★ 小さな地蔵のいる峠

時坂峠・松生峠・浅間嶺・人里峠・瀬戸沢峠


『奥多摩』(宮内敏雄著・百水社) 挿入図より

瀬戸沢の一軒家から松生峠の道を歩いてきました。
以前、Sさんのレポートで峠道通行禁止の報告を見てから気になっていたのです。
そろそろ通行規制は解除されているのではと訪れてはみたものの、
それはなんとも甘い考えでした。
「こりゃ、ダメだ!」 峠道は上部植林地斜面で大規模に山抜けしており、
当分の間、復旧は見込めない状況です。
復旧というより、ルートの変更・付け替え工事が必要となるでしょう。


時坂峠

ゴールデンウィークの青空の一日、近場の浅間嶺へと足を運びました。
人里峠から登り、浅間嶺、松生山、払沢ノ峰と歩き、笹平へと下降する予定でしたが、
人里集落に車を置くスペースは見当たらず、ならば逆方向から辿るかと笹平側に回ったものの、
やはり駐車スペースが無く、結局は払沢ノ滝駐車場へと向かってしまいます。
ところが、ゴールデンウィークとは恐ろしいもので、
あれだけ広い駐車場に駐車余地は残されておらず、エイ!こうなれば面倒だと、
一気に時坂峠頂上まで車を走らせてしまうという愚行に出てしまいます。
まぁ、せっかくのハイキング日和に、のんびりとお昼過ぎに訪れた自分も悪いし、
ゴールデンウィークの人出をナメるから、事は予定通りに進まないのでしょう。

時坂峠は以前訪れた時とあまり変らぬ姿でそこにあり、
子ども連れファミリーがレジャーシートを広げて、オニギリを頬張っている最中でした。
峠の心地好い風に吹かれながらも、「オカカは僕のだ」とか「梅干はキライ」とか、
微笑ましい闘争を繰り広げているのでした。


峠の小社(八坂神社?)


峠の石仏

ゴールデンウィークの楽しい家族団欒の傍で、デジカメを手にした怪しい訪問者が、
石仏や木製の小社なんぞを熱心にパチパチ撮影しているのですから、峠マニアとは困ったものです。

峠にはここから始まる「浅間尾根道」の歴史について記された案内看板が設置されています。

  「奥多摩の主稜線から風張峠でわかれ、東西に緩やかに上下を繰り返すのが浅間尾根です。
  浅間という名称は富士山の見られる所につけられており、
  この尾根からも時々、富士山を遠望できます。
  この尾根につけられた道は、以前は南・北両秋川沿いに住む人々が
  本宿、五日市に通う大切な生活道路でした。
  また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路となっていたこともあります。
  昭和の初め頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んで
  この道を通っていました。」 (現地案内看板より)

檜原村では「尾根交通」の時代が古く、「谷交通」は比較的新しいものです。
昔であるほど、人は険悪な沢筋を離れて、尾根に沿った安全に通行できる道を利用していたのです。

  「数馬や人里が、経済的関係を檜原中部に仰ぐようになったとき、
  その選んだ連絡路は決して南秋川沿いのみちではなかった。
  先づこの帯のような長大な山稜だったのである。
  今日の人の考えでは、なぜ水に便利な沢ぞいに行かず好んで山坂を上下したかの
  疑問が湧こうが―― 私たちは昔の人たちが、殊に山の人たちがグルグルと山襞の多い、
  そして一朝豪雨のあろうものなら、たちまち桟は流され径は崖崩れになる沢沿いを避けたく、
  また多少は迂回をしても折々は高みに出て前途を見定める必要を満たしてくれるみちを
  求めた心を考えねばならぬ。」 (『奥多摩』 宮内敏雄著)

『新編武蔵国風土記稿』では、浅間尾根道のことを「中くく通り」としていますが、
この「中くく通り」が、檜原村の中央幹線道路であり、村の経済を支えた物資運搬の道であったのです。

  「むかしは浅間尾根通りが小河内方面から五日市場へ往来する道だった。
  小河内谷の川野からとりつく風張峠に秋風がススキの穂をわたるころ、
  そこを朝早く炭荷をつけた人馬がのぼっていき、夕方は五日市で仕入れた雑穀や雑貨を
  積んで帰っていく・・・・」(『岳人224号』 「檜原の峠」 甲野勇著)

むかしは檜原村の人ばかりでなく、小河内村の人たちもこの尾根道を頻繁に利用していました。
鳩ノ巣渓谷沿いの険しい道を避け、安全確実で穏やかな浅間尾根道を選択していたのです。
西原や小菅、丹波など、甲州からの人の行き来も多く見られました。


峠の石仏群・百番供養塔


「峠の茶屋」から御前山を望む

「時坂」は「トッサカ」と発音するようで、『檜原村紀聞』(瓜生卓造著・東京選書)の中では、
「浅間尾根のトッツキの坂の意であろうか」としています。
また、時坂集落の先祖が檜原城の番兵であったとの言い伝えから、「時坂の時は、鬨の声のトキ」
ではなかろうかともしています。

『檜原・ふるさとの覚書』(小泉輝三朗著・武蔵野郷土史刊行会)では、
「時坂」の意味を、きつい坂道であることを示す、「鋭(と)き坂」のことではないかとしており、
「時坂」の地名には諸説あるようです。
(「突坂峠」の言葉の響きにも似ている)

時坂峠から舗装された車道をしばし歩けば「峠の茶屋」で、御前山、大岳山の眺望は頗る良好です。
これら山脚の斜面にへばりつくように点在する集落が春の陽光を受けているのを見ると、
なんとも平和な暮らしに思えてなりません。
しかし、そんな思いは、実際に土地に根を下ろしていない旅人の感慨に過ぎないのでしょう。


山の神の祠


松生峠入口 規制線が張られている

山の神を祀る大山祗神社に手を合わせ、舗装の途切れた山道へと進みます。
瀬戸沢の一軒家の手前、「小さな火、山に捨てると、大きな火」と書かれた秋川消防署の設置した
防火啓蒙看板の脇が松生峠の入口なのですが、依然として通行規制がされているようです。

2008年10月に東京都奥多摩自然公園管理センターが設置した
「この先崩壊 通行止め」と書かれた警告表示とトラロープが峠道を塞いでいます。
通行を「止め」ているだけで「禁止」ではないようなので、自己責任で規制線をくぐります。
どうせたいした崩壊ではないだろうに大袈裟な!と思いつつ、新緑に包まれる斜面に刻まれた
峠道を堆積した落ち葉を踏みしめて登り始めます。


山抜け崩壊地 こりゃダメだ!


尾根筋を高巻きして進む

前半の道は拍子抜けするほど良好で、この先で道が崩壊している様子など感じさせません。
しかし、自然林から植林地へと入り、額に心地好い汗が滲み始める頃、
突如として眼前に、大規模な山抜けが姿を現わすのです。
「こりゃ、ダメだ!」の一言に尽きます。
道の痕跡すら残していない崩壊は、グズグズのボロボロでトラバースは容易ではありません。
落石やさらなる崩壊を引き起こす危険もあり強引な通過は自殺行為となるでしょう。

なるほど、これは「この先崩壊 通行止め」の表示通りです。
「この先完全崩壊 通行不可 危険につき立入禁止」くらいに表現を強めてもいいかもしれません。
幅広にかつ深く崩れ落ちた状態から察して復旧は当分先になることでしょう。
復旧というより、峠道の付け替え・ルート変更がなされるに違いありません。
そうなると地権者との話し合いや徹底した安全確保などで相当の時間を要することでしょう。
それが無理なら松生峠の道は亡びることになるでしょう。

さすがに崩壊地トラバースは無謀なので、右手の斜面に取り付き高巻きを開始します。
同じように歩いている人がいるらしく、立ち木にはテープのマーキングなども見られます。
踏み跡が濃くなれば、しぜんこの回避ルートが本道に取って代わることも考えられるでしょう。
登るに連れ、踏み跡は明瞭となり、左手植林地、右手自然林の小尾根を辿る道となります。
植林地には「小沢共有財産所有地平成20年」と書かれた看板が見られます。


松生峠(マツバエ峠)

回避ルートの小尾根を登り詰めると、松生山から東へとのびる主稜線上へ飛び出します。
そこから新緑の尾根道をひと下りすれば松生峠で、こちら側にも「通行止め」の規制線が張られています。
以前訪れた時には無かった黒地に白文字で「←松生山 笹平バス停→」を示す
公的な登山標識が建てられています。
どうやら浅間尾根は笹平に下る末端部まで登山コースとして整備されているようです。
先代の登山標識には「松生峠」の表示と、「←瀬戸沢(一軒家)」の表示があったと記憶していますが、
峠道の崩落のせいか、瀬戸沢方向には行き先表示がなされていません。

南方の下川苔側へと下る確たる道は目を凝らしても見当たりませんが、
落ち葉を蹴散らして急斜面を下降すればよいのでしょうか?
以前訪れたときは松生山側へ少し登った所に、
下川苔への下降ポイントを示すプレートがありましたが、いまはそのようなものはありません。


「松生峠」の標識を取り付けた


松生峠から払沢ノ峰の間は感じの良い自然林の道

公的登山標識に「松生峠」の名が無かったので、目障りにならぬ程度の手製標識を取り付けます。
地元では「松生峠」との呼び名は一般的ではないのでしょうか?
それとも峠としての機能は失われているので、そんな呼び名も忘れられてしまったのでしょうか?

本当なら笹平まで歩いて「連尺タワ道」という笹野と柏木野とを結ぶ山越えの道を
確認したかったのですが、人里峠も久し振りに訪れてみたいので、
払沢ノ峰まで歩いてユーターンすることにします。

その払沢ノ峰までの尾根道はなんと素晴らしいことでしょう。
林床の足首を隠す小笹の緑と芽吹いたばかりの自然林の緑のマッチングがことに美しく、
浅間嶺付近の人込みもこの場所にはありません。
「財団法人南郷共益会所有地平成8年」の看板が随所に見られますが、
この自然林は薪炭を産み出す入会地として古くから大切に保たれてきたに違いありません。


「払沢ノ峰」の標識を取り付けた


松生山

地形図p858が払沢ノ峰で、ここで笹平への道は緩やかに南へ転進します。
いっそのこと笹平まで下ってしまおうかとも考えましたが、車を払沢ノ滝の駐車場ではなく、
時坂峠頂上へ停めてしまったこともあり思い止まります。
それに人里峠の小さなお地蔵様にも久し振りにお会いしたいのです。

山名標識の無いピークに、余計なお世話ですが手製標識を括りつけます。
払沢ノ峰は双児峰なのでしょうか?
すぐ隣りのちっちゃなピークにも登ってみましたが何もありませんでした。
払沢ノ滝方向へ続く踏み跡が確認できましたが、果たして下ることはできるのでしょうか?

払沢ノ峰で踵を返して、松生山へと向かいます。
カバンから定番のつぶつぶイチゴジャムパンを取り出してパクつきながら歩きます。
つぶつぶイチゴジャムパンは水分を摂取せずに飲み込めるのでお気に入りです。
ふと、時坂峠で楽しそうにオニギリを食べていた家族の姿を思い出し、
パン一つの侘びしい食事に切なさを覚えたりするのですが、
美しい新緑に包まれた自然林内の心地好いアップダウンがそんなことを忘れさせてくれます。
目指す松生山は樹林の彼方に愛らしい円頂を浮かべおいでおいでをしています。


松生山からトヤド浅間、万六尾根を望む

再び松生峠を踏んで、ひと登りで松生山の山頂に達します。
松生山とは、付近一帯の総称のようですが、現在ではp933三等三角点峰の名称として定着しています。
以前訪れた時は笹ヤブが視界を遮っていたはずですが、刈り払われてスッキリとしています。
北方は御前山、大岳山の展望、南方はトヤド浅間の顕著な三角や万六尾根が望まれます。
南方の展望に関しては、浅間嶺の見晴らし広場からの眺望より松生山からの眺めの方が
優れているのではないでしょうか?


御馴染みの素敵な山名標識も健在


入沢山

松生山の山頂には無粋な公的登山標識とともに、味のある私製標識が設置されています。
麓の土産物屋の御主人が作ったという丹念な浮彫りの標識は秀逸で芸術作品の域に達しています。
松生峠と払沢ノ峰に残してきた己の陳腐な標識のことを思うと恥ずかしくなります。

松生山を後に、スズタケのちょっとしたヤブを通過して西へと進めば、
標識が無ければ、それとは気付かずに通り過ぎてしまう入沢山です。
南秋川に注ぐ入沢という沢の詰めに当たるので入沢山なのでしょう。
そこから一気に新緑斜面を下り、メインハイキングルートに接続します。
よく踏まれたメインルートですが、ゴールデンウィークといえども夕方の尾根道に人影は無く、
さびしい雰囲気が辺りを支配しています。


浅間嶺


覗き穴から大岳山

浅間嶺の頂きにも人の姿は無く、咲き残っている八重桜が風に揺れているだけです。
御前山と大岳山を覗き穴から望むという、粋な趣向の標柱を御多分に洩れず覗き込み、
お決まりの覗き穴写真を撮影します。ちょっと「ゴルゴ13」のようなスナイパーになった気分です。

さて、あとは人里峠の石地蔵のお顔を拝するだけです。
誰もいない浅間尾根道をカランコロンとカウベルを響かせ急ぎ足で峠へと向かいます。
ほとんど平坦な道は長い年月をかけて踏み固められたものなのでしょう。
現在では塩や薪炭を運ぶ牛馬の姿はありませんが、
社会生活において牛馬のように酷使されている人々が束の間の癒しを求めて
休日ハイカーという姿で尾根道を行き来しています。


人里峠

「人里」を示す道標と小さな石地蔵がちょこんと置かれただけの峠です。
大きな歴史の舞台になったという話も聞きませんし、全国的には知名度など無きに等しい峠でしょう。
でも、そんな集落背後のささやかな峠に愛着を感じます。
「人里」と書いて「へんぼり」と読む、そんな不思議地名もこの地の峠を興味深いものにしてくれます。


可愛らしい峠の石仏

可愛らしい石地蔵の前には、一円玉や五円玉の賽銭が散らばっています。
山歩きの無事を祈って、ハイカーが奉げていったものなのでしょう。
どんな謂れのある石仏なのか、どんな峠の風景を見続けてきたのか、問い掛けても何も語りません。
いままでに幾人もの人がこの前を通り過ぎ、この石地蔵に手を合わせたことでしょう。
どれだけの願いが叶い、どれだけの人のもとに幸せを招くことができたのでしょうか?

山での暮らしは決して楽ではありません。
炭焼き、馬方、茅刈り、林業、道普請どれもきつい仕事ばかりです。

  「炭焼き仕事は早朝から夜遅くまで続く。子供が父親の顔を見なくなるのは冬である。
  焼いた炭を五日市の問屋へ届けるのは、女や子供の仕事になる。
  炭は浅間尾根を馬の背に乗せて運んだ。8俵が標準だ。
  1俵の炭俵は、中身の炭が4貫目(15キロ)、俵が500匁(約2キロ)である。
  馬方はもう1俵を背中に乗せて運んだ。
  駄賃を稼ぐためには、1俵でも多く運ぶ必要があったのである。
  炭を運ぶ馬と人で冬の浅間尾根は賑わった。」
                     (『多摩の街道』 津波克明・宅間靖・清水克悦著 けやき出版 )

人も馬も酷使に耐えたが、炭俵を乗せたまま尾根を転げ落ちることも多かったといいます。
冬場の凍てついた道では事故も頻発したことでしょう。
浅間尾根の道端には、命を落とした馬の成仏を祈って、馬頭観音が今も残っています。
この人里峠の小さな石地蔵も尾根道で命を落とした牛馬の霊を鎮めるために
祀られたものかもしれません。


人里に下りたくもなりますが・・・


石仏の側面は道しるべを兼ねている

石地蔵の側面には文字が刻まれ、道しるべを兼ねているようですが磨耗が進み判読できません。
「みぎ かづま ひだり へんぼり」と刻まれているようにも見えますがどうでしょうか?

浅間尾根道は檜原村内から五日市へと出る「いちみち(市道)」であったとともに、
南秋川沿いの集落と北秋川沿いの集落とを結ぶ道でもありました。
村内では南北の隔たりというものを感じることは少なく、南北住民の結束は強いといいます。
それは浅間尾根を介した南北住民の行き来が頻繁にあったゆえのことでしょう。
両地域では峠を越えて嫁取りをする人もあり、親戚関係にある家が少なくないといいます。
南北を分かつ障壁である浅間尾根、その地勢上の弱みを峠を越えることで乗り越えていたのです。


小岩分岐


一軒家の石仏

人里峠の石地蔵との再会を済ませ、車を乗り捨てた時坂峠へと向かいます。
緩やかで安定した尾根道は小走りで駆け抜けても足や膝を痛めることはありません。
カランコロンと激しく鳴り響くカウベルの音に追い立てられるようにして夕暮れ迫る尾根道を飛ばします。

途中、登山標識の立つ小岩集落への分岐か、
あるいは、瀬戸沢の一軒家から沢沿いの急坂を登り詰めたツガの大木のある場所を
どうやら「瀬戸沢峠」とも言うらしく、『檜原村史』にはそんな峠名が見られます。

瀬戸沢の一軒家は店じまいの最中で、
ゴールデンウィークのハイキング日和の一日の営業を終えようとしています。
「瀬戸沢」の「瀬戸」とは、城の「背戸」の意味で、檜原城の裏口を意味しているといいます。
檜原城は浅間尾根を伝い甲州側から侵入してくる敵勢に睨みを利かせてもいたのでしょう。

瀬戸沢の一軒家は、いまでこそハイカーの休憩スポットですが、
かつては瀬戸沢の馬宿といわれ、ここで五日市へと搬出される荷駄の荷継が行われていました。

  「檜原口留番所が、檜原外の人も荷物も通さない建て前であったから、
  小菅、小河内、或は郡内からの炭を五日市の市場に運ぶ事が出来ない。
  それで檜原の炭である事を装う為に、ここで檜原の馬につけかえ、
  檜原の人の手で市場に出していた。
  郡内の荷は、ここに来るまでに南川の各部落で大抵つけかえていたが、
  小菅、小河内からの荷は、風張峠から来る為にここで交代していたのである。
  交代する檜原の馬は、沢又、笹久保、小岩、小沢の馬であった。
  小菅、小河内の馬は、ここで一日寝て身体を休め、翌日帰って行く、
  それで瀬戸沢の馬宿と云われた。」
                     (『檜原・ふるさとの覚書』 小泉輝三朗著 武蔵野郷土史刊行会)

口留番所を通過させ荷を五日市の市場へと運び出すために、
産地偽装まがいなことが行われていたのです。

時坂峠から払沢ノ滝へと車で移動すると、溢れていた観光客の車の大半は姿を消していました。
さてこれから往路と同じ上野原経由で帰宅するか、五日市経由で帰宅するか迷うところですが、
中央道から降りてくるゴールデンウィーク帰りの車渋滞を警戒して、
五日市周りを選択しましたが、これが大失敗でした。
元郷から五日市の市街地まで檜原街道は数珠繋ぎの大渋滞です。
観光地奥多摩からのドライブ帰りの車やバイクで全然進みません。

かつて険悪であった南秋川沿いの谷筋の道は、いまでは観光メインストリートとなっています。
尾根筋の道から谷筋の道へ、人々の利用する道は移り変わりました。
尾根道に牛馬の姿はなく、嫁取りに峠を越える人の姿もありません。
谷筋の自動車道路が外界との連絡路であり、村のメインロードなのです。
いまや尾根道を歩くのはハイカーばかりです。

村の産業も林業から観光業へと、大きくシフトしていることでしょう。
かつて行き止まりだった車道も、村の北には奥多摩周遊道路ができ、
南には山梨県とを繋ぐ甲武トンネルが貫通し、多くの観光客を迎え入れています。
浅間尾根の腹をぶち抜いて、上川苔と小岩とを繋ぐトンネル計画もあったようですが、
この計画は現在も生きているのでしょうか?

このトンネルが出来れば南秋川と北秋川の行き来は大変楽になります。
不便を知らぬ他所の土地に暮らす人間が自然破壊だと声高に批難ばかりもできませんが、
せめて峠の小さな石地蔵が驚かない程度の開発にとどめて欲しいものです。

(峠行2009.05.03)


明治40年測図昭和4年修正測図
5万図 「五日市」
大日本帝國陸地測量部

旧版地形図には松生峠の径路が描かれている。
北へ下る道は、崩壊により復旧までには相当時間がかかるだろう。
南側の道は歩いたことはないが急坂のようである。

「下川苔への道は急で、すべり落ちるという感じの急坂が3〜4ヶ所ほどある。
途中、皆伐された山の尾根を通るが眺望は抜群だ。
作業道が何本か分岐しているが常に尾根筋を下がるようにして行けば
次第に車の音が聞こえ始め、下川苔の人家も見えてくる。
峠から50分ほどである。」 (『多摩の低山』 守屋龍男著・けやき出版・1988年)