★ 葛野川左岸古道〜コタラ山西尾根〜百蔵山西尾根

逢坂峠再訪

 前回“幻の峠”である逢坂峠の発見で、歩き損ねてしまったコタラ山西尾根を歩いてきました。
葛野川左岸古道を歩いて、コタラ沢出合いに安置されている「指さし地蔵尊」とも念願の対面を果たしました。

● 葛野川左岸古道を歩く ●


七保中学校前の路地から古道へ入る


古道の土道入口には数基の石仏が寄り添う


路傍には馬頭観音が多く祀られている

上野原方向から国道20号線を快走し、猿橋の手前、「小菅→」の道路標識に従って右折します。
中央道をくぐり抜けると、スーパーマーケット「公正屋・大月東店」があります。
ここでオニギリ2個とクリームパン1個の計280円のささやかなお昼ご飯を調達します。 

この地元民向けスーパーマーケットは駐車場も広く、営業時間も9時から21時30分までと葛野川流域の
山歩きには利用できそうです。 ここに車を停めて店前のバス停から各方面の山に向かうという作戦は
結構イケテルとも思いますが、お店を利用する人専用の駐車場ですからそんな善からぬ考えを
起こしてはいけません。

福泉寺門前を通過して地形図の学校マークのある角から、バス道を離れ右手の路地に入ります。
葛野多目的集会施設を左折して葛野川左岸古道の始まりです。
地形図では百蔵山の西尾根末端が葛野川に落ち込む所に、川に沿って破線道が描かれています。
これが葛野川左岸古道と呼ばれるもので古い時代の地形図では破線ではなく実線表記になっています。
甲斐と武蔵、秩父を結ぶ大切な交通路であったようで、「さの坂」(佐野峠)を越える村人や行商人、旅芸人、
富士講の道者たちが盛んに往来したといわれています。 <*1>
山間地で生産された甲斐絹なども人馬の背に積まれ甲州街道に運ばれたことでしょう。

岩殿山のトンガリを背に最終民家を過ぎると土の道になり、樹林帯に吸い込まれていきます。
入口には江戸期の年号が刻まれた馬頭観音などの石仏が数体寄り添っています。
ほぼ平坦な道は歩きやすく、植林に囲まれているものの暗い雰囲気ではありません。
行く道の路傍には馬頭観音が多く、何か建物があったと思わせる古い石積みの跡も見られます。


何か建物があったらしい石積みも見られる


古道から対岸に下瀬戸の集落を見る


長尾根、鋸尾根、麻生山、三森が見えてくる

植林地の中ですから展望はありませんが、沢筋を渡る部分を地形図と照らし合わせると容易に現在地を
把握することができます。 展望の代わりに林床の一輪草が目を楽しませてくれます。
早くも空腹を感じてしまったので馬頭観音様の見てる前でオニギリ2個を立ち喰いです。
林班表示の標識がありこの地を「大字葛野字花鳥沢」としています。 「花鳥沢」とは風流な名前です。

地形図では下瀬戸集落の対岸に桑畑の記号が見えますが、現状は荒地となっています。
この辺は日が入るためか雑草の成長が良く、道に被り気味です。
しかし、唯一、古道からの展望がある地点でもあり、下瀬戸の集落や、駒宮辺りの背後の尾根を
望むことができます。

数メートルばかり笹ヤブの通過もありますが、全体としては安定した道であり、
バス道を歩くよりも得られる快感は高いでしょう。
ただ夏場はマムシが出そうな雰囲気なので注意した方が良さそうです。
コタラ沢の瀬音が近づくと待望の「指さし地蔵尊」との対面です。

● 浅川の指さし地蔵尊 ●


指さし地蔵尊

落合から浅川峠を歩いた際に発見し損なった「指さし地蔵」と初対面です。
安永6年の年号が刻まれ、「右、やまみち 左、あさ川道」とあります。
地蔵尊は左の浅川道を指し示しています。
右手を挙げて、人差し指で進路を示すその姿は微笑ましいものです。

落合橋に設置された説明板によると、
「18世紀終わりごろの秩父道は多くの旅人が淺川に向かってきた
ことを物語っている」とあり、
「地蔵尊の下には舟渡という地名があり、渡しを越えて、
奈良子-真木-甲府方面へ行く道と、葛野-瀬戸-上和田-秩父へ行く道の
交差点として交通の要衝であった」とあります。

加えれば浅川峠越えで甲州街道野田尻宿へ向かう間道の
分岐点にもなっていたことでしょう。

● コタラ山西尾根を登る ●


コタラ山西尾根取り付き
明瞭な凹道がありジグザグで高度を上げる


尾根には踏み跡があるものの
葉の茂る時季は一部不明瞭となる


p695
尾根に標識等は一切無い
時々錆びた空缶が転がっているだけ

コタラ沢に降りて地形図にあるコタラ沢右岸尾根(コタラ山西尾根)への取り付き点を探しますが、
それらしきものが見当たりません。 沢べりを歩いていると大きなアオダイショウ(?)が横切ります。
水辺はヘビの棲家のようなので早く尾根に出たいと導水管などがある斜面に取り付き強引に登ります。
支尾根に出ると獣道のような踏み跡があるのでそれをしばらく辿ると、沢側から上がってくる
明瞭な凹状ジグザグが合流します。 どうやら取り付き位置が早かったようです。

道は意外なほど明瞭で、馬でも歩けそうな道がジグザグを切って主尾根に向かっています。
ただし、最近人に歩かれた形跡はまるでありません。
積雪期にも利用できるようにと、所々、黄色のビニールテープを立木に巻き付けて前進します。
ある程度まで高度を上げるとジグザグは終了し、道は南側山腹をトラバースしてのびていきます。
道は次第にブッシュで草深くなりますが、道形はハッキリとしています。
新緑の芽吹きの始まる2週間ほど前に訪れていれば難無く歩けたことでしょう。

後方で、ガサッとブッシュを薙ぎ倒す音がして振り返ると斜面を黒い大きな塊が駆け下りていきました。
獣に違いありませんが色からして猪ではないようです。 カモシカかあるいは熊だったのかもしれません。
おもむろにカバンから笛を取り出し、首にぶら下げ、吹き吹きしながらの前進となります。

明瞭だった道は植林地に出た所で完全に消滅してしまいます。
止むを得ず、か細い獣道を拾って主尾根の真上を目指して進みます。
案の定、尾根の真上には踏み跡がありました。
北側には木々の間から麻生山からのびる長尾根、駒宮嶺などが望めます。
位置を確認すると、まだまだコタラ山西尾根の端の方でありました。

尾根上には登山標識やマーキングの類はありません。
時々落ちている錆びている空缶を見ては、人間臭にホッとするのです。
地形図p695は何の変哲も無い雑木の茂るふくらみに過ぎません。
しかし、この辺りから林業公社のプラ杭が目立ち始め、コタラ山に向けて確かな進路を導いてくれます。
南側は植林地、北側は雑木林の尾根道を忠実に拾い詰めるとコタラ山を西側で巻く道に出ます。
この巻き道を選択すると扇山と百蔵山を結ぶ一般道に合流です。


コタラ山
「平沢ノ頭」だという説もある


「←コタラ・コタラ山→」と手書きされた標識
ということはコタラ山はコタラ山ではない?


宮谷分岐
地形図に2本ある内の西側の道

一般道と巻き道の合流部には標識はあるものの文字は何も書かれていません。
とりあえずコタラ山へ一般道の東側から踏み跡を辿って登ります。
山頂は植林や松に隠されパッとしません。
木々の間から浅川の集落と権現山と麻生山間の尾根がチラチラと見えるだけです。
山頂には山名標識もありません。
『日本山岳案内』(昭和15年・鉄道省山岳部篇)では、ここを「平沢ノ頭」としています。
ただし「コタラ山」と呼ばれるともあります。
また、「コタラ山」については平沢ノ頭とカンバノ頭(同書では長尾山)の中間に位置する起伏が
それであろうとしています。

“幻の逢坂峠”を再訪問するために扇山方向へ一旦向かいます。
途中、「←コタラ・コタラ山→」と手書きされた標識があります。
ということはコタラ山はコタラ山ではない可能性もやっぱりあるようです。

南の山麓、宮谷集落から扇山と百蔵山を結ぶ尾根に達する山道が地形図では二本描かれています。
その内の西側の一本の宮谷分岐を過ぎ、見覚えのあるコンモリと隆起した部分が
前回その存在を
確認した
“幻の逢坂峠”です。 ここが『日本山岳案内』説のコタラ山に該当するようです。
ちょうど地形図の「大月」図幅と「上野原」図幅の合わせ目に当ります。

● 推定・逢坂峠再訪問 ●


推定・逢坂峠の全景


峠の馬頭観音


峠の大きな松の古木

“幻の峠”である逢坂峠らしき場所に再訪します。 <*2>
古くは浅川と宮谷との集落間の交渉に利用された峠路だといわれています。
ドンヅマリ感のある山峡集落浅川ですが、東には野田尻、上野原へ通じる浅川峠(市坂峠)があり、
南には宮谷を経て桂川沿いの猿橋、鳥沢の甲州街道筋に出る逢坂峠という窓があったのです。

推定・逢坂峠には風雪に耐えた一本の老松が聳え、その根元には馬頭観音が祀られています。
刻字が磨耗して読み取れませんが江戸期のものでしょうか?
たまさかの訪問者を静かに待ち続けています。


一般道から逢坂峠への分岐(右へ)
スムースに東側の宮谷分岐に接続する


宮谷分岐
地形図に2本ある内の東側の道

地形図に描かれた宮谷集落から扇山と百蔵山を結ぶ尾根に達する二本の山道の内、
東側の道からは推定・逢坂峠に向けてスムースに踏み跡が接続しています。
きっとこの道が浅川と宮谷を結ぶ峠路の本道だったに違いありません。
そんなことを考えながら下界の
スーパーマーケットで調達してきたクリームパンをぱくつきます。

今回も宮谷側へ下ることはありません。 (前回は浅川側に下りました)
車を乗り捨てた葛野に戻るため百蔵山を経由してその西尾根を下降します。

● 百蔵山へ ●


コタラ山から百蔵山を繋ぐ尾根


百蔵大明神遺跡の碑がある広い山頂

再びコタラ山の西側巻き道合流部まで戻り、百蔵山への登りに取り掛かります。

古い地形図を見ると、「指さし地蔵尊」分岐からコタラ沢左岸沿いを辿って
コタラ山と百蔵山を結ぶ尾根に道が上がってきている様子が描かれています。
「指さし地蔵尊」に彫字された「右、やまみち」の道でしょうか?
現行版の地形図ではその道は途中で途絶えて尾根まで達していません。

尾根上を注意して観察しましたが獣道のような微かな踏み跡ならありましたが、
コタラ沢側への確たる下降地点を見出すことは出来ませんでした。 <*3>

短い急登をわずかに我慢すれば見事な展望が待つ山頂です。


矢平山、倉岳山、高畑山 などなど


大桑山、九鬼山、神楽山、御前山 などなど

駅から近く、いつでも訪れることができるだろうという安易な理由と
登山者で溢れかえっているであろう山頂を敬遠して今まで訪れることが無かった百蔵山。
いざ訪れてみるともっと早くに訪れておくべきだったと反省させられる素晴らしい眺望が待っていました。
ご自慢の富士の姿は霞んでいるけれど前道志、道志山塊の山並みは素晴らしいの一言。
痛々しい開発の傷跡である「ビュウ桂台」の山を強引に削り取った新興住宅地の惨状は
見るに忍びありませんが、桂川右岸の山々を一望できる眺望は絶品であります。

山頂を大月市選定秀麗冨嶽十二景に選び集客効果をあげるのはいいけれど、
葛野川左岸古道や佐野峠を越える秩父道、小菅道などを道普請、宣伝すると古道の荒廃も免れるし、
それなりの観光集客効果もあると思うのだがいかがだろうか?
熊野古道のような全国的知名度はまったく無いけれど、この手を好む古道マニアはきっと居ることだろう。

 百蔵山西尾根を下る ●


下和田分岐


p907にある葛野分岐


葛野・福泉寺 分岐

広い山頂を西に向かいます。 道は極めて良好でよく踏み固められた道が続きます。
下和田分岐を過ぎるとp907で地形図とは異なり頂上部に大洞岩、大島方面への分岐があります。
p907からは若干の急下降で倒木を越えたりする部分もありますが、赤松林の中の快適な道となります。
木々の間から登路として辿ってきたコタラ山西尾根が見え隠れしています。

四等三角点を過ぎると葛野・福泉寺分岐があるので、福泉寺に向けて左折をします。
高度が下がってくると共に裏山の雰囲気となってきます。
石造りの祠、木製の祠を過ぎると、不動尊の祀られる小社が現われます。
梵鐘が吊るされているので落ちている木片で打ち叩くも響き渡るほどの音は出ませんでした。


不動尊を祀る小社


岩殿山が見えてくると里も近い


福泉寺分岐

この道は葛野長寿会で整備しているようで、分岐には手製の標識が設置されていて迷う心配もありません。
うす暗い植林帯を抜けて、岩殿山を望む開けた場所に出ると畑を抜けて山道の終焉を迎えます。
舗装された農道を下り貯水タンクの脇を通って治山工事中の戸並沢沿いを下ればバス道に出ます。
戸並入口バス亭や福泉寺のバス停は目の前です。

底を尽く寸前だったペットボトルのお茶を飲み干し、スーパーマーケット「公正屋・大月東店」の飲料売場
に直行です。 店頭で販売していた焼き鳥の旨そうな匂いに釣られビールに手がのびかけましたが、
これから車を運転してGWで渋滞が予想される道を戻らなければなりません。
ビールは諦め、充実した山歩きの余韻に酔いながら帰路につきました。

(峠行/2006.05.04)

【参考資料】 

<*1> 『新ハイキング』1992.11.445号「葛野川左岸の道を歩く」(杉崎満寿雄著)に詳しい探索レポがある。
<*2> “幻の逢坂峠”については、『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄他著・実業之日本社)や『山梨の峠』(小林栄一著)に名がある。
<*3> この地形図破線路を探索した貴重なレポが「大久保山南西尾根・扇山・コタラ山〜コタラ沢〜落合橋(上平)」として
    HP『花のひかり』さんに収められている。 後半は沢下りになってしまったとあるが昔の道はどの程度残っているのだろうか?

【タイム】(休憩含む)

葛野川左岸古道入口12:00-指さし地蔵12:50-コタラ山14:40-逢坂峠15:00-百蔵山15:50-西尾根下山口17:10

● 前回の逢坂峠を探索レポを見る 「★市道の峠・A+幻の峠/浅川峠・逢坂峠
● 3度目の逢坂峠・
宮谷から浅川へ越える

【付記・1】

後日、陸地測量部時代の古い地形図を見たところ宮谷と浅川を結ぶ破線道を確認することができました。
まさにドンピシャでした。


「大月」 昭和4年測量
陸地測量部

南側の宮谷から二本の破線道が百蔵山と扇山を結ぶ尾根に達している。
そのうち東側の一本は、810m圏の小突起北尾根を伝わり浅川へと
結ばれている。

これが“幻の逢坂峠”の道だと思われる。

いつ頃から地形図より消えてしまったのかは不明ですが、
道自体は今でも充分歩ける状態です。

原全教の著書『奥秩父』を見ていたら、宮谷から登って、811mの小頭の西の鞍部を杣人の聞き取りから、
登尾峠(のぼりおとうげ)」というとありました。 「逢坂峠=登尾峠」でしょうか?

「宮谷の部落へ入り、一番奥の寺院の所から右へ小沢へ入る。 15分位沢に沿うて行き、大木の所から電光を描いて
811mの小頭の西の鞍部へ着いた。 途中で杣に聞いたのでは、この峠路を
登尾峠と云って居た。」

宮谷から登る西側の一本が尾根に達する所が「登尾峠」で、東側の一本が尾根に達する所が「逢坂峠」なのだろうか?
それとも同一別称なのか? 謎は残る。

【補足・2】

「駒宮に至る天神峠道を左に見送り、部落に入る。浅川小学校の記号は地図は旧校であり、新校は東寄りにある。
学校の下を過ぎ、庚申塔の前を右、橋を渡ると、右から地獄谷からの沢が流下している。そこを過ぎると、道が二分する。
左に登って行く道が浅川峠道であり、右に真直ぐ民家の上を行く道は
オオサカ峠(宮谷峠)を宮谷に越す道であり、
地獄谷の遡行路である。オオサカ峠(宮谷峠)へは沢の右岸を進み、左岸に渡り、宮谷沢を渡り、
ホウズキ沢との間の尾根を右に登る。オオサカ峠(宮谷峠)と浅川峠との分岐点に恩賜林の道標がある。」

『東京附近百名山』(小林波瑠三著・昭和16年)という文献には、上記、「オオサカ峠(宮谷峠)」の名前が見られる。
「逢坂峠=オオサカ峠(宮谷峠)」でしょうか?