深田さんの峠

 

深田久弥さんが『日本百名山』ではなく『日本百名峠』を書いていたら、
いま峠はもっと賑わいを見せていたかもしれない。

書かれたことで人の行き来が絶えず、荒廃から免れた峠もあっただろう。
しかし、書かれてしまったことで踏み荒らされ、破壊を招いた峠もあったに違いない。

一部の峠に訪問客が集中し、団体バスツアー客の
餌食になってしまった峠も出ていたかもしれない。
昨今の百名山ブームを見れば、それは容易に予想ができる。

さて、深田さんならどんな峠を選出していただろうか?
少なからず興味あるところでもある。

「百名峠」はともかく、
深田さんの膨大な紀行文の中から
峠への思いが伝わる文章を探してみることにした。

三伏峠

三伏峠は日本で一番高い峠で、2580m、昔は伊那からこの峠を越えて大井川上流へ下り、
更にデンツク峠を越えて甲州の新倉へ出る伊那街道が通じていて、かなりの往復があったそうである。
おどろくべき山越えの道だが、足が唯一の交通機関だった昔の人には、いま考えるほど苦では
なかったのかもしれない。
三伏峠の上に立って、そこから眼の前に中俣を距てて仰ぎみた塩見岳のすばらしい姿に、
旅人は暫くは息を飲む思いをしたであろう。
実際、この峠からの塩見岳は天下一品である。

『日本百名山』 「塩見岳」 新潮文庫

八町峠

岩峰を幾つも越えて八町峠へ出た。
峠から振返ると両神山は岩屏風を立てたように立ちはだかっていて、
昔から名山に数えられただけの貫禄を示していた。

『日本百名山』 「両神山」 新潮文庫

木曽殿越

空木岳には別に前駒ヶ岳の称があるが、やはり空木岳という美しい名にしておきたい。
すぐ北へ下った鞍部の木曽殿越、こんな所を果して義仲が通ったのかどうか知らないが、
いかにも木曽殿越という名に似つかわしい鞍部であった。
それから空木岳から東に伸びた尾根の上に、簫ノ笛山というのがある。
どんないわれか知らないが、これも優しい名前である。
空木岳、木曽殿越、簫ノ笛山、こういう一連の名前を織りこんで、才能ある作家は古い時代の
一大ロマンを仕上げるがいい。これらの美しい名前は、読者の想像力に拍車をかけるにちがいない。

『日本百名山』 「空木岳」 新潮文庫

 

木曽殿越

木曽殿越とはどう言う謂われか、峠の名としてはなかなかロマンチックである。
もっとも峠と言ってもこんな所を越す人はほとんどあるまい。
昔は細々とした道でもあったのか、感じは峠らしい情趣を持っている。
谷の開けた東の方を見ると、一面の雲海で、その彼方に八ヶ岳連峰が、蓼科山から権現岳まで、
横長い陸地のように浮いていた。

『山岳展望』 「木曽山脈縦走」 朝日文庫

大河原峠

峠の魅力は登りつめた時パッと展けてくる向こう側の新しい世界だ、とかつて何かに書いたが、
あの上まで行ったら何が見えるだろうという期待が我々の足を速める。
大河原峠の上に立った時、思わずあッと声が出たのは、
眼前真正面にそびえている真っ白な浅間山であった。
昨日から今朝にかけての雨は、高山ではすべて雪になっていたらしい。
その新鮮にして雄大な浅間山を存分に貪り眺めてから、次に眼下の、入り混んだ佐久の高原を点検し始めた。

一度大河原峠へ行った人でこの峠を賞めない人はいない。
峠は多いが確かにここは優秀なものの一つであろう。
規模は秩父の雁坂峠に似ているがそれよりはゆったりしている。
のんびりとしたところは上越の清水峠に似て、それよりは引き緊まっている。
ただ山好きな者にとってややあきたらないのは、山の間に深く入りこんだ峠だけに、
見える山の数が少ないことである。

『山岳展望』 「大河原峠」 朝日文庫

仙水峠

それから間もなく仙水峠であった。
ここは北沢峠と違って、いかにも「峠」という我々の概念にふさわしい所である。
南北に続いた尾根の鞍部で、僕等は今その西側の谷から登ってきたわけである。
峠を越えて東に下れば大武川、尾根を伝って北するのが、今僕らが行こうとする駒ケ岳、
南すれば朝与岳、----つまりこの峠は南アルプスの一角で十字路をなしている。

『山岳展望』 「南アルプスの一角」 朝日文庫

角間峠

北アルプスを大観出来る所はどこにでもありますが、
この角間峠から眺めるような素晴らしさは、ちょっと類がないと思います。
第一に、ここからは前に何も遮るものがありません。
たいていの所は、直そばに山があったりして眼の邪魔になるのですが、
ここは千曲川の平野を前にして全くの開けっ放しです。
第二に、ここは北アルプスを大観するのに最も都合のよい視距離にあることです。
いま白馬岳から穂高までを北アルプスの主な部分として、この二座をつなぐ線を底辺としますと、
その上に立つ二等辺三角形の頂点はちょうどこの角間峠付近になります。
つまりどちらにも偏しない理想的な展望点に位置しているわけです。

『山岳展望』 「鹿沢だより」 朝日文庫

天生峠

地図で見ると、この猿ヶ馬場山(1822メートル)の北側に天生峠が通じている。
飛騨国内の庄川の谷から宮川の谷へ越す峠であって、名高い泉鏡花の『高野聖』はここが舞台になっている。
もっとも鏡花の叙述は地理的にははなはだ曖昧不確実で、辻褄の合わない点がたくさんある。
おそらく鏡花は蒲生峠を天生峠と間違えたのかもしれない。

『山岳展望』 「飛騨白川郷」 朝日文庫

 

安房峠

鏡花の有名な『高野聖』の中には、天生峠が出てくる。
これは飛騨の庄川上流から神通川上流へ越す山深い所にある峠だが、小説の叙述から推して行くと、
おそらく鏡花は安房峠を天生峠と間違えたのにちがいない。
天生峠を飛騨越などと呼ぶはずがないからである。
もっとも安房峠としても、『高野聖』にあるような、頭から蛭が降ってくるようなそんな怖しい個所はない。
いまはバスさえ通っている。信州から飛騨へ越すこの安房峠は、その登りの途上から見返る穂高の
大観が何とも言えず立派である。

『山さまざま』 「峠いろいろ」 朝日文庫

信州峠

峠そのものは格別のことはない。
良いのはそこまでの道中である。
信州峠は標高1464m、ここが信州と甲州の境である。
地蔵尊があって、牧場の柵はここにも延びていた。
信州側ののんびりとした道に引きかえ、甲州側へ下る道は何となく陰鬱な感じがする。

『登山十二ヵ月』 「信州峠」 角川文庫

八十里越

人の匂いに遠い山と谷川ばかりの中に、細細とした破線が迂(うね)りながらついていたりすると、
ほほうこんな所にも道があるんだな、と妙に親しい気がする。
その道が尾根を越すところには、いかにも昔の村人が考えついたような鄙びた名前の峠があるのもなつかしい。
何年か昔までは女子供まで手甲脚絆で越えた道であろう。
しかし今はもう山登りにゆく都会人以外には、こういう峠を越す人も尠ないのであろう。
汽車の便がついて以来、たいていの峠路はすたれたと言っていい。
ことに山深い国ざかいの峠はそうである。
会津から越後に越す八十里越などいう峠は、地図で見ただけだけれど、何か荒れ果てた感じがする。
峠の上からどちらの部落へ出るにもつづら折の長い長い道を行かねばならない。
その峠の上に、木ノ根茶屋という茶屋が記入してあるのも、何か昔を偲ぶような感じを催させる。

『わが山山』 「地図を見ながら」 中公文庫

雁坂峠

奥秩父で甲州から武州に抜ける峠は、東から、将監峠、雁峠、雁坂峠と数えることが出来るが、
そのうちで雁坂峠は僕の一番好きな峠である。

『わが山山』 「雁坂峠」 中公文庫

ザラ峠

ザラ峠に近づくと、道は崩壊したガラ場にジグザグについている。
これが有名な沙羅沙羅越えであって、天正12年(1582年)すでに雪が来ている11月、
佐々成政が近臣数十名とともに、ここを越えて東美濃に出た。
ハンニバルのアルプス越えの小型と言っていいだろう。
戦略的に日本アルプスの用いられた唯一の例かもしれない。
谷から峠に出て、急に展けた景観を眺めるほど、登山者にとって楽しいものはない。
私たちは峠の上の草原に寝ころんで、長い間この眺めを享楽した。
眼前には黒部谷の向こう側の山々が、雄を競うように並び立っている。

『山さまざま』 「薬師から槍へ」 朝日文庫

当麻乗越

裾合平を行き尽くして、ビウケナイ沢の小さな流れを渡ると、当麻乗越へのゆるい登りになった。
乗越の上は、岩が散乱していて、眼の下に原が拡がり、その象嵌したように大小の青い沼が見えた。

『山さまざま』 「北海道の山旅」 朝日文庫

塩ノ沢峠

楢原という部落で神流川に別れて、北の塩ノ沢峠に通じる道に入った。
そこを登って行くと桃源郷のような楢沢の部落があった。
山腹の急斜面を拓いて、青々とした麦畑が拡がり、その間にジグザグに道がついていて、
木炭を背負った村の人たちが相続いて降りてくる。
小学二、三年くらいの子供も一俵担いでいる。中学生くらいなのは二俵、年頃の娘さんは三俵、
おかみさんは四俵といった工合である。
ジグザグの折目で休んで話をしてみると、皆まだ東京を見たことがないという。
銀座を綺羅を飾って歩く人たちに、こういう山村の労働をも見せたいものである。 ・・・・・・
塩ノ沢峠は1062m、北の方上信の山々が遠近重なりあって眼前に展ける。
浅間山がひときわ高い。茗荷を立てたような妙義山がその前に控えている。
それらの山々を倦かず眺めながら上州の方へ下って行った。

『山さまざま』 「神流川を遡って」 朝日文庫

徳本峠

私は高等学校一年の時始めて徳本峠を越えた。
まだ梓川ぞいにバス道路のない頃で、上高地の出入りにはこの峠によるほかなかった。
峠の上から眺めた穂高のすばらしさに打たれたことはおぼえているが、その他のことは、
何しろ三十五年前の話だ。茫漠としてとりとめもない。

『山さまざま』 「雨の徳本峠」 朝日文庫

三国峠

上越国境の三国峠なども著名な一つである。
もう三十年も前、私はこの峠を越えたが、見晴らしもいいし、いかにも峠らしい情趣を持った峠であった。
昔から表日本と裏日本をつないできた、その面影の残っているような峠であった。

『山さまざま』 「峠いろいろ」 朝日文庫

大津岐峠

大津岐峠は名前は峠だが、三角点のある峰を一つ越すのだから、グングンと急坂の登りだ。
シャツ一枚になって喘ぎながらだいぶん登ったと思う頃、前方に女の声がする。・・・・
追いついてみると、手甲脚絆に荷物を背負った母娘らしい二人連れだった。
聞けば、これから峠の向こう側にある開墾地まで出かけるのだそうだ。
桧枝岐の人達は皆村から二里三里の土地まで開墾に出る。
そこに耕作小屋を建てて開墾に従事するのだ。
だが1945メートルの大津岐峠を越えてその向こう側まで耕作に出かける勇気には僕も感じ入った。
都会で珈琲など飲みながら流行をあげつらいする女どもには及びもつかない生活であろう。

『山岳展望』 「大津岐峠を越えて銀山平へ」 朝日文庫

枝折峠

枝折峠の上りにかかる。
この峠は昔銀山へ往復の通り道だったので、一合毎にさまざまな名前がついている。
五合目の所で栃尾又へ直接に下る道が岐れていた。・・・
もう少しで峠の上へ着くあたりに、問屋場と称するわずかの平地があって、そこだけまだ雪が残っていた。
銀山の盛んな頃、ここで銀や食料を仲継したということをあとで聞いた。
ここまで登ると眺望が素晴らしい。
直ぐ眼前に北ノ又川を距てて、荒沢岳がそのギザギザの峰をそばだて、
その右うしろに中ノ岳と兎岳が真っ白な姿で立っている。二千メートル級の山とは思えない立派さだ。
ついに峠の上に立つ。
名前は峠だが実は1236メートルの三角点のある一つの峰だ。
それだけに眺めは広い。 囲いだけの御堂があって、五、六人くらいの仮寝の宿には間に合いそうだ。

『山岳展望』 「大津岐峠を越えて銀山平へ」 朝日文庫

権兵衛峠

維新前までは伊那の産米を馬背に乗せて木曽へ積み出したのはこの峠によってであった。
1500メートルの峠を越えるので、その頃の伊那の一俵は三斗五升だったそうだ。
伊那節で賑わったのであろうその峠も、今は次第に通る人もなくなって、
わずかに萱ノ平という寒村が峠の下に侘びしくのこっているのみである。

『山岳展望』 「木曽駒ヶ岳」 朝日文庫

国見峠

国見峠。古い歴史を持った峠。本当の峠らしい峠。
平福百穂はここで、

  ここにして岩鷲山のひむがしの岩手の国は傾きて見ゆ

と詠んだ。 岩鷲とは岩手山のことである。
これは私の愛唱歌で、国見峠へ来たのも、この歌に惹かれたからだと言ってもいい。

『山頂の憩い』 「瀟洒なる自然-春-」 朝日文庫

仏峠】 【地蔵峠

仏峠、このやさしい峠の名前は、古関村の方へ越しているが、乗物の発達した今日では、
滅び行く峠の一つに違いない。

大方山から南へ伸びた尾根上の地蔵峠へ登り着いた時は、正午をすぎていた。
峠の叢に、一つの面に二つの地蔵を並べて彫った、小さな古びた石が立っていた。
これも滅び行く峠であろう。

『山頂の憩い』 「瀟洒なる自然-冬-」 朝日文庫

青崩峠

青崩峠は遠州と伊那を結ぶ秋葉街道の国ざかいで、海抜1032メートル、
むかし伊那から遠江の秋葉山へ参詣する人で賑わったらしい。
しかし今は街道とは名のみで、夜逃げでもしなければ、もうこんな山道を通る人もあるまい。
峠の上に苔むした小さな石碑があったが、風化して文字は読めなかった。
名は体を現す、峠の反対側は凄いガレになって崩れていた。

『山頂の憩い』 「瀟洒なる自然-冬-」 朝日文庫

小川路峠

上町から伊那の最初の部落へ出るまでの峠みちで、昨日同様、私たちはひとりの人にも出あわなかった。
見晴らしのよい峠の頂上には、地蔵さんが並んでいたが、それはもはや昔のモニュメントにすぎなかった。
そんなに古いことではない。 私が三十年前、この峠を通った時には、まだ人の行き来があり、
途中の汗馬沢という所には茶店があって、そこで昼弁当を使ったことをおぼえている。
鉄道が通じてから、ほぼ一日がかりのこんな峠みちを歩く人はなくなったのだ。
汗馬沢の茶店は跡形もなかった。
全く長い山越えであった。 道は山の間をうねりながら通じていた。
しかし高い所からは、東には南アルプスを、西には木曽駒連峰を、いずれも新雪に輝く姿で眺めて、
山の好きな私たちには、印象の深い峠みちであった。
亡び行く峠には、一種の哀愁があって、それがわれわれをロマンチックにするのかもしれない。

『山頂の憩い』 「瀟洒なる自然-冬-」 朝日文庫

小川路峠】 【青崩峠

小川路峠は三十年前に私が越えた頃はまだ途中に茶屋があったが、
数年前通った時には、ほとんど一日かかる長い峠の上り下りに一人の人にも出会わなかった。
が見晴らしのよい峠の上には大きな地蔵さんが並んで、昔の盛時を偲ばせた。

青崩峠はもっとひどい荒れ方で、やがて廃道になるのは月日を待つばかりといったおもむき。
この峠の上にも、字の読めないほど風化した小さな石碑があった。

『山頂の憩い』 「京丸山」 朝日文庫

地蔵峠

急な雪のジグザグで二曲がりか三曲がり登ると、不意に地蔵峠の上に出た。
いい峠だなあ、という声がいっせいに皆の口から出た。
いかにも昔の人が、こちらの谷から向こうの谷へ越すために、最低鞍部を探しあてたといった感じである。
せまい峠の上の五、六本の立木の下に地蔵尊が安置されて、赤い胸かけをつけている。

『山頂の憩い』 「御池山と地蔵峠」 朝日文庫

木ノ芽峠

これが開かれたのは平安時代の初めだという。
中世以後この道には数多くの歴史が織りこまれているが、現在は廃道に近い。
だから私は歩く気になったのである。
木ノ芽峠、名前もいい。 そしてちょうど木ノ芽どきであった。

『山頂の憩い』 「日野山と木ノ芽峠」 朝日文庫

富士見峠(乗越)

富士見というのは本当で、谷の真正面に遥かに遥かに富士山が見えた。
世に富士見峠と称するもの少なくない。
とにかく富士が見えさえすればその峠の誇りとなるのだ。
ところがこの乗越(すなわち峠)は正真正銘富士山が真正面に見える。
しかも日本海に近い越後の山の中である。
この乗越を越える道は、昔越後の人々が戸隠参詣に通って行ったのだそうだが、
彼等がようやくこの上に立って、遥かに東海の富士山を望んだ時の感激は如何ばかりだったろう。
富士を見る乗越としては特筆すべき一つかもしれない。
僕がここでことさら峠という言葉を避けて乗越と言ったのは、
もはやここは峠と呼ぶには荒廃しすぎているからだ。
峠という上は、せめて稀にでも人間の通う匂いがしなければ、言葉の感じが出ない。
ところでここは、こちらの谷から向こうの谷に越えるだけの、乗越という言葉に相応する
原始的な趣しかなかったからだ。

『山頂山麓』 「焼山」 朝日文庫

犬越路峠

犬越路は、この神ノ川を溯って、西相模の中川川の源に出る、
古来甲州と相州をつないだ峠みちである。
越路というのは峠の意味だ。・・・・

カヤトになった犬越路まで下り着いた。
カヤトと言うと明るくのんびりした峠を想像しそうだが、あんまりそういう感じはなかった。
峠からの第一の見ものは、眼前のずんぐりした桧洞丸とドウガク沢ノ頭とであろう。
ちょっと豪壮である。

『山頂山麓』 「冬の犬越路」 朝日文庫

湯峠

やがて峠の上に着いた。
ずっと平らな道なので、もしそこに石の標柱が立っていなかったら
いつ越えたか見過ごしそうな峠である。
印象に残るほどの眺望もなかった。 
ただひっそりと静かなことがこの上もなく好もしい。

『山頂山麓』 「小谷温泉 付・湯峠」 朝日文庫

割石峠

甲駿国境の割石峠---と言っても、もしそこに標柱が立っていなかったら
知らずに通り過ぎてしまいそうな道の一部である。
ここから望んだ富士山は、頂上の形の整斉優美なことで名高いのだが、
今はもちろん仰ぐべくもない。
割石峠を越えて程なく、僕等は根原の部落へズブ濡れになって着いた。
ここも辺陲の寒村である。

『山頂山麓』 「秋の本栖湖」 朝日文庫

明神峠

三国山から明神峠へ出た。
小鳥がしきりに鳴いている。
無風流な送電線が立っているのはいささか眼障りだが、南方の眺めは悪くない。
峠から大きな尾根を上野の部落に下った。

『山頂山麓』 「一日二日の山」 朝日文庫

乙女峠

乙女峠からの富士は有名だ。
御殿場の原を前にして、なんら遮るものなく、雄大な構図である。

『山頂山麓』 「一日二日の山」 朝日文庫

黒瀬峠

汽車のある小松町に出るまでに、黒瀬峠という大きなジグザグを描いて上る峠がある。
その峠の上にバスがさしかかった時、ふと見ると、たそがれの空に暈(ぼか)したような
石鎚山の姿が遠く浮かんでいた。
ほんの一刻の眺めであったが、感動した。
それは今日の昼あの頂に立ったとは思えない、遥かな崇高な姿であった。

『山頂山麓』 「石鎚山」 朝日文庫

大峠

ここも会津戦争の激戦地で、峠の南側には今も塹壕の跡がある。
この峠に立った時、山の好きな人なら、そこから仰ぐ旭岳(一名赤崩山)のすっきりしたピラミッドの姿に、
しばらく我を忘れるだろう。 そしてそれに登ってみたい気をおこすに違いない。

『日光と上越』 「日光と那須の山々」 主婦と生活社

中尾峠

収獲の第一は、中尾峠まで登って、そこからの展望である。
今まで見えなかった錫杖、笠、抜戸の連峰がすぐ眼前に展がる。
特に笠ヶ岳の金字塔がこんなに立派に見えるところは他にない。

『日本百名山』 「焼岳」 新潮文庫

鳥居峠

木曽路の奈良井から、旧街道は鳥居峠へ登った。
その峠の上が御嶽遥拝所であって、そこに祠を祀り、その石の鳥居から峠の名前が来た。
昔の旅人は峠から初めて眺めた御嶽に、さぞ感激したことだろう。
木曽路に入ってしまえば、もうその深い谷底から御嶽を望む機会はなくなってしまうのである。

『日本百名山』 「御嶽」 朝日文庫

大菩薩峠

中里介山の『大菩薩峠』が出て、この峠はひどく有名になったが、私が初めて行った大正12年には
まだ訪れる人も稀で、五月の晴れた日曜であったに拘らず、全く登山者に出会わなかった。
嘘のような話である。

・・・峠から大菩薩岳(嶺)にかけて甲州側は広々とした明るいカヤトで、
そこに寝ころんで富士や南アルプスを眺めているのは、全くいい気持である。

『日本百名山』 「大菩薩峠」 朝日文庫

 

深田久弥さんがどのような峠を「百名峠」として選出するか、それは今となってはわからない。
しかし、ここはきっと選んだに違いないと思える峠は
過去に書かれた紀行文からいくつか察することができる。
あえてここでひとつひとつの峠を挙げて予想するようなことはしないけど。

峠の数は多く、深田さんの踏んだ峠の数も非常に多い。
きっと『日本百名峠』を出版するとしたらノミネートされた峠の数は膨大であっただろう。
そしてその選考に『百名山』同様、頭を悩ませたに違いない。

『百名山』の選考基準は
第一に山の品格、第二に山の歴史、第三に個性ある山であった。
同様に峠でも、峠の品格、峠の歴史、峠の個性を重要視されたかもしれない。

『日本百名山』の選考基準について書かれた箇所の
「山」という言葉を「峠」に置き換えて読むとしっくりくるのである。

「第一は峠の品格である。誰が見ても立派な峠だと感歎するものでなければならない。
人間にも人品の高下があるように、峠にもそれがある。人格ならぬ峠格のある峠でなければならない。」

「第二に、私は峠の歴史を尊重する。
昔から人間と深いかかわりを持った峠を除外するわけにはいかない。
人々が朝夕仰いで敬い、その頂に祠をまつるような峠は、おのずから名峠の資格を持っている。
峠霊がこもっている。
ただ近年の異常な観光業の発達は、古い謂れのある名門の峠を通俗化して、
もはや峠霊の住み所がなくなっている。
そういう峠を選ぶわけにはいかない。」

「第三は個性のある峠である。
個性の顕著なものが注目されるのは芸術作品と同様である。
その形体であれ、現象であれ、乃至は伝統であれ、他に無く、その峠だけが備えている独自のもの、
それを私は尊重する。
もちろんすべての峠は一様でなく、それぞれの特徴は持っているが、
その中で強烈な個性が私を惹くのである。」

深田さんをはじめその同時代の人々が
越えたであろう峠の姿、感じたであろう峠の心象、
そのようなものが失われていくのは惜しいかぎりである。

深田版『日本百名峠』が出版されていれば、
そうなってはいなかったか、それともやはりそうなってしまっていたか、
今ではわからない。