スッキリしない峠

篠窪峠(白沢峠・醍醐峠)・三国峠・佐野川峠


県立鎌沢無料駐車場


和田浄水場脇から篠窪峠(醍醐峠)への道が始まる

梅雨は明けましたが気分は曇りがちでスッキリしません。
気分が滅入るときは、正常な精神バランスを取り戻すためにも山歩きが欠かせません。
しかし、時として炎天下の山歩きは体調を崩す拷問にさえ成り得ます。
ことに灼熱の低山とあらば、その拷問は過酷さを極めます。
冬場ならガッカリする鈍色の曇天の空を、このときばかりは待ってましたと歓迎し、
折り畳み傘をカバンに放り込んでいざ出発です。

雨が落ちてきても、傘をさして歩ける一般コースがよかろうと、
メジャールートの醍醐丸〜連行峰〜茅丸〜生藤山をぐるりと歩きます。
もちろん篠窪峠(醍醐峠)、三国峠、佐野川峠を踏むという峠歩きも忘れません。

山の斜面にへばりつく鎌沢の集落まで車を走らせ、無料の県立駐車場に車を置きます。
鎌沢を含む佐野川地区は、山間地の傾斜地にある段々茶畑や土蔵のある町並み景観、
さらにそこでの生業の歴史が評価され、「にほんの里100選」に選ばれた場所です。
たしかに風光明媚ではあるけれど、勾配のきつい坂道ばかりの生活は容易ではないはずです。

駐車場から県道方向へ戻り、宮幡橋を渡り山腹道を利用して和田の集落へと向かいます。
八坂神社前の「やさか茶屋」から漂う、蒸かしたての酒饅頭の美味しそうな匂いに
食指が動きますが、ここは空腹を我慢して、佐野川を小さな橋で渡り、県道へと出ます。
和田峠を越えて爽快なダウンヒルを楽しむサイクリストが何台も風のように走り去っていきます。
佐野川の流れは次第に細くなり、古い土蔵を庭に構えた家並みが続きます。
和田地区は「かながわ蔵のまちなみ100選」に選ばれているとのことで、
いろんな「100選」があるものだと、選定好きの国民性にちょっと困惑を覚えます。
そういえば藤野町では「藤野十五名山」なるものも選定されています。

家並みが途切れ、和田峠への本格的な登りが始まる手前に、和田浄水場があり、
その傍らに「醍醐峠1.4km」の登山標識が設置されています。
ここからいよいよ篠窪峠(醍醐峠)へ向かう峠道が始まりますが、雨後の濡れた草道は
防水機能ゼロのスニーカーに半ズボン姿という無防備な身には少々不快です。
しかし、丹沢と違ってヤマヒルが居ないというだけで気分は随分と楽になるものです。
浄水場脇の山道を入り、堰堤を越えた辺りに「ホウノキデーロ」という地名が
『ふじ乃町の地名』には付されています。 「ホウノキデーロ」とは「朴の木平」と書くのでしょうか。
すぐに沢は二手に分かれますが、登山標識に従って右手の沢筋に進みます。


小さな沢の流れに沿って


植林内のジグザグを登りつめれば峠へ

植林の隙間から覗く空は、いつ崩れてもおかしくないどんよりとした雲に覆われ、
ただでさえ薄暗い谷筋の峠道が不気味に思えてきたりするのです。
しかし、道は極めて明瞭で、ヤブもなければ危険な箇所もありません。
それに空を覆う雲のおかげで夏の陽射しを受けることなく、冷気の中を歩くことができるのです。
『web八王子事典』には、醍醐峠の道の様子について、「和田側もほとんど廃道のようになった」
と記されていたので心配していましたが、なんら不安要素はありません。

  「【醍醐峠】 上恩方町醍醐と藤野町和田の境にある峠。
  醍醐丸山頂の南東直下にあたる。高さ740m。別称:篠窪峠、白沢峠。
  醍醐林道の開通により、醍醐側の道は消失し、和田側もほとんど廃道のようになった。
                                  (『web八王子事典』 「醍醐峠」 より)

  「いま訪ねてみると、醍醐川にも林道ができており、以前の地形図には描かれていた峠路も、
  もはや薮の中だ。あらためて峠から下る路を探ってみると、両側とも深い草に埋もれて、
  その下にわずかに踏跡が残るだけの廃道にちかい姿だった。
                            (『峠と路』 馬場喜信著 かたくら書店 1987年)

峠道の前半は沢の流れに沿い、苔むした炭焼き釜跡の石積みを見て沢奥へと進みます。
沢奥のどん詰まりで一旦、Z字に大きなジグザグを切り、
「醍醐峠0.7km」の標識を最後に、沢の流れから離脱し、小さなジグザグで高度を上げていきます。
『ふじ乃町の地名』には、沢のどん詰まりの地に「ヤマノカミ」、「トッサカ」の地名が見られ、
登り詰めた尾根上に「シノクボ」の名が見られます。
「ヤマノカミ」は「山ノ神」で、「トッサカ」は「突坂」で、「シノクボ」は「篠窪」なのでしょう。


古い道標が打ち捨てられている


峠全景

沢の流れを離れると「トッサカ(突坂?)」の名の如く、杖を突きたくなるような登りが始まります。
しかし、小刻みなジグザグ道は足への負担が少なく、息が切れることもありません。
ただし、曇り空とはいえ、額や背中からは次第に汗が噴き出し、夏の低山特有のムシムシとした
厳しい拷問が始まるのです。

峠道の後半部にかけても、前半部と同じく植林に包囲され続け、峠道の情趣という点では
若干見劣りする点があるかもしれませんが、植林作業に利用されている道だからこそ、
峠道がヤブに埋もれることなく、今に生き続けているともいえます。
朽ちかけた古い登山標識が放置されているのを見ると、
醍醐丸と高岩山との鞍部である峠に飛び出します。


篠窪峠 (白沢峠・醍醐峠)

峠に立つと同時に、ポツポツと雨が落ちてきましたが、傘をさすほどではありません。
火照った体をクールダウンするのに心地好い雨の滴です。

  「橋詰、和田とつつましい部落を抜けて、最終の農家の処で道標に拠り左折、
  和田川の源流白沢沿いに国境山稜に立つ。
  この乗越が佐野川村と武蔵恩方村を結ぶ篠窪峠、一に白沢峠また醍醐峠と謂われる峠だ。
  あたりは二、三の樹木が颯々と風に絃って洵に気分のよい処である。」
                          (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

  「醍醐丸の東隣のタルは和田峠の補助とも謂うべきもので、
  佐野川村和田から恩方村醍醐へ踰える篠窪峠(白沢峠)である。」
                          (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

  「この鞍部を篠窪峠と言ひ、又別に和田側の白澤上部にあるため白澤峠ともいふ。」
                        (『秋川の山々』 東京瓦斯山岳会 木耳社 昭和52年)


公的登山標識には「醍醐峠」とある


醍醐丸への登りが始まる

現地の公的登山標識には「醍醐峠」の名が標示されていますが、
古い山の文献では「篠窪峠」としているものが多く見られます。
市道山の南に位置する醍醐と漆ヶ谷沢とを連絡するもう一つの「醍醐峠」と区別するために、
「篠窪峠」あるいは「白沢峠」の名が古い山の文献では定着していたようです。
市道山南の「醍醐峠」を利用する人が減り、道が廃れるにつれ、醍醐丸南方の「篠窪峠」が
今度は「醍醐峠」として一般に呼称されるようになったと推測されます。
(もちろん昔から篠窪峠は醍醐峠とも呼ばれていました)

峠は小広く、ゆったりしたタルミで、切り通し状や狭い凹状の地形ではありません。
目立った老樹や石祠、地蔵の姿は見当たりませんが、それなりに峠の雰囲気を醸し出しています。
以前訪れた時より、醍醐側の植林が間引きされているようで明るくなっています。

後に訪れる三国山下の甘草水に設置された周辺案内看板には、醍醐峠について、
「昔、都へと醍醐が越えたと言われる」と記されていました。
京の都から遠く離れたこんな辺陬の地より、本当に貢物が運ばれていたのでしょうか?

  「醍醐は・・・・昔の最高級の食品だった。 現代風にいえばバターやチーズのようなもの。
  醍醐天皇の時代には延喜式と呼ばれる法令で酥(そ)を貢納させている。 酥は醍醐のもと。
  乳牛を飼い、酥などの乳製品をつくったところや集めたところが醍醐と呼ばれている。
  醍醐の集落からこの峠を越えて、貢納の長い輸送があったことであろう。」
                        (『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年


醍醐側には林道のような道が造られている


可愛い白い花が咲く

醍醐側からは新造された林道のような道が峠へとのばされています。
かつての峠道は醍醐と和田峠を結ぶ醍醐林道の開設に伴い消滅してしまったのでしょうか?
それとも醍醐林道は当時の峠道とほぼ同じ径路を辿っているのでしょうか?

峠には可愛らしい白い花が咲いていましたが、花の名前には疎いのです。
その形態から勝手に「ホワイト・ポニーテール」と名付けてみましたが、いかがでしょうか?
テレビドラマ「風のガーデン」ふうに花言葉を拵えるなら、
「テニス部の女子マネージャーは奥手に見えて、結構とんでる!」といった感じです。
「高校時代の部活のマネージャーはポニーテールがよく似合う、清楚な感じの子でしたが、
実は先輩とできていて、結構ぶっ飛んでいた」という極めて個人的な経験に基づいた花言葉です。

帰宅後に調べてみたら、この花は「オカトラノオ」というのですね・・・
シッポ系の名前という点は当たっていましたが、「虎の尾」とは可愛い花の姿に似合わず猛々しい。
可憐さの背後に何が隠れているのか、花も女性も気を付けなければなりません。

ポツポツと雨の落ちる中、篠窪峠から醍醐丸に向けて植林地内の道を登ります。
巻き道の誘惑もありますが、生藤山まで一つの峰も見落とさずトコトン尾根上を拾って歩きます。


八王子市最高峰 醍醐丸


カバンからピザパンを取り出して食べる

醍醐丸山頂には「八王子市最高峰醍醐丸867m」と書かれた手製標識が掛けられていて、
「桧原南部都自然環境保全地域」を示す看板が設置されています。
折角、休憩ベンチが用意されているので、カバンからピザパンを取り出してかぶりつきます。
といっても湿っぽいベンチに腰掛けることはなく、ウルトラマンの地球滞在時間よりも短い時間で
質素な食事は終わってしまいます。
折り畳み傘をカバンから引っ張り出そうとも思いましたが、頭の上に張り出した木々の葉が
雨粒を防ぐ天然の傘となっていて、その必要は無さそうです。

『奥多摩』(宮内敏雄著)によると、醍醐丸には「篠窪ノ峰」、「灰焼平ノ峰」の呼称もあるようです。

  「860m閉鎖圏の篠窪ノ峰(恩方村称)― 一にその恩方村醍醐川の水源なので醍醐丸
  檜原方面では灰焼平ノ峰と謂われる突起で・・・・」
                         (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

醍醐丸で市道山へ向かう道を見送り、一路西へと転進し、醍醐丸の西方鞍部へと下降します。
降り着いた鞍部で先刻の巻き道を合わせますが、ここはいかにも峠風の地形で、
北側の小坂志川の流域に降りることも可能に思えます。
(『藤野の山と峠』によると、この鞍部は地元では「一本クヌギ」と呼ばれているようです。
『山と高原地図』には「山の神」とありますが、肝心の神様を見落としてしまいました。)

鞍部に生えている特徴ある大木の根元にザックを降ろして休んでいた老ハイカーに、
「残念、雨が降ってきましたねぇー、でも葉っぱが防いでくれますね」と声を掛けられ、
「そうですねぇー、ちょうど気持が良いですねぇー」などと愛想良く返答し、先に発ちます。
そうです、この先も小雨程度なら天然の傘が防いでくれて、折り畳み傘の出番はありません。


『復刻版・奥多摩』(宮内敏雄著・百水社・1992年)挿入図より
篠窪峠(白沢峠)と市道山南の醍醐峠とを明確に分けている
醍醐丸の別称やトサカ尾根の名も見られる

再び巻き道の誘惑に耐えて、尾根の直上を拾って西進を続けます。
この辺りから生藤山へと続く尾根を、かつては「鶏冠(トサカ)尾根」と呼んでいたようですが、
この名称は現在では定着していないようです。

  「連行山から東には鶏冠尾根(武蔵通志に據る)と呼ばれる煩瑣に堪えぬ鋸歯状小突起の
  数個が続き、而して860米突の醍醐丸となって尾根は二岐に分かれる。」
                        (『一日二日山の旅』 河田髓 自疆館書店 大正13年)

  「此処ら附近から生藤山附近迄の武相国境尾根を鶏冠尾根と謂ふ。
  是は此の尾根を遠望すると小突起が鋸歯状を呈し、あたかも鶏冠の如く望めるからである。」
                   (『山と高原34号』 「栃谷尾根と鶏冠尾根」 神山弘著 昭和17年

  「820m圏が大蔵里山で、このあたり一帯の鋸歯山稜を相州方面で鳥冠尾根と呼んでいる。」
                            (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)


『アルパインガイド16奥多摩』 山と渓谷社 昭和37年
こんな不思議な地図もある!
「醍醐丸」と「灰焼平ノ峰」は別物で、「篠峰」なる山名が書かれている。なんですかそれ?


「山の神」分岐
南側の和田集落から道が上ってきている


四角い石に「山の神」と刻まれているが
ストックでひっかいたような文字である

鶏冠のような出っ張りを一つ二つとクリアすると、和田からの道を合わせる鞍部となり、
尾根の真ん中には、これまた特徴的な木が生えています。
『山と高原地図』に「山の神(四角い石)」とあるように、
四角い石に、うっすらと刻まれた「山の神」の文字が見られます。
ても、どことなくその文字は、ハイカーがストックで引っ掻いて刻字したようにも見え、
本当に神様がいらっしゃる場所なのかと疑いたくもなりますが、実際に、山の生業に携わる人々の
信仰に基づいた場所のようです。

  「この稜線には2ヶ所「山の神」がある。どちらもその昔、山に入り炭焼きで生計を立てていた
  集落の住人が、山に感謝と安全を祈願し、個人的に奉納したとのことである。」
           (『藤野の山と峠』 植木知司編集 NPO法人北丹沢山岳センター 2003年)

曇り空とはいえ、3連休初日なのにすれ違うハイカーの姿が全くありません。
昔の紀行文には、「此の附近には栗の木が多く、その頃にはよく籠を背負った栗拾いの村童を
此の尾根みちで見受ける」などと情緒的なことも書かれていますが、
土地の子供達の姿などまったく見かけることはありません。
「高速代1000円」のおかげでハイカーは遠方まで足をのばしていることでしょうし、
どこの山村も老人の姿ばかりで、子供達の姿など見かけることは最近では稀なことです。
都市近郊の低山の混雑が緩和されるという点は、「高速代1000円」の利点なのかもしれません。


大ゾウリ山 (大草里山・大蔵里山) 付近
「大ゾウリ山」と書かれた御札が置かれている


連行峰 (連行山)
「三国峠みち」のジャンクションピーク

この和田分岐(山の神分岐)の前後辺りを、「大ゾウリ山」と呼ぶようですが、
『山と高原地図』や公的機関発行の各種ガイドマップを見ると、その位置は曖昧に表記されています。
一般的には分岐手前のp837を「大ゾウリ山」としているようですが、
「大ゾウリ山」は特定のピークを指すというよりは、周辺一帯の総称なのかもしれません。
どうもスッキリしない山名です。

分岐の先、植林から自然林の尾根道に変わり、ダラダラと高度を上げた地点に設置された
登山標識の根元には、熊野修験那智山青岸渡寺の御札が置かれており、
その御札には、この地を指しているのか「大ゾウリ山」と書き込まれていました。
(御札はすぐ近くの特徴ある枝分かれをしている大木のウロにも納められている)
やはり特定のピークというよりは、周辺一帯を広く指す呼称なのかもしれません。

近くにある水源協定林の看板には現地名を「佐野川字左連行」とあり、
「大ゾウリ」の名は見られませんでした。
ちなみに「左連行」は「サレンギョウ」と読み、「右連行(ウレンギョウ)」があるかは不明です。

  「醍醐丸から西へ針路を取り、概して北裏を搦んで行くと軈て楢の大木の在る鞍部に出るが、
  其処から左の谷へ幽かな径が急降している。
  之は和田部落を流れている和田川右岸の高みの俚称「大草里(オオゾウリ)」を経て来る
  ものであるが、中腹以上が猛烈なヤブなのには鳥渡辟易させられる。」
             (『山を行く』 「高尾山から三頭山まで」 高畑棟材著 朋文堂 昭和5年)

  「大蔵里山、これは今度発見された山であるが何と読むのだか知らない・・・・
  図上「和田」と記入された直上の小尾根のツメで、二つある隆起の左側のものである。
  山名は右の尾根の左側の大蔵里川から来て居るのである。
  高畑氏の『山を行く』に、この辺を大草里と云ふとあるから、或は大蔵里(オオゾウリ)と
  訓すべきものかと思ふ。」
                  (『山小屋2号』 「武相國境(一) 三國山附近」 岩科小一郎著

  「連行山と醍醐丸のほぼ中間に837mのピークがある。
  地元では、この峰を大蔵里山と呼び、これから南の和田に高度を落とす尾根を
  大蔵里尾根と呼んでいる。蔵里とは焼畑を意味するらしい。」
             (『新ハイキング509号』 「大蔵里山から三国山」 松浦隆康著 1998年

「蔵里」や「草里」、「双里」と表記される「ゾウリ」、「ソリ」とは焼畑を表わす地形語のことでしょうか。
南面の山腹で、かつては焼畑が開墾されていたのかもしれません。
『ふじ乃町の地名』には、分岐を和田側へ下った場所にある一軒家背後の斜面に
「大蔵里」の字名が付されています。

  「大ゾウリの語源のソリは山間に多い地名で、これはサスと同じように山の草木を焼いて
  拓いた畑をいうのであって、関東ではサスとソリが一般に使われるが、全体としては
  ソリは武蔵・相模あたりに多く用いられているようである。」
                          (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

さらに西へと尾根を進むと、連行峰(連行山)です。
(『ふじ乃町の地名』によると、その一つ手前の小突起に「レンギョウアタマ」(連行頭)の名がある)
山頂部から北に分岐する万六尾根を指して「柏木野バス停5.0km」の標識が設置されています。
西方向は「生藤山1.2km、三国山1.4km」、東方向は「醍醐丸2.2km、和田峠3.8km」とあります。
『新ハイキング509号』の「大蔵里山から三国山」(松浦隆康著)によると、
珍妙な山名の「連行」とは、山岳修験の「練行」が転じたものだとありますが本当でしょうか?

万六尾根は『山と高原地図』に「三国峠みち」とあるように、
上野原方面から御嶽神社を目指した御嶽講の信者たちが、三国山の南方尾根を登り、
生藤山の北面、茅丸の南面を絡んだ後、このジャンクションピークである連行峰から、
一路北へと転進し、笹平、本宿へと下降していった峠道です。

  「この峠路は甲州からの武州御嶽山への賽路に古くから利用されたものなのである。」
                          (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

御嶽道については『ふじ乃町の古道』において詳しく解説されています。

 「【御嶽(五日市)道】
 桧原御嶽道は、甲斐の国上野原町を起点として、相模の国旧佐野川村北部山嶽稜線部を通り、
 武蔵の国桧原村に入り、南谷から北谷を経てこの路線の最高地点大嶽山(1267m)に登り、
 青梅宿(青梅市)、御嶽山(御嶽神社)に至る山岳道である。
 上野原地区内では甲州街道から分岐した甲州裏街道と道を同じくし、
 先祖地区で裏街道と分かれて北に向かい境川を渡って旧佐野川村御霊地区に出る。
 御霊地区から先は急な山道で、堂坂、鎌沢の軍刀利神社下三叉路(庚申塔)、蚕山平となる。
 蚕山平から先は緩やかな稜線道で、甘草水入口、三国山(武蔵・相模・甲斐三国の境)、
 生藤山(991m二等三角測量点)、茅丸(1019m)、連行山(1023m)と武相国境を進む。
 連行山頂下から道は北に向かい桧原村に入る。
 小坂志沢、矢沢の稜線部をだらだら下り、南秋川を渡って柏木野地区に出る。
 柏木野地区から先はしばらく集落内を通る。
 笹平、本宿、北秋川上流へ千足、白倉地区を経て本コースの最高地点大嶽山に登る。
 大嶽山からは下りの尾根道で御嶽山(御嶽神社)に至る約50粁の古道である。」
                          (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年


茅丸 1019m (神行麻留)


生藤山 990m

さらに西へと進み、巻き道の誘惑に打ち勝って、歩幅の合わない木製階段を登ると茅丸です。
東京都側では生藤山を茅丸と呼ぶようですが、藤野町では生藤山の東の峰を茅丸としています。
『新編相模国風土記稿』には、「カヤマル」のことが「神行麻留」と書かれていて難読です。
暴走族が「ヨロシク」を「夜露死苦」と書くかの如きです。

   「神行麻留山 加也萬流也麻 三國峠の頂上より十八町程東に値り、
   一區の高丘あり、是を神行麻留山と呼ぶ、小石祠を立つ」
                              (『新編相模国風土記稿』 津久井縣巻之四)

その「神行麻留」は、日本武尊がこの辺りの山中に滞在していた折に、
朝敵退治のため大麻を奉納して祈願した場所とされています。

茅丸の小さな山頂にはベンチと山頂標識が設置され、
南面の切り開きからは藤野、上野原、丹沢方面を一望することができます。
半袖半ズボンの露出した肌をわずかばかり濡らしていた雨もあがり、
低い雲が丹沢の前景として空に棚引いています。
スズメバチが飛び交っているので早々に山頂を降り、再三の巻き道の誘惑に惑わされずに、
生藤山へ向けて灌木の急登を上がります。


茅丸から丹沢を望む

生藤山の小さな山頂には防火用水の赤錆びたドラム缶が置かれ、情趣は感じられません。
灌木によって視界も遮られていて味気なく、休憩するなら茅丸か三国山にかぎります。

生藤山は特定のピークを指すものではなく、付近の総称であるとする説も有力ですが、
現在では一般的にp990の二等三角点峰を指す呼称として定着しています。
『ふじ乃町の地名』によると、茅丸から三国山にかけての広範な南麓斜面に
「生藤山」の字名が付されています。

生藤山は「しょうとうさん」と発音するようですがあやふやです。
「生藤」の語源もあやふやで、御坂山塊の節刀ヶ岳の「節刀」の語源とされている
山鳥のホオジロの意味であるとの説を持ち出す向きもあります。

  「生藤の意味だが、発音は正しくはショウトウで、山行者の重箱読みのキフジとか、
  ナマフジ、セイトウ、イキフジなぞ誤りなことは申すまでもない。
  ・・・・一説に生藤は矢張り生の藤で、このあたりは藤が多いからとの解釈は漢字に
  コダわりすぎたようだし、ショウトウのトウは突起を示すトウではないかの説もきくが、
  南麓からの仰望に茅丸山こそ可成りの尖峰となれ、生藤の名を冠する全体としては
  トウとならぬのでこれも首肯出来かねる。」
                           (『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年)

昔、この付近は茅刈り場として、あるいは軍刀利神社の所有をめぐって、
境界争いが繰り広げられていたとも聞きます。
「生藤」の語源を境界争いに関連付ける説もあるようです。

  「境界をはっきりさせるために木々を伐採しない「切り止め」があって、それがキット山に転訛し、
  その発音に対し生藤の字が当てられ、山の名前になったといわれている。」
    (『ブルーガイドハイカー中央沿線の山々』 桑子登・引間恭夫著 実業之日本社 2002年)


三国山 (三国峠)


山頂からの西側展望は見事

地名の謎の深みにはまって抜け出せなくなる前に、さらに西へと進みますが、
そこには「三国山」なのか、「三国峠」なのかという地名の疑問がまたも待ち構えているのです。

  「地形図には三国峠と記されているが、
  長沢背稜の仙元峠と同様いわゆる鞍部状を呈したものではない。
  元来、峠はトッケの発音に漢字を当てたもので、トッケは「突起」なのだ。
  三ツ峠山や奥多摩の芋ノ木トッケもその例だ。
  この三国峠は武蔵、相模、甲斐の三つの国境のぶつかったピークと思えばよい。」
                (『中高年向きの山100コース』 浅野孝一著 山と渓谷社 昭和57年

地形図には「三国山」ではなく、「三国峠」と記載されていますが、
現地標識のほとんどが「三国山」と表記しています。
昔は三国山と生藤山の鞍部に「三国峠」と書かれた道標があったそうですが今は見当たりません。

『岳人549号』の「静かな峠を歩く・鞍部か山頂か、三国峠はどこに?」(石井光造著)では、
「峠という字は山を上り下りするに由来するというのだから、峠は山であってもおかしくない」とし、
「既成概念を捨てて歩きたい」としています。

  「コースのどこにも三国峠という標識はない。あるのは三国山の標識だけである。
  しかし、数馬街道の柏木野から山越えで上野原の北の上岩に至る道は
  三国峠道といわれてきた。 三国峠はどこなのだろうか。
  五万分ノ一の地形図「五日市」には、明らかに三国山の所に三国峠の地名があって、
  三国山とは書かれていない。峠はコルや鞍部という考えから、
  山である三国峠が三国山になってしまったのではないかと思った。
  峠は必ずしも鞍部とは限らない。武蔵・多摩の境の仙元峠は明らかに山頂だし、
  身延の十谷峠に至っては十谷峠山頂という道標まであった。」
                  (『岳人549号』 「静かな峠を歩く」 石井光造著 東京新聞出版局


「三国山」の標識
「藤野十五名山」に選定されていないということは
「山」ではなく、やはり「峠」ということか!


強いて言うならここが三国峠か

三国峠は古くから甲州と武州を結ぶ連絡路として利用されていたので、見た目が山だろうと、
峠としての機能はあったし、また実際に「峠」とも呼び続けられてきたのです。

  「・・・・江戸時代以後については次の二つの目的に使われたものと推定される。
  一つは、薪炭、木材、茅草等山林生産物の生産、搬出のためのものである。
  江戸時代中期以後の江戸で使う木炭の大生産地は武蔵国の五日市及び横山宿(八王子市)
  といわれ、佐野川村における木炭の大部分は和田峠を越えて恩方村案下を経て横山宿に
  出荷されたが、生藤山、連行山の山頂及び北側桧原村分の木炭は主として佐野川村の
  人達によって生産され、矢沢、小坂志を経て桧原村に出荷された。
  もう一つは宗教上の理由によるもので、御嶽神社信仰のためのものである。
  旧佐野川村、上野原町には古くから火難、盗難除の守護神として御嶽神社信仰があり、
  参拝のために利用された道である。」
                           (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年

このように三国峠道は村の経済を支える産業道路として、
また、信仰の道としての役割を担っていたのです。
これまでに檜原村側の「三国峠みち」である万六尾根を歩いたことがないので、
是非、近いうちに歩きたいものです。

田部重治著の『峠と高原』には「三國峠」と題した文章があり、
柏木野から上岩へと三国峠を越えた際の山旅の様子が描かれています。

  「・・・・茶屋の前から南秋川の橋を渡って登りかけた。 道はよい。
  爪先登りとなって杉林の間をわけると、炭を背負って降る婦人の幾人かに会う。・・・・
  やがて杉林を切れて、左の方へ迂回すると、俄かに尾根の上に出て、濶葉樹林に入り、
  径には落葉が深い。・・・・ここらあたりの四月末の新緑の美はしさが思いやられる。
  道は國境とほぼ平行して東南に進み、眺望は雄大になって来る。
  これが東京府下かと思われるほどに山岳重畳して谷が複雑に見える。・・・・
  山は深閑として静かに、時の歩みも静かに聞こえそうである。・・・・
  連行山に至って、尾根は国境と合する。ここまで柏木野から二時間半を費やした。
  やがて鶴川の渓谷が下に見えて、遥かに見える人家の多い部落は上野原であろう。
  峠道はなだらかに、生藤山、三國山の腰を経て、相模、甲州に走っている。
  下って行くと道は二つに分れ、私達は右に折れて上岩に向った。・・・・」
                                    (『峠と高原』 「三國峠」 田部重治著)

ここが峠だとする峠頂上の描写はありませんが、
柏木野から上岩へと越える山道の総体に「三国峠」の呼称があったのでしょう。


山頂直下の石祠の屋根がすっ飛んでいた!
屋根の先端が欠け、祠の本体は消えていた


「峠」と書かれた標識はこれしかなかった
(軍刀利神社・井戸分岐の標識 )

山頂からわずかに下ると、生藤山からの巻き道を合わせ、大木の根元に石祠を見ます。
ところがどうしたことか、この石祠の屋根は数メートル吹っ飛び、本体は消えていました。
土台だけは定位置にあるのですが、一体誰がこんなおぞましい悪さをしたのでしょうか。

  「三國峠 正保・元禄の改に三國嶽と書す、今は峠と書す、三國往来の間道あり、
  武相甲三國接壌の峻嶺なり、蠶山より稍高く、攀登ること廿餘町 頂上に一祠あり
  大同年中の造營なりと云ふ、今は小石祠なり」
                           (『新編相模国風土記稿』 津久井縣巻之四)

  「本宮奥齋 三國峠の頂にあり、小石祠を立てて石楯尾神社奥之院と称す」
                           (『新編相模国風土記稿』 津久井縣巻之四)

この破壊されている石祠は『新編相模国風土記稿』に記されている祠なのでしょうか?

  「檜ノ原へ越える馬道は三国山の南側を通って、その次の三角点のある峰の北側を廻り、
  再び茅丸の南腹を真一文字に横切ってから、復も連行へ続く方から北側を縫うて行く。
  自分は三国山の絶頂に登ろうと、馬道から別れる小径を求むると、
  其処には何を祀ったのか、骰子(サイコロ)形の高さ一尺余の石祠があって、
  神酒でも捧げたものか、小さい竹筒などが五つ六つ、中には新しいものも見えたのは、
  今でも参詣者のある証拠である。 茅丸の西腹に祀った津座明神の祠を、
  後年此の嶺上に安置したことがあると耳にしたから、或は此の小石龕が
  即ちそれであるかどうか、後年闡明を要することと思う
  (其の後これは現今では山王大明神と崇められてあることが分明した)」
                               (『北相の一角』 「生藤山」 武田久吉著

  「三國山の頂上には石楯尾神社の奥の院の在った事は風土記が伝えているが、
  今、石楯尾神社奥の院と称するものは、頂上から少し南西に向かって降ると
  俗に御狭野と称する石の小祠があるそうでこれが石楯尾神社の奥の院だと云う。
  神武天皇を祀ったもので、御狭野の狭は帝の御名狭野尊の一字を引いたものだとか。」
                  (『山小屋2号』 「武相國境(一) 三國山附近」 岩科小一郎著

  「三国山頂下の道上に今も日本武尊を祀ったという狭野宮があり、
  苔むした石の祠が昔を偲ばせている。」
                        (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年) 

『ふじ乃町の地名』には、三国山の場所に「オサンノウ」の地名が付されています。
「オサンノウ」とは「御狭野」のことでしょうか、「山王」も「狭野」の聞き間違いでは?
山頂直下の石祠にどんな神様がお住まいか存じませんが、祠を破壊するとは許されざる悪行です。
先述した『岳人549号』の記事には、「稜線に出る手前に祠がある。これは昭和十六年のもので、
五十年の歳月に苔に覆われ、峠道であったことを証明している。」とあるので、
風土記稿時代の古い祠とは異なるのかもしれません。


甘草水分岐広場


甘草水 (神造水)

道幅の広い安定した尾根を降り始めると、軍刀利神社から道を合わせる井戸分岐となります。
この分岐の登山標識には、「←三国峠」の表記が見られましたが、
「山」ではなく「峠」と書かれていた標識を見たのは今回歩いた中ではここだけです。

自転車でも走れそうな緩やかな道を惰性に任せてなおも下り続けると、
桜の名所でもある甘草水分岐の広場です。
甘草水の由緒書きと花見の宴に最適なテーブルベンチセットが数組設置されています。
三国山の南尾根に見られる桜の木は、今上天皇の即位記念として、当時の佐野川村青年団が
植樹したもので、開花時期には大勢のハイカーの目を楽しませています。

日本武尊が鉾で岩頭を突っつき清水を湧出させ、兵士達の喉の渇きを潤したという甘草水に、
折角だからと立ち寄りますが、無粋なコンクリートの桝からチョロチョロ流れ出す湧き水に、
風情も霊験も感じられません。
それでも両手ですくって口に含むと、ヒンヤリとした中に甘い感じもしないこともありません。
しかし、「飲用不可」であると知ったのは、帰宅してからのことでした。

  「藤野町の背陵山脈にある相武甲にまたがる三国山は、三国峠とも呼ばれ、
  この付近の山並みには、日本武尊に因んだ伝承が多い。
  かつて尊の東征の折、この山に兵を進めたが水か無く難儀した。
  そこで尊は手にした鉾で一つの岩頭を打った。なんとそこから水がコンコンと湧きだし、
  兵の士気が大いにあがり、その泉が甘草水だと言う。
  この山の東には、町の最北端で昔、「きっと山」と呼ばれた生藤山、
  その隣が町の最高峰の茅丸がそびえる。東にのびる尾根をたどると、連行山や大ゾウリ山、
  ダイゴ丸を越えると醍醐峠(昔、都へと醍醐が越えたと言われる)、高岩山を越えれば
  和田峠(峠道は甲州街道の裏道として利用されてきた)、峠の南にそびえるのが陣馬山である。
                ― 平成18年 藤野町山岳協会 NPO北丹沢山岳センター ― 」

甘草水の脇には地元山岳会設置の大きな周辺案内看板が設置されています。
「ここでの不浄な行為は禁止する」という注意看板もありますが、
過去にどんな不浄な行為をした愚か者がいたのか気になるところです。
ともあれ飲用に適さないのならば、その旨を記した看板があって欲しいところです。

  「三国山狭野神社祭神の神武天皇は狭野尊といい、三国山下に湧出する甘草水は
  狭野尊が賜ったものとしてこの水を源とする川の名を狭野川とし後、
  佐野川と改め村名となった。
  上岩石楯尾神社祭神も神武天皇で神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこすめらみこと)
  といい、磐余とは岩村のことで大軍の「いわむ」ことから地名となり石寸(いわれ・『延喜式』)
  ともいう。佐野川村の地名は東部を佐野川村、西部を岩村と呼んでいたが、
  後二村をあわせて佐野川村となった。」
                          (『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年

「狭野川」は「狭神川」とも称し、後に「狭神」が「相模」になったという話や、
「突井の甘草水」の「突井」が「津久井」になったという話はどうも出来過ぎているように思えます。
佐野川村、岩村の由来にしてもすっかり出来上がっています。
後世の村の知恵者が捻り出した絵空事ではなかろうかと考えるのは夢が無さ過ぎるでしょうか。

地形図には甘草水から「スリバチクボ」と呼ばれる東側斜面に下る破線道が描かれています。
鎌沢集落北面の沢筋源頭部と接続しているのですが、この道の存在はハッキリしません。
草の枯れる冬場じゃなければ確認のしようがなさそうです。
(リンクしているHP『山梨東部の山・相模の山』さんに「鎌沢⇒甘草水」破線ルート探索が
バリエーションルートとして紹介されています)


佐野川峠手前の石仏


しっかり「佐野川峠」と標示されている

ヒグラシの大合唱の中、ほのぼのとした路傍の石仏を過ぎれば、
「佐野川峠」と標示された道標の建つ石楯尾神社分岐となります。
峠という名はあるけれど、典型的な片峠のようで尾根を越えて鎌沢へと降る道は見当たりません。
石仏の背後に薄い踏み跡がつけられていたので、
それを下ればあるいは鎌沢への下降も可能なのかもしれません。(未確認)

石仏に刻まれた文字は磨耗して判読できませんが、
「三国峠みち」を往来した人々を長い年月見守ってきたことでしょう。
佐野川峠は石楯尾神社、上岩と登里、鎌沢とを結んでいたと考えていいのでしょうが、
都県境尾根を越えて、檜原村との交流にも大いに利用されていたことでしょう。
上岩側の峠下には「安永五申年」と刻まれた230年以上前の石仏もあります。
かなり古くから利用されてきた峠道なのです。


佐野川峠

現在、登山ガイド本等で紹介されている「佐野川峠」は、
石楯尾神社の奥手から植林帯のジグザグを登り詰めた場所とされており、
現地登山標識の「佐野川峠」に、いささかの間違いもないのですが、
地元の藤野町や八王子市が発行しているガイドマップ等では、峠の位置が異なっていて、
現在の峠位置で本当に間違いはないのかと、若干疑義が残ります。


『ふじ乃町の地名』 (藤野町教育委員会・藤野町文化財保護委員会編集・昭和54年)より
「コヤマダイラ」、「グンダリサマ」の地名がみられる

佐野川峠から尾根の南下を続けると、p768の平坦地を前にしてすぐに道が二つに分かれます。
以前こんな分岐はあったかと、右手に進むと、「バス停→」と書かれた簡易標識があり、
上岩側の佐野川峠道とすぐに合流する気配を見せています。
これは道の踏み固められた度合い通りに、左の道が本道であったかと、分岐まで引き返し、
左の緩やかに下降する道を進みます。

つまり、p768は左側(東側)から巻くように通過することになるのですが、
植林の合間から右手(p768山頂)を望むと、古い木製の小社があることに気がつきます。
立ち寄ろうとは思いましたが、どうも半ズボンで突入するには草ヤブが深いのでためらいます。
冬になってから再訪することにして、帰宅後に調べてみると、
p768は「蚕山平(コヤマダイラ)」という地名であることがわかりました。
蚕山平に祀られている小社は「蚕影神社」であることもわかりました。
(リンクしているHP『悠遊趣味』さんは、この付近を精力的に歩かれていて
地名の謎解きにも言及しています)

  「・・・蚕山平がある。約2ヘクタール程の平坦地に近い鞍部で蚕影神社が祀られている。
  新編相模国風土記稿佐野川村の項に雄略天皇(第21代)16年「皇后に勅して養蚕の業を
  教弘しめ給いし時、当御山の人多強彦蚕種の取方を工夫し、蚕種を採って貢献す。
  当国には桑の木少き故に山東多摩の横野の原にて桑の苗を仕立て、
  近隣の国々へ植えしむ、是に因って当山に蚕山桑森の地名あり・・・・」と誌され、
  東国における養蚕発祥の地といわれている。」
                          (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)  


『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年 挿入図より

『新編相模国風土記稿』には、養蚕に因む「蠶山」や「桑森」、また「幣嶽」などの地名が見られ、
それらが、それぞれどこを指しているのか、読めば読むほど頭が混乱します。

  「蠶山 古也麻或は神山と書し或は古山と書す、三國峠に至る中腹にあり、
  地形頗平坦、石楯尾神社を祀って前社と称す」

  「桑森 或は津座森と云ふ 蠶山の西北間十町許にあり、文化年時の頃までも
  桑樹の老大なるが五六株もありしが、今はなしと云ふ」

  「幣嶽 蠶山の下にあり、往古軍荼利明王鎮座の始此処にて湯華を修行し、
  白幣を三本篠串に挿みて地上に立たるが根ざして繁茂したり・・・」

「蠶山」は平坦地とあるので、p768の「蚕山平」で間違いないようですが、
「石楯尾神社を祀って」という点が腑に落ちません。
「桑森」は「蠶山」の西北、「幣嶽」は「蠶山」の下にあるとあり、それらが具体的に
どこのことを指しているのか頭を悩ませます。
『藤野町史・通史編』には、「桑森=高座=蚕山平」とあるので、
「蠶山」とは広い範囲の総称ととらえ、その中の西北部に「桑森」が含まれると考えると
いいのかもしれません。
「幣嶽」は「蠶山」の下部ですから、現在の軍刀利神社の小社の祀られている辺りと推測します。
(『ふじ乃町の地名』によると、蚕山平の西側山腹に「幣嶽」ではなく「幣竹」の字名がある)

  「日本武尊東征に供奉した武将は、『古事記』では吉備御すき友耳建日子、
  『日本書紀』では、吉備武彦、大伴武日となっている。吉備武彦は神武天皇の第一皇子で
  多臣武諸(綏靖天皇の兄)の子、多武彦(おおのたけひこ)のことをいう。
  この峰(三国山)をさらに下ると桑森がある。この地は高座(たかつくら)ともよぶ。
  現在は蚕山平(こやまだいら)といい木造小社の蚕影神社と
  古蹟顕彰会の造立した石造「蚕山平」碑がある。

  多武彦子孫は代々この地に住み武彦10代多強彦(おおのすねひこ)は
  人皇22代雄略天皇の時「壬子16年蚕種の取り方を工夫して蚕種をとりて貢」とあり、
  『日本書紀』には「16壬子7月詔して諸国に桑を植えしむ」とある。
  強彦もこの地に桑を植えたが土地狭小のため多摩の横野の地に桑の植栽をさせた。
  桑森には明治末期ごろまで桑の古木があったといわれている。」
                       (『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年

記紀神話のような伝承は眉唾物で信じ難いですが、
この地で養蚕が盛んであったことは事実で、その神々を信仰することも行われていたようです。
明治5年の養蚕取調書上帳によれば、佐野川村全戸の65%が養蚕家であったといいますから
当時の村の経済は「お蚕さん」に支えられていたと言っても過言ではありません。

  「蚕影神社 五月三日、旧佐野川村鎌沢地区では蚕影山の祭りが行われる。
  この神社は登里の峰にあって、当日は参拝者に小豆粥を振る舞う。
  この地域は養蚕が盛んで蚕影神社を信仰する者は多い。
  雄略天皇(457〜479)のころ多強彦(おおのすねひこ)がこの地で養蚕をはじめ、
  桑を植えたと『新編相模国風土記稿』に見える。
  昭和16年、古跡顕彰会により「古代養蚕遺跡地 蚕山平」碑が造立された。」
               (『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行 平成6年


軍刀利神社


参道の紫陽花がキレイ

蚕山平の一段下が「グンダリサマ」と呼ばれる場所で、
木製の軍刀利神社の小社が祀られています。(社の背後に小さな石祠も祀られている)

  「軍刀利神社 三月二七日、旧佐野川村鎌沢地区では軍刀利神社の祭典が行われる。
  軍刀利神社は、祭神が軍荼利明王で、五大明王の内南方守護の神といわれる。
  登里西方峰にあるが、三国山近くに「元社(もとやしろ)」跡があり、ここから現在地に
  移されたものである。」
               (『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行 平成6年

ここが『新編相模国風土記稿』の「幣嶽」だと考えてみましたが確証はありません。
金属製の鳥居をくぐり、紫陽花の花咲く参道を歩き、聖域から植林内斜面のジグザグを下ります。

再び勾配は緩み御霊方向へ下る分岐を一つ見送ると、鎌沢へ向けてカーブする地点を迎えます。
「←三国山2.5km」と「鎌沢0.9km→」の標識がある地点で、テーブルも設置されています。
地形図の破線通り、左は鎌沢へ、右は御霊方向へとのびる明瞭な道が分岐しています。
橋詰方向へ下ることができるのか、灌木の中を直進する踏み跡も見られます。
ここを左へカーブし、鎌沢に向う途中に「登里」と標示された道標があり、
薄い踏み跡が分岐していますが、直進する踏み跡はこれに接続しているのかもしれません。
旧版地形図には登里から橋詰背後の山腹を通り倉子峠に繋がれる道が描かれています。


藤野町の観光パンフ
「佐野川峠」の位置が気になる


藤野町の観光パンフ
「佐野川峠」の位置が気になる

ところで、「←三国山2.5km」の道標のある鎌沢分岐ですが、
少し昔に発行された藤野町の観光ハイキングマップを見ると、この場所を「佐野川峠」としていて、
現在一般に「佐野川峠」とされている場所とは異なることがわかります。

ここを勝手に「疑惑の佐野川峠」と呼んでいるのですが、
どうもこちらの方が最前の「佐野川峠」よりも峠らしい雰囲気だと思うのですが・・・・・?
「佐野川峠」の正しい位置は梅雨明け後の曇り空のように、スッキリしないのです。


昭和4年測図24年資料修正24年発行 地理調査所


『八王子ハイキングマップ』
八王子市経済部商工観光課


明治21年測図29年修正43年発行
大日本帝國陸地測量部

さらに混乱することに、八王子市発行のハイキングマップでは、
現在一般に佐野川峠と呼ばれている場所より、北寄りの分岐破線道に、
「佐野川峠」の名が記載されているのです。
甘草水付近から「スリバチクボ」と呼ばれる東側斜面に下る破線道が峠道なのでしょうか?

現在の「佐野川峠」の道標の立つ分岐、それより北の破線道分岐、そして鎌沢分岐、
どれが本当の「佐野川峠」なのでしょうか?
どれもが佐野川村に越えることが出来るのだから、どれもが「佐野川峠」なのかもしれませんが、
どうもスッキリしない峠なのです。

また、『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著)には頭を悩ます次のような記述があります。

  「現在「井戸」まで通うバスが、ふたむかし前は「上岩」止まりだった。
  いきおい、三国山へ登るにも、佐野川峠より南に偏した登里峠を経た。
  去年、ふと思い起こしてたどったそのみちは、
  登山口を石楯尾神社脇にとって変わられて久しい今、やや草深く、傷みも目立った。」
                  (『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年

この文章は佐野川峠の南に、「登里峠」と呼ばれる場所があることを示唆しています。
これは軍刀利神社下三叉路の享和三年の庚申塔がある場所のことなのでしょうか?
それとも「←三国山2.5km」の道標のある鎌沢分岐のことなのでしょうか?
(庚申塔には「右さの川道 左ひの原みたけ道・通利」と刻まれている。
「通利」とは「トオリ」で現在の登里地区を指す。ちなみに「登里」の語源は、
『新ハイキング509号』によると、「付近に多摩御嶽信仰の信者や御師が通る御嶽道があり、
《多くの人が通る所》が転じたという」とある)


藤野町観光マップが「佐野川峠」とする所


尻尾をふりふりする鎌沢犬

「佐野川峠の真相はいかに・・・・」、しばらく悩み続ける羽目になりそうです。
解明できぬ謎を残したまま、登里から鎌沢へと足の痛くなるコンクリ舗装された激坂を下ります。
茶畑の中を下るキツイ勾配に耐えられず、足の指先の痛みに悲鳴をあげて、
後ろ向きに足を運び、珍妙な姿で坂道を下ります。
後ろ向きで山から降りてきた変な登山者、その苦痛と苦悩に満ちた表情の人間を警戒しつつも、
鎌沢在住のワン公は尻尾を振って近付いてきます。

車に戻ると、スッキリしない梅雨明けの空から再びポツポツと雨が落ち始めます。
天気ばかりではなく、山の地名も峠の位置も、どうもスッキリしないことばかりの山歩きでした。
滅入った気分を回復させるために、山を訪れましたが、果たして効果はあったのでしょうか?
悩みは解消されないばかりか、増幅されたかもしれません。
天気のスッキリしないおかげで、夏の低山の灼熱拷問を回避することができましたが、
スッキリしない佐野川峠のことを考えると、寝苦しい夏の夜がさらに寝苦しくなりそうです。

(峠行:2009.07.18)
● 峠行から数週間後、再び蚕山平周辺を訪れました。
  その時のレポート 「
続・スッキリしない峠」(佐野川峠・登里峠)を見る。

● 「続続・スッキリしない峠」(倉子峠・佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年
『藤野の山と峠』 植木知司編集 NPO法人北丹沢山岳センター 2003年
『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年
『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行 平成6年
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『山小屋2号』 「武相國境(一) 三國山附近」 岩科小一郎著
『山麓滞在』 「三國・生藤」 岩科小一郎著 体育評論社 昭和17年
『山と高原34号』 「栃谷尾根と鶏冠尾根」 神山弘著 昭和17年
『山を行く』 「高尾山から三頭山まで」 高畑棟材著 朋文堂 昭和5年
『北相の一角』 「生藤山」 武田久吉著
『一日二日山の旅』 河田髓 自疆館書店 大正13年
『岳人549号』 「静かな峠を歩く・鞍部か山頂か、三国峠はどこに?」 石井光造著 東京新聞出版局
『秋川の山々』 東京瓦斯山岳会 木耳社 昭和52年
『中高年向きの山100コース』 浅野孝一著 山と渓谷社 昭和57年
『ブルーガイドハイカー中央沿線の山々』 桑子登・引間恭夫著 実業之日本社 2002年
『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年
『新ハイキング509号』 「大蔵里山から三国山」 松浦隆康著  新ハイキング社 1998年3月号
『峠と高原』 田部重治著 角川文庫
『新編相模国風土記稿』
『神奈川県相模原市藤野町観光ガイドマップ』 相模原市 平成21年
『藤野町観光ガイドマップ』 藤野町役場まちづくり課 地図調整昭文社 平成9年
『八王子ハイキングマップ』 八王子市産業振興部観光課 平成20年
『八王子ハイキングマップ』 八王子市経済部商工観光課
『峠と路』 馬場喜信著 かたくら書店 1987年
web『八王子事典』

● 以前に佐野川峠を訪れた時のレポートを見る。
● 以前に三国峠を訪れた時の
レポートを見る。
● 以前に篠窪峠を訪れた時の
レポートを見る。