一升瓶と茶碗のカケラ

 

踏み跡薄い植林地内などをさまよい歩いていると、
林床に転がっている一升瓶を目にすることがある。

「いったい誰がこんなところで酒盛りを!?」と思う方もいるだろうが、
これはチェーンソーの予備燃料を運んだ際に使用した空瓶に違いない。

山の飲兵衛がそんなにうろついているわけがないのだから。

山仕事をする男衆の酒盛りや山ノ神に奉納した御神酒かとも想像しがちだが、
なにも山奥で宴を催す必要もないし、
祭るもの無き場所に神前酒を捧げる必要もない。

山を仕事場にする人が
その空瓶を山中に放置してしまうというのは解せないが、
植林地は自分の庭という感覚なのかもしれない。

わからないのは茶碗のカケラである。
とても家があったとは思えない山中奥深くで
茶碗のカケラなど生活臭のあるものを発見することがある。

隠れ里でもあったのだろうか、
平家の落人集落でもあったのだろうかと、
想像を掻き立てられワクワクしてくる。

集落があったとしても、
それは何処へ姿を消してしまったのか。

豪雨や山津波で壊滅的な被害を受けて
散り散りに離村してしまったのか。

それとも山中を移動して生活をしていた
漂泊民の生活の残滓なのだろうか。

考古学者が土器の破片にロマンを感じるように
茶碗のカケラにロマンを感じてしまうのである。

最近の山道は奇麗でゴミの持ち帰りも進んでいるが、
あまり人の歩かない脇道などにそれると、
登山者や林業関係者やハンターが捨てたと思しき
錆び付いた年代物のジュースの空缶を目にすることがある。

見たこともない珍しい種類の空缶だったりすると、
多少ときめきもするが、
やっぱりそれはゴミである。

でも、そんなゴミを見て、
「ここで疲れて一杯やったのか」とか、
「こんな所にまでやって来る奴が他にもいたのか」などと、
読み取ることもできて時として愉快でもある。

昔、川上より御椀の流れてくるのを見つけた里人が、
川の流れをさかのぼって行き、上流の地で、
それまで里の人々には知られていなかった集落を初めて発見した
という言い伝えは各地に残っている。

今の日本にそんな秘境は存在しないだろうが、
茶碗のカケラを静まり返った山中で見ると、
現代人の知らぬところで山地を移動して暮らす
漂泊民の幻影を感じてしまうのである。

マナーの悪い空缶のポイ捨てで感じる幻滅とは大違いだ。