命脈保つ峠
花咲峠・橋倉峠(端倉峠)・切目峠(石神峠)・馬立峠・タワミ?
| 朝8時ちょっと前、大月駅のそば屋でコロッケそばを食べている。 ポケットにはコピーした25000図「大月」の左半分が入っている、山峡の集落を巡る峠歩きをするために。 恵能野、間明野、遅能戸といった特徴ある響きを持った集落名は、 |
|
|
駅舎から出ると吐く息が白い。 ビニールシートに溜まった水に薄い氷が張っている。 そろそろ桜の開花時期なのに郡内地方の朝晩はまだ冷え込むようだ。 駅前にはバスが勢揃いし、タクシーも登山客を物色している。 富士急行線と中央線を跨ぐ跨線橋の上からは、 |
|
浅利橋を渡り、中央道の橋脚の下をくぐり抜けると、 目印の廿三夜塔があり、ここを左折して市営浅利住宅の道に入る。 お墓を横目に歩き、最終民家にはコロコロと太った柴犬が 突き当たった中央道に沿って進むと、左写真のゲートになるが、 ゲートには「公団関係者以外立入禁止」とあったが、 |
|
植林と笹道の踏み跡を辿るとゴルフ場の縁に飛び出した。 電流柵が芝との境界に張られている。 それに沿って進み電流源のソーラーパネル付き発電機がある地点で、 尾根に付けられた道は明瞭で、所々にテープの目印も付けられている。 |
|
手持ちの地形図にはゴルフ場の姿は記載されていない。 ゴルフ場造成開発前のものであり、 花咲山が傷付けられるよりも前のものだ。 花咲山の南面は、ゴルフ場、中央道、送電線に汚されているが、 想像力がたくましければ、古地図となった手持ちの地図と見比べ、 |
|
地形図では峠道の破線が途切れて記載されていることから その生存が心配された花咲峠であるが、 峠そのものは良い雰囲気を保ち生き長らえていた。 花咲峠は花咲と西奥山を結ぶ峠で、 ゴルフ場の侵蝕により、余命いくばくもない状態だが、 |
|
峠には年代は磨耗して読み取れないが、 馬頭観音が一基祀られている。 西奥山への道も確認できるが、途中崩落しているという。 花咲への道もはっきりと残っているので、 |
|
実に歩き易い、いかにも峠道らしい道が緩やかに下っている。 残念なことに支尾根で南に進路を取ったところから先で、 ゴルフ場に埋没してしまっているようだ。 高見から眺めると、ゴルフ場内の調整池あたりに 峠に戻るのも面倒なので、 |
|
山頂手前には岩崖絶壁もあり、低いながら貫禄のある山だ。 通称花咲山は、正式には梅久保山というらしい。 花咲山とは、花咲集落の背後にある山の連なりを 総称して呼んだものだという。 山頂には石の祠が祀られ、神前には石棒が供えてある。 ペットボトルの賽銭箱には小銭が詰まっていた。 |
|
山頂からは北尾根(正確には北西尾根)を辿り橋倉峠に向かう。 果たして道があるか心配であったが、薄い踏み跡が続いている。 地形が細かいので読図力が試される。 地図を見てわかる通り、ガケ記号が多いので、 コースを見誤ると帰らぬ人になる可能性もあるので要注意だ。 634m点峰を目指すのだが、マーキングの類はない。 634m点峰からは気持東めの尾根に乗り、 |
|
橋倉峠は車道が抜ける切り通しの峠で真木と西奥山、遅能戸を結ぶ。 橋倉鉱泉への道でもある。 少し真木側へ行った所に橋倉鉱泉の看板がある。 さらに真木集落へ向けて進むと視界が開け、 |
|
真木は養蚕が盛んな村であったらしい。 真木からは高川山東尾根上のヲソゴ峠(尾曽後峠)を越えて、 都留に出荷されていたという。 彼岸で賑わう福正寺の境内を抜け、真木川沿いのバス道を北上し、 こんな奥地に人の住む地があるのかと疑いたくもなるが、 |
|
恵能野神社の賽銭箱の横に腰を降ろし、 毎度御馴染み99円のクリームパンと紅茶で腹ごしらえをする。 ここから切目峠への道は地図に記載されていないので不安だが、 穴の開いた橋を渡り、すぐ先の分岐を右手に入ると堰堤の下に出た。 |
|
峠道のニオイを嗅ぎ分け斜面に近づくと、 明確な道があり峠道へ無事合流となる。 植林内の爪先上がりの道をわずかに登ると切目峠に到着。 切目峠とは、この岩塊を切ったようにつけられた道の様態が |
|
峠には明治期の馬頭観世音の碑と手作りの道しるべが置かれていた。 標識には「←滝子山、恵能野・大久保山↑」とある。 「キリメ峠 816m」とあるが、峠の標高は765mである。 816mは峠から南に位置する峰である。 |
|
峠を間明野に向けて下る。 一箇所、倒木が道を塞ぐが、道筋は明瞭である。 峠道の出口には、大きな堰堤が築かれている。 切目沢沿いを下り、 |
|
さて、次の馬立峠への道の入口が難しい。 読図通りだと間明野バス停裏に続く細い道を入るようだが、 どう見ても民家の裏庭風なので足を踏み入れるのに躊躇してしまう。 しばらく付近をウロウロするが、他にそれらしき道もなく、 田舎道を歩くには、 |
|
細道に入ると、民家のお年寄が手招きしてくれた。 やはり正しいようだ。 どんな風にして懸崖の下にある真木川の川岸に降りるのかと 真木川を頼りない橋で渡るとログハウスと荒れた田畑がある。 |
|
ちょっと道を見失ったが、 植林地を抜けたり、斜面をトラバースしたりした後、 小沢を越えて本来の峠道を発見した。 (橋を渡った後、田畑に向かわずに少し下流に進むのが正解だったようだ) 峠道の登り始めは、荒れた沢沿いにつけられた植林地内の道だ。 しかし、自然林が見えてくると傾斜も緩くなり、 |
|
馬立峠の直前に真木への分岐があった。 地図には載っていないが、真木のどのあたりに繋がっているのだろうか? 養蚕が盛んであった頃、 その時に通った道がこの分岐道なのかもしれない。 |
|
馬立峠は明るい尾根上の乗越し道だ。 切目峠にあったものと同種の手作りの標識があり、 「←御前ノ頭・大丸→」と尾根のそれぞれの方向を示している。 峠道は「←戸沢・間明野→」と、今来た道と、これから下る道を ちょっと大丸への尾根道を歩いてみたが、 |
|
雁ガ腹摺山の南から派生して野分ノ峰、鳥屋ノ丸、御前ノ頭、馬立峠、 大丸、橋倉峠と続くこの長大な尾根を「吹切尾根」というらしい。 いつの日か歩いてみたい尾根道だ。 また、雁ガ腹摺山の北から派生する楢ノ木尾根と合わせて 歩き通すとしたら、かなりの歩き応えがある山行を楽しめそうだ。 馬立峠の「馬立」とは、 |
|
峠の間明野側は窪地状の地形で、緩斜面の小平地となっている。 ここに猟の獲物を追い込めば、仕留めるのはたやすいと思われる。 もしかしたら「馬立」とは、猟の撃ち手を待たせる「マタセル」からの 転化ではなかろうか? 「待立」、「マタセ場」→「マタチ」→「マタテ」→「馬立」ではどうだろうか? 戸沢への道は山腹に合理的につけられた道であり、無理がない。 落ち葉の積もり具合から察するに、紅葉の時季の峠歩きは見事かも。 |
|
炭焼き釜の石積みの跡を見れば里は近い。 堰堤と左写真の小橋を渡り、 民家の脇をすり抜ければ戸沢沿いの里道に出る。 しばらく車道を歩いて、次なる目的地、中村集落に向かう。 いかにも尾根の鞍部を越えている峠状の道なのに、 |
|
中村側の最終民家のオジサンに道の様子を伺うと、 「若い時分に、金山に通った道だが今は通れるかな?」とのことで 少々不安にさせてくれる。 「タルミまでは道はあるが、その向こうはわからんよ」という。 「ダメだったら戻ってきます!」と言い残し、 |
|
オジサンに教えられた通り、最初の屈曲部分で左に折れて 美しく手入れの行き届いた植林地内の道を進む。 後は「タルミ」方向に進むだけ。 到着した「タルミ」はいたって平凡。 尾根上の踏み跡もかなり怪しい。 |
|
金山に下る踏み跡はあるが、わずか数メートルで消えてしまった。 周囲は暗い植林地内で、手入れもされていないようだ。 さて、どうしよう。 とにかく地図を信じて、それらしき方向、高度を意識しながら、 |
|
植林から自然林がお目見えすると、 さらに踏み跡は明瞭になり、もう何も心配はいらない。 炭焼き釜跡の石積みを見ると、里への接近も確信となる。 竹の子シーズンにもう一度訪れたくなる竹林の道を下ると、 |
|
なぜか軽井沢のテニスコートにありそうな お洒落な白い洋風ベンチが置かれている。 人煙稀な山里にはミスマッチな代物ではあるが、 ヤブ山で進路選択に戸惑っている時には、 人間なんて嫌いだ!と常日頃思っていても、 さてと、金山から大月駅までテクテク歩いて、 |
*
| ● 今回訪れた峠は、それぞれ違ったパターンで生き残っていました ● | |
|
|
|
![]() 車道になってしまった橋倉峠 |
|
![]() 地図には記載すらないが 良い道の残る切目峠 |
|
![]() 良好な道が越えている馬立峠 |
|
![]() 地図には完璧に記載されているが 一方の道が消えているタワミ |
| いろんなタイプの峠がありましたが、 それぞれが命脈を保ち続けていることを嬉しく思いました。 かつては山峡に暮らす村人の命脈を維持してきた峠たちですが、 車道が発達した現在では峠そのものの命脈が危ぶまれています。 |
|
*
● 峠名・山名を残して ● |
| 今回訪れた峠は、いずれのものも地形図にその峠名の記載がありません。 これは実に残念なことです。 登山者御用達の『山と高原地図』(昭文社)の新版からも馬立峠、切目峠の名前は消えてしまいました。 版を重ねれば普通は良くなっていくものと考えられますが、悪くなるというのは一体どうしたことでしょうか。 峠名のことばかりではありません。 峠なら、峠道を歩く人がいなくなり、道がヤブに埋もれて廃道になったので記載することを |
*
● 山里をつなぐ峠道 ● |
| 甲州街道を大っぴらに行き来することができなかった人々にとって、 山里をつなぐ峠道の果たした役割は大きかったと思われます。 かえって表街道を歩くよりも早く目的地に着くことが出来たかも知れません。 地図を見ていると一筋の(否、幾通りもの)、 国中(甲府)→曲り沢峠(平ッ沢峠)・米背負峠→切目峠→馬立峠→桜沢峠・トズラ峠→ |
*
| 今回訪れた馬立峠は、天保7年に起きた農民一揆である郡内騒動の頭取(主導者)が、 国中(甲府盆地)から郡内に引き上げて行く際に通過した峠だといわれています。 彼らは召し捕り役人の目を晦まし、本街道の笹子峠を越えることなく、山中深くに潜入して、 曲り沢峠(平ッ沢峠)から馬立峠、トズラ峠(天神峠)を経て、故郷に逃げ帰ったといいます。 峠道が舞台になった明治17年の秩父事件を遡る48年前に、 |