ハシタ峠

 富士山西麓の猪之頭集落と旧下部町湯之奥集落とを結ぶ峠に、
天子山塊を越える「猪之頭峠(下部峠)」があります。

今では林道も貫通し、峠下には猪之頭トンネルが穿たれています。
峠の古道は湯之奥側は不明瞭であり、消え去ろうとしているといいます。
(『甲斐の山山』でも「駿州側は整備され、甲州側の峠道は荒れている」とあります。)

それはさておき、
アーネスト・サトウ著『明治日本旅行案内・中巻』(庄田元男訳・平凡社)を読んでいたら、
どう見ても猪之頭峠の記述であろうと思われる文章の中で、その峠の名前を「端下峠(ハシタ峠)」と
していました。 そんな別名もあるのでしょうか?

「ハシタ峠」といえば、本栖湖近くの竜ヶ岳の西南鞍部に「端足峠(ハシタ峠)」があります。
同じ音の「ハシタ」ですが、前者は「端」、後者は「端」と、表記が違っています。

猪之頭峠を「ハシタ峠」としたのは、アーネスト・サトウの聞き違い、記憶違いでしょうか?
それとも尋ねられた村人が間違った名前を教えてしまったのでしょうか?

あるいは、猪之頭峠に「ハシタ峠」という別名が実際にあるのかもしれません。

それともアーネスト・サトウは竜ヶ岳近くの「端足峠(ハシタ峠)」を越えたのかもしれません。
しかし、これは以下の抜粋を見ると分かる通り可能性は薄そうですが・・・。

「ハシタ」という言葉に謎を解く鍵があるのかもしれません。
「ハシタ峠」という言葉は、固有名詞ではなく普通名詞なのかもしれません。
「ハシタ」とは、ある種の地形状態を意味する言葉のような気がします。
その状態を呈した峠という意味なのでしょうか?

話がややこしくなりますが、『山梨県の地名』(平凡社)では、
「端足峠」の振り仮名を「ハダシトウゲ」としています。
裸足の「足」と同じように読むということでしょうか?

 

<前略>

・・・山道は大屋旅館の脇で逸れ、森を越え荒地を横切ると三十分で芝川沿いの猪之頭に至る。
さらに三十分で
端下峠の麓に着く、しばらくの間は右岸の牧草地の間を進み、
その後川を渡り左岸の森の中を登る。道は狭く草深いがすぐに見つかる。
峠の麓から頂上までの一時間半は三貫目の荷物を運ぶ人夫にとってはかなりこたえる。
頂上からは眺望が得られず休憩する茶屋もない。
反対側への下降ははじめのうち急でその後一時間は川筋をたどるが、そこでは随所に
花崗岩の丸石の上に石を小さく積み重ねて置いてあり、山道のありかを示している。
川を離れて山腹についた山道を、見事なブナの森を抜けて進みしばらく緩やかに上昇していくと、
やがて壮大で樹木の深い地峡の脇に出る。
その底部に沿って奔流が岩の上をほとばしり流れる音が聞こえるが、樹木によって完全に
隠されていて見えない。
間もなく山道は下降し始め、湯之奥の集落が視界に入ってくる。
道は集落に向かってジグザグの下り坂となり当地に入る直前で右側の支流を渡る。
峠の頂上から二時間である。ここには旅人のための宿はない。・・・

<後略>

『明治日本旅行案内・中巻』 (アーネスト・サトウ著・庄田元男訳・平凡社)
「人穴から身延へ」の一文より抜粋

文脈からして、竜ヶ岳近くの「端足峠(ハシタ峠)」を越えた可能性は低い。
湯之奥の集落に出たのだから、ほぼ、猪之頭峠越えの行程を記したことに間違いないと思われる。

「・・・端下峠の麓に着く・・・」の「麓」を、毛無山直下の集落名「麓」のことであると仮定すると、
地蔵峠(金山峠)を越えたとも考えられる。
地蔵峠は「甲斐国志」にも名前がある由緒ある峠であるので、
アーネスト・サトウが越えたとしてもおかしくはない。

しかし、そうであれば峠の石仏(道祖神)や下部側の峠道に点在している中山金山の遺跡に
触れてもいいはずである。 また、地蔵峠からは東方に眺望があるので記述とも異なる。

さすれば、やはり猪之頭峠を越えたのであろうか?

アーネスト・サトウが越えた時代に近い古い紀行文から探ってみましょう。
『山への思慕』(田部重治著・第一書房・昭和10年)に収められた「富士裾野の井ノ頭」という紀行で
田辺らは逆方向の湯之奥側から猪之頭へと峠を越えています。
(ただしここでの峠の呼名は「湯ノ奥峠」になっています。)

下部温泉では、「老人以外にこの道を知るものがなく、今では用のない道だけに通る人もいないので、
廃道同然になっているかも」と聞かされ、心配しつつも、

湯之奥集落で道を教わりながら峠道を行くという内容です。
下部川につかず離れず、流れを遡って行きます。

その中で、

「・・・道しるべとしては河原にところどころ石が積んであるからそれを注意して行くがよいとのことだった。
なるほど、少し行くと道が河原でなくなっている。
積石をあてに流れをじゃぶじゃぶ徒渉しながら登る気持は、本当に深山に入った気分に立ち帰る・・・」

という一文があります。

これは、アーネスト・サトウの
川筋をたどるが、そこでは随所に・・・石を小さく積み重ねて置いてあり、山道のありかを示している。
という状況と酷似しています。

また、田辺の紀行文には、

「可なり急に登って行くと、道は苔むした谷間に沿い、流れは林間に幽かな音をたてている。

という一文もあります。

これは、アーネスト・サトウの
深い地峡・・・底部に沿って奔流が岩の上をほとばしり流れる音が聞こえるが、樹木によって完全に
隠されていて見えない。
」という状況と酷似しています。

田辺はアーネスト・サトウと同じ峠を越えたのではないでしょうか。
そうだとすると、やはりサトウは端下峠ではなく、猪之頭峠(湯ノ奥峠)を越えたのではないでしょうか。

ただ、異なる点もあります。
アーネスト・サトウは「頂上からは眺望が得られず」としていますが、

田辺の紀行文では、峠の頂上から

「先ず目につくものは、すばらしく高い壮麗な富士の姿である」

としています。

まぁ、これは天候の状態や季節による樹木の繁茂によって左右されますし、
主観が多分に移入されるところなので、個々の人によって受け取り方に差もでることでしょう。

現に『甲斐の山山』では、「西側は自然林で、落葉期には南アルプスが枯れ枝ごしに眺められる。」
との記述がみられます。

 

結論は、アーネスト・サトウが越えた峠は猪之頭峠であるということが濃厚であるということ。
疑問は、猪之頭峠を果たして「端下峠(ハシタトウゲ)」と呼ぶかどうかという点。

疑問は、疑問として残ったままだ。

《おわり》

 

*アーネスト・サトウ著『明治日本旅行案内』には、日本各地の峠が登場します。
 当時の峠とその付近の様子を知るには良い本です。結構、マイナーな峠も越えています。
 よくぞこれほどまでに、各地を歩き回ったなぁ〜と感服!

*田辺の紀行文によると、湯之奥からの峠道の途中に標識があり、猪之頭と佐野との分岐があったとあります。
 湯之奥と佐野とを結ぶ峠道もあったのですね。これが幻の「湯ノ沢峠」なのかもしれない。