消えかけた峠路をつなぐ

逢坂峠(オオサカ峠・宮谷峠)・浅川峠(市坂峠)

鳥沢駅・・・宮谷・・・逢坂峠・・・浅川・・・浅川峠・・・棚頭・・・野田尻・・・花坂・・・四方津駅


逢坂峠道に残された天保時代の馬頭観音

扇山附近の二つの消えかけた峠道を辿ります。
一つは葛野川流域の山間で暮らす人々が上野原の市(イチ)へ通った浅川峠(市坂峠)。
もう一つは“幻の峠”とも一部マニアの間で囁かれている逢坂峠(オオサカ峠・宮谷峠)。

二つの峠とも以前訪れたことがあり、
浅川峠は浅川から峠へ到る道を、逢坂峠は峠から浅川へ下る道を、歩いたことがあります。
今回は未見の宮谷から逢坂峠への道、浅川峠から棚頭への道を、繋いで歩こうという計画です。

逢坂峠の南側の登り口である宮谷の集落へ向かうには、
鳥沢駅で降りるべきか、猿橋駅で降りるべきか、地形図の境目でもあり判断が鈍るところですが、
わずかばかりの運賃節約のため鳥沢駅で降車します。

せっかくの朝からの青空にもかかわらず改札口を11時に通過するとは、
山頂を極めることを目的としない峠歩きにしてもいささか遅いスタートです。
国道20号沿い鳥沢宿のセブンイレブンでオニギリ2個を調達し、新調した肩下げカバンに収めます。

ユニクロ製のジーパンにホームセンターの安物スニーカー、肩下げカバンという出で立ちは、
これから山中に踏み入るスタイルとは到底思えません。
街歩きそのままの風体となんら変わりはないのですから。
しかし、それは決して山で洒落ているわけではなく、ただ街で野暮ったいだけのことであるのですが・・・
聞くところによると、宮谷から逢坂峠へ到る尾根道はヤブかかっているといいますから、
ジーパンに安物スニーカーではちょっと心配でもあります。


宮谷林道入口
鎖で閉ざされ一般車の通行はできない


白山遺跡
竪穴式住居で宿泊もできそうだが・・・周りは墓地

交通量の多い国道脇を、爆走する大型トラックが巻き上げる落ち葉にまみれテクテク進み、
「宮谷入口」の信号で折れて桂川の河岸段丘に位置する宮谷の集落に入ります。
小さな学校前を通り過ぎ、集落の外れの武田菱の家紋のある大きな旧家の門前を回り込み
宮谷林道の入口へと辿り着きます。
それにしてもこの旧家、広い庭に蔵も建ち、立派な家構えで、持ち山の一つや二つありそうです。
こんなところの娘さんと知り合い、そして結ばれ、婿入りして自分の山でも持てたらと、
浅はかなる野望が芽生えたりするのです。

林道入口には「地すべり防止区域」の看板があり、
ここが「富浜町大字鳥沢字西袴着」という地名であることを教えてくれます。
わずかばかり先へ進むと、宮谷老人クラブの設置した「←白山遺跡」の標識があり、
興味本位に訪ねてみると、復元された竪穴式住居がポツンとあるだけのささやかな遺跡でした。
縄文中期後半(3700年前)の遺跡であることが案内板には書かれています。
そんな太古から百蔵山、扇山の山麓では人々の暮らしが営まれていたのです。


林道沿いに祀られた石祠
特異珍妙な石が置かれている


貯水施設先の広場に置かれた
赤い防火用水ドラム缶を左折する

宮谷橋を渡ると猟犬小屋があり、檻に閉じ込められた十数頭の猟犬が
見慣れぬ進入者に対し一斉に威嚇口(攻)撃を始めます。
これだけ犬たちが吠えれば、猪や冬眠前の熊に出会う心配はないだろうと思いましたが、
それもしばらく林道を進めば耳に届かなくなり、山は一層深い静けさの中に包まれ、
熊除けの鈴を持ってこなかったことを後悔するのです。

路傍に祭られた石祠に頭をペコリと下げ、峠行の無事を祈りつつ林道を進みます。
稼動中の貯水タンク施設を過ぎると、防火用水の入ったドラム缶の置かれた広場となり、
地形図の破線道の取り付き点となります。
この「ドラム缶広場」から右方向へ、「車輌進入禁止」の看板の掲げられた木橋を渡る道は、
地形図で示されている等高線緩やかな緩斜面地形へ向かう道でハズレです。

地形図の破線道へ乗るためには、ドラム缶を左折し、10メートルばかり進んで、
すぐ右手に分岐する仕事道のような道に入ります。
しかし、尾根に乗るには若干の夏草の残滓の被る踏み跡を行かねばならず、
ジーパンを汚したくないばかりに尾根を避けて回りこむキャタピラ痕の残る道を進んでしまうと、
あっけなく行き止まりで、パイプから勢いよく水の溢れ出す導水施設で道は消えてしまいます。


尾根に取り付くまでの数分は
やや草の被る踏み跡程度の道を拾う


尾根に乗ると凹とした顕著な山道となる
派生する踏み跡をもあるが尾根を拾えば迷うことなし

結局は、ヤブ気味の踏み跡を拾う羽目になるのですが、
蜘蛛の巣やダニの取り付きなど不快生物がいないのがせめてもの救いです。
しかし、ツルツル素材のズボンに比べ、ジーパンは容易に雑草の種の付着を許し、
種の運び屋になることを強いられるのです。

ヤブ気味の道も尾根に乗るまでの数分の辛抱です。
尾根に乗りさえすれば凹とした明瞭な山道が不安を取り去ってくれます。
古くからの峠道であることを思わせる確かな道で、若干の荒れや痛みはあるものの
「道普請」という言葉が死語になりつつある現代にしては良好な状態といえます。

宮谷から百蔵山と扇山を結ぶ主稜線に出る道は、地形図には2本描かれています。
どちらが本来の逢坂峠道なのか、諸説あるようですが、
個人的には浅川へと下る道との接続状況からみても、この後に出会う石仏の存在からしても、
東西2本のうち東側の道が峠道だと思うのですがどうでしょうか?

『分県登山ガイド・山梨県の山』(山と渓谷社)では、西側の道を登りつめた地点を
「逢坂峠」としており、いささか疑問を感じるのですが、
東西の道を登りつめた地点は、さほど距離が離れているわけではないので、
どちらもが峠道の役割を果たしていたのかも知れません。【*1】
(逢坂峠の疑問については「逢坂峠資料室」を御覧下さい)


木々間からは百蔵山東尾根が望まれる


道は極めて明瞭

ほぼ地形図の破線通りに付けられた山道は、終わりかけの紅葉に包まれています。
進行左手の木々間からは百蔵山の東尾根が望まれます。
国道20号や中央線、中央道からそんなにかけ離れているわけでもないのに、
それなりの山の深さを体感することができます。

扇山、百蔵山は中央線沿線では屈指の人気の山であるにもかかわらず、
この尾根道を登降路として利用しているハイカーは少ないようです。
公的、私的を問わず道標の設置はなく、弁当クズや空缶などのゴミも落ちていませんし、
いわゆるマーキングの類もほとんどありません。


峠道の雰囲気を醸し出す石仏が現われる


馬頭観音が訪れ人を待っている


上部は植林地内の凹道となる

主たる樹相が自然林帯から植林帯へと変わる地点で、
馬頭観音が現れたのは予期していなかっただけに嬉しい出合いです。
二体の浮彫りの馬頭観音像(一体は頭部欠損)と「天保十四年馬頭観世音」と刻まれた丸石が
道端に横たわっています。
これはやはり浅川と宮谷を結んでいた逢坂峠道に違いないと確信を更に深めるのです。

馬頭観音から先、本来の凹とした道は潅木や倒木に埋まり歩行が困難になりますが、
並行する踏み跡があるのでそれを拾って進めばなんら支障はありません。
時折、トゲトゲ植物の手痛い歓迎を受け、思わず「イッテェー!」と悲鳴をあげたりもしますが、
その声を他人に聞かれることもないほど、一般ハイカーには見向きもされないコースのようです。


百蔵山と扇山を結ぶ主稜線に出た所にある標識


文字の消えた標識の背後に草に埋まる道形がある

尾根を忠実に登り詰めて、百蔵山と扇山を結ぶ主稜線に飛び出した地点には、
大月市設置の登山標識がありましたが、今登って来た尾根道(峠道)方向には指示板は
取り付けられていませんでした。

公的標識から百蔵山方向へ進むとすぐに、文字の消えた標識があり、
その背後には草に埋もれた峠道の道形が確認できます。
文字の消えた標識から十数歩進んだ所で、百蔵山へと向かう踏み固められた一般登山道から
離脱して、右手の小突起を微かな道の痕跡であるへこみを感じながら登りつめれば、
“幻の”逢坂峠に到着です。
ここでカバンから一つ目のオニギリを取り出してかぶりつき安堵の食事で腹を満たします。


百蔵山へ向かう登山道を離脱して右手の凸部へ


人目につかないように?こっそり標識を取り付ける

“幻の峠”といっても現に存在しているのだから、「幻」であるはずはないのですが、
登山者用の地図からはその名前が消え、地元の人の通行も無きに等しい状態の峠道ですから、
別段、「幻の峠」と放言したところでクレームはこないでしょう。
人々の記憶から忘却されつつある峠はあたかも幻影の峠であるかのようですから。


逢坂峠に佇む石仏

逢坂峠には以前訪れたときと同様に、一体の馬頭観音がぽつねんとしています。
その背後には松の老古木が異形な姿で幹をよじらせ馬頭尊を護るように踏ん張っています。
落ち葉に半身を埋めた観音様のお顔は、峠を行き交う人々を庇護する役目を終えた安堵の
表情にも見えますし、訪問者がめっきり減った峠の寂しさを嘆いているようにも見えます。

不要とは思いつつも、峠名を標した手製標識を目立たぬ位置に取り付けて、
歩き始めは少々ヤブ気味の浅川へ向けて、峠道を下ることにします。


以前自分のつけたマーキングに導かれる


西日を受ける峠道を下る

浅川へ下る道はかつて歩いたことはあるものの少々不安を覚える場所もあったりして、
以前自分自身で立ち木に巻きつけたテープのマーキングを確認しながら進みます。
前半は顔を叩く矮木を掻き分けながらの小さなジグザグ、
中盤からは所々に栂の大木が現われ、道もハッキリしてくる中程度のジグザク、
後半は植林地の中を行く明瞭なジグザグ道となります。
ちょうど地形図の境目、北に張り出した小尾根を幾度ものジグザグを繰り返しながら下降が続きます。
何本か目につく栂の大木は、峠道の目印として植えられたものとの印象を受けます。

少し前までは浅川集落と宮谷集落を結ぶ道として里人の交通が頻繁にあったに違いありませんが、
道の様子を見る限りそれも途絶えてしまったようです。
浅川の集落では助郷として鳥沢宿へと出役していたようですから、
そのような折には、この峠を越えて行ったのかもしれません。
『甲斐の山旅・甲州百山』の中では、「嫁入りの提灯が登って行くのが見えたもんだ」との
話が載せられており、往時は想像する以上に利用頻度の高かった峠道だったようです。
今ではなにも苦しい山道を越える必要は無く、自動車で葛野川沿いを行けばいいのですから、
山越えの道がブッシュに支配されることも必然といえます。


「逢坂」は「大坂」の転化か?


古い登山地図や資料には「おおさか峠」ともある

植林の透き間から対岸に一軒家を見ると、谷沿いの林道へと降り立ちます。
浅川沿いのバス道に出るために最初に渡る橋が、「大坂沢」を渡る「おおさか橋」です。
古い登山地図などを見ると、「逢坂峠」の名の代わりに「オオサカ峠」と記されたものがありますが、
「逢坂」は「オオサカ」で、「大坂」からの変化なのかもしれません。
「大坂峠」では味気ないので、ロマンチックな「逢坂峠」という表記に変化していったとの推測は
安易過ぎるでしょうか?
人との出逢いがある峠道、新しい文化との出合いがある峠道といったことを考えたら、
元が「大坂峠」であったとしても、「逢坂峠」のままでいいのかもしれませんが・・・。

宮谷から浅川まで忘れられた峠を越えてきましたが峠道の状態は懸念していたほど悪くはありません。
道普請を行えば、すぐにでもハイキングコースとして復活できそうな容態です。
安物のスニーカーでも足を痛めることなく、道を踏み外すこともなく越えることができましたし、
ジーパンが破けることもなければ、汚れることすらありませんでした。


大坂橋からバス道に出るまでは雑草が蔓延る
ジーパンは夏草の種でベトベト!戦意喪失


権現山のスカイラインが清々しい
ああ、こんな山峡のお屋敷で暮らしてみたい

この先、次なる目的地である浅川峠へは「地獄谷」と呼ばれる扇山北西面の谷筋を詰めて、
曽倉山経由で行こうかとも考えていましたが、日の傾き加減を考慮して深入りするのは止めました。
というより、大坂橋付近の林道を覆い隠す勢いで繁茂している夏草の残党に
戦意を喪失したというのが実のところです。
それに加えて「地獄谷」というおどろおどろしいネーミングに多少なりともビビリが生じたことも白状します。

ここまでキレイなままだった一張羅のジーパンも、バス道に出るまでのわずか数百メートルで
夏草の種の猛烈な取り付き攻撃を受け悲惨なベトベト状態です。
もちろんフリースの上着も夏草残滓の執拗な種の取り付きを受け完敗です。
種のネバリには感服するものの、こちらは浅川峠へ向かう気力まで失いかける心の折れようです。
弱気になった思考はこのままバスに乗って大月駅に向かい退散しようとの考えも起しましたが、
バス道に出ると同時に、大月駅行きのバスが目の前を走り去ってゆくのです。
このタイミングの悪さ(否、良さ)、これでしばらくは大月駅行きの便はやって来はしません。
それは必然、浅川行きの便もやって来ないことを意味していますが。


どこの家でも秋を吊るしている


日の傾いたバスの終点「浅川」停

以前、スクールバスを兼ねて増発されたかに思われた浅川沿いのローカルバス路線でしたが、
時刻表をよくよく見ると貧弱路線に逆戻りしてしまったようです。
ガソリン代の高騰時期に減便を余儀なくされたのでしょうか?
逃避の術を失ってしまったので、足はしぜんと浅川峠へ向けて爪先上がりの田舎道を歩み始めます。

日は大分傾き始めています。
頭の中でこの先の所要時間などを計算し、少々ペースアップです。
日の暮れる前に浅川峠を越えて棚頭へと下り、山中から脱出をしなければなりません。
何より心配なのが上野原側のバス便がどうなっているかです。
下調べもしないままにやって来たのだから仕方ありませんが、上野原駅まで歩くのだけは嫌です。

峠口である浅川バス停までは固いアスファルト道を黙々と歩くことになりますが、
権現山のスカイラインを仰いだり、背後の葛野川流域の山々を眺めたり、
曽倉山西尾根の様子を窺がったりしていると飽くことはありません。
民家の軒下に吊るされた干し柿に、深まりゆく秋を感じながら目的地は次第に近付いてきます。

機織りで財を成したと思しき旧家の佇まいに、こんな所で暮らせたらとまた雑念が浮かびます。
「旅の人、休んでいきませんか・・・」との優しい言葉に一夜の宿を借りて、
「主人を早くに亡くしまして、よかったら・・・このままここで暮らしていただいても」と話は進み、
三日が四日、一週間が一月となり、秋から冬へと季節が巡る。
妖艶な後家さんとの二人暮らしが始まり、毎晩振舞われる山の幸のご馳走・・・
晴耕雨読の理想的な生活、屋敷の周りの畑を耕し、持ち山の手入れをし日々を送る。
そして駆け足で一年が過ぎ去り、再び訪れた紅葉の季節、底冷えのする晩にキラリと光る包丁で
濃密な時を過ごした旅人は首を切り落とされ、血に染まった真っ赤な首を軒下に吊るされる・・・
時同じくして峠を越えてきた人に、「旅の人、休んでいきませんか・・・」との優しい言葉がまたかかる。
猪肉だと思って食べていた肉は、どうやら前に犠牲になった旅人の肉であった・・・
軒下に吊るされた真っ赤な干し柿を見て、こんなことが頭に浮かぶのは精神が病んでいるのだろうか。


林道終点から秋色の峠道へ


浅川峠全景

幻想に現(うつつ)を抜かしていると日が暮れてしまいます。
急ぎ足でバス終点の先からのびる林道へと入り、浅川峠を目指します。
日暮れを迎えようとしている登山道にハイカーの姿はなく、息せき切って登りつめ辿り着いた峠には、
以前訪れたときと同様に強い風が吹き荒れています。
権現山と扇山とを結ぶ尾根の撓みは風の通り道となって、峠道でかいた汗を一気に冷却します。
人も、風も、地形の弱みである峠を越えるのです。

峠から見下ろす東方の上野原市街はまだまだ遠く、
本当に昔の人は市(イチ)へ向かうがために、はるばる山間の集落からこの峠を越えて
上野原宿へ出向いて行ったのかと少々懐疑的にもなってしまいます。


古い道標の腕木に従い上野原側へと下る


下り始めは頼りない道だけど・・・


強い風で松葉の雨振る峠道

峠に立つ消えかけた道標に従い、上野原側へと下降を開始します。
棚頭へと下る道は、出だしこそこれが古くから歩かれてきた峠道なのかと不安を懐かせるほどの
頼りなさでしたが、東に派生する小尾根に乗ると、道幅は細いながらも明確な凹道が現われて
不安は払拭されます。
凹部には赤や黄色の落ち葉が溜まり、秋の峠路を辿っているとの感慨を深めます。
潅木やトゲトゲ植物が通行を妨げる部分もありますが、概ね道の状態は良好だといえます。
しかし、夏草が茂り、木々の葉が視界を閉ざす盛夏に、この峠道を歩くかと問われれば
きっと「NO!」と答えることでしょう。

馬鹿正直に凹道だけを辿っていては、倒木跨ぎやヤブくぐりに疲弊してしまいますから、
それらを避けてつけられた先人の踏み跡を拾いつつ、小刻みなジグザグで尾根筋を下り続けます。
時折、峠を越えて吹き降りてくる強風が松葉の雨を降らせます、それもかなりの暴風雨です。
髪の毛に刺さった松葉を払い落としながら進み、竹林が現われてくれば降下地点はもう間近です。


急坂ジグザグを下ると大木の平場に出る


沢筋に出て亀石へ

竹林はこのような奥地に人の暮らしがあったことの名残なのでしょうか?
かつては今の上野原側の最終民家よりも、もっと峠よりの場所に民家があったと言いますから。
竹林は屋敷に植えられていたものか、あるいは土地の崩壊を防ぐために意図的に植えられた
ものなのかもしれません。

ひとしきりジグザグを終えると、存在を誇示するかのように聳立する大木が現われます。
霊気すら感じるこの大木の周りに、神を祀っていた痕跡はないかと辺りを見回しますが、
古い石積み以外にそれらしきものは見当たりません。
この付近が大月と上野原の市境であろうから、境界木の標木なのかもしれないと思ったりもします。
大月市と上野原市の境界は、浅川峠のある稜線上にあるのではなく、
稜線から東へ、上野原側へ下がった場所に引かれています。
印象としては大月市が上野原の領分に喰いこみ、侵犯しているかのように思えますが、
この線引きには「行逢裁面」の言い伝えが残っています。

大月側、上野原側、双方の村外れから健脚自慢の若者が一番鶏のときの声を合図に
峠に向かって歩き始め、両者の出会った場所を境界にしたとのこと。(ホント?)
上野原側で選出された若者の足がよっぽど遅かったのか、
それとも上野原側の道の傾斜がきつかったのか敗因はわかりませんが、
このようにして地形上の境界を無視した現在の行政上の境が決定したようです。【*2】


亀石


上野原側の最終民家

霊気漂う大木を過ぎると、仲間川の源流のひとつと思われる沢に飛び出します。
沢を渡ると「亀石」なる珍石が置かれている広場に出ますが、
地形図にはこの先にも沢に沿って破線道が描かれています。
付近を見回しますが地形図に記されているような破線道は見当たりません。
もっとよく探せばよかったのですが、日没が近いこともあり、じっくりと探索する間がありません。
すでに上野原側は山の陰に入っており、これから植林地の中へと分け入る気は到底起きやしません。

亀石から林道へと上がりますが、こちら側には浅川峠の入口であることを示す公的な標識は無く、
峠へ向かうハイカーが戸惑いはしないかと心配になったりもします。
和見峠や権現山を指し示す標識はあるのですが、浅川峠は無視されている状態です。
上野原市では浅川峠への道をハイカー向けのコースとして認知していないのでしょうか?

対岸の山腹に峠道の痕跡はないかと目を凝らしつつ林道をしばし進むと、最終民家が現われます。
この民家の前辺りに対岸から地図の破線道が接続しているやに思われますが判然としません。
山峡の奥深い民家の窓からもれる電灯の明かりはどこかせつなく、寂しさが募ります。
秋の夕暮れは旅人を哀しい気分にさせます。
人里が恋しくなった旅人は棚頭へと向けて林道を足早に進みます。


朽ちた橋 橋脚の石積みが残る


棚頭集落と不老山

扇山沢分岐の手前に橋脚の遺構を見ますが、これはかつての木馬道の名残でしょうか?
橋そのものは腐朽して対岸へと渡ることはできませんが、しっかりとした橋脚の石積みを見ていると
以前は交通の要所となる立派な橋だったに違いありません。
地形図に描かれている峠道下部の破線道は、
うまくすればさらに右岸沿いに、この辺りまで接続しているのかもしれません。(?)

縁起の良い名前である不老山を背にした棚頭の集落は日没を迎えようとしています。
西には夕陽を遮る権現山と扇山を繋ぐ山稜があり、
日の沈むのが早い季節にあって、一層、闇が迫るのを早く感じます。
山に囲繞されたこのような集落にも狭い土地を利用して水田が開かれているのには驚かされます。
都会のストレス社会から隔絶されたこのような地で自給自足的な生活を送れば、
まさに「不老」を獲得できるかもしれないと考えたりもしますが、
このような思考自体がすでに「老」の境地なのかもしれないと隠遁志向を抑制します。


夕闇の花坂

辿り着いた「不老下」バス停の時刻表に、
上野原駅行きの便があるのを見て安堵するものの待ち時間はまだ大分あります。
市(イチ)へと向かった昔の人は峠を越えた後、上野原の中心部までなおも歩き続けたことでしょうが
とてもそんな元気は湧き起こりません。
底の薄い安物スニーカーを履いた足裏にはすでに豆ができているようで、
まともに歩くことも困難になっています。

野田尻へ向かえば四方津駅行きのバス便があるやもしれぬと足を運んでみますが、
停留所に書かれている路線図がどうも理解できず、また四方津駅の文字も見られず戸惑います。
ああー、面倒だと、運賃の節約もできるので歩くことにします。
四方津駅と上野原駅のどちらが近いか?
これは鳥沢駅と猿橋駅のどちらが宮谷へ行くには近いかという問題に比べれば明らかに簡単です。
太陽は完全に沈み、空に星が輝く寒々しい里道を四方津駅に向けて進みます。
時折通過する自動車に跳ね飛ばされぬようにLEDの点滅灯を手にしてトボトボと歩きます。
「花坂」は闇に包まれており、追剥か夜鷹でも出没しそうな雰囲気です。
足裏の豆に気を遣いつつ大野貯水池を経て上野原駅へと辿り着きます。

駅ホームのベンチにどっかり腰掛け、
カバンの片隅に残された、変形し、冷たくなったオニギリを腹に収めながら半日を振り返ります。
扇山近傍の消えかけた二つの峠道を辿る充実した峠行でしたが、
宮谷や浅川、棚頭といった集落のことが妙に印象に残っています。
縄文人も生活していた地ですから、人々を引きつける魅力があるのかもしれません。
山里での暮らしに憧憬を懐きますが、日没とともに都会の明かりが恋しくなるという大いなる矛盾。
闇や飢えや寒さに耐える力がなければ山里での暮らしなど叶わないことでしょう。
昼食をオニギリひとつで済ませたのだから
少しくらいの空腹はなんとか耐え忍ぶことができるかもしれませんが・・・

(峠行2008.11)

【*1】


『分県登山ガイド・山梨県の山』(山と渓谷社・1993年版)より
宮谷から稜線に出る東西2本の道のうち、西側の道の頂点を「逢坂峠」としている。
ちなみに『甲斐の山旅・甲州百山』(実業之日本社)の中では、東側の道が峠道ではないかとしている。

【*2】 『葛野川物語』(鈴木美良著) より

● 一度目の逢坂峠訪問レポ  「市道の峠A+幻の峠 浅川峠(市坂峠)〜大久保のコル〜逢坂峠(宮谷乗越)
● 二度目の逢坂峠訪問レポ  「
葛野川左岸古道〜コタラ山西尾根〜百蔵山西尾根

● 「逢坂峠資料室

● 関連HP 『山と山の花』 「峠を行く」 「山梨百名山百蔵山から逢坂峠へ、宮谷へ下る
● 関連HP 『悠遊趣味』 「
コタラ山と逢坂峠