笹尾根越えて、また越えて

〜 日原峠・浅間峠・栗坂峠 〜

 笹尾根を越える峠道の中で、もっとも歩かれている峠道はどれだろうか?
ハイカーの多くが笹尾根縦走の起点・終点として利用する西原峠や浅間峠だろうか?

地形図には破線道がしるされていても、ハイカー御用達の『山と高原地図』(昭文社)では
コースとして紹介されていない峠道も多く見受けられます。
笛吹峠や浅間峠の甲州側の道、日原峠の檜原側の道は『山と高原地図』にはコースタイムの
付記される赤線の道として表記はなされていません。
なんと小棡峠にあっては甲州側も檜原側もハイキングコースとしては認知されていないようです。
そもそも笹尾根を少しでも長く歩き通すことを目的とするハイカーにとっては、
尾根縦走途中より山里へと下降してしまうそれら峠道に対する関心は薄いのかもしれません。

今回は、日原から日原峠を越えて人里(へんぼり)へ、
そして上川乗(苔)から栗坂峠(浅間峠)を越えて小伏(こぼし)へと、笹尾根を二度横断してみました。
日原峠から人里への道、栗坂峠から小伏への道はともに、
『山と高原地図』においてはハイキングコースとしては認知されていません。
栗坂峠の道は地形図に破線道すらしるされていませんが一体どんな状態なのでしょうか?
(以前、栗坂峠を辿ったときは芦沢山を経由して小伏に下ったので全容を把握していません)

年の瀬の半日、こちらからあちらへと峠を越え、そしてまたあちらからこちらへと峠を越えて戻るという
笹尾根横断の峠歩きをしてきました。


「日原線」の標識がある峠への道


明るい斜面に開かれた長寿の里
聖武連山と能岳(向風山)のトンガリが目立つ

冷え込み厳しい早朝の路面凍結を極度に警戒し、お昼に長寿の里として有名な棡原に到着です。
土砂崩れの復旧工事で通行規制が続いている県道33号上野原あきる野線から分かれ、
「日原線」の標識に従い日原の集落内に入ります。
南斜面に開かれた明るい集落は、日当り良好のポカポカで早くも汗が噴出します。
まさに「日原」の名に相応しい、日の当たる原に村が築かれています。
南面には聖武連山と能岳の小さいながらも目立つ隆起が、
鶴川の谷を挟んでは二本杉から雨降山のどっしりとした山容が望まれます。
斜面の上り下りは足腰を鍛え、素晴らしい自然環境は美しい心を育むに違いなく、
こんな所で暮らせたら誰しも長寿を全うするのではと思えてきます。

現行版地形図には日原集落から日原峠へ向かう道として、二本の破線道が描かれており、
どちらを選択すべきか少し迷うところですが、『山と高原地図』では東側の道を登山コースとして
採用しているので、それに便乗することにします。
しかし、古い地形図には西側の道のみが描かれていたりもします。
(下図参照。ちなみにこの古い地形図では笹尾根を乗り越える峠の位置が小ピークの東側であり、
現行版地形図の峠位置であるp917小ピークの西側とは異なっています)


昭和22年発行五万図 地理調査所


峠道を少し進んでから現われる登山標識

東側ルートの峠口は民宿「長明園」の看板に従えば辿り着きます。
工務店の作業場前を通過し、愛宕神社の背後から土道の峠道が始まります。
峠口には廿三夜塔、蚕神供養塔が祀られているのを見ますが、登山標識は一切見当たりません。
薄暗い植林地の中、沢を回り込んで少し行った所に、やっと「町」時代の登山標識が現われます。

ここまで辿り着くこともできない登山者は山に入るべからずという行政サイドの無言警告の姿勢なのか、
登山標識を必要以上に設置しない上野原町(市)の態度は好感が持てるというもの。
この第一標識から少し登った所に、「市」時代になって新たに設置された
平成19年製の「←日原峠 棡原中学バス停・棡原・日原→」の新標識があります。
しばし植林内の道を登り、炭焼き釜跡の石積みを通り過ぎれば勾配も緩み始め、
自然林混じりの明るく歩きやすい道の表情に変わります。


分岐路に置かれた馬頭観音


寛政期の馬頭尊で「右山みち 左人里」とある

『甲斐の山山』(小林経雄著)によると、p710辺りに「愛宕山の古池」という池があるようですが、
残念ながら見落してしまいました。(どこにあったのだろうか?)
日照りになると、雨乞いとして池の中の水を皆で引っ掻き出し、天狗を怒らせ雨を降らせたといいます。
古い版の『山と高原地図』にも「愛宕山の古池」の文字は見られますが新版には表記がありません。
池は干乾びてしまったのでしょうか?

小さな分岐点で突然姿を現わす馬頭観音に頬が緩みます。
日原峠に石仏が置かれているのは知っていますが、峠道にも置かれていたとは嬉しい出合いです。
寛政期の馬頭観音で「左人里 右山みち」と刻まれ、道標を兼ねています。
この道が山向こうの人里(へんぼり)とを繋ぎ、しかも江戸時代からの古き道であることを物語っています。
「右山みち」の示す山道も気になります、甲武トンネル方向にトラバース道が続いているのでしょうか?


地形図にある日原から上がってくるもう一本の道と合流
左が登って来た道、右が合流する西側ルート


浅田真央ちゃんのビールマンスピーンに見えてならない

馬頭尊に刻まれた「左人里」の指示に従い、手入れの施されている植林地内を進めば、
日原からのもう一本の峠道である西側ルートとの合流点を迎えます。
この場所には登山標識は設置されていませんが、西側ルートの道の状態も良さそうです。

小腹が空いたのでカバンから99円のハムカツドッグを取り出してかぶりつきます。
ムシャムシャしながら辺りを見回すと、目の前の異形な古木が
浅田真央ちゃんがビールマンスピーンをしている姿に見えてきてなりません。
少し前まで反った立木がみんなイナバウアーに見えたのと同じ現象なのでしょうか?
峠道の状態は極めて良好で、危険な場所もなく幅広で安定しています。
西側ルート合流点から先、しばらく自然林の中を行く落ち葉フカフカの道となります。


馬頭観世音が置かれた分岐
先代の朽ちた道標は右行く道を「浅間峠→」としている


大正期の馬頭尊で「右山みち 左人里」とある

再び植林地内に入ると「町」時代の公的登山標識の建てられた小さな分岐を迎えます。
ここには「馬頭観世音」と刻まれた大正三年の石造物があり、
最前の馬頭観音分岐と同様に、「左人里 右山みち」と刻まれ道標を兼ねています。
「右山みち」が気になりますが、傍らに転がっている朽ちた先代の登山標識には「浅間峠⇒」とあり、
ここを右に折れれば、笹尾根に乗り、浅間峠へと向かうことができるようです。
先に示した古い時代の地形図に描かれたp917小ピークの東側で笹尾根に達する道と思われます。

峠はもうすぐそこで、葉を落とした樹林の透き間から土俵岳の丸みをチラチラ望みながら進むと、
笹尾根を横断する明るい日原峠に飛び出します。


暖かな日溜りの日原峠


峠の石仏

峠は暖かい日溜りの中にあり、笹尾根の人気者である峠の地蔵様は手を合わせ黙然としています。
ここの地蔵様は相変わらずのお金持ちで浄財が山のように積まれています。
御札が二つ奉納されていますが、一枚は丹沢山中でよく見かける熊野修験者のものです。
きっと笹尾根を駆け抜け、大岳神社、御岳神社と修験修行の山駈けを行ったのでしょう。
最近、トレイルランニングに対して、自然破壊であるとの批判が高まっているようですが、
白装束に草鞋、脚絆姿で、もごもごと呪文を唱えながら走り抜ければ、
批判をかわすことができるかもしれないと馬鹿なことを思ったりもします。

日原峠は、五日市線開通までの「魚の道」であったといいます。
『秋川上流山村の村落構造の研究』(時任則子著・檜原村図書館所蔵)という文献資料には、
横浜で水揚げされた鮮魚が上野原より日原峠を越えて人里・数馬に運び入れられたとの記述があります。
冬場の峠越えでも大量の汗をかくというのに、魚を腐らせずに南秋川沿いの山間集落へと
運び入れることなど本当にできたのだろうかと疑いたくもなります。

また、『秋川の山々』(東京瓦斯山岳会・木耳社)によると、昔は秋川側に無人小屋があったとあります。
無人小屋を利用した甲州側と南秋川側との無人交易なども行われていたのかもしれません。


峠から数分の場所にある水場


「←事實・笛吹」 「和田→」 分岐

峠から南秋川沿いの人里へ向けて峠道を下ることにします。
北側斜面に足を踏み入れると、冬の角度の低い太陽光線は笹尾根自体に遮られて届かず、
さらに樹間の詰まった植林が少ない太陽光をさらに絞り込み薄暗さを倍増させます。
気温が二度か三度ばかり下がったようで、霜柱が随所に見られ、鼻水が流れ出します。
植林がきれいに手入れされているのがせめてもの救いで、もし荒れている植林地だったならば、
気分まで暗くなったに違いありません。

日原側の暖かさに包まれた峠道と異なり、人里側は寒さが身に凍みます。
「陽」から「陰」の世界に下って行くようで、足を踏み出すのを躊躇したくもなりますが、
『山と高原地図』にコースとして認知されていない人里側峠道がどうなっているのか知りたいという
気持に押されて笹尾根の影の支配下にある峠道を下ります。

峠から数分の場所にある水場で軟らかい水を口に含み、しばらく進むと和田分岐を迎えます。
この分岐は地形図にしるされた分岐で、登山標識が設置され、
「←事實・笛吹」と「和田→」を指し示しています。
地形図には峠から南秋川側へ下る道が二本描かれていて、一本は人里の中心部へ、
もう一本はそれより下流の「人里休暇村」へと下っています。
どちらが本道だろうかと考えますが、やはり人里集落の中心地へ下る道が本道ではないかと思われ、
古い版の地形図にもその西側ルートのみがしるされています。 


しばらくは踏跡の薄いトラバース道が続く


「←上平・笛吹」 「事實→」 分岐

登山標識の「←事實・笛吹」に従い、西側ルートを選択して進みます。
選択した道は地形図から読み取れる情報通り、すぐに下降することなく、土俵岳北面をトラバースして
なかなか高度を下げようとはしません。
樹相は植林から自然林帯へと変わり、落ち葉が踏み跡を隠す部分もあり
怪しくなる気配を一瞬チラッと見せもしますが、所々にマーキングがあり迷い込むことはありません。
念のためにp870を踏んで山名標識のないことを確認して、再び植林地内につけられた
明瞭なる峠道を進みます。

p870を過ぎ、尾根が細くなり始める地点に倒れた登山標識があり、
それを拾い起こすと「←上平・笛吹」と「事實→」と示された腕木が取り付けられています。
地形図にはしるされていない道が、コカンバ沢(古寒場沢、地形図では丹田沢)側へとのびています。
ここは「事實→」の指示に従い、地形図の破線道を選択して進みます。


大木の根元に大山祗神が祀られている


伐採地で峠道は分断される

p742を過ぎると次第に下り勾配は強まり、潤滑油を失った機械の悲鳴のように膝が痛みを訴えます。
この後、再び笹尾根を越えて車を停めた甲州側へ戻ることを考えると無理はできません。
勢い良く下り勾配の惰性で転がり降りるのは控え、一歩ずつゆっくりと下降します。
背の高い大きな聖木の根元に祀られた大山祗神を見ると、開けた伐採地へと入ります。

伐採痕はまだ新しく、倒された木も安定していません。
凹とした峠道に覆い被さる夥しい数の伐木に、押し潰される危険を感じて峠道を一旦逸れはしますが、
けして進路を失うことはなく、南秋川沿いの集落を木々間から覗きながら、植林地内のジグザグ道を
膝の痛みを我慢して下降し続ければ、次第に川の流れが耳に届くようになります。


橋は無くなっていたが河川改修工事中で渡渉できる

地形図に記載のある峠道出口にあるはずの南秋川に架かる橋はなぜか無く、
橋脚だけが残されている状態で少々動揺しましたが、
運良く河川改修工事中で足を濡らすことなく対岸へと渡ることが出来ました。
河川改修工事のついでに新たな橋を架けてくれればと思いますが、
檜原村の財政がそれを許す状況であるかは知り得ません。
橋とは言わず、せめて重機で飛び石を配してくれればそれでいいのでひとつよろしく・・・・

これで日原集落から笹尾根を越えて人里集落までやって来ましたが、
峠道全体の印象は、かなりの高評価、高得点といえるでしょう。
道自体は歩きやすく、危険な箇所も、迷い易い場所もほとんどみられません。
特に日原側の道は極めて良好で、要所に馬頭尊を配するという心憎い演出も気に入りました。
さすがに昔は頻繁な往来があった峠道であると素直に頷くことができます。
なぜ、『山と高原地図』では人里側の道がコースとして紹介されていないのかよく分かりません。
流失した橋のせいなのか、出入り口を示す登山標識が少ないせいなのかと勝手に想像します。
静謐を保つためには、このままハイキングコースとして記載はしない方がよいのかもと思ったりもします。


上川乗側の浅間峠道口


山の神(?)の祠が祀られている

さて、今越えてきたばかりの笹尾根を登り返して、車を乗り捨てた甲州側へと戻らなければなりません。
今度は和田から登る日原峠の東側ルートを辿ろうかとも当初は思いましたが、
少しでも標高の低い峠の方が、迫る夕暮れのことを考えればよいだろうと浅間峠越えを目指します。

人里集落から浅間峠の登り口である上川乗(苔)まで、バス便はあるものの30分待ちなので、
テクテクと南秋川沿いの檜原街道を歩きます。
途中、「人里休暇村」の手前に、小さな赤い鉄橋が南秋川に架かっているのを見ますが、
どうやらこの橋が日原峠東側ルートの入口であるようです。
地形図から受ける印象と橋の位置が若干異なっているように思えますが、
他に対岸へ渡る手段が無いのだからこれを利用するしかありません。
登山標識は見当たりませんが、山に少し入ると現われるパターンなのかもしれません。

上川乗からは、上野原あきる野線の路肩の凍結に慎重に足を運びながら浅間峠道に入ります。
沢筋に架けられた小さな橋を渡って植林地内のジグザグが始まります。
地形図の等高線の詰まり具合からも解かる通り、厳しい登りですが、道は非常に安定していて
一気に高度を稼ぐことができます。
「関東ふれあいの道」であるため過度に整備されている感もありますが、
峠道が活かされているのだから良しとしましょう。


嘉永年間の馬頭観世音


浅間峠

息の切れるジグザグを終えて、小さな木製の祠の横を通り過ぎると勾配は緩み、
p815西面をトラバースするようになり、一層快調に足は進みます。
カバンからキンキンに冷えたミカンを取り出し、摘み食いしながら急登で渇いた喉を潤します。
峠道の傍らに眠る嘉永年間の馬頭観世音に、コクリと頭を下げ、下草に笹が現われだすと、
笹尾根上の峠である浅間峠へひょいと飛び出します。
寒冷で「陰」なる世界であった檜原村側から、「陽」なる明るく暖かい甲州側に再び戻ってきてホッとします。

年の瀬の夕刻の峠に人影は無く、静まり返っています。
時折、
土砂崩れの被害を受けた上野原あきる野線を復旧する工事の音が轟きますが、
そんな雑音でもなければあまりに寂し過ぎます。
峠のベンチに腰掛け、昼飯用に買ってあった4個99円のすっかり冷えきった稲荷寿司を飲み込みます。


峠の巨杉


二本の巨杉に護られる浅間社の石祠

峠に聳える二本の大きな古杉の根元には浅間社の祠が鎮座しています。
正月に備えて注連縄が張られ、供え物があるかもしれないと思っていたのですが、
石祠前にはワンカップの空瓶が置かれているだけで新年を迎える準備はまだ整っていないようです。

あとは峠を下るだけの安心感から長居もしたくなりますが、明るい夕陽を受ける尾根上とはいえ、
気温は下がる一方ですから先を急がなければなりません。
浅間峠から三二山川沿いに下る峠道は以前歩いたことがあるので、今回は小伏集落へと下ります。
小伏の集落へと下るために足早に栗坂峠へ向けて移動を開始します。


浅間峠の東屋


夕陽を受ける栗坂峠

「栗坂峠=浅間峠」ではないかとの説もありますが、
「浅間峠」は浅間社の石祠がある場所で、「栗坂峠」はそこから熊倉山側へ少し進んだ場所の
p879の手前であるとの分離説も有力です。

 「此処を栗坂峠と一般に謂はわれてゐるが、栗坂とは小伏から登る峠路につけられたものである。
 今は忘られてゐるが、いにしえの峠路は浅間小祠からすぐ真下を
 三二山川沿ひに猪丸に降る径であらう。」

                   −『山と渓谷89号奥多摩特集』「秋川をめぐる峠」(宮崎封v著)より−

上記文章によると、三二山川沿いに下る峠道が浅間峠道で、
小伏へ向けて支尾根沿いに下る道が栗坂(峠)道であると明確に示されています。
しかし、両者の距離はさほど離れているわけではないので、同一の峠として捉える向きもあります。

  「浅間峠というのは、例によって富士の展望に恵まれてその神社まであるからで、
  浅間尾根の方と区別するために栗坂浅間峠と一口にいう。
  檜原方面からのぼって来て此の境ノ宮の処で稜線に出、
  そのまますぐ降らず山稜に沿って10分ほど走って小伏に降るのだ。
  人に依って宮のある処を浅間峠、降りとなる処を栗坂峠というが、同一とするのが正しいのである。」

                                    −『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社)より−


大分傷んできた栗坂峠の標識


栗坂峠から小伏へ向かう道

栗坂峠に取り付けられた標識は以前訪れたときより痛みが進んでいますが、まだ判読は可能です。
小伏へと向かう道は小笹に覆われ、歩く人も少ないと見えますが、支尾根に乗るまでの
頼りない序盤トラバースを終えれば安定した良い道となります。

『一日の山・中央線私の山旅』(横山厚夫著・実業之日本社・1986年)には、
「現在、栗坂峠の名は2万5千図上からも消え、峠越えの破線道もしるされてはいない。
実際にも道は不明瞭になっているので、日原峠か浅間峠の道を下山路に選んだほうが無難である」
と書かれていますが、「不明瞭」というほどの危うい道ではありません。


芦沢山手前の鞍部


鞍部に祀られている天保期の馬頭観音

支尾根(栗坂ノ尾根)につけらた凹状の道を、膝の痛みに堪えて下るとp717の鞍部へと降り立ちます。
以前訪れた時は、このまま直進してp774芦沢山、p710を経由して小伏へと下りましたが、
今回は鞍部で左に折れて芦沢川沿いの道へと下ります。

鞍部には小さな自然石に彫り込まれた天保期の馬頭観音があり、
この道筋が古くから存在していることを教えてくれています。
冒頭に示した昭和22年発行の五万図には破線よりも幅広の道で道筋が描かれています。
浅間峠直下から三二山川沿いに辿る峠道が古い地図に描かれていないところをみると、
浅間峠道よりも栗坂を伝う道筋の方が歴史があるのかもしれません。


『奥多摩』(宮内敏雄著)挿入図 より


石の道標が置かれた小伏の入山口

栗坂ノ尾根を離れた道は暗い植林地の中を幾度ものジグザグを切って下降し続けます。
時間が時間なので沢筋に下れば下るほど、周囲は暗さを増していきます。
明るい光線が入る時間ならなんの不安も無いでしょうが、どこからか妖怪でも出てきそうな雰囲気です。
ひとしきりのジグザグを終え、沢底に降り立つと、流れに沿った直線的な道となり、
しばらくの歩行で芦沢川本流沿いの神庭入林道の終点に飛び出します。

林道との接続点には石の道標が置かれていて文字が刻まれていますが、
「右山道」とは読めるものの、今下って来た道の方向は「左(?)×××」で判読が不能でした。
「くりさか」あるいは「かみかわのり」とでも刻まれているのでしょうか?
また、「右山道」の道を進めば、浅間峠と熊倉山との中間辺りの尾根上に飛び出たりするのでしょうか?

「神庭」という曰くありげな名を持つ林道を進むと、小伏の民家が姿を現わします。
それと同時に富士の玲瓏たる姿も目に飛び込んできます。
白壁の土蔵を持った重厚な家の造りは集落の歴史を感じさせます。
路線バスも入らない山襞の片隅にも人の暮らしはあるのです。
ここでの暮らしは不便でキツイかもしれませんが、
遠くに望まれる富士の姿がそれを支えているのかもとなぜか思うのです。

日原から日原峠を越えて人里へ、上川苔から浅間峠・栗坂峠を越えて小伏へ、
今日は二度も屏風のような笹尾根を越えて、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと
正統的な峠歩きを堪能することができました。
遊びで峠越えをする分には愉しいのみですが、
かつて日々の暮らしの中で何度も峠越えをすることを余儀なくされた山里に暮らす人々のことを思うと
峠と峠道をあまり美化してばかりはいられません。
笹尾根の腹を貫く甲武トンネル、栗坂トンネルは、たまに当地を訪れる旅人からすれば
自然破壊の一言に尽きますが、そこで暮らす人々にとっては便利で重要な道であるのです。

それにしても自動車の走り抜けるアスファルトとコンクリートで固められた堅牢な県道が
土砂崩れの被害を受け通行規制中であるのに、人の足で踏み締めただけの峠道が崩れることなく
今もその姿をとどめているということは、峠マニアをただただ喜ばせてくれます。(フッフフフ・・・・)

●以前に栗坂峠を訪れた時の関連レポートを見る
●以前に浅間峠を訪れた時の
関連レポートを見る

日原12:00--日原峠13:05--人里14:10--上川苔14:50--浅間峠15:40--小伏16:30
(峠行2008.12.29)