★ 市道の峠 @ / 醍醐峠

注意: このページでいう「醍醐峠」とは醍醐丸南の醍醐峠(篠窪峠)のことではなく、市道山南の「醍醐峠」のことです。
また、「市道」と呼ばれるものは各地にありますが、ここでは恩方村方面から五日市町の市に通った道を指します。

麗らかな春の一日、ホントにここも東京?と思える静かな山里を歩いてきました。
とあるHPで紹介されていた「こわかわいぃ!」狛犬に挨拶して。
今回は、市に通った道、「市道」を探索します。


『奥多摩』 (宮内敏雄著・百水社) 挿入図 より

市(イチ)に通う道であった「市道(イチミチ)」に関心を持ったのは、
『あしなか第3号』(山村民俗の会編)の「市道山考」(宮内敏雄著)を読んでからです。

そこには以下のように記されています。

「・・・市道山のイチミチの経路に就いては、無論現在の陸測図の破線記号で示された醍醐部落から
三角点峰と東南峯の中間を縫って、西千ヶ沢とカナバ沢中間に蹴出したヨメトリザカの小尾根を
コザカシ沢に降り、南秋川笹平に抜けるものではなく、正しくは醍醐から東南峯に登ったら山稜を東に、
そして最初に北に蹴出した小尾根を盆堀川支流千ヶ沢べりに降るもので、この小尾根がトホリ尾根

この小尾根の右岸の千ヶ沢の枝沢がイチミチ沢の名を持つのである。・・・」 【*1】

今までは、「イチミチ」とは醍醐峠からヨメトリ坂を経由して笹平に降るもの、
あるいは千ヶ沢本流沿いに降る道筋と思っていましたが、「通り尾根」と呼ばれる「峰見通り」から
派生する小尾根を下降するのが本来の道筋であることを知ったのです。

『奥多摩』(宮内敏雄・百水社)の挿入図を見ると、「通り尾根」、「市道沢」の名を確認することができます。

「通り尾根」を通っていた本来のイチミチは『あしなか第3号』の「市道山考」によると、
  「・・・明治11年編纂された『多摩郡村誌』の頃まではまだあった。
  それが明治40年の陸測図には現われているので、その間に消えたものと考えてよかろう」とあります。

そしてその理由として、
  「丁度此の時代に中央線鉄道が布かれ、経済中心が八王子に移動したためである。
  鉄道の開通に依って、今迄網の目のように山脈を横断して結ばれていた地方文化は、
  根本から変貌を余儀なくされ、斯くして古人に踏まれた幾多の峠みちは忘れられ、
  消えていったのである。

  ・・・五日市の町は、新しい交通変貌の故の経済圏は秋川流域に限られ、
  もうニ度と額に汗し、山踰えをして交易を需めたイチミチは、復活しなかったのである。
と峠道の末路を記しています。

消えてしまったという「本来の市道」である「通り尾根」の様子を探りに訪れてみました。


醍醐林道とニニク沢林道の分岐

醍醐川に沿った振宿、醍醐の集落の奥に醍醐林道はのびています。
醍醐林道は醍醐丸の東側山腹を縫って陣馬山の北、
和田峠(案下峠)まで続いています。

醍醐林道から分派するニニク沢林道に入り、
途中よりニニク沢沿いを辿って吊尾根に突き上げる道筋が
「市道」で、吊尾根に出たところを「醍醐峠」としています。

ニニク沢は『奥多摩』では「ニタコロバシ沢」になっています。


林道分岐にある天保の道しるべ

醍醐林道とニニク沢林道の分岐点には
天保時代の道しるべが置かれています。
「右、臼木山 ひのはら、 左、さの川  野島氏天保十一年」 
と刻まれています。 
【*2】

「五日市」とは刻まれていないようですが、
天保の頃は五日市の町は発展していなかったのでしょうか?
それとも臼杵山経由で町に入っていたのでしょうか?

『五日市町の古道と地名』によると、
 「五日市という地名の記録的な上限は天正2年であるから、
 約400年前からということになるが実質的にはそれ以前から
 存在したものであろう。五日市が確りした市場として発足したのは、
 江戸期の承応2年(1653)頃からではなかろうか。」 とあります。

つまり、天保以前から五日市町の繁栄はあったようです。


醍醐峠道入口 左手に下る

道しるべに従い、ニニク沢林道を進みます。
しばらく行くと取水堰に下る道があり、
「カニほり、バーベキュー禁止、地元町会」の看板があります。
この辺では、カニは掘って(?)捕まえるものらしいです。

さらに進むと左手に沢沿いに下る道があり、
テープの目印と「自然愛す、八王子四中ワンゲル部」と書かれた
看板がぶら下がっています。

ここが醍醐峠道の入口で、
この先、ニニク沢の左岸沿いにシッカリした道が付けられています。


ニニク沢の流れ

この醍醐峠の道は、養蚕・絹織業が盛んだった時代、
檜原村の村人がヨメトリ坂を越えて市道山に至り、
醍醐峠を降って恩方、八王子方面へ
機織りの出稼ぎ(季節期間労働)に出た道でした。

その印象が強かったせいか、
檜原村から、あるいは五日市側から、恩方、八王子へ向けた
人の流れが主流であったのではと思いがちでした。

しかし、それは近年の話であって、
天正年間の末期までは八王子の都邑は無く、
(その20年前の永禄年間には元八王子の城下も無かったので)
古くは人の流れは五日市へと向かっていたそうです。 【*3】

旧幕時代には醍醐川の下流の高留に関所が設けられ、
小仏関の補助的な口留番所として、
往来者の通行を取り締まっていた為、そのいちいちの査閲の
煩わしさに恩方の里人も距離的には近い八王子ではなく、
むしろ手軽な山越えの道(五日市への市道)を
選んでいたといいます。 【*3】


峠への道

峠道には二箇所ほど分岐がありましたが、
本道と思われる吊尾根に突き上げる道筋を選びました。
周囲は手入れの行き届いた杉の植林地です。
作業道として利用されているようで踏み固められた道です。
植林地内ではありますが光が入るので暗い感じはありません。

醍醐の集落からは、醍醐峠道とは別に、
直接、「峰見通り」に突き上げる道があったようですが
今は廃道になってしまったとのことです。
その突き上げた地点である峰見通り上にも
「市道山」とか「市歩地山」と呼ばれた場所があったとの
古い言い伝えがあるそうです。 【*4】
そうすると「市道」は他にもあったのかもしれません。


峠直下の道

醍醐峠直下の整然とした植林地内の登りはちょっとキツイです。
こんな急登を、市に出す荷物を背負った人々や
荷を付けた馬は歩けたのだろうかとの疑問も湧きます。
昔は、植林も無く、もっと大きなジグザグをきった
歩きやすい道だったのかもしれません。

峠に出ると、小坂志沢流域の側から吹く冷たい風が
急登でかいた汗を一気に冷やします。
光は春ですが、風はまだ冬の支配下にあるようです。


醍醐峠

醍醐峠の名は、
吊尾根の南、醍醐丸と高岩山との鞍部にも見られます。
『山と高原地図』でもそちらに「醍醐峠」の名を与えていますが、
現地の古ぼけた道標では、そちらの峠を篠窪峠としています。

ややこしい話ですが、
篠窪峠にある新しい道標には醍醐峠とあります。
醍醐峠にある古ぼけた道標にはここを醍醐峠とする旨は
標されていません。


醍醐峠

ややこしいといえば、「市道山」です。
市道山には「市道山、イッポチ山、千ヶ澤峯、醍醐峠、醍醐嶺」
と五つの名前があるそうです。 【*4】

さらにややこしいのは、「市道山」と「イッポチ」の関係です。
「イッポチ」は「市歩地」、「逸歩地」との字を当てるようですが、
「市道」が訛ったもの、詰まったものと考えられています。
その両者の位置、関係については諸説あるようです。

『檜原村史』によると、市道山のことは、
「イッポウチ」と呼んだとあります。
「イッポウチ」は「市方道」で、市に通った道ということです。


市道山 山頂

市道山の頂きと呼ぶには威厳に欠ける頂きで、
99円のアップルパンとテルモスの紅茶で休憩です。

山頂標識の裏手にのびる西尾根(?)や
山頂手前のいわゆるイッポチの巻き道の途中から西にのびる
踏み跡なども気になります。

ふと、山頂の標高標識を見ると「795.1m」とあります。
これは覚え易いと一句ひねり出しました。

「ヨメトリで 泣く恋あった 市道の坂」 (泣く恋=795.1)

「ヨメトリ坂で、お気に入りのあの人が、恋敵に奪われてしまった」
という切ない情景を詠んでみました。
「恋い焦がれ 山の越路の ヨメトリで 泣く恋あった 市道の坂」

こんな語呂合わせで標高を覚えても
「奥多摩センター試験」には出題されません。


千ヶ沢分岐

どこかに「ムコトリ坂」はないだろうか?
そこで裕福な山林地主の一人娘と出逢って婿養子に迎えられる
という夢のような甘い人生は落ちていないだろうか?
とつまらぬことを考えたりもする。

千ヶ沢本流沿いに盆堀へと下る分岐道を見送り、
「峰見通り」を進みます。
宮内敏雄著にある「最初に北に蹴出した小尾根」(『あしなか』)、
あるいは、「一つ、二つ目に真北に蹴出す小尾根」(『奥多摩』)を
目指します。

「最初に」と「二つ目に」とは大分違いがありますが、
地形図p727の右隣りの北に張り出した小尾根に狙いを定めます。
この小尾根からp560を経由して千ヶ沢べりに下降を試みます。


通り尾根分岐か?

ところが現地ではp727ですら読図がうまくいきません。
こんなにアップダウンしていいのだろうか?などと不安になってきます。

とりあえず左画像の道標の裏手にのびる踏み跡を辿ります。
でも、ひょっとして「通り尾根」の分岐を過ぎてしまい、
お隣りの「栗ノ木尾根(栗木王沢尾根?)」の分岐では
ないかとの不安もよぎります。
そうかと思うと、いやいやまだ手前の尾根ではないかとも思えてきます。
あー、地図読みの未熟さが露呈してしまうのです。 (^^ゞ

それでもここが「通り尾根」の分岐だと思い込むと、
そう思えてくるといういい加減さで突入です。


涸れ沢をトラバース

小尾根に入り、しばらくは植林地内の明瞭な仕事道が続きます。
仕事道沿いのスギの幹には白ペンキで謎めいたマークが
点々としるされています。

やや急な勾配もありますが
「イチミチ」として使えたものと思えます。
これは「通り尾根」で正解かと思ったのも束の間、
植林帯から自然林へと変わり踏み跡は消えてしまい、
勾配がきつくなり尾根が終結しようとしています。

これはマズイと右隣りの植林のある尾根に
涸れ沢をトラバースして移動します。
しかし、この尾根もしばらく植林帯を下降した後、
自然林の急傾斜尾根となり終わろうとしています。


林道に降りた小尾根末端部と沢

右手にさらにのびる尾根を見て、これはしくじったなと気づいた時は
時すでに遅く、登り返す元気もなく、沢沿いに下降を続け、
飛び出したところがp560の二つ西隣りの小尾根の末端でした。

「九郎ベエ沢」だったのでしょうか?それとも「タカノス沢」?
沢を石積みの橋が越えて林道が千ヶ沢本流沿いにのびていますが、
小尾根末端部のコーナーが崩落していて通行不能です。
林業関係者の車が停まっていました。


石津窪出合付近の林道

どうやら「通り尾根」の探索は失敗に終わったようです。
細かい地形を地形図から読み取ることができませんでした。
それでも周辺の雰囲気、山深さは体感することが出来たので
“良し”とすることにしましょう。

本来歩く予定だった「通り尾根」の末端や、「市道沢」を確認して、
盆堀林道に合流します。

この後の予定は、旧入山峠を探索しつつ、峰見通りに復帰して、
車を乗り捨てた振宿集落に戻り着くというものでしたが・・・
これはあくまで予定。


この沢の右岸道を進む
(オリソコナイ沢だろうか?) 

予定は未定とはよくいったもので、
盆堀林道を歩いていると、なにやら気になる道を発見。
左画像の沢の右岸につけられた明瞭な仕事道に
誘い込まれてしまいました。

仕事道というよりは立派な登山道といった方が良いかもしれません。
桟道や鎖が設置されていたりして整備が行き届いているのです。

すでに正確な読図能力を失った身には
何という名前の沢かは不明です。
なんとなく、「オリソコナイ沢」だと思うのですが、といった感じです。
だとしたら「ノボリソコナワナイ」ようにしないと。


後半部の10mほどの滝

快適な山道は順調に高度を上げていきます。
右手にかなり大きな滝が見えてくると、それを巻くようにして
山道は滝の落ち口に出ます。
ここからは沢沿いの道となります。
今までと違って道は怪しくなりますが踏み跡は明瞭です。
これまでの整備された道は大滝見物の為のものだったのでしょうか?

支沢は無視して本流をしばらく進みますと、
左画像の細い水量の10mほどの滝(二、三段あり)に出ます。
ここで撤退かとも思いましたが、ちゃんと左手に巻き道があり、
無事に滝上部に抜けることができました。


滝上部にある青いトタンの休憩舎 

滝上部には「御成婚記念金堀谷都行造林地」の看板があり、
その裏手から植林地の中に仕事道ものびています。
しかし、ここは水量が極端に減った本流を進みます。

しばらく行くと植林地の中の擂鉢状の地形となり、
青いトタン屋根の休憩舎が姿を現わします。
ムムム・・・、三方向ぐらいに踏み跡はあるものの、
一番明瞭な左手の踏み跡を選択して植林地のジグザグを登ります。


植林尾根上にある青いトタンの休憩舎

そして植林地上の小尾根を進むと、
またも青いトタン屋根の休憩舎が登場します。
これは休めという合図か? ということでここで休憩。 
非常食の「力餅」を食べて力をつけます。

力餅を食べたものの、一度失った読図の力は甦らず、
正確な現在地は不明。
しかし、東に送電線が見えたおかげで
だいたいの場所の見当はつきました。

「峰見通り」p669地点から西へ、二つ目か三つ目ぐらいの
北に蹴出した小尾根です。 (うー、曖昧!)
小尾根から「峰見通り」に向けて、明瞭な踏み跡も確認できます。


「峰見通り」に復帰した地点

「峰見通り」まであと30mほどの登りを残すという地点で
目の前を巻き道が横切ります。
これは「渡りに船」よろしく「登りに巻き道」ということで
利用させていただきます。

巻き道は「峰見通り」と並行して、
峰見通り尾根の北面約30m下を走っています。

そして「峰見通り」に復帰した所が左画像の標識設置場所でした。
巻き道出入口には目印も付けられています。


巡視路分岐峰前の登り

知った場所に出ると元気が出るという単純なオツムの構造。
「峰見通り」のお約束、小さなアップダウンを繰り返し、
p669の登りを駆け上がります。

さて、p669には登山標識とともに
送電線巡視路の標杭が立っています。

もはや旧入山峠道の探索は時間切れ、
「入山」というより「山から出たい」気分が濃厚なのです。
鳥切場(トッキリ場)から盆堀林道を下って車を停めた
振宿集落に戻る手もあるが、林道歩きは足が痛いし遠回り。


「新多摩線81号に至る」の巡視路分岐

そうなれば送電線巡視路の下降が最良の選択となる。
地形図を見ても下れそうな尾根である。

そうと決まれば快適な巡視路を快調に駆け下るのみ。
送電鉄塔81号付近の右手(西方)は心地好い自然林。
なんと気持ち良い道ではないかとご満悦。

植林帯に入り鉄塔80号からは、前方に要倉山、
遠方に北高尾山稜の山並み。
東京の自然も捨てたものじゃない。


新多摩線80号送電鉄塔

巡視路といえば整備が完璧に行き届いているのが定説。
しかし、ここの木製階段は所々腐っているので要注意。

植林地内の下降を続け、二股分岐は右を選択。
地形図畑記号の果樹園を抜けて道なりに進むと、
盆堀林道出入口の民家脇に出て無事下山終了。


盆堀林道 森久保側口

今回の「本来の市道」を探る山歩きは、
「通り尾根」を完全に確認するに至らず中途半端に終了。

この辺の小尾根はどこでも歩けるのではとの実感を得る。
つまり、どこでも「市道」に成り得たのではとの思いもある。

それでも「通り尾根」が歩かれたのには理由があったのだろう。
その謎が解明できなかったのは惜しいことだ。

【*1】 『奥多摩』の中でも以下のように書かれています。

  「古来の市みちは、三角点東南方の峰頭から真東に走る栗ノ木尾根を辿って一つ、二つ目に真北に
  蹴出す小尾根---千ヶ沢と金堀沢出合に延く小尾根を降ったもので、
  現在は千ヶ沢本流沿いのが用いられ、この古道は雑叢に覆われて終ったが、
  今だにこの尾根をトホリ尾根、その右岸の沢をイチミチ沢の呼称をもって伝えているのである。」

【*2】 『あしなか 第220号』・「陣馬山付近の山越え道」(杉崎満寿雄著・山村民俗の会) より。
    この資料は、陣馬山周辺に点在する道しるべについて詳しい。
    明治期の山道と照合させその役割を考えている。また「炭の道」「嫁とり坂」についても触れている。

【*3】 『あしなか 第3号』 「市道山考」宮内敏雄 山村民俗の会 より

【*4】 『山のこぼれ話』 関本快哉 大日本絵画 より

【参考になる文献・資料】

『あしなか 第3号』 「市道山考」宮内敏雄著 山村民俗の会
『奥多摩』 宮内敏雄著 百水社
『山のこぼれ話』 関本快哉著 大日本絵画
『岳人』 「山の雑学ノート・市道山の名前」 関本快哉著 東京新聞出版局
『あしなか 第220号』 「陣馬山付近の山越え道」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会
『八王子の峠と坂』 馬場喜信著 かたくら書店
『五日市町の古道と地名』 並木米一著 五日市町教育委員会
『多摩郡村誌』、 『檜原村史』

● 昔の山雑誌には、消えゆく市道の峠路について次のような感慨が記されていた。

  「忘られゆくと云えば、今はまったく忘られた峠がある。それは市道である。
  今は山の名として戸倉三山の市道山であるが、かつては北浅川の醍醐、降宿、高留方面の人達の
  五日市に立つ、五、十の市日に通う峠路であったのである。
  それらの人々は八王子の市日に出るよりはるかに近い五日市に、日用の糧や品物を求めに山坂の労を厭わず、
  山を越しての通い路であったのである。交通の発達は俚人を座しつつ物品を求め得るようになった。
  山坂越しての労苦の峠路は利用のなき儘に、いつしか忘られ、夏草の歳々に茂げれるままに廃れ果てて、
  今や僅かに盆堀川千ヶ澤支流に市道澤の名を止めて、昔の径の名をとどめているのみである。」
                               (『山と渓谷89号』 「秋川をめぐる峠」 宮崎封v著 より)

● 「通り尾根」の様子について、事前に、HP『奥多摩大好き』のSさん、五日市在住のKさんに情報を頂きました。
  ありがとうございました。 

● 「市道の峠・A」は「浅川峠」です。

● 初めて醍醐峠へ訪れた時のレポを見る