前回の『続スッキリしない峠』に続いて再び生藤山南面を訪れました。
今回は旧版地形図に記載されている倉子峠から登里への道を探索し、
蚕山平、佐野川峠まで尾根を登った後、富士塚から御霊地区の堂坂へと下降しました。 |

岩神社は夏祭り
|

余興 カラオケ 歌謡ショー ・・・
|
国道20号線を離れ鷹取山の西、甲州と相州を分かつ境川に沿った道を下岩へと向かいます。
佐野川筋の沢井へ越える野沢峠(矢沢峠)との分岐辺りに車を置いて歩行開始です。
下岩の集落入口には岩神社の例祭を知らせる大きな幟が炎天下の微風にはためき、
集落内の戸戸には注連縄が張りめぐらされています。
不浄なる人間が立ち入ってよいものかと躊躇いますが、ヤマザキデイリーストアーの角を曲り、
岩神社へ向けて爪先上がりの道を進みます。岩神社の境内には神輿が安置され、社殿には氏子達が集まり祝詞を奉げている様子。
小さな村の、さぁ夏祭りという雰囲気が漂っていて、少年時代の思い出がよみがえります。
余興としてカラオケ、お囃子、歌謡ショー、民謡、福引抽選会が行われるようですが、
昔は露天商や旅芸人の姿も見られたのかもしれません。
きっとこれから向う倉子峠を越えて、橋詰や和田からも見物人が集まったことでしょう。
|

鷹取山
|

技術レベルの高い石垣が残る峠道
|
倉子峠に至る峠道は、地形図では頼り無い破線で表記されていますが、
簡易舗装を施された確かな車道が通り、下岩と橋詰、和田を繋ぐ生活道として利用されているようです。
軽トラが低速ギアで走り、郵便屋さんの赤いバイクが峠を越えて行きます。照りつける夏の太陽が肌を焦がしますが、木陰に入れば峠の登りも苦ではありません。
道端には毒々しいキノコが顔を出し、山栗の小さなイガイガが転がっています。
暑い暑いと言っても、秋の訪れは着実に近付いているようです。
南方には鷹取山のコンモリとした山容が望めますが、冬に見るその姿に比べ、
木々の葉が生い茂ってむさくるしく、床屋さんで散髪してもらいなさいと言いたくもなります。
でも、秋になれば染め上げた髪は華やかに、
冬になれば落髪してこざっぱりとした姿に自然となることでしょう。
峠道の側面には精巧な石積みが残されています。
単なる石垣といった感じではなく、レベルの高い技術者の手によるものに違いありません。
明治10年頃まで峠の上には役場、小学校、茶店があったといいますから、
それら建造物の土台を支持していた擁壁の名残なのかもしれません。
|

くらご峠
(倉子峠・クラモ峠)
|
峠は切り通し状で、簡易舗装路が越えてはいるものの落ち着いた雰囲気を保っています。
廿三夜塔や句碑、題目塔が置かれ、多くの馬頭観音が祀られています。
高みに置かれた馬頭観音などの石造物の配置から察すると、
峠道は後年、岩塊を打ち砕いて掘り下げられたとものと推断されます。「くらご」峠の「くら」とは、「岩」を表わす地形語でしょうか?
それとも何か他の意味があるのでしょうか?
一般的には「くらご」、「くらこ」と呼ばれていますが、「くらも」と呼ぶこともあるようです。
地形図の表記が漢字で「倉子」ではなく、「くらご」と平仮名で表記されているのも気になるところです。
町営佐野川水道減圧池の金網前に置かれた句碑には次の二句が刻まれています。
「春なれや名もなき山の朝霞」 はせを
「牛阿(しか)る声に鴫(しぎ)立つ夕べかな」 東花坊
「はせを」は俳聖と言われた松尾芭蕉のことで、
「東花坊」は芭蕉の十大弟子の一人、各務支考(かがみしこう)のことだと言います。
藤野町教育委員会が設置した句碑の説明看板には、「芭蕉も支考もここを通った可能性は
多分にあるが確証はない」とあり、「この二句ともにここでつくられたものではないが、
この峠に立つとき、何か私たちの心を捉えるものがあるのはなぜであろう」などと書かれています。
|

明治21年測量明治43年発行 二万図 大日本帝國陸地測量部
峠に大型建物が二棟描かれている
|
明治期の旧版地形図を見ると、峠には二棟の大型建物が描かれています。
これがここにかつてあったという役場と小学校なのでしょうか?
そのような公共建物が建つ広いスペースが峠にあるとは思えませんが・・・・ 「ここが佐野川村の中心とみなされ、当初の小学校はここに建てられ、
後に共育、共励の二校に分れるが、役場もここに設置されたことがあるという。
今は佐野川浄水道の分岐点になっている。」
(『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)
「明治10年頃までに峠の上に役場、小学校、茶店があった。
この小学校は学区制が出来たとき和田と下岩で争い、結局和田に小学校、
下岩に中学校にし、そばに小学校の分校を置いた。」
(『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年)
昔はこの峠道を小学生、中学生が通学のために越えていたのでしょう。
現在、佐野川西部地区から東部地区にある佐野川小学校へ通うためには、
鷹取山の北側鞍部である野沢峠(矢沢峠)が通学路として利用されているようです。
|

峠の石仏群
|

木製の山神(?)の祠
|
峠の高みには、峠を往来する人々を見守ってきたであろう馬頭観音が祀られています。
さらにその上部には山神様を祀ると思しき木製の祠、天神様を祀る石祠が安置されています。
倉子峠は昔の甲州裏街道(八王子道)の峠で、人馬の往来が頻繁にあったといいます。
峠は重要な交易路であったのです。 「【甲州裏街道】 八王子宿追分で甲州街道より分れ、北西恩方道より和田峠に至る。
峠の頂上が相武の境である。峠を下り和田集落を抜けると倉子峠、この峠の頂上が
佐野川村東西の境で西は岩村といった。
此処を下ると下岩でこの集落は宿場状になっている。下岩西の小川が甲斐との境である。
甲斐国に入り大越路峠を越え、上野原西方で甲州街道と合流する相武境より甲州境の間
約二里半(10キロメートル)である。」
(『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)
「和田―橋詰―クラモ峠(クラゴ峠)―下岩―上野原という道程は
八王子から鶴川(上野原町)へ通ずる甲州街道の裏街道だったという。
八王子からは案下、和田峠を経て和田に入るわけで、
和田の小池氏(明治39年生)や清水氏(明治41年生)によれば、八王子から甲府行きの
荷が通り、駄馬の往来がかなりあったとのことである。1日に百頭もの駄馬が通ったこともあり、
馬の餌にアワ・ヒエ・モロコシなどのカラ(稈)をくれていたという。」 【*1】
地元に伝わる馬子唄からは、往時、甲州裏街道を行き来した馬方の心情を汲み取ることができます。
案下通いの 染め分け手綱
つけた荷物は 米と酒
唄もはずむよ 鈴も鳴る
通いなれても 夕焼け雲を
見ればさびしい 和田峠
青(黒毛馬)とおいらと お月さま (『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 昭和30年)
佐野川地域は経済的には上野原と深いつながりを持っていて、
生産物の出荷や消費財の調達は上野原で行われることが多く、頻繁に行き来がありました。
上野原がひらける以前は八王子へ炭を出荷していたこともありましたが、
明治34年中央本線上野原駅が開設されると、八王子へ向けて山を越える人馬の流れは
大幅に減少していったといいます。それでも「ノウウマ(農馬)」の貸し借りは後年まで続き、
普段は山間地での運搬に使われている馬が、田植え時期になると和田峠を越えて多摩方面の
水田地帯へと借り出されていったといいます。
山梨方面の馬も峠を越えて働きに行ったといいますから、八王子道である倉子峠を越えた
農馬も多かったに違いありません。
こんな話を聞くと、四国阿讃山脈の峠を越えた「借耕牛(カリコウシ)」のことを思い出します。
佐野川地域から上野原へ出荷された生産物の主たるものは、木炭、繭、甲斐絹であり、
木炭はいい馬だと4貫500匁の炭俵が12俵程もつけられ、
さらに自分でも背負子で2〜5俵くらい背負って運んだといいます。
繭はマユカゴに木綿の油箪を敷いて繭を入れ、上野原まで人の背に負われ運ばれました。
また、繭のままではなく、ザクリでとった糸を上野原の一六の市へ出す人もあったといいます。
佐野川では甲斐絹も織られ、一六の市日には家主が一反風呂敷に包んで担いで持って行き、
帰りには縦糸、横糸を買ってきたといいます。
甲斐絹は一反が2丈8尺で、2反で1疋となり、1疋単位で取り引きが行われました。 【*2】
一時はデバタといって上野原の問屋からの請負で織ることも行われ、
腕のいい人はヒバタといい、1日に1反ずつ織ったといわれています。 【*1】
食料や消費財の調達は、暮れになると上野原で米1俵と醤油1斗を買い入れ駄馬で運び、
魚、豆腐、小間物、菓子、反物、などは上野原から担いで売りに来る行商人がいたといいます。
農作業に使う鍬も上野原の鍛冶屋に頼み、肥料、山林、養蚕関係の道具から日用雑貨の
ほとんどは上野原で購入、調達され、村へと運び入れられました。
佐野川東部地域の和田、鎌沢、橋詰からは倉子峠、大越路峠と二つの峠を越えて、
上岩、御霊、下岩の西部地域からは大越路峠を越えることで村の生活は成り立っていたのです。
上岩からは能岳峠(向風峠)も利用されていたことでしょう。
山峡での暮らしは閉塞感に満ちたものだと思いがちですが、山越えの道である峠を介して、
想像以上に豊かな生活であったようです。
山峡の村には峠を越えて来る品物の搬入ばかりではなく、
遠方からの様々な人の流入もあり、豊かな文化を醸成していったといえます。
瞽女、祭文、六部、山伏、越後獅子、万歳、神楽、御嶽講など人の流れが頻繁にありましたし、
薬売りやザル売り、箕売りなどの歩き商人は商品ばかりではなく各地の情報も運んできたことでしょう。
倉子峠のような村と村を結ぶ素朴な峠に立つと、その麓で暮らしてみたいなどと思ってしまいます。
峠マニアの偏った妄想が肥大化し、現実を忘れさせ、日常からの逃走を試みるのです。
昔は甲州ぶどうの時期になると、竹篭にぶどうを入れて積んだ馬が峠道を越えたといいます。
今では香るはずもないのに、甘酸っぱいぶどうの香り漂う峠の様子を妄想してしまいます。
|

天神社の石祠
|

天神信仰の名残である幟
|
峠の懸崖上段には天神社の石祠が祀られています。
古びた石祠の前にはワンカップの酒瓶が置かれ、近くの立木には「奉納天満天神宮」と書かれた
幟が括り付けられています。現在でも信仰は確実に生き続けているようで嬉しくなります。 「峠に小さい石の祠がいまもある。
『新編相模国風土記稿』津久井縣には「倉子山、下岩にあり、山上に天神祠を祭る。」とある。
峠の北方に小山があるので、記述の祠が古くはこの峰にあった可能性も考えられる。
藤野町の峠の天神で、今も祭りが行われるのはここだけである。
下岩集落の旧家が1月25日に祭りを行う。2月初めに訪ねたとき祠の前に酒の小瓶が置かれ、
「奉納天満天神宮、平成四年一月二十五日、佐藤家中」と墨書きされた幟が篠竹に結ばれ、
脇の立木にくくりつけられていた。
その幟の周りの立木には青色、白色のテープが何本も下がっていた。」
(『あしなか第245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会)
「藤野町の峠の天神で、今も祭りが行われるのはここだけである」とあります。
藤野町には、葛原の天神峠、綱子の天神峠、大川原の天神峠、菅井の天神峠など、
天神を祀っていた峠が数多くありますが、いずれも今では峠における信仰は途絶えているようです。
天神社そのものの行方がわからなくなったものもあります。
「1月25日はクラゴに祀ってある天神様の祭りで、子供が旗に奉納天神天満宮と書いてあげた」
(『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年)
「子供が奉納天神天満宮と書いた紙の旗をかついで登ってきて立てる。
天神講は24日、宿を決めて集まり男女共同でお日待ちをした。
若衆がクジで他村から参るものもあった。」
(『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年)
昔は天神講の名を借りて、その実、「いろ天神」と呼ばれていた地域もあり、
若い男女の数少ない出会いの場でもあったようです。
今で言うなら、ネルトンパーティーや合コンに近いものがあったのかもしれません。
天神講は「集団見合いの場」であったと懐かしそうに語る古老もあるといいます。
|

倉子峠から登里への道入口
見た目は藪っぽいが道の状態は安定している
|

現在も山仕事道として使われている様子
小さな丸太橋を過ぎると第一の沢筋横断部を迎える
|
峠の切り通しを抜けてすぐの所に、北側にのびる踏み跡を見出します。
旧版地形図に記されている登里集落へ接続している道に違いありません。
入口は若干藪気味で、倒木があり、蜘蛛の巣もかかっていますが、
躊躇せずに踏み込んでみると、道は案外としっかりしていて驚かされます。
現在も山仕事の道として利用されているように思われます。なぜ現行版地形図からこの道が抹消されてしまったかはわかりませんが、
登里で暮らす人々が倉子峠に向かう場合、鎌沢、橋詰をいちいち経由していてはアップダウンが
無駄になりますから、この山腹を辿るコースは極めて合理的な道筋であったに違いありません。
足首を隠す程度の夏草が所々蔓延っていますが、冬場に歩く分にはなんら問題はないでしょう。
道の状態も良好で、林班杭なども点々と埋設されています。
それでも人影は無く、寂然としていて、突然のイノシシとの遭遇が怖いので奇声を発しながら進みます。
|

マーキングに従い小沢を横断する
|

支尾根に乗っかると道は藪に埋まるので植林斜面を直登
|
水源協定林の看板が示す現在地「字(あざ)中尾」の表示を過ぎ、
紫陽花の咲く小沢を越えると丸太橋があり、第一の沢筋源流部を迎えます。
登里へ向うには、二つの沢筋を巻き込んで進むことが地形図から読み取れます。
その最初の沢筋は、すぐには横断せずに、しばらくは流れに沿って上流へと進むことになります。
立木に付けられたマーキングに従い弱々しい流れを渡ると、道は支尾根を斜上し始めます。支尾根に乗ると、道は第二の沢筋横断に向けて支尾根を乗り越えるとばかり思っていましたが、
それらしき道の痕跡は藪に埋まっていて進入する気持は萎えてしまいます。
仕方なく正面の植林斜面に取り付き、有るか無しやの足跡を拾って高みを目指すことにします。
|

植林斜面を直登すると明瞭な道が横切るのを見る
この道はどこから?沢を横断するのが早過ぎたのか?
|

松の大木のある小尾根を横断する
|
しばし植林斜面の急登に耐えると、
眼前にはなんと立派な道が支尾根を横切っているのを見るのです!
これが旧版地形図に載っている本来の道なのでしょうか?
とすると、第一の沢筋を渡渉する地点が早過ぎたのでしょうか?
左手、第一の沢筋源頭方向から上ってくる明瞭な道は、右手の登里方向へと確かな
先行きを期待させのびています。植林斜面の直登から解放され、この確かな道を登里へと向かいます。
夏草が繁茂し、ヘビでも飛び出してきそうな道ですが、道そのものは安定しています。
棒切れをブンブン振り回し蜘蛛の巣を払いながら前進しますが、第二の沢筋は気付かぬうちに
通り過ぎたようで、大きな松が数本威厳ある姿で聳えている第二の支尾根に到達します。
勾配の緩やかなその支尾根上には踏み跡がつけられ、
「H13-分-7」と書かれた「水源の森林」の白杭標も点々と見られます。
きっとこの第二の支尾根を登りつめれば、「三国山2.5km」の標識のある鎌沢分岐に出ることでしょう。
|

道は安定し登里方向へとのびている
|

植林主体から自然林の中を進む道になる
|
この松の大木のある場所付近を『ふじ乃町の地名』では、「センボンマツ」としています。
「センボンマツ」は「千本松」のことでしょうか、千本はありませんが数本の目立つ松が生えています。
ここから道は極めて良好となり、植林主体の林から自然林内の道へと変わります。
木々間からは陣馬、醍醐丸、連行峰などの山並みを覗くことができます。登里で生産された木炭や繭が、この道を使い倉子峠へ向かい、下岩、大越路峠を経由して
上野原へと運び出されていたのでしょうか?
林産物を搬出するには倉子峠までの緩やかな下り勾配の道は適していたことでしょう。
第一支尾根の横断部で道を見失ったものの、この道筋が現行版地形図から
抹消されてしまったことに違和感を覚えるほど踏み固められた確かな道が今も残されています。
|

水源協定林の看板には現地名が「朝日」とある
|

民家手前の竹林を通過して一般コースに出る
|
水源協定林の看板に現地名「字(あざ)朝日」を見ると、登里の民家の屋根が見えてきます。
道はそのまま進むと民家の庭先に出てしまいそうなので、寸前で竹林へと逃げて、
一般登山コースへ出ることにします。
闖入者の気配に民家の犬がけたたましく吠えているし、竹林内はヤブ蚊だらけだしで、
一般コースに出た時はホッと一安心です。
中央に「登里」と書かれた登山標識の立つ場所から数メートル下に無事飛び出たことになります。 |

昭和4年測図同24年資料修正同年発行 地理調査所
倉子峠と登里を結ぶ道が描かれている
|
上図の通り、旧版地形図には倉子峠と登里とを結ぶ道が描かれています。
倉子峠から北へ山腹を伝い、第一の沢筋を横断して第一の支尾根に乗るところまでは
問題ありませんでしたが、そこからは地図記載の道とは異なり、赤点の経路を辿ったように推測されます。第一の支尾根上から進路を見失い、植林斜面を直登することにしましたが、
支尾根を横切る立派な道を発見したことで正規ルートに復帰することができました。
第二の沢筋通過は曖昧のまま、第二の支尾根(センボンマツ)に達し、そこからは極めて明瞭な道が
登里の集落へと導いてくれます。
|

鎌沢で祀る軍刀利神社の小社
|

「蚕影神社」の標識を取り付ける
|
倉子峠と登里とを結ぶ道を一応辿ることができ、無事に一般道に出ることができたので、
次なる目的地である富士塚から御霊地区に下る道の探索へと赴きます。
鎌沢分岐から庚申塔分岐に向うのが手っ取り早いのですが、
せっかくだからと佐野川峠まで尾根を登ることにします。
峠行3回連続で佐野川峠を訪れることになります。途中、蚕山平に祀られている小社入口に「蚕影神社⇒」の標識を取り付けましたから、
これで少しは参拝者が増えるかもしれません。
大きく傾き、倒壊寸前の哀れな小社の姿を見た奇特なハイカーが、建て替え資金の一部にと、
大金を寄付してくれるかもしれません・・・・。
|

三連チャンで訪れた佐野川峠
|

佐野川峠上の石仏背後にはうすい踏み跡がある
|
三度連続して訪れた佐野川峠、今回は夏の陽射しが樹林を抜けて明るく峠を照らしています。
天気はスッキリしていますが、三連チャンで訪れても、
ここが本当に佐野川峠であるとの確信は得られず、いまだにスッキリとしない峠です。峠上に安置された石仏背後から、うすい踏み跡が続いているのが見られますが、
峠道というより植林整備の仕事道といった感じです。
東面斜面の様子が気にはなりますが、今回の調査目的外なので深入りはしないことにします。
少し前の地形図では甘草水辺りから登里へ、あるいは鎌沢へと続く破線道が
東面斜面に描かれていますが、最新版の地形図ではこれら破線道は消去されています。
生藤山のバリエーションルートとして、今後探索してみるのも楽しいかもしれません。
|

庚申塔分岐 (推定・登里峠)
|

鎌沢へのトラバース道に「鎌沢⇒」の標識を取り付ける
|
佐野川峠から軍刀利社方向へ戻り、「←三国山1.9km・鎌沢1.5km→」の登山標識のある分岐で右折し、
前回同様に赤錆びたドラム缶の置かれた庚申塔分岐へと向います。
顔に蜘蛛の巣がまつわりつく度に悲鳴を上げ、夏草のトゲトゲが肌を刺せば絶叫する。
これだけ騒いでいれば、イノシシとの遭遇も自然と回避できることでしょう。庚申塔分岐は晴天の日に訪れても薄暗く、
やはり木々の葉の落ちた冬枯れ時季に訪れなければ、明るい雰囲気の写真は撮れないようです。
庚申様は無言で、鎌沢方面と檜原、御嶽方面とを教示しています。
鎌沢へ続く道は前回歩いた通り安定していて危険箇所もないので「鎌沢⇒」の標識を取り付けます。
|

富士塚分岐に「上岩⇒」の標識を取り付ける
|

小さなモッコリに「富士塚」の標識を取り付ける
|
庚申塔分岐から富士塚へと進み、「下岩30分」標識分岐に「上岩⇒」の標識を付け加えます。
富士塚の小さなモッコリに再び登り、「富士塚」の標識も取り付けます。富士に対する信仰を匂わせるものは何も残されていませんが、
視界を遮る植林がなければ霊峰富士を望むことができるのかもしれません。
「倉子峠より北五町程の所に富士塚あり、
宝永年間富士の噴火の際神の怒りなりと、村民ここに塚を築き信仰をなせし所なり。」
(『佐野川村勢誌』)
現在、富士塚付近には祠や小社は祀られておらず、酒の空瓶も転がっていません。
富士に対する信仰はすでに途絶えてしまったのでしょうか?
昔は富士講が盛んであったという地域なのに残念なことです。
|

「下岩25分」標識分岐を右折して御霊に向う
|

右折してすぐに右に曲る道もあるが行き止まり
|
「下岩30分→」の標識に従い、富士塚を左手から巻いて進むと、
すぐに「下岩バス停至25分→」の腕木が地面に落ちている分岐を迎えます。
分岐には防火用水ドラム缶が置かれ、「←至生藤山」の標示もありますが、
西側に下る分岐道の行き先を示す標識はありません。この道は地形図に記載されていませんが、
事前の予習で、この分岐道を下れば御霊地区に出ることは分かっているので、
よく踏まれた明瞭な分岐道に躊躇無く足を進めます。
分岐道に入ってすぐに右折する道が見られます。
おっ!これは地形図に記載されている本来の破線道に接続しているかもしれないと、
一瞬期待を抱かせますが、富士塚直下であっけなく消滅してしまいます。
|

自然林を抜けると植林地に入る
富士塚直下へ向かう道はヌタ場で消滅している
|

植林地内の明瞭なジグザグ道を下降する
沢底には水源協定林の看板があり「婦谷」の地名がある
|
自然林帯を抜け植林地に入ると、またも富士塚直下方向へのびる道がありますが、
これもすぐに沢筋の詰めでヌタ場を見て消滅してしまいます。
ここは素直に植林地内のジグザグ道を下降して高度を落とすしかありません。
ジグザグ道はよく踏まれていて、藪も無く、足への負担もありません。沢筋の底に降り立つと、水源協定林の看板があり現地名は「字(あざ)婦谷(ふや)」とあります。
御霊に下る本来の地形図破線道はp557(イナリヤマ)の山腹に付けられているので、
今回下降した植林ジグザグ道とは別物なのです。
|

地形図破線道通りの道が分岐する
|

正規の地形図破線ルート入口が確認できた
|
沢右岸の轍の残るしっかりとした林道を御霊集落へ向けて進んでいくと、
地形図通りの破線道分岐があり、御霊バス停へ向かう道と、御霊神社へ向う道とに分れます。
御霊神社へ向うと思しき道に踏み込んでみると、
すぐに「至生藤山→」の標識が転がっているのが見られ、テープのマーキングも確認できます。
どうやらここから尾根筋に取り付くのが、地形図に記載された正規破線ルートのようです。
きっとここを登れば、前回確認したp557東方の三叉路に出ることでしょう。 |

集落上の六叉路
|

御堂がある これが「堂坂」の由来なのか?
|
発見した正規ルートの実踏調査は後日行うことにして、林道を直進し御霊バス停へと向います。
里に飛び出たところは六叉路となっていて、逆方向からだと、どの道を選択するか悩むところです。
ここは御霊バス停から登ってきた場合、木製階段道の右隣りの林道を選択するのが正解です。
『ふじ乃町の地名』によると、この階段上の台地を「コンピラ」と呼ぶようですから
「金毘羅」様が祀られているのかもしれません。六叉路を直進して進むと右手に御堂があり、
その傍らには廿三夜塔や馬頭観音などの石造物が寄り集められているのを見ます。
この御堂前からバス停に下る坂が「堂坂」なのでしょうか?
『ふじ乃町の地名』には「ドウザカ」の他に、「ドウヤシキ」の地名も見られます。
かつて上野原から武州御嶽山を目指した御嶽講の信者たちは、大越路峠を越えてきた後、
この堂坂より生藤山南面尾根に乗っかり、三国峠を越えて檜原村に出たといいます。
|

N家の立派な墓前を下ると県道の御霊バス停に出る
|
堂坂を下ると御霊バス停へと出ます。
車を置いた場所まではわずかですから、県道をとぼとぼ歩いて下岩へと向います。
村の商店の前では祭り半纏姿の村人が集まり、冷たい飲み物をゴクリゴクリとしています。
こちらは汗まみれ、蜘蛛の巣まみれの薄汚れた姿で炎天下のアスファルトをただ黙々と歩きます。
道端の干乾びた犬のフンを見ると、なんだか自分の姿を見てるようにも思えてきます。低山歩きに不向きな暑い夏もあと少しの辛抱、山道を隠す夏草の勢力も衰えを見せ始めます。
空には赤とんぼが飛び、電線には旅立ちを控えたツバメが翼を休めています。
夏野菜の収獲を終えた畑は、ちょっとくたびれた様子。
御霊地区では鎌倉権五郎景政を祀っています。昔、権五郎がトウモロコシの矢で眼を射られたので
トウモロコシは作らないといいますが、畑にはしっかりとトウモロコシが植えられています。
岩神社の祭典は夕刻まで続くのでしょうか、耳を澄ましてみましたが祭囃子は聞こえてはきません。
少し風が出てきたのか竿に巻きついた岩神社祭典の幟を横目に帰路につきました。
|
(峠行2009.08.15)
|
● 「スッキリしない峠」(篠窪峠・三国峠・佐野川峠)のレポートを見る。
● 「続・スッキリしない峠」(佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。
● 「続続続・スッキリしない峠」(後山峠?・大越路峠・モミソ峠?・新屋峠?など)のレポートを見る。【*1】 『神奈川県史民俗調査報告書15』 「県北部の民俗(T)津久井郡藤野町」 神奈川県文化財協会 1987年
【*2】 明治18年、上野原における甲斐絹1疋当たりの価格は甲斐絹上3円50銭、甲斐絹中3円10銭。
当時の白米価格は60kg1円80銭、1kg3銭。
【参考文献】
『あしなか第245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会
『ふじ乃町の民俗文化財T』 藤野町教育委員会 昭和51年
『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年
『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『藤野町史・通史編』 藤野町編集・発行 平成7年
『藤野町史・資料編下・近現代 民俗』 藤野町編集・発行 平成6年
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
|