★ 二本の峠道 / 浅間峠と栗坂峠

〜 栗坂ノ尾根 〜

【コース】 棡原トンネル小伏側出入口-猪丸-浅間峠-p717鞍部分岐-p774芦沢山-p710-棡原トンネル棡原側出入口

 「路面凍結走行注意」の警告板が消えるまで、もう原チャリ登山は止めようと心に誓ったばかりなのに、
青空の誘惑に負けてスロットルを回してしまった。

宮ヶ瀬湖畔は気温5℃! 前回より寒いじゃないか!
湖の外周道路に架かる橋の上からはワカサギ釣りの太公望たちが糸を垂らしている。
ワカサギの天婦羅のホクホク感を想像しながら、ゾクゾクする寒風を全身に浴びて上野原に向かう。
もはや手はかじかみ感覚は喪失。 ブレーキやウインカーの操作も億劫だ。

今回は、前回、栗坂峠を通過した時に気になってしまった小伏集落側に下る道を探索するのだ。
前回も述べた通り、浅間峠と栗坂峠は同一という説が有力だ。
浅間社の祠があり、猪丸への道がある場所を「浅間峠」、
そこから少し熊倉山方向へ南に行った地点にある分岐を「栗坂峠」と便宜上区別しているようだ。
つまり一つの峠に、同側二本の登降口があるという変則型なのである。

浅間峠の道は猪丸より三二山川沿いに付けられ、
栗坂峠の道はp879の西側を巻いて、その西南尾根に乗り、麓の小伏(こぼし)集落に繋がる。
この尾根を『奥多摩』(宮内敏雄著)では「栗坂ノ尾根」としている。

栗坂峠で見る小伏側の道の入口は小笹に埋まり、先行き心配であったが、
『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄他著・実業之日本社)の中で、栗坂峠の道筋について、
「ほんの僅か径が細い部分があるが、迷うことは絶対にない。昔、馬の背で荷物を運んだ路は、
いま歩いても実に合理的にできている。」という心強い一文から安心を得たので歩いてみることにしたのだ。


猪丸 浅間峠入口

「棡原トンネル」の小伏側出口に原チャリを停めて歩き始める。
しかし、下半身が凍っていて歩き方がぎこちない。
それでもなんとか歩いて体を温めるしかない。
まずはトンネルをくぐり、棡原中学校に向けて下り勾配の道を進む。

丁度お昼時で地元の方の姿は見られない。
昔の道の様子など伺いたかったが集落は静まり返っている。
上野原は「町」から「市」に変わったが、
山間部に入ると「村」だと言われても疑わないだろう。


三二山川沿いを進む

甲武トンネルを介して結ばれた上野原五日市線が
大きくカーブする所から三二山川沿いの道が始まる。
常に右手に美しい流れを見ながらの林道歩きとなる。

『上野原町史・下巻』によると、
上野原と檜原、五日市を結ぶ道は、
「西原の郷原、藤尾、棡原の三二山の三箇所が古くからの
主要な道筋であり、三二山と藤尾には口留番所が
設けられていた」とあります。


パソコンが転がっていた

「三二山からの道は三二山川沿いに登っていき
浅間峠を越えるコースで、三二山口留番所は現在の棡原支所の
付近にあった」とも書かれています。

また、往時の主要な道筋として、

@郷原-数馬峠-数馬-船久保-人里
A藤尾-笛吹(西原峠)-笛吹-人里-上川苔
B三二山川沿い-栗坂峠(浅間峠)-上川苔-出畑-笹野-本宿-五日市
C黒田-小伏-栗坂峠-上川苔-出畑-笹野-本宿-五日市

の四本を紹介しています。
ここで注目されるのは、栗坂峠道が二筋であったことの記述です。
三二山川沿いの道と、小伏からの道と、栗坂峠には二本の峠道が
あったことが『町史』からも確認出来たわけです。
また、三二山川沿いで辿り着いた峠に、「(浅間峠)」の記述がある
のも留意する点だと思われます。


手入れされた植林帯を進む

三二山川沿いの林道は、
かなり奥まで車が入れるような立派な幅広な道です。
笹尾根の峠の中で最も栄えた峠と言われるだけあって
駄馬にも優しい勾配と路面状況です。 【*1】

黙々と歩いていると手がジンジンしてきました。
原チャリ走行で凍り付いた手先が解凍されているようです。

上野原五日市線が上方を走っており、
時折、車やバイクのエンジン音が聞こえてきます。

車道から不法投棄され植林帯の斜面を転がり落ちてきたと
みられるパソコンや古タイヤが散乱しているのはガッカリです。


路傍の石仏

往時の賑わいを偲ぶ馬頭観音でもあると思いましたが、
それらしき物は見当たりませんでした。
ただ一箇所、大きな堰堤を巻き上がったところに、
この道筋で唯一の左写真の石仏(?)らしきものが
祀られていました。

ここは丁度、甲武トンネル南のp680の尾根の末端部で、
追分のようでもあります。
もしかしたら石仏ではなく道しるべだったのかもしれません。
カラになったワンカップのビンが置かれていました。


杉植林のジグザグ道

浅間峠直下の道は、現行の地形図の通りで
植林内のジグザグが続きます。
スギ花粉最盛期には歩けたものではありません。

はじめは大きくジグザグし、次第にジグザグの幅が小さくなります。
途中、この道で見る最初で最後の「←日原バス停・浅間峠→」の
登山標識が設置されています。

ジグザグを終え、左手にトラバース気味に進むと
青空の待つ浅間峠です。


浅間峠

「口留番所ノ廃跡(棡原村)猪丸村サンヤ(三二)山ノ麓ニアリ、
此レヨリ栗坂ヲ越エ武蔵ノ日野原(現・檜原)出ル峠ニ、
浅間ノ小祠アリ、境ノ宮ト称ス、此レヨリ日野原ニ至ル二十一町余」

と『甲斐国誌』にはあります。
現在の、浅間社の祠がある浅間峠は「栗坂」と呼ばれていたことは
明白であり、「浅間峠=栗坂峠」説が成り立ちます。

前回も述べた「栗坂=九里坂」(一里六町時代の九里)を
勘案すると、全行程「五十四町」。
「日野原ニ至ル二十一町余」と『国誌』にあるから、
54町−21町=33町が猪丸側の、あるいは小伏側の
道程ということになるのでしょうか? 【*2】

峠の登山標識には「日原バス停2.5km」、「上川乗バス停2.5km」
とあり同じ距離を表示しています。
そうすると、33町は小伏集落までの距離でしょうか?
そもそも「九里」には大意が無く、
「ツライ道程を表す比喩的表現」と捉える向きもあるようですから
「九里」にこだわる必要はないのかもしれません。


峠の巨杉と石祠

ベンチに腰掛けて、99円の「ぐるぐるウインナーパン」と
テルモスの紅茶で休憩です。
今日はお気に入りの99円アップルパンは売り切れでした。

休憩中、4組の登山者が通り過ぎました。
尾根から尾根に消えていったのが1組。
尾根から上川苔へ下る峠道に消えていったのが3組。
4組中、浅間社や巨杉に興味関心を示したのが1組でした。

その1組のハイカーに、
「ここは《あさま》ですか、それとも《せんげん》と読むのですか?」
と尋ねられて、
とっさに回答できず、「《せんげん》でいいと思います」と笑いながら
答えるのが精一杯だった。
もし、「ここは浅間峠ですか、それとも栗坂峠ですか?」と聞かれて
いたら答えはさらに窮していたに違いない。


栗坂峠

数週間前に訪れた栗坂峠に再び参上。
よく見ると登山標識の裏手(上川乗側)にも薄い踏み跡がある。

今回は、小笹に埋もれた小伏側の峠道を探索します。
『甲斐の山山』(小林経雄著)の中でも、この道のことを
「小伏と上川苔を結ぶ古い峠道」としています。

ここは単なる分岐ではなく、
祠のある浅間峠(栗坂峠)の一角なのであります。


自然林と植林の間の道

小笹が道を隠すのはほんの数メートルの距離だった。
そこから先は明瞭な踏み跡がのびている。
自然林と植林の間、斜面にトラバース気味の道がしばらく続く。
p879を巻いてその西南尾根に出ようというのだ。

この尾根は『奥多摩』(宮内敏雄著)では、
「栗坂ノ尾根」と表記されている。
ということは、小伏から続く「九里坂の尾根」という意味だろうか?


栗坂ノ尾根

栗坂ノ尾根に乗ると、左植林、右自然林となる。
自然林の木々間から上野原五日市線や甲武トンネルが望める。
土俵岳の姿が大きい。

尾根道はしっかりしていて、一部凹状の部分も見られる。
古くから歩かれてきた峠道という感じがする。
自然林の中には栗の木もあるようなので
「栗坂」とは「九里の距離のある坂道」ではなく、
単純に「栗の木のある坂道」なのかもしれない。


点p717の鞍部

地形図点峰p717の鞍部は峠風である。
芦沢川源流域からの道がジグザグを切って
植林地内の斜面を上がってきている。

鞍部分岐には可愛らしい自然石に刻まれた
天保二年の馬頭観音が祀られている。
馬の往来があった証拠である。
それも天保年間という古き歴史を持った峠道であることがわかる。


天保の馬頭観音

本来の栗坂峠の峠道は、この鞍部分岐で左に折れて、
芦沢川沿いを小伏集落に向かったものと思われる。 【*3】

しかし、ここはp774を陥落させようと山屋の血が騒ぐ。
それに原チャリを停めた棡原トンネルに戻るには、
尾根を進んだ方がダイレクトに辿り着くことができるのだ。

鞍部からわずかな登りで平尾根に出て、
そこから南下すれば「芦沢山」の標識があるp774に到着である。


芦沢山 p774

芦沢山は植林に囲まれた山で、展望も無く、面白味に欠ける。
手作りの山名標識は「山酔会」という会が設置したものらしい。
たしかにこんな山には、「山の酔いどれ人」しか訪れないと思う。
それもかなりの泥酔か悪酔いかの連中と思われる。

山頂付近は少し潅木ブッシュがやかましい。
複数で歩く時は、先を行く人の跳ね返りに要注意だ。
山頂から先、二手に分かれる踏み跡は
p710に向けて右手を選択。


p710付近 植林の中に凹道あり

p710から最後まで植林地内の道が続く。
植林地内とはいえさほど暗くも無く、手入れも行き届いている。
下るにつれ、道も凹状のはっきりした道型となる。

凹具合から察して、栗坂峠への道として、
芦沢川沿いの道から先の鞍部分岐への道とは別に、
尾根伝いのこの道も頻繁に歩かれていたのかもしれない。


林道に出て終了

ゴルフ場が見えてくると山道も終わりで、
立派な林道に降り立つことになる。

あとはこの林道を辿り、最終民家O家の庭先を通過して、
舗装路に出ることになる。
地形図「猪丸」の右下隅、
「小伏」の文字の「小」の上の建物がO家と思われる。

登って下りて3時間のお気軽峠行であったが、
一つの峠の異なる二本の峠道を堪能することが出来た。

帰路の原チャリ運転中の鼻水は、寒さによるものと、
スギ花粉症のものと思われる。
一つの峠で異なる二本の峠道を堪能し、
一度の峠行で二種類の鼻水を体験することになった。


能岳東面のゴルフ場


聖武連山東面のゴルフ場

栗坂ノ尾根末端から眺めたゴルフ場の傷跡は痛々しい。
中央線沿線というよりは中央高速道沿道の山々はゴルフ場に傷めつけられている。
ゴルフ場からの税収入、山村地域の雇用現場の確保等を考えるとしょうがないことなのか。
それにしてもゴルフ場入口までの道はよく整備されている。
それに比べて役に立たない古い峠道の道普請など行政は思いもつかないことだろう。

【参考文献】

『甲斐国誌』、『上野原町史』、『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社)、『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄他著・実業之日本社)

【*1】 『多摩の低山』(守屋龍男著・けやき出版)の中に以下の文章あり。

「笹尾根の峠の中で最も栄えた峠である。鶴川流域で生産した炭などの物資は馬の背につけられ、
この峠を越え南秋川の上川苔へと運ばれた。上川苔から檜原の馬に代わり、浅間尾根から本宿や五日市の方へ運ばれたのである。
上川苔は物資の中継地で利ざやを稼いだ商人が豪勢な家を建て、いまでもこの地の民家は他の集落に比べると立派である。」

【*2】 『山と渓谷』 89号 奥多摩特集 「秋川をめぐる峠」(宮崎封v著)の中に以下の記述があります。

「・・・《五萬分登山圖武州御嶽》には、郡内小伏に径が通じているが、これは浅間小祠から尾根を三國山寄りに少し歩いて降る、
此処を栗坂峠と一般に謂われているが、栗坂とは小伏から登る峠路につけられたものである
今は忘られているが、いにしえの峠路は浅間小祠からすぐ真下を三ニ山川沿いに猪丸に降る径であろう。
かつてその径を尋ねて三ニ山川沿いに登ったことがあった。途中山ノ神と教えてくれた里人の小祠は朽ちた祠の中に、
男女雙立の小さい道祖神の石像があった。多摩、秋川の人々の富士詣りの賽路であった此の峠路に、旅の恙なきを護る道祖神は
里人にも忘られ、山ノ神となったものであろう。」 とある。

「栗坂とは小伏から登る峠路につけられたものである」という一文が興味深い。
また、三ニ山川沿いの猪丸への道が古く、本道であるかのような記述も無視できない。(本当だろうか?)
「山ノ神」とは堰堤を巻き終えたところにあった謎の石造物のことであろうか?

【*3】 『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社)の山行記録篇には以下の記述がある。

「・・・辿り着いた処は浅間宮の前である。・・・峠路は西南に国境尾根の稜線を行き、10分程で南に乗越す。
最初は尾根を、程なくそれに離れてジグザグを走り、芦沢川の浅い水流に沿うともう小伏の里が白壁の点々と、南陽をうけて
飽くまでも明澄な色彩で私達を迎える。」とあり、鞍部分岐を芦沢川側にジグザグで下るのが峠路であることが窺える。

●後日、栗坂峠から小伏集落へ下った時のレポートを見る

【補足】 古い地図を見たところ二筋の栗坂峠道を確認できました。 時代によって道筋に変遷があったようです。


1910年 五万図「五日市」 陸地測量部発行


1947年 五万図「五日市」 地理調査所発行

古い地形図には三二山川沿いの現・浅間峠道は見られません。 (上川乗側は道あり)

一方、栗坂峠道を見ると、明治期においては尾根伝いに猪丸へ、
昭和初期には天保二年の馬頭尊のある中間鞍部から芦沢川沿いに下り
小伏を経由して猪丸へ向かう道筋となっています。

なぜ道筋が変更されたのでしょうか?
自然災害による道筋の変更でしょうか?
それとも戦時中に山の手入れが出来ず尾根道が荒廃したためでしょうか?