★ 続続続・スッキリしない峠
御霊から富士塚へ |
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| 前回、生藤山南面尾根の富士塚から御霊集落へ下降した時に、 地形図に記載されている破線道を辿ることができなかったのが心残りで、 今回は逆に、御霊集落から富士塚へと、破線道とほぼ同一のコースを登ってみることにしました。 御霊から登って下岩へと下るだけなので山歩きそのものは1時間半程度で終わってしまいます。 |
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| 御霊神社は夏祭りのようで、県道に面した広場には華やかな櫓が組まれています。 村人の姿はありませんが、このような祭りが挙行されていることに地域のまとまりを感じます。 自宅からここまで原チャリでやって来ましたが、走行中は風を受けて心地好いものの、 いざヘルメットを脱いで歩き始めると、アスファルトの路面から受ける強い陽射しの照り返しが いまだ衰えない夏の勢力を感じさせます。 その暑さから逃げるようにして山の中へと足早に向かいます。 御霊バス停背後から御堂前の坂を登り、六叉路を通過して轍の残る林道を進みます。 |
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| 前回確認しておいた地形図破線道の取り付き点には「至生藤山⇒」の標識が転がっていて、 黄色のビニールテープのマーキングも見られます。 ハイカーの発信する各種情報や登山ガイドブック等では、 この道について紹介される機会は滅多に無いようですが、古くて傷んではいるものの登山標識が 置かれているのですから、過去の一時期においてハイカーの利用が見られたに違いありません。 ハイカーのみならず、上野原近郊から武州御嶽山を目指した御嶽講の信者たちは、 |
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| 倒木帯を通過するところが本コース唯一の悪場ですが、倒木を避けるようにして 左手山側に巻き道が踏まれているので、それに従えば苦労なく通過することができます。 倒木帯を通過した後、第一の炭焼き窯の石積み跡を見ると、道は谷間に展開する植林緩斜面の |
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| 本コース唯一の登りらしい登り坂である「イナリザカ」も長くは続きません。 少しの呼吸の乱れで、p557(イナリヤマ)東方の三叉路に飛び出します。 現行版地形図に見られる破線道の本来の行き着くところは富士塚であるのですが、 |
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| 御霊から登ってきた確かな道に「←御霊」の標識を取り付け、 以前歩いてその安全性が確認できている上岩へ向かう道にも「上岩→」の標識を取り付けます。 「この手の目障りな標識がルート探索の楽しみを奪っているんだ!」との、標識設置反対派の お叱りも聞こえてきそうですが、構わずに陳腐な標識を立木に括りつけます。 |
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| p557東肩の三叉路から「アカデンロー」なるほぼ平坦な植林地を抜けると、 「下岩30分」の標識がある富士塚分岐となります。 この「アカデンロー」とは「赤松の生えている平」、あるいは「赤土の平」という意味でしょうか? 現況は手入れされた植林地となっています。 今回は富士塚の小さなモッコリには立ち寄らず、 |
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| 「下岩25分」分岐の立木に、「御霊→」の標識を取り付けます。 前回はこの分岐で折れて、「字、婦谷」を経由して御霊へと下降したのです。 『ふじ乃町の地名』によると、ここには「ウマオトシ」(馬落とし?)という地名が付されています。 馬が転げ落ちるような急坂、あるいは落馬するような険しい坂という意味でしょうか? 近くには「コマツナギ」(駒繋ぎ?)という地名も見られます。 昔は木材や薪炭の搬出に馬が利用され、この道を行き来していたのかもしれません。 「下岩25分」分岐から少し南下した小ピークには「オウマツ」という地名が見られます。 |
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| 「オウマツ」からやや急な植林斜面をジグザグで下りきると、尾根を横断する道と交差します。 うすい踏み跡をこのまま直進すれば倉子峠へと向かい、 右折する明瞭な道は「サクラクボ」と呼ばれる地を経て「佐野川バス停10分」分岐へ向かいます。 左折する踏み跡は「字、福尾根」を経て、富士塚東面の谷奥へとのびているようです。 ここは右折し、佐野川、下岩方向へ向かうことにします。 |
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| 自然林内のジグザグを下り、山腹に付けられた明瞭な道を進むと、 「←佐野川バス停10分」の標識のある分岐で、地面には「下岩→」という腕木も落ちています。 正面の藪を掻き分ければ「テンノウサマ」(天王様?)と呼ばれる小ピークに立つことができそうです。 「←佐野川バス停10分」の標識に従って左折すると、 わずか1時間半ばかりの山歩きでしたが、 里道に出ると、8月29日に挙行される石楯尾神社祭典の告知ポスターの掲示があり、 課題山行は終了したので、このまま原チャリに乗り、上野原、藤野町の峠をフラフラと巡りますが、 |
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(山行:2009.08.24) |
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| ● 「スッキリしない峠」(篠窪峠・三国峠・佐野川峠)のレポートを見る。 ● 「続・スッキリしない峠」(佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。 ● 「続続・スッキリしない峠」(倉子峠・佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。 【参考文献】 『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年 |
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モミソ峠?・新屋峠?・天神峠?・大越路峠・後山峠? |
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| 上野原市と藤野町の境界部周辺には意外に多くの峠があり、 あまり知られていないマイナーな峠もあります。 山間の集落と集落とを結ぶ小さな峠、里人しか利用のないささやかな峠が隠れているようです。 昔の山岳雑誌には次のような記述があります。 「武甲相三國の境界線集合点である三國山から派出される支脈は、 上記文中に「井戸峠」は「モミソ峠」と同一とあります。 「岩越峠」は倉子峠のことではないかと推測されます。 「この道は大した上りではないが、岩峠という。 「後山峠」は大越路峠南方の山越え道と推測されます。 「能岳峠」は以前訪れたこともあり、能岳南方の石仏の安置された分岐だと思われます。 「字西原又は山風呂より先祖、丸畑部落に通ずる峠で、向風山の東に位して、 「大越路峠」は上野原中学校から先祖、奈須部へ越える山越えの道で地形図にも記載があります。 |
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| まずは「モミソ峠」の痕跡を求めて上野原カントリークラブの入口付近を探しますがわかりません。 ゴルフ場の造成と周辺整備で、地形そのものが変化しているのだから発見は無理なのでしょう。 とりあえず県道の最高地点は上の写真あたりとなります。 左手はゴルフコースで、その敷地内に樅の幼木らしきものが確認できます。 右手の擁壁の上には道祖神か、道路開削記念碑らしきものが草叢に隠れてありますが、 高い位置にあって石に刻まれた文字をはっきり読み取ることはできません。 モミソ峠にあったという大樅については、 「根回り十米、地上約三十糎のところより二大支幹に分れ、更に二米位にて分岐す、 町誌によると、峠の大樅はゴルフ場開発とは関係なく、自然災害によって伐採処分されたようです。 |
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| 「新屋峠」の名は旧『上野原町誌』の中に登場しています。 具体的にどこを指しているのかよく分かりませんが、井戸バス停付近ではないかと推測しました。 「川尻に基点を起こし境川を登り佐野川境を経て(通称)新屋峠に至る。・・・・」 井戸バス停付近の雰囲気は峠らしくもあるし、石造物が多く見られます。 「天神峠」の名は下記の「山に祀られた天神」(杉崎満寿雄著)という文章中に登場しています。 「藤野町との境にある井戸集落から黒野田集落に越える小さな峠に石の天神祠がある。 黒田集落と井戸集落との間に天神峠と呼ばれる場所があったことが記述から窺がわれますが、 |
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| 「大越路峠」は甲州裏街道(八王子道)の峠で、 「八王子追分−恩方−和田峠−橋詰−倉子峠−下岩−大越路峠−上野原」の途上に位置しています。 峠道は完全舗装され、峠自体もコンクリート擁壁の切り通し状であり、 古道の趣きもなければ峠の情緒も感じられません。 峠頂上には金網に囲まれた奈須部配水池という水道施設があるだけで、 |
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| 大越路峠の西側の峠道の起点である小沢地区には、「左山道 右八王子」と刻まれた 道標を兼ねた庚申塔が置かれています。これが「八王子道」であったことを示す証左ともなっています。 『上野原町誌』によると、この碑の建てられた年代は不明だとありますが、 庚申塔に刻まれた「左山道」は能岳へ向かう道で、 駐車場には「ようこそ五感の里 八重山へ」と書かれた看板が建ち、 |
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| 上野原中学校の南、p391秋葉山からp322根本山にかけて続く低い丘陵部は、 「上野原遊歩道」として「八重山ハイキングコース」と同じく上野原市によって整備されています。 (配布されている八重山ハイキングマップに上野原遊歩道のコースも紹介されている) 日大明誠高校裏手のグリーンヒルトンネルが貫通する丘陵の鞍部辺りが、 |
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| グリーンヒルトンネル北側出口の後山川河畔には木製の小社が祀られていて、 中を覗くと「奉納石尊権現」と書かれた御札が納められています。その傍には大正期の馬頭観音もあります。 石尊権現とは雨乞いの神様でしょうか? 上野原の町は桂川の河岸段丘上にあり、農業用水等の水を得るには苦労したといいますから、 天水に期待することがしばしばあったのかもしれません。 グリーンヒルトンネル北側には、里山を崩して造られた上野原工業団地が広がっています。 モミソ峠、新屋峠、天神峠、後山峠、いずれも場所を特定できずスッキリしない峠です。 |
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| 【参考文献】 『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年 |
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名倉峠・天神峠(日向峠) |
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| パワーはないけれど、機動力はある原チャリで藤野町南部の峠へ向かいます。 これから訪れる名倉峠、天神峠(日向峠)は、 桂川南岸の牧野中央部から上野原の一、六市へと向かう場合に越えねばならなかった峠です。 『ふじ乃町の古道』には、牧野中央部の人の通った道(中央甲斐絹道)について 「伏馬田の人は(青野原から来た人も)山越えで川上に出て、大久保に上り、 |
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| 上野原名物の酒饅頭を買い食いもせず、 手打ちラーメン食べたさに来々軒の暖簾をくぐることもせず、上野原の町を去ります。 諏訪関跡前の諏訪坂を下り、桂川(相模川)を境川橋で渡って名倉の集落に入ることにします。 諏訪の関所跡前には観光用の「甲州街道史跡案内図」があり、最前走り抜けた大越路峠辺りに、 諏訪と名倉を結ぶ境川橋は大正12年に架橋され、それ以前は渡し舟で対岸へ渡っていたようです。 「ふだんは綱を張ってあって渡し守の人がいて漕いで渡してくれたが、 山を貫くトンネルも、行く手を阻む河川を越える安全な橋もない時代、峠を越え、川を渡り、 境川橋を渡ると石楯尾神社祭典の告知ポスターがあり、立ち寄ってみたくなります。 空を突く境内の二本杉は、その寄り添う姿からでしょうか「夫婦杉」とも呼ばれているようで、 |
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| 石楯尾神社を後に、名倉の集落内を南下して明るい丘陵を パワーのない原チャリで上って行くと、切り通し状を呈した名倉峠となります。 峠名をしるした標識はなく、錆びついて判読不能なハイキング標識がポツンとあるだけです。 峠道は名倉小学校へ通う児童の通学路になっていて、 不審者が出没するのか、「愛のパトロール実施中」と書かれた警戒看板が立てられています。 「愛のパトロール」がどんなパトロールなのか気になるところです。 峠の東側にはかつて一本松と呼ばれる松が生えていて、 |
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| 峠から向原へと下ると葛原神社で、 こちらも夏祭りのようで鳥居の前には幟がはためき、提灯や灯篭で飾られれています。 岩神社、御霊神社、上岩石楯尾神社、名倉石楯尾神社、葛原神社と周辺各地の神社の祭礼日の 日程が上手い具合にずれているのはテキヤさんに対する配慮なのでしょうか? 小さな村の夏祭りや縁日の風景を見ていると、どこからともなく寅さんが現われるような気がします。 緩やかな傾斜地に開かれた葛原集落内の道を登り詰めた所が天神峠で、 「桂川に近い葛原から奥牧野、秋山村へ行く道の峠が天神峠と呼ばれる。 「明治7年に郷内の雨降神社、八幡神社、日月両宮、天神社、山神社、山口神社、金剛山社の 「天神は日本固有の信仰で御霊信仰を媒介として菅原道真に関係づけられるようになった。 峠から日向集落へと下る峠道はけっこうな急勾配で、秋山川の谷へと落ちて行く感じです。 「日向の集落の少し上の道を左に進むと山梨県島田村の田野入に行く道があった。 雨乞いの行事に向かうために葛原神社の御神体が天神峠を神輿で越えることがあったのでしょう。 |
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| 【*1】 『第2集ふじの町の文化財・甲州街道とその周辺』 藤野町教育委員会 昭和52年 【*2】 『ふじの町の文化財 広報ふじの』 藤野町教育委員会 昭和57年 【参考文献】 『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年 |
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大川原天神峠・綱子天神峠 |
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| 奥牧野から舟久保を経由して綱子川に沿った道を綱子集落へ向けて南下します。 狭隘な道は原チャリ走行では問題ありませんが、自動車では擦れ違いに難渋しそうです。 山間の綱子集落は「ホタル・あじさいの里」として売り出しているようですが、交通の便が悪く、 「綱子は大川原、長又、伏馬田、菅井などが経済依存の上野原町への通路として大事な地区で、 綱子は菅井、小舟、長又、大川原からの道が落ち合う所で、 |
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| 綱子峠(造道峠)の分岐を見送り、そのまま舗装されている幅の狭い綱子大川原林道を上り詰めた所が、 綱子と道志谷の大川原とを結ぶ大川原天神峠となります。 『ふじ乃町の地名』にもこの鞍部に「テンジンサマ」の地名が付されています。 かつて峠には、綱子と道志谷の大川原、長又の三集落で祭る天神社があったので天神峠と呼ばれ、 ここより東方の綱子と菅井を結ぶ天神峠と区別するために、一般には大川原天神峠と呼ばれています。 天神社はすでに、大川原側へ降りてしまい峠にはありません。 「天神祠は峠から大川原側の峠道の山中に移った。 |
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| 現在の峠は切り通し状を呈し、完全舗装された綱子大川原林道が越えてはいるものの、 交通は滅多になく、落ち着いた雰囲気を保っていて悪くはありません。 峠には破壊されたのか使用不能の仮設トイレ一基と東海自然歩道の大きな案内看板があり、 「青根2.7km」、「菅井2.3km」と標示された登山標識が立っています。 西方の尾根には「←巌道峠、平野峠」の標識があります。 旧版の地形図を見ると、綱子から峠への旧道は今走ってきたp486(マルヅカ・丸塚?)を西側から巻く 大仰な東海自然歩道案内板の脇には2009年5月の日付のある 「ヤマビルを放置しないで、備え付けの塩水入りペットボトルに入れて下さい・・・・ 丹沢東部地域ではヒルの被害は深刻ですが、 |
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| 大川原天神峠から完全舗装されている道を道志谷の大川原まで下って行く途中、 目立たぬ崖の上に頭部を欠損した馬頭観音らしき石造物を見ます。 古くはこの峠道を人馬が行き来していたことを思うと感慨深いものがあります。 「大川原の天神峠からそのまま下ると大川原地区に出る。 林道の路面に散乱しているドングリを原チャリのタイヤでボツボツと踏み潰して進みます。 「青根−(道志川)−大川原−(大川原天神峠)−綱子−舟久保−(秋山川)−奥牧野− 青根方面から上野原を目指す場合、最初の関門が道志川を渡ることで、 田野入の天神峠(駒鞍峠)は明治43年に秋山村村長原田善左衛門氏の尽力によりトンネルが開鑿され、 大川原と青根を結ぶ道志川に架かる大川原橋は、現在では自動車の通行も可能ですが、 「山梨県の道志方面から来た人や、青根の人は道志川を越えて大川原に渡った。 上野原の市日に町に出て、現金収入や生活物資を得ることが奥山の集落で暮らすには 大川原橋の袂にある架橋記念碑には、 |
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| 下り着いた大川原集落から再び大川原天神峠へ上り返し、綱子集落から菅井集落を目指します。 綱子と菅井は昭和48年に綱子隧道が開鑿され、綱子林道によって結ばれています。 綱子側の登り口では二体の石造物が小舎に安置されているのを見ます。 トンネル手前には尾根を斜上する送電線巡視路があり、これがもしかしたら旧峠道なのかもしれません。 綱子隧道を抜けて左折し、天神隧道、菅井隧道をくぐり抜け、東海自然歩道の標識に従い |
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| 『かながわの峠』(植木知司著・かもめ文庫)によると、 p508の西方で、菅井集落からのびる破線道が尾根を越える場所を綱子天神峠としています。 峠は四辻になっていて、寛政二年の百番観音供養塔と文政三年の馬頭観音が置かれています。 供養塔背後のモッコリとした丘状地は「トリヨウボー」(トリヨウボウ・鳥坊主)と呼ばれる地名です。 供養塔には「寛政二年六月吉日 菅井、山崎太次左ェ門 同所、高崎三郎左ェ門 旧牧野村からはそれぞれの集落からの最短路が選ばれ大山詣でに向っていたようで、 @篠原道−牧馬−青野原−鳥屋−宮ヶ瀬−煤ヶ谷−大山 Bの菅井道は隣村秋山村を始め奥牧野、綱子等の人々や菅井組の辿った道である。 当地域の大山参りは、基本的には早立ち日帰りの質実剛健なものであったようですが、 「大山までの道程は旧牧野村から九里といわれ、「大山チョックリ、御嶽ガックリ」という言い伝えがある。 『新ハイキング』誌の中でも、小菅の古老が大山参りの様子を語っています。 「ここの者は伏馬田に出て鳥屋(津久井町)から煤ヶ谷(愛川町)を通って大山参りをした。 |
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| 東海自然歩道の登山標識には「青根4.0km」、「菅井0.8km」と標示され、 「←青根」の腕木には黒マジックの手書きで「←天神峠」との書き込みが見られます。 この書き込みは、この四辻が実は峠ではないことを暗に示しているのでしょうか?とても気になります。 ここは綱子天神峠ではないという意味か?それとも単に西方の大川原天神峠を指し示しているのか? |
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| 原チャリを四辻に置いて、暮れなずむ尾根道を舟山手前鞍部まで歩いてみることにします。 以前に一度、冬場に歩いたことのある尾根道ですが、夏場の緑に包まれた尾根道はまた印象が異なります。 尾根道からは佐久間東幹線の送電線巡視路が北側へと分派する場所が何ヶ所かありますが、 それぞれの巡視路の行く末までを探索する時間はないので舟山手前の鞍部を目指します。 尾根道は非常に歩きやすく、集落間の行き来に尾根道が利用されたことが窺がわれます。 |
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| 舟山手前の鞍部(ヌタノハラ)には、「青根3.3km」、「菅井1.7km」の登山標識が立っていますが、 ここにはマジックによる書き込みがありません。 とすると最前の「←天神峠」の書き込みは、単に大川原天神峠を指し示したものだったのでしょうか? ただし、厄介なことに『中央線の山を歩く』では、この舟山手前の鞍部を「天神峠」としているのです。 「車道が貫通している天神隧道の真上を通過したのちは、 舟山手前鞍部は峠の雰囲気がプンプンするのですが、 この綱子と長又を結ぶ道が越える鞍部が「天神峠」と呼ばれているのか、調査不足で不明ですが、 「旧道のうち菅井から尾根伝いに大川原天神に出る途中ヌタノハラで左に折れると、長又地区に下りる。 「・・・奴田ノ原と呼ばれる平地で、昔は農地であったそうです。 |
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舟山の東方鞍部に「天神峠」の名前が記載されている。 |
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| トンネル開鑿や林道開通以前の旧版地形図を見ると、 綱子と大川原を結ぶ「大川原天神峠」、綱子と長又を結ぶ「ヌタノハラ」、 綱子と菅井を結ぶ「綱子天神峠」、それぞれの尾根越えの道がしっかりと描かれています。 長又と菅井とを繋ぐ天神トンネルが貫通される以前は、トンネルが現在ある鞍部よりひとつ南の鞍部を 「菅井では昭和36年に、それまで道志谷の長又集落に通じていた旧道に替わって、 また、綱子と小舟を結ぶ尾根越しの道も峠であり、かつては天神が祀られていたようです。 「菅井から県道を少し北に行ったところに、小舟集落がある。 綱子から山梨県安寺沢へ越える綱子峠(造道峠)にも、かつては天神が祀られていたといいますから、 大川原天神峠の綱子側旧道、綱子と長又を結ぶヌタノハラ越えの道、長又と菅井を結ぶ菅井天神の道、 山間の集落を訪ねて感じることは、 |
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| 【*1】 田野入の天神トンネル開鑿については、以下の資料に詳しい。 『ランデブーvol.15』(2003年)「天神隧道の開削に生涯を捧げた人原田善左衛門」(葛西一夫著) 『山梨日日新聞』平成19年7月1日上野原特別版 【参考文献】 『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年 |
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