。」
(『奥秩父(正)』 原全教・昭和10年)

宮谷から登って、811mの小頭の西の鞍部を「登尾峠(のぼりおとうげ)」と杣人から聞いたとあります。
果たして、「逢坂峠=登尾峠」なのでしょうか?
宮谷から登る西側の一本の道が尾根に達する所が「登尾峠」で、
東側の一本の道が尾根に達する所が「逢坂峠」なのでしょうか?
それとも両者は同一異称なのか? 謎は残ります。

「駒宮に至る天神峠道を左に見送り、部落に入る。
浅川小学校の記号は地図は旧校であり、新校は東寄りにある。
学校の下を過ぎ、庚申塔の前を右、橋を渡ると、右から地獄谷からの沢が流下している。
そこを過ぎると、道が二分する。
左に登って行く道が浅川峠道であり、
右に真直ぐ民家の上を行く道はオオサカ峠(宮谷峠)を宮谷に越す道であり、地獄谷の遡行路である。
オオサカ峠(宮谷峠)へは沢の右岸を進み、左岸に渡り、宮谷沢を渡り、ホウズキ沢との間の尾根を右に登る。
オオサカ峠(宮谷峠)と浅川峠との分岐点に恩賜林の道標がある。」
(『東京附近百名山』 小林波瑠三・昭和16年)

「オオサカ峠(宮谷峠)」の名前が見られる文献です。
果たして、「逢坂峠=オオサカ峠(宮谷峠)」なのでしょうか?

宮谷から浅川へ