続・スッキリしない峠

佐野川峠・登里峠

前回の「スッキリしない峠」の峠行に引き続いて、今回も生藤山南面の尾根を訪ねました。
夏の強烈な陽射しを避けるため、前回同様に、これまたスッキリしない空模様の日を選んで、
再び蚕山平(こやまだいら)周辺を歩いてきました。

足繁く通うことで、スッキリしない峠をスッキリさせようとすることが目的ではなく、
スッキリしないことをいいことに、何度となくこの山域を訪れることの口実としているのかもしれません。

  「現在「井戸」まで通うバスが、ふたむかし前は「上岩」止まりだった。
  いきおい、三国山へ登るにも、佐野川峠より南に偏した登里峠を経た。
  去年、ふと思い起こしてたどったそのみちは、
  登山口を石楯尾神社脇にとって変わられて久しい今、やや草深く、傷みも目立った。」
                  (『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年

この一文に登場する「登里峠」の存在がスッキリせず気になりますし、
『ふじ乃町の古道』に記されていた「檜原御嶽道」の経路である御霊地区から堂坂を経て、
「軍刀利神社下三叉路の庚申塔」に至る道の様子も気になります。
これは三国峠に至る峠道でもあるのですから是非歩いて現状を確認してみたいのです。
そして前回、濡れた草藪に踏み込むことを逡巡し、
見逃してしまった蚕山平の蚕影神社にも参詣を果したいと思います。
依然としてスッキリしない佐野川峠へ石楯尾神社脇の一般登山ルートから登り、
蚕山平、庚申塔を経て、御霊地区に下る予定で出掛けることにしました。


石楯尾神社の山門


大洞橋から左の山道に入る

真夏の陽射しが照りつけているのなら、日射病になるであろう正午過ぎに石楯尾神社に到着。
幸いにも、空は今にも雨が落ちてきそうなどんよりとしたネズミ色で、夏の低山歩きには好都合です。

境内でフライフィッシュサンド1個の軽くて遅い昼食を済ませます。
石楯尾神社の山門は、床板を仮設することで舞台に変わるという特異な構造をしています。
つまり山門が奉納舞台を兼ねているのです。
数年前には村歌舞伎が上演されたようですが、最近は使われていないのでしょうか?
昔は、農閑期に旅芸人の一座が公演し、境内には屋台も出ていたのではと想像します。
檜原村からは三国峠、浅間峠を越えて、恩方からは和田峠(案下峠)、倉子峠を越えて、
上野原からは大越路峠、能岳峠(向風峠)を越えて、棡原からはモミソ峠(井戸峠)を越えて、
多くの見物人が集まったのではないかと、
舞台の端に腰掛け、フライフィッシュサンドをもぐもぐしながら峠マニアは妄想するのです。

この山門兼舞台は弘化二年(1845年)に建築された随神門式のもので、
歌舞伎を奉納するという意味で神社本殿と向かい合ってつくられています。
当地では、江戸末期から明治期にかけて地芝居が流行したといいます。
このような山峡の地に芸能文化が根付いていたものかと、疑いを持つ向きもありますが、
一流の役者であった尾上男女蔵が鎌沢地区に移り住み、明治から昭和にかけて劇団を作っては
芝居の稽古を行い、村の祭りや他から頼まれると公演を行っていたという事実もあります。 【*1】

石楯尾神社前のバス停の名前は「石楯神社前」で「尾」が抜けていて、
振り仮名は「いしたてじんじゃまえ」となっています。「お」はどこに行ってしまったのでしょうか?
県道から集落内の小道に入り、生藤山南方尾根を見上げると、
中腹以上は濃密なガスに包まれ真っ白です。
これからあの涼しそうな天然のエアコンの中に入るのかと、ワクワクしながら進みます。
檻に収監された数頭のイノシシがブヒブヒと無実を訴えるのを耳にして、
家並みが途切れると、大洞橋の手前で左に折れて沢沿いの道となります。


上岩生産森林組合がお祭りしている「山の神」


再び林道に出て、貯木場から山道に入る

雨はまだ降っていないのに、沢沿いの湿った道を歩いただけで、
防水機能ゼロのスニーカーは浸水です。
ホームセンターの2980円の靴では1年以上も峠行に酷使すれば寿命を迎えてしまうようです。

上岩生産森林組合で管理しているらしい「山の神」の前で、登山標識に従い右に折れます。
『ふじ乃町の地名』には、「山の神」の辺りに、
「ウマフセッパ」という地名が付されています。
「ウマフセッパ」とは「馬伏場」で、死んだ馬を埋葬した場所でしょうか?
それとも「木馬道」の「ウマ」のことで、伐り出した木材を集積した場所かもしれません。
さらに谷を登った場所には「ウマウケバ」(馬受場?)の地名もあります。これは伐り出した木を
中継した場所という意味かもしれません。

興味を抱きちょっと調べてみると、「ウマフセッパ」とは「ウマフセバ」のことで、
馬の治療場であることがわかってきました。
木枠で囲いを作り、そこに馬を入れて治療を行ったようで、馬の首、ハニク(歯茎)、脚首、
脚の関節などに針をさして血を抜いた場所のようです。
歯茎から血を抜くと餌をよく食べるようになるとか、
脚から血を抜くと疲れが取れるといわれていたようです。【*2】
そういえば、鶯宿峠にも峠道と里道との境に「血下げ場(チサゲバ)」という場所があり、
山道の上り下りで充血した馬の脚から血を抜く作業を行った場所があります。 【*3】
馬の血液にも霊が宿るとして、集落から離れた山中との境界でそのような行為は行われていました。

夏草の被った沢沿いの道を抜けると、大洞橋で分かれた林道に再び出合います。
この時点ですでに、長ズボンの膝から下はびしょ濡れです。
夏の陽射しを避け、少しでも山歩きを快適にするために曇り空の天気を選びましたが、
下半身はすでに不快指数100%です。


手入れの行き届いた植林地のジグザグを登る


峠直下で馬頭観音が出迎えてくれる

林道の貯木場の脇から再び山道となり、よく手入れのされている植林地内のジグザグとなります。
『ふじ乃町の地名』には、この辺りに「オオマガット」の地名がありますが、
「オオマガット」は「大曲登」とでも書くのでしょうか?羊腸の道が続きます。

高度を上げるにつれ、ガスに包まれた白の世界に支配されていきます。
数十メートル先が見えず、イノシシとの遭遇に不安を覚え、首からぶら下げた笛を吹いたりします。
でも視界の閉ざされているおかげで、登りの終焉も見えず、先が見えないということは、
不安なことばかりではないと思ったりもするのです。

空気は重く、期待した天然のエアコンとは程遠く、まるで低温サウナに入っているようで、
すべての毛穴から汗がじんわりと滲み出てきます。
除湿スイッチがあれば切り替えたいのですが、そんな都合の良い機能は無いようです。


佐野川峠下の安永年間の馬頭観音


白の世界で幻想的な峠

安永年間の馬頭観音がやさしく迎えてくれるのを見ると、佐野川峠はすぐそこです。
峠から三国山方向へ少し登った所にも馬頭観音が一体安置されています。
これら峠に祀られた石仏は峠を行き交う人馬の往来を長い間見つめてきたことでしょう。

『ふじ乃町の地名』には、「佐野川峠」という地名の記載はありませんが、
峠付近の尾根の平場に
「カソウバ」の地名が付されています。
まさか「火葬場」ではないと思いますが、炭を焼いていた場所なのかもしれません。
峠の南側は小広い平坦地になっています。


ガスに包まれる佐野川峠

佐野川峠は深いガスに包まれ幻想的です。
こんな天気の日に登山するハイカーはいないようで、周囲は静寂の中にあります。

数週間前に訪れたばかりですが、峠の反対側に下る道はないだろうかとよくよく見てみると、
テープのマーキングなどがあり、無理をすれば歩けないこともなさそうです。
でも本当に、この場所が地元で佐野川峠と昔から呼ばれているのか懐疑的であります。
佐野川峠の真実は何度訪れてもスッキリしない、まさに深い霧に包まれているのです。


蚕山平の倒壊寸前の蚕影神社

佐野川峠から南へ、p768の蚕山平を目指します。
前回訪れた時は半ズボン姿であったため草藪の中を進むのに躊躇いがありましたが、
今回は長ズボンを穿いていますし、すでにズボンはびしょ濡れなので気にする必要もありません。
左側(東側)の巻き道を少し進んで、草藪の薄い植林内を通り抜けて山頂に出ます。

山頂には丸太で支えられた倒壊寸前の蚕影神社が祀られています。
信仰のよろめきとともに、社が傾いてしまったのかは定かではありませんが、
周囲に散乱している酒の空瓶、ビールの空缶を見る限りでは信仰はまだ続いているようです。
それにしても神域にゴミを捨てられてしまう神様とは、御利益の薄い神様なのでしょうか?

蚕山平の蚕影神社は昭和初期に鎌沢集落によって祀られたもののようですが、
佐野川全体で信仰の対象になっているようです。
例祭日には、小豆粥が子供達に配られたようですが、そのような光景は今でもあるのでしょうか?


昭和6年の「古代養蚕遺跡地 蚕山平」の石碑


酒の空瓶、ビールの空缶が散乱する宴のあと

『新編相模国風土記稿』の記述を信じれば、当地が東国での養蚕発祥の地ということで、
片隅には古跡顕彰会により、「古代養蚕遺跡地 蚕山平」と刻まれた石碑が建てられています。
しかし、生藤山を訪れたハイカーのほとんどは、この神社や石碑の存在を知らずに、
巻き道を通り過ぎて行くことでしょう。

もう少し上手く宣伝すれば、観光スポットにもなると思うのですが、
町にはその気がないのでしょうか?蚕影神社の標識を取り付けて、2〜3年もすれば、
倒壊寸前の哀れな社の姿を見たハイカーの賽銭で建て直しができるかもしれないのに。
でも、浄財が貯まる前に、すでに社は倒壊しているかもしれませんが・・・・


「←三国山1.9km・鎌沢1.5km→」の標識で右折する


軍刀利神社の小社裏には石祠が祀られている

蚕山平から南下して、次の目的地である「軍刀利神社下三叉路の庚申塔」を目指します。
軍刀利神社の赤い小社が見えてくると、
「←三国山1.9km・鎌沢1.5km→」の標識があり、右手に分岐する道があります。
この道が
庚申塔に向かう道ですが、標識には右に分岐する道に行き先を示した腕木はありません。

赤い小社の軍刀利神社は、かつて例祭日には戦いの神様として賑わい、
女、子供にはお菓子などが配られたといいます。
また、疣(イボ)を取ってくれる神様として信仰が厚かったようです。
社まで参拝しなくても、自宅で拝めば必ず疣を落としてくれるといわれていたそうです。

この分岐する道は、以前倉子峠から尾根伝いに北上した時に、一度歩いたことがあり、
庚申塔も確認しているのですが、側面に刻まれた文字をじっくり見ることは無かったのです。
その庚申塔は檜原御嶽道(五日市道)の道標を兼ねていて、
御霊地区の堂坂を登ってきた御嶽講の信者たちも目にしていたはずです。

登山標識通り鎌沢へと直進する現在の一般ハイキングコースだけが主要道と思われがちですが、
旧版の地形図等を見ると、ここで折れて御霊へ続く道、あるいは上岩へと繋がっている道も、
往時は主要道として位置付けられていたことがわかります。
特に、御霊から堂坂を登り尾根に出て、三国峠を越えて檜原村柏木野へと至る道は、
御嶽道として往来が頻繁にあったようです。


「軍刀利神社下三叉路」と呼ばれる場所  ここが「登里峠」だろうか?

「←三国山1.9km・鎌沢1.5km→」の登山標識分岐で右に折れて、
夏草の茂るやや心細くなる薄暗い道を数度のジグザグで下降し、山腹を斜めに降下した後、
小尾根に沿って進むと赤いドラム缶の置かれた三叉路に飛び出ます。
木の根元には小さな
庚申様が安置されています。

『中央線の山を歩く』に登場している「登里峠」とは、
この
「軍刀利神社下三叉路の庚申塔」分岐を指しているのでしょうか?
もちろん峠名を記した標識も無ければ、登山指導標識もこの場所にはありません。
『ふじ乃町の地名』には「コウシン」と記されていますが、これは「庚申」のことでしょう。


「右 さの川道 左 ひの原みたけ道」の庚申塔


鎌沢へ向かうトラバース道

  「右 さの川道 享和三癸亥出  左 ひの原道みたけ道 十二月日 通利四人
  庚申塔に記された道標で、佐野川東部と西部地区境の山上に造立される。
  ここから三国山、生藤山、檜原村を経て御嶽に通じる。江戸中〜末期に講が結成され、
  富士講、大山講と並んで、最も盛んであった山岳信仰の一つである。」
                     (『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行

  「桧原御嶽道について年代考証となるものは少なく、何時頃成立したかは不明であるが、
  存在証明となるものの第一は軍刀利神社下三叉路の庚申塔である。
  道上の杉の古い切株上に祀られた角柱状石塔で、正面に六臂の青面金剛立像が刻まれ、
  右側面に「右さの川道」左側面に「左ひの原みたけ道・通利」とある。
  建立は享和三年十二月(1803年)で「通利」はトオリで現在の登里地区を指す。
  桧原御嶽道の呼称はこの道標から取ったものである。
  この道は鎌沢地区(昔は佐野川と呼ぶ)の杉本氏所蔵の江戸末期佐野川村古図、
  明治初期につくられた佐野川村公図にも記載され、町村合併前の佐野川村時代村道として
  認められていた事などからこの道路が古くからあった証明の一つと考えられる。
  戦後、昭和三十年過ぎからこの道の利用度も次第に下り、
  現在はハイカーなどに使われるのが主となったが、国土地理院発行の地図にも明示され、
  その存在は新しい利用法で続いて行くであろう。」
                         (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

無人の山中では、こんな小さな石造物が頼りとなり、行人に安心感を与えてくれるのです。
霧が立ち籠める薄暗い中にあって、赤いドラム缶が不気味に浮かび上がっていましたが、
小さな庚申様が負けずと光明を放っているのでした。


「←三国山2.5km・鎌沢0.9km→」の標識のある鎌沢分岐

庚申塔分岐から登里、鎌沢へ向けて、地形図の破線表記通りに道がのびています。
若干の登り勾配ですが、ほぼ平坦な道が谷筋を巻き込むようにして続いています。
この登里、鎌沢への道は現在でも活かされているようで、安定した良い状態で保たれています。

境川流域の上岩、御霊から佐野川流域の鎌沢、和田へ向かう場合、
徒歩であるならば、この道を使い山を越えた方が早いのではないでしょうか?
もちろん車ならば、倉子峠や矢沢峠(野沢峠)を越えて行けばよいのですが、
山村集落間の移動を人の足に頼らざるほかなかった時代には、相当の往来があったはずです。
武田久吉氏もこの道を歩き、一文を残しています。

  「此の道は古くから佐野川と上岩との交通路で、其の中途から分れて、
  三国山を越えて檜原村に出る主要な道であるから、古い五万の地図にも立派に記してある。
  ・・・・大体西を指して下り気味に山腹を伝うと、上岩からの道に会する。
  此処に馬頭観音の如き小さい石仏が立って居て、右側には「右 さの川道 享和三癸亥歳」、
  左側には「左 飛の原みたけ道 十二月日」云々と刻んである。
  自分は年代崇拝家ではないが、斯様な山路に百十五年も前に立てられた道しるべが、
  そのままに残って居るのに出逢うのは寔に嬉しい気がする。」
                              (『北相の一角』 「生藤山」 武田久吉著 より)

庚申塔分岐からわずかで、数週間前に訪れたばかりの「←三国山2.5km」の鎌沢分岐です。
峠というものを二つの地域を結ぶ道の最高点と考えるならば、
ここが「登里峠」であるということも十分考えられます。
(ちょっと昔の藤野町発行のガイドマップでは、ここを佐野川峠としている)

「登里峠」とは、庚申塔のある分岐なのでしょうか?それともここ鎌沢分岐なのでしょうか?
あるいは、これら以外の想定外の場所かもしれませんし、
そんな呼称は、地元にはそもそも存在していないのかもしれません。
「佐野川峠」もスッキリせず、「登里峠」もどうやらスッキリとしないようです。
ちなみに、『ふじ乃町の地名』によると、鎌沢分岐には「ミツマタ」の地名が記されています。
「ミツマタ」は「三叉路」のことに違いありません。


『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会
「フジズカ(富士塚)」、「コウシン(庚申)」、「イナリヤマ(稲荷山)」等の地名が見られる

鎌沢分岐から再び庚申塔のある分岐に戻り、富士塚方面へと南下します。
富士塚と呼ばれる小ピークは、上岩への道、御霊への道、下岩への道を分けるジャンクションの
役割を果たしているようです。
現行版地形図に標高の記載はありませんが、旧版地形図には「528.7」、
『ふじ乃町の地名』の地図には「598.5」と記されています。


『山小屋3号』 「武相國境(二)」 岩科小一郎著 より

  「軍刀利社のある蠶山平は、図上「登里」と記入された左の平地で
  其処から東南に派出される矢張り幅広の尾根は、字軍刀と呼ばれる所で、社は此処にある。
  倉子山は字下岩から橋詰へ越ゆる倉子峠の北方の隆起で、蠶山平との間に富士塚がある。
  此の辺の山々の隆起は陸測二万分之一図ではないと一寸首肯出来ないかも知れない。」
                         (『山小屋2号』 「武相國境(一)」 岩科小一郎著 より)


「←下岩バス停30分」の標識がある富士塚分岐


富士塚の小さなモッコリ

「←下岩バス停30分」と書かれた標識のある道が左へ、行き先表示のない道が右へと分岐し、
正面には、まさに「塚」のようにモッコリとした「富士塚」の隆起が見られます。
「富士塚」とは曰くありげな地名ですが、詳しいことは分かりません。
古墳なのか、財宝が埋められているのか、単なる富士山の展望台だったのか謎めいた場所です。
富士山を信仰する麓の村人が、日常生活に追われ簡単に富士山に赴くことができないことから、
富士登山を疑似体験するために拵えたモッコリなのかもしれません。

佐野川地区を調べた民俗調査報告書によると、佐野川村では富士信仰が見られたようです。
鎌沢には先達がおり、実際に講を組み、富士山へ登拝したといいます。
上岩でも明治40年頃まで富士講があったといいます。
富士塚については、「江戸時代に富士山が噴火した際、その爆発物が飛んできてできた」、
「昔、富士山が噴火したとき二つに割れ、その片方が飛んできて佐野川の富士塚になった」などと、
ビックリするような言い伝えが採録されています。 
【*4】

「←下岩バス停30分」の標識が指し示す明瞭な道は、以前倉子峠から尾根筋を北上した時に
歩いたことはあるのですが、ほとんど記憶が残っていません。
p557方向へ右折する道もよく踏まれていて、白標杭も埋設されていて明瞭です。


「下岩バス停30分」の標識


p557東の分岐

左右どちらの道を選択するのか迷うところです。
進路に迷い心細く不安になる感覚が、人影少ない低山徘徊のタマラナイ魅力でもあります。

富士塚から御霊へと下降する現行版地形図の破線道の付け方が微妙で戸惑います。
「←下岩バス停30分」の標識に従い、左手から富士塚を巻いて先の様子を窺がってみますが、
尾根筋を外れて富士塚直下から下降する作業道のようなものは確認できるものの、
道は夏草に埋没していて、通行はかなり困難に思われます。

さらにそのまま尾根筋を進めば「下岩25分」の標識もあるはずですが、
そもそも「下岩」に降りたいわけではなく、御霊地区の堂坂を歩きたいのですから、
下岩バス停30分」の標識分岐まで引き返し、右手のp557方向へと進んでみることにします。
しかし、これが結果的に失敗で、「下岩25分」の分岐から御霊に下ることも可能だったようです。
「下岩25分」の分岐辺りの地名を
『ふじ乃町の地名』では「ウマオトシ」とあります。
馬から落馬するか、馬も転げ落ちるような急坂だったのでしょうか?
再訪して確認しなければなりません。

p557は『ふじ乃町の地名』には「イナリヤマ」(稲荷山?)とあるのですが、
そちらに進んで行くことしばらくして、三叉路を迎えます。
直進はイナリヤマを通り、p478.5の蚕影山神社を経て上岩下バス停へとつながっている道で、
右折は地形図に記載されている上岩への道と推断されます。
それでは左折し、斜面を急下降している道はどこへつながっているのでしょうか?
御霊に下る道と合流しているのではないかと直感しましたが、なんら保証はありません。
ここは安全策でと、上岩へ向かう道を選択し、右折します。
しかし、これまた結果的に失敗で、ここを左折していれば御霊へ下ることが出来たようです。
この急な坂道を『ふじ乃町の地名』では「イナリザカ」としています。

帰宅後にHP『山梨東部の山・相模の山』さんの「相模の山>生藤山>御霊⇒佐野川峠」の
レポを拝見したところ、「下岩25分」分岐からも、「p557東三叉路」からも、
御霊に下ることはできたようなのです。
昔からの道は荒れているようで、多少の付け替えがなされているようです。
事前によく調べてから行けばよいのですが、そんなことをしては楽しみが半減するというもの。
しかし、きちっと事前調査を行えば、再訪しなければならないという二度手間を
省けるのも事実でしょう。まぁ、その二度手間、三度手間も楽しいのですが・・・・。


明治21年測図同43年発行 2万図上野原 大日本帝國陸地測量部
本当は@の道を歩きたかったのに、Aを歩く羽目になってしまった

本当は上図@のコースを歩きたかったのですが、Aのコースを歩くことになってしまいました。
イナリヤマ手前の三叉路を右折したAコースは、「水源かん養保安林」の黄色い看板を見た後、
夜追沢の源流部を横断し、右岸につけられた明瞭な道で里まで運んでくれます。

旧版地形図を見ると、この夜追沢の奥地に昔は集落があったようです。
『ふじ乃町の地名』の地図をよく見ると、そこから小尾根を越えて、佐野川峠の登り口の集落へ
つながる山腹道も見られます。
生藤山南面の尾根には一般ハイカーの知らない道が網の目のように張り巡らされているようです。


夜追沢に沿った道を下る


上岩の集落へと出る

夜追沢に沿った道は夏草が茂る部分もありますが、ほぼ安心して歩ける状態です。
「夜追(ヨオイ)」という地名は気になりますが、いったい夜に何を追っていたのでしょうか?
イノシシでしょうか? 「夜這い(ヨバイ)」の転訛ではなかろうかと考えるのは妄想のし過ぎでしょうか?

上岩、御霊、下岩から、ひと山越えて登里、鎌沢、和田へ、東西連絡路が結ばれていたのですから、
夜な夜な愛に飢えた山里の若者が、山越えをしていたということも考えられないことではありません。
その辺の事情は庚申様が御存知とは思いますが、口が堅いようで何も語ってはくれません。


県道に出た所にある看板

スニーカーとズボンをグチャグチャにして、人通りの滅多にない山道から飛び出て来た登山者を、
畑の草刈りをしているオジサンは訝しがっていますが、
いろいろと尋問される前に集落内の道をそそくさと抜けて県道へと逃げ去ります。

県道分岐には地元の小学生が作った「川はみんなの宝物」の看板が掲げられています。
「山は宝物」としていないのは、能岳(向風山)東面の大規模ゴルフ場開発に対する
地元なりの配慮かと、大人は穿った見方をしてしまいます。
大胆不敵に山を切り崩し、自然の宝である山を破壊して造成されたこのゴルフ場がなければ、
丸畑から山風呂へと能岳峠(向風峠)を越える道も歩けたのに残念でなりません。
ああ、ゴルフ場ができなければモミソ峠(井戸峠、樅峠)も無事であったに違いありません。
しかし、ゴルフ場が山間地域の雇用を生み、道路の整備などに貢献するという一面があるならば、
山を手放すことは別の意味で宝を手に入れることになるのかもしれません。


『武相国境観光地図』 武相国境観光地図刊行会 昭和13年
この地図は興味深い!どの道が主要道であったかがよくわかる。
山道が幅広で描かれているが、これが当時の印象だったのだろう。
御霊から堂坂、庚申塔を経由し、三国山へ向う道は色も付いているので主要幹線道だったに違いない。
石楯尾神社の北側に「大樅」の記載があり、ここが幻の「モミソ峠」であることがわかる。

登里峠を探しつつ、三国峠の長い道程のうち御霊地区からの起点である堂坂を確認するつもりで
訪れましたが、今回も課題をクリアすることはできず、スッキリした峠行ではありませんでした。
御霊から庚申塔分岐までの道は依然として未踏のままです。
佐野川峠の真相も、登里峠の存在も謎のままで、何ひとつ問題は解決していません。

しかたありません、また、この山域を訪れなければなりません・・・・
帰宅早々、次はどの道から生藤山南方尾根に出ようかと地図を広げて考えているのですから、
当分の間、スッキリさせる気などないのかもしれません。

(峠行2009.07.31)

● 御嶽道の起点である御霊地区の堂坂を訪問した時のレポート『続続・スッキリしない峠』を見る。
● 『
スッキリしない峠』(篠窪峠・三国峠・佐野川峠)のレポートを見る。

【*1】 『ふじ乃町の民俗文化財T』 藤野町教育委員会 昭和51年
【*2】 『神奈川県とその周辺における馬の民俗調査(1)神奈川・静岡篇』 (財)馬事文化財団 馬の民俗調査会 1994年
【*3】 『芦川村誌』
【*4】 『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年
【*4】 『神奈川県史民俗調査報告書15』 「県北部の民俗(T)津久井郡藤野町」 神奈川県文化財協会 1987年

【参考文献】

『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『静かなる尾根歩き』 「24生藤山南面の尾根」 松浦隆康著 新ハイキング社
『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社
『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年
『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行 平成6年