箱根外輪山を越える峠

矢倉沢峠・狩川峠(苅川峠)・明神峠・碓氷峠(臼井峠)


『マウンテンガイドブックシリーズ13 箱根伊豆』
渡辺正臣 朋文堂 昭和34年

箱根外輪山の峠の一つである狩川峠(苅川峠)を再訪します。
狩川峠は矢倉沢峠と火打石岳の間に位置し、箱根側俵石と南足柄側関場を繋ぐ峠です。
古いガイドブックや登山地図にはその名前を見ることができますが、
国土地理院発行の現行版地形図には名前も峠道もしるされていません。

登山地図によっては峠名の「狩」という字を「苅」としているものもありますが、
ここでは地形図の「狩川」という河川名表記に従って、「狩川峠」とすることにします。【*1】

名前の表記だけでなく、峠の位置も登山地図を発行する出版社によって異なっています。
次に各社の峠位置を見てみます。


『山と高原地図 箱根』 1994年版 昭文社

昭文社の「山と高原」地図では、火打石岳のすぐ西方に峠は位置し、
名前は「苅」という字を採用しています。
峠道は箱根側にも南足柄側にも描かれておらず、名前だけ残る峠といった印象を受けます。
ただし、峠名のしるされた位置より、西へ行った場所の箱根側に破線道が描かれています。


『地球の風・登山ハイク 箱根』 1999年版 ゼンリン

ゼンリンの地図では、矢倉沢峠と火打石岳とのほぼ中間部で北に派出する支尾根の根元に
峠の名前がしるされており、峠名は「狩」という字で表記されています。
峠道は箱根側にも南足柄側にも描かれていません。
ちなみに、ゼンリンの住宅地図には狩川峠の名はしるされていません。


『登山ハイキング地図 箱根』 1993年版 日地出版

日地出版の地図では、ゼンリンと同様の位置に峠があり、「苅」という字を採用しています。
峠道は、箱根側も南足柄側も破線道で描かれていて、生きている峠との印象を受けます。
また、峠の標高が874.3mとしるされています。
過去の経験から、日地出版製の登山地図は精度が高く信頼がおけるものだと推測されます。

以上のように、地図会社によって峠名、峠位置、峠道の表記の有無に違いが見られます。
峠道と思しき道筋が描かれている古い版の地形図を引っ張り出して、
照らし合わせてみると以下のようになります。


明治18年測図昭和29年発行 「関本」 地理調査所

日地出版、ゼンリンが峠とする場所は、上記「狩川峠A」地点で、874.3mの標高点です。
昭文社が峠としている場所は、「狩川峠A」地点より東方へ移動した944m(現行版地形図946m)
の小峰を越えた地点です。
厳密に言うと、さらに次の小ピークを越えた地点に『山と高原地図』では峠名を付記しています。
しかし、そこには道は見られないので「狩川峠B」地点を昭文社の峠とします。
(火打石岳に登る破線道は見られる)

箱根側の峠道を見てみると、「狩川峠A」地点には仙石原からの道が、
「狩川峠B」地点には俵石からの道が破線道で表記されています。
南足柄側の道は「狩川峠A」地点と「狩川峠B」地点の道を合わせて944m小峰の北東の沢筋を
下降するように描かれています。

「狩川峠A」地点に至る箱根側の峠道は、昭文社、日地出版の地図にも見られます。
「狩川峠B」地点に至る箱根側の峠道は、日地出版の地図のみに見られます。
きっとこのような道がかつてはあったのでしょう。(今もある?)
一方、南足柄側へ下る944m小峰の北東沢筋に沿う道は登山地図には見られません。
南足柄側へ下る道は日地出版の登山地図に、「狩川峠A」地点からそのまま尾根を越えて、
北方へ派出している支尾根西側の沢筋を下降するように破線道が描かれています。
この道はそのまま矢倉沢峠からの道を合わせて、矢倉沢、関場へと向かっています。

「狩川峠A」地点と「狩川峠B」地点では、いったいどちらが真の狩川峠なのでしょうか?
どちらも結局は、尾根を越えて狩川に沿う道となるので、どちらもが狩川峠なのかもしれません。
また、両地点はさほど距離が離れているわけでもないので、
二ヶ所一体として、また付近の尾根越え道の総称として「狩川峠」の名があったとも考えられます。

さして細かいことにこだわる必要はないのかもしれませんが、
なんだかんだと疑問点を見つけては、峠へ足を運ぶ口実を見つけ出しているのです。


『箱根と伊豆』 中野敬次郎 山と渓谷社 昭和25年

『箱根と伊豆』(中野敬次郎著・山と渓谷社・昭和25年)の中では、
「狩川渓谷・仙石峠越コース」と題して、
狩川峠越えのルートを紹介しています。
「仙石峠越」という名で狩川峠ルートを紹介した稀少なガイド本といえます。
  【狩川渓谷・仙石峠越ルート】
  関本--4.5粁--関場--5粁--丸木橋--1.5粁--仙石峠--2粁--仙石原  徒歩4時間半

  関本方面から箱根に通ずる捷路だった古道で、今も相当里人に使用されている。
  足柄道を関場にきて、集落の尽きるあたりから左に折れて、狩川の沢を左下に見て、
  1時間半ばかり進むと丸木橋に出る。
  金時山から出ている細流を水のない所まで詰めて、それからしばらく急坂を上ると
  明神岳から金時山に通ずる縦走路との交差点に出るが、
  そこが仙石峠(一名狩川峠874m)で、富士を見たければ縦走路を金時山寄りに
  百メートル位進むと金時山の片肩に寄りかかった面白い富士だ。
  峠を越すと仙石原が眼下に見えるから、それを目当てにして樹間に没した下り道を
  一気に仙石原村のバス停留所の所に出る。
  峠に里人の杣小屋がある。
               (『箱根と伊豆』 中野敬次郎著 山と渓谷社 昭和25年 P39 より)

当時、峠道は里人に利用されていたこと、峠は「仙石峠」とも呼ばれていたこと、
峠の標高は874mであること、峠に杣小屋があったことが古いガイド本の記述から窺がえます。
また、当時すでに仙石原側の道が樹間に没したヤブ道状態であったことなどがわかります。


矢倉沢峠


峠名の標柱は消えかけている

「狩川峠」の位置をはっきりさせようと実地峠行に赴きます。
でも単に、なんだかんだと理由を見つけては峠をウロウロとしたいだけなのです。
箱根外輪山の峠は以前訪れたことがありますが、狩川峠の位置はその時もハッキリとしませんでした。
再び訪れてなんらかの収獲はあるのでしょうか?

「狩川峠A」地点だろうと「狩川峠B」地点だろうと、
どうせ峠道はハコネダケの密ヤブに埋まっているだろうと、はじめから峠道の探索を回避して、
安全確実なる矢倉沢峠道から稜線へと飛び出すことにします。
金時神社の駐車場(トイレあり、無料)に車を置き、保養所や別荘地の中を金時山登山口の
標識に従って進みます。


矢倉沢峠全景

ハコネダケと植林の中の、眺望にも、面白味にも欠ける峠道を淡々と登りつめると、
あっけなく矢倉沢峠に立つことができます。
峠道の愛想の無さに比べると、峠自体は明るく開放的で人に嫌われる要素など全くみられません。
暗い性格の持ち主である訪問者の頭の上にも青空が広がり、陽光が降り注ぎます。

峠には平日のためか戸を閉ざしている「うぐいす茶屋」が建ち、
片隅には名前の消えかけた峠名標柱が遠慮がちにポツンと立っています。
峠を渡る風は春まだ浅いとはいえ心地好く、登り道で上昇した体温をゆっくりと冷却します。
周囲はハコネダケに囲繞され、道をはずして歩くことはできません。
下界とは違い、ここでは否応なしに人と同じ道を歩くことになるのです。


小さな丘(p963)を登るにつれ、金時山の肩から富士の白い頭が顔を出す


「狩川峠A」地点


「狩川峠A」地点から俵石への細道

矢倉沢峠から稜線を東方へと向かいます。
未明に降った雪が、所によってはうっすらと積り、先縦者のビムラムソールの足跡を刻んでいます。
見た目には美しいトレールも、実際に歩けばドロドログチュグチュの泥濘で、
厄介なことに、歩行わずかにして安物のスニーカーは水分を易々と浸透し始めるのです。

矢倉沢峠から小さな丘(p963)を越えて降り着く鞍部が「狩川峠A」地点です。
この場所が日地出版やゼンリンの登山地図では狩川峠とされている場所です。
公的な登山標識が立っていますが、「狩川峠」の表記はありません。
箱根側俵石に下る道は見られますが、ハコネダケの切り開けの細道で、数メートル進んだ先で、
道だかヤブだか判別できなくなる状態で、とても麓まで続いているようには思えません。
南足柄側へ下る道は見当たらず、ハコネダケの壁となっています。


p944から「狩川峠A」地点鞍部の向こうに来し方を望む


「狩川峠B」地点 公的標識が立つ

「狩川峠A」地点からさらに東方へp944(現行版地形図では946m)を乗り越えて進みます。
p944の高みからは「狩川峠A」地点の鞍部の向こうに、これまで辿ってきた一条の道を見ることができます。
また「狩川峠A」地点から北方へと派出する支尾根の姿を望むこともできます。

「狩川峠A」地点から「狩川峠B」地点に向かう途中、
進行左手のハコネダケの密ヤブから人の声らしきものが聞こえたので、
こちらの存在を明白にするために手を叩いてみると、「ブウ、ブウ」との反応があります。
これはヤバイ!イノシシだったかと、さらに手を叩きこちらの存在を知らせると、
「ブヒィー、ブヒィー」とかなりの慌て気味・・・(野生動物なら人間より早く気付けよな!)
これはいかんと、さらに手を叩き、奇声を発すると奴の興奮は絶頂に達し、
「ブゥ!ブッヒィー!ブゥ!ブッヒィー!ブッヒッヒィー!!!」と荒れまくる大騒ぎとなるのです。

こっちに突進されてはたまらないと、足早にその場から立ち去ろうとしますが、
バキバキと折られるタケの音と間近で大きく揺れるタケヤブに慄き足がなかなか前に出ません。
結果的には、高密度のハコネダケのヤブが猪突猛進をなんとか防いでくれましたが、
足が竦んでしまい、その場を離れてからも、どっと深い恐怖に襲われるのでした。
「A地点からB地点まで行く間に〜♪」って歌があったけど、
恋をしないでイノシシにタックルされてはたまりません。


「狩川峠B」地点の登山標識裏手の斜面を登った場所


「狩川峠B」地点から南足柄側の狩川の谷筋を望む

「狩川峠B」地点には、登山標識が立っていますが、
こちらも「狩川峠A」地点同様に、ここが「狩川峠」であるとの表記は見られません。
登山標識の隣りには、「水源の森林づくり契約地」の看板があり、
この地が「南足柄矢倉沢字桧山」であることを教えてくれています。
「刈(苅)川峠」でネット検索をすると、いくつかの登山レポを見出しますが、それらが峠としている場所は、
昭文社説に近いどうやらこの「狩川峠B」地点のようです。

登山標識裏手の斜面を上り、稜線の向こうに箱根側に下る道があるかどうか確認してみますが、
青色ビニールヒモのマーキングはあるものの、潅木ブッシュと笹ヤブがひどく、
最前にイノシシの恐怖を体験したばかりではヤブを掻き分けて突進する気など起きるはずもありません。
南足柄側は容易に谷筋へと下降することができそうですが、明瞭な踏み跡は認められません。

結局再訪しても、「狩川峠A」地点と「狩川峠B」地点のどちらが真正なる狩川峠なのか、
またもハッキリとさせることはできませんでした。
数々の資料と実地の印象から察すれば、「狩川峠A」地点が本来の峠ではないかと思われますが、
まだ確信には至っていません。
(HP『景図工房』さんの「冠ヶ岳パノラマ展望図」によると、火打石岳の西肩に「苅川峠930m」が表示されています)


火打石岳と明神ヶ岳の鞍部 明神平分岐

狩川峠の正確な位置がモヤモヤと判明せぬまま明神ヶ岳へと向かいます。
次に目指す「明神峠」もその実在がモヤモヤとしており、正確な峠位置がハッキリしないのです。

燧石を産出していたという火打石岳を過ぎ、快適な平坦路を進んでいると、
また左手のヤブから別の「ブウ、ブウ」が聞こえてきます。今度はこっちの接近に気付いたらしく、
ガサ、ガサッという音とともに遠くに立ち去るケモノの気配を感じ取ることが出来ました。
金太郎のようにマサカリを担いで歩くわけには行かないけれど、この付近を歩く際には
鉈やストックで武装していた方がよいのかもしれません。

明神ヶ岳の登りに取り掛かる手前の明神平分岐の鞍部も峠状をしています。
とある出版社のガイド本には「宮城野矢倉沢峠」などと勝手に峠の名が命名されていましたが、
この鞍部に、本当にそんな呼び名があるのでしょうか?
それはともかく箱根外輪山の稜線を足で越えることを考えた場合、この尾根のタルミは地形上の弱点として、
有用かつ安全に外輪山の内と外とを結ぶ通路としての役割を果たすことができると思われます。


『峠路』 直良信夫 校倉書房 「明神峠」挿入図より
明神ガ岳の北西肩に「明神峠」の名が見られる

『峠路』(直良信夫著・校倉書房)という書物に「明神峠」についての詳しい記述があります。

  「明神峠は、この山の東南部にあって、古くから箱根の碓氷峠を通って、宮城野から登ってきた山道が、
  ここを過ぎて関本へと下っていた。これが、有名な碓氷道である。」

「この山」とは明神ヶ岳のことで、その東南部を越える山越えの道が「明神峠」であるとの記述です。
同本の挿入図には明神ヶ岳山頂の北西肩に明神峠の名がありますが、それは著者が実踏調査した際に、
感じとった峠のあるべき推定位置の一つを記したものと思われます。

一般に、箱根越えの最古の道は御殿場から箱根外輪山の乙女峠を越えて一旦火口原に入り、
仙石原、碓氷峠を経て、明神峠で再び外輪山を越えて、関本、足柄平野に出ていたと考えられています。
面倒ではありますが、乙女峠、明神峠と、2回も外輪山の1,000m級の峠を越えていたのです。
【*2】
この明神峠がどこなのか、諸説あり戸惑いを覚えるところですが、
もっと言うと、それはどこかある一点のポイントを指すというわけではなかったようで、
明神ヶ岳を越えること自体を「明神越え」、「明神峠越え」と言っていたとの解釈も成り立ちます。


『箱根・伊豆謎とき散歩』(ひろたみを著・廣済堂出版)
明神ヶ岳と明星ヶ岳の鞍部を「碓氷道」が越えている


『箱根・伊豆謎とき散歩』(ひろたみを著・廣済堂出版)
「明神峠」の名が見られる

  「日本武尊は関本から道了尊を通らずにダイレクトに明神ヶ岳と明星ヶ岳の中間にある
  標高913メートルほどの明神峠を目指し、そこから碓氷峠に下りてきたものと推測されている」
                              (『箱根・伊豆謎とき散歩』ひろたみを著・廣済堂出版 より)

上記のように、明神ヶ岳の東南鞍部である明神ヶ岳と明星ヶ岳とを結ぶ稜線上の落ち込み(宮城野分岐)を
「明神峠」と解することが多いようですが、直良信夫氏は実踏調査から別の見解を示しています。
昭和35年、道了堂の山門をくぐり抜け、尾根道を辿って明神ヶ岳の山頂に立った直良氏は
次のように印象を述べています。

  「どこが峠だか、実のところ、はっきりとした様子を示していない。が、ともかくも碓氷道が、
  明神ガ岳山頂近くのどの辺かをすぎていたとすれば、山頂そのものよりは、東南部の外輪山の縁で
  あったと考えねばならない。山頂一帯の箱根側は、旧火口壁がむきだしになっている。
  ちょうど茶碗の内側のように、際だって、きりたっているので、ここをたやすく登って明神ガ岳の頂に
  出ることはできない。したがって道は、外輪山の縁にそって南東にくだり、宮城野へとのびている。
  この状態は、おそらく、古代にあっても、今日と同様であったろう。
  しかし、明神峠を越すのに、宮城野をずっと東南にさがって、そこから登りにつくので、道はますます、
  まわりみちになってくる。もっと西のあたりで、明神ガ岳にとりつく道でもあったのではあるまいか。

  私には、そのようにも考えられたので、とにかく尾根づたいに、旧火口壁にそって、西北へと歩いてみた。

  ・・・・明神ガ岳の頂をすぎると、少しくだりになる。そのくだり坂にかかろうとする所(明神ガ岳の西肩)に、
  道了堂の裏からのびた尾根が、匍いあがってきている。
  一部の人びとが、古い碓氷道はこの尾根筋の道だという。その尾根道がちょうど、ここで丁字形に
  つながっていて、そういえば、少し傾斜はついているが、やや峠らしい形になっている。
・・・・
  もしも関本からの古道が、明神越えをここでしていたとしたら、何か手向けの際の遺物でも
  落ちてはいないだろうか、とさんざんあたりを探してみた。だが、ついに土器の一片すらみつからなかった。

  地形図をみてもわかるように、この尾根筋は、道の西南半分の箱根よりの部分は、尾根の勾配が
  30〜40度で、甚だけわしい。雨でも降ったら、すなおに歩けそうな道ではない。
  果たしてここが、奈良朝の古道であったろうか。
  踏査はまたの日にすることにして、私たちは、とっとと急坂をおりていった。
  ところが、この坂の下あたりが、広くくぼんでいて、いかにも峠らしいありさまを呈していた。
  地形図を広げてみると、関本の猿山から、ずうっとのびてきた尾根道が、この鞍部(957.4m)から、
  宮城野の西にくだっていることがわかった。

  ・・・・この尾根道が、猿山の祭祀遺跡と関係のある古道であった、とすると奈良朝には、
  ここが峠であったと考えねばならない。しかしついに、私たちはそこでも、遺物らしいものを探し出す
  ことはできなかった。」
                          (『峠路』 直良信夫著 校倉書房 「明神峠」p18〜p21 より)

直良氏は、明神ヶ岳の東南鞍部を「明神峠」とするのは遠回りであるとの疑念を呈しています。
次に、山頂西肩の道了堂裏手からの尾根道が稜線に達する分岐が峠ではなかろうかとも述べていますが
なにも手掛かりは得られなかったとしています。
そして、そこから稜線を下降し、明神ヶ岳と火打石岳との鞍部である957m地点の尾根のタワミに、
ここが「明神峠」であったのではとの可能性を強く感じたようです。

この尾根のタルミは、先に記した通り、地形上の弱点として外輪山の内と外とを結ぶ通路としての役割を
果たすことが十分できたと思われ、古い地形図には南足柄側にも破線道が描かれています。
現在は稜線ハイキングコースを歩く人のエスケープルートとして「明神平別荘地」への道が分岐しています。
乙女峠を越え、一旦仙石原に降り立った古き時代の旅人が、碓氷峠道を経てこの尾根のタルミを乗り越えて、
足柄の平野を目指したということは想像するに難くありません。
明神ヶ岳西面の荒々しい旧爆裂口の絶壁を見せられては山頂に近寄ることは
恐ろしいことだったに違いないのですから。

結局は、ここが「明神峠」であるとの確実な説は認められません。
また、ここが「明神峠」であると、自信を持って峠の場所をしるした登山地図も見受けられません。
要は、明神ヶ岳一帯の山域を越え、外輪山の内部から外部へと通ずる複数の道が、
「明神越え」、「明神峠」であったと言えるのかもしれません。

『箱根町誌第一巻』(箱根町誌編纂委員会・昭和44年)に収められている
「箱根山の古道と中世以降の箱根の発展」(中野敬次郎著)という論稿には次のように記されています。

  「宮城野から明神岳に登るには、四ッ尾を経て頂上に登る途が古くより用いられているが、
  明神から足柄平原に下るには、現在の道路は頂上の南東から大雄山最乗寺を経て、
  南足柄の飯沢、関本へと下るのが普通で、この道は「道了越」、或いは「明神越」と呼ばれているが
  往時も、果たしてこの径路が用いられたものだろうか。
  近年飯沢の西北にある関本の猿山や、明神岳から東に下る尾根の一つである光明寺尾に、
  古代の祭祀遺跡が発見されている。が、それは山の相当な高所にあり、
  通路に沿っているところからみても、明神岳を越える通路は、少なくとも外輪山の東側においては、
  古くから数ヶ所用いられていたことがわかる。

  ・・・・神の名による山名を持つ明神岳と、猿山の祭祀遺跡に結びをつけて考えると、
  碓氷道当時の明神越え径路は、現在とは多少異っていて、頂上の西肩を越えて、現在の道路の
  西側に並行して、猿山あたりを終点としたものであるのかもしれない。
  一体、仙石原、宮城野方面から、東方足柄平原の縁辺の丘陵に所在する集落に通ずる通路は
  沢山あって、金時山と矢倉岳の鞍部を越えて矢倉沢に通ずる矢倉沢峠越えと狩川峠越えの二つの道、
  宮城野から明神岳の南鞍部を越えて小田原方面に通ずる三竹道と舟原道、明星岳の根方を廻り、
  塔ヶ峰から尾根伝いに行く水ノ尾道などは、これらの越路に沿って縄文文化期の遺蹟が麓から
  高地へとさかのぼって点在していることからしても、古くから通じており、そして、それらは箱根の
  内と外との文化交流に長い期間にわたって、それぞれの役割を果した古道であったに違いない。」


明神ヶ岳の北西肩
「←最乗寺奥の院90分」の標識があり道が分岐している


明神ヶ岳(狩野山)山頂
正面には神山、大湧谷から噴煙が昇る

火打石岳と明神ヶ岳とを結ぶ稜線上の鞍部から、明神ヶ岳西面の荒々しい旧爆裂口の絶壁を眺めながら
ダラダラとした登りに取り掛かります。
登るにつれて、矢倉沢峠から辿ってきた稜線道が遠くに、そして低く低くとなっていきます。
さきほどまで金時山の肩に、遠慮がちに頭だけを見せていた富士は、その全容を現わし、
他を圧倒する高さと雄大さで威厳を誇示し始めます。
非力な人間はその姿に畏怖さえ覚えるのです。

山頂が近付き勾配が緩むと、「←最乗寺奥の院90分」と書かれた標識の立つ分岐を迎えます。
ここが山頂西肩説の「明神峠」なのでしょうか?もちろん道標に「明神峠」の文字は見られません。
さらに標識の無い笹開き道の分岐を見送ると、神山を眼前にする眺望優れる山頂へと飛び出します。
ウン?イノシシかと、なにかの気配に振り向くと、
笹ヤブに隠れるようにして風を避け、お弁当を食べているひとりの娘さんの姿がありました。
イノシシとは失礼でしたが、それだけ先に体験した恐怖が頭の片隅に残っているのです。

山頂はドロドロで動き回るごとに泥が靴に付着して足が重くなります。
「南足柄からこの山を越えて宮城野の碓氷峠に下る道は、日本武尊東征の道と伝えられています」
と書かれた看板が立っていますが、具体的にどこを越えたのか、知りたいことは書かれていませんでした。
神山の雄姿と大湧谷から立ち昇る噴煙を見ていると、
この山頂で天地創造の神に捧げる神聖な儀式が行われていたのではないかとも思えてきます。


山頂南の「大雄山最乗寺分岐」


次の「大雄山最乗寺分岐」

山頂南側には大雄山最乗寺へと向う道が分岐しています。
箱根側の眺望ばかりに目を奪われてはいけません、東方には足柄の平野と余綾(淘綾)丘陵、
そしてくっきりと湘南の海岸線を望むことができるのです。

直良信夫氏は『峠路』中で次のようにも述べています。

  「明神ガ岳の頂に立って、酒匂川の平地に向かって、
  私達の指のように走り出ている幾条かの尾根を見たとき、私はつぎのようなことを感じた。
  というのは、外輪山までやってくると、尾根さえくだれば、思うところの、どこの平地にもおりて行かれる、
  という安心感であった。」

まさに同感で、外輪山の稜線に立ち東方を望めば、滑り台のような尾根道を辿って、
目指す平地のどこへでも降りて行けそうな気がします。
「明神越え」、「明神峠」と呼ばれる場所は複数あったのかもしれません。


矢佐芝・塚原駅分岐


明神ヶ岳と明星ヶ岳との鞍部 宮城野分岐

山頂から明星ヶ岳との鞍部へ向けて稜線を南下しますが、
東方へと下る顕著な分岐は、「大雄山最乗寺分岐」の他に「矢佐芝分岐」があります。
「矢佐芝ハイキングコース」として整備されているようで、塚原駅へと向けて下る途中には、
「二宮金次郎腰掛け石」なるものもあるようです。

三竹へと下る派生尾根を見送り、一気に稜線道を下ると
明神ヶ岳と明星ヶ岳との中間鞍部である「宮城野分岐」となります。
ここを「明神峠」とする説もありますが、登山標識にはここが名のある「峠」であるとの表記はされていません。
「宮城野40分→」の道標に従って稜線歩きに別れを告げます。

宮城野へと下る道は、ハイキングコースとしてはイタダケナイ道で、赤土がエグレていてやや荒れ気味。
瀬戸沢の流れの涸れた堰堤前を通過すると明神平別荘地へと飛び出しますが、
別荘地の縁に沿った道は、さらにイタダケナイ道で、別荘を持つ者と持たざる者の経済格差を
嫌というほど見せつけられます。
一体どんな人生を歩めば、貴族のような別荘ライフを手に入れることができるのでしょうか?
悪いことやズルをしないで高価な別荘を獲得することなどできるのかと、
格差社会の底辺で喘ぐ者は思わざるを得ないのです。


明治18年測図昭和29年発行 「関本」 地理調査所


碓氷峠の「碓氷」と「臼井」との関係は?

国道138号線のバス通りに出れば、車を乗り捨てた金時神社まで容易に戻ることはできますが、
ここまで来ては「碓氷峠道」を歩かないわけにはいきません。
碓氷峠道は今の早川に沿った箱根裏街道(国道138号線)ができる以前は、仙石原、俵石と宮城野とを結ぶ
重要な道でありました。

  「碓氷、碓氷峠、碓氷坂などは、全国各地に見うけられる比較的多い地名であるが、
  箱根の場合でいえば、仙石原の東南、俵石のあたりから明神岳の南側を通って宮城野に通ずる坂道を
  「碓氷道」と呼称していて、その中ほどにある峠をいまでも「碓氷峠」と称んでいる。
  ここからは、晴天のときであれば、相模湾を越えて、遠く三浦半島のむこうまでよく見ることができる。
  これが『新編相模国風土記』宮城野の条に「臼井峠」として記されてある古道である。」

  「仙石原と宮城野を通じている碓氷峠は、標高700mの線を縫って、現在の国道の北側に並行しているが
  明神岳の南側の山腹を走っているように見えても、事実は低くて、頂上の平たい箱根火山の
  新期外輪山の、小山の上を連ねて造られてあることがわかり、碓氷峠(臼井峠)の名称もここから
  起きたものであろう。峠には大正6年に底倉の蔦屋主人沢田氏の建立した「吾嬬はや」の碑がある。」

           (『箱根町誌第一巻』 「箱根山の古道と中世以降の箱根の発展」 中野敬次郎著 より)


「吾嬬はや・・・」の碑が建つ


「東屋は・・・」訪れる人も無く草に埋まる

別荘地内の分岐路に設置された「碓氷峠30分 日本武尊碑→」の標識に従って林道を歩き始めます。
どこで神の怒りに触れたのか、空は俄かに暗澹とし、灰色の雲が神山を越えてきては雨を落とし始めます。
アスファルト舗装された林道歩きは足裏が痛くなってくるしで、いいことはありませんが、
林道脇に捨てられた不法投棄の中に、骨の折れた傘を見つけては喜んだりするのです。
たまには役に立つ不法投棄もあるものだと、蜘蛛の巣だらけの傘をさして碓氷峠の名と関係があるであろう
臼井沢を渡って林道上の高点を目指します。

以前にも訪れた「吾嬬はや」の碑を拝し、その隣りの東屋でおやつ休憩でもと考えていましたが、
ああ無惨、東屋は深い草ヤブに覆われているのです。
「吾嬬はや・・・」というより、「東屋が・・・」と悲しい歌でも詠みたくなる有様です。

観光協会の御仁よ、なにも箱根を訪れる観光客は芦ノ湖での遊覧や温泉での癒しばかりを
求めている人ばかりではないのですよ!と声高に愚痴のひとつでも放言したくなりましたが、
人々に忘れられた、このうらぶれた峠の雰囲気がまたいい味なのかもしれないと、
憤懣遣る方ない愚痴をすぐにしまい込んだりするのです。


碓氷梅園の紅梅がほころび始めていた


碓氷峠道の馬頭観音が微笑む

碓氷梅園の梅はほころび始めていました。
その背後に望まれる大湧谷の噴煙に霞む神山の偉容は神秘的ですらあります。
太古から見られたであろう箱根火山の活動は大地の底知れぬ生命力を感じます。
古き時代の旅人も外輪山をただ越えていくばかりでなく、この活動を間近に体感するために、
わざわざ外輪山内部へと、一旦は、足を踏み入れたのかもしれません。
林道の高点付近には、いつの時代のものか知れない行路の安全を見守る馬頭観音が鎮座し、
静かに神山を見つめていました。
【参考文献・資料】

『峠路』 直良信夫 校倉書房
『箱根町誌第一巻』 箱根町誌編纂委員会 昭和44年 「箱根山の古道と中世以降の箱根の発展」(中野敬次郎著)
『足柄上郡誌』 足柄上郡教育委員会編 昭和50年復刻版
『足柄下郡史』 足柄下郡教育会 昭和4年
『かながわの峠』 植木知司 かもめ文庫 1999年
『かながわの山』 植木知司 かもめ文庫 昭和54年

【*1】 河川名は「狩川」ですが、南足柄側には「苅野」という地名もあります。(別に狩野という地名もある)
    古文書などでは「苅野」と書かれている場合もあれば「狩野」とする場合もあり、文字表記は一定していないと
    『足柄上郡誌』(足柄上郡教育委員会編)には記されています。
    庄名には「苅」の字を、村名には「狩」の字を用いるなどともありますが判然としません。
    ちなみに、「明神ヶ岳」の別名は「狩野山」です。

【*2】 「横走から山路に向う場合、竹ノ下から足柄峠(759m)に向った方が、距離も短く、峠も低く、外輪山を越えて直ちに
     足柄平野に出られる。しかし、遠くて高い乙女峠をわざわざ越えるのも、単に途上の障壁を越えるというのみでなく、
     外輪山の内部にある何かの目的を充足するための通路を、そのまま利用したとすれば、その理由も了解できるのである。」
     『箱根町誌第一巻』(箱根町誌編纂委員会・昭和44年)の「箱根山の古道と中世以降の箱根の発展」(中野敬次郎著)には
     このように記述されています。

     「外輪山の内部にある何かの目的」とはいったい何だったのでしょうか?とても興味あるところです。
     でも意外に単純なことで、今の観光客と変わらず、温泉だったり、風景だったり、大湧谷の噴煙の迫力だったりが
     往時の旅人を外輪山内部に引き寄せていたのかも知れませんね。
     御殿場から外輪山を越えようとする場合、乙女峠のほかに長尾峠(902m)も考えられますが、同書では否定的です。
     「乙女峠のほかに長尾峠の道が考えられる。この道も江戸時代の初め頃からは、駿東郡への通路として、
     かなり利用されていたが、官道として考えるときは、基点である横走駅の位置からみて、乙女峠に至る道路より
     さらに南方にあって遠い。いま一つ考えられることは、上代に長尾峠を越えて箱根の火口原におりたとすれば、
     火口原湿地帯の南部に出るので、今の長尾道のような山腹を穿った道はないから、湿原を渡ることも、
     その縁辺を迂回することも困難が多いせいか、ここは古代道路は発達しなかったようである。」

(峠行2009.02.10)