西原古道再び

<通称>十文字峠・小棡峠(大立峠)・笛吹峠(大日峠、丸山峠)・笠松峠


『新ハイキング542号』2000年12月・新ハイキング社
「中群山・小中群・日武連山を行く」(小倉修著) 挿入図より

 西原古道の小さな峠を再び訪ねることにしました。
西原古道は鶴川沿いにバス道が開かれる前は、西原や小菅の奥から上野原宿へ向かう
人々の通行が繁くあった道だと思われます。
西原の古老の話によると、昔は上野原へ出るのに幾つもの峠を越えたといいます。

バス道を通過しているだけでは古道の様子を窺い知ることはできませんが、
西原古道は今でも集落を繋ぐようにして山裾の一段高い場所に残されています。
山仕事に入る人や地元の方が稀に通うだけで、ハイカーが大挙して訪れることはありません。
観光客で賑わうどこぞのメジャーな世界遺産の古道とは趣を異にしており、
集落と集落とを結ぶささやかな峠が古道上にひっそりと生き長らえています。

今回は、古道上の小さな峠二つと、その道筋にある端山を二山訪れます。
そして、ついでに笹尾根まで足をのばし、峠マニアにはお馴染みの二つの峠を訪ねます。

● 初めて西原古道を訪れた時のレポートを見る


沢渡集落から見上げる日武連山のモッコリ


石造物の並ぶお寺前から西原古道が始まる

沢渡に車を停めて、まずは西原古道上の「<通称>十文字峠」を目指します。
この峠名は『新ハイキング542号』の誌上で知った名前ですが、<通称>という点が少々気になります。
地元の方の間で、実際にそう呼ばれていれば別段問題はありませんが、
一部のハイカーの間だけにしか通用しない呼称ではないかとの懸念もあります。

沢渡集落内の蔵王院という寺の脇から古道が始まります。
寺の門前には六地蔵が暖かな陽を受け、古道に踏み入る人を見守っているかのようです。


日だまりの六地蔵


コンクリート舗装終点「ウォークラリー入口」の看板

コンクリートで簡易舗装された道をダラダラと登りつめ、沢渡集落の西方p575の日武連山と
笹尾根上の小棡峠から南方へ派生し、さらにp850から西南に向きを変え分岐してのびてくる
小尾根との撓みを目指します。

「ウォークラリー入口」の標識がある堰堤前でコンクリ舗装は終わり、そこから先は土道となりますが、
峠はもう目前で、放棄された畑の跡地をぐるっと回り込めば、難なく峠に立つことができます。


放置された畑の縁を回り込んで峠へ


峠道から見下ろす鶴川の谷

振り返れば、鶴川の谷はもう足下遥かに遠ざかり、
わずかばかりの歩行で、秋色に染まる静かな山中へと吸い込まれているのです。

歩きはじめからハイカー向けの標識は一切ありませんが、
「ゆずりはら青少年自然の里」を訪ねる子供たち向けのクイズ形式の標識が所々に設置されています。
沢渡集落から小棡集落の間は、ウォークラリーコースとして一応整備がされているようです。


<通称>十文字峠


峠は小さな切通し

峠にはその名を明示した物はなく、「通称」という言葉に引っ掛かりつつも、
「十文字峠」と書いた手製標識を立ち木に括りつけます。

峠は小さな切通し状で、峠の向こうは薄暗い植林地の中を小棡へと続く道がのびています。
南側はp575の日武連山へ、北側は植林地の尾根を辿り小棡峠へと向かう道がつけられています。


峠に祀られた小社


日武連山の標識 p575

日武連山に向けて高みを登ると、木製の赤い小社が祀られているのを目にします。
どんな神様が宿しているのか、社の扉を開けようかとも思いましたが、そっとしておきました。

日武連山の山頂は単なる植林内の小突起に過ぎず、開豁な展望などありません。
驚いたことに立派な山名標識が設置されていました。
「ヒムレヤマ」の「ムレ」は丸く盛り上がった形の山を指す地形語でこの付近には多く見られます。
また、神(権現)を祀る山にもムレ系山名が多いとのこと。
この山を「氷室山」と表記した文献もありますが、語源は同じやに思われます。【*1】
「ヒムロ」に音が近い「ミムロ・ミモロ」は神社を意味する古い言葉ですので、
単に丸みを帯びた山形の意ではなく、神の祀られた山であることをも意味しているのでしょう。


笹尾根に向けて登りはじめると沢渡からの道に出合う


大垣外からの道を合わせるp850地点

日武連山の山頂から先、鶴川沿いの芦瀬の集落に向けて山道は続いているようですが、
十文字峠に引き返し、笹尾根上の小棡峠へ向けて植林尾根を登ることにします。
峠から少し登った所で、地形図に記載されている沢渡からのもう一本の破線道を合わせますが、
こちらの道も状態は良さそうです。

小棡峠へと向かう尾根道は予想外に状態が良く、
適度なジグザグを刻みながら高度を次第に上げていきます。
カルピスやキリンレモンなどひと昔前の空缶などが落ちていますが、最近のゴミの代表格である
空きペットボトルなどはなく、近頃のハイカーに歩かれている様子ではありません。


沢渡から小棡峠へ向かうコース上、最初で最後の道標


小棡峠 (大立峠)

大垣外の集落から上がってくる破線道をp850で合わせると、一旦傾斜は緩みます。
しばらく進むと、沢渡から小棡峠へ向かうコース上で見る、最初で最後の道標が現われます。
この道標の指示通り、ここで左に折れて尾根筋を忠実に登ることになるのですが、
この親切な道標が無ければ、きっとハッキリした道を直進していたことでしょう。
これぞまさに必要最低限の適格な道標設置の有様ではないかと思います。

地形図ではp1046に向けて直線的に破線が付けられていますが、
実際は、幾度ものジグザグが刻まれており、呼吸を乱すことなく登り詰めることができます。
途中、落ちていた一枚の紙切れを拾いましたが、それには次のような事が書かれていました。

 「この風船は長野県伊那市にある児童養護施設〇〇〇で飛ばした風船です。
 もし、見つけてくださった方、お手紙を送ってくだされば、とてもうれしいです・・・・・・」

風船にメッセージをつけて飛ばされたようで、住所なども書かれていました。
長野県の伊那から風船は南アルプスを越えてここまで飛んで来たのでしょうか?
なんともロマン溢れる出来事です。


小棡峠 (大立峠)


峠から権現山-雨降山稜線の上に富士を見る

猿投沢の谷を挟んで丸山のまさに丸々した姿を望みながら進めば小棡峠に到着です。
地形図や現地標識には「小棡峠」の名が表記されていますが、
古い文献資料では「大立峠」の名を用いているケースが多いように見受けられます。
峠からは権現山、雨降山が一望でき、その上に雪を被った富士の頭がのぞいています。

小棡峠は「婚姻の峠」で、かつては花嫁が越えた峠だったようです。
山梨県側から檜原村の人里、樋里、小岩などへ嫁いで行った者が多かったとのこと。
逆に、檜原村側から郡内の棡原や西原へ嫁に行った者は少なかったようで、
それは甲州側の農作業の辛さに要因があるとのこと。
【*2】

峠を越えて向かう先の標識は「笛吹バス停」を指し示しています。
このまま峠を越えてみたいとの気持ちを抑え、丸山へ向けて笹尾根を辿ります。
尾根筋の下草には足首を隠す程度の小笹が現われ、まさに名の通りの笹尾根です。
入沢山を過ぎて、丸山登頂を回避する巻き道を無視して高みを目指します。


丸山西南尾根分岐「沢渡を経て上野原」の標識がある


p1098丸山三角点を食卓にする

山頂直前には小棡集落へ下る分岐があり、
ボーイスカウトの建てた白い標識には「沢渡を経て上野原」の文字が読み取れます。
ここが地形図に記載のある丸山西南尾根を辿り小棡へ下る道の入口となっています。

小春日和の山頂はぬくぬくのポカポカで休憩するにはもってこいです。
到着と同時に先客のハイカーが立ち去っていき、山頂を譲ってくれたので、
三角点をテーブルに稲荷寿司の食事休憩です。
といっても四つの稲荷寿司はあっという間に胃袋に飲み込まれ、わずか数分で山頂を後にします。


笛吹峠


大日峠、丸山峠とも呼ばれる

木々間から正面には三頭山、右手には御前山、大岳山を望みながら、
丸山からの緩やかな下り勾配の笹尾根道を笛吹峠へ向けて進みます。
尾根の真上よりも東京側へ体が入ると、すでに日影の寒々しさであり、鼻水が出るほどです。
途中、中高年40人の団体さんと擦れ違いましたが、皆さんの装備・服装は完璧で、
ジーパン姿で肩下げのカバンを襷掛けにした場違いな登山者を訝しがる視線が投げかけられます。

少し時間がズレていれば、笛吹峠は先の団体さんに占拠されていたことでしょうが、
幸いにも誰の姿もなく、ひっそりとしています。
昔は口留番所が置かれていた峠ですが、取り締まりを受ける峠越えをする人の姿はありません。


「大日」「百番塔」と刻まれた道しるべ


峠から藤尾へ向かう道

笛吹峠は丸山峠とも、大日峠とも呼ばれています。
「笛吹」は「うずしき」、あるいは「うずひき」、「うずふき」、「うそふき」とも読む難解地名です。
峠には道しるべを兼ねた「大日」と刻まれた丸石が置かれています。
「大日」も「だいにち」ではなく、「でえにち」と地元では発音しています。

「大日」と刻まれた面には「みぎハかづま ひだりさいはら」(右は数馬、左は西原)とあり、
その裏面には「百番塔」と刻まれ、「みぎハいづりはら ひだりひのはら」(右は棡原、左は檜原)と
あり、世話人の名前が添えられています。

檜原村では、着茣蓙姿で、首に風呂敷包みを下げた恰好で五日市へ交易に出かけていた
西原村の人々のことを「サイバライチュード」と呼んでいたそうですが、【*3】
そのような「サイバライチュード」が、かつては頻繁に峠を行き来していたのでしょう。
また、武田信玄の息女、松姫が八王子へ落ちのびる際には、ここにあった笛吹番屋に
二泊したとの言い伝えもあるようです。


数馬峠と笛吹峠の分岐点で「観音」と呼ばれる場所


降り着いた峠道の出入り口

峠を後にして藤尾の集落へ向けて峠道を下ります。
どんな道なのか、往時の峠路の状態を保っている道なのだろうかと期待が高まりますが、
下りはじめは薄暗い植林地の中を行く仕事道のような道で、至ってありきたりな趣です。
道幅もさほど広くはなく、それほどしっかりした道にも思えません。
かつて山間集落の生活を支えた交易の道として通行が頻繁にあったとは信じ難くもあります。

それでも数馬峠道と笛吹峠道とを分かつ標識が立つ辺りからは、
由緒ある峠道であるのだという雰囲気が漂い始めないこともありません。
この分岐は地元では「観音」と呼ばれているらしく、以前は馬頭観音が祀られていたようです。
ここにあったという馬頭観音は「コノハザワ」に落ちていたのを発見され、地区の人の手によって
口留番所跡に安座され、現存しているとのことです。【*4】

数馬・笛吹峠分岐からわずかばかり進むと次なる分岐であるp933分岐です。
地形図を見ても破線道が2方向に分岐している通り、山道が左右に分かれています。
この分岐には錆びついたワイヤーが落ちているだけで標識はありません。
右へ折れるのが本道かと思いますが、次なる目的地である笠松峠寄りに降下するため、
p818を経由する左の道を選択しさらに下降を続けます。

道は細い凹状の道で、凹部には小枝や落ち葉が溜まっていて歩きにくい箇所もありますが、
植林を手入れする里人の通行があるらしく、概ね良好だといえます。
集落が近付くにつれ、植林一辺倒から雑木も現われ、落ち葉の堆積した適度なジグザグを踏み、
防火貯水槽の横を通り抜けると民家の脇へと飛び出します。


青い屋根、赤い屋根の民家の裏手の凹みが笠松峠


笠松峠の小さなへこみ

次に目指す西原古道上の笠松峠は、丸山から伸びるその西南尾根の撓みとして、
すぐに、そして明瞭に、その位置を認知することができます。
笠松峠は藤尾と小棡とを繋ぐ小さな峠で地形図にも尾根の撓みを越える破線道が描かれています。
地形図に峠名は記載されていませんが、
『奥多摩』(宮内敏雄著)の挿入図には「笠松峠」の名を見ることができます。

二宮神社付近から望む峠方向の風景は、まさに日本昔話的風景で心にグッとくるものがあります。
青い屋根と赤い屋根の最終民家背後の撓みが笠松峠で、
凹とした場所には聳立した大木の姿も認められます。
峠を擁する尾根を背後にしたこの青屋根・赤屋根の民家のある風景は、秩父や西上州辺りの
山村風景を思い起させます。


『復刻版・奥多摩』(宮内敏雄著・百水社・1992年)挿入図より
笠松峠の名がみられる

赤い屋根の最終民家に辿り着くわずか手前、左手の畑の上にあがる野良道が峠へと続く道です。
「山火事注意」の看板を横目に、畑の縁を通り、赤屋根民家の背後を通過すれば、
植林地の中へとのびる峠道にしぜんと吸い込まれていきます。
汗をかくほどの登りを要することなく、よく踏まれた峠道のジグザグで峠に立つことができます。

峠は十文字峠同様に小さな切通し状を成しており、峠名を明示した標識の類は一切ありません。
不要かとも思いますが、お粗末な手製の小さな標識を取り付けて、認知度アップを図ります。
この場所は地元の地名を採録した『西原の山・川・地名・旧跡』(西原中学校編)の中でも、
「笠松峠」の名で紹介されているので、一般にもそのように呼ばれているとみて間違いないようです。

峠には数年前まで、笠が開いたような見事な枝振りの松があり、
そこから「笠松峠」の名が付けられたとの説明が同資料には記されています。
この松は枯れてしまい、切り株が残るとのことですが、どれがその切り株か判然としませんでした。
また、道のすぐ脇には石碑跡の台座があるとも資料には書かれていますが、
これも見当たりませんでした。


珍妙なネーミングの「ふんどし山」山頂
地形図よりも50メートル低い標高が標識には書かれている


ふんどし山頂から鶴川の谷、棡原方向を見下ろす


「寺窪山」との呼び名もあるらしいので標識を取り付ける

峠からp752の小突起を目指すことにしますが、
丸太の階段などもあり一応コースとして整備されていることが窺がえます。
昔はこの付近に寺があり、p752は「寺窪山」と呼ばれるようになったとのことなので、
「寺窪山」と書いた手製標識を拵えて持ってきましたが、山頂にはなんと大きな標識があり、
そこには堂々と「ふんどし山」との山名が掲げられていました。

確かに『新ハイキング542号』でも「フンドシ山、エエグラ山」と呼ぶこともあると書かれていますが、
まさか珍妙な名である「ふんどし山」が幅をきかせているとは思ってもいませんでした。
「ふんどし」だけに、相撲つながりで、笹尾根上の「土俵岳」と何か関係があるのでしょうか?

それとも、山仕事で汗をかいた杣人がふんどし(褌)を外して、木に吊るし、乾かしていたのでしょうか?
天女の羽衣なら美しい伝説も生まれるでしょうが、ふんどしではいささか鼻をつまみたくもなります。
ネーミングはともかく、山頂からの上野原方面の眺望は素晴らしいものがあります。


公的機関設置の道標の建つ丸山分岐


分岐には「大日」と刻まれた道標もある

山頂からは鶴川沿いの初戸集落へ下ると思しき山道ものびていますが、
ここは笠松峠へと戻り、西原古道を辿って小棡の集落へと向かうことにします。

小棡へ向かう途中、丸山から下ってくる道と合流します。
そこには公的な登山標識が建てられ、道端には「大日」の他は判読が困難な文字が刻まれた
二つのしるべ石が置かれています。
これには、「大日 右かづまをごおち 左さいはらこ寿げ」(右、数馬・小河内、左、西原・小菅)、
もう一つには「右ハかづま 左ハ西原」と刻まれているようです。
この分岐道自体は地形図に記載はありませんが、p919を経て丸山へと向かい、
丸山山頂部で見かけた「沢渡を経て上野原」の白い標識のあった分岐路へと繋がっているのでしょう。


「帳塚場(帳塚原)」と呼ばれている小広い場所


帳塚場からさらに下がると立派な馬頭尊を見る

しるべ石の置かれた丸山分岐を過ぎると、小広い放棄された畑の跡地のような場所に出ます。
ここには「帳塚場」との地名標識があり、傷んだ石祠なども見受けられます。
「帳塚場(原)」とは『西原の山・川・地名・旧跡』によると、
明治になって古い書類(帳面)を燃やした場所であるとのこと。
一体どんな書類を燃やしたのでしょうか、借金の借用書でしょうか?
それとも土地の所有に関する書類でしょうか?はたまた松姫の逃避行にまつわる古文書でしょうか?

「帳塚場」から、紅葉盛りの山道を下ると、立派な馬頭観音が祀られているのを見ます。
以前、西原古道を逆から歩いて来たときは、この馬頭尊の脇から分岐する細道に
踏み込んでしまって行き詰まり、獣の巨大ウンコに慄き退散したことを思い出します。


日寄橋バス停分岐で左折 まっすぐは五右衛門山荘コース


小棡集落の上部斜面に位置する民家前に飛び出す

再び公的な登山標識が現われ、「←日寄橋バス停」で左折を指示しています。
直進すれば「五右衛門山荘」前を通過して小棡集落の中腹に出ることは分かっていますので、
ここは指導標識に従って左折してみます。

よく踏まれた道をしばらく進めば居並ぶ石造物を見て、小棡集落内の上部民家前へと飛び出します。
ここ小棡の集落は実際に暮すとなると厳しそうですが、自然と調和した美しさがあります。
斜面にへばりつく重厚な造りの民家と真っ赤な実りを鈴生りにつけた庭先の柿の木ばかりが
深く印象に残ります。
小棡から先、西原古道上の名も無き小さな峠を一つ越し、再び十文字峠を踏んで沢渡へと戻っても
いいのですが、日はすでに大分傾き始め、これから浅いとはいえ山中へ入る気は起きません。
集落内の羊腸の道をスタコラ下って、西原古道と笹尾根、両方の峠を楽しんだ
半日の山歩きを終えます。

鶴川沿いには、三頭山、笹尾根、坪山などハイカーを魅了する山々が豊富にあり、
登山コースも充実しています。
あえて西原古道のようなマイナーな古道を目的に訪れる人は少ないことと思います。
しかし、古くから山間の地で暮らす人々によって踏み締められた道を歩き、
山峡集落における道の果たしてきた役割を顧みることも、
ときとして山旅を味わい深いものにしてくれます。
バスに乗り遅れ、時間を持て余してしまったら、それは「西原古道」を歩くチャンスかもしれません。

【*1】 『山小屋 創刊号』「三頭山から三國山まで-甲武国境山脈-」岩科小一郎著に「氷室山」との表記がある。

【*2】 『秋川上流山村の村落構造の研究』時任則子著

【*3】 『檜原村紀聞』瓜生卓造著・東京書籍・昭和58年

     『峠路をゆく人々』(山村民俗の会編)「炭焼きのゆきかう道-相模川源流の峠交通-」(杉崎満寿雄著)によると、
     西原からは五日市に運ばれる炭俵を積んだ馬がたくさん通行したといいます。
     また、尾根を越えての縁組が多く、お節句やお盆には乳飲み子を背負い、子どもの手を引いて峠を越える
     人の姿もあったといいます。一の宮神社の祭礼には檜原村側からも峠を越えて見物人がきていたという。

【*4】 『西原の山・川・地名・旧跡』(西原中学校編・2006年)

【参考文献】
『甲斐の山旅・甲州百山』(蜂谷緑、小俣光雄、山村正光著・実業之日本社・1990年)
『新ハイキング542号』(新ハイキング社・2000年12月)「中群山・小中群・日武連山を行く」(小倉修著)
『新ハイキング461号』(新ハイキング社・1994年3月)「鶴川谷・冬から春へ」(杉崎満寿雄著)
『新ハイキング481号』(新ハイキング社・1995年11月)「笛吹峠」(杉崎満寿雄著)
『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社)

(峠行2008.11.22)