奥多摩の障壁を越えて

 数馬の切通し・根岩越え・登計峠・小楢峠?・大楢峠

 最近めっきり意志の弱くなった自分を反省しようと、
人間の強い意志をもって開鑿された古青梅街道の「数馬の切通し」を訪れてみました。

数日前から続いた高熱も下がり風邪も癒えて、体調は病み上がり状態。
天候は春の嵐が過ぎ去り、雨上がり状態。
病み上がりの 雨上がりに 奥多摩の障壁を越えてきました。


数馬の切通し

「数馬の切通し」はJR青梅線白丸駅の近くにあります。

往昔、青梅街道を往来する人々の多摩川上流部における
最大の難所は白丸から氷川の間に立ちはだかる堅い岩盤の
「ゴンザス尾根」でした。

本仁田山から南にのびるゴンザス尾根は、
その末端が多摩川に落ち込み、
川沿いに道を付けることも出来ず交通の障壁となっていました。

そのため迂回路として白丸から尾根に登り、
尾根を伝って根岩に至り、そこから西に急斜面を下降して
氷川に向かう「根岩越え」が利用されていました。

しかし、「根岩越え」の道も、けして容易な道ではなく、
氷川側には急坂や岩場があり、難所には変わりがありませんでした。

そんな中、元禄時代に地元民の強い意志によって
堅い岩盤は砕かれ、切通しが開鑿されたのです。
岩上で火を焚いては、これに水をかけ、ツルハシと玄能で丹念に
切り開いていった大工事であったといいます。


見事に凹としている

労力においても、時間においても、多大な負担があったことでしょう。
この工事は更に宝暦年間、嘉永年間にも行われ、
それぞれの改修跡を今に残しています。

この土地に住む人々は、
あるいは住まざるを得ない人々は、
そうまでして他の地域との、
他の人々との結び付きを求めていったのです。

人の強い意志は、時には高い尾根を越えて、苦しい峠を越えて、
時には堅い岩盤を砕いて障壁に打ち勝っていったのです。

「数馬の切通し」を見て、自分にそんな強い意志があるものかと、
考えさせられるのでありました。


根岩越えの石畳

白丸駅裏手の老人ホーム脇から「根岩越え」の道が始まります。
畑の間に挟まれて石畳の古道が残っていました。
この道が登記上は「都道」であるというから驚きです。

しかし、車道によって寸断されていたり、場所によっては石畳が
コンクリートによって塗り固められてしまっているのが残念です。

石畳の古道を忠実に辿ると、
しぜんと山道に吸い込まれてゆきますが、
途中の杉林の中で道を見失ってしまい、
仕方なく植林帯を這い上がり、
急登に苦しみながら尾根に飛び出すという不始末でした。

正しい道を進んでいれば、
山ノ神の石祠や茶屋の跡といわれている
古い石積みを見ることが出来たはずです。


根岩(ネエヤ)付近

飛び出した尾根部分には日原線5号の送電鉄塔があり、
展望がひらけた足下には氷川の町並みが遥か下に見えます。
対面には六ッ石山のどっしりとした山容が望めます。

尾根伝いに「根岩」と呼ばれている突部に向かう途中に、
大きな岩がデンとありましたが、これが根岩だったりして?

「根岩」は「納屋」の転化ではないかともいわれています。
峠では、かつて無人交易が行われ、商品を収納する納屋があり、
「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」!になったとか。

実際現地に行ってみると、
岩がゴツゴツしているので納屋説は「?」です。
根岩と呼ばれている付近には、
テレビ電波の受信アンテナが林立して、
まるでアンテナを植林したかのようでありました。


根岩越えの下り道にて

根岩で西に折れて、
送電鉄塔6号を目指し岩混じりの尾根を下ります。
6号鉄塔からは本仁田山の眺望が良好です。

更に尾根を下り分岐を左折すると、
トラロープの設置された滑り易い急斜面の下降がはじまります。
挙句には左写真のような鉄梯子まで出現する有様で、
こんな道を昔の人々が荷を背負い歩いていたのかと疑いたくなります。

なにせ、そばではロッククライミングをしているのですから。
疑いつつも杉の植林地のジグザグを慎重に下れば、
浄水ポンプ場の脇に出ることができました。
奥多摩駅はもうすぐそこです。

こんな苦労をしてまで尾根を越えて交流をしていたとは、
なんと難儀なことであったでしょうか。

現在、ゴンザス尾根末端には白丸トンネルが穿たれて、
ドライブを楽しむカップルが何の苦労もなく国道を走り抜けています。
大正12年に数馬トンネルが開通し、
昭和初期に七曲りの改修がなされるまで、
数馬の切通し道は利用されていたということです。

「数馬の切通し」は、今では、たいして観光客も訪れない
静かなスポットになっています。
かつて地元民の熱い思いと強い意志をもって開鑿された切通しに、
さわやかな風が、ただ吹き抜けているだけです。


登計峠

続いて、今越えたばかりのゴンザス尾根の多摩川を挟んだ対岸の
鋸尾根を越える登計峠に向かいます。

登計集落と長畑集落を結ぶ峠で、
愛宕神社の鳥居前が登計峠のようです。
「登計」とは「トッケ」のことで、「突起した山」のことであり、
かつて愛宕山は「トケ山(トッケ山)」といわれていたそうです。

登計側は舗装路が越え、
長畑に向けては未舗装の林道が続いています。
道標はありますが、「登計峠」の名はありませんでした。
鋸山への登山口ともなっていて、
下山してくるハイカーの姿がありました。


石垣の上にある石造りの道標

峠を越えて神庭集落へ下り、
海沢地区から次に大楢峠を目指します。

看板賑やかな石垣の上に、
石造りの古い道標を見つけたので、攀じ登って見てみると、
「左、みたけ 右、下野」と刻まれているようでした。

石垣にへばりついている姿を、通りかかった村人に見られてしまい、
怪訝な視線をなげかけられてしまいました。


小楢峠?としておこう

大楢峠へ続く山道の入口がある上坂集落までは、
舗装された急坂が続き、集落の雰囲気を楽しむ余裕もありません。

お彼岸ということで、
先にある奥多摩霊園に向けて行き交う車もあります。
霊園の管理事務所前を過ぎれば、
いよいよ山道に入りホッとできます。

薄暗い植林帯の道ですが、明瞭な登山道が尾根に導いてくれます。
登山者数人とすれ違いましたが、すでに下山する時刻であり、
これから逆方向を目指す人はいないようです。

古いガイドブックを見ていたら、
大楢峠と城山の間に「小楢峠」という謎の峠を見つけました。
上坂と越沢を結ぶ古い道が越えているらしいのですが、
いったいどこのことでしょうか?

とりあえず尾根に飛び出した所を小楢峠としてみました。(?)
もしかしたら、この暫定・小楢峠と城山との間に
本来の小楢峠はあるのかもしれませんが、
今回は未調査で終わりました。
「大楢」に対して生まれた「小楢」という俗称・通称の
峠なのかもしれません。


大楢峠

ほぼ平坦な尾根を辿れば大楢峠に至ります。
途中、木々の合間から本日歩いた山々を見渡せる場所がありました。
氷川はもう彼方に遠ざかっていました。
自分の足に感謝!
昔の人も自分の足を頼りに尾根を越え、峰を越え、
峠を越えて、内界に無いものを外界に求めて行ったのでしょう。

大楢峠は名前の通り、楢の大木のある峠で、
道標とベンチが設置され四辻を形成しています。
海沢からの林道がここまで伸びています。
このまま尾根を進めば御嶽山ですが、夕暮れが近いので
鳩ノ巣駅に向けて越沢側に下山することにしました。

歩き易い快適な登山道を下り、道祖神と石祠を過ぎれば、
古い石積みがある場所に出ます。
どうやら集落の跡であるらしく、
その外れには天保年間の馬頭観音や百番供養塔があり、
人の生活の痕跡が多々残っています。

少し前まで廃屋もあったといいますが、今は石積みが残るのみです。
こんな山奥でどんな生活をしていたのでしょうか。
昔の住人が利用したという「すりばち井戸」の清水を口に含んで、
過ぎし時の流れを味わってみました。

林道の脇には天保と刻まれた古い墓地があります。
やはりここには人の生活があったようです。

帰宅後に調べてみると、江戸の大半を灰燼に帰した振袖火事(1657年明暦の大火)の際、
江戸の町を復興するにあたり森林資源が豊富なこの地に建築材を求めたといいます。
その頃より、人の居住が始まり林業を生業とする生活が営まれていたようです。
江戸の復興特需で結構良い暮らしをしていたのかもしれません。

しかし、この辺陬な地に居を構え生活を営むということは、並大抵のことではありません。
相当な覚悟と強い意志が必要であったと思われます。

人生における障壁を乗り越えることができず、道を切り拓くことができず、
逡巡してばかりの意志薄弱な我が身には到底為し得ないことでしょう。

清水を含んだ口を拭って夕暮れ迫る深山を後にし、
鳩ノ巣から街の灯かりをもとめて車上の人となりました。

【参考資料】

『新ハイキング』93.9.455号 「奥多摩の古い峠道を歩く・白丸の根岩越え」(小林経雄著)
『奥多摩町誌』
『青梅市史』

◆ 『新ハイキング』1992.12.446号の「鳩ノ巣城山」(山中美子著)の紀行文の中に、「小楢峠」について記述されています。
  それによると奥多摩霊園から植林地を抜けて尾根に出た所が小楢峠のようです。
  さらに、そこから北に尾根を進んだところに、祠のある古い峠が小楢峠とは別にあるらしいです。

◆ 古い『山と渓谷』(89号)を見ていたら奥多摩の峠の紹介で「椈峠(ブナ峠)」というのがあり、その説明として、
  「標高650m。御嶽山より海澤へ、奥ノ院の北稜を越す峠。越澤川のツメに当たる。」とありました。
  いったいどこのことでしょうか? あるいは「大楢峠」のことでしょうか?