★ 続続続・スッキリしない峠

御霊から富士塚へ

前回、生藤山南面尾根の富士塚から御霊集落へ下降した時に、
地形図に記載されている破線道を辿ることができなかったのが心残りで、
今回は逆に、御霊集落から富士塚へと、破線道とほぼ同一のコースを登ってみることにしました。

御霊から登って下岩へと下るだけなので山歩きそのものは1時間半程度で終わってしまいます。
下山後は原チャリの機動力を駆使して上野原と藤野町に点在する峠をウロウロしてきました。


御霊神社はお祭りです


御霊バス停から山道へ

御霊神社は夏祭りのようで、県道に面した広場には華やかな櫓が組まれています。
村人の姿はありませんが、このような祭りが挙行されていることに地域のまとまりを感じます。
自宅からここまで原チャリでやって来ましたが、走行中は風を受けて心地好いものの、
いざヘルメットを脱いで歩き始めると、アスファルトの路面から受ける強い陽射しの照り返しが
いまだ衰えない夏の勢力を感じさせます。
その暑さから逃げるようにして山の中へと足早に向かいます。

御霊バス停背後から御堂前の坂を登り、六叉路を通過して轍の残る林道を進みます。
夏の終わりは蜘蛛の巣の最盛期でもあり、油断しているとベトっと顔面に粘度の高い
蜘蛛の巣がまつわりつき、不快指数が一気に高まります。
小枝を拾ってブンブンと振り回しながら前進しなければなりません。


前回確認しておいた破線道への取り付き点
「至生藤山→」の標識が転がっている


明瞭な道が尾根筋に付けられている

前回確認しておいた地形図破線道の取り付き点には「至生藤山⇒」の標識が転がっていて、
黄色のビニールテープのマーキングも見られます。
ハイカーの発信する各種情報や登山ガイドブック等では、
この道について紹介される機会は滅多に無いようですが、古くて傷んではいるものの登山標識が
置かれているのですから、過去の一時期においてハイカーの利用が見られたに違いありません。

ハイカーのみならず、上野原近郊から武州御嶽山を目指した御嶽講の信者たちは、
この道を登り、富士塚、庚申塔分岐、蚕山平を経て、甲武相の国境である三国峠を越えて、
連行峰、万六尾根を伝い檜原村に入っていったのです。
それなりに歴史のある道ですから、道の状態は良く踏まれていて見失うことはありません。


コース上唯一の悪場である倒木帯は
巻き越える踏み跡に従えば問題なく通過できる


炭焼き窯の跡らしき石積み前を2箇所通過する
一つ目は倒木帯通過後、二つ目は植林緩斜面の詰め

倒木帯を通過するところが本コース唯一の悪場ですが、倒木を避けるようにして
左手山側に巻き道が踏まれているので、それに従えば苦労なく通過することができます。

倒木帯を通過した後、第一の炭焼き窯の石積み跡を見ると、道は谷間に展開する植林緩斜面の
中を行くようになり、その詰めには第二の炭焼き窯の石積みが現われます。
炭焼き窯は現在では使用されることは無いらしく、石積みの間からは木が生えています。
第二の炭焼き窯前を通過すると、斜面に取り付くジグザグが始まります。
この辺りが『ふじ乃町の地名』にある「イナリザカ」(稲荷坂?)なのでしょう。


『ふじ乃町の地名』(藤野町教育委員会・昭和54年)
p557に「イナリヤマ」、その山腹に「イナリザカ」の地名が見られる。
「フジズカ(富士塚)」の南尾根の西面には「婦谷」、東面には「福尾根」の字名がある。


p557(イナリヤマ)東方の三叉路に乗り上げる

本コース唯一の登りらしい登り坂である「イナリザカ」も長くは続きません。
少しの呼吸の乱れで、p557(イナリヤマ)東方の三叉路に飛び出します。

現行版地形図に見られる破線道の本来の行き着くところは富士塚であるのですが、
実際には上岩への下降点でもあるこの三叉路に接続されています。
富士塚へと直接向かう道も、もしかしたら夏草の草間に隠れていたのかもしれませんが、
そのような道の存在に気づくことはありませんでした。
さきほどの植林緩斜面帯を通り抜けていれば、富士塚へ向かう道があったのかもしれません。


p557東の三叉路に「←御霊」標識を取り付ける


p557東の三叉路に「上岩→」標識を取り付ける

御霊から登ってきた確かな道に「←御霊」の標識を取り付け、
以前歩いてその安全性が確認できている上岩へ向かう道にも「上岩→」の標識を取り付けます。
「この手の目障りな標識がルート探索の楽しみを奪っているんだ!」との、標識設置反対派の
お叱りも聞こえてきそうですが、構わずに陳腐な標識を立木に括りつけます。


「下岩30分」の標識がある富士塚分岐


「下岩25分」の標識がある分岐

p557東肩の三叉路から「アカデンロー」なるほぼ平坦な植林地を抜けると、
「下岩30分」の標識がある富士塚分岐となります。
この「アカデンロー」とは「赤松の生えている平」、あるいは「赤土の平」という意味でしょうか?
現況は手入れされた植林地となっています。

今回は富士塚の小さなモッコリには立ち寄らず、
そのまま「下岩25分」の標識がある御霊分岐まで歩みを進めます。
澱んだ水の満たされた防火用水ドラム缶の前で、ウインナーサンドを取り出してパクつきます。

たしか数年前にも、この場所でアンパンを食べながら西麓に俯瞰されるゴルフ場を
恨めしく眺めたことを思い出します。


「下岩25分」分岐に「御霊→」標識を付ける


「オウマツ」と呼ばれる小ピーク

「下岩25分」分岐の立木に、「御霊→」の標識を取り付けます。
前回はこの分岐で折れて、「字、婦谷」を経由して御霊へと下降したのです。
『ふじ乃町の地名』によると、ここには「ウマオトシ」(馬落とし?)という地名が付されています。
馬が転げ落ちるような急坂、あるいは落馬するような険しい坂という意味でしょうか?
近くには「コマツナギ」(駒繋ぎ?)という地名も見られます。

昔は木材や薪炭の搬出に馬が利用され、この道を行き来していたのかもしれません。

「下岩25分」分岐から少し南下した小ピークには「オウマツ」という地名が見られます。
「オウマツ」とは「王松」でしょうか?昔は特徴ある松の巨木でも生えていたのかもしれません。
あれこれと地名の由来などを勝手に想像しながら歩くのも楽しいものです。
しかし、きっとその大半は見当違いなことを想像しているに過ぎないことでしょう。


「サクラクボ」へ下る分岐

「オウマツ」からやや急な植林斜面をジグザグで下りきると、尾根を横断する道と交差します。
うすい踏み跡をこのまま直進すれば倉子峠へと向かい、
右折する明瞭な道は「サクラクボ」と呼ばれる地を経て「佐野川バス停10分」分岐へ向かいます。
左折する踏み跡は「字、福尾根」を経て、富士塚東面の谷奥へとのびているようです。
ここは右折し、佐野川、下岩方向へ向かうことにします。


「←佐野川バス停10分」・「下岩→」標識のある分岐


石楯尾神社では祭典に向けて舞台が完成していた

自然林内のジグザグを下り、山腹に付けられた明瞭な道を進むと、
「←佐野川バス停10分」の標識のある分岐で、地面には「下岩→」という腕木も落ちています。
正面の藪を掻き分ければ「テンノウサマ」(天王様?)と呼ばれる小ピークに立つことができそうです。

「←佐野川バス停10分」の標識に従って左折すると、
道は夏草のジャングルと化し、蜘蛛の巣がいたるところに仕掛けられていて閉口してしまいます。
とうとう途中で嫌になって、墓地のある分岐から民家の裏手へと逃げ出してしまう始末です。
こそっと民家の庭先を通らせてもらって、舗装路に出れば短時間の山歩きは終了です。

わずか1時間半ばかりの山歩きでしたが、
残された課題である御霊と富士塚を結ぶ道を歩くことができたので充実感はあります。
これでひとまず生藤山南面におけるスッキリしなかった個人的課題は片付きましたが、
佐野川峠、登里峠の精確な位置については依然としてスッキリとしないままです。
まぁしかし、それもいつか解決することでしょう。

里道に出ると、8月29日に挙行される石楯尾神社祭典の告知ポスターの掲示があり、
「昼の部:神楽、子供神輿 夜の部:踊り、太鼓、歌謡ショー」などと書かれていて興味を覚えます。
二名の演歌歌手のポスターも貼られ、この方たちが歌謡ショーに登場されるようです。
原チャリに跨り、祭典前の石楯尾神社に行ってみると、
例祭を知らせる幟が門前にはためき、山門は舞台へと変身していました。
この舞台で神楽が舞われ、踊りや歌謡ショーが催され、神様に奉納されるのでしょう。
なぜかワクワクする心境です。

課題山行は終了したので、このまま原チャリに乗り、上野原、藤野町の峠をフラフラと巡りますが、
どうもスッキリしないことは次から次へと湧いてくるようです。
モミソ峠(井戸峠・樅峠)、新屋峠、天神峠、後山峠、綱子天神峠・・・・などなど、
いささかスッキリしない峠があるのです。

(山行:2009.08.24)

● 「スッキリしない峠」(篠窪峠・三国峠・佐野川峠)のレポートを見る。
● 「
続・スッキリしない峠」(佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。
● 「
続続・スッキリしない峠」(倉子峠・佐野川峠・登里峠)のレポートを見る。

【参考文献】

『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『静かなる尾根歩き』 「24生藤山南面の尾根」 松浦隆康著 新ハイキング社

☆★  ☆★

モミソ峠?・新屋峠?・天神峠?・大越路峠・後山峠?


明治21年測図明治43年発行 「上埜原」五万図 大日本帝國陸地測量部

上野原市と藤野町の境界部周辺には意外に多くの峠があり、
あまり知られていないマイナーな峠もあります。
山間の集落と集落とを結ぶ小さな峠、里人しか利用のないささやかな峠が隠れているようです。
昔の山岳雑誌には次のような記述があります。

  「武甲相三國の境界線集合点である三國山から派出される支脈は、
  相甲国境線を嶺上に持って南西に向かって走るが、
  それもしばしで井戸峠−上岩より井戸へ越える−で国境線と別れて岩越峠に至る。
  井戸峠は昭和五年二月廿六日に文部省から天然記念物に指定された大樅のある処で、
  井戸峠の別称モミソ峠の名も其処から出たのである。
  山波は此処よりやや隆起して△五四二mの能岳となる。
  一名を向風山と呼ばれて居る。西麓向風の称呼である。
  能岳から脈は二岐して、一は境川に沿ふて後山峠に至り、境・後山両川の合流点に終わるもの、
  一は上野原町の背後に丘状をなして終わるものである。
  前者は能岳峠大越路峠をその嶺中に通じて居る。
  後者は虎丸山(四八〇m)、大小路山(四四〇m)、保福寺山(四四〇m)、根本山などを
  並列させて居るが、一般的に此の連丘は後山と称して個々の山名はあまり重要ではない。」
                      (『山小屋創刊号』 「三頭山より三國山まで」 岩科小一郎著

上記文中に「井戸峠」は「モミソ峠」と同一とあります。
モミソ峠は『かながわの峠』(植木知司著・かもめ文庫)の中でも紹介されていますが、
上野原カントリークラブの出現によって、その峠道は消滅してしまったようです。

「岩越峠」は倉子峠のことではないかと推測されます。
田島勝太郎氏の倉子峠の描写と思われる文章の中に「岩峠」という名が登場するので、
「岩越峠=岩峠=倉子峠」であると考えてみました。
ただし、倉子峠の頂上から上野原の町並が見えたという記憶はないので違うかもしれません。

  「この道は大した上りではないが、岩峠という。
  蓋し、上岩、下岩という部落の附近を通るからである。
  ・・・峠の頂上。下瞰すれば、上野原の細長い町が、瘠畑の中に続いている。」
                     (『山日記』 「小仏・景信及び陣場」 田島勝太郎著 昭和26年)

「後山峠」は大越路峠南方の山越え道と推測されます。
後山川と奈須部集落とを結ぶ地形図に記載された道のことではないでしょうか?
あるいは、日大明誠高校背後の低い丘陵を越える道とも考えられますが、
上記文中には「能岳峠、大越路峠をその嶺中に通じて居る」とあることから、
これらと同じ支脈上に位置することになります。
それとも後山峠とは、特定の場所を示した限定的な地名ではなく、
後山丘陵を越える山越え道の総称とも考えられます。

「能岳峠」は以前訪れたこともあり、能岳南方の石仏の安置された分岐だと思われます。
丸畑側の峠道はゴルフ場に飲み込まれて完全に消滅しました。
また「能岳峠」については、旧『上野原町誌』の中でも解説されています。
(能岳峠周辺は上野原市によって「八重山ハイキングコース」として整備され、
ガイドマップも発行されている。後日、後山丘陵(秋葉山〜根本山)の散策をかねて再訪しました)

  「字西原又は山風呂より先祖、丸畑部落に通ずる峠で、向風山の東に位して、
  其峯通りには並木の老松が茂り風致にも富んでいる。」
                 (『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 上野原町役場 昭和30年

「大越路峠」は上野原中学校から先祖、奈須部へ越える山越えの道で地形図にも記載があります。
時折、地元の車や営業車が走り抜けていますが交通量は多くありません。


<推定> モミソ峠(樅峠・井戸峠)


石積みの上にある石造物(詳細不明)

まずは「モミソ峠」の痕跡を求めて上野原カントリークラブの入口付近を探しますがわかりません。
ゴルフ場の造成と周辺整備で、地形そのものが変化しているのだから発見は無理なのでしょう。
とりあえず県道の最高地点は上の写真あたりとなります。
左手はゴルフコースで、その敷地内に樅の幼木らしきものが確認できます。
右手の擁壁の上には道祖神か、道路開削記念碑らしきものが草叢に隠れてありますが、
高い位置にあって石に刻まれた文字をはっきり読み取ることはできません。

モミソ峠にあったという大樅については、
『上野原町誌』の中の「樅峠の大モミ」という項目に、その詳細が記されています。

  「根回り十米、地上約三十糎のところより二大支幹に分れ、更に二米位にて分岐す、
  高さ四十五位余、樹勢旺んで、樅の巨樹として有数のものである。
  昭和五年二月二十八日県天然記念物指定。
  此の記念樹は根元が三本であったが、根元の山神を祀った祠が何時とはなしに根に抱擁され、
  自然と二本になってしまったと言い伝えられている。
  昭和十三年八月三十一日から九月一日朝にかけての大暴風の際被害あり、
  地上より約五間程上った中間を折損したので所有者に処分せしめた。」
                  (『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 上野原町役場 昭和30年)

町誌によると、峠の大樅はゴルフ場開発とは関係なく、自然災害によって伐採処分されたようです。
『郡内地方における歴史・民俗と自然環境の関連調査』(山梨県)という資料の中でも、
上野原市と藤野町を結ぶ峠として、「樅峠」という名前で登場しています。
つまり、「モミソ峠=井戸峠=樅峠」ということになるようです。
残念ながらモミソ峠の精確な位置は判然とせず、どうもスッキリしません。


<推定> 新屋峠


数多くの石造物が安置されている

「新屋峠」の名は旧『上野原町誌』の中に登場しています。
具体的にどこを指しているのかよく分かりませんが、井戸バス停付近ではないかと推測しました。

  「川尻に基点を起こし境川を登り佐野川境を経て(通称)新屋峠に至る。・・・・」
                (『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 上野原町役場 昭和30年

井戸バス停付近の雰囲気は峠らしくもあるし、石造物が多く見られます。
また、バス停付近の民家に「とうげ」という屋号があるようです。
ここでないとすれば、ゴルフ場に埋没し、すでに消滅してしまっている可能性もあります。
ゴルフ場開発以前は、丸畑集落と黒田集落とを結ぶ丘陵越えの道があり、古い地形図を見ると、
それは地形的には峠らしくもあります。
新屋峠はどこなのか、これまたスッキリとしません。

「天神峠」の名は下記の「山に祀られた天神」(杉崎満寿雄著)という文章中に登場しています。

  「藤野町との境にある井戸集落から黒野田集落に越える小さな峠に石の天神祠がある。
  かつて集落間の往来に歩かれた峠で、地元ではここを天神とか天神峠と呼んでいる。
  祠は井戸の隣りにある新屋地区の石井家が持ち山に祀ったもので、
  祠に道真像と丸石が納めてある。」  (注:文中の「黒野田」は「黒田」のことと思われる)
              (『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会

黒田集落と井戸集落との間に天神峠と呼ばれる場所があったことが記述から窺がわれますが、
その詳細な場所については判然としません。
井戸集落を調査した『井戸の民俗』(都留文科大学民俗学研究会・1979年)という資料によると、
井戸と黒田を結ぶ旧道上に「天神さん」が祀られているとあります。
現在の両地区を結ぶアスファルト道とは別に、その上部山腹には旧道が残されているようで、
井戸の長泉寺と黒田の観昌禅寺跡をつないでいるようです。
その旧道の井戸地内分に「天神さん」があり、そこが天神峠ではないかと推測されます。
残念ながら今回は探索を見送り、スッキリとはしていません。


大越路峠

「大越路峠」は甲州裏街道(八王子道)の峠で、
「八王子追分−恩方−和田峠−橋詰−倉子峠−下岩−大越路峠−上野原」の途上に位置しています。
峠道は完全舗装され、峠自体もコンクリート擁壁の切り通し状であり、
古道の趣きもなければ峠の情緒も感じられません。

峠頂上には金網に囲まれた奈須部配水池という水道施設があるだけで、
峠の標識も、由緒ある古道(八王子道)が越えていたことを示す案内看板もありません。
小沢側の麓には上野原中学校があり、奈須部側の中腹には介護老人保健施設が建っています。


「左 山道 右 八王子」と刻まれた小沢の庚申塔


能岳入山口は「八重山ハイキングコース」として
整備され、公衆トイレと駐車場が設置される

大越路峠の西側の峠道の起点である小沢地区には、「左山道 右八王子」と刻まれた
道標を兼ねた庚申塔が置かれています。これが「八王子道」であったことを示す証左ともなっています。

『上野原町誌』によると、この碑の建てられた年代は不明だとありますが、
塔形からして江戸後期(文化・文政期?)に造立されたものであるだろうとしています。
「右八王子」に従う大越路越えの道は中央線開通前後まで盛んに往来がみられ、
小沢、赤井戸、奈須部では毎日人馬の列が続いたといいます。
『上野原町誌』によると、「案下上野原間運賃 米一駄四十銭、石油七十銭、酒二樽八十九銭で
毎日四、五十頭の駄馬の往来があった」(杉本寛一氏談)とのこと。

甲州街道本道よりも裏街道である八王子道の利用が多かったために、
関野宿、吉野宿がさびれてしまい訴訟沙汰になったともいいます。

庚申塔に刻まれた「左山道」は能岳へ向かう道で、
現在は「八重山ハイキングコース」として上野原市によって整備されています。
上野原中学校の北側に位置している入山口は、近年整備が進み、
登山者用の駐車場や公衆トイレが完備されるに至りました。
これら施設は上野原中学校の生徒さん達のボランティア活動で清掃等がなされているようです。
この付近一帯の里山は古来、上野原町民のための用材、薪炭、秣草、緑肥の供給地帯であり、
また重要な水源地となっていましたが、現在は上野原小学校の学校林があり、
小学生たちの自然学習の場として活かされているようです。

駐車場には「ようこそ五感の里 八重山へ」と書かれた看板が建ち、
裏面には「八重山五感の森ハイキングコース」のコース案内があります。
上野原市では八重山のハイキングマップを公共施設等で配布しているので、
能岳登頂を目的とする場合は、事前に入手するのがよいでしょう。


秋葉山と根本山の鞍部
グリーンヒルトンネルの上


「根本山」「市立病院」「上野原中学校・八重山」「工業団地」
の標識が建つ十字路を形成している

上野原中学校の南、p391秋葉山からp322根本山にかけて続く低い丘陵部は、
「上野原遊歩道」として「八重山ハイキングコース」と同じく上野原市によって整備されています。
(配布されている八重山ハイキングマップに上野原遊歩道のコースも紹介されている)

日大明誠高校裏手のグリーンヒルトンネルが貫通する丘陵の鞍部辺りが、
もしや「後山峠」ではないかとの思いもあり訪れてみましたが、手掛かりは見つかりませんでした。
グリーンヒルトンネルが出来る前の旧版地形図には丘陵を越える道が描かれていますが、
ここが「後山峠」であるとの確たる証拠はありません。
それでも峠としての雰囲気が漂い、丘陵を越える道の確認はできました。
鞍部の四辻には「根本山」、「市立病院」、「上野原中学校・八重山」、「工業団地」と、
それぞれを指し示す
手製標識が設置されているのを見ることができます。


グリーンヒルトンネル北側出口に祭られた
石尊権現と大正期の馬頭観音


<推定> 後山峠?
上野原工業団地と奈須部を結ぶ山越え道

グリーンヒルトンネル北側出口の後山川河畔には木製の小社が祀られていて、
中を覗くと「奉納石尊権現」と書かれた御札が納められています。その傍には大正期の馬頭観音もあります。
石尊権現とは雨乞いの神様でしょうか?
上野原の町は桂川の河岸段丘上にあり、農業用水等の水を得るには苦労したといいますから、
天水に期待することがしばしばあったのかもしれません。

グリーンヒルトンネル北側には、里山を崩して造られた上野原工業団地が広がっています。
上野原市民の雇用の場の確保と税収アップには、工業団地の誘致やゴルフ場の開発は
止むを得ないといったところでしょうか?
工業団地の背後から奈須部へと越える山道が探している「後山峠」なのでしょうか?
全線舗装された細道が越えてはいますが、峠の情趣は感じられません。

モミソ峠、新屋峠、天神峠、後山峠、いずれも場所を特定できずスッキリしない峠です。

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 上野原町役場 昭和30年
『山小屋創刊号』 「三頭山より三國山まで」 岩科小一郎著
『井戸の民俗』 民俗調査報告書第6号 都留文科大学民俗学研究会 1979年
『新ハイキング530号』 「初冬の能竹山南尾根を行く」 小倉修著 新ハイキング社
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会

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名倉峠・天神峠(日向峠)


昭和4年測図昭和29年資料修正 「与瀬」 2万5千図

パワーはないけれど、機動力はある原チャリで藤野町南部の峠へ向かいます。
これから訪れる名倉峠、天神峠(日向峠)は、
桂川南岸の牧野中央部から上野原の一、六市へと向かう場合に越えねばならなかった峠です。

『ふじ乃町の古道』には、牧野中央部の人の通った道(中央甲斐絹道)について
次のような経路が紹介されています。

  「伏馬田の人は(青野原から来た人も)山越えで川上に出て、大久保に上り、
  小舟の人も川上を通って大久保に出て、川上、中尾、堂地、大鐘の人と合流し、
  馬本から来る人と一緒になり吉原に入り、発電所の所から四十米位下って、
  小津久から来る道と一緒になり、更に三十米位下がると秋山川の岸辺、海沼に達する。
  (ここにあった橋を渡って)・・・旧牧野村から旧名倉村に移り、更に天神峠を越えて葛原に入り、
  集落を西南に進んで葛原神社の下を通り、正念寺の下で左折して行くと
  風久保と云われた急坂があり、人々は荷物を背負ってもこの悪路を危険を冒して
  近道だと云って歩き、風久保沢を通って、更に鶴島川原を二十分位行くと、
  西部甲斐絹道に合流し、桂川を渡って上野原の市場に行った。
  ・・・・風久保に下りない人は、さらに北に進んで名倉峠を越えて名倉集落に入り、
  更に北に進み坂を下って行くと相模川の南岸に到達すると名倉の渡し場があって、
  ふだんは綱を張って居て、船頭が川を渡してくれた。
  渡った先は上野原町諏訪で、ここから御番所坂をのぼり、旧諏訪の関所跡を通って、
  諏訪集落に出て塚場を過ぎて行くと上野原の市場に達した。」
                         (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年


諏訪関址


名倉の石楯尾神社
県指定天然記念物の夫婦杉(二本杉)

上野原名物の酒饅頭を買い食いもせず、
手打ちラーメン食べたさに来々軒の暖簾をくぐることもせず、上野原の町を去ります。
諏訪関跡前の諏訪坂を下り、桂川(相模川)を境川橋で渡って名倉の集落に入ることにします。

諏訪の関所跡前には観光用の「甲州街道史跡案内図」があり、最前走り抜けた大越路峠辺りに、
「峠より見おろす下は はるかにて まことに雲の 上のはらなれ」という句が添えられています。
大越路峠を題材に詠まれた歌なのでしょうか?誰か有名な人の作品なのでしょうか?
「上のはらなれ」と「上野原」をかけているのでしょう。

諏訪と名倉を結ぶ境川橋は大正12年に架橋され、それ以前は渡し舟で対岸へ渡っていたようです。
船頭やその他設備は名倉村の者が運営し、舟は一艘で竹竿で漕いで渡りましたが、
後に針金渡しとなったようです。
渡し舟は名倉、牧野、杉、大刀、葛原方面の人が甲斐絹を持って上野原の一、六市に行くのに利用され、
土地の人は、穀物(こし殻)を納めて無料で通してもらっていたといいます。
甲斐絹売りや原料生糸の仕入や日用品を求めるための大事な通路であったため、
たとえ高水であっても、一、六の市日の川止めは困るので、危険を冒しても渡船されていました。 【*1】

  「ふだんは綱を張ってあって渡し守の人がいて漕いで渡してくれたが、
  大水が出ると綱を外してしまって、竹竿で漕がないと渡れない。
  大水で荒瀬が立つと危険だから舟を出せなくなると、川止めと言って、長いときには幾日も
  通ることができない。水加減を見て、上手な船頭が二人で竹竿を操って舟を漕いで渡してくれた。
  ・・・上野原の市日だと云う時などは、かなり無理でも六、七人の人を乗せて、舟を川岸沿いに
  上流に漕いで行き、岩の突端の所で本流に漕ぎ出す。舟は木の葉のように揺れる。
  船頭は必死で波の間を上手く操つりながら対岸へと漕ぎ進む。
  お客は舟底に小さくなってうずくまっている。・・・
  見ているだけでもヒヤヒヤして心胆を寒からしめたものである。
  船頭は又勇気を奮って、同じようにして帰って来、この難行と云うか、難しい渡舟によって
  人々に便益を与えてくれた。今考えても尊い奉仕の仕事であった。」
                           (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

山を貫くトンネルも、行く手を阻む河川を越える安全な橋もない時代、峠を越え、川を渡り、
昔の人は生活のために、荷を背負って、上野原で開かれる一、六市へと向かったのです。
それが今では簡単に、アクセルのひとひねりで、峠の坂は越えられ、
堅牢で安全な橋をいつでも渡ることができるのです。

境川橋を渡ると石楯尾神社祭典の告知ポスターがあり、立ち寄ってみたくなります。
名倉の石楯尾神社は明日8月25日が祭りのようで、注連縄が張られ、提灯がぶら下がっています。
境内の二本杉と社叢は県の天然記念物として指定され、鎮守の杜といった雰囲気が漂っています。
こじんまりとした拝殿の頭貫と長押の間の外壁には「十二至孝物語」の彫刻が四方に彫られ、
芸術品を見ているようでもあります。

空を突く境内の二本杉は、その寄り添う姿からでしょうか「夫婦杉」とも呼ばれているようで、
縁結びの神として信仰があるようです。
奉納されている絵馬には「〇〇さんと復縁できますように」とか、
「〇〇さんとずっと幸せでありますように」などと書かれているものが目立ちます。
不倫や略奪愛をにおわすものもあるのですが神様はそんな願いも聞き入れてくれるのでしょうか?


名倉峠


峠の標識は錆びて判読不能

石楯尾神社を後に、名倉の集落内を南下して明るい丘陵を
パワーのない原チャリで上って行くと、切り通し状を呈した名倉峠となります。
峠名をしるした標識はなく、錆びついて判読不能なハイキング標識がポツンとあるだけです。
峠道は名倉小学校へ通う児童の通学路になっていて、
不審者が出没するのか、「愛のパトロール実施中」と書かれた警戒看板が立てられています。
「愛のパトロール」がどんなパトロールなのか気になるところです。

峠の東側にはかつて一本松と呼ばれる松が生えていて、
甲州街道はもちろんのこと、遠く扇山からもその姿を望むことができたといいます。
人が傘をさして立っている形に似ているところから唐傘松とも呼ばれていたようです。
一本松の生えている丘は雨乞塚と呼ばれていたといいます。 【*2】


葛原神社も夏祭り


天神峠(日向峠)
左の土道は高倉山へのハイキングコース

峠から向原へと下ると葛原神社で、
こちらも夏祭りのようで鳥居の前には幟がはためき、提灯や灯篭で飾られれています。
岩神社、御霊神社、上岩石楯尾神社、名倉石楯尾神社、葛原神社と周辺各地の神社の祭礼日の
日程が上手い具合にずれているのはテキヤさんに対する配慮なのでしょうか?
小さな村の夏祭りや縁日の風景を見ていると、どこからともなく寅さんが現われるような気がします。

緩やかな傾斜地に開かれた葛原集落内の道を登り詰めた所が天神峠で、
秋山川沿いの日向集落に越すことから日向峠とも呼ばれています。
名倉峠同様に、かつては上野原町の一、六の市日には、
山間地で生産された炭などの林産物や絹織物、繭がこの峠を越えて行ったのです。
古くは峠に天神峠の名の元になった天神社が祀られていたようですが、いま峠にその姿はなく、
天神社は麓の葛原神社に合祀されているようです。

  「桂川に近い葛原から奥牧野、秋山村へ行く道の峠が天神峠と呼ばれる。
  ここも古くからの交易路で、『新編相模国風土記稿』に次のように記されている。
  「天神峠、南方牧野村へ達する通路なり、是峠の頂上に慶長九年甲辰秋、
  天神祠を立て祭りしより以来是名を負へり、然はあれども至って小祠なり・・・・」
  四百年ほど前に峠に祠があったことがわかる。いまその祠はない。
  藤野町の文化財調査報告書『藤野町の神社と寺院』には、葛原神社は明治初年郷内八社を
  合祀して誕生したと記されている。峠の天神はこの時に集落に降りたのだろう。」
             (『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会

  「明治7年に郷内の雨降神社、八幡神社、日月両宮、天神社、山神社、山口神社、金剛山社の
  七社を合祀。境内の天神社は日向峠頂にあったもの
  高床式木造小社で尊像の石造天神坐像が安置されている。」
                         (『ふじの文化財探訪』 藤野町教育委員会 平成9年)

  「天神は日本固有の信仰で御霊信仰を媒介として菅原道真に関係づけられるようになった。
  像容については古くは怒りをこめた憤怒形が多かったが後に温容のものに変わったという。
  この像は温容形で祠内に安置されていたため欠損なく完全な姿で保存されている。
  葛原地区では講が結成され毎年1月25日に祭りが行われる。」
                         (『ふじの文化財探訪』 藤野町教育委員会 平成9年)

峠から日向集落へと下る峠道はけっこうな急勾配で、秋山川の谷へと落ちて行く感じです。
日向の集落はその名の通り、太陽の光を燦々と受ける土地で名前に嘘はありません。
峠道を下りきった秋山川の沢淵には、昔、雨乞いを行っていた「ドウドウメキ」(明王渕)と
呼ばれる場所があったようです。

  「日向の集落の少し上の道を左に進むと山梨県島田村の田野入に行く道があった。
  この道の下に明王渕と云う秘境がある。深い所は青々と水をたたえ、どことなく森厳な感じがする。
  昔はここで雨乞いの祭りをした。日照りが長く続くと、葛原神社に集まって雨乞いのおこもりをし、
  雨のお恵みがないと、葛原神社の御神体を神輿に移して渡御し、明王渕の上に桟敷を作り、
  御神前で雨乞いの御祭をしたと伝えられて居り、必ず物凄い雨が降ったので
  いよいよでないとしなかったと伝えられている。」
                          (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年

雨乞いの行事に向かうために葛原神社の御神体が天神峠を神輿で越えることがあったのでしょう。
峠は人馬や生産物、生活物資ばかりでなく神様も越えていたのです。

【*1】 『第2集ふじの町の文化財・甲州街道とその周辺』 藤野町教育委員会 昭和52年

【*2】 『ふじの町の文化財 広報ふじの』 藤野町教育委員会 昭和57年
     『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『ふじの町の文化財 広報ふじの』 藤野町教育委員会 昭和57年

☆★  ☆★

大川原天神峠・綱子天神峠


綱子集落の石仏


綱子峠(造道峠)と大川原天神峠との分岐

奥牧野から舟久保を経由して綱子川に沿った道を綱子集落へ向けて南下します。
狭隘な道は原チャリ走行では問題ありませんが、自動車では擦れ違いに難渋しそうです。

山間の綱子集落は「ホタル・あじさいの里」として売り出しているようですが、交通の便が悪く、
訪れる人も滅多にいないことから、いつもひっそりとしています。
それでも昔は交通の要衝であり、人の居住もかなり昔からみられたようです。

  「綱子は大川原、長又、伏馬田、菅井などが経済依存の上野原町への通路として大事な地区で、
  舟久保、小津久、奥牧野を通って上野原町へ繭、甲斐絹の織物などを出し、
  生活必需品を購入したのである。
  綱子には藤野町唯一基の双体道祖神があり、水神塔、廿三夜蚕影山合祀の石仏等があり、
  天皇山遺跡からは、土師器、須恵器等の出土品が見られる。」
                            (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

綱子は菅井、小舟、長又、大川原からの道が落ち合う所で、
ここより奥地の集落からの駄馬は綱子を経由して、上野原の市場へと向かったのです。
また、平野峠を通じては月夜野と、綱子峠(造道峠)を通じては安寺沢とも繋がっていました。
綱子峠(造道峠)の分岐には登山標識が立てられていますが、下山後の温泉入浴を勧めるコメントが
書き添えられているところをみると温泉関係者が設置したものでしょうか?
この県境エリアでは「やまなみ温泉」と「秋山温泉」との間で温泉客獲得バトルが繰り広げられている
との噂も耳にしますが、個人的には「東尾垂の湯」がオススメです。


大川原天神峠

綱子峠(造道峠)の分岐を見送り、そのまま舗装されている幅の狭い綱子大川原林道を上り詰めた所が、
綱子と道志谷の大川原とを結ぶ大川原天神峠となります。
『ふじ乃町の地名』にもこの鞍部に「テンジンサマ」の地名が付されています。
かつて峠には、綱子と道志谷の大川原、長又の三集落で祭る天神社があったので天神峠と呼ばれ、
ここより東方の綱子と菅井を結ぶ天神峠と区別するために、一般には大川原天神峠と呼ばれています。
天神社はすでに、大川原側へ降りてしまい峠にはありません。

  「天神祠は峠から大川原側の峠道の山中に移った。
  大川原では峠東方の山稜を天神と呼ぶ。古くはここに祠が祀られていたと考えられる。
  天神は大川原、長又、綱子の三集落で祀ったものだそうだ。」
                   (『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会


東海自然歩道案内板とヒルに対する注意標識


「←巌道峠・平野峠」を示す標識

現在の峠は切り通し状を呈し、完全舗装された綱子大川原林道が越えてはいるものの、
交通は滅多になく、落ち着いた雰囲気を保っていて悪くはありません。
峠には破壊されたのか使用不能の仮設トイレ一基と東海自然歩道の大きな案内看板があり、
「青根2.7km」、「菅井2.3km」と標示された登山標識が立っています。
西方の尾根には「←巌道峠、平野峠」の標識があります。

旧版の地形図を見ると、綱子から峠への旧道は今走ってきたp486(マルヅカ・丸塚?)を西側から巻く
林道コースとは異なり、p486とp587(舟山)との間に付けられていることがわかります。
つまり綱子と大川原天神峠とを結ぶ旧峠道はp587舟山の西北山腹にあるものと思われます。
あくまで林道は車通行の道であり、人の足は最短距離を選んで歩かれていたのでしょう。

大仰な東海自然歩道案内板の脇には2009年5月の日付のある
相模原市山岳協会によって設置されたヒル対策の看板と塩水入りのペットボトルが置かれています。

  「ヤマビルを放置しないで、備え付けの塩水入りペットボトルに入れて下さい・・・・
  登山口付近の住宅地ではヒルが大量発生し困っています。
  私達登山者が体についた1匹のヒルをここで放すと、
  吸血していれば2ヶ月後にはヒルが8〜72匹に増えるのです。」

丹沢東部地域ではヒルの被害は深刻ですが、
道志川を越えた県北部にまでヒルの生息域は拡大しているのでしょうか?
「1匹のヒルが2ヶ月後には8〜72匹に増える」とは結構ショッキングです。
1万円出資してくれれば2ヵ月後に8〜72万円になるという話ならヒルのように喜んで飛びつくでしょうが・・・・


大川原集落へ下る途中にある頭部を欠損した石仏

大川原天神峠から完全舗装されている道を道志谷の大川原まで下って行く途中、
目立たぬ崖の上に頭部を欠損した馬頭観音らしき石造物を見ます。
古くはこの峠道を人馬が行き来していたことを思うと感慨深いものがあります。

  「大川原の天神峠からそのまま下ると大川原地区に出る。
  ここが牧野街道の終点であり大川原橋を渡って、津久井町青根に通ずる。」
                            (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

林道の路面に散乱しているドングリを原チャリのタイヤでボツボツと踏み潰して進みます。
斜面に開かれた畑が姿を現わすと大川原の小さな集落で、集落手前では急傾斜の道を下らされます。
『ふじ乃町の古道』では、青根方面の人が上野原へ通った道(西部甲斐絹道)のルートを紹介しています。

  「青根−(道志川)−大川原−(大川原天神峠)−綱子−舟久保−(秋山川)−奥牧野−
  田野入−(天神嶺)−鶴島−(桂川)−新田−上野原」

青根方面から上野原を目指す場合、最初の関門が道志川を渡ることで、
次なる難関が大河原天神峠越えとなります。綱子に出た後は舟久保を経由して秋山川を渡り、
田野入からは最大の難関である天神峠(駒鞍峠)を越え、最後に桂川を渡船し上野原へと辿り着くのです。
なんて長い道程なのでしょう!大雨で流されるような頼りない板橋と険しい峠越えが二つ、
そして最後に渡し舟に命を預けてやっと辿り着くのです。
いくつもの自然の障碍をものともせず、昔の人は自らの足で上野原の町を目指したのです。

田野入の天神峠(駒鞍峠)は明治43年に秋山村村長原田善左衛門氏の尽力によりトンネルが開鑿され、
冬場の凍結した峠道で、死者を出していた難所からやっと解放されるようになったのです。 【*1】
これにより中央甲斐絹道を通っていた人も西部甲斐絹道に流れるようになったといいます。

大川原と青根を結ぶ道志川に架かる大川原橋は、現在では自動車の通行も可能ですが、
往時は出水の度に流出する頼りない板橋だったようです。

  「山梨県の道志方面から来た人や、青根の人は道志川を越えて大川原に渡った。
  何時頃出来たか知れないが、多くの人が渡るために、川瀬の両側に石積みをして橋台をつくり、
  少し位の出水には流されないように、水面より橋が高くなるように工夫して、この橋台を利用して
  丸太をならべ、これを固定した上に板を敷いてあったという。
  橋の端には流れないように工夫して針金をつけてあった。
  それでも大正12年の震災後の洪水の時は、半月も橋がつくれず、交通が止ってしまった。
  この頃から井上基市翁等有志が基金をつくり、集落も村も総力をあげて県に陳情して、
  大正14年10月に永年の夢が実り、総工費1万2315円で大川原橋が完成し、
  はじめて川止めのない道路となり便益を与える事となり、めざましい進軍のもとを開くことになった。」
                             (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

上野原の市日に町に出て、現金収入や生活物資を得ることが奥山の集落で暮らすには
欠くことのできないことであったのですから、川止めによる通行の遮断は生活を脅かす致命的なことです。
橋は単に両岸を結びつけるためだけのものではなく、貧しい村と豊かな町を結び付けていたのです。
橋や峠はまさに村の生命線であったといえます。

大川原橋の袂にある架橋記念碑には、
この橋が農家で生産された繭を人馬の背で綱子、奥牧野、田野入を通って上野原の市に運び出すため
には欠かせないものであり、村の経済を支えた交通の要衝であったことが刻まれています。
大川原橋の架橋に尽力された井上氏、田野入天神峠開鑿に命を捧げた原田氏の偉業や、
市場へ向かう人びとのために半ば奉仕で渡し舟を操つり桂川横断に貢献した船頭の行いは、
もっと顕彰されてしかるべきものであると思います。


綱子天神峠の登り口にある石仏


昭和48年に貫通した綱子隧道

下り着いた大川原集落から再び大川原天神峠へ上り返し、綱子集落から菅井集落を目指します。
綱子と菅井は昭和48年に綱子隧道が開鑿され、綱子林道によって結ばれています。
綱子側の登り口では二体の石造物が小舎に安置されているのを見ます。
トンネル手前には尾根を斜上する送電線巡視路があり、これがもしかしたら旧峠道なのかもしれません。

綱子隧道を抜けて左折し、天神隧道、菅井隧道をくぐり抜け、東海自然歩道の標識に従い
そのまま一気に原チャリで綱子天神峠に駆け上がります。
未舗装の土道を原チャリで走るのは気が引けましたが、
道には四輪車の轍が残されているので、ルール違反ではないでしょう。
また、平日の夕方でハイカーの姿もありませんからマナー違反でもないでしょう。


綱子天神峠
(『かながわの峠』ではここを綱子天神峠としている)

『かながわの峠』(植木知司著・かもめ文庫)によると、
p508の西方で、菅井集落からのびる破線道が尾根を越える場所を綱子天神峠としています。
峠は四辻になっていて、寛政二年の百番観音供養塔と文政三年の馬頭観音が置かれています。
供養塔背後のモッコリとした丘状地は「トリヨウボー」(トリヨウボウ・鳥坊主)と呼ばれる地名です。

供養塔には「寛政二年六月吉日 菅井、山崎太次左ェ門 同所、高崎三郎左ェ門
綱子、加藤六郎兵衛 吉原、清水利八 四国霊場 湯殿山上 奉納経百番観音供養塔」と刻まれ、
その台座には「東 大山道 西 あおね」と刻まれています。
この道が奥牧野や綱子、菅井の人々の相模大山参りの道であったことを教えてくれます。

旧牧野村からはそれぞれの集落からの最短路が選ばれ大山詣でに向っていたようで、
『ふじ乃町の古道』には次の4ルートの「大山道」が紹介されています。

  @篠原道−牧馬−青野原−鳥屋−宮ヶ瀬−煤ヶ谷−大山
  A石砂道−伏馬田−青野原−鳥屋−宮ヶ瀬−煤ヶ谷−大山
  B菅井道−伏馬田−青野原−鳥屋−宮ヶ瀬−煤ヶ谷−大山
  C大川原道−青根−青野原−鳥屋−宮ヶ瀬−煤ヶ谷−大山

  Bの菅井道は隣村秋山村を始め奥牧野、綱子等の人々や菅井組の辿った道である。
  綱子口から鳥坊主(トリヨウボウ)まで登りつめ、菅井へ下って伏馬田へ抜け、石砂道の講中と
  同じように大山を目指した・・・・
  Cの大川原道は大川原集落と大川原天神越えに大川原入りをした人々の辿った道で、
  道志川を渡り青根に出て「あをね道」「青の原道」を経て鳥屋、宮ヶ瀬、煤ヶ谷と大山を目指した・・・・

当地域の大山参りは、基本的には早立ち日帰りの質実剛健なものであったようですが、
日常から解放されたことによる享楽的な一面もあったようです。

  「大山までの道程は旧牧野村から九里といわれ、「大山チョックリ、御嶽ガックリ」という言い伝えがある。
  同じ九里でも大山道と比較して御嶽道が険阻な山道であったことを諷刺したものであろう。
  大山詣は女人禁制であり一般には陽気で派手なものであったらしい。
  山開きを待って大山に行くことを初山といい、七月十三、四日頃から登山することを盆山といい、
  当時、盆前の支払期をのがれるため大山へ登る手合も多かったという。
  「十四日末は野となれ山へ逃げ」という川柳もある。
  しかし当地区からの参詣者は「大山チョックリ」のように早立ち日帰りの頗る質実剛健なものであったらしい。
  剣術の勝負に勝って額を奉納したり、大山石尊大権現に対する真摯な信仰の外に、
  旧煤ヶ谷村の長い坂の頂上で暫時休憩し、チョボイチ(賭博)を楽しんだ後、大山入りをしたなど
  享楽的な道行もあった。」
                                (
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年

『新ハイキング』誌の中でも、小菅の古老が大山参りの様子を語っています。

  「ここの者は伏馬田に出て鳥屋(津久井町)から煤ヶ谷(愛川町)を通って大山参りをした。
  西の秋山村(南都留郡)の衆もここを通った。朝早く出て、御札を貰って来て配った。」
                       (『新ハイキング449号』 「道志山へ」 杉崎満寿雄著 1993年3月号


寛政二年の百番観音供養塔と文政三年の馬頭観音


公的標識にマジックで「←天神峠」の書き込みがある

東海自然歩道の登山標識には「青根4.0km」、「菅井0.8km」と標示され、
「←青根」の腕木には黒マジックの手書きで「←天神峠」との書き込みが見られます。
この書き込みは、この四辻が実は峠ではないことを暗に示しているのでしょうか?とても気になります。

ここは綱子天神峠ではないという意味か?それとも単に西方の大川原天神峠を指し示しているのか?
それとも舟山手前の鞍部(ヌタノハラ)が真の綱子天神峠であることを示唆しているのか?
どうもスッキリしない書き込みです。
舟山手前の鞍部(ヌタノハラ)の標識にも、何か新たな書き込みがあるのではないかと気になり、
確認しないわけにはいかなくなりました。


綱子隧道上あたりの快適な尾根道

原チャリを四辻に置いて、暮れなずむ尾根道を舟山手前鞍部まで歩いてみることにします。
以前に一度、冬場に歩いたことのある尾根道ですが、夏場の緑に包まれた尾根道はまた印象が異なります。
尾根道からは佐久間東幹線の送電線巡視路が北側へと分派する場所が何ヶ所かありますが、
それぞれの巡視路の行く末までを探索する時間はないので舟山手前の鞍部を目指します。

尾根道は非常に歩きやすく、集落間の行き来に尾根道が利用されたことが窺がわれます。
単に東海自然歩道だから整備されたというわけではなく、古来より集落間の移動に
歩きやすい尾根筋が利用されていたに違いありません。


舟山手前鞍部 「ヌタノハラ」
綱子と長又を結ぶ峠でもあり、『中央線の山を歩く』ではここを「天神峠」としている

舟山手前の鞍部(ヌタノハラ)には、「青根3.3km」、「菅井1.7km」の登山標識が立っていますが、
ここにはマジックによる書き込みがありません。
とすると最前の「←天神峠」の書き込みは、単に大川原天神峠を指し示したものだったのでしょうか?

ただし、厄介なことに『中央線の山を歩く』では、この舟山手前の鞍部を「天神峠」としているのです。
確かに、この鞍部は見るからに峠状で、綱子と長又とを結ぶ道が尾根を越えています。
その道筋は旧版地形図にもしっかりと記載されています。

  「車道が貫通している天神隧道の真上を通過したのちは、
  501メートルの小峰をまたいで天神峠にたどりつく。峠みちは、右が綱子、左は長又に通じている。」
                              (注:文中の天神隧道は綱子隧道の誤りと思われる
                         (『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年)

舟山手前鞍部は峠の雰囲気がプンプンするのですが、
南面の採石場から鳴り響く重機の轟音が雰囲気をぶち壊しにします。
以前に訪れたときよりも、採石場の敷地が拡大したようで尾根のすぐそばにまで迫っています。
綱子へと下る道は送電線巡視路としても利用されているようでよく踏まれていますが、
採石場側の長又へと下る道は頼りなさを感じます。
採石場に飲み込まれていないか道の現状が大変気になるところです。
HP『山梨東部の山・相模の山』では、長又へ下る道の様子(2007年現在)が記録されています。

この綱子と長又を結ぶ道が越える鞍部が「天神峠」と呼ばれているのか、調査不足で不明ですが、
『ふじ乃町の地名』では「ヌタノハラ」(奴田ノ原)との地名が付されているのみです。

  「旧道のうち菅井から尾根伝いに大川原天神に出る途中ヌタノハラで左に折れると、長又地区に下りる。
  現県道の上を並行して進み、道志ダムに添って行くと大川原地区に達する。
  また菅井、小舟から大川原天神峠に出る道は、そのまま下って大川原地区に出る旧本道である。」
                                (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

  「・・・奴田ノ原と呼ばれる平地で、昔は農地であったそうです。
  現在は植林されたスギが大木になりうす暗い。十字路の古道で指導標もある。
  左は長又集落、右は綱子集落へ・・・」
                   (『藤野の山と峠』 植木知司編集 NPO法人北丹沢山岳センター 2003年


『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著・新ハイキング社)より転載

舟山の東方鞍部に「天神峠」の名前が記載されている。
図中の「天神トンネル」は「綱子トンネル」の誤記と思われる。


昭和4年測図昭和22年発行 「鳥屋」2万5千図 地理調査所

トンネル開鑿や林道開通以前の旧版地形図を見ると、
綱子と大川原を結ぶ「大川原天神峠」、綱子と長又を結ぶ「ヌタノハラ」、
綱子と菅井を結ぶ「綱子天神峠」、それぞれの尾根越えの道がしっかりと描かれています。

長又と菅井とを繋ぐ天神トンネルが貫通される以前は、トンネルが現在ある鞍部よりひとつ南の鞍部を
山道が越えていたことが旧版地形図から分かります。
『ふじ乃町の地名』によると、その場所には「菅井天神」の名が付されています。
この「菅井天神峠」ともいうべき道が現在どうなっているかは興味あるところです。

  「菅井では昭和36年に、それまで道志谷の長又集落に通じていた旧道に替わって、
  新しく西に県道ができ、そのときに天神は旧道の峠から天神トンネルと名づけられた新道に移動した。
  朽ち欠けた祠がその入口(菅井側)の楓の大木の根元にある。
  50センチほどの村人手作りと思える質素な祠で、棟札に「奉納天神天満宮昭和36年」とある。
  古老の話では、元は旧道の峠の西側の峰にあったそうだ。旧道はいまは廃道になっている。」
                   (『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会

また、綱子と小舟を結ぶ尾根越しの道も峠であり、かつては天神が祀られていたようです。
仮称「小舟天神峠」ということになるのでしょう。

  「菅井から県道を少し北に行ったところに、小舟集落がある。
  ここから西の綱子集落に抜ける草深い峠道に、小舟で祀る石の天神祠があった。
  いまその祠は見当たらない。かつてこの峠道は西の秋山村方面への道として盛んに利用された。
  秋山村に残る有名な雛鶴姫伝説、その姫が寵愛を受けた主君大塔宮護良親王の首級を抱いて、
  わずかな従者と共にこの峠を越えたと伝えられている。
  『藤野町の地名』を見ると、峠の西の峰山とおぼしき所にテンジン地名の記入がある。
  この峰にはいま古峰神社が祀られるが、峠の天神は元はここにあったとも考えられる。」
                   (『あしなか245号』 「山に祀られた天神」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会

綱子から山梨県安寺沢へ越える綱子峠(造道峠)にも、かつては天神が祀られていたといいますから、
綱子の集落は東西南を天神によって護られていたことになります。

大川原天神峠の綱子側旧道、綱子と長又を結ぶヌタノハラ越えの道、長又と菅井を結ぶ菅井天神の道、
気になること、スッキリしないことがいろいろとあるので再訪しなければなりません

山間の集落を訪ねて感じることは、
「人は生きてゆくために峠を越えなければならない」ということ。

【*1】 田野入の天神トンネル開鑿については、以下の資料に詳しい。
     『ランデブーvol.15』(2003年)「天神隧道の開削に生涯を捧げた人原田善左衛門」(葛西一夫著)
     『山梨日日新聞』平成19年7月1日上野原特別版

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『あしなか245号』 「山に祀られた天神 -奥相模の天神峠-」 杉崎満寿雄著
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年
『つくい町の古道』 津久井町教育委員会発行 津久井町文化財保護委員会編集 平成元年
『新ハイキング449号』 「道志山へ」 杉崎満寿雄著 1993年3月号
『新ハイキング473号』 「秋山川右岸の小さな峠」 杉崎満寿雄著 1995年3月号
『藤野の山と峠』 植木知司編集 NPO法人北丹沢山岳センター 2003年