ガンドウ峠・旧道編

綱子峠(造道峠)・平野峠(月夜野峠・臼久保峠・五差路峠)・巌道峠

以前、饅頭の餡だけをつまみ喰いするかの如く峠のみを味わった巌道峠を再び訪れました。
今回は核心部である峠そのものだけではなく、巌道峠旧道の残存状況を確認しつつ、
附近の峠と合わせての訪問です。


『山と高原』 昭和19年2月号
「道志の峠路を行く(三) 作り道峠と強盗峠」(田中新平著) より

上の図は古い山岳雑誌『山と高原』の挿入図です。
安寺沢と綱子を結ぶ「作道峠」、安寺沢と月夜野を結ぶ「ウシクボ峠」、
そして安寺沢と久保を結ぶ「強盗峠」が描かれています。
呼称及び峠名の表記はいろいろと変化をするところですが、今回はこの3箇所の峠を巡ります。
尚、作道峠、ウシクボ峠については以前に周辺の天神峠を巡った際に歩いています。

巌道峠から分岐し、「大タギレ」と呼ばれる鞍部を経由して神野へ至る道も大いに気になるところですが、
今回は巌道峠から安寺沢へ向かう旧峠道の状況を確認することが主要な課題です。
また、図中に見られる「カナハミ峠」は「金波美峠」のことで、ここも以前に訪れてはいますが、
林道と峠下を貫くトンネルが完成し時が経つにおいて、旧道の荒廃が気になるところでもあります。


安寺沢から綱子峠への道


綱子峠
綱子天神峠、造(作)道峠の名もある

安寺沢にある文化財「郷倉」の近くに車を停めて、
「綱子峠・入道丸→」の標識に従って、安寺沢川を飛び石で渡ります。
支沢沿いに付けられた峠への道を薄っすら積もった雪を踏みしめて進みます。

峠道は秋山村(現・上野原市)のおすすめハイキングコースにも指定されているので難場は無く、
静かな道をのんびり愉しむには適しています。
沢筋を詰めた後に植林内のジグザグでひと汗かけば、ひょいと尾根の撓みに到達します。
ゆっくり歩いても30分で到着するやさしい峠です。


新しく設置された綱子峠の標識


峠から綱子への道は手入れの行き届いた植林内を下る

峠には「安寺沢、郷倉、秋山温泉→」、「大平山↑」と書かれた手作り風の標識と、
以前訪れたときには無かった「綱子峠」と書かれた真新しい標識があります。【*1】
新しい標識は上野原市が設置したもので、山梨県側の公的機関ではこの峠の呼称を
「綱子峠」として公認しているようです。

綱子側に下る峠道は明るい植林内へと続いていますが、山梨県側の公的機関設置の峠の標識には
越える先の地名や尾根を左右に行った先の地名が記されていません。
「安寺沢」の方向を示す腕木だけが付けられており少々不親切な気もしますが、
ハイカーを山梨県内におびき寄せる高等な策略なのかもしれません。

「アテラ沢ヨリ東造道峠ヲ越エテ相州牧野村支村縄子(ツナコ)へ出ヅル山路アリ此ノ間三十余・・・」
『甲斐国志』には「造道峠」の名前で、「綱子峠」と思しき道について記されています。

また、明治25年に発刊された『山梨県市郡村誌』には、
作道峠、ハラ山 本村ノ東北ニアリ嶺上ヨリ東ハ相州津久井郡牧野村ニ属シ
西方本村ニ属ス登路一條アリ 本村ヨリ牧野村縄子組ヘ通ス里程約三拾五町」とあります。

古くは「造(作)道峠」の名があったようですが、今では使われていないのでしょうか?

「この峠は綱子側では単に天神峠と云って、作り道峠と云う者は殆んど居ない。
昔、峠上に天神様を祀ったらしく、安寺沢側でもこの峠を綱子天神と称え、一部の老人をのぞいては
作り道峠の名を知る者は少ない。
        (『山と高原』昭和19.2 「道志の峠路を行く(三)作り道峠と強盗峠」 田中新平著 より)

昭和初期の古い山岳雑誌にすでに見られるように、
「作り道峠」の名は土地の人からも忘れられた呼称になっているようです。【*2】


佐久間東幹線の鉄塔台地


鉄塔台地から眺める石砂山、石老山方面

峠から尾根を西南方向にわずか進むと、綱子側から登ってくる古い道跡らしきものが見受けられます。
これはもしや旧綱子峠なのかと思い、峠に祀られていたという天神社の残骸でもなかろうかと
付近を探しましたが痕跡などは一切見当たりませんでした。

雪で滑る足元に注意しながらひと登りすると、伐木によって視界の確保された鉄塔台地です。
上野原の市街地背後に展開される山並みや石砂山、石老山方面の眺望などを満喫することができます。
進行方向には御牧戸山(鳥井立)、長尾の雄姿が浅春の陽射しを受けています。


鉄塔台地から眺める御牧戸山の雄姿


△714 入道丸

「綱子峠から厳道峠へと続く稜線は、穏やかで初心者にも歩きやすい。
入道丸では丹沢の山々が一望でき、月夜野峠から厳道峠の間では、
御牧戸山や長尾山の景色が素晴らしい。」 (「秋山村ハイキングコース案内」より 「厳」の字はソノママ)

秋山村発行の観光パンフレットに記されたハイキングコース案内文では
入道丸から丹沢の山々が一望できるとありますが、丹沢側は植林に隠され何も望むことはできません。
雪に埋まった三角点がポツンとあるだけの寂しい山頂です。
「入道」というくらいですから、植林が生長する以前はハゲ山で展望があったのでしょう。

ここ「入道丸」の他に、道志村にも「入道山」があり、丹沢には「加入道山」があります。
これら三つの「入道」は、いずれも剃髪した入道のように、かつては丸坊主の山だったのでしょうか?


境界見出標「二一七補一」分岐
送電鉄塔354へ向かえば安寺沢へ下降できるようだ


月夜野峠
平野峠、臼久保峠、牛窪峠の名もある

入道丸からさらに西南に尾根を進めば、安寺沢側へ分岐する明瞭な道が現れます。
境界見出標「ニ一七補一」が埋まっており、送電線巡視路を兼ねた道です。
この分岐も月夜野峠の一角と捉えるのが正論なのでしょう。
ここを安寺沢側へ下れば、金波美峠へのびる金波美林道入口付近に出ることができます。

次にもう一箇所の踏み跡程度の安寺沢側への分岐道(こっちが地形図の破線道か)を一瞥して、
明るい光に照らされた県境尾根の撓みに出た所が月夜野峠です。


秋山村観光パンフレット「秋山王国大冒険」(秋山村役場) より


「道志村ガイドマップ」(道志村役場) より

「月夜野峠」とは、目的地を冠するという「峠名命名の法則」に従えば、
安寺沢側の呼び名ということになるのでしょうか?

それでは月夜野側では「安寺沢峠」と呼ぶのかといえばさにあらず、
「道志村ガイドマップ」によれば「臼久保峠」の名が付与されているのです。

峠を越えた先にある安寺沢側の「西薄久保沢」に因んだ名前が付けられたようです。
古い山岳雑誌などでは「牛窪峠」などの名も見られますが、【*3】
いずれにしても「ウスクボ」あるいは「ウシクボ」の音からきたものと思われます。


『藤野町の山と峠』
植木知司監修 NPO法人北丹沢山岳センター


『中央線の山を歩く』
藤井寿夫著 新ハイキング社
「五差路峠」とある。「平野山」の位置が気にもなる・・・

また、「平野峠」との呼称もあるようで、昭文社の『山と高原地図』では平野峠の名を採用しています。
『中央線の山を歩く』では「五差路峠」の名も併記されています。
峠は一見すると十字路(四差路)でありますが、先ほどの「ニ一七補一」分岐を峠の一角と捉えれば、
「五差路」との表現もあながち間違いとはいえないでしょう。

「月夜野峠」、「臼久保峠」、「牛窪峠」、「平野峠」、「五差路峠」などと、名称は数々あれど、
「月夜野峠」が音の響きと字面からして一番ロマンチックでしょうか。
梟の鳴き声だけが木霊する夜の峠道、月明かりに照らされて峠を越える人の姿が目に浮かびます。


月夜野へ下る道はややヤブ気味か


峠の標識 峠名が書かれていないのが残念

峠にはささやかな手製標識が設置され、月夜野、入道丸、菅井、巌道峠をそれぞれ指し示しています。
菅井への道は以前歩いたことがありますがヤブ気味だったと記憶しています。
月夜野へと下る道も峠から見る限りでは明瞭ではありますが、あまり歩かれているようではありません。

『藤野町の山と峠』(植木知司監修・NPO法人北丹沢山岳センター)には、
「月夜野方面は南に山の中腹を巻くように下る。アカマツ林が続きコースは踏み跡も少なく、
荒れていて藪こぎが50m程続く。崩れた場所もあり、石がゴロゴロして歩きにくい場所もあるので
注意が必要である。途中に昔使用した炭焼き釜が見られ盛んだった往時をしのばれる。
当時は秋山村の人達と交流もあり、往来は多かったという」との記述があります。

また、『相模の低山』(守屋龍男著・けやき出版)には、
巌道峠よりこの平野峠の方が昭和30年代の車社会到来まで多くの人に使用された」ともあります。
往時は盛んに利用されていた峠も、いまは静寂の内に包まれています。
たまに訪れるハイカーと送電線巡視員を迎えるだけの峠になっているのでしょう。

ここに上野原市が設置する公的な標識が無いのは、
峠自体が神奈川県の領内に位置しているからなのでしょうか?
それとも峠の呼び名がいろいろあって標識を設置することで逆にハイカーに混乱が生じるのを
防ぐためなのでしょうか?


昭和38年 「丹沢山塊」 日地出版 より
「平野山」の名前が見られる。
また、「大タギレ」道も記されている。


p731 平野山?

「平野峠」の名の由来になったと思われる「平野山」は峠から西へ行った所にありますが、
その位置については曖昧模糊としています。

『甲斐の山山』(小林経雄著・新ハイキング社)には、
「月夜野から甲相国境はバラモ尾根を上がって平野山に達する。・・・
この峰の東方約200mの相州分に平野峠があり、月夜野から安寺沢への峠道が越えているが、
最近では潅木の枝が張っている」とあります。
古い日地出版の登山地図でも、その該当場所に「平野山」の名が見られます。

しかし、『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著・新ハイキング社)では、
さらに尾根を西へ行ったp832地点を「平野山」としており、少々混乱がみられます。
「平野山」とは、もしかしたら特定の峰の名ではなく、少し広い範囲を捉えた山名なのでしょうか?


昭和4年測図昭和22年発行 「大室山」 地理調査所
昔の地形図では月夜野峠から巌道峠間の尾根に道は描かれていない。
巌道峠から大タギレの道が大いに気になる。


『道志七里』 道志村内山岳図 伊藤堅吉著 より
「麦尻(ムギチロ)」の場所が現行の登山地図とは異なる


p832
『中央線の山を歩く』でいうところの「平野山」にあたるが・・・

そもそも、この付近の山域では多少の地名の混乱が見られます。
今では山名として定着している「ムギチロ」も、
『道志七里』の村内山岳図によると巌道峠の直ぐ東の峰であるp885にその名が記されています。
現在ムギチロとされている場所には「モガサ」、p832には「ゴガンノ丸」の名が見られます。

「麦尻」と書いて「ムギチロ」も不思議ですが、「モガサ」、「ゴガン」の響きも独特の感があります。
「モガサ」は「雲笠」、「ゴガン」は「子雁」や「小巌」でしょうか?
想像の域は出ませんが、あれこれ思いをめぐらしながら緩やかな尾根道を登ります。

p832に標識の類はなく、ただの尾根上のコブに過ぎません。
一旦下り、多くの間伐木が横たわるダラダラとした登りの道をp903へ向けて進みます。
降り積もった雪の上にチェーンソーの木屑が散乱しているところをみると、
ヒノキの間伐は最近行われたもののようです。


p903


p903に掛けられたムギチロの標識

樹相がアカマツ主体へと変わり、雪が一層深くなるとp903に到着です。
立ち木には「ムギチロ山頂」と書かれた標識が括りつけられています。
葉を落とした冬の木々間から御牧戸山(鳥井立)、長尾や、池之上、阿夫利山が望まれ、
大タギレの顕著なキレットを確認することもできます。

それにしても「ムギチロ」とは不思議な名前で、そば屋の品書きにでもありそうな名前です。
そば屋の暖簾をくぐり、「オヤジ、ムギチロ一人前!」と大きな声で注文すれば、
生卵をのせた「ムギチロ」なる料理が出てきそうでもあります。
道志山塊では他にも不思議な地名の「ワラビタタキ」がありますが、
それとて日本料理屋の春の旬の献立にありそうな名前です。

地形語で「麦」とは、「崖錐、段丘、砂丘などのむき出しになってよく見える地形。
動詞ムク、剥くの連用形で崩壊地形。向く、何かに対面、向くの連用形」とのことです。
「チロ(尻)」に近い言葉を探すと、
「チリ」があり、「散るの連用形、崩壊地形、侵食地形、湿地」とあります。
(『地名用語語源辞典』 楠原祐介、溝手理太郎共編・東京堂出版 より)

「ムギ」にも「チロ」にも崩壊地を臭わす語意があるようなので、
「ムギチロ」とはそば屋の隠れたメニューではなく、崩壊地、断崖地を表す地名であると推測できます。
あるいは「尻」は「シリ」と素直に読んで、アイヌ語の「山」を表す意味なのかもしれません。
「麦粒」のような形をした「山」ということでしょうか?
でも蕎麦粒ならイメージできるけど、麦の形って、どんなでしたっけ・・・?
麓から山を見上げると、カヤトあるいは笹の原が「麦畑」に見えた、こんな想像もアリでしょうか。


p885 境界見出標「一五九」が埋まる


巌道峠 (久保天神、天神峠とも呼ばれた)

謎の「ムギチロ」を後に、左手には厳冬期の丹沢を眺めながら進みます。
雪を纏った堂々たる大室山が眼前に聳え、奥には雪煙を上げる蛭ヶ岳が望まれます。
う〜ん、近寄り難い物凄く寒そうな丹沢の峰々です。

『道志七里』の村内山岳図中にある「麦尻」のp885は単なる小さなコブでパッとしません。
背の低い笹の生えた雰囲気は好ましいものの、これは笹であり、どう見ても麦ではありません。
古い時代に、焼畑で麦でも作っていたのでしょうか?

p885からは木に掴まりながらの急下降です。
雪のついた急斜面を転がるようにして林道上の巌道峠へ降り立ちます。


巌道峠に設置された曖昧な標識
この「阿夫利山コース・秋山温泉⇒」の標識が頭を悩ませる


『秋山村史』の挿入図より
峠から大タギレを経由して神野への道を「強盗峠」、
峠から安寺沢への道を「巌道峠」として使い分けている

林道上の峠は雪に埋まり、「巌道」というより「厳冬」という雰囲気です。
国土地理院は頑なに「厳道峠」という表記をし続けていますが、
「厳」は明らかに誤りで、「巌」と修正すべきなのでしょう。
上野原市にしても道志村にしても、公的な機関が「厳道峠」との誤った表記を堅持しているのは、
市町村より上位の国の機関である国土地理院に気を遣っているためでしょうか?【*4】
土地で暮らす人々にとって「厳しい道」であったことに違いありませんが、
やはり昔からの地名は後世に正しく伝えて欲しいものです。

さて、その巌道峠ですが、『秋山村史』に度々登場する挿入図を見ると、
峠から安寺沢への道には「巌道峠」とあり、峠から大タギレを経て神野へ至る道には「強盗峠」とあり、
両者を使い分けているきらいがあるのです。
これはどういったことでしょうか?意図的に使い分けをしているように思えます。

巌道峠というと、一般には道志村久保と秋山村安寺沢とを結ぶものだと思われがちですが、
古い地形図にも道筋が残されているように、久保と秋山村神野とを結ぶ道としての役割も
担っていたと推定することができます。
神野側にゴルフ場が出来た現在、昔の道が今も残されているか怪しいところではありますが、
大タギレを経て神野へ下る道筋も巌道峠の一部として今後探索してみたいものです。


峠直下の谷筋へ下降


送電線巡視路標識とともに旧道も現れる

峠の石碑脇に上野原市によって新設された「阿夫利山コース・秋山温泉⇒」という標識があるのですが、
とても微妙な位置に設置してあり、これから旧道を探索する者の頭を悩ませます。
この「⇒」は林道上を進めという意味なのか、
それとも標識の直ぐ脇から谷筋へ下降し、旧道を辿れという意味なのか、指示が曖昧なのです。
果たして、この斜面を埋め尽くす深い雪の下に旧道があるのでしょうか?
そしてそれが標識の指示するようにハイキングコースとして整備されているのでしょうか?

谷筋は一面深い雪に埋まり旧道が本当にあるのかどうか、一目見て判断することはできません。
たとえ人の踏み込んだ痕跡があったにしても雪が全てを隠しています。
新設標識が林道を歩くことを指示しているのならば、
標識はもっと林道寄りに設置されていて然る可きだと思われます。
まことに曖昧な標識なのです。
旧道が残存しているのか確信の持てぬまま、太腿まで埋まる雪の斜面に突入します。

しかし、雪に埋まった斜面を下降してすぐに、
「阿夫利山コース・秋山温泉⇒」というあの標識は林道上を歩行する人のために
設置されたに違いないと悟ります。
なぜなら、道型もなければ、次なる標識も見出せないのですから、
ここが整備されたハイキングコースのわけがないのです。
谷筋は荒れ、倒木と潅木と積雪がこの先の歩行を躊躇させます。
かといって今の今、下ってきた深い雪の斜面をラッセルして登り返す気力など毛頭ありません。

旧道の存在を固く信じるしかなく、しばらく沢に沿って下降を続けます。
すると、やっと一本のスズランテープと道型が出現するのです。
佐久間東幹線の送電線巡視路標識を見出せれば、旧道と思しき道に無事に乗ることができます。


予想以上に沢筋より高い位置に道は付けられていた
小規模の滑り落ち二箇所と堰堤群通過がある


杉の大木に挟まれて石祠が祀られている
背後の堰堤は大タギレから流下する沢である

旧道らしき道は予想以上に沢筋より高い位置に付けられており、
数十メートル上方には林道が見え隠れしています。
しかし、当初は歩きやすかったこの道も小規模の滑り落ちが二箇所あるなど瀕死の状態です。

前方遠くの山腹に大タギレから流下する谷を挟んで林道が見え始める頃、
旧道と思しき道は植林内をジグザグし下降を始めます。
堰堤群の出現で消された道型をあるであろうと思われる方向に雪崩れに注意しながらトラバースし、
大タギレから流下する沢との合流点に降り立つと、杉の大木の間に祀られた石祠を目にします。
この石祠との対面で、今まで辿って来た道が旧道であったとの確信が得られます。

峠行前の予習で読み込んでおいた古い紀行文通りの道筋であったことが確認できたからです。
(参考にした紀行文、資料等は文末にまとめて提示しています)


三基の石祠
天保時代と昭和時代のものです


威厳ある「山之神」が納められている

石祠は三基祀られており、一基は天保時代のもので二基は昭和時代のものであるようです。
真ん中のものは特に新しく、中に黒石に「山之神」と刻まれた威厳ある御神体が納められています。

大タギレへと向かう沢筋には堰堤が築造されており、
古い地形図に見られる沢筋から大タギレへ向かう道が残存している可能性は低いように思われます。
あるとしても林道より上の部分ではないかと推測するところです。

安寺沢本流筋から安寺沢への旧道は深い雪に埋まりその痕跡は見出せません。
しかし、積雪が幸いしてどこでも歩くことはできるので、流れに沿って下降することは可能です。
本流の一つ目の大きな堰堤を右手より乗り越えて、二つ目の堰堤を左手から越えると、
はっきりした道型が左岸土手に再び現れ、
後はわずかばかり進めば林道が大きくカーブする石碑の建つ地点に飛び出すことになるのです。


本流二つ目の堰堤と謎のサークルと一輪車


石碑の建つ林道カーブ地点に出る

結果的に、巌道峠から安寺沢への旧道は所々崩壊消滅がみられるものの、
歩行は可能であり、林道を歩くよりも時間的には短縮が見込めるということがわかりました。
しかし、見るべきものは三基の石祠くらいで、全体的には植林内を進む味気ない道ということも判明し、
道の滑り落ちた箇所の通過など危険を冒してまで歩く価値が果たしてあるかは疑問です。

何より峠直下の怪しげな谷筋へ下降する気など、無雪期ならば起きないことでしょう。
曖昧に設置された標識と深い雪があればこそ、今回は突入することができました。

それでも、かつて人々に歩かれた峠道が残存していることは嬉しいことで、
そこを実際に歩くことができたのは良い体験でありました。


出たァ〜 山犬だぁ

巌道峠から安寺沢とを結ぶ旧道探索の課題は終了しましたが、
峠から久保側の旧道、峠から大タギレを経由して神野への旧道探索という課題が残っています。
また、月夜野峠の月夜野側の道の現況や金波美峠旧道の近況も調査してみたいものです。
一つの課題が終了しても次なる課題がどんどん生まれ、峠歩きに終わりは訪れないのです。

【旧道探索の参考にした紀行文・資料】+【大タギレ探索の参考になる紀行文・資料】

・・・沢が終わると、道は杉や檜の植林を折れ曲がって登っていた。
大杉が三本立つ根元に、石祠が二つあり、古い方に天保の年号がかすかに読まれた。
植林を抜けると芒の尾根で、峠の道はゆるかった。祠から三十分ほどで、十時半に巌道峠の上に着いた。
そこは尾根の窪みになったカヤト状の地だったから、ザックを放り出して、日当たりに腰をおろした。
足もとに、人家をちりばめ、道路を走らせた道志の谷が延びて、その先に真白な富士がでっかく控えていた。
・・・巌道峠の名を示すものは、ここまでの径路では見られなかったし、むしろ柔らかすぎる芒の道だった。
覗いて見る道志側にも、そんな様子は窺われない。
秋山川の神野から来る道は、上部で沢の滑めに入るので、巌道と言えなくもないが、この峠の本道ではない。

              (『山を見る日』 「正月の小さな山」 川崎精雄 中公文庫 1970年『アルプ』143号)

安寺沢から巌道峠へ向かった紀行文です。
やはり大杉の根元に石祠を見て峠に至っていますが、当時の石祠は二つだったようです。
神野からの道についても書かれており、
上部で沢のヌメに入る点、また巌道峠の本道ではないという点が気になるところです。
右手天神峠より流下する天神沢について少し登り、右へ天神峠道を見送って、天神沢を横切って、
鳥谷立山の東麓を、安寺沢の上方を捲いて、登りにかかる。
この辺り雑木林の中に作られた道であって、山鳩の鳴き声さえ諸々に聞こえ始むる。
道は幾度か曲がりくねって、高度を高め始め、今まで一所に来た安寺沢は左下に遠ざかり
最後に大きく左から右へ廻って、雁道峠へ着くことになる。
雁道峠は、強盗峠、巌道峠、強盗坂と種々呼ばれるが、此の峠の様相からは雁道峠なる名称が、
一番当てはまる様である。

                             (『日本山岳案内1』鉄道省山岳部編 博文館 昭和15年)

安寺沢から巌道峠へ向かった紀行文です。
文中の天神峠とは金波美峠のようですが、大タギレのことのようにも思えます。
径路がハッキリせず参考とはなりません。
巌道という印象を受けることはなく、雁道という名称が適当としている。
地図上の道はほとんど沢沿いに巌道峠に出るようになっているが、
実際の道はヒノキが植林された斜面をジグザグに登ってから、ほとんど水平に峠へ通じていた。

・・・五万図記載の厳道峠は明らかに誤りだが、
昭和13年10月発行の「ハイキング」誌に「ガンドウ峠」の諸説が載っていて面白い。

  古くは強盗峠または強盗坂と書かれたもので、それがいつの間にか「雁道」と書かれるように
  なってしまった。(武田久吉氏)

  巌道峠は第二回修正陸測図には強盗峠となっていたもので、附会した説話も当時はあったが、
  矢張り従前の雁道の方が感じも良いし、峻険な岩山の峠なら兎に角、ヤブ山の峠に「巌道」は
  相応しくないと信ずる。(岩崎京二郎氏)

                          (『富士の見える山』 小林経雄著 新ハイキング社 昭和58年)

安寺沢から巌道峠へ向かう様子を記したものです。
「植林された斜面をジグザグに登ってから、ほとんど水平に峠へ通じていた」の描写に頷けます。
本流二つの堰堤を乗り越え、右手に大タギレから流下する沢を見送り、石祠から植林尾根に取り付き、
山抜け後の山腹を補強した思しき堰堤群をトラバースし、植林斜面をジグザグすれば
峠方向へと続く水平道に出ることができます。(水平道には二箇所小規模な滑り落ちあり)
「雁道」という言葉を推す声が多いところを見ると歩くにやさしい峠道だったのでしょう。
安寺沢の最奥の家を過ぎ、舗装道が大きく右に曲がる所で沢沿いの小道に入り、
堰堤を二つ右手から越すと広いゴーロとなる。

まもなく、沢は二俣になるから右手の沢に入ると、左手から幅30メートル、高さ200メートルも
あろうかと思われる人工着草をし人工排水路をつけた大きな山抜けが不気味にせまってくる。
少し進むと前方に大きな山抜けがまたせまってくる。左手の急な斜面の杉林に逃げ込みたくなるだろう。
林と山抜けの境に、径1メートルもある大杉の大木が三本ありここに「山神」が祀られている。
突然、古道が現われるが荒れている上にブッシュがひどい。
この古道を山腹に沿って登ると岩道峠への道となるが、先程の山抜けによって切断されている。
山抜けを横切るとゆるやかに杉林を登る道となっている。
途中で東電の巡視路と合流するときわめて良い道となり岩道峠に至る。
一方、秋山村の神野から大タギレを通って下って来る道がこの山神社の前にあったと考えられるが、
大きな山抜けにより全くあとかたもない。

                             (『丹沢・桂秋山域の山の神々』 佐藤芝明 丸ノ内出版)

安寺沢から巌道峠へ向かう様子を記したものです。
山抜けの描写がおどろおどろしいですが必要以上に恐れることはないでしょう。
慎重にトラバースすることで通過は可能です。
「東電の巡視路」とは佐久間東幹線349と348でしょう。
多分、348を選べば峠へ向かうことでしょう。
349は安寺沢本流を右岸に渡ってしまいますから、348でなければ沢を詰めるしかありません。
「神野から大タギレを通って下って来る道がこの山神社の前にあったと考えられるが、
大きな山抜けにより全くあとかたもない」との一文が気になります。
安寺沢から大タギレへの沢筋の道は山抜けで不通なのでしょうか?
巌道峠から大タギレへの山腹トラバース道は残存しているのでしょうか?
この峠を境として秋山側と道志側とでは、地形が大分異なっていて特色がある。
秋山側は羊腸とした緩やかな峠路に比して、道志側は処々、岩の露出した傾斜の急な山径で、
峠から一気に道志側の断層谷に向かって落ち込んでいる。
・・・安寺沢部落の外れから黒木沢、山神沢、桜ノ沢と云う小沢を渉って、
再び左岸に移ると雑木林に入り、右手から石宮沢が会する。
陸測図にも記入されている小径が、沢沿いに太田切のタツミを踰えて降谷(フルヤ)沢へ通じている。
この分岐点に沢名の由来を為した、石の小祠が二基、檜の鳥居木の間に祀られて在る。
これは村の古老の話では山ノ神様だそうである。
旧い方は「天保十五辰七月、一古沢」、新しい方には「安寺沢富岡 一古沢 昭和十三年十月吉日」と
それぞれ刻まれている。
石宮沢から峠へかけて一帯は、楢や椚の雑木林に蔽われて、石宮沢の上手の山腹には、
炭焼が小屋掛をしている。
秋も深まった晩秋の時期か、少し遅く病葉に霜の降る初冬のころ、散り積もった落葉を踏み分けて、
羊腸たる峠路を辿る気分は、登山とは別な味である。
・・・ガンドウ坂、或いはガンドウバなる名称は、久保より峠の沢(一名、御堂沢)沿いの峠路が、
愈々沢から離れて、岩石の処々露出した山稜を電光形に登ってゆく坂路に付与されたもので、
峠の頂点は道志村の古図に拠れば、岩堂場(ガンドウバ)峠なる宛字が記されてある。

                             (『あしなか第6号』 「巖道峠」 坂本光雄 山村民俗の会)

安寺沢から巌道峠への道筋が記されています。
大タギレ(太田切)から流下する沢名が「石宮沢」であると記されています。
また、大タギレを越えて神野へ下る沢は「降谷沢」としています。
峠名は久保側の岩石が露出した「ガンドウバ」から採られたものだとしています。
峠の旧き良き時代を髣髴させる文章です。
ちなみに「巌道場」なる地名が安寺沢側の峠付近の小字としてあります。
右側に立派な寺を過ぎ、まもなく道は左右に分岐する。右が岩道峠方面で左はすぐ小沢に入ってしまう。
この分岐から右に進むと植林の中に入り、ゆるやかに登りつめていく。
しばらくすると草原になり、ジグザグの登りになって岩道峠につく。
峠を越えるとすぐ左に降谷沢に下っていく道が分岐している。
右に下っていくと、しばらくは細々とした草深い山道だが、山ノ神を過ぎると幅広くなる。
道は安寺沢沿いにゆるやかに下りつづけていく。

            (『アルパインガイド37 丹沢・道志山塊・三ッ峠』 羽賀正太郎 山と渓谷社 昭和46年)

道志村久保から巌道峠を越えて安寺沢に向かうコースを紹介している。
昔の久保からの峠道は、植林、草原、ジグザグを経て峠に至っていたらしい。
峠を越えるとすぐ左に降谷沢への道を分けるという点が気になる。
大タギリを経て神野への道は昭和46年当時存在していたことになる、果たして現状は?
神野への下りは、祠の右脇を真北へ山肌を巻きながら平らな幾分登り気味に思える小徑を辿ると、
二分程で右へ下る分れ徑を見るが、この徑にはかまわず左の平らな小徑を行くと、
やがて行手右方に甲武国境連山が見え初め、小徑は稍々下る気味になり、再び右へ下る分れ徑を
避けて左の平らな小徑を辿ると、前方にニ、三の炭焼小屋が現れ、この小屋の前を通過して
標高八〇〇米の乗越シに出る。
この附近は徑が悪く、おまけに陽当たりが悪いために何となく陰気である。
この乗越シから北西へ急激な下りとなり、徑は益々悪くなって、暫くは水の無い枯澤を北へ澤沿いに下ると、
桑畑の現れる頃から再び小徑がついてきて、行手に大地峠附近の山々と神野部落が見えてくる。

               (『山と高原』昭和19.2 「道志の峠路を行く(三) 作り道峠と強盗峠」 田中新平)

巌道峠から大タギレを経由して神野へ向かった紀行文の一節です。
巌道峠に以前祀られていた天神祠脇から大タギレへの道がのびていたことが窺がえます。
二箇所ある分岐点ではそれぞれ左への道を選択し、炭焼き小屋を見て大タギレに至ったようです。
そして、どうやら大タギレは日当りが悪く陰気臭い場所のようです。
下るにつれて道は益々悪くなるとあり、昭和初期でこの状態ですから、ゴルフ場の出来た現在では
ひどい荒れようではないかと推察できます。
農家で巌道峠への道をきく。
・・・若い息子が、峠への道は谷伝いにいくと滑めになって、凍っているから歩きにくい、と言えば、
傍から妹らしいのが、祠の所に桜の木があるから、そこから炭焼道へ入ったら、と助言してくれる。
今度は父親が、一旦安寺沢の村落へ回った方がよい、と勧める。
しかし、父親のいう安寺沢回りは、三角形の二辺を辿る以上に遠回りで、それだけにここからの
巌道峠の道は面倒らしく想像された。
小さい橋で対岸に渡ると、道は登りはじめる。
張り出した台地の裾で、しぜんに北風を防ぐ位置にある田圃には、意外にも青々と草が生えていた。
・・・しばらく登って中断の台地の上に出ると、山祠があり、妹の言った桜の木が傍らにあった。
左の谷に沿う道は細まり、右は炭焼道であるためか、よく踏まれていた。できるだけ西へ寄りたいので、
右の炭焼き道を選んだ。しかし、登りながら観察すると、この道から、主稜へも、派生した尾根へも、
藪こぎで登るには、女連れでは億劫さを感じさせた。
谷の上方には、炭がまが幾つか並んでいたが、元日だからひっそりしている。
そこまで道は明瞭に登っているが、炭焼き道だから、そこから上がどんづまりなのはわかりきったことなので、
左の方の林の中へ伸びた道を進んだ。
これはあるいは峠へ通じるのかも知れないが、林の中でそろそろわかりにくくなったその道は、
その上の丈なす枯薄の大斜面に出ると、完全にわからなくなった。
・・・辿って来た道は、左下の谷を辿る道とは別の峠道らしかったが、峠は左の方へ寄っていて、
そっちへこの薄の斜面を漕ぐのは嫌だし、もともと右方へ向かって歩きたいのだから、面倒臭くなり、
右手の、林と薄の斜面との間を直登した。
少々のアルバイトで主稜に出た。巌道峠はずっと左下らしい。
巌道峠というのは名の通り岩の道で、さっきの薄の斜面から見た時、麓の家で教えてくれた滑めの谷が
白く登っていた。私の持っている古い地図には、この峠は強盗峠とある。字が凄みを感じさせる峠だった。

                   (『雪山・藪山』 「小さな冬の旅」 川崎精雄 中公文庫 1963「アルプ」59号)

神野から巌道峠へ向かった紀行文の一節です。
桜の木の近くに祀られた石祠を見て、滑めの沢筋を辿るのが峠への道のようです。
桜の木とは秋山村の観光マップに記されている「降谷沢の桜」のことだろうか?
当時すでに道筋が不明瞭だったことがよくわかる。
大タギレ。尾根が大きく「断ち切れた」、あるいは「途切れた」地形、すなわちキレットの意であろう。
金波美峠と御牧戸山を結ぶ稜線上のほぼ中間地点に位置する。
秋山二十六夜山あたりから眺めて、それは容易に把握し得るところ。
・・・金波美峠から一路南下、池之上と呼ばれる平頂を乗っ越して、逆落としにくだりついた最低鞍部の
大タギレは、ほの暗く、しめっぽい帯状の窪地で、ことのほか山気が深かった
巌道峠みちから分かれて、秋山川沿いの神野に至る地形図の破線路が真ん中を貫いている。
しかし、神野寄りはひどい密藪と聞いた。

                                 (『中央線の山を歩く』 藤井寿夫 新ハイキング社)

この文章を読んで大タギレを訪れる気力が萎えてしまった。
大タギレはやはり暗く、湿っぽい窪地で、陰気臭い場所のようである。
神野寄りはひどい密藪とあり、探索意欲は完全に消滅した。
なによりもゴルフ場がよろしくない、そういうことにしておこう。

【*1】 「大平山」は「オオビラヤマ」と濁るのが正解らしい。
     綱子峠から向かう場合、その手前にあるピークを『ふじ乃町の地名』では「ツナゴフジ(綱子富士)」としている。

【*2】 『ふじ乃町の地名』によると、綱子側の登り道には「アテラザーサカ」の名が記されている。

【*3】 『山と高原60号』 「道志の峠路を行く(五)-牛窪峠と金波美峠」(田中新平著)では「牛窪峠」と表記している。 

【*4】 大正14年の地形図では「強盗峠」、明治21年測図29年修正測図版では「雁道峠」、
     明治21年測図昭和4年第3回修正測図版では「
巌道峠」となっている。
     しばらく続いた国土地理院の「
厳道峠」時代も、「ウォッ地図」を見たところ、「」に訂正されている。

     ちなみに巌道峠と表記する時代になってから、峠から大タギリを経て神野へ向かう破線道が描かれるようになったようだ。
     やはり峠道の本道は久保と安寺沢を繋ぐものと考えていいのだろう。

                                                                 (峠行2008.02.16)