つわものどもの夢の跡 / 志田峠・三増峠

 

 「産廃残土埋立反対」の看板が目立つ志田集落に車を停めて、志田峠、三増峠を周遊する。
十数年前に自転車で越えたことのある志田峠を先ず目指して老人ホーム脇の道を進む。
相変わらずダートのままで舗装されずにいたのには驚いたが、不法投棄が多いのにも驚きだ。


志田峠

杉の植林に囲まれた爪先上がりの道を進むと、ほどなく志田峠に達する。
かつては無かったベンチと真新しい標柱がある。

地元愛川町教育委員会の設置した案内板によると、
「志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、
津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。
武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、
北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。
江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」
 とある。

峠のすぐ裏手の尾根に取り付いて、夏場は歩けそうもないヤブ道を
踏跡を頼りに進むと、予想通り韮尾根からの道に合流する。
しかし、道はあまり歩かれてないようで、
すこぶる頼りない道標と自分の勘を頼りにして412mの志田山に達する。
山頂は展望もなく花粉症が襲いかかる。

さらに東方へ向かうと、途中三増集落へ下る分岐がある。
ここが古い地図に名のある「中峠」だろうか。
「中峠」(中ッ峠)とは普通名詞で「峠道の途中にある峠・坂」のことをいうらしい。
『丹沢記』(吉田喜治著)によると、丹沢では志田峠と三増峠の間にひとつと、
オガラ沢打越にひとつ、雨山峠にひとつ、中峠と呼ばれる箇所があるということである。


三増峠

北方に高尾山辺りの眺望が広がると、319mの三増峠に辿り着く。
ここにも真新しい標識が立っている。
北側に林道が走っており、ちょっとガッカリだが、
すぐ近くに大きなお地蔵様が鎮座しているのは微笑ましい。

愛川町教育委員会の案内板によると、
志田山塊の東端<下の峰>にかかる峠路。三増峠路、三増通りの名あり。
中世の頃、信濃・甲斐と鎌倉を結ぶ古街道。
信玄の小荷駄隊が通行したことから信玄道とも呼ばれる
」 とある。

『皇国地誌残稿』には、
「松ヶ平より西北へ上がること五六七間三尺(約1`)にして嶺上に達し
是より津久井郡根小屋村に連なる険にして近便なり」 
ともある。


三増峠の地蔵様
明和五年「吉祥海雲」と刻まれている

江戸中期以降、三増峠は「イトケードウ(糸街道)」といわれ、半原や三増、田代方面から
生糸や撚糸を八王子へ運ぶ道として人馬の往来が盛んであったという。
峠から志田山中を通って上葉山島に出て船で相模川を渡った。
繭糸・織物のほかにも竹木・薪炭・米穀も峠を越えて津久井及び八王子方面に運ばれた。
明治期の資料によると、中津八菅より三増を越えて八王子までの里程は五里で
人足一人の賃金は24銭、馬一匹の駄馬賃は37銭5厘とのこと。

物ばかりではなく人も越えた。
文永8年(1271)には立正安国論を唱えて鎌倉幕府の怒りに触れた日蓮上人が佐渡に送られる際に、
中津の六倉の坂から三増峠を越えて、上平井の久保田家より小倉の渡しを通り、
横山郷(八王子)より入間郡へ、そして新潟へ向かった。
徳川中期よりは巡見使道として政治上にも重きをなした。

そんな歴史ある峠道も、ハイキングコースの割には、やや荒れ気味で、
峠下に出来たトンネルを通過する車やバイクの騒音が響くばかりだ。

「味増」とも書かれた「三増」は、志田沢・深堀沢・栗沢がこの地を三つに分け、
「三つの間の瀬」といったことに因み「三間瀬」から「三増」になったという。
この他にも、この地が献馬を集めたところだったので「御馬寄せ」からの説や、
天狗松・牛松・旗立松の「三松」が「三増」になったという説もある。

なお志田山の地名の由来は、この山が「芝山」であったことによるらしいが、
悲しいことに今では周囲をゴルフ場の「芝」に覆われている。
近辺には三増合戦の碑や首塚などがあり、歴史に興味ある方は訪ねると良いかもしれない。
また、愛川町は坂道や沢ごとに標識や説明板をつけてくれているので散策には便利だ。

帰り際に、旗立松を見ていこうと急坂のゴルフ場の中に入りはしたが、クラブハウスの前を通り、
コースを横切り、階段を上がらなければならなかったので途中で撤退した。
武田信玄の軍勢が陣を張ったという旗立松も夢の跡である。
現代の企業戦士が接待ゴルフで、刀をゴルフクラブに持ち替えて戦っている姿を見るばかりだ。